戦国後期 武将名鑑


戦国時代後期に活躍した武将たちのプロフィールを紹介しています。


・関ヶ原 西軍の皆さん

石田三成

石田 三成

(いしだ みつなり) 
西軍大将。大一大万大

秀吉の懐刀。そして「関ヶ原の戦い」における西軍の実質的な総大将。
誰もが認める有能な官吏であり、「豊臣五奉行」の事実上の筆頭であるにも関わらず、人望は全くないという両極端な人物。
幼名は佐吉、通称は治部。

お寺に奉公していた少年時代、寺に立ち寄った秀吉がお茶を所望したところ、一杯目は飲みやすいぬるめのお茶を、二杯目はそれより少し熱いお茶を、三杯目は茶葉を入れ替えて熱いお茶を出し、その心遣いに感心した秀吉が小姓として貰って帰ったという「三献茶」の話が有名だ。

成人して正式に秀吉の家臣になると、検地や経理、交渉などの政治的な任務で手腕を発揮、秀吉から「百万石を与えよう」と言われるほど高く評価された。
一方で、諸大名からは「あの人と会うと気を使う」「少しでも背いたらヤバい」などと評されており、親友の大谷義継からも「お前は横柄で人望がない」と言われていて、性格には問題があったとされている。
豊臣家の北条攻め(小田原征伐)の際には「忍城」という城を攻めたが、秀吉の指示もあって水攻めを行うも、甲斐姫の活躍もあって失敗、嫌っていた武将から嘲笑される結果となってしまった。

そして朝鮮出兵の際に加藤清正と意見が対立、第二次朝鮮出兵には不参加だったが、彼が秀吉に伝えた報告が武将たちの反発を招き、朝鮮出兵のあとに恨みを持った七名(もしくは十名)の武将から襲撃される「石田三成暗殺未遂事件」を起こされてしまう。
これが元で豊臣家の内部対立が深まり、対立派が支持する徳川家康が独断専行を始め、それを非難したことで豊臣家は三成派と家康派に分裂する。
豊臣家の破滅を救うべく、家康が留守のすきに仲間と共に挙兵するも、「関ヶ原の戦い」で家康の率いる東軍に敗れ、処刑された。
敗戦後に寺の住職に『何が欲しい?』と言われ『家康の首』と答えて呆れられた、処刑前なのに出された干し柿を『体に悪いから』と言って断った、などのエピソードは有名。

昨今、SNSを中心に(ネタ的に)大きな人気が出ている。
確かにここまで長所と短所がハッキリしている人物は、それはそれで魅力があり、ネタにしやすいのは間違いない。

大谷義継

大谷 義継

(おおたに よしつぐ) 
三成との友情に殉じた義臣

石田三成と共に「関ヶ原の戦い」で西軍として挙兵した、三成の親友。通称は刑部。
皮膚が腐っていく感染症「ハンセン病」の患者であり、避ける人が多かったが、秀吉や石田三成は気にせず付き合っていた。
出自はよく解っていないが、ねね(秀吉の妻)と母の縁で秀吉に仕えたようで、秀吉に「百万の軍勢を率いさせてみたい」「大義のため自身を捨てられる男」と評価されている。
ただ、小田原出兵の後に病気のため主力から外されており、大きな武功があるわけではない。

石田三成は西軍の挙兵を決断した後、大谷義継に真っ先に相談した。
大谷義継は徳川家康とも親しかったため、「国力が違いすぎる。しかもお前、人望ないだろ。あっちは下々の者にまで人気だ。お前は才知はあるが勇気と決断力に欠ける。無謀すぎだ。勝機はない」と三成をディスりながら全面的に反対した。
しかし結局、三成の熱意に打たれて協力を決意、共に「関ヶ原」への計画を立てると、諸大名を味方に引き入れる交渉に尽力する。

関ヶ原の本戦では寝返る危険のあった小早川秀秋の近くに布陣し、彼等ににらみを利かせ、案の定、秀秋が寝返った際にはこれを押し止めて一時後退させる。
しかし小早川秀秋の周辺の武将も次々と東軍に寝返ってしまい、集中攻撃を受けて壊滅、自刃した。
彼が挙兵に反対していたことから「最初から負けを覚悟していた」「義と友情に殉じた」とも言われているが、死の前に側近に「負けたのか? 俺は負けたのか?」と何度も尋ねており、勝つ算段は持っていたと思われる。

ハンセン病の患者であったことから、絵画や漫画、ゲームなどには包帯ぐるぐる巻きか、布で肌を覆った姿で登場することが多い。
なお、ハンセン病ではなかったとする異説もある。

小西行長

小西 行長

(こにし ゆきなが) 
裏目裏目の商人大名

石田三成と共に「関ヶ原の戦い」における西軍挙兵の計画を立てた、三成の盟友。
ただし大谷義継と同じく、徳川家康との関係が悪かったわけではない。
キリシタンの洗礼を受けており「アウグスティヌス」のクリスチャンネームを持つ。通称は弥九郎。
元は商人の息子だったが、商売のために出入りしていた備前(岡山)の大名「宇喜多直家」にスカウトされ、さらに使者として豊臣秀吉の元に赴いた際、そこでもヘッドハントされて秀吉の直臣となった。

貿易商の知識があったことから船奉行となり、交易を統括。
クリスチャンとなったのも南蛮(ヨーロッパ)との貿易を進めていたためのようで、対馬の「宗義智」に娘を嫁がせて仲介を頼み、朝鮮や中国との貿易も模索していた。

ところが秀吉が「朝鮮出兵」を始めてしまい、朝鮮通だった小西行長は先鋒と交渉役を任される。
小西行長としては朝鮮との戦いは本意ではなく、石田三成と共に早期和平を考えるが、主戦派の加藤清正と対立。
しかも加藤清正とは肥後(熊本)の領地が隣同士で、以前から小競り合いがあったうえに、清正が熱心な仏教徒だったため、宗教的にも対立していた。

一度目の朝鮮出兵が終わった後、和平交渉を担当するが、交渉を早く進めようとして明(中国)側の代表「沈惟敬」と共謀し、相手が降伏すると偽った外交文書の偽装を行うも、見事にバレて秀吉激怒、二度目の朝鮮出兵を招いてしまう。
しかも二度目の朝鮮出兵で加藤清正との溝はさらに深まり、それは豊臣家を「文治派」と「武断派」に分裂させてしまった。
そして武断派をまとめる徳川家康の独断専行を阻止すべく、石田三成と共に挙兵し、関ヶ原の戦いに挑むが敗退。
キリシタンゆえに自害を拒み、石田三成、安国寺恵瓊と共に処刑された。

彼は私財をすべてキリスト教系の病院や孤児院、教会の建設に費やしていたため、豪商だったにも関わらず、財産は全く残っていなかったという。
そしてこの活動も、のちにキリシタンの反乱「島原の乱」の遠因となってしまう……

安国寺恵瓊

安国寺 恵瓊

(あんこくじ えけい) 
毛利と西軍を操る外交僧

毛利家の外交僧。「本能寺の変」や「関ヶ原の戦い」など、戦国の重要な場面に大きく関わった人物。
高僧として織田家、足利将軍家、大友家、本願寺などと交渉を行っており、信長の時代に「信長の世は5年か3年は持つが、その後は高所から転がり落ちるように没落する。その後は藤吉郎(秀吉)が台頭するだろう」と、予言めいた書状を残していたことで知られる。

本能寺の変」の際、秀吉は戦っていた毛利家と手早く講和し、近畿地方にダッシュで戻る「中国大返し」を行っているが、安国寺恵瓊はこのときの交渉を担当、さらに毛利内で「秀吉を追撃するべきだ!」という意見が出ると、これを小早川隆景と共に押し止め、毛利家を秀吉派の大名として存続させた。
以後、秀吉の外交僧としても活動し、大名に匹敵する領地を与えられている。

朝鮮出兵」には武将と交渉役を兼ねて参加し、現地の子供たちに読み書きを教えたりもしていた。
ただ、加藤清正を救援した毛利軍の毛利秀元と吉川広家を「あいつら抜け駆けだ!」と報告し、これを石田三成が秀吉に伝えたことで、関ヶ原の戦いに影響する遺恨を残すことになる。

関ヶ原の戦い」では石田三成らと挙兵の計画を立て、毛利家の大名「毛利輝元」を西軍の総大将として担ぎ出す。
さらに自身も毛利秀元・吉川広家と共に出陣するが、東軍に内通していた吉川広家が毛利軍を通せんぼ、毛利秀元もお食事中(仮)で、身動き取れないまま終了。
逃亡するも捕まり、関ヶ原における毛利家の責任を一身に背負わされ、石田三成・小西行長と共に処刑された。
名前のせいで、ネットやゲームではよく「暗黒寺」や「AK」ともじられる。

長束正家

長束 正家

(なつか まさいえ) 
帳簿のプロも戦は計算できず

豊臣五奉行にして高い算術能力を持つ有能な行政官。そして石田三成と共に「関ヶ原の戦い」の計画を立てた一人。
元は丹羽長秀の家臣で、その死後に丹羽家が豊臣家から財政の不手際を糾弾された際、帳簿を提出して問題がなかったことを立証し、倍返しした。
この一件で秀吉に評価され、財務官としてヘッドハントされる。
以後、豊臣家の検地や兵糧管理などの経理面で高い手腕を発揮する。

関ヶ原の前、徳川家康が上杉家の征伐に出陣しようとした際には、前田玄以と共にそれを止めようとした。
そして家康が聞き入れず出陣すると、石田三成・前田玄以・増田長盛と共に家康の大小様々な罪を弾劾する「内府ちかひ(違い)の条々」を発表し、諸国の大名に徳川討伐の協力を呼びかけた。
このとき、彼の領地を通る徳川家康を暗殺しようとしたと言われており、甲賀者の篠山理兵衛の報告でそれを知った家康は、夜中に女性用のカゴに乗って駆け抜け、難を逃れたという。
そして徳川家の重臣である鳥居元忠が伏見城で籠城すると、城内の甲賀衆を寝返らせ、陥落に導いた。

しかし徳川家康の本隊が「関ヶ原」に迫ってくると、伊勢湾でこれを足止めしようとするも、少数の船団を本隊と見誤って退却。
さらに本戦では毛利軍の近くに布陣したため、家康に内通していた吉川広家の通せんぼに巻き込まれてしまう。
毛利軍の大将であった毛利秀元に「吉川広家が動かねーぞ! どうなってんだアレ!」と急使を送るが、秀元から「ごめん、弁当食べてるから」と言い訳され、最後まで身動き取れないまま敗戦。
退却時に東軍の追撃を受け、捕縛されてしまい、自刃した。

増田長盛

増田 長盛

(ました ながもり) 
戦う官僚。西軍の中枢かと思いきや……

石田三成長束正家と共に豊臣家の官僚として活躍した豊臣五奉行のひとり。
検地や知行割(土地の配分)など、財政に手腕を発揮した官僚だが、秀吉徳川家康が戦った「小牧・長久手の戦い」では槍働きで活躍している。
秀吉の紀州征伐(雑賀・根来攻め)でも根来衆の津田監物を討ち取ったと言われており、武将としての実績も多い。
朝鮮出兵では軍奉行として石田三成と遠征軍の監督を行う一方で、関東の武士団を引き連れて戦った。
秀吉の弟である羽柴秀長が亡くなると、その政務と領地を実質的に継いでいる。

関ヶ原の戦い」の開戦が決定的になると、石田三成・前田玄以・長束正家と共に家康を弾劾する「内府ちかひ(違い)の条々」を発表し、さらに家康の家臣である鳥居元忠が籠もっていた伏見城を攻撃する。
一方で、京都や大坂の様子を徳川家康に報告し、石田三成からの資金・人員の提供要請を断るなど、どっち付かずな行動をしており、関ヶ原の戦いの本戦には大坂城の守備を名目に参加しなかった。

戦後は領地没収となるが、一命は許され、徳川家の重臣である高力清長に預けられる。
のちに「大坂の陣」で息子が豊臣側に参加した罪を問われて処断されたというが、「豊臣秀頼公が自害され、乱が終わり、時節は参りました。この身に暇を給わりますように」と言って、自ら腹を切ったとも伝えられる。

江戸時代の書籍には、以下のようなエピソードが記されている。
「ある日、豊臣秀吉は石田三成と増田長盛に『百万石を与えてやろう』と言った。二人は分不相応だと断ったが、関ヶ原の戦い前に石田三成は『あのとき貰っておけば、この戦いで苦労しなかったのにな』と増田長盛にぼやいたという」

小早川秀秋

小早川 秀秋

(こばやかわ ひであき) 
天下を決した大裏切り男

「関ヶ原の戦い」で勝敗を決定付ける裏切りを行った、天下の趨勢を決めた男。
秀吉の妻ねねの甥(兄の子)にあたり、幼い頃から英才教育を受けていた。
教養を叩き込まれ、7才で元服すると「豊臣秀俊」を名乗り、豊臣秀次に次ぐ豊臣家の後継者とされたのだが、そのために各地の武将や大名から接待されまくり、7才の頃から毎晩のように酒を飲んでいて、10代ですでにアルコール依存症だったという。
また、生活がセレブすぎてねねに借金しまくっていた。

秀吉の二人目の子である拾丸(豊臣秀頼)が産まれたため、後継者から外されて小早川家に養子に出されたが、以後も豊臣家の重要な地位にあった。
朝鮮出兵」では立場に相応しい武勲を欲したためか、加藤清正の籠もる「蔚山城」が明(中国)&朝鮮の大軍に囲まれた際、自ら敵軍に斬り込み城を救援する活躍を見せる。
だが、この活躍を「大将なのに軽々しく突っ込みすぎ」と石田三成(の部下)に報告され、逆に処罰される結果となり、それを徳川家康が取り成したことから、三成には恨みを、家康には恩を持つことになる。

そして関ヶ原の戦いが起き、当然のように西軍の石田三成、東軍の徳川家康の双方から、味方になるよう説得工作を受ける。
本戦の直前まで遊んでいて、「我関せず」の態度を見せていたが、前日になって急に大軍を率い、西軍として出陣。
関ヶ原を一望できる「松尾山」の城に、元からいた守備隊を追い出して陣取った。
彼のこの動きが、関ヶ原の地に両軍を移動させることになったという。

戦いが始まってもしばらくは静観して(迷って)いたが、しびれを切らした東軍・徳川家康からの銃撃を受け、「家康が怒ってる!」とビビって東軍に寝返り。
これが発端となって脇坂安治など、他の諸将も東軍に鞍替えし、大谷義継の軍勢を破って西軍の側面を突いたため、東軍の勝利が決定付けられた。
しかし、関ヶ原での醜態は世間の中傷の的になり、ますます酒浸りの生活になって、2年後に体を壊して病没した。
享年、まだ21才。 世の人は「大谷義継の祟りだ」と噂したという。

余談だが、現存している木像や肖像画は風評のためか、いかにも情けなく描かれている。
信長の野望の顔画像は、それをキリッとさせた感じなのだが、嵐のリーダー似ているともっぱら評判である。

宇喜多秀家

宇喜多 秀家

(うきた ひでいえ) 
西軍で唯一活躍したイケメンお坊ちゃま

備前(岡山)の大名「宇喜多家」の跡継ぎだが、秀吉にたいそう可愛がられており、「秀」の字を与えられて「秀家」と名乗り、前田利家の娘「豪姫」を妻に迎え、豊臣一門としての扱いを受けるほど優遇されていた。
父の宇喜多直家は貧乏生活の中で人が恐れる謀略を身に付けた人物だったが、天下人にちやほやされた秀家は父とは正反対の、誰からも好かれるお坊ちゃんに育った。
しかしそのためか、妻ともども生活がセレブすぎて、宇喜多家を困窮させて内紛を起こしてしまう。

関ヶ原の戦い」では石田三成の挙兵に呼応し、西軍最大の17000人の兵力を率いて参加、東軍の福島正則の部隊と激しく戦った。
西軍の面々は、寝返ったとか、弁当が空とか、主力なのに即退場とか、敵を突き抜けてどっか行くとか、ナナメ上のキャラが多かったが、彼は西軍の主力として最後までまともに戦っている。

関ヶ原での敗戦後は東軍に追われる身となるが、ここで彼のカリスマが発動。
落ち武者狩りに遭うも、その態度に感服した彼に逆に匿われ、豪姫との再会を果たす。
その後は島津家に落ち延びようとして山賊に遭遇するが、むしろ秀家を気に入った山賊に道中を護衛してもらった。
さらに徳川家康の元には東西を問わず、多くの武将・大名からの助命嘆願が集まり、結果として死罪は免れ、八丈島に流罪となる。

その後、縁のあった武将からの援助を受けながら、八丈島で84才まで長生きしている。
豪姫が始めた前田家からの八丈島への仕送りは、明治時代まで続いたという。

毛利秀元

吉川広家

毛利秀元 & 吉川広家

(もうり ひでもと、きっかわ ひろいえ) 
お弁当が空だった人々

「関ヶ原」で徳川本陣の後方という絶好のポジションに陣取りながら、最後まで動かなかった毛利軍を率いた武将。
毛利秀元は毛利元就の孫で、関ヶ原で西軍の総大将ということにされた「毛利輝元」の養子。
吉川広家は毛利家の名将「吉川元春」の子。

どちらも朝鮮出兵で毛利軍を率いて活躍しており、特に加藤清正の籠もる「蔚山城」を救援した戦いで、明(中国)&朝鮮の大軍を夜襲で大混乱させ、戦いを勝利に導いた。
だが、二人の夜襲を安国寺恵瓊が「抜け駆けだ」と報告し、それを石田三成秀吉に伝え、逆に叱責されることになる。
加えて、毛利家で領地の問題が起こり、毛利秀元は長門(山口)を希望するが、三成は「毛利秀元は吉川広家の領地を継いだらどうか」と言い、双方から不満が出る。
そして、石田三成が暗殺未遂事件を起こされて失脚すると、徳川家康により「蔚山城の両名の行動に問題なし」「領土は両名の望む通りに与える」という裁定が下され、家康に恩を持つことになる。

関ヶ原の戦い」では石田三成&安国寺恵瓊が毛利家の大名「毛利輝元」を西軍の総大将に担ぎ出し、徳川家康に対して挙兵しようとするが、吉川広家はこれに猛反対、安国寺恵瓊と大坂城で激論を戦わせた。
結局、三成と恵瓊の計画が通り、毛利秀元&吉川広家は西軍として出陣する事になるが、吉川広家は密かに家康に内通、福島正則黒田長政を通じて「毛利輝元の身柄と毛利家の領土を保証してくれるなら、徳川に味方します」という起請文を出している。

そして関ヶ原の本戦、毛利軍の先頭に陣取った吉川広家は、戦いが始まっても1歩も動かなかった。
石田三成や安国寺恵瓊の進軍要請が来ても無視し、これにより同士討ちを避けたい毛利軍と、その後方に位置していた長束正家や長宗我部盛親の部隊は動けなくなってしまう。
「なにやってんだ! 進めよ!」という命令が来ても「霧で前が見えねぇ」とか言い出し、毛利秀元も「あいつ何とかしろよ!」と言われても「お弁当食べてるので待って」と言って、うやむやにした。
毛利秀元は毛利家の宰相と言われていたため、世の人はこれを「宰相殿の空弁当」と呼んだという。

毛利秀元は戦後、毛利輝元に徹底抗戦を訴えているため、やる気はあったと伝えられているが、吉川広家の行動を黙認していたとも言われる。
吉川広家はその後、徳川家康から毛利家の領地を与えると言われたが、「いやいや! 毛利家は保証するって言ったじゃないですか! 輝元はダメ人間で分別がないので騙されただけです! 罰するなら私も罰して下さい!」と、主君に超失礼な手紙で必死で弁明。
結局、領土は減らされるも、何とか毛利家は存続となった。
ただ吉川広家は、やはり毛利家からは白い目で見られることになったという。


・戦国後期の名将たち

真田信繁 / 真田幸村

真田 信繁

(さなだ のぶしげ) 
六文銭の名将「真田幸村」

「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と呼ばれた、数々の戦記物語の主人公「真田幸村」のこと。
徳川家康が圧倒的な兵力で豊臣家を攻めた戦国終幕の戦い「大坂の陣」で奮戦し、家康に死の覚悟をさせたという大人気の武将だ。
2016年のNHK大河ドラマ「真田丸」の主役。 昭和には大河級の時代劇「真田太平記」も放送されていた。
近年はゲーム、それに派生した漫画やアニメでも有名だ。

