武田氏

武田家 と 武田信玄

甲斐(現在の山梨県)と信濃(長野県)を拠点とし、戦国最強と呼ばれる騎馬軍団を率いた戦国きっての武将、「武田信玄」。
凄い視聴率だったNHKの大河ドラマを始め、多くの映画や小説、ドラマの主人公となっている人気武将です。

武田家は「源頼朝」の一族を祖とする、「甲斐源氏」と呼ばれる名家の家柄でしたが、戦国時代初期の甲斐には他にもたくさんの勢力が乱立していて、争乱の状態にありました。
家柄だけで国をまとめられるような状況ではなかったのです。

そんな甲斐を圧倒的な武力で制圧し、まとめ上げたのが武田信玄の父「武田信虎」です。
しかし信虎は合戦のためには民をかえりみない人で、民は重税や徴収に苦しみ、反対した家臣も粛清
そのため「ヒマな時は農民を殺して遊んでいる」という噂まで流される始末でした。
また、若い頃の信玄(武田晴信)に対しても、晴信がずっと家の中で本を読んでいる事が多かったため、「あんな軟弱ものに国はまかせられん!」と言い、家督を継がせない事を明言していたといいます。

そのためか、ついに武田家の家臣達は信虎を追放するクーデターを計画!
信虎が今川家に出向いている時を狙って、晴信(信玄)を盟主として信虎の追放を宣言し、帰れないように国境を封鎖してしまいます。
こうして、晴信(信玄)が武田家の後を継ぐことになります。

後を継いだ武田晴信は、父とはうって変わって政治を重視し、流通を整え、「信玄堤」と呼ばれる治水作業を行い、新田開発や城下町の建設を精力的に行います。
一方で、お城は築かずに大きな屋敷に住んでいたため、「おやかた様」と呼ばれていました。
軍隊に関しても、「甲州法度」と呼ばれる軍規を制定し、騎馬隊を中心とする強力な部隊を整えていきます。
この頃の信玄の言葉、「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」 は有名です。

武田家1550年頃その後、信玄は甲斐の北、信濃の制圧に乗り出します。
しかし信濃に勢力を持っていた有力者たちは村上義清を中心として軍勢をまとめ、これに対抗。
そしてこの頃、信玄は戦いに連敗していました。
当時の度重なる敗戦が、信玄の経験になったとも言われていますが・・・

しかし結果的に、村上義清は武田家の家臣「真田幸隆」の謀略によって城を追われて敗走。
信濃の各勢力も追い詰められていき、武田家に制圧される事になります。

ところが村上義清は、越後の上杉謙信に「武田に国を取られました! 助けて下さい!」と助力を願い出ます。
こうして、武田家と上杉家による合戦の火蓋が切られることとなります。

その後、武田家は上杉家と5度にわたり、「川中島」で戦っています。
この「川中島の戦い」は戦国時代の中でも特に有名で、特に第4戦目が最も激戦となりました。
戦国時代のハイライトでもありますので、少し詳細にご紹介しましょう。

川中島の第4戦目が行われたのは1561年。
武田軍は約2万、上杉軍は約1万3千だったと言われています。

この戦いでは謙信は平地には陣取らず、近くにある山の上に陣取ります。
そしてそのまま動かず、両軍ともにらみ合いが続きました。

そこで武田家の家臣「山本勘助」は、兵を二つに分け、一方に上杉軍の後方を襲わせ、それに追われて山を降りてくる上杉軍を平地で挟み撃ちにするという、「啄木鳥の戦法」 を提案します。
さっそく武田軍はそれを実行に移そうとしますが、上杉謙信は武田の陣から普段より多く飯を炊く煙が上がっているのを見て、武田家に動きがあるのを見破ります。

鶴翼の陣その夜、山本勘助は別働隊を指揮して上杉軍の背後を付こうと、上杉軍が布陣している山に忍び寄ります。
一方、武田軍の本隊は部隊を翼の様に左右に広げる「鶴翼の陣」で上杉軍を待ち構えました。
これは敵を包囲する、待ち伏せに適した陣形です。

ところが山本勘助の別働隊が上杉軍に迫った時、そこにあったのは、さも人がいるかのようにたくさん炊かれている「かがり火」と、そして誰もいない空っぽの陣だけでした!
武田家に動きがあるのを見破っていた上杉謙信は、すでに山を降りて平地に布陣していたのです。

車がかりの陣上杉軍はこの時、謙信が自ら考案した、部隊を円状に配置した「車懸かりの陣」をしいていたと言います。
これは円状に配置された部隊が回転しながら戦い、疲弊した部隊が次々と後方に回り、新しい部隊がどんどん前に出て行くという陣だったようで、挟み撃ちされた場合に後方からでも対処できる陣でもあったようです。

しかし、布陣を終えた両軍の戦いは、思わぬ形で幕を開けます。
その日の朝、周囲に立ち込めていた深い霧が、日の出と共に突然晴れたのです。
霧がなくなり、いきなり目の前に敵が現れたため、両軍とも統率が取れない乱戦状態に陥ります!

