関ヶ原・西軍の皆さん
戦国後期の名将たち
跡を継げなかった者たち
三英傑(織豊+徳川)家臣、追加分
戦国の女性、追加分
地方の戦国大名
地方の名将たち
朝鮮と明(中国)の方々
石田 三成(いしだ みつなり)西軍大将。大一大万大凶吉秀吉の懐刀。そして「関ヶ原の戦い」における西軍の実質的な総大将。 お寺に奉公していた少年時代、寺に立ち寄った秀吉がお茶を所望したところ、一杯目は飲みやすいぬるめのお茶を、二杯目はそれより少し熱いお茶を、三杯目は茶葉を入れ替えて熱いお茶を出し、その心遣いに感心した秀吉が小姓として貰って帰ったという「三献茶」の話が有名だ。 成人して正式に秀吉の家臣になると、検地や経理、交渉などの政治的な任務で手腕を発揮、秀吉から「百万石を与えよう」と言われるほど高く評価された。 そして朝鮮出兵の際に加藤清正と意見が対立、第二次朝鮮出兵には不参加だったが、彼が秀吉に伝えた報告が武将たちの反発を招き、朝鮮出兵のあとに恨みを持った七名(もしくは十名)の武将から襲撃される「石田三成暗殺未遂事件」を起こされてしまう。 昨今、SNSを中心に(ネタ的に)大きな人気が出ている。 |
大谷 義継(おおたに よしつぐ)三成との友情に殉じた義臣石田三成と共に「関ヶ原の戦い」で西軍として挙兵した、三成の親友。通称は刑部。 石田三成は西軍の挙兵を決断した後、大谷義継に真っ先に相談した。 関ヶ原の本戦では寝返る危険のあった小早川秀秋の近くに布陣し、彼等ににらみを利かせ、案の定、秀秋が寝返った際にはこれを押し止めて一時後退させる。 ハンセン病の患者であったことから、絵画や漫画、ゲームなどには包帯ぐるぐる巻きか、布で肌を覆った姿で登場することが多い。 |
小西 行長(こにし ゆきなが)裏目裏目の商人大名石田三成と共に「関ヶ原の戦い」における西軍挙兵の計画を立てた、三成の盟友。 貿易商の知識があったことから船奉行となり、交易を統括。 ところが秀吉が「朝鮮出兵」を始めてしまい、朝鮮通だった小西行長は先鋒と交渉役を任される。 一度目の朝鮮出兵が終わった後、和平交渉を担当するが、交渉を早く進めようとして明(中国)側の代表「沈惟敬」と共謀し、相手が降伏すると偽った外交文書の偽装を行うも、見事にバレて秀吉激怒、二度目の朝鮮出兵を招いてしまう。 彼は私財をすべてキリスト教系の病院や孤児院、教会の建設に費やしていたため、豪商だったにも関わらず、財産は全く残っていなかったという。 |
安国寺 恵瓊(あんこくじ えけい)毛利と西軍を操る外交僧毛利家の外交僧。「本能寺の変」や「関ヶ原の戦い」など、戦国の重要な場面に大きく関わった人物。 「本能寺の変」の際、秀吉は戦っていた毛利家と手早く講和し、近畿地方にダッシュで戻る「中国大返し」を行っているが、安国寺恵瓊はこのときの交渉を担当、さらに毛利内で「秀吉を追撃するべきだ!」という意見が出ると、これを小早川隆景と共に押し止め、毛利家を秀吉派の大名として存続させた。 「朝鮮出兵」には武将と交渉役を兼ねて参加し、現地の子供たちに読み書きを教えたりもしていた。 「関ヶ原の戦い」では石田三成らと挙兵の計画を立て、毛利家の大名「毛利輝元」を西軍の総大将として担ぎ出す。 |
長束 正家(なつか まさいえ)帳簿のプロも戦は計算できず豊臣五奉行にして高い算術能力を持つ有能な行政官。そして石田三成と共に「関ヶ原の戦い」の計画を立てた一人。 関ヶ原の前、徳川家康が上杉家の征伐に出陣しようとした際には、前田玄以と共に止めようとしており、この時点では対立していなかったとされる。 しかし徳川家康の本隊が「関ヶ原」に迫ってくると、伊勢湾でこれを足止めしようとするも、少数の船団を本隊と見誤って退却。 |
増田 長盛(ました ながもり)戦う官僚。西軍の中枢かと思いきや……石田三成や長束正家と共に豊臣家の官僚として活躍した豊臣五奉行のひとり。 「関ヶ原の戦い」の開戦が決定的になると、石田三成・前田玄以・長束正家と共に家康を弾劾する「内府ちかひ(違い)の条々」を発表し、さらに家康の家臣である鳥居元忠が籠もっていた伏見城を攻撃する。 戦後は領地没収となるが、一命は許され、徳川家の重臣である高力清長に預けられる。 江戸時代の書籍には、以下のようなエピソードが記されている。 |
小早川 秀秋(こばやかわ ひであき)天下を決した大裏切り男「関ヶ原の戦い」で勝敗を決定付ける裏切りを行った、天下の趨勢を決めた男。 秀吉と淀の二人目の子である拾丸(豊臣秀頼)が産まれたため、後継者から外されて小早川家に養子に出されたが、以後も豊臣家の重要な地位にあった。 そして関ヶ原の戦いが起き、当然のように西軍の石田三成、東軍の徳川家康の双方から、味方になるよう説得工作を受ける。 戦いが始まってもしばらくは静観して(迷って)いたが、しびれを切らした東軍・徳川家康からの銃撃を受け、「家康が怒ってる!」とビビって東軍に寝返り。 余談だが、現存している木像や肖像画は風評のためか、いかにも情けなく描かれている。 |
宇喜多 秀家(うきた ひでいえ)西軍で唯一活躍したイケメンお坊ちゃま備前(岡山)の大名「宇喜多家」の跡継ぎだが、秀吉にたいそう可愛がられており、「秀」の字を与えられて「秀家」と名乗り、前田利家の娘「豪姫」を妻に迎え、豊臣一門としての扱いを受けるほど優遇されていた。 「関ヶ原の戦い」では石田三成の挙兵に呼応し、西軍最大の17000人の兵力を率いて参加、東軍の福島正則の部隊と激しく戦った。 関ヶ原での敗戦後は東軍に追われる身となるが、ここで彼のカリスマが発動。 その後、縁のあった武将からの援助を受けながら、八丈島で84才まで長生きしている。 |
毛利秀元 & 吉川広家(もうり ひでもと、きっかわ ひろいえ)お弁当が空だった人々「関ヶ原」で徳川本陣の後方という絶好のポジションに陣取りながら、最後まで動かなかった毛利軍を率いた武将。 どちらも朝鮮出兵で毛利軍を率いて活躍しており、特に加藤清正の籠もる「蔚山城」を救援した戦いで、明(中国)&朝鮮の大軍を夜襲で大混乱させ、戦いを勝利に導いた。 「関ヶ原の戦い」では石田三成&安国寺恵瓊が毛利家の大名「毛利輝元」を西軍の総大将に担ぎ出し、徳川家康に対して挙兵しようとするが、吉川広家はこれに猛反対、安国寺恵瓊と大坂城で激論を戦わせた。 そして関ヶ原の本戦、毛利軍の先頭に陣取った吉川広家は、戦いが始まっても1歩も動かなかった。 毛利秀元は戦後、毛利輝元に徹底抗戦を訴えているため、やる気はあったと伝えられているが、吉川広家の行動を黙認していたとも言われる。 |
