本能寺の変・後編


本能寺の変……
戦国の覇王「織田信長」が家臣の「明智光秀」に倒され、その光秀も「羽柴秀吉」に滅ぼされた事件です。
戦国最大の事件であり、ひとつの時代が終わりを迎えました。

本能寺の後ただ、そのため多くの歴史物語は「本能寺の変」か、その後に明智光秀と羽柴秀吉が戦った「天王山の戦い(山崎の合戦)」が終わった所で、物語も終了してしまいます。
でも本当は、この後も「本能寺の変」によって起こった混乱と戦乱は続いていました。

秀吉が信長の後継者となったのは、実力でライバルを倒していったからであり、自然に決まった訳ではありません。

その課程はあまりドラマや小説などでは取り上げられませんが……
このページではそんな本能寺の変の「後」の出来事を、あまり歴史に詳しくない方でも理解できるよう、出来るだけ解りやすく解説しています。

※よって基本的に「定説」をベースとしています。 難解になる考察や議論は行っていません。
※ゲームや歴史小説に登場する、身近な武将をピックアップして解説しています。
画像は「信長の野望 オンライン」および 信長の野望 天下創世信長の野望 蒼天録太閤立志伝V のものです。


このページは「本能寺の変」特集の3ページ目(信長死後の権力闘争)です。
前編(本能寺への経緯)から見たい方は こちら を、中編(本能寺の変・発生時)を見たい方は こちら をご覧下さい。


天正10年(1582年)6月27日

【 清洲会議 】

※本能寺の変から25日

ここからは本能寺の変の後日談となります。

この後、羽柴秀吉が天下を統一し、豊臣秀吉として天下を治めていく事になりますが・・・
そこに至る道は、決して平坦なものではありませんでした。
むしろ、新たな戦いはここから始まる事となります。

清洲会議「本能寺の変」の混乱が一段落付いた6月末・・・
織田家の重臣達は織田信長が最初に居城とした城、尾張(名古屋)の「清洲城」という城に集まって、今後どうするかの会議を行いました。
これを「清洲会議」と言います。

主な参加者は織田家のトップクラスの家臣 羽柴秀吉柴田勝家丹羽長秀池田恒興 です。
織田家の重臣にはもう一人 滝川一益 という人がいましたが、この人は本能寺の変の際に関東の大名「北条家」と戦って敗戦したばかりで、それどころではなかったため清洲会議には参加できませんでした。
(参加できなかったのは秀吉の策謀だとする説もあるようです)

この会議ではまず、「織田家の後継者を誰にするか」が話し合われます。

柴田勝家は、信長の三男「織田信孝」を後継者にするべきだと主張します。

柴田勝家柴田勝家 織田信孝三男
織田信孝

長男の「織田信忠」は本能寺の変で戦死しているため、次男か三男が跡を継ぐのは筋ではあります。
次男の「織田信雄」は伊賀忍軍を攻撃しに行って大負けしたとか、普段から行動がアレとか、「大うつけ」と評判だったので支持する人はいませんでした。
一方で、三男の織田信孝は評判は悪くなく、天王山の戦い(山崎合戦)にも参加しており、この戦いの名目上の総大将でもありました。

しかし羽柴秀吉は「織田信忠」の息子である、まだ幼い「三法師」を後継者にするべきだと主張します。

羽柴秀吉羽柴秀吉 三法師長男の子
三法師

織田家の本来の跡継ぎであった織田信忠の長男なのですから、こちらも筋は通っています。
加えて、織田信雄や織田信孝は他の大名家に養子に出されていたため、筋違いだと主張します。

ただこの裏には、秀吉がまだ幼い三法師を後継者にして、自分の好きなように織田家をコントロールしたいという算段もあった、とも言われています。
(この時、まだ三法師は3才でした)

柴田勝家と羽柴秀吉の主張は平行線を辿りますが、明智光秀を討ち果たし、織田信長の敵討ちを成し遂げたのは秀吉です。
柴田勝家は敵討ちに際して、何も出来ていません。
加えて、丹羽長秀と池田恒興も秀吉を支持しました。
会議は秀吉ペースで進み、織田家の跡継ぎは「三法師」に決定します。

