戦国時代を終焉させ、その後の日本の支配者を決定付けた、天下分け目の戦い「関ヶ原の戦い」。
しかし日本最大の合戦であったにも関わらず、その詳細はあまり知られていません。
なぜなら関ヶ原の戦いがあったのは戦国時代の終わり頃で、織田信長 や 豊臣秀吉、武田信玄 や 上杉謙信 などの戦国のヒーローは、みんな死んだ後だからです。
しかも関ヶ原の戦いに至る過程は政治的な駆け引きが多くて複雑、おまけに戦闘は1日足らずで終わったため、映画やドラマでもあまり取り上げられません。
ゲームでも信長の野望シリーズを含め、関ヶ原を扱ったものは少ないですね。
小説や歴史書ではよく取り上げられますが、その内容は戦国時代に関する基礎知識が豊富でなければ、理解できないものが多いです。
このページではそんな「関ヶ原」の戦いと経緯を、あまり歴史に詳しくない方でも理解できるよう、出来るだけ解りやすく解説しています。
関ヶ原の戦いにまつわる時代背景を知る、参考にして頂ければと思います。
【 関ヶ原への経緯 】
1-1:文治派と武断派の対立
「関ヶ原の戦い」の戦闘は1日で決着しましたが……
そこに至る過程は長く、色々な出来事が積み重なっていました。
豊臣秀吉
戦国時代の後期、豊臣秀吉がすでに天下を統一した後の1598年、その秀吉の死によって関ヶ原への経過が始まることになります。
すでに豊臣家によって天下統一されていた日本でしたが、その後に朝鮮半島に攻め込んだ「朝鮮出兵」があり、戦乱の時代はまだ継続していました。
この頃、日本を運営していたのは「豊臣五大老」と「豊臣五奉行」と呼ばれる人たちです。
この五大老と五奉行は、よく混同されたり間違われたりするので注意です。
(当時もよく間違われていたようです)
「豊臣五大老」は、各地の有力な大名によって構成された「権力者の代表」で、以下の5名です。
・関東の五大老の筆頭「徳川家康」
・北陸地方を支配する秀吉の盟友「前田利家」
・中国地方西部の大名「毛利輝元」
・秀吉に可愛がられていた中国地方の「宇喜多秀家」
・上杉家の後継者「上杉景勝」
(宇喜多秀家の前に小早川隆景という人が五大老になっていましたが、秀吉より先に死んでいるので省いています)
徳川家康
前田利家
毛利輝元
宇喜多秀家
上杉景勝
「豊臣五奉行」は豊臣家の中で政務を取り仕切っていた「豊臣家の上層部」であり、以下の5名です。
・豊臣家の行政の筆頭「石田三成」
・織田時代からの民政家「浅野長政」
・元僧侶の京都奉行「前田玄以」
・軍政両面に手腕を発揮した「増田長盛」
・算術と筆記に優れた「長束正家」
この五大老と五奉行の中で、関ヶ原の中心人物となったのが、
それぞれの筆頭である「徳川家康」と「石田三成」です。
徳川家康
豊臣秀吉の死後、行動を起こし始めたのは徳川家康でした。
彼はそれまで勝手に行うことを禁止されていた、大名や家臣の婚姻の斡旋、知行(領地)の授与などを、五奉行に相談することなく、独断で行うようになります。
もちろんこれに豊臣五奉行のメンバーは怒り、特に五奉行筆頭の石田三成は家康を非難するようになるのですが……
しかしこの石田三成という人、かなりの嫌われ者でした。
石田三成
彼はもともと豊臣秀吉の一番の側近で、秀吉に様々な報告を行ったり、命令を伝達する役目を持っていました。
そのため彼によって望まぬ報告をされ、処罰を受けた人が多くいたのです。
おまけに官僚(政治家)ですから、本人が合戦で傷つくことは少なく、これも戦場で戦っている「武断派」の武将からは嫌われる点でした。
友人(大谷義継)からも「お前は横柄すぎて皆に陰口を叩かれている」と言われており、性格の問題もあったようです。
その影響で豊臣秀吉が生きている頃から、豊臣家の内部では石田三成を中心とする官僚「文治派」と、三成を嫌う将軍「武断派」の内部対立が発生していました。
この豊臣家の内部対立が「関ヶ原の戦い」の主要な原因となっていきます。
秀吉の死後、家康が勝手に婚姻や知行の斡旋を行っていたのは非難されるべきものでしたが、それを受けた武将にとってはありがたいものであり、杓子定規な対応では不満の残るトラブルもありました。
法規に沿った三成、大らかな家康、それぞれに長所はあった訳ですが、武断派が家康を頼るようになったことで、大名や武将たちは「家康派」と「三成派」に分かれていく事になります。
前田利家
しかし、それがすぐ騒動に発展してしまうことはありませんでした。
仲裁役として活動していた「前田利家」がいたからです。
彼は豊臣五大老の NO.2 の権力と、多くの武将や大名から慕われた人徳を併せ持ち、事件が起こりそうになっても仲裁して大きなトラブルにならないよう配慮していました。
また、彼自身は徳川家康の勝手な行動に反発しており、豊臣五奉行に近い立場として、武断派の武将たちの暴発を抑える役割も果たしていました。
1599年2月、家康が独断で進めていた婚姻政策に反発が生じ、それぞれの支持者が徳川家康と前田利家の屋敷に集結して一触即発の状態になったときも、利家が家康の元を訪れて話し合い、和解に持ち込んでいます。
1-2:暗殺未遂事件
しかし1599年3月、仲裁を行っていた「前田利家」も死去します。
これはタイミングとしては最悪でした。
1598年末に朝鮮出兵が終わりますが、三成サイドの報告によって、朝鮮での功績を認めて貰えなかった人や、奮戦したのに処罰を受けてしまった人が発生しており、反三成派の不満が高まっていたからです。(詳しくは朝鮮出兵のページにて)
そして前田利家の死により、歯止めをかける者がいなくなり…… ついに大事件が起こってしまいます。
「石田三成 暗殺未遂事件」(七将襲撃)です!