徳川キラーとして有名な謀将「真田昌幸」の子で、「幸村」の名の方が有名だが、本来の名は「信繁」。
真田昌幸は子に武田信玄の「信」の字を含む命名を行っており、「信繁」の名は信玄の弟であり、副将でもあった武田信繁から付けたとも言われている。
ただ、祖父が「真田幸隆」であり、真田家では代々「幸」の字を含む命名も行われているので、「幸村」の名も説得力はある。

15~18才の頃に真田家が上杉家の後援を受ける際、上杉謙信の後継者「上杉景勝」の元に人質に出されていた。
真田家が徳川家や北条家に領土を要求され、これを拒否して徳川軍と戦った「第一次 上田合戦」はこの頃に起こっているが、信繁(幸村)が参戦していたかは不明。
上杉家では厚遇されていたようで、その後に豊臣秀吉の直臣となるが、上杉景勝は返して欲しいと言っていたようだ。
秀吉の元では馬廻衆(近衛兵)となっていた。

そして「関ヶ原の戦い」の際、父の真田昌幸が徳川陣営から離脱し、上田城で籠城すると、真田信繁(幸村)もこれに従い、のちに二代将軍となる徳川秀忠が率いる東軍の大軍勢を、少数の兵で足止めする。(第二次 上田合戦)
幸村も防戦や夜襲で活躍したが、関ヶ原の本戦で西軍が敗れたため、真田親子は高野山に流罪となった。

それから約13年間に渡って真田信繁(幸村)は高野山の九度山で隠棲し、父の昌幸はその間に死去するが、1614年に徳川家が豊臣家を攻めた「大坂の陣」が起こると豊臣家に迎えられる。
このとき徳川家康は「父の方か? 子の方か?」と言って真田を恐れたという。

大坂城では籠城ではなく、各地で遊撃する積極策を後藤又兵衛と共に進言したが、豊臣秀頼の母であり実権を握っていた「」に却下されたという。
結局、彼は城の前面に「真田丸」と呼ばれた砦を築き、ここで防戦する。
そして大坂・冬の陣で敵を挑発し、攻め寄せてきた徳川軍に痛撃を与え、講和へと持ち込んだ。

大坂・夏の陣では総大将である豊臣秀頼の出陣を懇願したと言うが、やはり淀に却下される。
さらに進軍が遅れて後藤又兵衛を死なせてしまい落ち込むが、伊達政宗の軍勢と一戦してこれを撃退。
そして城を取り囲む徳川軍に苛烈な突撃を行って、徳川本陣に攻め寄せ、一時は家康に死の覚悟を決めさせた。
しかしあと1歩届かず、戦場に散る。
その様子は「当世の英雄」「古今これなき大手柄」「千年語り継がれる」など、様々な記録で賞賛された。
なお、「花のようなる秀頼様を、鬼のような真田が連れて、退きも退いたり鹿児島へ」という童歌が流行っていたという話があり、生存説も存在する。

その人気は江戸時代にさらにヒートアップ、彼を主人公とした「真田十勇士」などの物語が作られ、様々な形で今に語り継がれていった。
「真田幸村」は真田信繁をモデルとした軍記物の主人公とも言えるので、「幸村」にどんな脚色が行われていても、それはアリだろう。

真田信之 / 真田信幸

真田 信之

(さなだ のぶゆき) 
幸村のアニキ「信幸」

真田昌幸の長男。 元の名は「真田信幸」で、「信之」は関ヶ原の戦いで東軍となり、父や弟と決別した際に名乗ったものと言われているが、また信幸に戻したりしている。
幼少時代は人質として武田家に送られており、武田信玄の側で育った。幼名は源三郎。

本能寺の変」によって織田信長が倒れ、甲斐信濃から織田軍が撤退すると、その隙に真田家は独立するが、このとき信幸(信之)は親密だった前田慶次から信長の死を聞いたと言われており、甲斐から撤退する滝川一益の軍勢を支援したという。
以後、父に従って上杉家や北条家と戦い、信濃と上野を転戦。
真田家が徳川家に領土の割譲を要求され、それを拒否して「第一次 上田合戦」が起こると、上田城の支城「戸石城」を守って敵をおびき寄せ、さらに巧みな用兵で真田家の大勝に貢献した。

真田家が豊臣家の斡旋で周辺の大名と和睦すると、徳川家の重臣で戦国きっての猛将「本多忠勝」の娘「稲姫(小松姫)」と結婚。
その縁で「関ヶ原の戦い」が起こると徳川陣営である東軍に参加し、西軍を選んだ真田昌幸&信繁(幸村)とは袂を分かった。
これはどちらが勝っても真田家が存続できるようにした、父・真田昌幸の計画とも言われる。
一方、彼は石田三成とも親密で、三成は真田信幸が西軍入りしてくれると思っていたという。

そして徳川秀忠の軍勢に加わり、かつて守った真田家の上田城に迫るが、戸石城を守る真田信繁(幸村)に降伏勧告を行い、信繁(幸村)がこれに応じて退城したため、兄弟対決は起こらなかった。

その後は病気がちになり、あまり表舞台には出ていない。
弟が大活躍した「大坂・夏の陣」も病気で不参加だった。
だが、その割には92才まで長生きしており、有名武将の中では最長命クラス。
「病弱キャラに限ってしぶとい」を地で行く人である。

黒田官兵衛 / 黒田孝高

黒田 官兵衛

(くろだ かんべえ) 
秀吉の軍師「両兵衛」の黒い方

竹中半兵衛と共に秀吉の軍師を務めた、戦国きっての"切れ者"。
2014年のNHKの大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公。
官兵衛は通称で、本名は「黒田孝高」。「黒田如水」の名も有名。
キリシタンであり、クリスチャンネームは「シメオン」。
「関ヶ原の戦いで天下を狙った第三の男」とも言われる。

元は姫路の大名「小寺家」に仕えていたのだが、当時の播磨(兵庫南部)は小寺・赤松・別所・明石・浦上・池田などの諸勢力が争っていて混沌としていた。
彼は父の黒田職隆と共に若い頃から戦乱に揉まれていて、それが軍師としての才覚を育んだようだ。
織田信長将軍・足利義昭を奉じて上洛し、京都を支配すると、小寺家の当主である小寺政職に織田家への従属を進言し、その使者を務める。
このときに信長に気に入られ、名刀「へしきり長谷部」を賜り、以後は織田家の配下になったと言われているが、正確にはその後も小寺家所属だったようだ。

しかし足利義昭が京都から追放されて毛利家の元に向かい、彼等の策謀で丹波(兵庫中部)の波多野家、大和(奈良)の松永久秀、摂津(大坂)の荒木村重が相次いで信長に反逆すると、小寺政職もそれに乗じて織田家から離反しようとする。
黒田官兵衛はその流れを止めようと、旧知の間柄だった荒木村重の説得に向かうが、逆に捕まって1年近くも幽閉されてしまい、足が不自由になってしまった。

救出された後は正式に織田家に所属し、秀吉の軍師となって、中国地方への進軍を軍略でサポート。
そして「本能寺の変」が起こった際、狼狽する秀吉に「これぞ天下を取る好機」と進言、彼を天下人へと導いたという。

その後も対明智光秀戦「山崎の合戦(天王山の戦い)」で活躍し、対徳川家康戦「小牧・長久手の戦い」では和歌山から大坂に進軍してくる雑賀・根来の軍勢を撃退、四国征伐や九州征伐でも重要な立場を任された。
これらの功績で九州の豊前(大分)に領地を与えられ、それは「朝鮮出兵」に備えてのものだったようだが……
一方で、信長の死に際して「天下取りのチャンス」と平然と言い放つ黒田官兵衛を秀吉が警戒し、中央から遠ざけたとも言われている。

そして「関ヶ原の戦い」が起こると、石田三成と徳川家康の対立が大合戦になることを予見していた官兵衛は、いち早く九州で挙兵。
共に挙兵するはずだった大友家の跡継ぎ「大友義統」が寝返るトラブルもあったが、これを撃破して西軍支持を表明した周辺の勢力に進攻を開始すると、加藤清正や鍋島直茂と協力して九州に東軍派の一大勢力を築く。
しかし関ヶ原の本戦が1日で決着し、各勢力に家康からの停戦命令が届いたため、それ以上の進軍は行わなかった。

彼は秀吉が死んだ頃、吉川広家に「こういう時は戦になる。そのつもりでいるべし」という手紙を出しており、西軍挙兵の気配を察すると東軍入りの準備を進めながらも、西軍に参加する軍勢の領内通過を認めていて、さらに息子の黒田長政が家康から褒美を貰って帰って来たときに「ほぅ、その褒美をもらうとき、もう一方の手は何をしていた?」と、「なぜ家康を刺して来なかった」と暗に伝える言葉を吐いたことから、関ヶ原を利用して勢力の拡大を狙っており、あわよくば天下を目指していたとも言われている。

死の際には黒田長政に、一方は草履、一方はゲタの履物を残し、「もし間違って履いても、そのまま駈け出せ。好機は逃すな」という決断力の大切さを伝えたという。
だが、友人の小早川隆景は黒田官兵衛に「あなたは切れ者で即断即決、世に及ぶ者はないが、思慮深いとは聞かない。私はあなたに遠く及ばない鈍才だが、何度も思案して判断するため、人には智恵あると思われている」と語り、即決の危うさを伝えていた。

黒田長政

黒田 長政

(くろだ ながまさ) 
黒く染まらなかった官兵衛の子

黒田官兵衛(如水)の長男。通称は黒田吉兵衛。のちの福岡藩50万石の大名。
幼少の頃、荒木村重の説得に失敗した父が捕まって、寝返ったと思われたとき、織田信長に処刑されそうになるが、竹中半兵衛に匿ってもらったエピソードがある。

父と共に秀吉に仕え、「賤ヶ岳の戦い」や「九州征伐」など秀吉の各地の合戦に参加。
秀吉と家康が戦った「小牧・長久手の戦い」では、大坂に攻め寄せてきた雑賀・根来衆を父と共に撃退している。
朝鮮出兵」では特に活躍し、朝鮮軍を次々と破って漢城(ソウル)を無血開城させ、平壌(ピョンヤン)も占領。
二度目の朝鮮出兵でも先行して明と朝鮮の連合軍を撃破し、加藤清正の守る蔚山城が大軍に囲まれたときも、これを救援する活躍を見せた。
だが、蔚山城の救援では石田三成を通じて「消極的だった」と報告され、逆に秀吉に怒られてしまい、これが関ヶ原に大きく影響したと言われている。

関ヶ原の戦いの際には、その直接の要因となった「石田三成暗殺未遂事件(七将襲撃)」に参加、さらに福島正則を説得して東軍に付け、小早川秀秋の説得も行った。
さらに本戦では石田三成の本陣を攻め、立ち塞がっていた島左近を鉄砲隊で討ち倒すなど、決戦を決定付ける活躍をしている。

ただ、二世武将であったためか、他の武士からは軽く見られていた逸話も多い。
後藤又兵衛は黒田長政が敵兵と取っ組み合いになっても「ここで討たれるようなら主君ではござらん」と放置、方針についても反対することが多く、のちに喧嘩して出奔した。
母里太兵衛は頭をナデナデしてからかっていたらしい。

しかし真面目で、旧来の武士のように尖っていなかったからこそ、秀吉や家康に重用されていた節があり、父に似ないその様は戦国武将から近世大名(江戸期の大名)への脱却の模範とも言われている。
処刑される石田三成に「不幸にしてこのようになってしまわれた」と言って陣羽織を着せた話も有名だ。

細川忠興

細川 忠興

(ほそかわ ただおき) 
殺戮嫉妬ヤンデレ文化人

将軍家に仕え、文武に優れた細川藤孝の長男にして、その跡継ぎ。
秀吉柴田勝家が戦った「賤ヶ岳の戦い」で「七本槍」に数えられる活躍をし、秀吉の各地の戦いに参加、茶人・千利休の優れた弟子「利休七哲」の一人にもなった名将ではあるのだが……
最近は嫉妬の権化として有名になってしまっている。

若い頃に丹後(京都最北部)の大名「一色家」を攻めた際に、一色家の当主を城に呼び寄せて暗殺し、そのまま丹後を攻めて一族を討伐するが、その後に一色家に嫁に行っていた妹に斬りかかられて、鼻に一生消えない傷を負った。
また、合戦で降伏した相手を容赦なく斬り捨てていたため、舅である明智光秀から「おまえ殺しすぎ!」と諫言されている。
荒木村重の謀反の際も、織田信長から荒木家の一族の誅殺を命じられると、500人に及ぶ一族郎党を狭い部屋に押し込めて焼き殺すなどしている。
「手打ち」にした家臣も多く、「二度までは許す。三度目は斬る」と言っており、家臣も「天下で一番気が長いのは蒲生氏郷、一番気が短いのは細川忠興」と言っていた。

そして妻「細川ガラシャ」(明智光秀の娘「玉」)への愛情はもはや常軌を逸しており、ガラシャの近くにはネコでさえオスを近付けず、話をしたというだけで庭師を斬り捨て、その首をガラシャに投げ付けたりした。
それを見ても毅然としていたガラシャに「蛇のような女だな」と言うと、ガラシャは「鬼の嫁には蛇がお似合いでしょう」と答えたと言う。
誰にも会えないよう妻を幽閉状態にしており、朝鮮出兵中は何度も「秀吉の誘惑に気を付けろ!」という手紙を送っていて、周囲の者には「不貞があったら妻を斬ってお前等も死ね」と言っており、紛う事なきヤンデレである。

そんなガラシャは「関ヶ原の戦い」で夫が東軍に付くと、西軍の人質にされてしまい、「夫の邪魔になってはいけないから」と自ら屋敷に火を放って自害した。
怒りの細川忠興は本戦で黒田長政と共に石田三成の本陣に迫り、忠興隊は136もの首級を挙げたという。

そんな細川忠興も、後年は落ち着いたようだ。
二代将軍の徳川秀忠から政務について聞かれると「角なる箱に丸い蓋をしたようになされませ」と答え、「四角い箱に丸い蓋をすれば隅が空いてしまうではないか」と聞き返されると、「それが上に立つ者のゆとりと言うものでございます」と答えたという。

蒲生氏郷

蒲生 氏郷

(がもう うじさと) 
ヤバい奴に絡まれる苦労人

六角家の家臣「蒲生賢秀」の子で、文武両道の名将だが、細川忠興や伊達政宗など、厄介な奴にやたら絡まれた人。
父が信長に降った際に人質にされるが、「ただならぬ目をしている」と信長に気に入られ、娘を嫁に与えられ、織田の一門とされた。
お話が大好きで、特に戦の話と怪談が好物。キリがないので、家臣はロウソクが二本消えたら退出する決まりになっていた。

14才で初陣してからは各地の合戦で活躍、武芸に秀で、儒教や仏教を学び、茶道に通じ、千利休の弟子「利休七哲」の一人にも数えられている。
ただ、同年代で同じ利休七哲でもある細川忠興とは仲が悪く、互いに悪口ばかり言い合っていた。
また、高山友照の子「高山右近」には、新興宗教の勧誘の如くキリスト教を勧められて迷惑していた。
しかし後年は二人と親友になっており、秀吉の小田原征伐(北条攻め)の際には三人で牛肉を食べた逸話が残されている。
小田原征伐では北条軍の太田氏房に夜襲されて窮地に陥ったが、人から甲冑を借り、一人で槍を振るって押し止めたという。

小田原征伐の後、伊達家の旧領(その前は蘆名家の領土)だった会津を治めることになる。
その際に「遠方に飛ばされて天下を狙えなくなった」と嘆いていたことから、天下への野心があり、彼を恐れた秀吉が東北に飛ばした、という説もあるが、伊達家の前面にあり統治の難しい会津は彼でなければ治められない、細川忠興がそれを理由に辞退したので彼に任された、というのが定説である。
ただ、石田三成が彼を警戒するよう秀吉に進言していた、毒殺さえ勧めていた、という話もある。

そして案の定、伊達政宗からちょっかいを出されまくる。
政宗が煽動した大規模な一揆を鎮圧するハメになり、しかもそれを邪魔された。
それが伊達政宗の謀略であることがわかっていたので秀吉に陳述するが、政宗も花押(公式文書に記すサイン)をちょっと替えていたため、言い逃れに成功する。
以後も政宗のライバルとして、知略戦(といっても蒲生氏郷からすれば単なる迷惑)を繰り広げた。

そんな蒲生氏郷だが、40才であっさり病死してしまう。
伊達政宗による毒殺も囁かれたが、癌(がん)だったようだ。
彼は側室を置かず正妻だけを愛していて、これは美談ともされるが、そのために子が少なく、二人の息子も早世したため、のちに蒲生家は断絶してしまった。

後藤又兵衛 / 後藤基次

後藤 又兵衛

(ごとう またべえ) 
黒田武士の槍使い

戦国時代の後期に活躍した槍使いであり、黒田官兵衛黒田長政が当主を務めた「黒田家」の武士。
本名は「後藤基次」で、全身に53の傷を持っていたという。
播磨(兵庫南部)出身で、一旦は仙石秀久に仕えたが、秀久が島津家との戦いで大敗して逃げ帰ったとき、見限って黒田家に戻った。

朝鮮出兵関ヶ原の戦いで活躍し、武勇だけでなく軍略も評判であったが、黒田長政と方針を巡って仲違いし、黒田家を出奔。
怒った黒田長政が彼を仕官禁止にする「奉公構」にしたため、どこにも雇って貰えなくなり、しばらく浪人となる。

しかし「大坂の陣」が起こると豊臣家から招かれ、大坂城に入城。
「大坂五人衆」の一人に数えられ、徳川家康も「大坂方の浪人で武者らしいのは後藤又兵衛と御宿勘兵衛だけだ」と語っていた。
そして「大坂・冬の陣」で敵に内応していた武将の筆跡を真似て偽の手紙を出し、誘き寄せられた徳川軍に大打撃を与える。

だが、「大坂・夏の陣」で徳川軍の迎撃に向かう際、他の部隊が霧で進軍が遅れて孤立。
それでも拠点となる小松山を守ろうとしたが、徳川陣営の伊達政宗水野勝成の部隊に包囲され、孤軍奮闘の末に戦死した。
真田幸村(信繁)はその報告を聞いて大いに落胆したという。

母里太兵衛 / 母里友信

母里 太兵衛

(もり たへえ) 
黒田節の槍使い

戦国時代の後期に活躍した槍使いであり、黒田官兵衛黒田長政が当主を務めた「黒田家」の武士。
本名は「母里友信」で、生涯で76の首を挙げたという。
名字の読みは「もり」だが、よく毛利(もうり)と間違えられた。そのためか「ぼり」とも呼んでいたという。

後藤又兵衛と同じ播磨(兵庫南部)出身で、当時の播磨は激しい争乱の中にあり、その中で勇名を高めた。
ただ、特に有名になったのは酒飲みの逸話だ。
ある日、福島正則の酒宴に参加していたとき、酔った正則が「黒田武士は酒が弱い。それとも酒で失敗するのが恐いのか?」と言い出した。
そのため母里太兵衛は「じゃあ飲んでやろう」と言い返し、福島正則は「この杯を飲み干したら何でもくれてやる」と大盃を出してきた。
そして母里太兵衛は大盃の酒をすべて飲み干し、天下三名槍と言われた槍「日本号」をくれと言った。
福島正則もさすがに驚いたが、武士に二言はないとこれを譲る。(そして酔いが覚めてから青ざめるほど後悔する)
その様子は「酒は~ のめ~の~め~ の~む~な~ら~ば~」の歌詞で有名な民謡「黒田節」で歌われるようになった。

後藤又兵衛は関ヶ原の後に黒田家を出奔するが、母里太兵衛は黒田家に忠実に仕え続けている。
のちに徳川家康が刀を送ったが、その際の書状に「母里」ではなく「毛利」と書かれていたため、以後は「毛利友信」と名乗っている。


・跡を継げなかった者たち

織田信忠

織田 信忠

(おだ のぶただ) 
死んではいけなかった信長の嫡男

織田信長の長男。生誕時の顔が奇妙だったからという理由で「奇妙丸」と名付けられていた。
母は「久庵慶珠」という人なのだが、素性がはっきりしていない。信長の愛人「吉乃」の子とも言われている。

織田家の跡継ぎとされ、武田攻めが始まると、その総大将となる。
圧倒的な兵力差、さらに「長篠の戦い」で武田家が弱体化した後ではあるが、武田軍を次々と打ち破って戦功を挙げ、信長が安土城に移ると、それまで信長の居城であった岐阜城の城主となる。
雑賀攻め松永久秀の討伐でも総大将を勤めており、信長の斡旋で高い官位や官職も与えられ、織田家の後継者としての道を着実に歩んでいた。