真田 信繁(さなだ のぶしげ)六文銭の名将「真田幸村」「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と呼ばれた、数々の戦記物語の主人公「真田幸村」のこと。 徳川キラーとして有名な謀将「真田昌幸」の子で、「幸村」の名の方が有名だが、本来の名は「信繁」。 15~18才の頃に真田家が上杉家の後援を受ける際、上杉家の後継者「上杉景勝」の元に人質に出されていた。 そして「関ヶ原の戦い」の際、父の昌幸が徳川陣営から脱退し、上田城で籠城すると、真田信繁(幸村)もこれに従い、のちに二代将軍となる徳川秀忠が率いる東軍の大軍勢を、少数の兵で長期間足止めする。(第二次 上田合戦) それから約13年間に渡って真田信繁(幸村)は高野山の九度山で隠棲し、父の昌幸はその間に死去するが、1614年に徳川家が豊臣家を攻めた「大坂の陣」が起こると豊臣家に迎えられる。 大坂城では籠城ではなく、各地で遊撃する積極策を後藤又兵衛と共に進言したが、豊臣秀頼の母であり実権を握っていた「淀」に却下されたという。 大坂・夏の陣では総大将である豊臣秀頼の出陣を懇願したと言うが、やはり淀に却下される。 その人気は江戸時代にさらにヒートアップ、彼を主人公とした「真田十勇士」などの物語が作られ、様々な形で今に語り継がれていった。 |
真田 信之(さなだ のぶゆき)幸村のアニキ「信幸」真田昌幸の長男。 元の名は「真田信幸」で、「信之」は関ヶ原の戦いで東軍となり、父や弟と決別した際に名乗ったものと言われているが、また信幸に戻したりしている。 「本能寺の変」によって織田信長が倒れ、甲斐信濃から織田軍が撤退すると、その隙に真田家は独立するが、このとき信幸(信之)は親密だった前田慶次から信長の死を聞いたと言われており、甲斐から撤退する滝川一益の軍勢を支援したという。 真田家が豊臣家の斡旋で周辺の大名と和睦すると、徳川家の重臣で戦国きっての猛将「本多忠勝」の娘「稲姫(小松姫)」と結婚。 そして徳川秀忠の軍勢に加わり、かつて守った真田家の上田城に迫るが、戸石城を守る真田信繁(幸村)に降伏勧告を行い、信繁(幸村)がこれに応じて退城したため、兄弟対決は起こらなかった。 その後は病気がちになり、あまり表舞台には出ていない。 |
黒田 官兵衛(くろだ かんべえ)秀吉の軍師「両兵衛」の黒い方竹中半兵衛と共に秀吉の軍師を務めた、戦国きっての"切れ者"。 元は姫路の大名「小寺家」に仕えていたのだが、当時の播磨(兵庫南部)は小寺・赤松・別所・明石・浦上・池田などの諸勢力が争っていて混沌としていた。 しかし足利義昭が京都から追放されて毛利家の元に向かい、彼等の策謀で丹波(兵庫中部)の波多野家、大和(奈良)の松永久秀、摂津(大坂)の荒木村重が相次いで信長に反逆すると、小寺政職もそれに乗じて織田家から離反しようとした。 救出された後は正式に織田家に所属し、秀吉の軍師となって、中国地方への進軍を軍略でサポート。 その後も対明智光秀戦「山崎の合戦(天王山の戦い)」で活躍し、対徳川家康戦「小牧・長久手の戦い」では和歌山から大坂に進軍してくる雑賀・根来の軍勢を撃退、四国征伐や九州征伐でも重要な立場を任された。 そして「関ヶ原の戦い」が起こると、石田三成と徳川家康の対立が大合戦になることを早くから予見していた官兵衛は、いち早く九州で挙兵。 彼は秀吉が死んだ頃、吉川広家に「こういう時は戦になる。そのつもりでいるべし」という手紙を出しており、西軍挙兵の気配を察すると東軍入りの準備を進めながらも、西軍の加勢に向かう軍勢の領内通過を認めていて、さらに関ヶ原の本戦で活躍して褒美をもらった息子の黒田長政が帰って来たときに「ほぅ、その褒美をもらうとき、もう一方の手は何をしていた?」と、「なぜ家康を刺して来なかった」と暗に伝える言葉を吐いたことから、関ヶ原を利用して勢力の拡大を狙っていた、あわよくば天下を目指していたとも言われている。 死の際には黒田長政に、一方は草履、一方はゲタの履物を残し、「もし間違って履いても、そのまま駈け出せ。好機は逃すな」という決断力の大切さを伝えたという。 |
黒田 長政(くろだ ながまさ)黒く染まらなかった官兵衛の子黒田官兵衛(如水)の長男。通称は黒田吉兵衛。のちの福岡藩50万石の大名。 父と共に秀吉に仕え、「賤ヶ岳の戦い」や「九州征伐」など秀吉の各地の合戦に参加。 関ヶ原の戦いの際には、その直接の要因となった「石田三成暗殺未遂事件(七将襲撃)」に参加、さらに福島正則を説得して東軍に付け、小早川秀秋の説得も行った。 ただ、二世武将であったためか、他の武士からは軽く見られていた逸話も多い。 しかし真面目で、旧来の武士のように尖っていなかったからこそ、秀吉や家康に重用されていた節があり、父に似ないその様は戦国武将から近世大名(江戸期の大名)への脱却の模範とも言われている。 |
細川 忠興(ほそかわ ただおき)殺戮嫉妬ヤンデレ文化人将軍家に仕え、文武に優れた細川藤孝の長男にして、その跡継ぎ。 若い頃に丹後(京都最北部)の大名「一色家」を攻めた際に、一色家の当主を城に呼び寄せて暗殺し、そのまま丹後を攻めて一族を討伐するが、その後に一色家に嫁に行っていた妹に斬りかかられて、鼻に一生消えない傷を負った。 そして妻「細川ガラシャ」(明智光秀の娘「玉」)への愛情はもはや常軌を逸しており、ガラシャの近くにはネコでさえオスを近付けず、話をしたというだけで庭師を斬り捨て、その首をガラシャに投げ付けたりした。 そんなガラシャは「関ヶ原の戦い」で夫が東軍に付くと、西軍の人質にされてしまい、「夫の邪魔になってはいけないから」と自ら屋敷に火を放って自害した。 そんな細川忠興も、後年は落ち着いたようだ。 |
蒲生 氏郷(がもう うじさと)ヤバい奴に絡まれる苦労人六角家の家臣「蒲生賢秀」の子で、文武両道の名将だが、細川忠興や伊達政宗など、厄介な奴にやたら絡まれた人。 14才で初陣してからは各地の合戦で活躍、武芸に秀で、儒教や仏教を学び、茶道に通じ、千利休の弟子「利休七哲」の一人にも数えられている。 小田原征伐の後、伊達家の旧領(その前は蘆名家の領土)だった会津を治めることになる。 そして案の定、伊達政宗からちょっかいを出されまくる。 そんな蒲生氏郷だが、40才であっさり病死してしまう。 |
後藤 又兵衛(ごとう またべえ)黒田武士の槍使い戦国時代の後期に活躍した槍使いであり、黒田官兵衛・黒田長政が当主を務めた「黒田家」の武士。 朝鮮出兵や関ヶ原の戦いで活躍し、武勇だけでなく軍略も評判であったが、黒田長政と方針を巡って仲違いし、黒田家を出奔。 しかし「大坂の陣」が起こると豊臣家から招かれ、大坂城に入城。 だが、「大坂・夏の陣」で徳川軍の迎撃に向かう際、他の部隊が霧で進軍が遅れて孤立。 |