石田三成と対立していた豊臣家の武断派の武将7名が結託し、石田三成を亡き者にしようと襲撃を行ったのです。
その武将は「福島正則」「加藤清正」「黒田長政」「藤堂高虎」「細川忠興」「加藤嘉明」「浅野幸長」という、戦国の名立たる名将ばかり。
(記録によっては「池田輝政」「蜂須賀家政」「脇坂安治」も含まれ、実際は10人であったようです)
しかし石田三成はそれを事前に察知、襲撃前に姿を晦まします。
このとき、石田三成は徳川家康の屋敷に逃げ込んだとも、家康の子の「結城秀康」に仲裁を頼み、城や屋敷に逃げたとも言われていますが……
いずれにせよ、ライバルである徳川家康がこの事件を仲裁し、事なきを得ました。
武断派の武将としては、石田三成の対抗者である家康に「そんな事はやめときなさい」と言われると、断ることができなかったからです。
ですが、この事件が起こったことで石田三成は謹慎処分となり、一時的に失脚してしまいます。
そして事件を解決させた徳川家康の影響力はさらに大きくなることになりました。
同時に、豊臣家の文治派と武断派の対立は、もはや修復不可能なほど決定的となってしまったのです。
石田三成が暗殺未遂事件で失脚すると、徳川家康はその代わりとして豊臣家の中枢であった「大坂城」に入り、自ら政務を指揮するようになります。
これによって徳川家康の権力はさらに強化されるのですが、もちろん豊臣五奉行としては面白くなく、両者の対立はさらに深まっていきます。
そんなある日、徳川家康は前田利家が死んだ後に前田家を継いでいた「前田利長」と、豊臣五奉行の1人「浅野長政」が結託し、「徳川家康 暗殺計画」を計っていたと公表します!
浅野長政
これが本当だったのか、それとも家康サイドの謀略だったのかは解りません。
いずれにせよ、この件により五奉行の浅野長政は失脚。
さらに家康はこの計画をしていた前田家を討伐するとして、兵を集めて出陣の準備を進めます。
この騒動は、前田利家の妻であった「まつ(芳春院)」が自ら徳川家の人質となり、いち早く前田家が服従する姿勢を見せたため、沈静化しました。
ですが結果として、徳川家康は豊臣五大老の NO.2 だった前田家を従える事になり、豊臣五奉行も弱体化させます。
人々の間には「天下はこのまま徳川家康のものになるのではないか」「もう、そうなっているのではないか」 という風聞が広まっていくこととなりました。
1-3:直江状、西軍挙兵と小山評定
そして、ついに1600年のお正月を迎えます。
豊臣家の中で最も力を持つに至った徳川家康は、各地の大名家に年賀の挨拶を求めました。
ところが、この挨拶を「上杉家」だけは断り、それを伝えた使者を謀反の疑いで処罰しようとします!
直江兼続
そのため、使者は上杉家を出奔(離脱)、家康に「上杉景勝(上杉家の当主)に謀反の気配あり」と報告します。
元々、この前の年から上杉家が無断で軍備を増強し、城の防備を固め、合戦の準備を行っているという話は流れており、上杉家のとなりの大名「最上義光」も報告を行っていました。
そのため家康は、この件についての釈明を求める手紙を出すのですが・・・
それに対する上杉家の重臣「直江兼続」の返信は、以下のようなものでした。
「くだらない噂を信じて謀反を疑うなど子供のようなもので、釈明の必要もない。
軍備を進めているのは東北の大名に対する備えをしているだけだ。
そちらは京都で茶器でも集めているんだろうが、こちらは田舎者ゆえ武具を整えるのが武士だと思っている。
だいたい自分が勝手に婚姻の斡旋などをしていたくせに、人に違約違反を言うのはおかしい。
前田家をお仕置きしたらしいが、大層なご威光だ。
あらぬ噂を真に受けて汚名を着せようというのなら、兵を率いて出迎えてやるから、いつでもかかってこい」
これがすでに天下を掌握しつつあった徳川家に対し、堂々と挑戦状を叩き付けた、有名な「直江状」です!