しかし「本能寺の変」で織田信長が明智光秀に討たれた際、織田信忠も京都にいたため、これに巻き込まれる。
最初、信忠は信長の救援に向かおうとしたが、報告を聞いて手遅れと判断。
500の手勢で二条城で籠城するも、数千の光秀軍の攻囲を受けて落城、そのまま戦死した。

このとき、逃走を勧めた家臣もいたが、信忠は「明智光秀ほどの者が退路を塞いでいないわけがない。無様に逃げようとして途中で討ち取られることこそ無念だ」と言い、城で戦った。
だが、彼の死によって織田家は分裂し、天下は豊臣秀吉のものとなる。
今では「彼は死にものぐるいで逃げるべきだった」とする意見の方が主流だろう。
同じく退路を断たれた徳川家康は、少人数での脱出に成功し、のちに天下を取ったのだから。

織田信雄

織田 信雄

(おだ のぶかつ) 
うつけ(だけ)を受け継いだ信長の子

織田信長の次男。髪がお茶を混ぜる茶筅(ちゃせん)に似ていたという理由で「茶筅丸」という幼名にされた。
母は信長の愛人として有名な「吉乃」。
伊勢の大名「北畠家」に養子に出され、北畠家を乗っ取ってからは北畠具豊と称する。「北畠信雄」と記載されることも多い。

「うつけもの」と評判で、失態する度に「三介殿(信雄)のなさる事よ」と呆れられており、ルイス=フロイスの「日本史」にも「知恵が劣っていた」とストレートに書かれている、まさにバカ殿。
そんな風評をくつがえそうと、信長に無断で伊勢から伊賀に進攻するが、伊賀忍軍にボコボコにされ、信長から「親子の縁を切るぞ!」と脅されるほど怒られてしまう。

翌年、信長は織田信雄に大軍を率いさせ、伊賀へのリベンジの機会を与えるが、「本能寺の変」によって信長は明智光秀に急襲され戦死。
その際に軍勢を率いて安土城に入り、故意か失火かは不明だが安土城を燃やしてしまい、また「あいつ何やってんだ……」と呆れられた。

織田家の後継者を決める「清洲会議」では誰にも支持されず、柴田勝家が三男の織田信孝を支持したため、秀吉に協力するが、それは秀吉の権力を高めただけで終わった。
そのため徳川家康に接近し、秀吉と家康が激突した「小牧・長久手の戦い」を起こすが、秀吉と勝手に単独講和してしまい、戦う名分を失った家康は激怒&呆れかえる。
その後は秀吉に従っていたが、尾張からの移転を命じられ、拒否したためにクビになってしまい、大名としての織田家は滅びた。

信長死後の行動は、彼なりの織田家存続の戦略だったと見る、好意的な説もあるが……
信長の子であるにも関わらず、やったことの結果がすべて残念で、ガッカリキャラであることは否めない。

徳川信康 / 松平信康

徳川 信康

(とくがわ のぶやす) 
嫁姑問題で死んだ悲運の子

戦国の謎のひとつ「信康事件」で自害させられた徳川家康の長男。
記録では「松平信康」になっていることも多いが、江戸時代に将軍家や御三家以外は徳川を名乗れないという決まりが出来たためで、生存当時は徳川を名乗っていた。
母は今川義元の姪である「築山殿」。妻(正妻)は織田信長の長女である「五徳姫」。
織田家と徳川家の「清洲同盟」を象徴する人物であったが、織田信長により切腹を命じられてしまった。

事の起こりは、築山殿と五徳姫が不仲になり、五徳姫が父の信長に築山殿を讒言する手紙を出したことから始まる。
そこには築山殿の12の罪状が書かれており、夫との仲を裂こうとしている、侍女を殺したといった恨み言から、御用医師と密通している、武田家に内通しているといった、裏切り行為まで様々。
これを読んだ織田信長は、徳川家の重臣である酒井忠次に本当かどうか尋ねたが、忠次が否定しなかったため、信長は築山殿と徳川信康に死罪を命じた。

実際には、織田信長は「家康の思う通りにしろ」と言ったようだが、徳川家康としては「じゃあ、なかったことにしますね」とは言えないので、最大限の処罰をせざるを得ず、それで信長に恭順の姿勢を見せたと言われている。
通説としては、築山殿が徳川信康に側室を取らせたため、五徳姫が嫉妬して築山殿を讒言したと言われているが、酒井忠次が否定していないことから、徳川家の家臣団に分裂があり、その一派が信康を担ごうとしていて、分裂を防ごうとした末の謀略だったとの見方もある。
この説に沿うと、築山殿の処断は旧今川派の排除とも見られ、家康と信康が対立していた説もある。

徳川信康は勇猛果敢で、武田家との戦いで武勲を挙げており、評判は高かった。
ただ、粗暴なところがあったようで、五徳姫との仲も良くなかったという。
夫婦仲を心配した家康や信長が何度も城を訪れており、親としてはケンカすれば同盟関係にキズが付くため、悩みのタネだったようだ。
そのため五徳姫の手紙を見た家康や信長が「ダメだこいつ…… 早くなんとかしないと……」と思ったかもしれない。

なお、築山殿や徳川信康には生存説もある。
戦国時代を扱った某シューティングゲームでは、主人公の一人の正体が彼であったりする。

結城秀康 / 松平秀康 / 徳川秀康

結城 秀康

(ゆうき ひでやす) 
なぜかSSR武器を貰う冷遇された家康の子

徳川家康の次男。徳川信康の弟であり、二代将軍となる三男「徳川秀忠」の兄。
母は家康の正妻「築山殿」の女中であった「お万の方」こと「おこちゃ」。
激しい気性の持ち主であったという。

長男の徳川信康が死罪となり、次男なのだから、本来なら跡継ぎになるはずなのだが、当時は忌み嫌われていた双子だったためか、それとも女中に手を出して生ませた子だからか、家康に冷遇というか、ほぼ無視されており、本多重次の知人の家で育てられた。
3才の時に父と対面したが、これも兄の信康が不憫に思って説得したからであり、家康としては嫌々だったようだ。

徳川信康が切腹させられる「信康事件」が起こると、秀吉の元に人質に出される。
このとき、餞別として国宝となる名刀「童子切安綱」を与えられた。
以後は「羽柴秀康」となって九州征伐、小田原征伐などに従軍し、高い戦功を挙げている。

秀吉との間に子ができて豊臣家が養子の整理を始めると、北関東の大名「結城家」に再び養子に出され、以後は「結城秀康」となる。
このとき、結城家の当主から天下三名槍「御手杵」を与えられた。

石田三成と親交があり、「関ヶ原の戦い」の前に三成が福島正則加藤清正などに襲われた「石田三成暗殺未遂事件」(七将襲撃)の際に、三成を匿ったと言われている。
このとき、石田三成の愛刀であった「五郎正宗」を与えられ、秀康はこれを「石田正宗」に改称した。

そして徳川家康の会津征伐(上杉攻め)に従軍、その隙に石田三成が挙兵して「関ヶ原の戦い」が始まると、結城秀康は家康から北関東で上杉家や佐竹家を押さえるよう命じられる。
この一件があることから、家康は冷遇しながらも、少なくともこの時期はその器量を認めていたと言われている。
このとき、刀匠・郷義弘の国宝「稲葉江」を与えられた。

関ヶ原の戦いの後、越前(福井)75万石の大名となり「松平秀康」となる。
なんだかんだで最終的に大大名に取り立てられているのは、家康の贖罪の意味もあったのだろうか?
ただ、本人は武勲を欲していたようで、出雲の阿国の歌舞伎を見物したあと「阿国は天下一の女となっているのに、自分は天下一の男になれず、あの女にも劣るのは無念だ」と語っている。

豊臣秀次

豊臣 秀次

(とよとみ ひでつぐ) 
養子を貰ったら実子が産まれるパターン

戦国の大事件のひとつ「秀次事件」で自害させられた豊臣秀吉の跡継ぎ候補。
秀吉は女ったらしだった割には子供に恵まれず、姉の子を貰って豊臣家の跡継ぎとした。それが秀次である。
幼い頃は浅井家の家臣だった宮部継潤の人質になっており、次いで三好家の重鎮である三好康長(笑岩)の養子になっていた。

秀吉が天下人になった頃に秀吉の元に戻り、豊臣秀次を名乗る。
そして秀吉との子である「鶴松」が幼くして亡くなり、豊臣家の跡継ぎ問題が深刻になると、実子に継がせるのをあきらめた秀吉から「関白」の職を譲られ、後継者の第一位として指名された。
ところが、間もなく秀吉と淀の間に第二子の「拾丸」(のちの豊臣秀頼)が産まれてしまう。
そのため実子に跡を継がせたい秀吉にとって、彼は邪魔になった。

しかも彼は「殺生関白」と呼ばれるほど人を殺すことを好み、罪人を斬ることに飽き足らず、農民を鉄砲で撃ったり、辻斬りを繰り返していたと言われる。
そしてある日、豊臣五奉行の石田三成増田長盛前田玄以などが「秀次に謀反の疑いがある」と報告。
間もなく高野山に追放され、その翌日には切腹を命じられた。
さらに彼の妻子や親類、侍女や乳母までそろって処刑され、家臣もことごとく追放か自害させられてしまう。

彼の罪状は秀吉側の言い分であって、実際に彼が農民を殺したり、謀反を企んでいたかは疑問である。
四国攻めや北条攻めでは武勲を挙げており、政務で失敗した話もない。
また、文学の収集に励み、三好康長に学んだ茶道にも秀でていて、宣教師ルイス=フロイスは「聡明で親切、多くの人に好かれていた」と報告書に記録している。

一方で、フロイスは「人を平気で虐殺する。小鳥もそれ以上は細かくできないというほど人を切り刻む。その様はローマの暴君ネロ帝やカリグラ帝をも凌ぐほどである」とも記載しており、殺生関白と言われるような性質があったことも確かなようだ。
そして、見物人からブーイングが飛ぶほどの凄惨な処刑を行った秀吉もまた、この件で殺生太閤であったことを明らかにしてしまった。

三好義継

三好長治

十河存保

三好義継 & 三好長治 & 十河存保

(みよしよしつぐ、みよしながはる、そごうまさやす) 
三好残念跡継三人衆

「日本の福王」とも言われた三好長慶の跡継ぎトリオ。しかしそろって残念な結果に終わった。

三好家の支配地は最盛期、四国東部と近畿中央部に及んでいたが、近畿の三好家の後継者となったのが「三好義継」だ。
三好長慶の弟である十河一存の子で、将軍・足利義輝から「義」の字を貰って義継とした。
しかし、その将軍義輝を三好三人衆松永久通と共に急襲して殺害、将軍殺しの汚名をかぶる。
しかも三好三人衆は新たに将軍・足利義栄を擁立し、これを実質的な主君としたため、軽視されていると感じ、三好三人衆と対立した松永久秀側に寝返って、近畿の三好家の分裂を決定的にしてしまった。
織田信長足利義昭を奉じてやって来ると信長に協力するも、足利義昭や松永久秀が信長に反逆すると一緒に反乱したため、信長の怒りを買って攻め滅ぼされてしまった。

「三好長治」は三好長慶の弟である三好義賢の子で、四国の三好家の後継者となる。母は「烈女」として知られる小少将。
家督を継いだばかりの頃は幼かったため、篠原長房が代わりに政務を行っていたが、その弟であり小少将と結婚した篠原自遁が兄を讒言、それで篠原長房が引きこもると、異父兄弟である阿波守護の細川真之と共に篠原長房を討ち滅ぼし、当主としての実権を握った。
しかし、その後はやりたい放題の暴君ぶりを発揮。 暴政を始め、気に入らない家臣は粛清、子供を牛裂きの刑にしたり、民衆に改宗を強要、従わない寺社を破壊したりした。
そのため細川真之に攻め滅ぼされ、四国の三好家は急速に衰退する。

「十河存保」は三好義賢の次男だが、十河家に養子に出されており、十河一存が育ての父だった。母は小少将。
彼は暴君だったりはせず、むしろ三好長治の暴政を諫め、兄弟で争ったりした。
三好長治が死ぬと三好家の跡継ぎを宣言し、長宗我部元親と戦い、ちょうど織田信長が四国に進出しようとしていた時期だったため、織田家と同盟。
本能寺の変」で秀吉が実権を持つとこれに従い、一時は長宗我部軍によって四国から追い出されるも、秀吉の家臣として復帰した。
しかし秀吉の九州出兵の際、仙石秀久の部下にさせられてしまい、秀久の無謀な作戦に巻き込まれて島津軍に大敗、戦死してしまう。
彼の場合、本人は悪くなかったが、周りが残念すぎた。


・三英傑(織豊+徳川)家臣、追加分

森可成

森 可成

(もり よしなり) 
信長を支えた攻めの三左

可成・長可蘭丸と、三代で織田信長に仕えた森家の武将。十文字槍の使い手。
このページでは戦国時代後期の武将を扱っているが、彼は信長の初期の家臣である。
元は斎藤道三の配下だったが、その軍略を評価した信長に引き抜かれ、坂井政尚や蜂屋頼隆と共に「美濃衆」として活躍。
信長の叔父であり初期の対抗者でもあった織田信友を破り、信長の弟である織田信行(信勝)との戦いでも戦功を挙げた。

織田徳川軍と浅井朝倉軍が戦った「姉川の戦い」では、織田十三段陣の十一陣までを突き崩した磯野員昌の進撃を止めている。
しかしその後、浅井朝倉軍が琵琶湖の西を迂回して京都方面に進軍した戦いにおいて、寡兵で朝倉景鏡の軍勢を追い返すも、山崎吉家の攻勢は支えきれず、戦死した。

仙石秀久 / 仙石権兵衛

仙石 秀久

(せんごく ひでひさ) 
戦国史上最も失敗し、挽回した男

戦国武将で名前が「センゴク」というキャッチーな男。
だが、無謀な作戦で三好家と長宗我部家を滅亡に向かわせてしまった大失敗男としても有名だ。
通称は「仙石(千石)権兵衛」。

元は美濃の武士だったが「逃げっぷりの良さ」で信長に気に入られ、秀吉の直臣となる。
秀吉にも気に入られ、最古参クラスの馬廻衆(親衛隊)として各地を転戦、地道に戦功を挙げ、黒田官兵衛と共に淡路島を制圧するとその地を守り、四国の長宗我部や三好・十河・香川を押さえる役割を命じられた。

秀吉が四国を制圧すると、長宗我部元親十河存保などの四国勢と共に、九州で島津家に攻められていた大友家の救援に向かう。
ところが、秀吉に「豊臣軍の本体が到着するまでみだりに動かず、守りを固めること」と言われていたにも関わらず、大友領内で起こった反乱を周囲の反対を無視して鎮圧しに向かい、島津軍に進軍される隙を作ってしまう。
さらに孤軍奮闘している味方の救援に向かおうとして、大友宗麟・長宗我部元親・十河存保が「いやいや、動くなって秀吉さまが言ってたでしょ!」と言うのを聞かず、「味方を見捨てられるか! 俺だけでも行く!」と言って出撃してしまう。

加えて、冬の寒い日に「戸次川」を無理やり渡って島津軍に突撃しようとし、例によって「いやいや、寒いって! 無謀だって!」と長宗我部元親&十河存保が止めるのを無視して特攻、案の定、島津軍にフルボッコにされて長宗我部家の跡継ぎ「長宗我部信親」と三好家の後継者「十河存保」を戦死させてしまう。
こうして四国勢は壊滅し、仙石秀久は誰にも顔向けできなかったのか勝手に戦線離脱して讃岐まで逃げ帰り、さすがにこの「逃げっぷり」は秀吉も許さず、豊臣家をクビになってしまった。

だが数年後、仙石秀久は20人の旧臣と共に、浪人として小田原征伐(北条攻め)を行っている秀吉の前に姿を現す。
徳川家康の口添えもあって参陣を認められると、「無」の旗印を掲げ、日の丸の陣羽織を着て、敵を引き付ける鈴を付けて陣頭に立ち、槍働きで随一の活躍を見せた。
「鈴鳴り武者」の異名を取り、信濃の一部を与えられ、再び豊臣家の小大名に復帰する。
石川五右衛門を捕らえ、五右衛門が盗もうとした「千鳥の香炉」を与えられたという伝承もある。

「関ヶ原の戦い」の頃には徳川家康と親密になっており、進軍中の徳川秀忠を出迎えた。
徳川秀忠は真田昌幸によって足止めされてしまうが、自分を人質にして関ヶ原に進むよう、秀忠に進言。
結局、間に合わなかった秀忠は家康に怒られるが、その取り成しにも尽力し、そのため徳川秀忠が二代将軍になると重用され、過分の待遇を得るようになる。
昨今は漫画「センゴク」シリーズの主人公として知っている人が多いだろう。

中村一氏

中村 一氏

(なかむら かずうじ) 
タコ召喚の豊臣三中老

秀吉の重臣のひとり。出自は不明だが、元の名は「瀧孫平次」で、甲賀忍軍を形成した甲賀五十三家の多喜(瀧)家の出身とも言われている。
若くして鉄砲隊を率いていることも、その説の一因だ。(伊賀・甲賀は忍術として鉄砲術を取り入れていた)
ただ、武辺者で、当初は「村の暴れん坊」だったとも伝わる。

本願寺との戦いや、秀吉が明智光秀と戦った「山崎の合戦」、柴田勝家と戦った「賤ヶ岳の戦い」などに参加。
特に山崎の合戦では、鉄砲隊を率いて堀尾吉晴と共にいち早く「天王山」を押さえ、勝利に繋がる活躍をした。
ただ、堀尾吉晴は中村一氏に手柄を横取りされて激怒していたことがあり、槍使いの渡辺了も中村一氏に手柄を認められなかったため出奔するなど、どうにも小物なエピソードも散見される。
NHKの大河ドラマでもロンブー淳が演じていたことがあり、ややいい加減なイメージのある武将でもある。
豊臣家が天下を取ってからは、五奉行と五大老の間をつなぐ「豊臣三中老」を務めたとされるが、三中老という役職あったかどうかには異論もある。

秀吉と家康が戦った「小牧・長久手の戦い」の際には、雑賀&根来衆の北上を阻止すべく大坂の岸和田城を守っていたが、敵の数が多くて窮地に陥った。
だが、タコに乗った僧侶が現れて雑賀・根来軍を押し止め、それでもヤバくなると海から幾千ものタコが来襲、ビビった雑賀・根来衆はついに撤退したという伝承があり、蛸地蔵伝説として伝えられている。

堀尾吉晴 / 堀尾茂助

堀尾 吉晴

(ほりお よしはる) 
鬼と仏の茂助

「堀尾茂助」の通称で知られる秀吉の家臣。生駒親正中村一氏と共に「豊臣三中老」を務めたとされる。
斎藤家の稲葉山城を攻める際、裏道の案内を務めたといわれており、このときに秀吉と知り合ったとする軍記物語が多いが、実際にはその前から織田家の家臣であったようだ。
巨大イノシシと取っ組み合って倒し、その様子を見た信長に気に入られて足軽大将になったとする記録もある。

戦場では勇猛果敢で「鬼の茂助」と呼ばれたが、普段は温厚誠実な人柄で「仏の茂助」と呼ばれていた。
そのためか、豊臣家の家臣が文治派と武断派に分かれて対立するようになると、双方の仲介をするようになる。
豊臣三中老が五奉行(文治派)と五大老(トップが家康)の仲介をしていたと言われるのは、彼の影響が大きいと思われる。

順調に出世し、秀吉と明智光秀が戦った「山崎の戦い」では、勝敗のポイントとなる「天王山」を中村一氏と共に押さえ、勝利に貢献した。

関ヶ原の戦い」では行軍中の徳川家康を歓待したが、三河の豪族である水野忠重石田三成の刺客説もある加賀井重望に酒宴中に殺害された際、その場に居合わせたため、加賀井重望と壮絶な斬り合いとなって、重望を討ち取るも重傷を負ってしまう。
このとき、現場に来た家臣に事件の犯人と勘違いされたという。
この一件のため関ヶ原の本戦には参加できなかったが、東軍に参加した息子の活躍もあって、のちに堀尾家は出雲で24万石の藩主となった。

水野勝成

水野 勝成

(みずの かつなり) 
倫魁不羈(ヤバすぎて制御不能)

近年「マジでヤバかった奴」「実は戦国最強では?」などの風聞で有名になっているガチの傾奇者。
徳川家の親類である三河の豪族「水野家」の武将だが、色々あって諸国を放浪、数々の逸話を作りまくった武辺者である。

