「NINJA」 もはや世界のヒーローです!
アクロバチックなアクションで人知れず敵を倒す…… カッコイイですね!
「伊賀忍」は、そんな戦国時代の忍者の軍団「忍軍」の中でも、最大の規模を誇りました。
しかし本来「忍者」というものは、影に生き、闇に消える者。
そのため忍軍の詳細も、後世には今ひとつ伝わっていません。
ただ「伊賀忍軍」と「甲賀忍軍」は戦国時代において、無視できない勢力であった事も確かです。
そんな伊賀忍(甲賀忍)は、どんな人々だったのでしょうか……?
「伊賀忍」が誕生した正確ないきさつは、やはり不明です。
ただ、ある日ポンとできた訳ではなく、徐々に形作られていったものだったようです。
理由のひとつは、伊賀という土地が「京都」に近い山岳地帯であったという、地理的なもの。
京都は長い間、日本の中心であり、様々な権力闘争の舞台でした。
伊賀と甲賀はその京都に「近すぎず遠からず」の位置にあり、険しい山々に覆われていて、中央の支配や監視が行き渡っておらず、その土地の領主たちが独自に統治を行っていました。
このため権力闘争に敗れて落ち延びた人達や、彼らを支援する勢力の隠れ家に、とても都合が良かったのです。
そしてこうした人達は、敵対勢力の情勢を知るための「諜報術」を必要としました。
これが伊賀に「忍術」が備わる元になったと言われています。
また、伊賀に「山伏」や「修験者」の拠点があったのも理由だと言われています。
彼らは山々で生き延びるためのサバイバル術、杖を使った独自の武術や兵法、そして陰陽術を元とする呪術などを持ち、それを伝え、修行していました。
伊賀にはそんな山伏の中心的なお寺があり、彼らの持つ特異な術が、この地方に生まれた「忍術」の元になったと言われています。
他にも伊勢地方にあった呪術が伊賀忍術のルーツだという説など、様々なものがあります。
こうした理由があって、戦国時代の前にはすでに、その地方に「伊賀忍者」「甲賀忍者」と言える人達が存在していたようです。
忍者の存在が大きく注目されたのは、戦国時代の初期に起こった「鈎(まがり)の陣」と呼ばれた戦い。
南近江と甲賀地方を支配していた「六角家」が、公家や寺社のものであった領地を横領していると室町幕府から非難され、約2万の幕府軍に攻め込まれた戦いです。
敵わないと見た六角家は城を放棄し、甲賀の山中に潜伏しますが、甲賀忍軍が六角家の味方になります。
そして甲賀の忍者たちは、森の中での伏兵や奇襲、火薬を使った煙幕による攪乱、合い言葉による敵味方の判別と、それを利用しての闇夜の襲撃など、様々なゲリラ戦術を用いて幕府の進軍を約1年半も阻み続けます。
ついには当時の将軍「足利義尚」に重傷を与え、幕府軍は撤退。
甲賀の忍びの噂は諸国に広まり、感謝した六角家も甲賀の領主たちの自治を認め、こうして「甲賀忍」と、さらに山奥に「伊賀忍」が形成されていくことになります。
伊賀には「伊賀上忍三家」と呼ばれる家柄があり、彼らによって忍軍が統率されていたようです。
伊賀上忍三家は「服部家」「百地家」「藤林家」の三家であり、彼らは伊賀に勢力を持っていた豪族(地元の権力者)でもありました。
特に有名なのは、忍者ハットリくん…… もとい、徳川家康の忍者として知られる「服部半蔵(正成)」がいた服部家ですね。
彼の父である「服部半蔵保長」という人は、伊賀忍の頭領であると同時に足利将軍家にも仕えていた伊賀忍者でしたが、息子の立身出世のために里を出て、徳川家に仕えたと言います。
藤林家の当主「藤林長門守(正保)」も一時は今川家に身を置いていたと言われており、当時の今川家と何かの協定を結んでいたのかもしれません。
そのため、伊賀忍軍の頭領は百地家の当主「百地丹波(三太夫、泰光)」が務めていたとされています。
ただし、伊賀の統治は「伊賀十二人衆」と呼ばれる領主(地頭)たちの合議により行われていたようです。
この十二人は以下の人たちだと言われています。
・長田荘地頭:百田籐兵衛
・木興荘地頭:町井左馬充貞信