この直江状の経緯については、後世様々な推測が飛び交っています。
「家康側はこうした返信が来るのを承知しており、上杉側はその術中にハマったのだ」という説もあれば、
「上杉家と石田三成がすでに連携していて、徳川家康を誘い出すために挑戦状を出したのだ」という説もあります。
もちろんやり取りの結果こうなっただけかもしれず、手紙の真偽を疑う説もありますが、ともかくこれが「関ヶ原の戦い」の引き金になったことは確かです。
そして徳川家康は「上杉家の謀反の疑いはもはや確実、討伐のために出陣する!」と、大軍を率いて大坂城を出発します。
そしていよいよ、時代は大きく動くことになります…… 時は1600年、6月のことでした。
徳川家康が家臣と共に軍勢を率いて出陣したことにより、大坂城には徳川派が一時的にいなくなりました。
大谷義継
すかさず石田三成は行動を開始、友人の「大谷吉継」を館に招いて今後を相談します。
この大谷吉継という人は豊臣秀吉に「百万の軍勢を率いさせてみたい」と言わせたほどの名将でしたが、皮膚がただれて腐っていくハンセン病という病気の患者であったため、あまり他の人が近寄ることはありませんでした。
しかし石田三成はそんなことは全く気にせず、大谷吉継と親交を深めていました。
そして三成はここで「家康打倒」のこころざしを語ったと言います。
その後、石田三成は五奉行の「増田長盛」と「長束正家」、豊臣家の重臣で友人の「小西行長」、豊臣五大老の大名家「毛利家」の外交僧「安国寺恵瓊」などと相談、徳川軍を打倒する計画を立案します。
そして翌月1600年7月、石田三成はついに「徳川討伐」の挙兵を宣言!
「内府ちかひの条々」を発表して諸国の大名に集結を呼びかけます。
「内府ちかひの条々」の「内府」とは徳川家康の事で、「ちかひ」とは「違い」、つまり間違っているという意味。
その内容は、家康が勝手に婚姻や知行(領地)の斡旋を行ったり、無実の前田家や上杉家を攻撃しようとしたり、他にも勝手に手紙をやり取りしたとか、城の一部を無断で改修したとか、大なり小なり様々な家康の罪状を並べたて、その討伐を訴えた文章(檄文)です。
さらに豊臣五大老である中国地方の大名「毛利輝元」(毛利元就の孫)を総大将として軍勢を準備し、西側の大名家が徳川軍に参加できないよう関所を封鎖、大坂城にいる東軍の武将の家族も人質に取って、必勝体制を整えます。
鳥居元忠
そして翌日、さっそく徳川軍の駐留部隊がいる京都の城「伏見城」に総攻撃を開始します!
伏見城には徳川家の重臣「鳥居元忠」がいましたが、守備兵は1800程度でした。
一方、攻撃側には1万以上の兵力があり、しかも諸国の軍勢が参加して戦力はどんどん増加、伏見城は多勢に無勢の状態になっていきます。
結果、伏見城は落城して鳥居元忠は戦死。
しかしその報告は、上杉家に進軍中の徳川軍に伝えられました。
徳川家康は京都での戦いの報告を受けて「小山」と言う場所で評定(会議)を開きます。
これは「小山評定」と呼ばれる、有名な会議です。
福島正則
ここで「これから徳川軍はどうするのか」が相談されます。
最初、家康は武将達に「人質を取られて困っている者もいるだろう。 ここで大坂(西軍)に帰っても構わない。
道中の安全は保証する」と発言します。
すると「石田三成 暗殺未遂事件」の実行者の1人で猛将として知られる福島正則が「残してきた妻子を犠牲にしても、石田三成を討伐する!」と発言、同じく三成暗殺未遂メンバーだった黒田長政や浅野幸長それに続き、織田家の旧臣だった山内一豊も「城と領地を全て差し出しても家康様に協力する!」と宣言します。
これらの発言で反対意見はなくなり、上杉家に進軍中の徳川軍は大阪方面に戻って、石田三成軍と戦うことが決定されました。
この時点で「石田三成軍=西軍」「徳川家康軍=東軍」という、関ヶ原の戦いの二大陣営が決定付けられます。
細川ガラシャ
その後、東軍に参加した細川忠興の妻「細川ガラシャ」(玉。明智光秀の娘)が「自分が人質となっては、東軍にいる夫の邪魔になってしまうから」と言い、屋敷に火を放って自ら死を選びます。
こうした話が伝わる度に東軍の結束は強まっていき、石田三成が人質を取ったことは逆効果になっていきます。
ただ、戦国の名将「真田昌幸」(真田幸村の父)だけは、当初は徳川軍に参加していましたが、小山評定の際に徳川軍から離脱します。