武田家との戦いで15もの敵の首を取る戦功を挙げ、織田信長から感状と左文字の刀を与えられた。
北条家との戦いでは鳥居元忠が先陣を切ったのに怒って「好きにやらせて貰う!」と言うと、真っ先に突っ込んで多数の敵を討ち取る。
秀吉軍と戦った「小牧・長久手の戦い」でも先頭で城に突っ込み陥落させる活躍を見せるが、兜をかぶらず鉢巻きで戦っていたため、父の水野忠重に「お前は兜を小便壷にでもしたのか」と言われて激怒。「だったら見てろ!」と言って敵陣に突っ込み、敵の首を持ち帰り、この件で家康に賞賛されるが、父とは不仲になる。
続いて起こった水戦「蟹江城合戦」では二隻の敵船を乗っ取るが、素行を注意した家臣を斬り捨ててしまい、ついに怒った父に勘当されてしまった。

そして水野勝成のハチャメチャ放浪生活が始まる。
京都で死傷者多数の乱闘騒ぎを起こすと、仙石秀久黒田長政佐々成政小西行長加藤清正立花宗茂などに仕え、後藤又兵衛と戦功を競い、各所で一番槍や敵城一番乗りの手柄を立て続けるものの、殺傷騒ぎのトラブルも起こしまくり、どこも長続きしなかった。
何かヤバいことをしたのか、秀吉からも刺客を放たれている。

最終的にどこにも仕官できなくなり、虚無僧になって中国地方を流浪するが、この頃も山賊団を乗っ取った、盗賊を全裸で追いかけてボコボコにした、陶芸家になったがすぐ上手くなって飽きて辞めたなど、様々な逸話を作る。
最終的に備後(広島東部)の三村家の食客になったが、茶坊主を斬り捨てて逃亡し、しかしすぐ戻ってきて世話役の娘に手を付けて長男を作るというやりたい放題。

関ヶ原の戦い」が近い頃、徳川家康に呼ばれて父と和睦し、水野家に復帰する。
そして父の水野忠重が酒の席で口論となり殺害される事件が起こったため、水野家を相続。
関ヶ原に近い「曽根城」が島津軍に攻撃された時には、本多忠勝井伊直政が「島津義弘の相手は六左衛門(水野勝成)でないとムリなので、すぐ派遣して欲しい」と家康に懇願している。

関ヶ原の本戦には参加していないが、直前まで西軍の本陣であった「大垣城」を同時刻に攻めていた。
そして本戦で西軍が負けた報告を聞くとわざと包囲を解いて後退、西軍の敗残兵が大垣城に入ったところで城内の武将に内通をかけ、城と西軍を降伏させている。
捕まった石田三成小西行長が引き回されているときには、用意していた編み笠をかぶせたという。
戦後、明智光秀が名乗っていたため忌諱されていた「日向守」を気にせず名乗り、「鬼日向」と呼ばれるようになる。

「大坂・夏の陣」では徳川家康から「お前もいい年だし大将なんだから、絶対に陣頭に立って槍を振り回したりするなよ。絶対するなよ」と言われ、お約束通り先頭で突っ込み、一番槍になる。
そして後藤又兵衛の軍勢を撃破すると、槍術家として有名な渡辺糺に深手を負わせ、徳川本陣に真田幸村(信繁)が突撃してきた際には、これと激しく戦って本陣を救援した。
また、明石全登に攻められ壊滅しそうになった味方を一喝し、陣頭で戦って踏み止ませる。
このとき、味方のはずの伊達政宗軍が攻撃してきて、家臣が名馬を奪われたため、仕返しとばかりに伊達軍を攻め返し、馬を奪還している。もうメチャクチャである。
ちなみに、この戦いでは水野軍に宮本武蔵が参加していた。

大坂の陣で抜群の戦功を立てた水野勝成だが、抜群の軍令違反でもあり、与えられた報酬は少なかった。
だが、徳川秀忠が「俺がいつか10万石を与えるから」と言ってなだめ、事なきを得る。
4年後、中国地方の外様大名(親族以外の大名)の押さえ役として備後福山藩10万石の藩主となった水野勝成は、放浪時代に過ごした場所で地理に詳しかったこともあり、優れた都市開発を行って同地を飛躍的に発展させ、治世の名君と讃えられた。
一方で、巨大な城を構築し、城壁に銃眼を付けまくり、天守にも鉄板を貼りまくって、猛将らしさも見せている。
晩年には若い将兵のお目付役として「島原の乱」にも従軍した。

九鬼嘉隆

九鬼 嘉隆

(くき よしたか) 
鉄甲船を率いた織田水軍頭領

織田水軍の頭領として知られる、瀬戸内海の村上武吉と並ぶ海軍大将。
だが、彼は海賊出身ではなく、元は伊勢の国人(地方領主)だったようだ。
伊勢の大名「北畠家」の後援を受けた他の国人衆に攻め込まれ、伊勢から脱出するが、織田家の滝川一益に誘われ、織田家が伊勢に進攻する際には滝川一益と共に、海上から北畠家の拠点を攻撃した。
このとき、船上からの鉄砲射撃で大きな戦果を挙げており、旧領の奪還に成功すると、そのまま織田水軍の頭領となる。

そして織田家と戦っていた本願寺の拠点「石山本願寺城」に補給を行っていた毛利家の「村上水軍」と激突。
最初の戦いは村上水軍の焙烙玉で船団を焼かれて敗戦したが、これを教訓として船の上部に鉄張りの装甲を施した燃えない船を考案。
織田信長もこの案を採用し、巨大装甲船「鉄甲船」を建造する。
そして再び毛利家に戦いを挑み、数に勝る村上水軍を6隻の鉄甲船を含む艦隊で撃破、この功績で3万5千石の大名となった。

本能寺の変の後は伊勢と尾張を支配していた信長の次男「織田信雄」に従いつつ、情勢を静観していたが、秀吉徳川家康が戦った「小牧・長久手の戦い」の際に滝川一益に誘われて秀吉側に寝返る。
以後、秀吉に従って四国攻め、九州攻め、北条攻め(小田原征伐)に参加。

朝鮮出兵では「日本丸」という大型艦で出撃し、脇坂安治の水軍が抜け駆けして李舜臣に撃破された際、日本丸をわざと突出させて盾役とし、脇坂軍の撤収を援護した。
結果、日本丸は大きな被害を受けるものの、彼が支援に入ってからは一隻の損害も出さず、秀吉に賞賛されている。

しかし「関ヶ原の戦い」で、自身は西軍に入り、息子を東軍に付かせる。
どちらが勝っても九鬼家が存続するようにしたようだが、東軍の勝利後、自身の存在が災いにならぬよう切腹した。
息子の守隆は徳川家康から父の助命の許しを得ていたが、その報告が届く前に果てたという。

脇坂安治

脇坂 安治

(わきざか やすはる) 
豊臣水軍の指揮官

豊臣秀吉の家臣。最初は浅井家、次いで明智光秀に仕えたが、その後に自ら希望して秀吉の家臣となった。
秀吉が中国地方に進攻していた頃には、「丹波の赤鬼」と呼ばれた勇将「赤井直正」を討ち取る武功を立てている。
秀吉と柴田勝家が戦った「賤ヶ岳の戦い」では「七本槍」の一人に数えられた。
その後は水軍の指揮官となり、九州征伐や北条攻めで海上からの攻撃を行っている。

朝鮮出兵では単独で抜け駆けし、李舜臣の待ち伏せに引っかかって水戦で敗北する。
ただ、その後の港湾防衛戦や陸上戦では活躍し、二度目の朝鮮出兵では初戦で元均の朝鮮水軍を壊滅させ、加藤清正を救援した「蔚山城」の戦いでも武功を立てた。

帰国後に起こった「石田三成暗殺未遂事件」では、彼も襲撃者に名を連ねている記録がある。
石田三成の挙兵時には大坂にいたため、なし崩し的に「関ヶ原の戦い」で西軍に参加するが、小早川秀秋の近くに布陣しており、秀秋が寝返った際に一緒に鞍替えして東軍の勝利に貢献した。
このとき東軍に寝返った武将は、不忠を咎められて処分されている者が多いが、彼は不問となっている。

弥助

弥助

(やすけ) 
信長お気に入りの黒人侍

アフリカのモザンビーク出身と言われ、宣教師ヴァリニャーノの黒人奴隷となり、インドを経て来日した。
さすがに目立ったようで、当初は見物人が殺到し、京都で騒動になっている。
宣教師に連れられて織田信長に謁見するが、信長は墨を塗って黒くしているのかと思い、風呂に連れて行って体を洗わせて確かめたという。
このとき、彼の肌は磨くほどに黒光りして信長も納得した。

「十人力の剛力」「牛のような体」と記されており、信長には「愛嬌がある」と言って気に入られ、側仕えを務めることになった。
いつしか屋敷と刀を与えられ、帯刀も許される。
織田家の武田攻めの際は信長と共に従軍しており、このときはすでに奉公人ではなく、俸禄を受けている武士の身分だったと記されている。

しかし信長と共に京都の本能寺に宿泊していたため、明智光秀の謀反「本能寺の変」に巻き込まれる。
彼は信長の子「織田信忠」に異変を知らせに走り、その後は光秀の兵とかなり長い間戦っていたが、光秀の家臣に降伏を勧められ、刀を渡したという。
そして明智光秀は「黒奴は動物で何も知らず、日本人でもない故、これを殺さず」と言い、身柄はキリスト教会に預けられた。

その後の消息は不明だが、テレビ番組「世界ふしぎ発見!」の調査では、モザンビークの村に「ヤスフェ」という一般的な男性名があること、「キマウ」という着物のような衣装があることから、貿易船で帰国したのではないかと推測されていた。
九州の有馬家に大砲を扱った黒人がいたという記述があり、弥助ではないかという説もあるが、九州には他にも黒人がいたようなので、別人と思われる。

ウィリアム・アダムス

ウィリアム・アダムス


青い目のサムライ「三浦按針」

イングランド(イギリス)の航海士。若い頃は船大工を目指していた。
補給船の船長として、イスパニア(スペイン)の無敵艦隊がフランシス・ドレイク提督に敗れた「アマルダの海戦」にも参加したという。
そして1598年、極東を目指すネーデルラント(オランダ)の5隻の船団の航海士となり、太平洋経由でアジアへと出港する。

しかし航海は散々で、1隻はポルトガル、1隻はイスパニアの私掠船(公認海賊)に拿捕される。
1隻は船団からはぐれて欧州に帰還、1隻は太平洋で沈没。
壊血病の蔓延、島での現地人の襲撃もあって、乗組員は 1/4 以下となった。

そして残った1隻が、なんとか九州に漂着する。
ちょうど日本は「関ヶ原の戦い」が起こる半年前で、石田三成が謹慎中だったので徳川家康が対応。
カトリックの宣教師たちがプロテスタントである彼等の処刑を求めたが、これを無視して江戸に招き、ヨーロッパの状況などを聞いたという。

アダムスは帰国を願い出たが、家康は家臣になるよう説得し、以後は徳川家で外交や通訳を務め、数学や航海術、造船における欧州の知識を授けたという。
そしてガレオン級の外洋船を完成させると、その功績で領地を与えられ、新たな妻も得た。
この頃から「三浦按針」を名乗り、正式に幕府の旗本、つまりサムライとなっている。
1613年に貿易船で帰国する機会を得たが、その貿易船の船長とソリが合わず、帰国を見送っている。
日本が鎖国したため、晩年は不遇だったと言われているが、今ではサムライになったイギリス人として日英双方で有名になっており、彼にちなんだお祭りなどが開催されている。


・戦国の女性、追加分

ねね

ねね


多くの名将を育てた秀吉の奥さん

羽柴(豊臣)秀吉の正妻。のちの「北政所」「高台院」。漢字では「寧々」。
尾張の武士だった浅野家の養女で、当時としては珍しい恋愛結婚で秀吉に嫁いだ。当時14才。

秀吉は子供が出来にくい体質だったようで(右手の指が6本あり遺伝的に問題があったと思われる)、二人の間に子供は出来なかったが、加藤清正福島正則石田三成黒田長政など、秀吉が気に入った子供たちを我が子のように養育し、名将に育てた。
また、前田利家まつの夫妻とは家族ぐるみの付き合いをしており、山内一豊の妻「千代」、秀吉の母「なか」とも仲が良かったという。

信長に挨拶に行ったとき、秀吉が浮気性でしょうがないと話したようで、後日、信長から届いた手紙が非常に有名だ。
「来てくれてありがとう。お土産が素晴らしすぎて見合うものがないので、お返しは今度来たときに渡すよ。ますます綺麗になったね。秀吉の浮気はけしからん。あのハゲネズミにそなたほどの女性を見つけることはできないだろう。やきもちは妬かず、奥方らしく明るく堂々としていればよい。でも女房としては全て言うのではなく、ある程度に留めるように。この手紙は秀吉にも見せてやりなさい。のぶ」
織田軍が上杉謙信と戦った「手取川の戦い」で、秀吉が柴田勝家とケンカして勝手に戦線離脱、結果として織田軍が大敗したときも、信長の怒りを静めたのはねねだと言う。

本能寺の変」のときは秀吉の居城だった近江の長浜城にいて、明智光秀側に付いた阿閉貞征に攻め込まれるが、危機を感じて避難していたため難を逃れる。
秀吉が大坂城を築くとその三の丸に移り住み、以後は正妻の事務所を意味する「北政所」と呼ばれ、朝廷との外交に携わるようになった。

秀吉が病死し、豊臣家が石田三成の文治派と徳川家康の武断派に分かれてしまうと中立の立場を取る。
従来の通説では、秀吉の側室で豊臣家の跡継ぎ「豊臣秀頼」を産んだ「」と対立し、淀が石田三成に近かったため、北政所(ねね)は家康派となり、大坂城を出て三の丸を家康に譲ると、以後も家康に便宜を図ったと言われていた。
ただ、近年は淀と共に事態の収拾に当たっていたという説も有力になっている。

一方で、佐々成政から送られた黒百合の一輪挿しを北政所が飾ったところ、しばらくして淀が大量の黒百合を部屋に敷き詰めるほど飾り、これが元で不仲になったという「黒百合事件」の話もあって、実際にどんな関係だったかは諸説ある。
従来の説では、北政所が大坂城から出たことで、淀に追い出されたと思った福島正則や加藤清正がますます「石田三成許せん!」となったと言われていた。

関ヶ原の戦いの後は秀吉を弔う生活を送り、この頃から「高台院」と呼ばれるようになる。
大坂の陣では護衛を兼ねた監視役がいたこともあって、目立った動きはない。
ただ、少年時代の二代将軍・徳川秀忠をねねが預かっていたことがあり、家康や秀忠とはずっと親密な関係にあった。

なお、近年は「おね」と呼ぶケースが多く、そう書かれている手紙もあるのだが、「ねね」が「おね」になったり「淀君」が「淀殿」になったのは歴史界にフェミニズムの嵐が吹き荒れていた頃で、「ねね」が蔑称だとされた影響も強い。
実際には蔑称という訳ではなく、同じ浅野家の養女であった浅野長政の妻は「やや」なので、少なくとも若い頃は「ねね」で良いはずで、「おね」は愛称とも言われている。
ただ、フェミニスト的な文句を言われると面倒なためか、メディアやドラマでは折衷案ぽい「おねね」が使われることが多い。
「ねい」や「ね」とするケースもあるが、おそらく「寧々」の「々」を省略して「寧」だけ書いている手紙を見て、その説が出て来たと思われる。

淀 / 茶々

淀 / 茶々

(よど、ちゃちゃ) 
豊臣家を背負った浅井三姉妹の長女

近江の大名「浅井長政」と、織田信長の妹「お市」の間にできた三姉妹の長女。「茶々」は幼名。
成長して秀吉の側室となり、秀吉の子を産んだことから「淀城」を与えられ、以後は「淀」と呼ばれるようになる。
扱っている歴史物語において、可愛らしい女の子「ちゃちゃ」が、豊臣家の権力者「淀」にクラスチェンジする様子は大きな見どころである。

5才の頃に父の浅井長政が織田信長に攻め滅ぼされ、母のお市は柴田勝家と再婚するも、14才の頃に本能寺の変が起き、15才の頃に柴田勝家は秀吉に滅ぼされる。そして母も勝家と運命を共にする。
その後は織田信雄織田有楽斎が面倒を見たと言われているが、正確なところは不明。

20才の頃に秀吉の側室となり、翌年に待望の秀吉の子「鶴松」を産むが、不幸にも鶴松は3才で病死。
秀吉は大いに落胆するが、翌々年に再び懐妊し、のちに豊臣秀頼となる「拾丸」を産んだ。

ただ、多くの側室を持ち、ハーレム状態だったにも関わらず子供がまったく出来ず、しかも老齢となった秀吉に、切羽詰まったタイミングで相次いで子供ができたのだから、誰の目にも不自然で「秀吉の子ではないのでは……」と噂された。
「淀と側近の大野治長が密通している」と記された記録が複数あるため、彼が実父との説もある。「三成がパパじゃない?」という噂もあったらしい。
まあ、不自然なのは秀吉もわかっていて、それでも信じたかったのだろう。

そして秀吉が死に、「関ヶ原の戦い」が起こり、石田三成長束正家といった豊臣家の重臣が敗死、徳川に味方した者が家康の元に移ると、当主の豊臣秀頼も幼いため、淀が豊臣家を背負うことになる。
徳川家康は豊臣家を懐柔しようとするが、淀は我が子の可愛さもあってか「天下人は豊臣秀頼」の姿勢を崩さず、徳川から提案される妥協案や交渉を一切拒否。
加藤清正などの尽力もあって豊臣秀頼と徳川家康の会見は実現するが、淀の考えは変わらず、親豊臣家の大名の高齢化、年々強固になる徳川幕府の体制への焦りもあって、関ヶ原から13年経った1613年頃から軍備を開始。
そして懐柔をあきらめた徳川側から、「お前らが奉納した鐘に『国家安康 君臣豊楽』と書かれてた。これは家康の文字を分け、豊臣が君主になって楽しくなると言う意味だ! ゆるせーん!」という言いがかりを付けられる。

こうして一発逆転を狙った「大坂の陣」が始まるが、淀は後藤又兵衛真田幸村(信繁)が提案する積極策をことごとく拒否、大坂城で籠城するも、日々撃ち込まれる大砲に怯えてしまう。
真田幸村の砦「真田丸」の活躍もあって最初の戦い「冬の陣」は乗り切るが、徳川軍に外堀に加えて内堀も埋められ、城の防御力を無くしてしまう。
続く「夏の陣」では幸村の再三に及ぶ豊臣秀頼の出陣要請をひたすら拒否し、幸村は徳川本陣に突っ込んで戦死。
城は炎上して後がなくなり、秀頼の嫁で徳川秀忠の娘「千姫」に仲介を頼むも、今さら許されるはずがなく、秀頼と共に自害して豊臣家は滅亡した。

なお、彼女は以前「淀君」と呼ばれていたが、フェミニスト的な意見が多発した頃に「淀君は蔑称だ! 遊女の名乗りであり、それを淀に付けたのは徳川の陰謀だ!」みたいな意見が出て来て、以後は「淀殿」と呼ばれるようになった。
もちろん蔑称だった訳ではないし、400年続いた呼び名をつまらない言いがかりで変えることこそ歴史への冒涜だと感じるが、面倒は避けたいし、もう「淀君」は使わない方が無難だろう。

初

(はつ) 
名門に嫁いだ浅井三姉妹の次女

近江の大名「浅井長政」と、織田信長の妹「お市」の間にできた三姉妹の次女。幼名は「おなべ」。
のちに「常高院」と呼ばれる。 浅井三姉妹の中ではちょっと影が薄い。
姉と同じく、父の浅井長政、さらに母の再婚相手の柴田勝家が死んだ後は、織田信雄などが面倒を見たと言われているが、この頃の詳細は不明だ。

17才の時に、没落していたが名族であり、元は北近江の守護であった京極高吉の子「京極高次」と結婚する。
京極高吉の妻である「京極マリア」は浅井長政の姉なので、親類であり、いとこ婚だった。
京極高次は妹が秀吉の側室になっていたこともあり、周囲の女性のおかげで出世したと言われていて「蛍大名」と呼ばれていた。
京極高次との間に子供はできず、高次は側室との間に長男を作るが、初は嫉妬のあまりその子を殺そうとし、怒りが収まるまで家臣に匿われていたという。

京極高次は「関ヶ原の戦い」で西軍に味方すると言いつつ、東軍に情報を流し、さらに西軍として出陣するふりをしてすぐに引き返すと、時間稼ぎのために籠城。
西軍の毛利家と立花宗茂の攻撃で窮地に陥って降伏するが、その日に関ヶ原の戦いの本戦が起きて西軍は敗北。
そして徳川家康は毛利軍と立花軍を引き付けた功績を高く評価し、8万5千石の大名に出世した。