母里 太兵衛(もり たへえ)黒田節の槍使い戦国時代の後期に活躍した槍使いであり、黒田官兵衛・黒田長政が当主を務めた「黒田家」の武士。 後藤又兵衛と同じ播磨(兵庫南部)出身で、当時の播磨は激しい争乱の中にあり、その中で勇名を高めた。 後藤又兵衛は関ヶ原の後に黒田家を出奔するが、母里太兵衛は黒田家に忠実に仕え続けている。 |
織田 信忠(おだ のぶただ)死んではいけなかった信長の嫡男織田信長の長男。生誕時の顔が奇妙だったからという理由で「奇妙丸」と名付けられていた。 織田家の跡継ぎとされ、武田攻めが始まると、その総大将となる。 しかし「本能寺の変」で織田信長が明智光秀に討たれた際、織田信忠も京都にいたため、これに巻き込まれる。 このとき、逃走を勧めた家臣もいたが、信忠は「明智光秀ほどの者が退路を塞いでいないわけがない。無様に逃げようとして途中で討ち取られることこそ無念だ」と言い、城で戦った。 |
織田 信雄(おだ のぶかつ)うつけ(だけ)を受け継いだ信長の子織田信長の次男。髪がお茶を混ぜる茶筅(ちゃせん)に似ていたという理由で「茶筅丸」という幼名にされた。 「うつけもの」と評判で、失態する度に「三介殿(信雄)のなさる事よ」と呆れられており、ルイス=フロイスの「日本史」にも「知恵が劣っていた」とストレートに書かれている、まさにバカ殿。 翌年、信長は織田信雄に大軍を率いさせ、伊賀へのリベンジの機会を与えるが、「本能寺の変」によって信長は明智光秀に急襲され戦死。 織田家の後継者を決める「清洲会議」では誰にも支持されず、柴田勝家が三男の織田信孝を支持したため、秀吉に協力するが、それは秀吉の権力を高めただけで終わった。 信長死後の行動は、彼なりの織田家存続の戦略だったと見る、好意的な説もあるが…… |
徳川 信康(とくがわ のぶやす)嫁姑問題で死んだ悲運の子戦国の謎のひとつ「信康事件」で自害させられた徳川家康の長男。 事の起こりは、築山殿と五徳姫が不仲になり、五徳姫が父の信長に築山殿を讒言する手紙を出したことから始まる。 実際には、織田信長は「家康の思う通りにしろ」と言ったようだが、徳川家康としては「じゃあ、なかったことにしますね」とは言えないので、最大限の処罰をせざるを得ず、それで信長に恭順の姿勢を見せたと言われている。 徳川信康は勇猛果敢で、武田家との戦いで武勲を挙げており、評判は高かった。 なお、築山殿や徳川信康には生存説もある。 |
結城 秀康(ゆうき ひでやす)なぜかSSR武器を貰う冷遇された家康の子徳川家康の次男。徳川信康の弟であり、二代将軍となる三男「徳川秀忠」の兄。 長男の徳川信康が死罪となり、次男なのだから、本来なら跡継ぎになるはずなのだが、当時は忌み嫌われていた双子だったためか、それとも女中に手を出して生ませた子だからか、家康に冷遇というか、ほぼ無視されており、本多重次の知人の家で育てられた。 徳川信康が切腹させられる「信康事件」が起こると、秀吉の元に人質に出される。 秀吉と淀の間に子ができて豊臣家が養子の整理を始めると、北関東の大名「結城家」に再び養子に出され、以後は「結城秀康」となる。 石田三成と親交があり、「関ヶ原の戦い」の前に三成が福島正則や加藤清正などに襲われた「石田三成暗殺未遂事件」(七将襲撃)の際に、三成を匿ったと言われている。 そして徳川家康の会津征伐(上杉攻め)に従軍、その隙に石田三成が挙兵して「関ヶ原の戦い」が始まると、結城秀康は家康から北関東で上杉家や佐竹家を押さえるよう命じられる。 関ヶ原の戦いの後、越前(福井)75万石の大名となり「松平秀康」となる。 |
豊臣 秀次(とよとみ ひでつぐ)養子を貰ったら実子が産まれるパターン戦国の大事件のひとつ「秀次事件」で自害させられた豊臣秀吉の跡継ぎ候補。 秀吉が天下人になった頃に秀吉の元に戻り、豊臣秀次を名乗る。 しかも彼は「殺生関白」と呼ばれるほど人を殺すことを好み、罪人を斬ることに飽き足らず、農民を鉄砲で撃ったり、辻斬りを繰り返していたと言われる。 彼の罪状は秀吉側の言い分であって、実際に彼が農民を殺したり、謀反を企んでいたかは疑問である。 一方で、フロイスは「人を平気で虐殺する。小鳥もそれ以上は細かくできないというほど人を切り刻む。その様はローマの暴君ネロ帝やカリグラ帝をも凌ぐほどである」とも記載しており、殺生関白と言われるような性質があったことも確かなようだ。 |
三好義継 & 三好長治 & 十河存保(みよしよしつぐ、みよしながはる、そごうまさやす)三好残念跡継三人衆「日本の福王」とも言われた三好長慶の跡継ぎトリオ。しかしそろって残念な結果に終わった。 三好家の支配地は最盛期、四国東部と近畿中央部に及んでいたが、近畿の三好家の後継者となったのが「三好義継」だ。 「三好長治」は三好長慶の弟である三好義賢の子で、四国の三好家の後継者となる。母は「烈女」として知られる小少将。 「十河存保」は三好義賢の次男だが、十河家に養子に出されており、十河一存が育ての父だった。母は小少将。 |
森 可成(もり よしなり)信長を支えた攻めの三左可成・長可・蘭丸と、三代で織田信長に仕えた森家の武将。十文字槍の使い手。 織田徳川軍と浅井朝倉軍が戦った「姉川の戦い」では、織田十三段陣の十一陣までを突き崩した磯野員昌の進撃を止めている。 |
仙石 秀久(せんごく ひでひさ)戦国史上最も失敗し、挽回した男戦国武将で名前が「センゴク」というキャッチーな男。 元は美濃の武士だったが「逃げっぷりの良さ」で信長に気に入られ、秀吉の直臣となる。 秀吉が四国を制圧すると、長宗我部元親や十河存保などの四国勢と共に、九州で島津家に攻められていた大友家の救援に向かう。 加えて、冬の寒い日に「戸次川」を無理やり渡って島津軍に突撃しようとし、例によって「いやいや、寒いって! 無謀だって!」と長宗我部元親&十河存保が止めるのを無視して特攻、案の定、島津軍にフルボッコにされて長宗我部家の跡継ぎ「長宗我部信親」と三好家の後継者「十河存保」を戦死させてしまう。 だが数年後、仙石秀久は20人の旧臣と共に、浪人として小田原征伐(北条攻め)を行っている秀吉の前に姿を現す。 「関ヶ原の戦い」の頃には徳川家康と親密になっており、進軍中の徳川秀忠を出迎えた。 |
中村 一氏(なかむら かずうじ)タコ召喚の豊臣三中老秀吉の重臣のひとり。出自は不明だが、元の名は「瀧孫平次」で、甲賀忍軍を形成した甲賀五十三家の多喜(瀧)家の出身とも言われている。 本願寺との戦いや、秀吉が明智光秀と戦った「山崎の合戦」、柴田勝家と戦った「賤ヶ岳の戦い」などに参加。 秀吉と家康が戦った「小牧・長久手の戦い」の際には、雑賀&根来衆の北上を阻止すべく大坂の岸和田城を守っていたが、敵の数が多くて窮地に陥った。 |