これが後になって、徳川軍の行動に響くこととなりました。
1-4:東軍、合戦準備
さて、石田三成の挙兵を受け、その軍勢と戦うことにした徳川軍ですが、もともと上杉家を攻撃するために出発した軍勢ですから、上杉家をそのまま放置することは出来ません。
ヘタをすると西軍との戦闘中に背後を襲われる危険があります。
そのためここから徳川家康は、関東を中心とする各地の大名家に協力を要請、関ヶ原のための足場固めを始めます。
関東・東北地方で西軍(石田三成側)と言えたのは、上杉家と、もう1つ「佐竹家」という大名でした。
一方、東軍(徳川家康側)と言えたのは、上杉家と対立する「最上家」と「伊達家」でした。
そこで徳川家康は、自分の息子で武勇が評判だった「結城秀康」に佐竹家の押さえを命じ、そして最上家と伊達家の両大名家には上杉家への攻撃を依頼します。
上杉家は進軍してくるはずだった徳川軍を待ち構えていましたが、徳川軍は「小山評定」の後に引き返し、同じタイミングで最上家が合戦の準備を開始。
そのため上杉家は、直江兼続や前田慶次などを派遣して最上家に先制攻撃。
兵力に劣る最上義光は追い詰められますが、伊達政宗が最上家に救援を送り、戦火は拡大。
この激突が最も激しくなったのが、ちょうど西で「関ヶ原の戦い」が起こっていた頃でした。
結果としては、徳川軍は上杉軍に対する抑えは出来たことになります。
(上杉側としても、最上家と伊達家の抑えが出来たことになります)
一方、東軍の先鋒として福島正則の部隊が進軍を開始、海沿いの東海道を通り、江戸から三河や尾張(愛知方面)に一気に進んで、その周囲を押さえていきます。
徳川家康はしばらく各地の武将や大名に協力要請の手紙を書き続けていましたが、1ヶ月ほど経ってついに出陣。
本隊の軍勢を2つに分け、ひとつは自分が率いて東海道から西に向かいます。
もう一方の軍勢は徳川家の後継者であった「徳川秀忠」が率い、「中仙道」という山間部のルートを通って西に進軍していきました。
ですが、この徳川秀忠の部隊は「関ヶ原の戦い」の本戦には間に合いませんでした。
なぜなら途中に、徳川軍から離脱して西軍に付いた 真田昌幸・真田幸村 が守る「上田城」という城があったからです。
上田城の兵力は2000人、対する徳川秀忠の軍勢は3万8千人、圧倒的な差です。
これなら秀忠軍は楽勝で城を落とせそうですが…… 名将・真田昌幸の防戦の前に大苦戦!
秀忠軍の家臣は「ほっといて進もう!」とか「いや、落とせなかった恥になるぞ!」と意見が分裂して揉めまくり、おまけに「早く進め!」という家康の使者が大雨で遅れてしまいます。
徳川軍の兵力の半分はこの徳川秀忠が率いていましたから、これが到着しなかったのは、徳川家康としては大誤算となりました。
しかし、徳川軍の他の方面の作戦は順調に進んでいました。
元々西軍より東軍の方が協力者が多かったこともあり、尾張(名古屋)や美濃(岐阜)の西軍に味方した武将の城は次々と陥落していきます。
織田秀信
美濃の「岐阜城」(稲葉山城)は、かつて豊臣秀吉によって「織田家の跡継ぎ」とされていた、織田信長の孫「織田秀信(幼名 三法師)」が守っていましたが、この城はかなり長い間、織田家や豊臣家で使われていたため、内部の構造が知れ渡っていて、元城主である池田輝政の攻撃であっさり陥落。
石田三成は「岐阜城はしばらく持ちこたえてくれるだろう」と思っていたので、これは三成側の誤算となります。
しかも石田三成が主力と考えていた豊臣五大老の大名「毛利家」と「宇喜多家」の軍勢は、動きが鈍く、思ったような軍事行動が出来ていませんでした。
これは毛利家も宇喜多家も、当主を含めて武将の多くが二代目・三代目であり、戦国時代を生き抜いた経験豊かな将兵が少なかったためのようです。
また、徳川側からの再三の寝返り工作があったことや、石田三成の人気がなかったことも影響し、武将や兵士の「やる気」に問題があったとも言われています。
さらに豊臣五奉行であり、三成と共に西軍挙兵の計画を立てていた「前田玄以」や「増田長盛」でさえ、西軍の動向を東軍に報告したりしていました。
すでに情報戦の面で、西軍は東軍に劣っていたと言えます。
石田三成は徳川軍の京都・大坂への進軍を止めるべく、関ヶ原の近くにあった「大垣城」という城に入ります。
東軍もこの大垣城に向かっていき、いよいよ舞台は決戦の地「関ヶ原」へと移ります。