京極高次は関ヶ原の9年後に病死。
夫の死後、初は出家して「常高院」となるが、この頃から姉「」のいる豊臣家と、妹「」のいる徳川家の関係が悪化、初は両者を仲介すべく奔走することになる。
結局、その甲斐なく「大坂の陣」が起こってしまうが、最初の「冬の陣」では講和の取りまとめを行い、豊臣家が滅亡した「夏の陣」のあとは江と話し合いながら、豊臣家の人々の助命嘆願を行った。

江

(ごう) 
将軍の妻となった浅井三姉妹の三女

近江の大名「浅井長政」と、織田信長の妹「お市」の間にできた三姉妹の三女。
幼名は「督」で、「ごう」と読むと思われていたが、近年になって「徳」と書かれていた記録が見つかり「とく」説も出てきた。
のちに「崇源院」と呼ばれる。
2011年のNHKの大河ドラマ「江 ~姫たちの戦国~」の主人公。

大河ドラマの主人公になった割には、浅井三姉妹の中でもっとも経歴がハッキリしていない。
ただ、ハッキリしていないからこそ、小説やドラマで脚色しやすいとも言える。

産まれた年に父の浅井長政が戦死しているため、お市が織田家に戻ってから産まれた説もある。
それから成人するまでは姉たちと同じ。
その後、織田信雄の家臣の佐治一成に嫁いだと言うが、一成の追放によりすぐ離縁していて、どういう結婚だったのかイマイチわからない。婚約のみだった説もある。

次いで豊臣秀次の義弟である「豊臣秀勝」に嫁いだと言うが、これもどのような結婚生活であったかよくわからない。
秀勝は朝鮮出兵中に病死しており、娘が一人できたという。

表舞台に出てくるのは二代将軍となる徳川秀忠に嫁いでからだ。
秀忠とは仲睦まじかったようで、三代将軍の徳川家光を含む、2人の息子と5人の娘をもうけた。
子が多かったからか、それとも江の嫉妬が恐かったからか、徳川秀忠は正式な側室を作っておらず、ドラマなどでは秀忠が尻に敷かれているシーンがよく出てくる。
秀忠と江が次男を可愛がり、長男をないがしろにして、それが兄弟の確執に繋がったとする話もあるが、俗説のようだ。

大坂の陣の頃には、交渉がてら姉のとよく話をしていたという。
豊臣家の滅亡後、養源院というお寺で姉の、豊臣秀頼、父の浅井長政を弔った。

まつ

まつ


夫がヤンキーで苦労した利家の奥さん

前田利家の正妻。のちの「芳春院」。2002年のNHK大河ドラマ「利家とまつ」の主人公の一人。
12才で前田利家に嫁ぎ、同年に妊娠した。現代だと犯罪。
ところが翌年、前田利家は織田信長の前で茶坊主を斬り捨て、怒った信長により織田家から追放されてしまう。
いきなり夫がいなくなったまつは、ご近所さんの秀吉ねねに大変世話になったという。

前田利家が(勝手に参加した)合戦で手柄を立て、織田家に復帰すると、2男9女、計11人の子をもうけた。
しかも当時としては珍しく、10人が無事に成人している。
娘の一人は、子のいなかった秀吉&ねねの養女にした。
安土にいた頃はねねの家が隣だったこともあり、いつもどちらかの屋敷で談笑していたという。

柴田勝家が北陸方面軍の大将となり、前田利家がその与力(配下)になると、共に金沢に移住。
本能寺の変」が起こり、織田家の後継者争いで秀吉と柴田勝家が対立、「賤ヶ岳の戦い」が起こると、前田家と豊臣家の講和のため秀吉の元に交渉に向かった。
このとき、秀吉は前田利家に会う前に、先にまつと話をしている。

秀吉の配下となった前田利家が、秀吉と対立した佐々成政と戦う際に戦費を出すのを渋っていたときには、「そんなにお金が大事なら、金銀に槍でも持たせたらどうですか!」と怒ったという。
ちなみに前田利家がケチに倹約家になったのは、織田家をクビになっていたときにお金に困ったからのようで、本人も「金さえあれば人も世間も恐くない。金がないと何もかもが恐ろしくなる」と言っていた。

前田利家の死後、徳川家康が前田家に謀反の疑いをかけたときには、一戦交えようとする跡継ぎの前田利長に「あなたでは家康に敵わない」と言って止め、自ら人質となって江戸に赴く。
以後14年間、江戸で人質としての生活をしながら、関ヶ原で敗れた西軍の武将の助命・救済に尽力した。
晩年に金沢に帰還。ねねとは老齢になっても仲が良かったようで、一緒に温泉に行ったりしている。

小松姫 / 稲姫

小松姫 / 稲姫

(こまつひめ、いなひめ) 
本多忠勝の娘にして真田信幸の妻

徳川四天王の一人「本多忠勝」の娘で、真田信之(信幸)の妻。
幼名は於子亥(おねい)。元の名は稲姫で、結婚した頃に小松姫を名乗ったようだ。

才色兼備、武芸に優れた女性だったと言われ、徳川家康や徳川秀忠にもハキハキと物申していたという。
婿選びの時、居並ぶ男性たちの"まげ"をつかんで顔を上げさせ、ひとりひとり吟味していたところ、真田信幸だけはその態度に怒って扇子で叩き返し、その意気に感心して彼と結婚した、という伝承がある。
こうした話が伝わるほど男勝りだったようで、肖像画も女性でありながら鎧を着た姿で描かれている。
赤ん坊を襲おうとした大イノシシを退治した伝承もある。

関ヶ原の戦い」で夫の真田信之(信幸)が東軍に付き、父の真田昌幸、弟の真田幸村(信繁)と決別すると、留守中の沼田城を守る。
そして立ち寄ろうとした真田昌幸を城内に入れず、「最後に一目、孫の顔が見たい」と言われても拒否、それでも昌幸が塀を乗り越えて入ろうとすると「狼藉者を召し捕れ!」と言って追い返したという。
一方で、関ヶ原の戦いで真田昌幸が高野山に流罪になると、仕送りを続けていた。昌幸は浪費家だったので仕送り代は大変だったらしい。

真田信之には京都に「小野お通」という愛人がいたが、承知した上で黙認していたという。
48才で病に伏せったとき、駆けつけた信之に「もう京の方をお呼びになっても構いませぬ」と言って笑い、息を引き取ったという。

甲斐姫

甲斐姫

(かいひめ) 
三成の水攻めを失敗させた姫武者

武蔵(埼玉)の忍城(おしじょう)を守った北条家の家臣「成田氏長」の子で、成田長泰の孫娘。
秀吉の小田原征伐(北条攻め)の際、石田三成は忍城を水攻めにするが、それを失敗させて三成に赤っ恥をかかせたと言われる姫武者である。
忍城の攻防戦を描いた小説&映画「のぼうの城」でも有名になった。

小田原征伐の際、石田三成は2万3千を越える兵力で忍城を攻めたが、500の民兵を含む3千の籠城軍に苦戦。
そのため石田三成は秀吉の進言もあり、大規模な工事を行ってこれを水攻めにした。
一方、忍城の城主であった成田氏長は小田原城の防衛に向かっており、城代の成田泰季も籠城戦の最中に病死。
そのため城の守りは成田長親(のぼうの城の主人公)と、19才の甲斐姫に託される。

石田三成軍は浅野長政の援軍も得て攻勢をかけるが、名刀「波切」を持った甲斐姫が200騎を率いて迎え撃ち、これを撃退。
そのため三成は長束正家大谷義継真田昌幸幸村の援軍を呼んでさらに攻め立て、さすがに忍城側も苦戦するが、ここでも甲斐姫は奮戦し、敵将を矢で撃ち抜いたという。
「城を落として甲斐姫を俺の嫁にしてやる!」と言っていた敵を矢で瞬殺した逸話もある。

間もなく北条家が降伏し、小田原城が先に開城したため、忍城は停戦。約一週間後に城兵は退去した。
このとき甲斐姫は甲冑を身にまとい、馬に乗って将兵に囲まれながら退城したという。
そして大兵力と名将を用いながら城を落とせなかった石田三成は、彼を嫌っている将兵から嘲笑されることになる。

成田家の記録によると、一族はその後、会津の蒲生氏郷に仕えた。
そして成田軍が出陣している隙に謀反が起こり、多くの家臣や成田氏長の妻が殺されたが、怒った甲斐姫が十数人で200余人の謀反軍に反撃、これを撃破して敵将も討ち取る手柄を立てたという。
そして武勇伝を聞いた秀吉が甲斐姫を側室に迎えたいと言い出し、成田家の出世も考えて秀吉の元に向かった。

秀吉の側室になった経緯には他にも説があるが、ともあれその後は大坂城で過ごしている。
ただ、大坂城での暮らしぶりについてはほとんど解っていない。

井伊直虎

井伊 直虎

(いい なおとら) 
遠州錯乱に巻き込まれた女城主

徳川四天王「井伊直政」の養母であり、今川義元の死による混乱の煽りを受けた井伊家の女当主。
2017年のNHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」の主人公だが、NHKの大河ドラマの主人公としては、歴代トップクラスにマイナーな人である。
その分、史実にこだわらない、異説を取り入れた独自のシナリオになっていた。

井伊家は遠江(静岡西部)の国人で、今川家に従っていたが、家臣の小野家に「謀反の疑いがある」と讒言される。
当主の「井伊直満」は今川義元に弁明に行くが、その途上で殺害されてしまった。
そのため井伊直満の弟の子「井伊直盛」が跡を継ぐのだが、「桶狭間の戦い」で織田信長の急襲に遭って戦死。
そこで井伊直満の子「井伊直親」が跡を継ぐが、家臣の小野家にまた「謀反の疑いがある」と讒言される。
井伊直親は今川氏真に弁明に行くが、その途上で朝比奈泰朝に殺害されてしまった。

跡継ぎがいなくなった井伊家はそのまま取り潰しの危機に陥るが、新野親矩(新野左馬助)の擁護によって救われる。
しかし2年後、新野親矩は今川氏真により、謀反の疑いがあった飯尾連竜の攻撃に駆り出され、そこで戦死。
後ろ盾を失っていよいよ窮地に陥り、井伊直盛の娘で、井伊直親の許嫁であった女性「次郎法師」が緊急に井伊家を継いだ。
彼女が女当主「井伊直虎」である。

井伊家はこのような経緯から、今川家の家臣でありながら今川氏真とは対立に近い状態にあり、徳川家からの誘いもあって家臣団が分裂、難しい舵取りを任された。
結果、対立派に居城を奪われてしまうが、徳川家康の支援で実権を回復。
そして井伊直親の子であり、直虎が養育していた「虎松」が家康の小姓となって、「井伊万千代」と名乗って活躍。
彼がのちに赤備えの勇将「井伊直政」となる。
なお、井伊直虎は許嫁の井伊直親とは結ばれず、出家していたこともあって、生涯結婚しなかったという。

妙林尼

妙林尼

(みょうりんに) 
島津軍をボコボコにした九州の女傑

九州豊後の大名「大友家」の重臣である吉岡長増の子「吉岡鑑興」の妻。
夫の吉岡鑑興は大友軍と島津軍が戦った「耳川の合戦」で戦死しており、目立った記録はなく、夫の死によって出家した彼女は「妙林」と名乗っていた。

島津軍が北上を開始し、仙石秀久の大失態で豊臣軍の先遣隊が敗北すると、大友軍は本拠地の府内城と、当主・大友宗麟が守っていた臼杵城に戦力を集中する。
そのため島津軍は、その中間にあった鶴崎城に進軍、そして鶴崎城の主力は臼杵城の防衛に向かっていたため、老兵しかおらず手薄になっていた。

しかし鶴崎城にいた妙林尼は籠城を決意し、農民たちに板や畳を持って来させると、彼等に鉄砲の使い方を教えて戦力とし、城の周囲に落とし穴やしかけ槍、鳴子(引っかかると音が鳴る紐)などのブービートラップをしかけまくって、島津軍を待ち構えた。
城自体も海岸の川の中州という鉄壁の位置にあり、戦力が乏しいことを知った島津軍は一斉に攻めかかるが、罠と鉄砲でボロボロにされて大苦戦、16度攻め込むもすべて撃退される。

攻略を断念した島津軍は和睦を提案、妙林尼もこれに応じて開城し、以後は宴会を催すなどして島津兵をもてなすが、これは豊臣軍の本隊を待つための時間稼ぎであったようだ。
豊臣軍が九州に上陸し、大兵力で南下を開始すると、島津家の大将に「一緒に薩摩に連れて行って欲しい」と懇願し、出立の宴会も行う。
そして島津軍が安心して城から出て行くと、酔った島津軍を奇襲し、多くの将兵を討ち取る大手柄を立てたという。

記録が少なく、言い伝えに寄るところが大きいため話が盛られている可能性もあるが、本当なら戦国時代の女性としては突出した戦果である。しかもトドメはハニートラップ。
その武勇伝を聞いた秀吉が「ぜひ会いたい」と申し出たが、断って隠棲したという。
宣教師ルイス・フロイスの報告書にも、島津軍を撃退した大友家の「女戦士」の記述があり、彼女のことだと思われる。

池田せん

池田 せん

女鉄砲隊の指揮官

織田家四家老の一人「池田恒興」の娘で、鬼武蔵「森長可」の妻であり、森蘭丸の乳母であったとも言われる女性。
森長可が戦死したあとは遺言により実家に戻り、のちに中村一氏の妻になった。

彼女は200人からなる女鉄砲隊を率いていたと記録されており、秀吉柴田勝家が戦った「賤ヶ岳の戦い」の際に、織田信孝が籠もる岐阜城攻めに加わったという。
城に攻め込まれたり、反乱や襲撃に遭って防戦したというケースで女性が戦った記録は多々あるが、正規軍の城攻めに女性部隊が加わっているケースはかなり珍しい。

出雲の阿国

出雲の阿国

(いずものおくに) 
歌舞伎の始祖

歌舞伎の創始者・発端と言われる伝説的な踊り子。
武家ではないが、戦国時代の人物であり、戦国を扱ったゲームや物語にはよく登場する。
出雲大社の勧進巫女(諸国を巡りながら歌や踊りを披露し、神社への寄付を募った巫女)だったようで、1600年に朝廷の御所で一座と共に「ややこ踊り」を披露した記録があるが、「ややこ」とは子供のことで、このときは普通の舞いだったようだ。

1603年、京都で男装して激しく踊る「かぶき踊り」を披露する。
「かぶき」とは「傾奇」、傾いて奇妙という意味で、派手で型破りな踊りであったという。
ちょうど同じ年に美男子として知られる武将「名古屋山三郎」が京都で死んでおり、阿国はこの名古屋山三郎の役で踊っていたため、山三郎が彼氏か夫であり、その死をきっかけにかぶくようになった、という伝承がある。
また「まるで山三郎が乗り移っているかのようだった」と言われており、巫女だったこともあって、ゲームなどでよく憑依や召喚のネタにされる。

彼女の踊りは民衆に熱狂的に受け入れられ、「歌舞伎」の字が当てられ、大衆演劇へと発展していった。
ただ、遊女がストリップのように踊る「遊女歌舞伎」が流行したため、幕府は風俗の乱れを懸念し、女性が歌舞伎を舞うことは禁止された。
その後、若い男性グループが踊るジャニーズ的な「若衆歌舞伎」が流行ったが、熱狂的なヒットになり過ぎて、やはりこれも禁止となった。
結果、歌舞伎は中年男性が舞台を務める、今に伝わるものへと変わっていく。


・地方の戦国大名

伊達政宗

伊達 政宗

(だて まさむね) 
奥羽の独眼竜

1987年のNHK大河ドラマ「独眼竜政宗」の大ヒットで戦国のスーパースターとなった奥州の伊達男。
眼帯を付けた中二病心をくすぐる甘いマスク、数々のDQNで破天荒な逸話を持つ、戦国末期に強烈な印象を残した東北地方を代表する戦国大名である。

元は米沢周辺(山形と宮城の南部)の大名であった伊達家は、元々大きな勢力だったのに加え、政宗の曾祖父「伊達植宗」の婚姻外交により周辺の勢力を友好的に従属させており、政宗の祖父「伊達晴宗」の頃には東北地方を治める「奥州探題」にも任命され、名実共に奥羽の筆頭となっていた。
政宗の父「伊達輝宗」もその外交政策を継承し、この伊達家の統制により、東北地方は戦国時代になっても比較的安定した状態が続いていた。

しかし伊達家の内部では植宗と晴宗の対立、晴宗と輝宗の対立、さらに重鎮である中野宗時と輝宗の対立などがあり、平穏というわけでもなかった
1570年、織田家と浅井・朝倉家が戦っていた頃に、東北地方でも勢力争いや内紛が続発。
政宗の父・伊達輝宗は権勢を振るっていた中野宗時を追放し、実権を掌握すると、各勢力の調停に乗り出すが、東北も遅れてやって来た戦乱に飲み込まれていく。

伊達政宗が伊達家を継いだのは1584年。
すでに「本能寺の変」で織田信長が死去し、豊臣秀吉がその後継者になりつつあった頃だった。
幼い頃に病気(天然痘)によって片目を失い、すでに独眼となっていた。

伊達政宗が家督を継いですぐ、家臣の大内定綱が会津(福島西部)の大名「蘆名家」に寝返る。
政宗はこれを許さず、大内領にあった小手森城を包囲して陥落させ、そして女子供も含め、城内にいた500人を皆殺しにする「小手森城の撫で切り」と呼ばれた虐殺を行う。
恐れをなした大内定綱は防戦をあきらめて逃亡し、陸奥安達(福島中部)の大名「二本松家」に逃げるのだが、政宗は二本松の城を包囲。
そこで二本松の城主「畠山義継」は政宗の父・伊達輝宗に和平の仲介を要請し、輝宗もこれに応じて交渉に行くのだが、最初から策略だったのか、それとも近付いて来た政宗軍に恐れをなしたのか、畠山義継は帰宅しようとする輝宗をいきなり捕らえ、伊達軍に追い付かれると輝宗を人質にして逃げようとした。
ここで輝宗が「構わん!撃て!」と叫び、政宗が涙ながらに敵もろとも父を銃撃するシーンは、伊達政宗を扱った物語では前半の山場である。

怒りに駆られた伊達政宗はすぐに復讐戦(人取橋の戦い)を挑むが、常陸(茨城)の大名「佐竹家」が二本松に援軍を派遣、兵力に劣る伊達軍は惨敗し、政宗自身も銃撃されてしまう。
重鎮・鬼庭左月斎(良直)の奮戦で生還するも、鬼庭は戦死した。

翌年、傷の癒えた伊達政宗は再び二本松家に進攻。
もはや抗しきれないと悟った二本松は、陸奥相馬(福島東部)の大名「相馬家」に仲介を要請し、城を明け渡して蘆名家に亡命。
これで二本松は滅亡し、一旦騒動は落ち着くかに見えたが…… 1年も経たないうちに蘆名家の幼い跡継ぎが病死する。
そしてその跡継ぎを佐竹義重が自分の子にしようとしたため、再び争乱となる。

その翌年、天下を掌握しつつあった秀吉は私的な合戦を禁止する「惣無事令」を出すが、もはや東北勢は聞き入れない。
出羽最上(山形北東)の大名「最上家」の煽動で伊達家に従属していた「大崎家」が独立を画策、これを止めようと伊達政宗は進軍するが、逆に最上勢の反撃に遭う。
さらに相馬家が蘆名家と結んで伊達領に進攻し、戦乱は拡大。
だが、伊達政宗の母であり最上義光の妹でもある「義姫」の懇願もあって伊達と最上が停戦すると、政宗は相馬家の城を奇襲して混乱させ、その隙に蘆名軍(佐竹派)との決戦「摺上原の戦い」に挑み、これに勝利。
伊達家は蘆名領であった会津を支配した。

だが、伊達政宗にとって、ここがタイムアップであった。
その年(1590年)に豊臣秀吉は北条家へ進攻する「小田原征伐」を実施。
東北勢にも参加を求め、そして「お前ら勝手に合戦すんなって言っただろうが! 続けるようなら北条の次はお前だオラァ!」と通達。
伊達政宗は最初は渋っていたが、側近の片倉景綱の「秀吉はハエのようなもの。追い払ってもキリがない」という進言と、秀吉の家臣(和久宗是)からの再三の催促もあって、従うことを決意。
このとき、死の覚悟で訪れたことを示すため、白装束で秀吉の前に現れ、派手好きの秀吉に許されたという。