堀尾 吉晴(ほりお よしはる)鬼と仏の茂助「堀尾茂助」の通称で知られる秀吉の家臣。生駒親正、中村一氏と共に「豊臣三中老」を務めたとされる。 戦場では勇猛果敢で「鬼の茂助」と呼ばれたが、普段は温厚誠実な人柄で「仏の茂助」と呼ばれていた。 順調に出世し、秀吉と明智光秀が戦った「山崎の戦い」では、勝敗のポイントとなる「天王山」を中村一氏と共に押さえ、勝利に貢献した。 「関ヶ原の戦い」では行軍中の徳川家康を歓待したが、三河の豪族である水野忠重が石田三成の刺客説もある加賀井重望に酒宴中に殺害された際、その場に居合わせたため、加賀井重望と壮絶な斬り合いとなって、重望を討ち取るも重傷を負ってしまう。 |
水野 勝成(みずの かつなり)倫魁不羈(ヤバすぎて制御不能)近年「マジでヤバかった奴」「実は戦国最強では?」などの風聞で有名になっているガチの傾奇者。 武田家との戦いで15もの敵の首を取る戦功を挙げ、織田信長から感状と左文字の刀を与えられた。 そして水野勝成のハチャメチャ放浪生活が始まる。 最終的にどこにも仕官できなくなり、虚無僧になって中国地方を流浪するが、この頃も山賊団を乗っ取った、盗賊を全裸で追いかけてボコボコにした、陶芸家になったがすぐ上手くなって飽きて辞めたなど、様々な逸話を作る。 「関ヶ原の戦い」が近い頃、徳川家康に呼ばれて父と和睦し、水野家に復帰する。 関ヶ原の本戦には参加していないが、直前まで西軍の本陣であった「大垣城」を同時刻に攻めていた。 「大坂・夏の陣」では徳川家康から「お前もいい年だし大将なんだから、絶対に陣頭に立って槍を振り回したりするなよ。絶対するなよ」と言われ、お約束通り先頭で突っ込み、一番槍になる。 大坂の陣で抜群の戦功を立てた水野勝成だが、抜群の軍令違反でもあり、与えられた報酬は少なかった。 |
九鬼 嘉隆(くき よしたか)鉄甲船を率いた織田水軍頭領織田水軍の頭領として知られる、瀬戸内海の村上武吉と並ぶ海軍大将。 そして織田家と戦っていた本願寺の拠点「石山本願寺城」に補給を行っていた毛利家の「村上水軍」と激突。 本能寺の変の後は伊勢と尾張を支配していた信長の次男「織田信雄」に従いつつ、情勢を静観していたが、秀吉と徳川家康が戦った「小牧・長久手の戦い」の際に滝川一益に誘われて秀吉側に寝返る。 しかし「関ヶ原の戦い」で、自身は西軍に入り、息子を東軍に付かせる。 |
脇坂 安治(わきざか やすはる)豊臣水軍の指揮官豊臣秀吉の家臣。最初は浅井家、次いで明智光秀に仕えたが、その後に自ら希望して秀吉の家臣となった。 朝鮮出兵では単独で抜け駆けし、李舜臣の待ち伏せに引っかかって水戦で敗北する。 帰国後に起こった「石田三成暗殺未遂事件」では、彼も襲撃者に名を連ねている記録がある。 |
弥助(やすけ)信長お気に入りの黒人侍アフリカのモザンビーク出身と言われ、宣教師ヴァリニャーノの黒人奴隷となり、インドを経て来日した。 「十人力の剛力」「牛のような体」と記されており、信長には「愛嬌がある」と言って気に入られ、側仕えを務めることになった。 しかし信長と共に京都の本能寺に宿泊していたため、明智光秀の謀反「本能寺の変」に巻き込まれる。 その後の消息は不明だが、テレビ番組「世界ふしぎ発見!」の調査では、モザンビークの村に「ヤスフェ」という一般的な男性名があること、「キマウ」という着物のような衣装があることから、貿易船で帰国したのではないかと推測されていた。 |
ウィリアム・アダムス青い目のサムライ「三浦按針」イングランド(イギリス)の航海士。若い頃は船大工を目指していた。 しかし航海は散々で、1隻はポルトガル、1隻はイスパニアの私掠船(公認海賊)に拿捕される。 そして残った1隻が、なんとか九州に漂着する。 アダムスは帰国を願い出たが、家康は家臣になるよう説得し、以後は徳川家で外交や通訳を務め、数学や航海術、造船における欧州の知識を授けたという。 |
ねね多くの名将を育てた秀吉の奥さん羽柴(豊臣)秀吉の正妻。のちの「北政所」「高台院」。漢字では「寧々」。 秀吉は子供が出来にくい体質だったようで(右手の指が6本あり遺伝的に問題があったと思われる)、二人の間に子供は出来なかったが、加藤清正や福島正則、石田三成や黒田長政など、秀吉が気に入った子供たちを我が子のように養育し、名将に育てた。 信長に挨拶に行ったとき、秀吉が浮気性でしょうがないと話したようで、後日、信長から届いた手紙が非常に有名だ。 「本能寺の変」のときは秀吉の居城だった近江の長浜城にいて、明智光秀側に付いた阿閉貞征に攻め込まれるが、危機を感じて避難していたため難を逃れる。 秀吉が病死し、豊臣家が石田三成の文治派と徳川家康の武断派に分かれてしまうと中立の立場を取る。 一方で、佐々成政から送られた黒百合の一輪挿しを北政所が飾ったところ、しばらくして淀が大量の黒百合を部屋に敷き詰めるほど飾り、これが元で不仲になったという「黒百合事件」の話もあって、実際にどんな関係だったかは諸説ある。 関ヶ原の戦いの後は秀吉を弔う生活を送り、この頃から「高台院」と呼ばれるようになる。 なお、近年は「おね」と呼ぶケースが多く、そう書かれている手紙もあるのだが、「ねね」が「おね」になったり「淀君」が「淀殿」になったのは歴史界にフェミニズムの嵐が吹き荒れていた頃で、「ねね」が蔑称だとされた影響も強い。 |
淀 / 茶々(よど、ちゃちゃ)豊臣家を背負った浅井三姉妹の長女近江の大名「浅井長政」と、織田信長の妹「お市」の間にできた三姉妹の長女。「茶々」は幼名。 5才の頃に父の浅井長政が織田信長に攻め滅ぼされ、母のお市は柴田勝家と再婚するも、14才の頃に本能寺の変が起き、15才の頃に柴田勝家は秀吉に滅ぼされる。そして母も勝家と運命を共にする。 20才の頃に秀吉の側室となり、翌年に待望の秀吉の子「鶴松」を産むが、不幸にも鶴松は3才で病死。 ただ、多くの側室を持ち、ハーレム状態だったにも関わらず子供がまったく出来ず、しかも老齢となった秀吉に、切羽詰まったタイミングで相次いで子供ができたのだから、誰の目にも不自然で「秀吉の子ではないのでは……」と噂された。 そして秀吉が死に、「関ヶ原の戦い」が起こり、石田三成や長束正家といった豊臣家の重臣が敗死、徳川に味方した者が家康の元に移ると、当主の豊臣秀頼も幼いため、淀が豊臣家を背負うことになる。 こうして一発逆転を狙った「大坂の陣」が始まるが、淀は後藤又兵衛や真田幸村(信繁)が提案する積極策をことごとく拒否、大坂城で籠城するも、日々撃ち込まれる大砲に怯えてしまう。 なお、彼女は以前「淀君」と呼ばれていたが、フェミニスト的な意見が多発した頃に「淀君は蔑称だ! 遊女の名乗りであり、それを淀に付けたのは徳川の陰謀だ!」みたいな意見が出て来て、以後は「淀殿」と呼ばれるようになった。 |