【 関ヶ原の戦い 】
2-1:決戦前日、杭瀬川と大垣城
戦場に到着した東軍(徳川側)は、まずは大垣城の近くに布陣します。
1600年、9月14日のことでした。
(1600年 9月14日 夕方)
徳川家康の本隊の進軍が思いのほか早かったため、急に増強された東軍を見て西軍(石田三成側)の兵は動揺を隠し切れません。
しかし、これを沈めようと立ち上がった男がいました。
勇将「島左近」です。
名将として名高かった彼は、石田三成から「私の知行(領地)の半分以上をあげるから、ぜひ家臣になってくれ」という破格の申し出を受けて感動し、石田三成のために尽くしていた武将です。
そして島左近は、西軍の兵の動揺を鎮めるには「勝つ事」しかないと考えます。
彼はさっそく兵の一部を率いて東軍の陣の前に向かい、敵を挑発します。
島左近
この挑発に怒った東軍の兵が島左近の部隊に襲いかかり、その勢いに押されて左近の部隊は後退するのですが、これは全て作戦の内。
敵をおびき寄せた所で伏兵で敵の背後を遮断、そのまま孤立した相手を包囲攻撃!
おびき出された東軍の部隊は壊滅し、それを見ていた西軍の兵は奮い立ち、動揺も鎮まったと言います。
この戦いは関ヶ原の前哨戦となった「杭瀬川の戦い」と呼ばれています。
その後、東軍と西軍はにらみ合いが続き、そのまま夜になりました。
その夜は雨で見通しが悪かったため、西軍に参加していた島津軍や島左近などの西軍の武将たちは「士気が上がっており、見通しも悪いので、城を出て夜襲で勝負をかけましょう」と石田三成に進言しますが、三成に却下されてしまいます。
石田三成陣営、徳川家康陣営、双方ともこの夜にどう動くか色々と思案していたようですが・・・
その行動は、全く別の人物によって大きく動かされることになりました。
豊臣秀吉の養子であり、関ヶ原の戦いのキーポイントとなった人物「小早川秀秋」です。
小早川秀秋
この「小早川秀秋」という人は豊臣秀吉の養子で、秀吉に大変可愛がられており、一時は豊臣家の跡継ぎ候補でもあった人物です。
豊臣五大老であった小早川隆景という人の養子となって、大名であった「小早川家」を継いでおり、この小早川家は西軍の総大将とされた毛利家の家臣でもあるので・・・
つまり小早川秀秋は、立場的に西軍に属するべき人でした。
ところが彼は…… 大の石田三成嫌いでした!
と言うのも、朝鮮出兵の時の彼の戦いぶりを石田三成が豊臣秀吉に報告、彼は「蔚山城の戦い」において仲間を救援するために先陣切って奮闘していたのですが、「総大将なのに軽率すぎる」と評価され、秀吉におもいっきり怒られたあげく、領地も没収されていたからです。
しかもそのあと、彼と秀吉の仲を取り持ってくれたのは他ならぬ徳川家康でした。
そのため彼は徳川側の東軍に付こうとしていたのですが…… なにせ立場的にどう考えても西軍な人。
石田三成からも「最上位の役職を約束します!」とか「領地大幅アップ!」といった説得を受けており、西軍として出陣することになってしまいます。
しかし徳川家康も当然のように「一緒に戦おう!」と使者を送っており、彼はどちらに付くべきか悩んだまま「関ヶ原」の日を迎えていました。
そんな小早川秀秋が、島左近が「杭瀬川の戦い」で戦っていた 9月14日、1万5千の大軍を率いて突然、関ヶ原の近くの「松尾山」に移動したため、事が動き始めます。
松尾山は西軍のいた大垣城の西にありました。
ここには西軍の別の部隊が駐留していたのですが、急に動き出した小早川秀秋の軍勢が、勝手にその部隊をどかして居座ってしまいます。
「裏切りそうな人」が自分たちの側面の山にいきなり布陣したことは、西軍の石田三成たちに不安を呼びました。
一方、東軍は…… 大垣城に篭っている西軍を、何とか城からおびき出したいと思っていました。
そのため「東軍は大垣城を包囲したまま、本隊は大阪方面に進軍を続け、大阪と京都を制圧しようとしている」という噂を流していたと言われています。
そんな時、寝返ってくるかもしれない小早川秀秋が松尾山に移動して、居座ります。
(1600年 9月14日 夜)
西軍は小早川秀秋に睨みを利かせるためだったのか、それとも移動した小早川秀秋の軍勢を利用しやすい位置に移動したのか、はたまた「東軍は大垣城を包囲したまま大阪に向かおうとしている」という噂に影響されたのか……