なお、この直前に最上義光が妹の義姫に「このままでは伊達家は秀吉に滅ぼされる。政宗を殺し、弟の小次郎に跡を継がせるべきだ」とささやき、母により毒殺されそうになったと言われている。

こうして伊達政宗は秀吉に従属するが、まだ領土拡大の野心は捨てていなかった。
会津を没収され、そこに蒲生氏郷が赴任するが、その蒲生氏郷と領地を巡って度々対立、暗殺しようとした説もある。
そして「葛西大崎一揆」と呼ばれる一揆を煽動し、蒲生氏郷と一揆勢を戦わせつつ、その領土を奪おうとした。
この一揆を煽動した件は蒲生氏郷に見破られ、秀吉に報告されるが、密書の花押(サイン)をちょこっと変えていたことと、白装束に加えて金の十字架を担いで弁明に向かうパフォーマンスで難を逃れている。

朝鮮出兵の際にも十字架を先頭に、将兵に絢爛豪華な衣装を着せて行軍し、見物した人々の話題となった。
これが派手な衣装を着こなす人を指す「伊達男」の語源になったと言われている。
関ヶ原の戦い」では上杉軍の攻撃を受ける最上家に救援を送るが、その一方で領土拡大を狙って南部家(青森・岩手の大名)の一揆を煽動、後でバレて家康に怒られている。

以後もイスパニア(スペイン)との通商を計画してガレオン船を建造しヨーロッパに「遣欧使節」を派遣したり、大坂の陣で味方を銃撃して友軍の水野勝成と同士討ちしたり、将軍に食事を運んだとき幕臣が毒殺の危険を告げると「謀反するなら戦を起こすわ!毒なんか使うか!」と言って周りをギョッとさせたり、幕府の老中に唐突に相撲を挑んで開幕で張り手して大騒動になったり、エピソードを挙げていくとキリがない。
大坂の陣での挙動がおかしかったこともあって、最後まで天下を狙っていたとも言われている。

最上義光

最上 義光

(もがみ よしあき) 
羽州の狐

出羽最上(山形)の大名「最上家」の当主にして、伊達政宗のライバル。
かなり大柄で、大人数人でも持てない大岩を子供の頃に担ぎ、鉄鞭を振り回して戦ったという怪力無双だが、どちらかと言うと謀略家として知られている。
鮭が大好きで領民からは「鮭様」と呼ばれていた。事あるごとに泣く。

彼が家督を継いだ1570年頃、最上家は伊達家に従属しており、妹の「義姫」は伊達政宗の父「伊達輝宗」に嫁入りしていた。
そしてのちに伊達政宗の母となる。

当時の最上家は経済的にも軍事的にもヨワヨワで、まずは富国を成し遂げようと、経済改革に力を入れる。
しかしその結果、領民からは支持されるも、国人(地方領主)からの反発を招く。
その動きを暗殺や調略(引き抜き工作)などで抑えるが、追い詰められた国人衆は父の最上義守の元に集って反乱を起こし、義守の元に伊達家も援軍を派遣したため、最上義光は四面楚歌に陥った。

だが、最上義光は粘りを見せ、跡継ぎ候補であった弟を急襲して自害させると父と和睦し、伊達輝宗とは寡兵ながら一進一退の攻防を繰り広げ、最後は義姫の懇願もあって停戦を勝ち取る。
こうして最上家は独立し、伊達家のライバルとなった。

伊達家を伊達政宗が継ぎ、二本松・佐竹・蘆名と戦うようになると、伊達領の北方に位置した大崎家が伊達家に反乱を起こすが、これは最上義光の離反工作と言われており、伊達軍が大崎家を攻めると援軍を派遣、伊達軍を撃退して逆に伊達領へと進攻した。
ただ、いよいよ最上義光と伊達政宗の決戦になると思われたその日、輿に乗って現れた義姫が両軍の間に割って入り、上杉家(上杉景勝)に後方を脅かされていたこともあって、結果として伊達家とは講和することになる。

そして、ここでタイムアップ。
豊臣秀吉の小田原征伐(北条攻め)が始まり、東北の各大名家に参加の要請と、合戦禁止の通告が送られた。
最上義光の参陣はやや遅れたが、事前に「葬式で遅れます」という定番の言い訳をしていたため、お咎めなしとなる。

だが、娘の「駒姫」が豊臣秀次に嫁入りすることが決まり、京都に向かった直後、秀次が謀反の疑いで処断された「秀次事件」が起こる。
そして駒姫はまだ会ってもいないのに秀次の妻として処刑されることになり、最上義光は方々に手を回して必死で助命嘆願をするも、その甲斐なく殺されてしまった。

慟哭した最上義光は以後、豊臣絶対殺すマンと化し、徳川家康に接近。
関ヶ原の戦い」は上杉家が武装を始め、その理由を家康が問いただしたところ、直江兼続から「うるせーよ(中略)文句があるならかかってこい」という「直江状」を送られ、家康が「上杉の野郎を討伐する!」と言って出陣したことを発端としているが、この「上杉家が武装を始めている」という報告を家康にしたのは最上義光なので、義光が関ヶ原の引き金を引いたとも言える。
そして上杉家が攻めてくると、寡兵ながら籠城して善戦し、関ヶ原での西軍敗戦による上杉軍撤退まで持ちこたえた。
ただ、退却する直江兼続を追撃しようとして、銃撃されて兜に被弾するという危機一髪な一幕もあった。

「関ヶ原の戦い」の後は上杉戦での活躍を評価され、山形一帯を治める57万石の大名となる。
存命中、一度も一揆を起こさせなかったその統治により、のちに名君と讃えられている。

毛利元就

毛利 元就

(もうり もとなり) 
安芸の謀神

ほぼ己の才覚のみで中国地方に一大勢力を築き上げた神算鬼謀の策略家。
1997年のNHKの大河ドラマ「毛利元就」の主人公。
「武略・調略・計略こそ肝要、謀り多きは勝ち、少なきは負ける」を身上とし、元は大内家の配下に過ぎなかった小勢力を大大名にのし上げた人物。
ただ、信長の野望シリーズにおいては、「信長の野望・全国版」で始まってすぐ老衰で死ぬ、即死老人としての印象が強かった。(以後のシリーズ作では改善されたが)
誕生が1497年で、織田信長や武田信玄よりだいぶ年上。

幼少期に母が死に、父も飲み過ぎで少年期に死去、家臣に城から追い出され、兄は都会に出て行って、孤児になってしまう。
父の元側室が貧しいながらも育ててくれて、朝日に念仏を唱える毛利元就の太陽信仰は、この養母から受け継いだものだと言う。

元就20才の時、中国地方の西部と北九州を支配した「大内家」に従う吉川家と、中国地方の山陰部(北部)を支配した「尼子家」の支援を受ける安芸武田家の間で合戦が起きる。
大内家に従っており、吉川家とも友好的だった毛利元就は、この合戦に吉川軍として参加。
ここでは策略は用いず、正面切って戦い、崩れそうになる吉川軍を一喝して押し止め、弓の一斉掃射で敵将を射倒すと、戦況を挽回させて勝利した。
これが毛利家の躍進のきっかけとなる。

ここからは、一旦は尼子家に従うも、また大内家に戻り、一方で尼子家の跡継ぎである尼子晴久(詮久)と義兄弟になるなど、両勢力を綱渡りしながら毛利家を生き残らせる。
そして対立派の粛清なども行って分裂気味の家臣団をまとめあげると、宍戸・天野・熊谷といった安芸(広島)の有力国人たちを交渉で従え、吉川家や小早川家に息子を養子入りさせて乗っ取り、安芸の平定を成し遂げた。

1540年頃、尼子晴久は毛利家の居城「吉田郡山城」への攻撃を開始。
以後、毛利家と尼子家は仇敵となり、長い攻防を繰り広げる。
1542年に大内家は大規模な尼子進攻を行い、尼子家の居城「月山富田城」に迫るが、尼子家の精鋭「新宮党」の活躍に加え、家臣の寝返りも続発して敗北。
このとき毛利元就はしんがりを務めるが、大被害を受けている。
そしてこの敗戦で大内家の当主「大内義隆」は軍事や政治への関心をなくし、大内家の衰退が始まった。

1551年、大内家の重臣で「西国一の侍大将」と呼ばれた「陶晴賢」が謀反を起こし、大内義隆が敗死する。
毛利元就は月山富田城の戦い以来、陶晴賢とは交流があり、このクーデターも黙認していて、当初は陶晴賢に敵対する大内家の家臣の城を攻撃していった。
しかし、それによって毛利家の領土はどんどん拡大し、元就が漁夫の利を得ていくことを陶晴賢は警戒。
ついに陶晴賢は毛利元就に領土の返還を要求し、拒否した元就と対立する。

1555年、「厳島の戦い」が勃発。
厳島を占拠した毛利軍がそこを拠点として海路で陶軍を攻撃し始めたため、陶晴賢は3万以上の兵力を動員して厳島に進攻。
対する毛利軍は約5000の兵力しか動員できなかったが、敵の武将に調略(寝返り工作)をかけ、さらに瀬戸内海を支配した海賊「村上水軍」と交渉し、その支援を得る。
そして暴風雨の夕方、「今日は吉日」と言うと、嵐と闇夜に乗じて敵の後方に上陸、早朝に奇襲をかけ、同時に村上水軍が陶軍の軍船を焼き討ちした。
狭い島で完全に包囲された陶軍はもはや立て直すことはできず、陶晴賢も戦死する。
なお、厳島神社は吉川元春の懸命の消火作業で戦火を免れたという。

こうして中国地方の旧大内領は毛利元就がほぼ支配する。
その後も尼子家との戦いは続いたが、1561年に尼子晴久が死去すると、尼子家は衰退、5年後に滅亡。
この頃、毛利家は北九州の旧大内領を支配すべく九州の大名「大友家」とも交戦しており、衰退していた四国の大名「河野家」の支援を名目に伊予(愛媛)にも進出。
最盛期には安芸・周防・長門・石見・備後・出雲・伯耆・隠岐に至る中国地方8ヶ国と、四国や北九州の伊予・筑前・豊前の一部を含む、広大な領土を支配した。

ただ、1560年代に入って体調が悪化し、足利義輝が派遣した天下の名医「曲直瀬道三」の治療によって一時は快癒するも、陣頭に出ることは少なくなっている。
そして1571年、74才で死去。 でも意外と長生きで、実は徳川家康(73)より長命。
信長の野望みたいにすぐ死んでいたわけではない。

なお、毛利元就と言えば「一本の矢はすぐ折れるが、三本なら折れにくい」と言って三人の息子(小早川隆景、吉川元春、毛利隆元)に協力する事の大切さを諭した「三本の矢」の逸話で有名だが、漫画やゲームでは「三本まとめてへし折る」というオチや選択肢があって、たいていギャグに使われている。
戦国無双では「手紙が長くてくどい」というのもネタにされた。

宇喜多直家

宇喜多 直家

(うきた なおいえ) 
山陽の梟雄

今や梟雄(非道な英雄)として斎藤道三松永久秀に負けず劣らずの有名人になっている暗殺下克上大名。
しかし若い頃は苦労しており、備前(岡山)の大名「浦上家」の重臣だった祖父が同僚に謀殺され、家が没落し、商家でバイトする少年時代を送っていた。
成人後に浦上家への帰参を許されるが、最前線の砦にロクな報酬もなく配置され、耕作しながら自給自足、時には敵地の村で略奪を行い、それでも兵糧がない時は家臣と共に断食するド貧乏生活を送っていた。
だが、こんな暮らしを家臣と耐えてきたためか、宇喜多家の家臣団は結束が強かったという。
「若い頃は貧しかった中国地方の謀略家」という点で毛利元就と共通している。

そして叔父(母の父)である浦上家の家臣(中山備中守)を謀殺すると、祖父を殺した仇敵(島村貫阿弥)も討伐、浦上家の重臣に復帰する。
これは両者が邪魔になった浦上家の当主「浦上宗景」の密命と見られている。
その後は謀略と暗殺三昧、浦上家のライバルである備中(岡山西部)の「三村家」の当主をスナイパーで狙撃暗殺、さらに三村家の城主に内応の疑いをかけて自刃させ、別の城主を「鹿と間違えて撃っちゃった」という事故殺で次々と消していく。
男色の城主に美少年の刺客を放つBL殺まで披露したという。

だが、ターゲットに娘を嫁がせて油断させ、その上で殺すという非情な手段を用いており、母や娘は次々とショックで自刃。
肉親を手駒に使うやり方は周囲に恐れられ、実の弟「宇喜多忠家」は兄の前に出るときには用心して鎖帷子を着ていたという。
そしてついに直家は主君の浦上宗景に反逆し、下克上によって戦国大名に成り上が…… ろうとしたのだが、一度目の反逆は地元勢力の支持を得られず、うまく行かなかった。
そのため直家は娘を差し出し、土下座で謝る。 浦上宗景も直家がいないと、バックに毛利家が付いている三村家を防げないため、このときは許している。

その後、宇喜多直家は信長絡みの外交問題で窮地に陥る。
当時の備前は浦上・宇喜多・三村の他、美作(岡山北部)の後藤、播磨(兵庫南部)の赤松や別所、安芸(広島)の毛利、さらに尼子の残党などの影響を受けて混沌としていた。
そんなある日、浦上宗景は織田信長から備前に加え、美作や播磨の守護のお墨付きを貰う。
信長としてはカオスな備前周辺を浦上にまとめて欲しかったようだが、宇喜多直家も足利義昭から備前の領土の保証を貰っていたため、これに反発。
浦上家との対立が激化していた毛利家と同盟し、浦上宗景に対抗しようとする。
ところが、これに三村家が反発。 三村は仇敵の宇喜多とは手を組めず、九州の大友家から「じゃあ、うちと組んで毛利を挟み撃ちにしない?」という誘いも受けたため、毛利家から離反。
そして毛利と大友の戦いが激化し、毛利の主力がそちらにかかり切りになったため、宇喜多家は浦上と三村、浦上に従属していた後藤、反毛利である尼子残党のすべてを敵に回す「宇喜多包囲網」の状態になってしまう。

だが、宇喜多直家は調略で浦上家・後藤家の配下を次々と味方に付けると、後藤家には娘も嫁がせて懐柔。
さらに家督争いに敗れて播磨に逃れていた浦上家の分家の末裔を当主として祭り上げ、下克上の大義名分を得る。
播磨の勢力も浦上家が播磨守護のお墨付きを勝手に貰ったことに反発していたため、この動きを支援。
三村家は毛利の陽動によって宇喜多への攻撃ができない状態となり、のちに毛利家に滅ぼされた。

追い詰められた浦上宗景は居城「天神山城」で籠城するが、側近であった明石景親が宇喜多側に寝返って、城の一部を占拠。
籠城できなくなった浦上宗景は備前から逃亡し、のちに後藤家も滅亡させた宇喜多直家は、ついに備前周辺を治める戦国大名となった。

その後、東から秀吉が率いる織田家の中国方面軍が進攻してくると、毛利家との同盟を破棄して秀吉に臣従し、以後、宇喜多軍は毛利攻撃の先兵として活動する。
この裏切りも宇喜多直家の悪行のひとつと言われるが、ただ毛利家は長らく宇喜多家や浦上家の敵であったため、盟友というわけでもない。
そしてこの頃から悪性の腫瘍に悩まされ、そのまま病没した。死後、秀吉から五大老の地位を与えられている。

宇喜多直家は近年までそれほど知られていなかったが、「信長の野望」シリーズで知略98・義理3とかの極端な能力値で登場し、「こいつ何者だ」と注目され、その暗殺にまみれた生涯でさらに驚かれ、一躍有名になった。
ゲームやネットでメジャーになった武将と言え、最近は(主に悪役で)小説やドラマにもよく登場している。

長宗我部元親

長宗我部 元親

(ちょうそかべ もとちか) 
鳥なき島の蝙蝠

「土佐の出来人」と呼ばれた四国の覇者。 秀吉に「生まれるのがもう少し早ければ天下を取れたのに」と語った、遅れて出てきた英傑の一人。
だが、織田信長からは「鳥なき島の蝙蝠」(鳥のいない四国で、少しだけ飛べる存在)と評されたという。

土佐には元々「土佐七雄」と呼ばれた豪族(小勢力)があり、長宗我部家もそのひとつで、それが名門の「一条家」に従っていた。
しかし戦乱によって一条家の権威が低下し、七雄が争う群雄割拠と化す。
中央に位置した長宗我部家は集中攻撃を受けて一時は滅亡に近い状態となり、長宗我部元親の父「長宗我部国親」の活躍でライバルの「本山家」から領土を奪還するものの、一進一退の攻防が続いていた。

長宗我部元親は子供の頃、家の中で本を読んだり、貝合わせ(貝を使った神経衰弱)で遊んでいることが多く、「姫若子」と呼ばれ、これで当主が勤まるのかと心配されていた。
しかし本山家と戦った初陣で鬼気迫る活躍を見せ、評価は一変、以後は「鬼若子」と呼ばれるようになる。
父の国親は元親が心配されているのを察すると、評判の高かった元親の弟たちを豪族の吉良家や香宗我部家に養子に出し、改めて元親を後継者に指名しており、父も元親に将としての才覚を見出していたようだ。

1560年、桶狭間の戦いがあった年、父の急死で長宗我部元親が跡を継ぐ。
そして仇敵の本山家と、土佐の東部にあった安芸家への攻勢を開始。
本山家も頑強に抵抗したが、徐々に長宗我部家が優勢となり、8年後に本山家、9年後に安芸家が滅亡。土佐の中部を制圧した。

一方、かつての主家であった土佐西部の「一条家」は、九州の大友家と結んで伊予(愛媛)の「河野家」に進攻するも、河野の救援にやって来た毛利家との戦いに敗れて衰退。
また、長宗我部家の台頭に危機感を持ち、安芸家と結んで挟撃しようとするが、安芸家は元親の攻撃で滅亡。
おまけに酒食に溺れ、それを諫言していた名将・土居宗珊を一族もろとも粛清。
とうとう内紛が発生してしまい、長宗我部元親はこれを機に一条家に進攻し、ついに土佐全土を掌握した。

その頃、讃岐(香川)と阿波(徳島)を支配していた三好家も、暴君・三好長治のせいで内紛に陥っており、長宗我部元親はこれに介入して四国東部への進軍を始める。
三好家の跡継ぎを宣言した十河存保が織田信長と同盟、織田家の四国遠征が計画されてピンチに陥るが、「本能寺の変」によって信長が明智光秀に討たれたため危機を脱する。
長宗我部元親の正妻は明智光秀の側近である斎藤利三の妹で、長宗我部家と明智家は親密な関係であったため、本能寺の変の動機に長宗我部元親も絡んでいるのではないか? という「本能寺の変・長宗我部黒幕説」があったりする。

ともあれ、長宗我部元親は三好軍を「中富川の戦い」破ると、阿波と讃岐を支配した。
織田家の後継者争いが始まると、秀吉と対立した柴田勝家徳川家康に付き、秀吉配下の仙石秀久小西行長に攻められるも撃退。
残る伊予への進攻を開始し、毛利軍の救援に手を焼くものの衰退していた河野家を攻めきって、1585年、四国の全土をほぼ統一する。

しかしそれから間もなく秀吉の四国遠征が始まり、日本の中央部をほぼ平定している秀吉軍には抗しきれず、毛利からの派兵もあって防衛線は早々に崩壊、秀吉に降伏し、伊予・阿波・讃岐は召し上げられて土佐一国に戻される。
しかも翌年、秀吉の九州遠征の先遣隊として大友家の支援に向かうも、仙石秀久の無謀な作戦に付き合わされて島津軍に大敗し、最愛の息子「信親」を失って急に荒れ始める。
ここからは家臣を次々と粛清する暴君と化し、長宗我部家をさらに衰退させ、関ヶ原の前年に病死した。
そして跡を継いだ長宗我部盛親が関ヶ原の戦いで西軍に加わったため、東軍の勝利後に長宗我部家は改易され、あっさり消滅してしまった。

家臣の粛清を行ったのは、土佐一国に領土を減らされ、家臣に与えられる知行(領地)が減ったことによるリストラとする説もある。
なぜ四国を統一するのかと聞かれ、家臣とその家族に与える土地を確保するためだと答えていた長宗我部元親の、やるせない末期である。

なお、長宗我部家と言えば「一領具足」が有名だ。
これは平時から農民に戦の備えをさせるもので、信長や秀吉が進めた「兵農分離」とは真逆の政策である。
田植えや刈入れのシーズンに動けない、長期戦が難しいという難点があるが、この政策により土佐の兵は他の地域よりも精強であったという。