初(はつ)名門に嫁いだ浅井三姉妹の次女近江の大名「浅井長政」と、織田信長の妹「お市」の間にできた三姉妹の次女。幼名は「おなべ」。 17才の時に、没落していたが名族であり、元は北近江の守護であった京極高吉の子「京極高次」と結婚する。 京極高次は「関ヶ原の戦い」で西軍に味方すると言いつつ、東軍に情報を流し、さらに西軍として出陣するふりをしてすぐに引き返すと、時間稼ぎのために籠城。 京極高次は関ヶ原の9年後に病死。 |
江(ごう)将軍の妻となった浅井三姉妹の三女近江の大名「浅井長政」と、織田信長の妹「お市」の間にできた三姉妹の三女。 大河ドラマの主人公になった割には、浅井三姉妹の中でもっとも経歴がハッキリしていない。 産まれた年に父の浅井長政が戦死しているため、お市が織田家に戻ってから産まれた説もある。 次いで豊臣秀次の弟である「豊臣秀勝」に嫁いだと言うが、これもどのような結婚生活であったかよくわからない。 表舞台に出てくるのは二代将軍となる徳川秀忠に嫁いでからだ。 大坂の陣の頃には、交渉がてら姉の初とよく話をしていたという。 |
まつ夫がヤンキーで苦労した利家の奥さん前田利家の正妻。のちの「芳春院」。2002年のNHK大河ドラマ「利家とまつ」の主人公の一人。 前田利家が(勝手に参加した)合戦で手柄を立て、織田家に復帰すると、2男9女、計11人の子をもうけた。 柴田勝家が北陸方面軍の大将となり、前田利家がその与力(配下)になると、共に金沢に移住。 秀吉の配下となった前田利家が、秀吉と対立した佐々成政と戦う際に戦費を出すのを渋っていたときには、「そんなにお金が大事なら、金銀に槍でも持たせたらどうですか!」と怒ったという。 前田利家の死後、徳川家康が前田家に謀反の疑いをかけたときには、一戦交えようとする跡継ぎの前田利長に「あなたでは家康に敵わない」と言って止め、自ら人質となって江戸に赴く。 |
小松姫 / 稲姫(こまつひめ、いなひめ)本多忠勝の娘にして真田信幸の妻徳川四天王の一人「本多忠勝」の娘で、真田信之(信幸)の妻。 才色兼備、武芸に優れた女性だったと言われ、徳川家康や徳川秀忠にもハキハキと物申していたという。 「関ヶ原の戦い」で夫の真田信之(信幸)が東軍に付き、父の真田昌幸、弟の真田幸村(信繁)と決別すると、留守中の沼田城を守る。 真田信之には京都に「小野お通」という愛人がいたが、承知した上で黙認していたという。 |
甲斐姫(かいひめ)三成の水攻めを失敗させた姫武者武蔵(埼玉)の忍城(おしじょう)を守った北条家の家臣「成田氏長」の子で、成田長泰の孫娘。 小田原征伐の際、石田三成は2万3千を越える兵力で忍城を攻めたが、500の民兵を含む3千の籠城軍に苦戦。 石田三成軍は浅野長政の援軍も得て攻勢をかけるが、名刀「波切」を持った甲斐姫が200騎を率いて迎え撃ち、これを撃退。 間もなく北条家が降伏し、小田原城が先に開城したため、忍城は停戦。約一週間後に城兵は退去した。 成田家の記録によると、一族はその後、会津の蒲生氏郷に仕えた。 秀吉の側室になった経緯には他にも説があるが、ともあれその後は大坂城で過ごしている。 |
井伊 直虎(いい なおとら)遠州錯乱に巻き込まれた女城主徳川四天王「井伊直政」の養母であり、今川義元の死による混乱の煽りを受けた井伊家の女当主。 井伊家は遠江(静岡西部)の国人で、今川家に従っていたが、家臣の小野家に「謀反の疑いがある」と讒言される。 跡継ぎがいなくなった井伊家はそのまま取り潰しの危機に陥るが、新野親矩(新野左馬助)の擁護によって救われる。 井伊家はこのような経緯から、今川家の家臣でありながら今川氏真とは対立に近い状態にあり、徳川家からの誘いもあって家臣団が分裂、難しい舵取りを任された。 |
妙林尼(みょうりんに)島津軍をボコボコにした九州の女傑九州豊後の大名「大友家」の重臣である吉岡長増の子「吉岡鑑興」の妻。 島津軍が北上を開始し、仙石秀久の大失態で豊臣軍の先遣隊が敗北すると、大友軍は本拠地の府内城と、当主・大友宗麟が守っていた臼杵城に戦力を集中する。 しかし鶴崎城にいた妙林尼は籠城を決意し、農民たちに板や畳を持って来させると、彼等に鉄砲の使い方を教えて戦力とし、城の周囲に落とし穴やしかけ槍、紐に引っかかると音が鳴るブービートラップをしかけまくって、島津軍を待ち構えた。 攻略を断念した島津軍は和睦を提案、妙林尼もこれに応じて開城し、以後は宴会を催すなどして島津兵をもてなすが、これは豊臣軍の本隊を待つための時間稼ぎであったようだ。 記録が少なく、言い伝えに寄るところが大きいため話が盛られている可能性もあるが、本当なら戦国時代の女性としては突出した戦果である。しかもトドメはハニートラップ。 |
池田 せん女鉄砲隊の指揮官織田家四家老の一人「池田恒興」の娘で、鬼武蔵「森長可」の妻であり、森蘭丸の乳母であったとも言われる女性。 彼女は200人からなる女鉄砲隊を率いていたと記録されており、秀吉と柴田勝家が戦った「賤ヶ岳の戦い」の際に、織田信孝が籠もる岐阜城攻めに加わったという。 |
出雲の阿国(いずものおくに)歌舞伎の始祖歌舞伎の創始者・発端と言われる伝説的な踊り子。 1603年、京都で男装して激しく踊る「かぶき踊り」を披露する。 彼女の踊りは民衆に熱狂的に受け入れられ、「歌舞伎」の字が当てられ、大衆演劇へと発展していった。 |
伊達 政宗(だて まさむね)奥羽の独眼竜1987年のNHK大河ドラマ「独眼竜政宗」の大ヒットで戦国のスーパースターとなった奥州の伊達男。 元は米沢周辺(山形と宮城の南部)の大名であった伊達家は、元々大きな勢力だったのに加え、政宗の曾祖父「伊達植宗」の婚姻外交により周辺の勢力を友好的に従属させており、政宗の祖父「伊達晴宗」の頃には東北地方を治める「奥州探題」にも任命され、名実共に奥羽の筆頭となっていた。 しかし伊達家の内部では植宗と晴宗の対立、晴宗と輝宗の対立、さらに重鎮である中野宗時と輝宗の対立などがあり、平穏というわけでもなかった 伊達政宗が伊達家を継いだのは1584年。 伊達政宗が家督を継いですぐ、家臣の大内定綱が会津(福島西部)の大名「蘆名家」に寝返る。 怒りに駆られた伊達政宗はすぐに復讐戦(人取橋の戦い)を挑むが、常陸(茨城)の大名「佐竹家」が二本松に援軍を派遣、兵力に劣る伊達軍は惨敗し、政宗自身も銃撃されてしまう。 翌年、傷の癒えた伊達政宗は再び二本松家に進攻。 その翌年、天下を掌握しつつあった秀吉は私的な合戦を禁止する「惣無事令」を出すが、もはや東北勢は聞き入れない。 だが、伊達政宗にとって、ここがタイムアップであった。 なお、この直前に最上義光が妹の義姫に「このままでは伊達家は秀吉に滅ぼされる。政宗を殺し、弟の小次郎に跡を継がせるべきだ」とささやき、母により毒殺されそうになったと言われている。 こうして伊達政宗は秀吉に従属するが、まだ領土拡大の野心は捨てていなかった。 朝鮮出兵の際にも十字架を先頭に、将兵に絢爛豪華な衣装を着せて行軍し、見物した人々の話題となった。 以後もイスパニア(スペイン)との通商を計画してガレオン船を建造し、ヨーロッパに「遣欧使節」を派遣したり、大坂の陣で味方を銃撃して友軍の水野勝成と同士討ちしたり、将軍に食事を運んだとき幕臣が毒殺の危険を告げると「謀反するなら戦を起こすわ!毒なんか使うか!」と言って周りをギョッとさせたり、幕府の老中に唐突に相撲を挑んで開幕で張り手して大騒動になったり、エピソードを挙げていくとキリがない。 |