戦いはその後、一進一退が続いていましたが、兵力を分けていた武田軍が徐々に不利になっていき、翼の右翼の部隊が崩壊、一時は窮地に陥ります。
しかし、しばらくして山本勘助が率いていた挟み撃ちのための別働隊が謙信の伏兵を突破して、ようやく戦場に到着、上杉軍を背後から襲い始めたため戦況は変わり、以後は武田軍が有利になります。
しかし山本勘助は作戦を見破られた事に責任を感じ、敵中に突撃してすでに戦死していました。

そして、突撃中であり後ろからも攻められている上杉軍は軍勢が前に押し出され、一方で押されていた武田軍も本陣近くまで敵に攻められていたため・・・
上杉謙信と武田信玄自身が遭遇、かの有名な大将同士の一騎打ちが行われたと言われています。
武田家の軍記を記している「甲陽軍艦」には、次のように記されています。

「挟み撃ちによって軍が崩壊し始めた謙信は、自ら馬に乗って戦場を駆け、退却を叫んでいた。
その時、獅子の兜をつけ、黄金の直垂を着て、椅子に座り、軍配を持っている信玄の姿を見つけた。
すぐに謙信は馬で駆け寄り、信玄に一太刀を浴びせようとした。
それが突然の事だったため、信玄は太刀を抜く暇がなく、それを軍配で受け止めたが、受け止めきれず肩に傷を負った。
その後、謙信は二太刀、三太刀と剣を振り下ろしてきたが、これは信玄が軍配で受け流した。
そうこうしていると、信玄の近衛兵が慌てて戻ってきて、謙信を刺そうと槍を突き出した。
しかし槍は外れ、馬の尻に刺さった。
そのため馬は一声いななくと、謙信を乗せたまま、どこかに走り去ってしまった・・・」

この戦い、結果的には上杉軍が撤退した形になりましたが、兵士や武将の損害は武田軍の方が2倍ぐらい多く、「引き分け」だったというのが一般的な見方です。

ちなみに、川中島の戦いの1回戦と3回戦は少し戦ったぐらいで大規模な合戦にはなっておらず、2回戦と5回戦はにらみ合っただけで大きな戦闘はありません。

ただ、合戦の結果に関わらず、領土は武田家の方が広がっていき、最終的には信濃全域が武田家の支配下となったため、領土的・政治的には武田家の方が優れていた、と言えそうです。

川中島を舞台にした武田家と上杉家の戦いに区切りが付くと、武田家は「今川義元」の死によって弱体化した、駿河・遠江(静岡)を支配する今川家への進攻を開始します。

当初は武田家・今川家・北条家は「三国同盟」を結んでいましたが、この頃はもう今川家と武田家の同盟は効力を失っており、今川家も武田家に対し「塩止め(塩の輸出禁止)」などの経済制裁を行っていました。
そして1569年、今川家は徳川家と武田家の進攻によって滅ぼされ、武田家は駿河を支配。
武田家は念願の「海」(海岸の領土)を手に入れることになります。
さらに北条家へ進軍して小田原城を包囲、撤収を装って追撃してきた北条軍を撃退すると、周辺を制圧します。

そして1572年、織田信長と対立していた将軍・足利義昭からの要請を受け、上洛(京都への進軍)を開始します。
行く手には織田家と徳川家の軍勢が待ち受けていましたが、武田軍は途上の砦や城を次々と攻め落とし、そして「三方ヶ原」で襲いかかって来た徳川軍を一蹴、いよいよ織田領に迫ろうとするのですが・・・

しかしその途上、信玄は持病が悪化してしまいます。
城を攻略中に鉄砲の流れ弾が当たったという説もあり、病状は日に日に悪化。
そして翌1573年、武田信玄は陣中で病没してしまいます。 享年52才。

武田信玄は「3年間は死を隠せ」と遺言しますが、家臣が密かにお経をあげている姿などが偵察され、その死はすぐに周辺に知れ渡ってしまいます・・・

その後、武田家は「武田勝頼」が後を継ぎ、立て直しを図ります。
勝頼も優れた武将であり、徳川家に進攻し、武田家の領土はさらに拡大していました。

しかし新しい家臣を重用し、古くからの武田家の重臣を軽く見る傾向があったとも言われています。
そして1575年、織田家と武田家が戦った、有名な「長篠の戦い」が起ります。

信長の鉄砲三段撃ちこの戦いで織田信長は、鉄砲隊の前に柵を張り、鉄砲隊を3段構えにして連続発射する、独自の戦法を用います。
当時の鉄砲は発射するまでの準備が大変で、撃つまで時間がかかったのですが、信長は3段構えの最前列が撃っている間に、2列目と3列目は発射の準備を行い、撃った人は最後尾に回ると言う戦法を取りました。
これは鉄砲を有効に活用する画期的な戦法です。

しかしこの有名な「三段銃陣」は、敵が正面から突っ込んで来てくれないとダメな戦法でした。
側面から襲われたり、相手が突っ込んでこなかった場合は機能しません。

そのため武田家の古くからの重臣たちは勝頼に、一時後退して戦いの場を改めることを提案します。
しかし「武田の騎馬隊」に絶対の自信を持つ武田勝頼は、重用していた新しい家臣たちの進言もあって慎重案を却下、正面からの突撃でこれを打ち破る事を決めてしまいます。

こうして・・・ 織田の鉄砲隊に正面から突っ込んでいった武田の騎馬隊は、鉄砲の連続発射で蜂の巣にされ大敗を喫し、精強な兵士や武将たちの多くが戦場に消える事となりました。

その後、武田家は防戦一方の展開となり、家臣の寝返りも相次ぎます。
そして1582年、織田家・徳川家・北条家の進攻の前に、ついに滅亡することとなります。
それは「本能寺の変」が起こる直前の頃の出来事でした・・・


武田家には名将と呼ばれる武将達がキラ星の如く揃っており、武田信玄自身も優れた政治家・戦略家として知られ、それはまさに戦国最強軍団の名に相応しいものでした。
もちろん、とても人気のある戦国武将ですね。

もう少し信玄が長生きしていれば、上洛の夢を果たすことは出来たのでしょうか・・・?


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