その夜、大垣城を出て、夜の雨にまぎれて松尾山の近くに移動し始めます。
この移動を東軍も察知。
城攻めを避けたい家康にとっては絶好の機会ですから、大垣城を配下の「水野勝成」に任せ、西軍の後を追います。
こうして、両軍は関ヶ原へと向かいます。
2-2:決戦開始、左近負傷
(1600年 9月15日 早朝)
「関ヶ原」に到着した両軍の布陣図は、このような感じでした。
青が東軍、赤が西軍の部隊です。
(解りやすくするため、細かい武将の配置図などは省略しています)
西軍の勇将「島左近」は石田三成の本陣のすぐ前に布陣していました。
東軍本陣の側には、戦国最強と言われる「本多忠勝」や、赤備えの猛将「井伊直政」などの部隊も控えています。
見ての通り、関ヶ原という場所は四方を山に囲まれたくぼ地であり、その中に入った東軍を、山の上に布陣した西軍が完全に包囲している形です。
これは誰がどう見ても「西軍有利」です。
実際、後世にこの布陣図を見たドイツ軍の将校も、見た瞬間に「西軍必勝!」と叫んだそうです。
ですが、戦いはその通りにはなりませんでした……
戦いは夜明けと共に始まりました。
まずは、先鋒を任された東軍の 福島正則 と、五大老の一人でもある西軍の 宇喜多秀家 の軍勢が戦闘に入ります。
福島正則の部隊には槍の名手である 可児才蔵 などもいて、強力な部隊でしたが、宇喜多秀家 の軍勢には西軍最大の17000の兵力があり、さらに「明石全登」という勇将がいました。
キリシタン武将として知られていて、後の「大坂の陣」で十字架とキリスト像を掲げる日本版「十字軍」を率いたという、ちょっと変わった人です。
東軍の主力である福島正則の部隊は、この宇喜多軍に苦戦し、一進一退の状況が続きます。
黒田長政
その後、石田三成の本隊に東軍の 黒田長政、細川忠興、加藤嘉明 などの部隊が攻撃を開始します。
この人たちは「石田三成 暗殺未遂事件」の実行者である武断派の武将たちで、そのため西軍本陣の正面に配置されていたようですが、石田三成の本陣の前には島左近が立ち塞がっていました。
ところが…… 島左近は開戦早々、黒田長政の鉄砲隊の銃弾をまともに受けて重傷!
本陣に担ぎ込まれてしまいます。
石田三成にとって、最も頼りにしていた武将の1人である島左近が、開戦直後に戦闘不能になってしまったのは大誤算と言っていいでしょう。
その後、石田三成は自分の部隊でなんとか本陣を維持するべく、奮闘することになります。
2-3:島津命令拒否、毛利の空弁当
当初、東軍はそこまでの経緯から「西軍は戦闘になるとあまり強くないだろう」と思っていたのですが、西軍は予想外に善戦し戦況は互角、むしろ西軍がやや押しているような状況となります。
島津義弘
そこで石田三成はさらに戦況を有利にするべく、本陣の近くの「島津義弘」の部隊に攻撃を依頼します。
この島津義弘と言う人は鹿児島からはるばるやってきた援軍で、数々の合戦で活躍、その兵の強さは日本中に轟いていました。
ところが、島津軍は進軍要請を拒否します。
と言うのも、島津義弘は豊臣家への義理を果たすため西軍に参加していましたが、元々は徳川家康に味方するために出発しており、石田三成の態度も嫌っていて、全面的に協力している訳ではありませんでした。
島津軍は開戦直後から徳川家の井伊直政の部隊と戦っていましたが、島津家は朝鮮出兵での被害が大きかったため率いていた兵力は少なく、石田三成は見下していたと言われています。
また、開戦前の夜に東軍への夜襲を最初に進言したのは島津軍の島津豊久でしたが、これを三成は却下していました。
進軍要請に来た三成の使者の態度が無礼だったとも言われています。
これらがあって、島津義弘は「まだ討って出るべきではない」と判断、ここで動くことはありませんでした。
島津義弘はこの関ヶ原で、西軍の勝利よりも「島津家としての戦いをする」ために戦っていました。
島津軍に要請を断られた石田三成は、次に徳川軍の後方にある「南宮山」に大軍を率いて布陣していた「毛利軍」に、進軍を要請します。
(1600年 9月15日 朝)
この軍団は西軍の総大将とされていた「毛利輝元」が派遣した部隊であり、三成の要請を受けて進もうとしたのですが……
ここで毛利軍の先頭にいた「吉川広家」の部隊が突然反逆します!
「霧が濃くて進めねぇ」とか言い出して、全く言う事を聞きません!