最上 義光(もがみ よしあき)羽州の狐出羽最上(山形)の大名「最上家」の当主にして、伊達政宗のライバル。 彼が家督を継いだ1570年頃、最上家は伊達家に従属しており、妹の「義姫」は伊達政宗の父「伊達輝宗」に嫁入りしていた。 当時の最上家は経済的にも軍事的にもヨワヨワで、まずは富国を成し遂げようと、経済改革に力を入れる。 だが、最上義光は粘りを見せ、跡継ぎ候補であった弟を急襲して自害させると父と和睦し、伊達輝宗とは寡兵ながら一進一退の攻防を繰り広げ、最後は義姫の懇願もあって停戦を勝ち取る。 伊達家を伊達政宗が継ぎ、二本松・佐竹・蘆名と戦うようになると、伊達領の北方に位置した大崎家が伊達家に反乱を起こすが、これは最上義光の離反工作と言われており、伊達軍が大崎家を攻めると援軍を派遣、伊達軍を撃退して逆に伊達領へと進攻した。 そして、ここでタイムアップ。 だが、娘の「駒姫」が豊臣秀次に嫁入りすることが決まり、京都に向かった直後、秀次が謀反の疑いで処断された「秀次事件」が起こる。 慟哭した最上義光は以後、豊臣絶対殺すマンと化し、徳川家康に接近。 「関ヶ原の戦い」の後は上杉戦での活躍を評価され、山形一帯を治める57万石の大名となる。 |
毛利 元就(もうり もとなり)安芸の謀神ほぼ己の才覚のみで中国地方に一大勢力を築き上げた神算鬼謀の策略家。 幼少期に母が死に、父も飲み過ぎで少年期に死去、家臣に城から追い出され、兄は都会に出て行って、孤児になってしまう。 元就20才の時、中国地方の西部と北九州を支配した「大内家」に従う「吉川家」と、中国地方の山陰部(北部)を支配した「尼子家」の支援を受ける「安芸武田家」の間で合戦が起きる。 ここからは、一旦は尼子家に従うも、また大内家に戻り、一方で尼子家の跡継ぎである尼子晴久(詮久)と義兄弟になるなど、両勢力を綱渡りしながら毛利家を生き残らせる。 1540年頃、尼子晴久は毛利家の居城「吉田郡山城」への攻撃を開始。 1551年、大内家の重臣で「西国一の侍大将」と呼ばれた「陶晴賢」が謀反を起こし、大内義隆が敗死する。 1555年、「厳島の戦い」が勃発。 こうして中国地方の旧大内領は毛利元就がほぼ支配する。 ただ、1560年代に入って体調が悪化し、足利義輝が派遣した天下の名医「曲直瀬道三」の治療によって一時は快癒するも、陣頭に出ることは少なくなっている。 なお、毛利元就と言えば「一本の矢はすぐ折れるが、三本なら折れにくい」と言って三人の息子(小早川隆景、吉川元春、毛利隆元)に協力する事の大切さを諭した「三本の矢」の逸話で有名だが、漫画やゲームでは「三本まとめてへし折る」というオチや選択肢があって、たいていギャグに使われている。 |
宇喜多 直家(うきた なおいえ)山陽の梟雄今や梟雄(非道な英雄)として斎藤道三や松永久秀に負けず劣らずの有名人になっている暗殺下克上大名。 そして叔父(母の父)である浦上家の家臣を謀殺すると、祖父を殺した仇敵「島村貫阿弥」も討伐、浦上家の重臣に復帰する。 だが、ターゲットに娘を嫁がせて油断させ、その上で殺すという非情な手段を用いており、母や娘は次々とショックで自刃。 その後、宇喜多直家は信長絡みの外交問題で窮地に陥る。 だが、宇喜多直家は調略で浦上家・後藤家の配下を次々と味方に付けると、後藤家には娘も嫁がせて懐柔。 追い詰められた浦上宗景は居城「天神山城」で籠城するが、側近であった明石景親が宇喜多側に寝返って、城の一部を占拠。 その後、東から秀吉の中国方面軍が接近してくると、毛利家との同盟を破棄して秀吉に臣従し、以後、宇喜多軍は毛利攻撃の先兵として活動する。 宇喜多直家は近年までそれほど知られていなかったが、「信長の野望」シリーズで知略98・義理3とかの極端な能力値で登場し、「こいつ何者だ」と注目され、その暗殺にまみれた生涯でさらに驚かれ、一躍有名になった。 |
長宗我部 元親(ちょうそかべ もとちか)鳥なき島の蝙蝠「土佐の出来人」と呼ばれた四国の覇者。 秀吉に「生まれるのがもう少し早ければ天下を取れたのに」と語った、遅れて出てきた英傑の一人。 土佐には元々「土佐七雄」と呼ばれた豪族(小勢力)があり、長宗我部家もそのひとつで、それが名門の「一条家」に従っていた。 長宗我部元親は子供の頃、家の中で本を読んだり、貝合わせ(貝を使った神経衰弱)で遊んでいることが多く、「姫若子」と呼ばれ、これで当主が勤まるのかと心配されていた。 1560年、桶狭間の戦いがあった年、父の急死で長宗我部元親が跡を継ぐ。 一方、かつての主家であった土佐西部の「一条家」は、九州の大友家と結んで伊予(愛媛)の「河野家」に進攻するも、河野の救援にやって来た毛利家との戦いに敗れて衰退。 その頃、讃岐(香川)と阿波(徳島)を支配していた三好家も、暴君・三好長治のせいで内紛に陥っており、長宗我部元親はこれに介入して四国東部への進軍を始める。 ともあれ、長宗我部元親は三好軍を「中富川の戦い」破ると、阿波と讃岐を支配した。 しかしそれから間もなく秀吉の四国遠征が始まり、日本の中央部をほぼ平定している秀吉軍には抗しきれず、毛利からの派兵もあって防衛線は早々に崩壊、秀吉に降伏し、伊予・阿波・讃岐は召し上げられて土佐一国に戻される。 家臣の粛清を行ったのは、土佐一国に領土を減らされ、家臣に与えられる知行(領地)が減ったことによるリストラとする説もある。 なお、長宗我部家と言えば「一領具足」が有名だ。 |
島津 義弘とその兄弟(しまづ よしひろ)最強の薩摩隼人薩摩隼人の代名詞。「釣り野伏」や「捨て奸(すてがまり)」といった島津独自の戦術で恐れられた戦国最強武将の一角。 若い頃の島津義弘の戦いぶりは、勇猛だったものの負傷が多く、特筆するほどの戦果はない。 大きな活躍を見せたのはアラフォーの頃、日向(宮崎)の伊東家と戦った時。 秀吉の九州征伐では最後まで徹底抗戦を主張、自ら斬り込む奮戦を見せるも、豊臣軍の圧倒的な兵力の前に島津家は降伏。 「関ヶ原の戦い」では東軍・徳川側に参加しようとしたが、徳川軍に合流できずに西軍に入る。 島津義久から跡を譲られており、その後は島津家の当主を務めたと言われているが、実際に当主になったのかどうかは未だにはっきりしていない。 |