織田信雄次男
織田信雄

しかし、柴田勝家が納得することはありませんでした。
加えて、跡継ぎ候補であった次男の織田信雄や、三男の織田信孝も、自分が跡継ぎになれないことに不満を持ちます。

こうして織田家は、主君が死んだ後の定番の展開……
跡継ぎ争い」へと向っていく事になります。


天正10年(1582年)7月

【 織田家分裂 】

※本能寺の変から1ヶ月後

清洲会議の結果、織田家の後継者は羽柴秀吉の主張した「三法師」となります。
また、その後見人は織田信長の三男「織田信孝」に決まりました。
柴田勝家は織田信孝が跡を継ぐのを主張していましたから、織田信孝を後見人とする事で、話し合いを収めたようです。

本能寺の変の後の織田家領土そして織田家の領地は、それぞれの武将で分割されました。

織田信長の次男「織田信雄」は尾張(名古屋)の国を、
織田信長の三男「織田信孝」は美濃(岐阜県)の国を領地とします。

姫路や京都などの地方は羽柴秀吉が治める事となりました。
北陸地方は柴田勝家と、その配下の前田利家佐々成政が治めます。

京都の北「若狭(福井西部)」は丹羽長秀が、伊勢地方は滝川一益が、以前から領地としていました。
摂津(大阪)地方は、本能寺の変の少し前から池田恒興が治めています。

また、清洲会議で柴田勝家が強く要請したことにより、近江(琵琶湖周辺)は柴田勝家の領地となります。

この領地の分配の時点で、すでに双方の戦略的な駆け引きが伺えます。

なお、織田信長の居城であった「安土城」は、本能寺の変のすぐ後、火事で焼失してしまいました。
原因は色々と言われており、失火という説が有力ですが、織田信雄(次男)が何らかの理由で火を放ち、焼いてしまったとも言われています。

会議が終わった後、各武将は領地に戻り、内政と軍備を行いますが・・・
すでに水面下での対立は始まっていました。


天正10年(1582年)8月

【 戦乱再燃 】

※本能寺の変から2ヶ月後

最初に明確な行動を起したのは、三男の「織田信孝」でした。

織田信孝織田信孝

彼は清洲会議で後援してくれた柴田勝家と密接に連絡を取り合い、三法師を世話しつつも、羽柴秀吉との対立を深めていきます。
彼は自分が後継者になれなかった事以上に、羽柴秀吉がこの状況を利用し、自らの権力を強めようとしていたことに嫌悪感を抱いていたと言われています。

しかし、そうした動きは羽柴秀吉も予想していました。
秀吉側も各地の織田家の武将に協力を要請、味方を増やす活動を開始します。
こうして各地の武将や大名家が、羽柴秀吉と柴田勝家のどちらかの陣営に近づいていく事となります。

柴田勝家と仲の良かった織田家の重臣、滝川一益佐々成政は、柴田勝家&織田信孝に味方します。
柴田勝家の配下として活動してい 前田利家も立場上、柴田勝家の味方となります。
ただ、彼は若い頃から羽柴秀吉と家族ぐるみの付き合いをしていたため、微妙な立場となります。
丹羽長秀池田恒興は、清洲会議の時と同様、羽柴秀吉に味方する立場となります。

織田信長の次男「織田信雄」は、織田信孝が台頭して柴田勝家と協力したため、それに対抗して羽柴秀吉に協力します。
これは秀吉にとって「信長の次男を擁護している」という大きな大義名分となりました。

本能寺の変の後、織田家分裂
黄字=羽柴秀吉陣営青字=柴田勝家陣営
(地図は「信長の野望 天下創世」より)

また、強大な実力者であった織田信長が倒れたことで、各地で戦乱が再燃していく事となります。

「本能寺の変」の混乱により、武田家の領地であった信濃や甲斐(長野・山梨周辺)では武田家残党や農民による蜂起が発生、その地を治めていた河尻秀隆が戦死し、軍事的な空白地となりました。
そのため地元の勢力が次々と独立を開始、謀将 真田昌幸が率い、のちに真田幸村などが登場する「真田家」も、この時期に台頭しています。
さらに織田家の同盟者であった徳川家康、関東の大名「北条家」、さらに越後の「上杉家」が、一斉に甲斐と信濃に進出を開始。
のちに「天正壬午の乱」と呼ばれる領土の取り合い合戦が始まります。

織田信長によって滅ぼされた伊賀忍軍があった伊賀の地でも、信長の死と同時に反織田勢力が蜂起し、そのまま争乱に。

本能寺の変の際に秀吉と講和した中国地方の「毛利家」と、本能寺の変の直前まで柴田勝家と戦っていた越後(新潟)の「上杉家」は、秀吉寄りの陣営となります。
大和地方(奈良)の大名「筒井家」も羽柴秀吉の配下となりました。