これにより毛利軍の本隊は、味方が邪魔で身動き取れなくなります。
石田三成の盟友「安国寺恵瓊」、豊臣五奉行の一人「長束正家」も、毛利軍にいたため行動不可に。
そして同士討ちを避けたい毛利軍の大将「毛利秀元」は、石田三成の再三の進軍要請に対し、苦し紛れに「弁当食べてるからダメ」と答えます。
(『宰相殿の空弁当』事件)
吉川広家
朝鮮出兵(蔚山城の戦い)の際、毛利秀元と吉川広家は味方を救援したにも関わらず「抜け駆け」だと言われ、帰国後に秀吉に処罰されていました。
それを報告したのは安国寺恵瓊であり、秀吉に伝えたのは石田三成でした。
そして秀吉の死後、その処分を撤回させたのは徳川家康であり、彼らは家康に恩があったのです。
それでも毛利秀元は主君の毛利輝元に従い、西軍として参戦していましたが、吉川広家は早い段階で徳川家康に内通し、東軍側の存在となっていたのです。
しかも彼は「東軍が勝った後、毛利家の責任は問わない。領地もそのまま保障する」という約束まで取り付けていたといいます。
この吉川広家の寝返りによって、毛利軍はほとんどまともに戦わないまま、関ヶ原の戦いを終えてしまいます。
結局、毛利家は「西軍・総大将」という事になっていましたが、実際には総大将らしいことは何もやっていません。
この方面には四国・土佐の戦国大名「長宗我部盛親」の部隊も西軍として参加していましたが、これも元々は東軍に参加する予定で、関所が閉鎖されていたため東軍と連絡が取れず、仕方なく西軍に入っていた部隊でした。
しかも前面の毛利軍が邪魔になり、やはり何も出来ずに終わっています。
2-4:小早川秀秋の寝返り、決着
島津軍に続いて毛利軍も動かないため、石田三成は関ヶ原の側面、松尾山の上に布陣している小早川秀秋に進軍を要請します。
しかし小早川秀秋は前述した通り、西軍として参加はしたものの、大の石田三成嫌い。
しかも戦闘中、東軍からも「早く寝返って!」という要請を受け続けていました。
彼が布陣していた松尾山からは、関ヶ原の様子が一望できます。
彼は有利な方に付きたいと思っていたようですが、目の前の戦いは一進一退のまま、なかなか優劣が付きません。
その様子を見て、ついに痺れを切らした徳川家康は…… ここで「賭け」に出ます。
なんと小早川秀秋の軍勢に鉄砲隊を向け、一斉射撃したのです!
東軍から鉄砲を撃たれたのですから、怒って西軍に付きそうですが、「家康が怒っている!」とビビった秀秋は、あわてて寝返りの準備を始めます!
この鉄砲の話は創作だという説もありますが、徳川家康が小早川秀秋が小心者であることを見越して行った催促だったと言われています。
(1600年 9月15日 昼前)
そして迷いの吹っ切れた小早川秀秋は、ついに一万以上の軍勢を率いて寝返りを宣言!
目の前の西軍の部隊に襲いかかります!
ところが、これを予測していた人物がいました。
石田三成の盟友、大谷吉継です。
彼は小早川秀秋や、西軍の武将が寝返る事は薄々わかっていたようで、最初から小早川秀秋が寝返った時にそれを抑えられる位置に布陣していました。
そのため小早川秀秋の部隊は、一旦はこれに迎撃され、押し戻されてしまいます。
しかし大谷吉継の誤算はこの後でした。
彼と共に小早川秀秋を抑えられる位置にいた脇坂安治、小川祐忠といった西軍武将まで、続々と東軍に寝返ってしまったのです!
すでに彼らの所にも開戦前に寝返りの使者が訪れており、最初から内応していた者もいたのです。
その結果、大谷吉継の部隊は包囲されて集中攻撃を受け、孤軍奮闘するも壊滅。
吉継もついに戦場に消えてしまいます。
大谷軍の消滅により、小早川秀秋の軍勢は寝返った部隊と共に進軍を開始。
西軍の側面を突き始め、「関ヶ原の戦い」の優劣は、これでほぼ決定しました。
関ヶ原の前線では、まだ両軍の一進一退が続いていました。
石田三成は何とか東軍の本陣を狙おうと迂回部隊などを出しますが、本多忠勝などに撃退されています。
宇喜多秀家の軍はまだ善戦を続けていましたが、小早川秀秋の軍勢がやってきて包囲され始めたため、そのまま瓦解。
戦線を維持できなくなり、明石全登をしんがりにして戦場から退却します。
(1600年 9月15日 昼)
島津軍も最後まで善戦していましたが、西軍が崩壊し始めたため撤退を決意。
そしてなんと後ろに下がるのではなく、前面の敵に突っ込んで突き抜ける「敵中突破」を開始します!