津軽 為信(つがる ためのぶ)最北の謀略家津軽(青森西部)に現れた下克上大名。戦国後期に現れた謀略家の一人。 青森から岩手に至る、「三日月の丸くなるまで南部領」と言われるほどの広大な土地を支配した大名「南部晴政」の家臣。 為信はその後、独立を維持するには有力者の後ろ盾が必要だと考え、豊臣秀吉に早いうちから接近を試みる。 「関ヶ原の戦い」では三男と共に東軍として出陣するが、長男は豊臣秀頼の小姓として大坂城に居て、東軍と西軍のどちらが勝っても家が存続できるようにしていた。 跡継ぎ争いの防止のため、親族さえも暗殺したと言われる謀略家だが、勢力拡大や下克上より、勢力維持のために知略を駆使していた感がある。 |
小早川 隆景(こばやかわ たかかげ)毛利を支える両川の片翼名字は違うが、毛利元就の三男。兄の吉川元春と共に「毛利の両川」と言われた名将。 ただ、1570年代になって毛利元就が死去すると、瀬戸内海の村上武吉が離反し、備前の浦上家や宇喜多直家にも苦戦、やや精彩を欠く。 「本能寺の変」で織田信長が倒れ、羽柴秀吉がそれを隠して毛利家と停戦した際には、吉川元春の「すぐに秀吉を追撃するべきだ!」という主張を安国寺恵瓊と共に押し止め、毛利家を秀吉側の勢力とする。 危うい戦いはせず、謀(はかりごと)で相手を屈するのを良しとし、常によく考えた上で行動していたという。 |
村上 武吉(むらかみ たけよし)瀬戸内の海賊王瀬戸内海に君臨した日本きっての海賊。毛利家に従った水軍の頭領としても知られる。 なお、日本の海賊は海外の海賊とは違い、貿易船を無差別に襲撃するようなことはしておらず、通行料(帆別銭)の徴収を活動の中心としていた。 1555年、毛利元就と陶晴賢が戦った「厳島の戦い」において、毛利元就から「1日だけ味方してくれ」と言われて陶軍を急襲。 ただ、毛利元就の病状が悪化し、大友家と戦っていた毛利軍が北九州から撤退すると、大友家からの勧誘もあって毛利家から離反する。 そして織田信長と本願寺が敵対し、本願寺顕如が大坂の石山本願寺城で籠城すると、海上から補給物資を運び込む。 だが、村上水軍の活躍もここまでだった。 |
山中 鹿之介(やまなか しかのすけ)山陰の麒麟児滅亡した尼子家の「お家再興」に燃えた尼子十勇士の筆頭。イケメンで武勇に優れた尼子三傑の一人。 尼子家は中国地方の山陰(北部)一帯を支配した精強な大名家だったが、1561年に当主の尼子晴久が死んで弱体化。 それから2年後、北九州の大友家で騒動が起き、それに乗じて毛利家が九州へと進攻、毛利家と大友家の合戦が激しくなると、山中鹿之介はこれをお家再興のチャンスと判断。 だが、危機を感じた毛利元就は北九州への進攻を中断し、毛利軍の主力を戻して事態の収拾に当たらせた。 だが、分裂していた山名家の内紛に乗じて因幡(鳥取西部)に拠点を確保すると、鳥取城を攻略、それを山名家の当主「山名豊国」に譲ってその再興を支援し、後ろ盾を得る。 しかし山名豊国があっさり毛利家に寝返って鳥取城を失い、浦上家と対立した宇喜多家が毛利家と同盟、三村家と松田家は毛利家の進攻を受けて崩壊し、後藤家は宇喜多直家から嫁を送られて懐柔され、浦上家も下克上で宇喜多直家に倒される。 だが、京都で織田信長に会ったことで、またチャンスが巡ってくる。 ところが、後方の姫路で「別所家」が離反し、上月城は孤立してしまい、すかさず毛利家の大軍が上月城に押し寄せてくる。 その忠節は武士道精神の見本とされ、江戸時代に講談で頻繁に扱われるようになり、戦前の教科書にもその伝記が載せられていた。 |
立花 道雪(たちばな どうせつ)雷神の化身「勇将の下に弱卒無し」を実践した、九州大友家を支えた文武両道の名将。 大友家は北九州を支配しようとしたが、大内家や少弐家といった名家に長く支配されていた北九州の諸勢力は大友家の支配を拒み、反乱を起こすことが多かった。 山中鹿之介に後方を脅かされた毛利軍が北九州から撤収すると、重要拠点「立花山城」を奪還、この城の城主となり、以後は立花家を継承して立花道雪を名乗る。 北九州の守りを担当していたため、大友家が島津家に大敗した「耳川の合戦」には従軍していなかったが、対立する北九州の諸勢力や龍造寺家と戦い、斜陽の大友家を懸命に支えた。 |
立花宗茂 & 立花誾千代(たちばな むねしげ、たちばな ぎんちよ)剛勇鎮西一と別居妻実父は秀吉に「乱世の華」と評された「高橋紹運」、そして雷神「立花道雪」の養子となって立花家を次いだ戦国後期のエリート武将。 立花道雪は男児が生まれず、男の子に跡を継がせるのをあきらめ、仕方なく一人娘を跡継ぎに指名していた。 だが、立花道雪は30才以上も歳の離れた高橋紹運(吉弘鎮種)と親密な関係になり、その紹運の子「吉弘統虎」が立派に成長したため、立花家の婿にしてくれと何度も懇願。 立花宗茂はその後、大友家の家臣として実父&養父と共に北九州を転戦する。 その後、島津家との戦いで「火車懸」なる戦法を駆使して活躍、秀吉から「剛勇鎮西一」と評された。 「関ヶ原の戦い」では「秀吉公の恩義を忘れることは出来ない」と言って、西軍入りを宣言して出陣する。 一方、立花宗茂が留守の間、居城は立花誾千代が武装して守っており、東軍に付いた鍋島直茂や加藤清正の軍勢に備えていたという。 立花誾千代はそれから2年後、34才で病死する。 |
李舜臣(りしゅんしん、イスンシン)朝鮮の英雄 |
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朝鮮の国民的英雄。朝鮮出兵の際に日本軍の前に立ちはだかった朝鮮水軍の提督。 ただ、朝鮮出兵の初戦、日本が元均の率いる朝鮮水軍の主力を壊滅させた際、元均から救援要請を受けるも、全て無視した。 しかし日本の進軍が始まると迎撃に出て、輸送船団などを攻撃。 その後、日本軍と明(中国)軍が一時停戦すると、これに反発したのか、停戦命令を無視して釜山港に大規模な強襲をかける。 一度目の朝鮮出兵の終結後、李舜臣は停戦交渉中にも関わらず日本軍の港や中継地などを急襲する。 だが、二度目の朝鮮出兵(慶長の役)が始まると、開始早々に元均の主力水軍は壊滅、元均や李億祺などの主だった水将も戦死したため、李舜臣は水軍司令に復帰する。 日本軍が築いた三つの城を明(中国)軍が大兵力で攻めた戦いでは、小西行長の守る順天城を海から攻撃。 李舜臣は映画などでは大決戦を演じているが、実際には敵の輸送船や中継地への襲撃が多く、艦隊戦を挑むときには有利な海域で待ち伏せ、そして打撃を与えると敵の本体が来る前にサッと退くという戦い方をしている。 |
