織田氏

織田家 と 織田信長

尾張(現在の名古屋)を拠点とし、戦国の風雲児 「織田信長」 が治めたのが、この織田家です。
近畿地方を制圧して将軍を擁立し、天下に覇を唱えた、戦国時代の「覇王」ですね。

よく織田信長は「天才」の代名詞とされます。
「天才」とは、知略・機略・アイデアに富み、全く新しいものや制度を次々と生み出しますが、常人には理解できない性格も併せ持ち、変わり者とよく言われます。
信長はまさに戦国の天才と言える人物で、その力で織田家を大名家のトップに押し上げていきました。

しかし戦国時代が始まる前、尾張は「斯波家」という権力者が支配しており、織田家はこの斯波家の配下に過ぎませんでした。
織田家も最初の頃は小勢力に過ぎなかったのです。

1550年頃しかし織田家は徐々に独立、信長の父「織田信秀」は周辺に軍事進攻して勢力を拡大、戦国大名となっていきます。
ただ、信長が幼少だった1540年~1550年ごろは、美濃の斎藤家や遠江の今川家との合戦に敗れ、その勢力に陰りが見えていた頃でした。

信長は子供の頃からかなり変わっていたと言います。
成長しても殿様の子とは思えないような上半身裸のラフな格好で町のワル仲間と連れ添って歩き、狩りや相撲などをして遊んでいたと言います。
そのため「大うつけ」として周辺の話題になっていました。

信長が「大うつけ」として決定的になったのは、父の織田信秀が病死した、その葬儀の時でした。
葬儀にいつまで経っても現れないと思ったら、葬儀の終了間際に突然いつものラフな格好で現れ、位牌の前まで歩いていったかと思うと、焼香をつかんで位牌におもいっきり投げつけ、そのまますぐ帰ってしまい、居合わせた家臣を唖然とさせてしまったのです。

このため、織田家の跡継ぎは信長と決まっていましたが、あまりの「大うつけ」ぶりに信長が継ぐのに反対する家臣が出始め、その結果、弟の織田信行が跡継ぎ候補として上がり、相続争いが起ってしまいます。

その後、弟の織田信行は協力した家臣と共に独立、信長に対して反乱を起こします。
しかしこの時、信長は少数ながら敵を圧倒する活躍を見せ、反乱を鎮圧。
結果として反対派は粛清され、逆に信長の大将としての才覚を示す結果となりました。

その後、美濃の大名「斎藤道三」の娘「帰蝶」(濃姫)と結婚していた信長は、その道三と正徳寺というお寺で会見します。
その道中で信長は、またラフな格好で出向いていったため、それを聞いた斎藤道三を呆れさせますが、共の兵士たちは500本の(すごく長い)朱槍、500挺の鉄砲を持っており、眺めていた人々や斎藤家の家臣は驚いたと言います。

そして会見の席では一転して正装で現れ、紹介された道三に対して「で、あるか。」と尊大に答えます。
会見の時、道三はずっと苦い表情をしていたようで、会見後、斎藤道三は信長に感服。
「やはり"たわけ"でしたな」と言った家臣に対し、「だからこそ無念。 我が子ら皆、あの男の門前に馬をつなぐことになるだろう」と語ったと言われています。

これらは信長が、ただの「うつけ者」ではなかった事がわかるエピソードです。

それから数年後・・・ 織田家と戦国時代に、大きな事件が起ります。
1560年の「桶狭間の戦い」です。

当時「海道一の弓取り」と言われるほど大きな勢力を持っていた「今川家」の今川義元が、京都を目指して大軍を進め始めます。
その規模は先陣で25000人、総勢4万人ほどで、対する織田軍は全てかき集めても5000程度しかおらず、この今川の大軍団の前に織田家は潰されると周囲の国は見ていました。

しかし、ある日の夜・・・ いくさの準備さえしていなかった信長は突然武将達に集合をかけると、単騎で飛び出していきます!
そしてあわてて集まってきた将兵達と共に、熱田神宮で戦勝を祈願すると、そのまま今川軍が本陣を置いている桶狭間の地に雨にまぎれて急進、これを襲撃します!

今川家の本陣はこの突然の奇襲攻撃に大混乱!
大軍も機能せず、そのまま大将の今川義元は討ち取られ、今川軍は壊滅します。

この「桶狭間の戦い」が、ただのラッキーだったのか、信長の緻密な作戦によるものだったのかは、歴史学者の間でも論争が続いています。
いずれにせよ、こうして織田信長の名は一躍、戦国時代にとどろく事になりました。

1570年頃今川義元の無き後、信長は隣国の三河で独立した 徳川家康と同盟を結び、東側の憂いをなくします。
そしてクーデターによって父を殺害し、美濃の国主となっていた斎藤義龍との合戦を続けました。