一方、四国を統一したばかりの大名家「長宗我部家」や、織田家と敵対していた紀伊半島南部の勢力「雑賀衆」は、柴田勝家の要請に応じて秀吉と対立し、柴田側に近い勢力となっています。

各勢力は徐々に二分されていきました。


天正10年(1582年)11月

【 信長の葬儀 】

※本能寺の変から5ヶ月後

羽柴秀吉は9月から、自分が織田家の最有力者である事をアピールする行事を行います。
織田信長の葬儀」です。

信長の葬儀まず9月、織田信長の死から百日目の「百日忌法会」を執り行ないます。
そして11月、信長の四男を喪主として、京都の町で大々的に「信長の葬儀」を実施しました。
それは7日間に渡って行われ、信長の棺は黄金と宝石で彩られた、非常に豪華なものだったと言います。
(棺の中には、遺体の代わりに信長の木像が入れられていたそうです)

葬儀の列は三千人、警護は三万人の兵によって行われ、お経をあげる僧侶は数知れず、もちろん見物人も膨大な数だったと言われています。
これを羽柴秀吉が執り行なった事により、秀吉は自身の立場を大きくアピールする事になりました。

また、この時期には朝廷工作も積極的に行っており、新しい官位・官職(朝廷が任命する公式の名誉職)も得ています。
これらは京都を領地にしていた秀吉の大きなアドバンテージと言えます。

その後、これらの効果があったのか、それとも冬が間近だったためか、11月末に柴田勝家は前田利家を使者として、秀吉との講和を行っています。
結局、この講和は意味がなかったのですが・・・


天正10年(1582年)12月

【 秀吉進軍開始、信孝挙兵 】

※本能寺の変から6ヶ月後

本能寺の変の後、秀吉の進軍12月…… 事は大きく動き始めます。

羽柴秀吉はこの月、いきなり近江(琵琶湖周辺)に進軍を開始、柴田勝家の領地となっていた琵琶湖の西にある「長浜城」を包囲します。
この長浜城は以前、秀吉が自分の本拠地としていた城でした。

長浜城を守っていた柴田勝豊は柴田勝家の養子でしたが、当時は柴田勝家との仲が悪かったため、城を包囲されるとあっさり降伏してしまいます。
これにより、清洲会議で柴田勝家が熱望して領土とした戦略上の重要地「近江」の地は、秀吉が制圧することになりました。

そしてこの動きを受けて危機を感じたのか、織田信孝は兵を集め「岐阜城(旧 稲葉山城)」で挙兵、守りを固めます。
しかし迅速に進軍してきた秀吉の軍勢と、南から進軍してきた織田信雄の軍勢に瞬く間に包囲され、もはや多勢に無勢、降伏勧告を受け入れます。

秀吉がこの12月に動いた大きな理由は「雪」だと言われています。
柴田勝家が本拠地としていた北陸地方は雪国です。
秀吉が軍勢を動かしても、柴田勝家は積雪によって、兵を動かす事が出来なかったのです。

織田信孝は信長の三男ですから、さすがに降伏した後に処刑されるような事はなく、美濃の領地や城もそのままでした。
しかし、後見人として保護していた織田家の跡継ぎ「三法師」を秀吉に取られてしまい、その立場は大きく低下します。
これを受け、美濃にいた武将や有力者の多くが織田信孝から離れ、秀吉側に付いたと言います。

そして秀吉は、味方になっている織田信雄を三法師の新たな後見人として指名。
織田家の跡継ぎと信長の次男を保護下とする事で、その立場を盤石なものとしました。
戦略的に重要な近江も支配し、柴田勝家に大きくリードする事になります。


天正11年(1583年)2月

【 柴田勝家、出陣 】

※本能寺の変から8ヶ月後

本能寺の変の後、柴田勝家出陣羽柴秀吉が近江を攻め、織田信孝も降伏させた事で、完全に羽柴秀吉&織田信雄の陣営と、柴田勝家&織田信孝の陣営は戦争状態に入りました。
しかし、柴田勝家は北陸の積雪により動けません。