島津義弘

島津 義弘

とその兄弟(しまづ よしひろ) 
最強の薩摩隼人

薩摩隼人の代名詞。「釣り野伏」や「捨て奸(すてがまり)」といった島津独自の戦術で恐れられた戦国最強武将の一角。
戦国期の島津家の当主は、島津忠良(日新斎)→島津貴久→島津義久の三代だが、一番有名な武将は義久の弟である「義弘」だ。
弟に「歳久」と「家久」がいて、四兄弟で島津家を九州の一大勢力に躍進させた。

若い頃の島津義弘の戦いぶりは、勇猛だったものの負傷が多く、特筆するほどの戦果はない。
ただ島津日新斎は「傑出した雄武英略を持つ」と評価しており、すでに大器の片鱗を見せていたようだ。
戦場では兵士と共に過ごし、気配りが出来て、学問や医術にも秀でていたという。
なお、日新斎は義久を「三州の総大将たる徳が備わる」、歳久を「利害を察する知計に優れる」、家久を「軍法戦術の妙を得る」と評しており、そうなるように教育していたようだ。

大きな活躍を見せたのはアラフォーの頃、日向(宮崎)の伊東家と戦った時
3000の伊東軍を300の兵で迎撃、圧倒的不利ながら山中に兵を潜ませると、わざと敗走して誘き寄せる「釣り野伏」で敵を誘引し、伏兵による奇襲包囲で挽回不能なほどのダメージを与えた。
大友軍と戦った「耳川の合戦」でも釣り野伏で敵を誘い込み、弟の島津家久と連携して大打撃を与えている。
龍造寺家との戦いでは島津家久と、その息子「豊久」が活躍している。

秀吉の九州征伐では最後まで徹底抗戦を主張、自ら斬り込む奮戦を見せるも、豊臣軍の圧倒的な兵力の前に島津家は降伏。
しかし続く朝鮮出兵では、二度目の出兵(慶長の役)で朝鮮水軍の大将「元均」を討ち取り、明(中国)が10万と言われる大兵力で攻め込んできた時も、鉄砲の集中砲火と追撃で数倍の敵を「溶かし」、鬼石蔓子(鬼シマヅ)と呼ばれ恐れられた。
そして小西行長李舜臣の海上封鎖で撤退できなくなったのを知ると、立花宗茂と共にこれを救援、慣れない水戦で苦戦するも、李舜臣を戦死させ小西軍の退却を成功させる。

関ヶ原の戦い」では東軍・徳川側に参加しようとしたが、徳川軍に合流できずに西軍に入る。
島津家は検地の際、石田三成にそのやり方を教えて貰ったことがあり、その縁で西軍・三成の説得を受けたようだ。
しかし兵力の少ない島津軍の扱いは良くなかったと言われており、事前に提案した作戦も却下され、使者の態度が無礼だったこともあり、関ヶ原の本戦では石田三成の進軍要請を受けても動かなかった。
だが、西軍の敗北が決定的になると「敵に向かって退却」を開始、徳川軍があっけに取られるほどの激しい正面突破を見せ、井伊直政を負傷させると、しんがりが全滅するまで戦う「捨てがまり」で追撃を防ぎながら、戦場から離脱していった。

島津義久から跡を譲られており、その後は島津家の当主を務めたと言われているが、実際に当主になったのかどうかは未だにはっきりしていない。
朝鮮出兵の際、時間を知るために7匹のネコを連れていったらしく、ネコ好きとして描かれることもある。


・地方の名将たち

津軽為信 / 大浦為信

津軽 為信

(つがる ためのぶ) 
最北の謀略家

津軽(青森西部)の下克上大名。戦国後期に現れた謀略家の一人。
ただ、最北すぎて戦国の主要な出来事に深く関わっていないため、地元以外ではあまり注目されない。
元の名は「大浦為信」。立派なヒゲがトレードマークだが、これは三国志の英雄「関羽」に憧れていたから。

青森から岩手に至る、「三日月の丸くなるまで南部領」と言われるほどの広大な土地を支配した大名「南部晴政」の家臣。
南部晴政が、叔父であり津軽の有力者だった「石川高信」の子「石川信直」と対立すると、「お城の修理をしまーす」と言って資材や人夫の中に武具や兵を隠して集め、「修理が終わったので打ち上げしまーす」と言って石川高信の家臣を城に招き、その隙に石川城を奇襲して瞬く間に陥落させ、石川高信を失脚させた。
これが謀反であったのか、南部晴政の密命だったのかは定かではないが、そのまま南部家と石川家の対立を利用して津軽地方で勢力を拡大し、南部家から独立する。
そして南部家が派遣した討伐軍を退け、津軽に勢力を持っていた「安東家」を盟主とする豪族連合の攻勢も、辛くも撃破した。
ちなみに南部家はその後、石川信直が「南部信直」となって跡を継いだ。

為信はその後、独立を維持するには有力者の後ろ盾が必要だと考え、豊臣秀吉に早いうちから接近を試みる。
兵を率いての上洛は失敗を繰り返すが、その噂は秀吉の耳に届いたようで、鷹や名馬などの進物も届けたことで、津軽の領土を保証される。
近衛前久を介して朝廷工作も行い、秀吉と同じ「藤原」の姓を送られたことで、秀吉の義兄弟にもなった。
距離が遠すぎて小規模ではあったが、以後も小田原征伐や朝鮮出兵などに参陣し、秀吉の信任を得ることに尽力している。
南部信直が何度か津軽為信の討伐を秀吉に願い出たが、許されることはなかった。

関ヶ原の戦い」では三男と共に東軍として出陣するが、長男は豊臣秀頼の小姓として大坂城に居て、東軍と西軍のどちらが勝っても家が存続できるようにしていた。
本戦には参加しなかったが、関ヶ原に近い西軍の城「大垣城」を水野勝成と共に攻め、城将の調略に功績があったという。

跡継ぎ争いの防止のため、親族さえも暗殺したと言われる謀略家だが、勢力拡大や下克上より、勢力維持のために知略を駆使していた感がある。
「信長の野望」シリーズでは義理が3しかなく、久秀道三直家と並ぶ義理なし謀略家四天王の一角。
彼のせいで青森県の西部(津軽地方)と東部(南部地方)は今に至るまで対立していると言われており、テレビ番組「秘密のケンミンSHOW」でたびたびネタにされている。

小早川隆景

小早川 隆景

(こばやかわ たかかげ) 
毛利を支える両川の片翼

名字は違うが、毛利元就の三男。兄の吉川元春と共に「毛利の両川」と言われた名将。
安芸(広島)の有力者であった小早川家の乗っ取りのために養子に出された。
合戦では水軍を率いていることが多く、敵の移動先に海路で先回りして強襲するといった活躍が見られる。
水軍の機動力は政務や外交にも活かされており、本願寺への補給に使われていたのは有名だ。
1560年代に入り、毛利元就が病気がちになって、兄の毛利隆元も亡くなると、その立場はさらに重要なものとなった。

ただ、1570年代になって毛利元就が死去すると、瀬戸内海の村上武吉が離反し、備前の浦上家や宇喜多直家にも苦戦、やや精彩を欠く。
広大な毛利領の政務に追われており、織田家の中国地方進出、山中鹿之介の抵抗、大友家との小競り合いもあって、多忙を極めていたようだ。
だが、京都を追い出された将軍・足利義昭を毛利家で匿い、周辺勢力に大きな影響力を持った。

本能寺の変」で織田信長が倒れ、羽柴秀吉がそれを隠して毛利家と停戦した際には、吉川元春の「すぐに秀吉を追撃するべきだ!」という主張を安国寺恵瓊と共に押し止め、毛利家を秀吉側の勢力とする。
これにより、のちに秀吉が天下を取った後、毛利家は五大老の地位を得て、小早川隆景自身も五大老の一人となった。
九州出兵の後には、父の毛利元就が欲していた筑前・筑後・肥前北部(福岡)を秀吉から与えると言われたが、政務の忙しさを理由に辞退している。
朝鮮出兵でも活躍し、文禄の役(一度目の出兵)で李如松が率いる明(中国)の軍勢を立花宗茂黒田長政と共に撃破した。

危うい戦いはせず、謀(はかりごと)で相手を屈するのを良しとし、常によく考えた上で行動していたという。
秀吉は「日本の西は小早川隆景に任せれば全て安泰」と言って絶大な信頼を寄せており、宣教師ルイス・フロイスは「深い思慮をもって平穏に国を治めており、日本では珍しい事に、騒動も叛乱も無い」と記している。

村上武吉

村上 武吉

(むらかみ たけよし) 
瀬戸内の海賊王

瀬戸内海に君臨した日本きっての海賊。毛利家に従った水軍の頭領としても知られる。
ただ、彼等はあくまで海賊であり、毛利家に協力してはいたが、配下だった訳ではない。
また、村上水軍の拠点は尾道(広島南部中央)の能島(のしま)、来島(くるしま)、因島(いんのしま)の三ヶ所にあって、同族ではあったが、それぞれが独自に動いていた。
村上武吉はその宗家であり「能島村上水軍」の頭領。

なお、日本の海賊は海外の海賊とは違い、貿易船を無差別に襲撃するようなことはしておらず、通行料(帆別銭)の徴収を活動の中心としていた。
もちろん通行料を払わなかった船はどうなったかわからないし、難破船からは積荷を収奪していたため、無頼の徒であったことは間違いない。
ただ、外洋で活動していた倭寇とは異なるものである。(そもそも戦国期の倭寇に日本人は少ないが)
捕鯨や交易なども収益源であったようだ。

1555年、毛利元就と陶晴賢が戦った「厳島の戦い」において、毛利元就から「1日だけ味方してくれ」と言われて陶軍を急襲。
これは前年、将軍家への献上品を運んでいた陶晴賢の船が、通行料を払わなかったからでもあったようだ。
以後、長く毛利家の味方となり、毛利軍の沿岸の活動を支援、その勢力の拡大に貢献した。
村上水軍としても、毛利家の拡大に伴って瀬戸内海の縄張りが広がり、躍進するきっかけとなった。

ただ、毛利元就の病状が悪化し、大友家と戦っていた毛利軍が北九州から撤退すると、大友家からの勧誘もあって毛利家から離反する。
結果、小早川隆景が率いる毛利水軍の進攻を受け、来島と因島の村上水軍も毛利側に付いて、苦境に陥った。
結局、海上封鎖された末に村上武吉は毛利家と講和し、関係を修復している。

そして織田信長と本願寺が敵対し、本願寺顕如が大坂の石山本願寺城で籠城すると、海上から補給物資を運び込む。
織田水軍の九鬼嘉隆がその阻止に来ると、毛利水軍や雑賀水軍と共に長蛇の陣で出撃し、織田の軍船に焼夷弾「焙烙玉」を投げ込んで炎上させ、大勝した。
ただ、この戦いでは長男の村上元吉が大将を勤めており、村上武吉は出陣していなかったようだ。

ちなみに、この戦いはロシアのバルチック艦隊を日本海軍が殲滅した「日本海海戦」の際、参考にされたと言われている。
他にも操船時の面舵、取舵、宜候(ヨーソロー)の号令など、村上武吉が残した「村上舟戦要法」は、その後の日本の操船に大きく影響した。

だが、村上水軍の活躍もここまでだった。
織田信長と九鬼嘉隆が建造した「鉄甲船」により、二度目の織田家との水戦では大敗、本願寺も降伏。
さらに「本能寺の変」の後、秀吉の命令を拒否したため再び小早川隆景に攻め込まれ、本拠地の能島を失い、村上武吉は以後、陸で余生を過ごした。
そして秀吉の「海賊停止令」によって、海賊としての活動は行えなくなる。
息子の村上元吉は毛利家の家臣となったが、そのため「関ヶ原の戦い」で西軍に付き、伊予(愛媛)の大名となっていた加藤嘉明と戦うも、夜襲を受けて戦死。
こうして村上水軍は消滅してしまった。

山中鹿之介 / 鹿之助 / 鹿介

山中 鹿之介

(やまなか しかのすけ) 
山陰の麒麟児

滅亡した尼子家の「お家再興」に燃えた尼子十勇士の筆頭。イケメンで武勇に優れた尼子三傑の一人。
尼子家の再興を願い、三日月に「我に七難八苦を与えたまえ」と祈って、本当に七難八苦を与えられてしまった人。
本名は「山中幸盛」。通称の「しかのすけ」は江戸時代には「鹿之助」の表記が一般的だったが、自筆の書状に「鹿介」の記述があるため、近年は鹿介が使われる事が多い。
ただ、鹿介では誤読しやすいという理由で「鹿之介」が使われる事もある。
ここでは「信長の野望・大志」の表記に沿って鹿之介を使う。

尼子家は中国地方の山陰(北部)一帯を支配した精強な大名家だったが、1561年に当主の尼子晴久が死んで弱体化。
翌年、勢力を拡大していた仇敵・毛利元就の進攻を受け、窮地に陥る。
山中鹿之介は一騎打ちで敵将を討ち取り、敗走する味方を守るためしんがりを務め、吉川元春と小早川隆景の軍勢を7度に渡って撃退したというが、尼子家の滅亡を救うことはできず、放浪の旅に出た。

それから2年後、北九州の大友家で騒動が起き、それに乗じて毛利家が九州へと進攻、毛利家と大友家の合戦が激しくなると、山中鹿之介はこれをお家再興のチャンスと判断。
寺にいた若き尼子家の末裔「尼子勝久」を跡継ぎとして担ぎ出し、山陰東部の大名「山名家」の支援を得て挙兵、尼子家にゆかりのある勢力に集結を呼びかけると、月に変わっておしおきを開始した。
一方で大友家も、中国地方の西部を支配していた大名「大内家」の跡継ぎ「大内輝弘」に兵を与え、毛利領内で挙兵させる。
鹿之介はこれと連携して毛利家に進軍、ついに尼子家の居城であった「月山富田城」に迫った。

だが、危機を感じた毛利元就は北九州への進攻を中断し、毛利軍の主力を戻して事態の収拾に当たらせた。
そして北九州の占領地を放棄するハメになり、しぶしぶ帰って来た小早川隆景&吉川元春の怒りの攻撃を受けて大内輝弘は敗死、尼子再興軍も敗れる。
尼子勝久は隠岐に脱出し、山中鹿之介も捕らえられ、毛利家からの士官の誘いを断って隙を見て逃亡するも、一度目の再興戦は失敗に終わった。

だが、分裂していた山名家の内紛に乗じて因幡(鳥取西部)に拠点を確保すると、鳥取城を攻略、それを山名家の当主「山名豊国」に譲ってその再興を支援し、後ろ盾を得る。
さらに毛利家と敵対していた美作(岡山北部)の松田家と後藤家、備中(岡山西部)の三村家、備前(岡山東部)の浦上家と宇喜多家の協力を得て、反毛利陣営を形成、再び尼子再興戦を挑もうとした。

しかし山名豊国があっさり毛利家に寝返って鳥取城を失い、浦上家と対立した宇喜多家が毛利家と同盟、三村家と松田家は毛利家の進攻を受けて崩壊し、後藤家は宇喜多直家から嫁を送られて懐柔され、浦上家も下克上で宇喜多直家に倒される。
気が付くと味方がいなくなって孤立、またもや再興は失敗した。

だが、京都で織田信長に会ったことで、またチャンスが巡ってくる。
「良き男」と言われ信長から名馬を与えられた鹿之介は、明智光秀の軍勢に参加して丹波(兵庫北東)の攻略に参加、大きな手柄を立てて信任を得ると、羽柴秀吉が陥落させた備前の最前線の城「上月城」を与えられた。

ところが、後方の姫路で「別所家」が離反し、上月城は孤立してしまい、すかさず毛利の大軍が上月城に押し寄せてくる。
秀吉は救援を出すが、信長に「先に別所を何とかしろ!」と言われ、姫路へ転進。
織田家に見捨てられた形になった尼子再興軍は、それでも3千の兵で3万以上の大軍を相手に70日間持ちこたえるが、ついに降伏した。
そして尼子勝久は腹を切り、山中鹿之介も護送中に殺害され、尼子家のお家再興の夢は絶たれることとなる。

その忠節は武士道精神の見本とされ、江戸時代に講談で頻繁に扱われるようになり、戦前の教科書にもその伝記が載せられていた。
「山陰の麒麟児」の異名は、「鹿ではない。彼こそ虎狼の世界に現れた麒麟である」と評されたことに由来する。

立花道雪

立花 道雪

(たちばな どうせつ) 
雷神の化身

「勇将の下に弱卒無し」を実践した、九州大友家を支えた無敗の名将。
若い頃、落雷を受けて足が不自由になるが、以後も輿(みこし)に乗って戦場に挑み、雷を斬ったという刀は「雷切」と呼ばれた。
輿の中には刀、鉄砲、鉄棒を置いており、わざと陣頭に突っ込ませ、味方を奮い立たせたという。
元の名は「戸次鑑連(べっきあきつら)」で、立花道雪は後年に出家してからの名乗り。
芸術にも優れ、花を愛でていた記録もある。

大友家は北九州を支配しようとしたが、大内家や少弐家といった名家に長く支配されていた北九州の諸勢力は大友家の支配を拒み、反乱を起こすことが多かった。
これを鎮圧し、大友家の拡大に貢献したのが道雪で、さらに北九州を巡って毛利家や龍造寺家と激しい戦いを繰り広げた。
小早川隆景が率いる軍勢も、鉄砲を素早く装填する「早合」、射撃と槍突撃のあと騎馬隊で波状攻撃する「長尾懸かり」といった戦法で撃破している。

山中鹿之介に後方を脅かされた毛利軍が北九州から撤収すると、重要拠点「立花山城」を奪還、この城の城主となり、以後は立花家を継承して立花道雪を名乗る。
この頃、35才も年下の吉弘鎮種(高橋紹運)と親交を結び、のちにその長男を立花家の養子に貰った。
彼がのちに西国一の武将と呼ばれる「立花宗茂」となる。

北九州の守りを担当していたため、大友家が島津家に大敗した「耳川の合戦」には従軍していなかったが、対立する北九州の諸勢力や龍造寺家と戦い、斜陽の大友家を懸命に支えた。
しかしその最中に病となり、間もなく病没する。
その死の影響は大きく、大友宗麟は単独で島津家に抵抗するのをあきらめ、秀吉に臣従することになる。

立花宗茂

立花誾千代

立花宗茂 & 立花誾千代

(たちばな むねしげ、たちばな ぎんちよ)
剛勇鎮西一と別居妻

実父は秀吉に「乱世の華」と評された「高橋紹運」、そして雷神「立花道雪」の養子となって立花家を次いだ戦国後期のエリート武将。
のちに「東の本多忠勝、西の立花宗茂」と称された、西国を代表する名将のひとり。

立花道雪は男児が生まれず、男の子に跡を継がせるのをあきらめ、仕方なく一人娘を跡継ぎに指名していた。
彼女が「立花誾千代」で、7才で城主を任されると、立花家の当主として男子さながらの教育を受けた。
そのためか、かなり男勝りな姫に育ったという。

だが、立花道雪は30才以上も歳の離れた高橋紹運(吉弘鎮種)と親密な関係になり、その紹運の子「吉弘統虎」が立派に成長したため、立花家の婿にしてくれと何度も懇願。
高橋紹運は根負けし、吉弘統虎は立花誾千代に婿入りすることになり、のちに「立花宗茂」となって立花家を継いだ。
ただ、誾千代が強気だったためか夫婦仲は最悪で、早々に別居してしまったという。

立花宗茂はその後、大友家の家臣として実父&養父と共に北九州を転戦する。
立花道雪の死後、島津家が北上を開始し、実父の高橋紹運の城に迫ると、紹運は763人の兵で籠城、5万の島津軍を相手に壮絶な戦いを繰り広げて討ち死にした。
このとき、宗茂は救援に行こうとしたが、「同じ場所に二人の大将がいるのは良くない」と断られる。
だが、その時間稼ぎの甲斐もあって豊臣秀吉の援軍が到着し、大友宗麟は秀吉に「忠誠無二の者」と立花宗茂を紹介。以後は豊臣家の元で戦うことになる。

その後、島津家との戦いで「火車懸」なる戦法を駆使して活躍、秀吉から「剛勇鎮西一」と評された。
火車懸の詳細は不明だが、騎馬鉄砲術であったようだ。
小田原征伐、朝鮮出兵でも活躍し、特に文禄の役(一度目の朝鮮出兵)では朝鮮軍を火計や釣り野伏(擬退誘引)で駆逐、援軍に来た明(中国)の李如松の軍勢も小早川隆景と共に打ち破るなどして、朝鮮兵から「鬼将軍」と呼ばれるようになる。
ちなみに小早川隆景とは義父の契りを結んでいた。
慶長の役(二度目の朝鮮出兵)では守備役となっていたが、小西行長の部隊が海上を封鎖されて撤退できないと聞くと、島津義弘と共に救援に向かい、李舜臣の水軍と戦った。
この戦いで島津軍は李舜臣を討ち取るも大被害を受けるが、立花宗茂の水軍は優勢を保っていたという。

