「毘沙門天の化身」「越後の龍」などのカッコイイ異名を持ち、義侠に富んだ数々の逸話を残しつつ、最強の「軍神」としても名高い稀代の名将「上杉謙信」。
越後(現在の新潟県)の上杉家は、そんな上杉謙信が治めた国です。
織田信長や武田信玄と並んで、とても人気のある戦国武将ですね。
しかし上杉謙信は戦国時代には珍しい性格の持ち主で、彼の国もその影響を否応にも受けていました。
実は「上杉家」はたくさんあって、複雑な家柄です。
上杉家は室町時代の名家でしたが、そのため「分家」がたくさんありました。
そして上杉謙信の「上杉家」は元々は「長尾家」と呼ばれており、謙信も元は「長尾景虎」という名前で、この長尾家は上杉家の補佐の家柄であり、本流の上杉家よりも格下でした。
しかし他の上杉家が戦国時代に次々と没落したため、上杉謙信の長尾家がその家名を継ぐ事になります。
越後や関東には他にも「○○上杉家」や「○○長尾家」と呼ばれる勢力が存在し、しかも互いに争っていて紛らわしいのですが、一般的に戦国時代の上杉家と言えば謙信の上杉家(長尾家)でしょう。
他には、関東に存在した「山内上杉家」「扇谷上杉家」が、そこそこ知られています。
さて、のちの上杉謙信である「長尾景虎」は長男ではなく、長尾家を継ぐ立場になかったため、幼い頃はお寺に奉公に出されていました。
そこで景虎は禅や仏の修行を7年も続け、そのまま僧侶になる予定だったのですが・・・
しかし越後では、激しい内乱が続いていました。
前述したように相応の権威を持つ「○○上杉家」や「○○長尾家」が互いに争っていたのです。
謙信の父(長尾為景)は武勇に優れた大将で、敵対勢力を打倒していきますが、ついに病死。
跡を継いだ謙信の兄は懐柔策を取るものの、争乱を抑えることができません。
そのため景虎は還俗させられ、城攻めを命じられます。
景虎は幼い頃から武勇に優れ、巨大な城の模型と兵士のコマでシミュレーションゲームのような遊びをしていたため、戦略眼もあると思われたのかもしれません。
そして戦場に出た景虎は周囲が驚くほどの強さを発揮、次々と反乱軍を撃破します。
その活躍を見た越後の有力者たちは景虎を当主にしようと活動を開始。
この動きに別の長尾家が反発しましたが、やはり景虎の武略の前に敗退。
兄が病弱で、越後の守護職にあった別の上杉家の推薦もあり、連戦連勝の長尾景虎がついに国主となります。
景虎22才のことでした。
景虎(謙信)はその後も越後の反乱や紛争を次々と鎮圧、いつしか勇名が周辺諸国にとどろいていました。
そんなある日、隣の信濃(長野周辺)から「村上義清」という人が尋ねてきます。
話を聞くと「信濃の領主だったのですが、武田信玄に攻められて土地を取られました。 たすけてー!」 と言います。
信義に厚かった景虎は「それなら助けてあげましょう」と返答。
こうして甲斐・信濃を制圧する武田家と、「川中島」という場所で何度も戦いを繰り広げることとなります。
有名な「川中島の合戦」ですね。
しかし・・・ 景虎は僧侶になるはずだった人。
その後も続く反乱、家臣団の対立、さらに周辺国からの工作も来るようになり、ついに嫌気が差したのか・・・
突然「もうイヤ! 大将やめる!」と言い出してムリヤリ出家しようとし、仏教の総本山「高野山」に1人で行ってしまい、長尾家は大パニックに!