1月、羽柴秀吉は正月の新年会を行い、多くの武将の前で三法師織田信雄に祝辞を述べ、自らが織田家の最有力者である事をアピールすると共に、協力者に結束を促しました。

一方、柴田勝家側も行動を開始。
勝家支持を表明している伊勢地方の滝川一益が進攻を開始し、伊勢に近い場所の秀吉側の城を次々と落城させていきます。

しかし2月に入ると秀吉も反撃を開始、伊勢地方に進軍して取られた城を奪還すると、伊勢に進攻していきます。
滝川一益の軍勢は守りを固めますが、徐々に戦況は不利になっていきます。

こうした動きを受け、柴田勝家は雪が解けないうちから出陣準備を開始
そして2月半ば、完全な雪解けを待たずして北陸から京都方面に向って進軍していきます。
これを見て、一度は降伏した織田信孝も美濃で再び挙兵。
いよいよ両者が対決の時を迎えます。


天正11年(1583年)4月

【 賤ヶ岳の戦い 】

※本能寺の変から10ヶ月後

進軍を開始した柴田勝家軍は、北陸の山岳地帯の砦を強化して、守りを固めながら進んでいきます。
一方、羽柴秀吉軍もこの方面に出陣し、琵琶湖の北にある「賤ヶ岳(しずがたけ)」という場所の「大岩山」に砦を築いて、迎撃体勢を整えます。

このまま両軍はしばらくにらみ合っていたのですが、美濃(岐阜)では織田信孝が挙兵しており、伊勢地方の滝川一益もこれと合流するべく北上を続けていました。
そのため秀吉は、配下の中川清秀高山右近羽柴秀長などに大岩山の防衛を任せ、本隊を率いて美濃に向かいます。

しかし大岩山から秀吉軍の本隊がいなくなったのを、柴田勝家側もチャンスと判断。
柴田勝家の配下の猛将「佐久間盛政」が、弟の柴田勝政と共に大岩山への攻撃を開始します。

佐久間盛政佐久間盛政

鬼とも称された佐久間盛政の攻撃によって大岩山の秀吉軍は崩壊!
中川清秀は戦死し、高山右近や羽柴秀長も敗走します。

しかし、問題はこの後でした。 佐久間盛政が敵地に突出しているため、柴田勝家は後退するよう命じるのですが、勝利に気を良くしていたのか、それとも重要地の確保を優先したのか、佐久間盛政は後退命令を無視。
逆に柴田勝家の本隊に進軍を求め、大岩山を制圧後、その場に居座ってしまいます。

柴田勝家は何度か伝令を送って後退するよう命じますが、佐久間盛政は応じません。
一方、大岩山が佐久間盛政に制圧された報告を聞いた羽柴秀吉は、一言「我、勝てり」と答えたと言います。

秀吉の賤ヶ岳大返しすかさず秀吉は軍勢を率いて、大岩山へと戻っていきます。
その速さは本能寺の変の時の「中国大返し」以上の猛スピードであり、数日かかる道のりをたった7時間ほどで戻って行きました。

秀吉はあらかじめ大岩山への道を整備しておき、道の脇には松明を並べて街灯とし、さらに道中の各所に水や食料を用意させる手配も整えていたと言われています。
つまり、事前に高速道路を用意していた訳です。

急に現れた秀吉軍の本隊を見て、佐久間盛政は急いで後退を指示。
しかし秀吉も逃しません。
逃げ遅れた柴田勝政への総攻撃が開始され、それを救援すべく佐久間盛政も迎撃を試みますが、すでに勢いは秀吉軍にありました。

おまけに佐久間盛政の後方に布陣していた柴田勝家軍の前田利家が、この状況で戦線離脱。
柴田勝家の配下でありながら、秀吉とも長い付き合いだった前田利家は両者の板挟みにあっており、結局ここで、どちらにも味方しない方針を決めたのです。
しかしこの状況で前田軍が中立になったのは、佐久間盛政にとっては致命的でした。
こうして佐久間盛政の率いる柴田軍の先陣部隊は孤立し、壊滅することになります。

そして柴田軍の先陣部隊が壊滅した事で、柴田軍の本隊では脱走兵が相次ぎます。
7000人以上いた柴田軍の本隊は、たった1日で半分以上の兵が抜け出し、3000人ほどになってしまったと言います。