斎藤義龍が病死した後、信長は美濃を征服して拠点を移し、この国の名を「岐阜」と改名。
これを天下への足がかりとして、伊勢の「北畠家」や南近江の「六角家」など、各地の大名家に進攻していきます。

また、近江の「浅井家」に妹の「お市」を嫁がせ、縁組して同盟、京都方面への道を確保します。
これは京都から追放されて信長を頼ってきた将軍「足利義昭」を、京都に復帰させるためでもありました。

こうして近畿地方を一気に制圧した信長は、将軍を保護して京都を制圧、その後ろ盾で天下人となります。
織田家は日本の大名家のトップに上り詰めた訳ですね。

しかしここから、織田信長は窮地に陥ります。

信長包囲網織田信長が「朝倉家」という大名家を攻めた際、朝倉家と長年の関わりがあった浅井家が、織田家との同盟を破棄、朝倉家と共に敵対してしまいます。

さらに将軍に復帰した足利義昭が、他の大名家と独自に交渉を始めます。
信長は勝手なことをしないよう、将軍の権力を制限しようとしますが、これが原因となって足利義昭と織田信長 は不仲になってしまい、怒った足利義昭が各地の大名家に「信長討伐」の命令書を発送します。

これに「浅井家」「朝倉家」「武田家」「上杉家」「本願寺」 などの各地の大名家が応え、織田家は周辺の勢力からまとめて敵視される事となってしまいます!
この頃の状況は「信長包囲網」と呼ばれます。

そして「武田家」の「武田信玄」が京都への上洛(進軍)を開始、その途中で織田家の同盟国であった徳川家の攻撃を一蹴。
さらに宗教勢力であった「本願寺」が各地の「一向宗」という宗教の信者に一揆を起こさせまくり、信長は一時ピンチに陥ります。

しかし・・・ 武田信玄は上洛の途中で病死。
信玄を頼りに挙兵していた将軍・足利義昭も追放

そして信長は敵対していた浅井・朝倉連合軍を打ち破ってこれを滅ぼすと、京都の周辺を完全に掌握し、自らが武士の頂点となります。
そして信長は、当時最大の敵「武田家」に挑みます。

信長の三段撃ちこの戦いは「長篠の戦い」と呼ばれ、 戦国最強と言われていた武田家の騎馬軍団を、信長が新兵器・鉄砲で迎え撃った戦いです。
当時の鉄砲は撃つまでに時間がかかり、騎馬隊のような機動力に優れた部隊には不利とされていました。
しかし信長は鉄砲隊の前に柵を作り、鉄砲を3段構えにして、先頭の人が撃っている間に後ろの鉄砲隊が準備をするという、鉄砲を連続発射する「三段撃ち」を考案。
これによって武田の騎馬隊を壊滅させます。

これは織田信長が、先進的な武器と戦術で旧時代の戦術を撃破した戦いとして知られています。

しかしこの頃、信長は要請を無視した「比叡山」という歴史ある仏教の総本山を焼き討ちにし、そこにいた老若男女を皆殺し、寺院仏閣も全て焼却。
さらに要請を拒否した「伊賀」の忍の里を大部隊を持って攻撃、ここも壊滅させ、居合わせたものを全て殺害しています。

「一向一揆」と呼ばれる宗教一揆に対しても、捕らえた者を皆殺しにし、何万人もの人々を虐殺する苛烈さで、この頃の信長は傍若無人さが目立ち、そのため世間から「第六天魔王」と呼ばれるようになりました・・・
もっとも信長自身は、この「第六天魔王」の異名を嫌いではなかったようですが。

しかし、盛隆を極めた織田信長にも、突然の破滅が訪れます。
本能寺の変」です。

1582年、家臣の「明智光秀」が突然謀反(反逆)、京都の「本能寺」という寺に宿泊していて、ほとんど兵を連れていなかった信長は、この謀反であっけなくその生涯を閉じる事になります。
享年49才。信長が好きだった舞の歌詞「人間五十年」の通り、ほぼその歳で歴史の舞台から姿を消す事になります・・・

その後、謀反を起こした明智光秀は信長の配下「羽柴秀吉(豊臣秀吉)」に討たれ、織田家は「秀吉派」と、 もう1人の重臣「柴田勝家」の2つの派閥に分かれる事になります。
清洲会議」で織田家のその後を決める相談が行われますが、結局は合戦に。
この争いは秀吉が勝つことになり、織田家は秀吉による「豊臣家」へと変わっていくことになります。


「桶狭間の戦い」で突然台頭し、そして「本能寺の変」で突然去っていった織田信長。
奇行が目立ち、「破壊者」とも「改革者」とも言われる彼により、一代で頂点まで登った織田家は、彼の死後、あっという間に歴史の舞台から消えます。

先進的な目を持つ彼が、もし本能寺の変で生き残っていれば、日本は変わっていたのでしょうか・・・?
ただ、奇抜な天才が突然退場するのも、歴史の常かもしれません。


織田家 武将名鑑
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