結局、この騒動は家臣が「もう反乱しません」といった約束状を書いたりして景虎を押し止め、なんとか収束したのですが・・・
これには、長年お寺で仏の修行をしていた景虎の、心の葛藤が見え隠れします。
ただ、この一件以降、越後での反乱は成りを潜めたと言われています。
景虎の出家騒ぎから3年後の1559年、格上の家柄「山内上杉家」から、景虎は「関東管領」という関東を統治する役職を譲り受ける事になります。
「関東管領」は幕府の正式な役職ですが、当時の関東は「北条家」に制圧されており、関東管領を持っていた「山内上杉家」や、同じく関東管領を継げる家柄だった「扇谷上杉家」、関東の幕府の家柄「古河公方」が共同で対抗するも北条軍に大敗していました。
そこで山内上杉家は、長尾景虎の勇名を聞いて援軍を要請、関東管領の職も彼に譲ることを決意します。
これに応じた景虎は同時に「上杉家」の家名も譲られ、こうして「長尾家」は「上杉家」となり、景虎も後に名を「上杉輝虎」、さらに「上杉謙信」に改めました。
そして、関東管領の役職通りに関東を支配するべく、北条家に幾度も進攻を繰り返すことになります。
一方、武田家との戦いも続き、ついに1561年、有名な「第4回・川中島の戦い」が起ります。
激戦が繰り広げられ、上杉謙信と武田信玄の一騎打ちも行われたという最も有名な大規模合戦です。
(この戦いの模様は「武田家」のページに詳しく書いています)
加えて、領内では「一向一揆」という僧侶と農民が結託した一揆も起こるようになり、その鎮圧にも謙信は奔走します。
他の大名家の引き抜き工作で反乱を起こす武将もいて、この頃の上杉家は外も内も敵だらけ、謙信は四六時中戦っているような状態でした。
しかしそれが結果的に、上杉謙信の戦国最強伝説に繋がります。
その一方で、これだけ戦いながらも上杉家の領土はぜんぜん増えていませんでした。
上杉家は軍を進攻させて一時的に周囲を制圧しても、兵を引いた後にまた取り戻される、というのを繰り返していたからです。
これは謙信の領土戦略の欠如と同時に、領土支配欲の無さもあったと言われています。
彼の戦争は信義や大義名分に沿ったものであり、武田家との戦いは信濃の国人に助けを求められたから、北条家との戦いは関東管領の役職を全うするため、越中にも進出していましたが一向一揆が西からやってくるためで、国内の戦いは反乱の鎮圧。
領土広げるような戦いではなかったからだと伝えられています。
しかし1573年、武田信玄が病没すると、謙信は西へ向かって進軍を始めます。
これは武田家の脅威が無くなったと同時に、織田信長と対立していた室町幕府の将軍「足利義昭」から、京都への進軍(上洛)の要請があったためと言われています。
そして越中(富山)の「神保家」を従属させ、織田家に従属しようとしていた能登半島の「畠山家」を制圧すると、さらに西に向かって進み、織田信長が支配していた「加賀」に迫ります。
ここで上杉軍は、織田軍の本隊と「手取川」で激突しますが、これは上杉謙信の強さを物語る一番の戦いだったと言えます。
「手取川の戦い」は、上杉軍と織田軍がその名の通り「手取川」の近くで戦ったものですが、織田軍がその場所にさしかかった頃、上杉軍はまだかなり東の方を進んでいました。
両者の距離は、両軍がそのまま進んでも遭遇するのに数日かかるぐらいの距離です。
しかしその日の夜・・・
謙信は陣を張っている場所に多めに「かがり火」を炊かせて、そこに部隊が駐留しているように見せかけると、騎馬だけの精鋭部隊を率いて織田の陣に向かって夜通し駆けていきました。
一方の織田軍は、まだ上杉軍に会うまで距離があるため、まさか攻撃を受けるとは思っておらず備えもしていませんでした。
そのうえ、作戦を巡って織田家の重臣「柴田勝家」と「羽柴秀吉」が大ゲンカ!
秀吉は軍勢と共に勝手に帰ってしまいます。(もちろん後で信長に超怒られる)
そんな戦闘体制が整っていない織田軍に、長距離を駆け抜けてきた上杉謙信の騎馬精鋭部隊が奇襲をかけます!
突然のことに織田軍は大混乱!