関ヶ原の戦い」では「秀吉公の恩義を忘れることは出来ない」と言って、西軍入りを宣言して出陣する。
しかし、東軍の京極高次が守る「大津城」を攻め、これを落城させるものの、同時期に関ヶ原の本戦が始まってしまい、参加できないまま終わってしまう。
大坂城の毛利輝元に徹底抗戦を訴えるも聞き入れられず、島津義弘と共に帰国した。

一方、立花宗茂が留守の間、居城は立花誾千代が武装して守っており、東軍に付いた鍋島直茂や加藤清正の軍勢に備えていたという。
立花宗茂が帰国すると、誾千代は従者と共に出迎え、そのまま立花軍と鍋島軍は決戦に入ったが、徳川家康からの停戦命令が届き、翌日には戦闘は終結した。

立花誾千代はそれから2年後、34才で病死する。
お墓がおもちに似ていることから地元では「ぼたもちさん」と呼ばれている。
立花宗茂は改易されて浪人となり、加藤清正や本多忠勝の世話を受けながら放浪していたが、彼等や島津義弘の推薦で徳川家への士官が認められ、大名に復帰した。
「立花宗茂」を実際に名乗ったのはそれからで、大阪・夏の陣では二代将軍・徳川秀忠の参謀を勤めた。


・朝鮮と明(中国)の方々

李舜臣

(りしゅんしん、イスンシン) 
朝鮮の英雄
李舜臣

朝鮮の国民的英雄。朝鮮出兵の際に日本軍の前に立ちはだかった朝鮮水軍の提督。
韓国で喧伝されている彼の活躍はかなり大げさに脚色されており、鵜呑みにすることはできないが、朝鮮軍の中で唯一日本軍に善戦した将軍であることは間違いない。

ただ、朝鮮出兵の初戦、日本が元均の率いる朝鮮水軍の主力を壊滅させた際、元均から救援要請を受けるも、全て無視した。
李舜臣の管轄ではなかったのもあるが、戦功が少ないにも関わらず将軍に抜擢された李舜臣を元均は快く思っておらず、性格の違いもあって、仲が悪かったためと言われている。

しかし日本の進軍が始まると迎撃に出て、輸送船団などを攻撃。
日本の水軍が迎撃に出てくると潮流の早い海域で待ち伏せ、抜け駆けしてきた脇坂安治の水軍を撃破した。
ただ、この敗戦で日本軍は朝鮮水軍を警戒するようになり、輸送船を武装させ、沿岸砲を築き、守備を重視するようになったため、以後の襲撃はうまく行かなくなる。

その後、日本軍と明(中国)軍が一時停戦すると、これに反発したのか、停戦命令を無視して釜山港に大規模な強襲をかける。
しかし迎撃を受けて大被害を被り、最初の朝鮮出兵(文禄の役)が終わるまで、満足な活動を行えなくなった。

一度目の朝鮮出兵の終結後、李舜臣は停戦交渉中にも関わらず日本軍の港や中継地などを急襲する。
しかし鉄砲や沿岸砲に阻まれ、交渉中なので日本軍が打って出てくることもなく、攻撃は上手く行かない。
結果、明からの苦情と、軍部の批判、元均による中傷などもあって投獄され、査問会で一兵卒からのやり直しとなる「白衣従軍」にされてしまう。一時は死罪も宣告されたという。

だが、二度目の朝鮮出兵(慶長の役)が始まると、開始早々に元均の主力水軍は壊滅、元均や李億祺などの主だった水将も戦死したため、李舜臣は水軍司令に復帰する。
とは言え、もはや艦隊は壊滅しており、しばらくは戦力の再建に専念するしかなかった。
日本の艦隊が西部の海域に進出してきたときには、潮流が渦巻く狭い難所「鳴梁海峡」で待ち伏せ、藤堂高虎が派遣した来島通総が率いる船団を寡兵で撃破するが、戦力が違いすぎるため、夜には撤収している。
この戦いは韓国では「鳴梁大戦」と呼ばれ、李舜臣が日本の大艦隊を壊滅させたと喧伝されているが、軍船20倍、兵力200倍というレベルで誇張されている。

日本軍が築いた三つの城を明(中国)軍が大兵力で攻めた戦いでは、小西行長の守る順天城を海から攻撃。
明の水軍が座礁して大被害を出したこともあり、攻撃はうまく行かなかったが、豊臣秀吉の死で撤退しようとする小西軍の退路を封鎖。
そして救援に来た島津義弘立花宗茂の船団を待ち伏せして急襲し、島津軍の旗艦を大破させ、島津義弘を窮地に陥らせた。
だが、孤立した明水軍の副将を救援しようとして突出し、自らの船も包囲され、乗り込んできた日本兵に銃撃されて戦死した。

李舜臣は映画などでは大決戦を演じているが、実際には敵の輸送船や中継地への襲撃が多く、艦隊戦を挑むときには有利な海域で待ち伏せ、そして打撃を与えると敵の本体が来る前にサッと退くという戦い方をしている。
彼に与えられていた戦力は多くなく、無謀な決戦を挑むようなことは(釜山への強襲以外)していない。だからこそ名将だったと言えるだろう。

元均

(げんきん、ウォンギュン) 
朝鮮の海のやられキャラ

朝鮮出兵時の朝鮮水軍の総司令。しかし良いところなく負けまくり、李舜臣と対立したおかげで後世ボロボロに批判されまくっている朝鮮の残念提督。
勇猛果敢な将軍で、朝鮮半島の北にいた女真族との戦いでは活躍していた。

しかし日本軍が攻めてくると、日本のオーバーテクノロジー兵器「火縄銃」の威力もあって砦は次々と陥落、艦隊を釜山港に撤収させるが、釜山港は陸海共同の攻撃を受け船団は焼き討ちされて炎上。
残った船も鹵獲を恐れて自ら沈めたため、朝鮮の主力艦隊はいきなり壊滅してしまった。
すぐに別方面の水将である李舜臣と李億祺に救援を求めるが、仲が良くなかったこともあってシカトされる。

その後は李舜臣の水軍に合流し、共に脇坂安治の水軍などを撃破するが、一度目の朝鮮出兵が終わると李舜臣を讒言(批判・中傷)した。
これによって李舜臣が失脚すると、再び水軍の総司令に復帰する。
しかし二度目の朝鮮出兵が始まってしまい、日本軍を散発的に攻撃するも戦果は挙がらず、総大将の権慄に鞭打ちにされる。

その後は釜山港の西にある「巨済島」に上陸するが、それを察知した日本軍に陸海から奇襲され、再建されたばかりの艦隊は再び壊滅、島にいたため逃げ場がなく、多くの将兵が戦死して自身も討ち取られてしまった。
韓国では敗因を「元均が消極的すぎたから」としている。

戦いでは良いところがないが、当初はやる気なしで命令違反も多かった李舜臣とは違い、開戦から戦死まで陣頭で指揮を採っており、近年は再評価されているという。

李億祺

(りおくき、イオッキ) 
李舜臣や元均の同僚

朝鮮水軍の指揮官の一人。当時の朝鮮王朝(李氏朝鮮)の親族にあたる。
しかし朝鮮出兵の初戦で元均から救援を求められた際には、李舜臣と同じく応じなかった。
その後は李舜臣の船団に合流し、一度目の朝鮮出兵の間は共に活動している。
戦後に李舜臣が一兵卒に降格される「白衣従軍」にされると、その処分に反対した。

二度目の朝鮮出兵では元均の配下として行動するが、そのため元均が巨済島の戦い(漆川梁海戦)で敗北した際、共に戦死した。

権慄

(ごんりつ、クォンユル) 
一度は勝った朝鮮官軍の総大将

朝鮮出兵における陸の朝鮮軍は連戦連敗だが、官軍(正規軍)の中で唯一善戦したことがある、朝鮮の指揮官。
一度目の朝鮮出兵では全羅道(半島南西の山岳部)の大将を勤めており、李如松が平壌(ピョンヤン)を攻略したのを受けて、南北から漢城(ソウル)を挟撃し、奪還しようとした。
そして漢城の近くにあった幸州山城に入るも、李如松は漢城の手前で敗戦。
返す刀で攻め寄せた来た日本軍を一度は撃退し、宇喜多秀家吉川広家を負傷させるが、そのまま守り切ることは困難と判断し、幸州山城を放棄して後退した。

日本が本格的に全羅道への進軍を開始すると、拠点である晋州城で守るか、打って出るかで朝鮮軍の意見は割れる。
権慄は城から打って出る案を主張して出陣するも、 兵士が銃声を恐れて壊走してしまい、そのまま後方まで撤退。 晋州城も落とされてしまった。
だが、郭再祐が率いる義勇軍のゲリラ戦もあって、全羅道は一度目の朝鮮出兵で唯一、日本軍の占領を免れた。

二度目の朝鮮出兵では総司令となっており、開戦当初に元均が消極的だったのを見て、鞭打ちの刑にしたという。
しかし結果として元均は敗北し、あっという間に制海権を失う。
しかも二度目は全羅道も守り切れず、一度目以上の敗戦が続いた。
その後、加藤清正が守っていた「蔚山城」を明軍と共に攻撃するが、日本軍の奇襲に遭って大敗。
再び明軍の大反攻に加わって小西行長が守る順天城を攻撃するが、これも失敗している。

幸州山城の戦い以外は負けまくりだが、それでも最後まで戦い続け、めげずに兵士を鼓舞したため、近年は元均と共に再評価されているという。

金徳齢 & 郭再祐

(キムドンリョン、カクジェウ) 
朝鮮ゲリラ義勇軍

どちらも一度目の朝鮮出兵(文禄の役)で、全羅道(朝鮮南西部)で活躍したという義勇兵長。
朝鮮の将軍は家柄が重視されていた事もあって実力に劣り、彼等のような義勇軍(正規兵ではない蜂起した民兵)の方が活躍していた。
しかし朝鮮官軍からは冷遇されており、反乱軍(一揆)とみなされることもあった。
朝鮮出兵の初期には朝鮮王朝に対する農民一揆が多発したため、区別が付かなかったのもあるようだ。

金徳齢は小柄だが俊敏、卓越した能力を持っていたとされ、日本軍は彼の顔を見ただけで恐れて撤収した…… ということに韓国ではなっているが、日本の記録には彼の名も、そんな話もない。
韓国では「翼虎超乗将軍」という称号を与えられ、「忠勇軍」という義勇兵団を率い、忠壮という贈り名を与えられたとされている。

郭再祐は最初に義勇軍を組織した人物で、緋色の軍服を着ていたため「天降紅衣将軍」という異名を持ったという。贈り名は忠翼。
全羅道で展開された朝鮮民兵のゲリラ戦の指揮官で、日本の物資輸送を妨害し、また影武者戦術という戦法で安国寺恵瓊を撃退したとされる。
権慄などの士官がさっさと逃げようとした時も、郭再祐だけは抵抗したという。

ただ、義勇兵の多くは身分の低い農奴であり、正規軍ではないため報酬や出世は乏しく、高貴な将軍や官吏からの妬みと嫌悪もあって、戦後は不遇であったという。
金徳齢は謀反の濡れ衣を着せられ、投獄の末に処刑された。
郭再祐は二度目の朝鮮出兵まで戦うものの、出世を拒み、のちに朝鮮王朝の派閥争いに巻き込まれ、農民に戻ったという。

李如松

(りじょしょう) 
中国武侠物語的将軍

一度目の朝鮮出兵「文禄の役」に派遣された明(中国)の大将。
このとき参加した4万に及ぶ兵士はすべて私兵であり、精鋭無比の強さを誇ると言われた中国の武侠小説を地で行く人物。
李家は中国北東部を統括した大きな武家であり、東李西麻(東の李家、西の麻家)と言われていた。

小西行長が守る平壌(ピョンヤン)城を包囲し、火器で城壁を崩すと、鉄砲による待ち伏せを警戒し、包囲の一部をわざと解いて日本軍を撤退させ、追撃戦を行った。
これにより日本軍は大きな被害を受け、朝鮮で初の大敗を喫する。

しかし、そのまま漢城(ソウル)に迫るも、待ち構えていた石田三成小早川隆景立花宗茂黒田長政宇喜多秀家などの西国オールスターに「碧蹄館の戦い」で敗れ、明と日本が停戦すると後退、帰国した。
練度や武装の違いもあったが、李如松が平壌で日本の主力は壊滅したと思っていたこと、狭い沼地での戦闘となり軽騎馬が中心の明軍では不利だったことも敗因であったようだ。
二度目の朝鮮出兵には参加しておらず、中国内で他民族と戦っていたが、伏兵に遭って戦死した。

なお、陥落させた平壌城には朝鮮の民衆が大勢避難しており、城で死んだ者、追撃された者の多くは朝鮮の民で、そのため現代になっても朝鮮での李如松の評判は最悪である。
神罰を受けた挙げ句、名もない少女に追い出された、といった伝承まで作られている。
日本と戦った後、再戦することを拒み、朝鮮の使者に「お前等が自分で戦え」と言った事も悪評の要因のようだ。
一方、中国では名将として讃えられている。

沈惟敬

(しんいけい) 
偽装工作がバレた再戦の元凶

最初の朝鮮出兵「文禄の役」のあとに終戦交渉を行った、明(中国)側の代表者。 日本側の代表は小西行長
(朝鮮王朝は中国の属国であったため交渉権なし)
自称「日本通」で、弁舌に優れ、自ら立候補して交渉の担当になった。

しかし日本も明も「自分が勝った」と思っていたため(日本としては連戦連勝、明としては相手が撤収して終わった形)、交渉は暗礁に乗り上げてしまう。
そのため小西行長と語らって、書状の内容を書き変えてしまう偽装工作を開始。
これにより交渉は進展するが、明の使者が日本を訪れた際、欺瞞外交を行っていたことが発覚してしまう。
そして秀吉は明が負けたつもりも、譲歩するつもりがないことも知り、交渉は決裂、二度目の朝鮮出兵が決まってしまった。
書状の偽装が行われたことは明でも発覚し、沈惟敬は日本に逃亡しようとするが、捕まって処刑されている。

董一元

(とういちげん) 
鬼シマヅにボコられた明軍大将

二度目の朝鮮出兵「慶長の役」の終盤、明(中国)の大軍が三方に分かれ、三ヶ所の日本軍の城に同時攻撃をかけた際に、中央の島津軍が守る「泗川新城」を攻めた、この攻勢における明軍の総大将。

一度目の朝鮮出兵「文禄の役」の頃に中国の北部で起こっていた、モンゴルの支援を受けた反乱「ボハイの乱」の鎮圧で活躍した。
その功績で明の大反攻の総大将になるが、島津軍の川上忠実の急襲で兵糧庫を焼き討ちされ、長期戦が出来なくなり、総攻撃を行うも鉄砲の一斉掃射を受けて壊滅、さらに火薬庫が爆発する事故で大混乱となり、打って出てきた島津義弘にボコボコにされ、明軍は溶けるように消えていったという。
そして董一元の率いていた中央軍は明の主力であったため、これが壊滅したことで他の方面軍も撤退、明と朝鮮の反攻は失敗に終わった。

なお、彼には「董一奎」という兄がいて、本来なら彼が日本との交渉を行う予定だったが、石星という政治家が沈惟敬を推薦したため、お流れになった。
のちに沈惟敬が外交文書の偽装を行って交渉が決裂、二度目の朝鮮出兵を招いてしまったため、人々は「董一奎が交渉していれば……」と無念がったという。
ちなみに、石星も欺瞞外交の責任を取らされ獄中死した。

楊鎬

(ようこう) 
加藤清正に撃たれまくる明軍大将

二度目の朝鮮出兵「慶長の役」で、建設中の蔚山城を攻撃した「第一次 蔚山城の戦い」における明の朝鮮派遣軍の大将。
約5万(4万~7万)と言われる大軍で、当初は数百人に過ぎなかった未完成の蔚山城を包囲するが、加藤清正の奮戦と鉄砲隊の一斉掃射で大被害を受け、小早川秀秋吉川広家蜂須賀家政黒田長政などの来援に奇襲されて敗北した。
しかも釜山から漢城(ソウル)までの長い退路で追撃に遭いまくり、壊滅的な状態となる。
にも関わらず、明の本国には「勝ちました」と大本営発表していて、バレて解任された。

のちに軍務に復帰し、後金の君主で清の初代皇帝となる「ヌルハチ」と明軍が戦った「サルフの戦い」で明の総大将を務め、軍勢を4つに分けて敵を包囲しようとするも、包囲完成前に各個撃破される銀英伝のような負け方をして、ついに処刑された。

麻貴

(まき) 
加藤清正に撃たれたくない明軍大将

二度目の朝鮮出兵「慶長の役」の終盤、明(中国)の大軍が三方に分かれ、それぞれ日本軍の城を攻めた際の、蔚山城攻撃軍の大将。
中国には東西に大きな武家があり、東李西麻(東の李家、西の麻家)と言われていたが、その麻家の方。
ウイグル族の出身で、一度目の朝鮮出兵の裏で行われていた、モンゴルの支援を受けた反乱「ボハイの乱」の鎮圧で活躍した。

楊鎬が総指揮を採った一度目の「蔚山城の戦い」にも参加していたが、このときは大被害を受けて敗退。
そのためか二度目の「蔚山城の戦い」では、慎重に行動している。
だが、城が完成していて加藤清正もガッチリ守っており、どんなに挑発しても出て来ず、そうこうしているうちに中央の董一元の本隊が島津軍に敗れたため、大して戦わずに退却した。

一応、「日本軍の偽りの退却に引っかかり伏兵に遭って敗北した」「賊軍の弾丸が雨のように降り注ぎ、天兵の被害は計り知れない」といった報告が出されており、攻勢に出て被害を受けたりはしていたようだ。
日本軍の撤収後、蔚山城を接収しており、比較的被害が少なかったこともあって、明では戦功第三位とされている。
(一位は明水軍の大将「陳璘」だが、彼の功績はほぼ李舜臣によるもので、大した活躍はしていない。二位は劉テイ

劉テイ

(りゅうてい) 
忠壮「劉大刀」

中国の明代末期の勇将。父は倭寇(海賊)の討伐で活躍した将軍だった。
120斤(72kg)の大刀を軽々と振り回す豪傑で「劉大刀」の異名を持つ。
「テイ」の字は「糸」へんに「延」。

南蛮(ビルマ地方の王朝)との戦いや、国内の反乱の鎮圧などで武功を挙げる。
一度目の朝鮮出兵では李如松の軍と合流するが、すでに彼が後退した後だったので、まだ抗戦していた半島の南西部「全羅道」の防衛にあたった。
そして日本の小早川秀包の軍勢を撃退し、救援に来た立花宗茂には敗れるも、以後も防戦を続ける。
そのまま明の朝鮮駐留軍となって、終戦交渉中に起こっていた小競り合いを繰り広げた。
この頃、沈惟敬小西行長が交渉を行っていたが、彼は独自に加藤清正と、別ルートでの交渉を行っていたという。

二度目の朝鮮出兵「慶長の役」の終盤、明(中国)の大軍が三方に分かれて日本軍の城を攻めた際には、小西行長が守る順天城の攻撃を指揮したが、多数の攻城兵器を用いるも迎撃されて失敗。
その開戦前、交渉するふりをして小西行長を誘い出し、捕らえようとして逃げられる一幕があった。
秀吉の死で日本軍が撤退の気配を見せると、再び順天城に向かい、今度は正式に交渉して停戦に合意、小西行長に人質を送り、小西軍の脱出後に城を接収した。

その後は四川(中国中央南部)で起こった大規模な反乱の鎮圧を行うが、このとき彼の軍には降伏した日本兵の部隊がいて、鉄砲や大砲を扱って活躍したという。
他に東南アジアの民族の部隊も参加しており、人種を問わず重用する寛容さを持っていたようだ。
しかし後年、何があったのか長官をぶん殴る事件を起こしてしまい、一時的に更迭された。

のちに後金(現在の吉林省、満洲)の君主「ヌルハチ」と明軍が戦った「サルフの戦い」で将軍として復帰するが、軍を4つに分ける楊鎬の作戦が裏目に出て、部隊は各個撃破されていく。
劉テイの部隊は深くまで進軍していたため撤退することができず、そのままヌルハチ軍に敗れ、戦死した。
明が倒れ、清の時代になると「忠壮」の贈り名を与えられている。