元均(げんきん、ウォンギュン)朝鮮の海のやられキャラ |
朝鮮出兵時の朝鮮水軍の総司令。しかし良いところなく負けまくり、李舜臣と対立したおかげで後世ボロボロに批判されまくっている朝鮮の残念提督。 しかし日本軍が攻めてくると、日本のチート兵器「火縄銃」の威力もあって砦は次々と陥落、艦隊を釜山港に撤収させるが、釜山港は陸海共同の攻撃を受け船団は焼き討ちされて炎上。 その後は李舜臣の水軍に合流し、共に脇坂安治の水軍などを撃破するが、一度目の朝鮮出兵が終わると李舜臣を讒言(批判・中傷)した。 その後は釜山港の西にある「巨済島」に上陸するが、それを察知した日本軍に陸海から奇襲され、再建されたばかりの艦隊は再び壊滅、島にいたため逃げ場がなく、多くの将兵が戦死して自身も討ち取られてしまった。 戦いでは良いところがないが、当初はやる気なしで命令違反も多かった李舜臣とは違い、開戦から戦死まで陣頭で指揮を採っており、近年は再評価されているという。 |
李億祺(りおくき、イオッキ)李舜臣や元均の同僚 |
朝鮮水軍の指揮官の一人。当時の朝鮮王朝(李氏朝鮮)の親族にあたる。 二度目の朝鮮出兵では元均の配下として行動するが、そのため元均が巨済島の戦い(漆川梁海戦)で敗北した際、共に戦死した。 |
権慄(ごんりつ、クォンユル)一度は勝った朝鮮官軍の総大将 |
朝鮮出兵における陸の朝鮮軍は連戦連敗だが、官軍(正規軍)の中で唯一善戦したことがある、朝鮮の指揮官。 日本が本格的に全羅道への進軍を開始すると、拠点である晋州城で守るか、打って出るかで朝鮮軍の意見は割れる。 二度目の朝鮮出兵では総司令となっており、開戦当初に元均が消極的だったのを見て、鞭打ちの刑にしたという。 幸州山城の戦い以外は負けまくりだが、それでも最後まで戦い続け、めげずに兵士を鼓舞したため、近年は元均と共に再評価されているという。 |
金徳齢 & 郭再祐(キムドンリョン、カクジェウ)朝鮮ゲリラ義勇軍 |
どちらも一度目の朝鮮出兵(文禄の役)で、全羅道(朝鮮南西部)で活躍したという義勇兵長。 金徳齢は小柄だが俊敏、卓越した能力を持っていたとされ、日本軍は彼の顔を見ただけで恐れて撤収した…… ということに韓国ではなっているが、日本の記録には彼の名も、そんな話もない。 郭再祐は最初に義勇軍を組織した人物で、緋色の軍服を着ていたため「天降紅衣将軍」という異名を持ったという。贈り名は忠翼。 ただ、義勇兵の多くは身分の低い農奴であり、正規軍ではないため報酬や出世は乏しく、役人や貴族からの妬みと嫌悪もあって、戦後は不遇であったという。 |
李如松(りじょしょう)中国武侠物語的将軍 |
一度目の朝鮮出兵「文禄の役」に派遣された明(中国)の大将。 小西行長が守る平壌(ピョンヤン)城を包囲し、火器で城壁を崩すと、鉄砲による待ち伏せを警戒し、包囲の一部をわざと解いて日本軍を撤退させ、追撃戦を行った。 しかし、そのまま漢城(ソウル)に迫るも、待ち構えていた石田三成、小早川隆景、立花宗茂、黒田長政、宇喜多秀家などの西国オールスターに「碧蹄館の戦い」で敗れ、明と日本が停戦すると後退、帰国した。 なお、陥落させた平壌城には朝鮮の民衆が大勢避難しており、城で死んだ者、追撃された者の多くは朝鮮の民で、そのため現代になっても朝鮮での李如松の評判は最悪である。 |
沈惟敬(しんいけい)偽装工作がバレた再戦の元凶 |
最初の朝鮮出兵「文禄の役」のあとに終戦交渉を行った、明(中国)側の代表者。 日本側の代表は小西行長。 しかし日本も明も「自分が勝った」と思っていたため(日本としては連戦連勝、明としては相手が撤収して終わった形)、交渉は暗礁に乗り上げてしまう。 |
董一元(とういちげん)鬼シマヅにボコられた明軍大将 |
二度目の朝鮮出兵「慶長の役」の終盤、明(中国)の大軍が三方に分かれ、三ヶ所の日本軍の城に同時攻撃をかけた際に、中央の島津軍が守る「泗川新城」を攻めた、この攻勢における明軍の総大将。 一度目の朝鮮出兵「文禄の役」の頃に中国の北部で起こっていた、モンゴルの支援を受けた反乱「ボハイの乱」の鎮圧で活躍した。 なお、彼には「董一奎」という兄がいて、本来なら彼が日本との交渉を行う予定だったが、石星という政治家が沈惟敬を推薦したため、お流れになった。 |
楊鎬(ようこう)加藤清正に撃たれまくる明軍大将 |
二度目の朝鮮出兵「慶長の役」で、建設中の蔚山城を攻撃した「第一次 蔚山城の戦い」における明の朝鮮派遣軍の大将。 のちに軍務に復帰し、後金の君主で清の初代皇帝となる「ヌルハチ」と明軍が戦った「サルフの戦い」で総大将を務め、軍勢を4つに分けて敵を包囲しようとするも、包囲完成前に各個撃破される銀英伝のような負け方をして、ついに処刑された。 |
麻貴(まき)加藤清正に撃たれたくない明軍大将 |
二度目の朝鮮出兵「慶長の役」の終盤、明(中国)の大軍が三方に分かれ、それぞれ日本軍の城を攻めた際の、蔚山城攻撃軍の大将。 楊鎬が総指揮を採った一度目の「蔚山城の戦い」にも参加していたが、このときは大被害を受けて敗退。 一応、「日本軍の偽りの退却に引っかかり伏兵に遭って敗北した」「賊軍の弾丸が雨のように降り注ぎ、天兵の被害は計り知れない」といった報告が出されており、攻勢に出て被害を受けたりはしていたようだ。 |
劉テイ(りゅうてい)忠壮「劉大刀」 |
中国の明代末期の勇将。父は倭寇(海賊)の討伐で活躍した将軍だった。 南蛮(ビルマ地方の王朝)との戦いや、国内の反乱の鎮圧などで武功を挙げる。 二度目の朝鮮出兵「慶長の役」の終盤、明(中国)の大軍が三方に分かれて日本軍の城を攻めた際には、小西行長が守る順天城の攻撃を指揮したが、多数の攻城兵器を用いるも迎撃されて失敗。 その後は四川(中国中央南部)で起こった大規模な反乱の鎮圧を行うが、このとき彼の軍には降伏した日本兵の部隊がいて、鉄砲や大砲を扱って活躍したという。 その後、後金(現在の吉林省、満洲)の君主「ヌルハチ」と明軍が戦った「サルフの戦い」で将軍として復帰するが、軍を4つに分ける楊鎬の作戦が裏目に出て、部隊は各個撃破されていく。 |
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このページはそんな後期の名将を取り上げたく、追加したものです。
初稿:2021年1月。
武将の顔画像は「信長の野望 大志」のものです。
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