・朝屋荘地頭:福喜多将監
・依那具荘地頭:小泉左京
・音羽荘地頭:音羽半六宗重
・河合荘地頭:田屋掃部介
・西之沢荘地頭:家喜下総
・下阿波荘地頭:植田豊前光信
・島ヶ原荘地頭:富岡忠兵衛
・比土荘地頭:中林(中村)助左衛門忠昭
・柏原荘地頭:滝野十郎吉政
・布生荘地頭:布生大善
この中の「百田籐兵衛」は、伊賀忍の頭領とされる「百地丹波(三太夫)」と同一人物とも言われていました。
ただ、伊賀忍軍と、伊賀の統治を行っていた伊賀十二人衆は別のもの…… 言わば、伊賀忍軍は軍部や企業で、伊賀十二人衆は政治部や役所であると考えた方が、自然かもしれません。
なお、甲賀の領主で甲賀忍軍の頭領格の一人でもあった「山中家」の記録に、自分たちを「惣国一揆」と呼んでいる記述があるため、当時の伊賀は「伊賀惣国一揆」とも呼ばれます。
また、伊賀忍軍は「服部党」とも呼ばれていたようです。
伊賀忍軍がどんな存在だったのか、詳しくは解っていませんが、いま風に言うと「忍者の人材派遣会社」のようなものだったようです。
各地で戦乱が起こっている戦国時代、他の勢力に援軍を求める事はよくありました。
伊賀には「忍術」が発達していましたから、伊賀に依頼される援軍には、当然「忍者」としての活動が求められます。
潜入、諜報、放火、かく乱、などなど・・・
伊賀忍軍は依頼に応じてそれらの仕事をこなし、報酬を貰うという勢力になったようです。
ある意味、傭兵的なのですが、忍者の仕事は戦うより、むしろ戦いを避けつつ情報収集や破壊工作を行うのがメインでしたから、やはり傭兵と言うより、人材派遣というか仕事人というか、そんな感じですね。
兵を率いて戦うのは軍勢を持っている勢力ならどこでも出来ますが、諜報活動や攪乱工作などをプロのレベルでこなす事が出来るのは、ノウハウを持ち、訓練を行っている忍者だけです。
自前の忍軍を持っていない勢力にとって、彼らはとても便利で頼れる存在だった訳です。
伊賀忍軍には、非常に厳しい身分制度や規律があったと言います。
スパイですから、勝手な行動は許されませんし秘密厳守でしょう。
伊賀忍には「上忍」「中忍」「下忍」の3つの身分制度があり、上忍が指揮官、中忍が現場監督、下忍が平社員といった縦社会だったようです。
そして勝手に組織から抜ける事は許されず、もし無断で脱走した者がいた場合、それは「抜け忍」と呼ばれ、「始末」するために追っ手が差し向けられたとも言います。
一方、伊賀忍軍と並び称される「甲賀忍軍」は、伊賀忍とはかなり違っていました。
両者はルーツは同じで、土地も隣同士、非常に密接な関係にありました。
よく忍者モノのマンガや小説などで、両者がライバルとして戦っていますが、実際には協力関係にあったことが多く、徳川家にいた伊賀の上忍「服部半蔵保長」が今川家の城を攻める時、甲賀忍者に救援を求め、それに応じて甲賀者200名が出陣したりしています。
ただ、甲賀の方が伊賀よりも開かれた存在で、外部から来た人が修行をしたり、修行のあとに他の大名家に仕官したり、フリーの忍者として活動したりなど、甲賀忍者以外の道も選ぶことが出来たようです。
織田家の武将「滝川一益」もそんな一人で、彼は甲賀の忍びの里で槍の修行をした後、織田家に足軽として仕官して活躍しました。
ただ、このような状況のため、腕の立つ者は他の大名家に吸収されていったようです。
伊賀は規律が厳しい分、忍者一人一人の能力が高く、行動にまとまりがあり、依頼遂行能力が高かったと言われています。
なお、甲賀の記録には、当時の里の様子が以下のように書かれています。
・里の者は午前中は畑仕事などをして、午後は道場で修行をした。
・それぞれの里に鐘があり、緊急時にはこれを警報として鳴らした。
・17才から50才まで出陣の義務があった。僧も若い者は出陣に応じた。
・里ごとに大将を決め、その命令に従った。出陣が長期に渡るときは交代制とした。
・忠節のある者は百姓でも侍(役人)に取り立てた。侍は起請文を書いて忠誠を誓った。