先陣にいた織田軍の部隊はあっという間に壊滅していき、しかも雨が降り続いていて手取川が増水していたため、織田軍は撤退が困難で追撃も受けまくり大被害。
柴田勝家の部隊が何とか軍をまとめて反撃しようとするも、すでに気勢を制されていてボコボコに。
織田信長は残存の兵を集めて押し止めようとしますが、その頃には騎馬以外の上杉軍の兵士も戦場に到着し始めており、もはや相手にできない状態。
信長は近衛兵数十騎と共に戦場からの脱出を計りますが、上杉軍に追撃され、何とか美濃まで逃げ帰った時、近衛兵は数人だけになっており、自身も傷を負っていたと言います。
(手取川の戦いの様子は残されている記録が少ないため詳細には分かっていません。 これは、あまりに大負けしてしまった織田信長が、この戦いの記録を残すことを禁止したためのようです。 よって上記の合戦の経過も、説の1つに過ぎないことをご了承下さい)
こうして、一時的に織田信長を窮地に立たせた上杉謙信でしたが・・・
これが謙信の最後の勇名と、戦いになりました。
一度越後に戻り、上洛の準備を進めていた謙信がトイレに行ったとき、突然、脳卒中で倒れてしまいます。
そのまま、謙信が帰ってくることはありませんでした・・・
享年49才。
その死があまりに突然であったため、上杉家では謙信の養子「上杉景勝」と「上杉景虎」の間で家督争いが始まってしまいます。
この戦いを「御館(おたて)の乱」と呼びます。
この乱は最終的には「上杉景勝」の勝利で終わりました。
上杉家では城ごとに物資を分けて保管しており、当初は武具などを優先して獲得、多くの武将や周辺の大名家の支持も受けた上杉景虎が優勢だったのですが、金蔵を優先して押さえた上杉景勝がのちに交渉や外交で優位に立ち、逆転。
そのまま素早く上杉景虎を追い詰め、景勝が謙信の後を継ぐ事になります。
(御館の乱の詳細については、上杉家・武将名鑑 の関連武将の項目で解説しています)
その後、柴田勝家が率いる織田家の北陸侵攻軍により、上杉景勝も危機に陥りますが、「本能寺の変」によって織田信長が死んだたため窮地を脱し、その後に織田家の後継者となった秀吉と会見。
以後、上杉家は豊臣秀吉の臣下となります。
豊臣家の天下となっていた1595年、上杉家は会津(福島県の西部)に加増転封(領地を増やすため移転)となります。
これは東北地方で不穏な動きを続けていた実力者・伊達政宗を抑えられるのは、上杉家しかないと判断されたためのようです。
そして1600年、徳川家康と対立し、家康を挑発して上杉征伐に出陣させると、その隙に反家康派であった石田三成が挙兵、「関ヶ原の戦い」を勃発させます。
そして伊達家をけん制しつつ、徳川派となった出羽(山形県)の最上家と激しい戦いを繰り広げました。
結局、関ヶ原の本戦は徳川軍が勝利したため、上杉家は縮小されて米沢に移されてしまうのですが、多くの家臣が上杉家に仕えることを誇りとし、縮小後も離れた者はほとんどいなかったと伝えられています。
上杉謙信は「義」に生きた武将として後世に知られています。
今川家が武田家に対して「塩止め(塩の輸出禁止)」 を行い、それを周辺諸国に要請したときも「それで困るのは甲斐の国の民である。そんな事は出来ない」と言い、逆に甲斐への塩の輸出を推奨したと言います。
敵を援助する事を「敵に塩を送る」と言うのは、これが元になっています。
武田信玄は死の床で、跡継ぎの勝頼に「あんな勇猛な男と戦ってはならん。 謙信は頼むと言えば、嫌とは言わぬ。 謙信を頼み、甲斐の国を存続させよ」と遺言し、また北条氏康も「謙信は請け負えば、骨になっても義理を通す。 若い大将の手本にさせたいものだ」と語っていたといいます。
生涯妻を持たず、敵からも賞賛され、自らを仏法の守護神「毘沙門天」と称した謙信は、やはり武士と言うより、僧侶に近かったのかもしれませんね。