ここまで脱走兵が相次いだのは、柴田勝家が領地としていた北陸地方は織田家に占領されて間がなく、しかも元々は一向一揆(一向宗の信者による一揆)で独立していた地域で、そこで徴兵された兵士は織田家に心服していなかったためのようです。
おまけに秀吉が織田家の後継者だという風聞がすでに広まっており、雪の中での行軍で兵も疲れていて、そこに目の前の敗戦が加わって、歯止めが利かなくなったようです。
こうして柴田勝家の本隊は、戦う前からボロボロの状態になりました。

その後、佐久間盛政軍を撃破した秀吉軍と、柴田勝家軍が戦闘を開始しますが…… この状況で柴田軍が勝てるはずがありません。
敗れた柴田勝家は自分の城「北ノ庄城」に退却し、賤ヶ岳の戦いは決着しました。


天正11年(1583年)5月

【 勝家・信孝派の崩壊 】

※本能寺の変から11ヶ月後

城炎上「賤ヶ岳の戦い」に敗れて城に戻った柴田勝家は、包囲した秀吉軍が呆れるほどの大宴会を行った後、城に火を放ち、自害しました。
この時、妻だった織田信長の妹 お市 も運命を共にしています。

柴田勝家の死により、織田信雄軍と戦闘中だった織田信孝滝川一益も降伏。
後ろ盾を失った織田信孝は、織田信雄を通して自害を求められ、切腹する事になります。

こうして織田信長の三男「織田信孝」が死んだことで、織田家の跡継ぎ争いは一旦終息することとなりました。

羽柴秀吉は「賤ヶ岳の戦い」の勝利を各地の大名家に報告、これによって毛利家・上杉家・徳川家、九州の大友家などが祝賀の挨拶に訪れ、これらの大名家は事実上、羽柴秀吉に従う事となります。

その後、秀吉は巨大な「大阪城」の築城を開始。
朝廷からも新しい官位を与えられ、まさに天下人になろうとしていました。


天正11年(1583年)11月

【 織田信雄、家康に接近 】

※本能寺の変から1年と5ヶ月後

終息したかに見えた織田家の後継者争い。
しかし織田信雄の行動により、ここから第二幕に入ります……

織田信雄織田信雄

秀吉は8月から「大阪城」を築いて、自らが天下人になるための活動を開始しました。
彼が天下人を目指している事は、もう誰もが周知のことではありましたが……
しかし織田信長の次男である「織田信雄」には、やはり面白くありませんでした。

「賤ヶ岳の戦い」の前まで羽柴秀吉は織田信雄の臣下であるという姿勢でいましたが、大阪城の築城を開始した頃から、秀吉は信雄より上位であるという姿勢を取り始めます。
これにより、両者の関係は急速に冷えていきます。

このため織田信雄は、徳川家康との関係を強化し始めます。
織田信雄が領地としていた尾張(名古屋)は、徳川家康が領地としている三河(名古屋東部)のすぐとなりです。
さらに秀吉嫌いの北陸の武将 佐々成政や、羽柴秀吉と対立中の雑賀衆、四国の長宗我部家など、まだまだ秀吉に対抗する勢力は存在していました。

こうして、次の争いの火種がくすぶって行きます・・・


天正12年(1584年)3月

【 三家老殺害事件 】

※本能寺の変から1年と9ヶ月後

三家老殺害事件羽柴秀吉と織田信雄の関係が悪化している事が明白になっていた、この年の3月……
織田信雄が、自分の重臣である3人の家臣を処刑してしまうという事件が起こります。

この3人はすでに秀吉に寝返っており、情報を流していたため、それを知った織田信雄が処罰したというのが処刑の理由でしたが、実際に彼らが寝返っていたのかどうかは不明です。
「寝返った」というニセ情報を秀吉側が流していたという説もあります。

いずれにせよ、彼ら3名を処刑したのは織田信雄による秀吉への宣戦布告でもありました。
羽柴秀吉はすぐに「家老をみだりに成敗するのは不届き千万!」と織田信雄を非難し、合戦の準備を進めます。
しかし織田信雄も、友好を築いていた徳川家康に状況を報告し、協力を要請。
さらに近畿地方南部の雑賀衆、四国の長宗我部家などにも支援を求めます。

要請を受けた徳川家康は、翌日には織田信雄軍と合流。 その兵力は約1万5千。

これを聞いた羽柴秀吉もすぐに出陣しようとしますが、家康の要請を受けた雑賀衆が大阪方面に進軍を開始。
まずはその対応に追われることになります。
結果として秀吉軍の本隊の出陣は、やや遅れることになってしまいます。