・裏切り者は討伐のうえ所領没収。
これは伊賀でも同じだったと思われます。
そんな「伊賀忍」「甲賀忍」ですが・・・
「織田信長」により、乱世に呑まれていく事となります。
美濃の「斎藤家」を滅ぼし、南近江の「六角家」も打倒、京都を制圧していた「三好家」を追い出して、将軍「足利義昭」を奉じて京都に進出した織田信長は、戦国時代の覇者となります。
そして大きな権力を得た信長は、近畿地方の各地の勢力に高圧的な態度を取り始めます。
宗教勢力の「本願寺」や、商人組合に運営されていた「堺」、独立共同体であった「雑賀衆」などに、織田家に従うよう命令する文書を送り、足利将軍家にさえも「勝手な事をするな」という要請を送りつけます。
そしてそれは、伊賀忍や甲賀忍にも送られてきました。
伊賀忍に送られたものは、「他の大名と勝手に交渉してはならない」「勝手に仕事を請け負ってはならない」「何か行動する時は織田家に報告せよ」といった内容だったようです。
為政者としては妥当な要求で、他の勢力に送られたものと大差はありません。
しかし、伊賀忍は織田家の部下ではありませんし、忍者派遣業を「廃業しろ」といっているようなもの。
ただ、織田信長としても伊賀忍は放置できない存在であったようです。
織田家は自分のところで「饗談」と呼ばれた忍軍を持っていたと言われており、伊賀忍に仕事を依頼する必要はありません。
つまり、伊賀忍は織田家の敵に回ることが多かったと言われています。
そもそも「甲賀忍」は織田家に滅ぼされた「六角家」の配下であり、六角家の家臣でもあった甲賀忍軍を率いる「三雲家」は、織田家の六角討伐軍を1年以上も妨害しています。
信長としては、こんな敵性勢力が近畿の中央部にいることを無視できなかったようで、伊賀忍・甲賀忍と織田家の関係は悪化していくことになります。
そして、ついに事件が起こります。
「天正伊賀の乱」です。
織田家と伊賀忍の関係が悪化している中、織田信長の次男である「織田信雄」(当時は伊勢の北畠家の養子になっていたため北畠信雄)という人が、約1万の軍勢を動員し伊賀に侵攻したのです!
事の発端は、伊賀の一部の領主が織田家に寝返り、これを好機と見た織田信雄が伊賀の領内、しかも中央に近い位置に城を築き始めたこと。
伊賀でも織田家に対する意見は割れたようですが、このまま放置できないという結論に陥り、建設中の城を襲撃して占拠します。
これに対するお仕置きを理由に織田信雄が侵攻を開始したのですが、どうやら信長には知らせておらず、独断の行動であったようです。
この織田信雄という人は「うつけ者」、要するにバカと評判でした。
宣教師の記録にも「知能が劣っていた」とストレートに書かれています。
しかし本人にとってみれば、信長の子でもありますし、そんな噂を何とかしたいと考えます。
彼の領地は「伊勢」にあり、敵対している伊賀忍とは小競り合いが続いていて、伊賀侵攻はそんな彼が周囲を見返すための武勲を欲して起こしたもの、とも言われています。
しかし伊賀に侵入した8000の織田軍は、数百程度の各地の伊賀忍軍に翻弄され、ボコボコにされます。
伊賀忍は山岳地帯での伏兵と奇襲、いわゆる「ゲリラ戦」を展開して織田軍を圧倒、織田軍は何の成果もないまま大被害を受けて壊走します。
これがのちに「第一次 天正伊賀の乱」と呼ばれる戦いです。
そして顛末を聞いた織田信長は大激怒! 信雄に「親子の縁を切るぞ!」とまで言いますが……
しかし約1年後、信長は織田家の主力部隊を信雄に率いさせ、圧倒的な大軍を持って伊賀に侵攻させます。
これが「第二次 天正伊賀の乱」です。
この時、ちょうどタイミングが悪かったのもありました。
第二次 天正伊賀の乱が起こった年は、「長篠の戦い」で織田の鉄砲隊により武田軍が壊滅し、上杉謙信も病死し、本願寺も織田家に降伏した後だったのです。
つまり織田家としては、ここに全戦力を投入できる状態でした。
二度目の伊賀侵攻に動員された人員は、なんと10万以上!