そのあまりの突撃に、その前にいた徳川軍はあっという間に蹂躙され、側面にいた福島正則の部隊もあっけに取られて防ぐ事が出来ず、徳川軍の井伊直政が追撃するも負傷してしまいます。
その後、島津軍は大きな被害を出しながらも戦場を離脱、九州に帰還していきました。
こうして、残された石田三成の本陣も徳川軍の総攻撃の前に、ついに壊滅……
関ヶ原の戦いは決着が着くことになります。
1600年9月15日の昼、開戦から約半日。
様々な出来事があった日本最大の合戦「関ヶ原の戦い」は、約6時間ほどで終結しました。
2-5:関ヶ原、終戦後
西軍の大将、石田三成は敗戦後に逃亡していましたが、数日後に追っ手に捕まってしまいます。
そして関ヶ原の戦いに至る計画を立てた安国寺恵瓊、小西行長と共に、京都引き回しの上、処刑されてしまいました。
他の豊臣五奉行は、長束正家だけは敗戦後に自害しましたが、家康に情報を流していた増田長盛は領地没収となるも一命は許されており、中立の立場を取った前田玄以はお咎めなし、東軍に協力した浅野長政は息子の活躍もあって大大名に出世しています。
対徳川の中枢であったはずの豊臣五奉行も、すでに開戦前に崩壊していたと言えます。
西軍に味方した武将や大名はほとんど処罰対象となり、吉川広家が「領地を保障する約束」をしていたはずの毛利家も、戦後に約束を破棄され大幅に縮小されてしまいます。
逆に、東軍に味方した武将には多くの領地が与えられ、そのほとんどが大名に出世しました。
関ヶ原の勝敗を決定付けた小早川秀秋にも多くの領地が与えられましたが、関ヶ原での裏切りや醜態は世間の噂になり、中傷の的にされてしまいます。
結局、彼は酒びたりの生活となり、関ヶ原から2年後、狂死してしまったと言います。
島津義弘は関ヶ原から脱出して薩摩(鹿児島)に戻りますが、九州では秀吉の元軍師「黒田如水(黒田官兵衛)」が東軍入りを宣言し、西軍に付いた「立花宗茂」などと合戦を繰り広げており、島津軍も加わろうとして乱戦の様相となります。
しかし関ヶ原の戦いが終わったあと、徳川家康からの停戦命令が届き、合戦は中止。
黒田如水は「関ヶ原の裏で天下を狙っていた第三の男」とも言われていますが……
関ヶ原がたった1日で終わったのは、彼にとっても想定外だったようです。
宇喜多秀家は島津家に逃亡しましたが、その後に出頭し、島流しの刑になります。
この時の、妻であり前田家の姫である「豪姫」との別れは、戦国の悲恋物語として有名です。
上杉家と伊達最上連合軍との間で行われていた東北の合戦は、関ヶ原の西軍敗北の知らせを受けて、上杉軍が直江兼続や前田慶次をしんがりにして撤退。
その後、上杉家は徳川家に謝罪して関係の修復に務め、領地は大幅に縮小されますが、大名家としては存続しました。
東軍に協力した伊達政宗・最上義光は領地の増加を受けています。
ただ、伊達政宗は開戦前に家康と「伊達家100万石」の約束をしていましたが、そこまでは与えられませんでした。
そして豊臣家は大幅に縮小されて大名家のひとつとなり、徳川家康の元に天下は再び統一されます。
関ヶ原の戦いから3年後の1603年、江戸幕府が開かれ、日本は「江戸時代」に入りました。
このあと、豊臣家は徳川家への臣従を拒否し「大坂の陣」が起こるため、「豊臣 VS 徳川」の戦いはもう一波乱あるのですが……
ともあれ、群雄割拠の時代は終わりを迎えることとなります。
以上が「関ヶ原の戦い」 の概要です。
石田三成と武断派の武将の対立は、朝鮮出兵の中で起きました。
石田三成は武将たちの戦いの様子を豊臣秀吉に報告する役目にありましたが、それは武将の失敗を報告する役目でもありました。
もちろん功績も報告していましたが、監督である彼の評価と、武将が自分で思っている評価はやはり異なることが多かったようで、戦場で戦った武将には三成が「自分の功績を過小に報告している」と映ってしまったようです。
石田三成に対する評価は後世、真っ二つに分かれていますが、彼が優秀な官僚であった事は間違いありません。
また、多くの武将に嫌われた彼に対する誹謗中傷はかなり激しかったようで、そうした中傷や噂が、彼の人物像を過度にゆがめていた現実もあるようです。
一方、徳川家康は朝鮮出兵による戦乱の継続、それにより発生した修復しがたい豊臣家の内部対立……
それらを間近で見る立場にありました。
そのことが、彼を「天下人」の道へと走らせたのかもしれません。
「関ヶ原の戦い」で戦った二人は、おそらく共に、日本の今後の事を思って戦っていたのでしょう。