天正12年(1584年)3~5月

【 小牧・長久手の戦い 】

※本能寺の変から1年と9ヶ月後

遂に激突する羽柴秀吉徳川家康

小牧山城徳川軍はまず、尾張(名古屋)と美濃(岐阜)の間あたりにある「小牧山」という場所に陣を張ろうとして、配下の酒井忠次榊原康政などを派遣しました。

ここは秀吉軍も狙っていたのですが、秀吉の本隊は出遅れていたため、配下の森長可を派遣。
しかし小牧山付近での前哨戦は徳川軍が勝利。
徳川本隊はこの山にあった古い城(小牧山城)を改修して本陣とし、守りを固めます。

その後、秀吉の本隊が到着し、こちらも近くの城(犬山城)を改修して本陣とします。
双方の兵力は徳川軍17000人に対し、秀吉軍は30000人以上。
最終的に秀吉軍は10万に迫る軍勢を集めており、兵力では秀吉が圧倒的に優勢でした。

ただ、小牧山は守るのに適した場所であり、秀吉軍も何度か攻撃を行いますが失敗。
結果として両軍は、このままこう着状態に陥ります。

そして半月ほどたったある日……
秀吉軍の池田恒興が、「徳川軍はここにいるのだから、迂回してその背後にある徳川家の本国・三河を突けば、徳川家康は動かざるを得なくなって、勝利は間違いなし!」と秀吉に進言します。
羽柴秀吉は積極的に出ることを嫌っていたようですが、この徳川軍の後方を攻撃する案に森長可や、後に秀吉の養子となる三好秀次(豊臣秀次)も賛成。
結局、彼らに押されて秀吉はこの案を承諾する事を決め、戦上手と評判の掘秀政と、2万の兵を与えて出陣させます。

小牧・長久手の戦いこうして秀吉軍の別働隊が、小牧山を迂回して密かに三河へと向かうのですが……
密かに動くには2万人の軍勢は多すぎました。
この動きはすぐに徳川家康も知る事となります。
(家康を誘い出すため、ワザと見つかる規模にしたという説もあります)

さっそく徳川軍は、榊原康政大須賀康高水野忠重といった武将に4500ほどの兵を与え、これを追わせます。
兵は少数ですが、そのためかこの部隊の動きは秀吉軍に気付かれませんでした。
さらにその後、8000人の兵を率いて徳川家康も自ら出陣します。

その夜、秀吉軍の別働隊を、徳川軍が後方から攻撃!
奇襲部隊が奇襲された格好です!
狭い山道を深夜に行軍していたため秀吉側は大軍も機能せず、三好秀次(豊臣秀次)の部隊はそのまま壊滅してしまいます。

戦上手の掘秀政が異変に気付いて軍勢をまとめて迎撃し、徳川軍を追い返しますが、被害は大きなものとなりました。
一方、池田恒興や森長可は進軍先にあった「岩崎城」を攻撃していて、三好秀次軍の敗走に気付いていませんでした。

その後、秀次軍が崩壊した報告を聞き、撤退しようとしたのですが、そこに徳川家康の本隊が登場。
「これを討てば勝てる!」と秀吉軍は総攻撃を開始!
これに徳川軍も応戦し、「長久手」という場所で激突します。

この戦いは、湿地であることを利用して鉄砲隊を巧みに配置した徳川軍が優勢に展開。
森長可は眉間を銃撃されて戦死、池田恒興も討ち取られ、秀吉軍の攻撃部隊は瓦解します。

この報告を聞いた羽柴秀吉は、徳川家康が出陣している事を聞いて逆にチャンスと判断、すかさず2万人の軍勢を率いて出陣するのですが・・・
わずか600ほどの本多忠勝の部隊に翻弄され、進軍に手間取ります。

そうこうしているうちに徳川家康の本隊は小牧山に帰還。
秀吉は攻撃を諦め、戻る事となってしまいます。


天正12年(1584年)11月

【 織田信雄、単独講和 】

※本能寺の変から2年と5ヶ月後

「小牧・長久手の戦い」は、徳川家康の勝利で終わりました。
そのためか羽柴秀吉は以後、積極的に打って出る事を控えます。
兵力は秀吉軍が圧倒的なのですから、このまま守っていれば徳川軍も動けません。