そして5万の兵力を6つに分けて、伊賀に一斉に侵攻します。
一方、伊賀忍軍は全てかき集めても、その兵は1万にも満たない数でした。
伊賀忍軍も決死の抵抗を見せ、北部から進軍した蒲生氏郷や、奈良から進軍した筒井順慶の軍勢は夜襲によって大被害を被り、中央部の比自山城では伊賀忍軍が織田軍を撃退。
南部の柏原城でも兵糧攻めを受けつつ抵抗を続けましたが……
しかし、圧倒的な織田の大軍の前に多勢に無勢、戦線は徐々に後退していき、ついに伊賀忍軍は全壊します。
そして伊賀の里を制圧した織田信雄は、まるで信長のように、里にいた者は女子供を問わず、老若男女全て皆殺しにしたと言います。
こうして3万人とも言われる人々が虐殺され、村々は焼き払われ、伊賀忍軍は歴史からその姿を消しました・・・
伊賀忍を率いた頭領「百地丹波(三太夫)」は最後まで抵抗していたと言いますが、最終的に織田軍に降伏、その後は紀伊半島南部の根来衆に行ったと言われていますが、詳しい消息は解りません。
一方、甲賀忍はこの「天正伊賀の乱」の後も存続しています。
織田信長は当初、伊賀と甲賀は両方滅ぼすつもりでいたようですが、甲賀は伊賀よりもオープンだったためか、織田家の家臣とも関係を持っていたようです。
そのため、滝川一益や丹羽長秀といった織田家の重臣が懸命に説得にあたり、甲賀は織田家に従属。
「天正伊賀の乱」では織田側として兵を派遣しています。
よって天正伊賀の乱では、伊賀と甲賀は敵対していた事になります。
こうして、歴史上から姿を消した伊賀忍軍ですが・・・
伊賀の里が滅びても、全ての伊賀忍者が死に絶えたわけではありません。
そもそも伊賀は、潜伏に適しているからこそ忍びの術が発達した地域。
多くの者が新たな機会を伺い、伊賀の山中に潜んだようです。
そして彼らが再び活動を開始する機会は、ほどなくして訪れました。
「本能寺の変」です。
織田信長の家臣「明智光秀」が突如反逆、京都の本能寺で織田信長を討ち倒します。
織田家は大混乱に陥り、これに乗じて潜伏していた伊賀忍の生き残りも一斉に蜂起!
伊賀にいた織田家の守備軍を攻め、再び自治を取り戻そうと戦いを開始、伊賀は内乱に突入します。
この争乱を「第三次 天正伊賀の乱」と呼ぶ場合もあるようです。
ただ、この内乱の顛末はよくわかっていません。
伊賀侵攻に加わっていた甲賀の有力者が襲撃されたり、織田家に降っていた領主が攻撃されたりしていますが、新たな独立勢力が台頭するようなことはありませんでした。
その一方で、「本能寺の変」では伊賀忍者にとってもうひとつ、大きな出来事がありました。
徳川家康の「伊賀越え」です。
本能寺の変の際、徳川家康も京都に招待されており、当日は大阪・堺の町の観光に出かけていました。
そこに信長急死の報が告げられ、明智光秀の追っ手が迫り、兵を率いていなかった家康は孤立、街道を封鎖されて戻ることもできなくなり、窮地に陥ります。
そして家康は伊賀の山地を抜け、本拠地・三河への脱出を計りますが、彼のお供の一人が「伊賀上忍三家」の「服部家」の末裔である「服部半蔵正成」でした。
服部半蔵はすぐに伊賀と甲賀の忍者達に救援を要請します。
これに応じて集まった忍者は300余名と言われ、その力を借りて脱出ルートを確保した家康は、明智光秀の追っ手や土民の襲撃をかわし、無事に三河へ脱出することに成功します。
この一件以来、家康は服部半蔵を忍軍の頭領に任命し、積極的に忍者を雇うようになりました。
そして多くの伊賀・甲賀の者たちが、徳川家に仕官していきます。
忍者は戦国の世にこそ活躍する者達でしたから、豊臣秀吉によって天下が治められるようになると、徐々に活躍の場を失い、仕事がなくなっていきました。
織田家に従属していた甲賀も、秀吉に適当な罪状を付けられて他の土地への移転を強要され、拒否した者は見せしめのように滅ぼされており、甲賀忍軍は解体される憂き目に遭います。
そんな忍者たちにとって、徳川家康と服部半蔵は「渡りに船」の存在だったようです。
その後、伊賀忍者たちがどのような活躍をしていたのか…… それは知る由もありません。
なぜなら忍者は影の存在。 彼らの活躍は後世には伝えられないからです。
ただ、おそらく、徳川家康が天下を取るにあたって、大きな役割を果たしていた事でしょう。
徳川家に仕えた伊賀忍者は、徳川幕府が開かれた後は「伊賀同心」と呼ばれ、忍びの技術を持つ侍として、警護や護衛などの職務を務めました。
東京メトロの「半蔵門線」の名は、服部半蔵にちなんで名付けられた江戸城の門「半蔵門」に由来し、この門はいざというときの将軍の脱出口として、伊賀同心に守られていました。
ただ、平和な世の中に「忍術」は不要なもの。
戦国時代に暗躍した伊賀忍・甲賀忍は、いつしかその姿を消していったようです……