以後は目立った戦いもなく、6月には秀吉も大阪に戻ります。
これは大阪周辺で雑賀衆長宗我部家が不穏な動きをしていたからというのもあったようです。

徳川軍は6月に進軍を再開し、羽柴秀吉の配下となっていた滝川一益が守る城を包囲して陥落させますが、目の前に数万の秀吉軍の本隊がいるため、これ以上の動きは出来ません。

対陣が長くなるにつれて、戦いはだんだん外交戦・交渉戦になっていきました。
9月には秀吉軍と徳川軍の間で和平交渉が行われましたが、双方が出した条件が折り合わず決裂。
また、この月から反秀吉派の武将である北陸地方の佐々成政が、秀吉側の前田利家に対して攻撃を開始します。

交渉そこで羽柴秀吉は、徳川家康ではなく、織田信雄との交渉を開始しました。

元々この戦いは、織田信長の次男「織田信雄」の立場を巡って起こったものです。
織田信雄は以前は秀吉と共に戦っていましたから、秀吉側としては徳川家康よりも交渉しやすい相手でした。

そこで秀吉は織田信雄の弟である織田有楽斎を使者として派遣し、講和の交渉を開始。
そして…… 織田信雄は単独で、あっさり羽柴秀吉と講和してしまいます!

驚いたのは徳川家康です。 講和について、織田信雄から何の連絡も受けていません。
しかし織田信雄が羽柴秀吉と仲直りしてしまった以上、もはや戦う理由はなくなります。

こうして織田信雄の単独講和から10日後、徳川家康も兵を引きます。
その後、家康は息子の「結城秀康」を人質として秀吉に差し出し、戦いは終結しました。
ただ、徳川家康は勝手に講和した織田信雄について、かなり怒っていたようです。

結果としてこの戦いは「戦術的には徳川家康の勝利、政略的には羽柴秀吉の勝利」と言われています。


天正13年(1585年)以降

【 豊臣秀吉、天下統一へ 】

※本能寺の変から3年後以降

秀吉と講和した織田信雄は、以後は完全に羽柴秀吉の臣下となります。
その後は秀吉の要請に応じて、佐々成政徳川家康との交渉役になっており、翌年にはこの両者も秀吉に臣従しました。

天下統一秀吉に抵抗し続けていた雑賀衆は、秀吉軍の大規模な進攻を受けて滅亡。
四国の長宗我部家は秀吉軍に敗退した後に降伏しています。

そして大阪城が完成し、朝廷工作によって官職の最高位「関白」に就任。
豊臣秀吉」の名を与えられます。

1587年、九州の覇者となっていた戦国大名・島津家を降伏させます。
1589年、東北地方の伊達家も臣従させ、最後まで抵抗した関東の大名・北条家を滅ぼします。

1590年、本能寺の変から8年後、豊臣秀吉は天下統一を果たしました。

秀吉の天下統一後・・・
織田信雄は秀吉から、領地を別の土地に移す「国替え」を要求されますが、これを拒否し、それを理由に追放されてしまいます。
これが大名としての、織田家の最後となります。


以上が、「本能寺の変」前後の顛末です。

織田信長が旧時代を強攻な手段で制覇し、豊臣秀吉がライバルを倒してそれを引き継いだ事は、結果的に戦乱の時代を終わらせるのに理想的であったかもしれません。
その後、豊臣家も秀吉の死後に分裂を引き起こし、徳川家康がそれを収め、江戸時代へと繋がっていくのですが……
それは 朝鮮出兵関ヶ原の戦い などの、別のお話です。

「本能寺の変」を起こした明智光秀が望んでいたものは何だったのでしょうか?
もし彼が朝廷や仏教勢力などの既存の権威も大切にされた太平の世を望んでいたのであれば、結果的にそれは、本能寺の変によってもたらされた事になります。
それが彼の野望と死の果てにあったのは、皮肉な事だったかも知れませんが。

「本能寺の変」については、これからも多くのドラマや小説、ゲームや映画などで描かれていくことでしょう。
それぞれの作品で、どんな描かれ方がされるのか・・・
事前知識があれば、また違った面白さを見つけることが出来るはずです。


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武将の顔グラフィックは「信長の野望 Online」および「信長の野望 天下創世」のものです。
画像も主に信長の野望シリーズや、太閤立志伝シリーズからのものです。
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2020/11/3 ページソース修正、内容を一部改定
2017/9/15 ページレイアウトを修正、スマホ対応
2009/4/26 一部の表記と誤字を修正
2007/1/17 初稿(本能寺の変、実行日前後を中編として作成)