伊賀忍 忍者名鑑


戦国時代の忍軍「伊賀忍」と「甲賀忍」の忍者のプロフィールを紹介しています。

伊賀忍 合戦陣図(信On)
(信長の野望 Online における伊賀忍陣容)

頭領

軍師・四天王

先陣・小荷駄

中陣 守将・副将

後陣 守将・副将

後詰め

留守武将

紀伊のその他の人々


百地三太夫

百地 三太夫

(ももち さんだゆう) 

伊賀忍軍頭領 忍者人材派遣の元締


「『孫子』を知っておるか? 『彼を知り、己を知れば、百戦あやうからず……』
戦に勝つためには、敵の内情を正確に知ることが肝要だ。 そのために働くことこそ、我ら忍の役目。 忍の働きが、戦の勝敗を左右するのだ」

伊賀忍を統率する「伊賀上忍三家」のひとつ「百地家」の当主にして、伊賀忍の実質的な頭領と言われれる人物。 別名「百地丹波守」。
「忍術」の伝わる伊賀の地を束ねる立場にあり、甲賀忍軍と共にその地方に独自の勢力を築いていた伊賀忍者の上忍。
一度はその忍術を駆使し、天下の覇者たる織田の軍勢をも壊滅させた。
しかし、織田信長の怒りの大軍の前に多勢に無勢、伊賀の忍びは再び闇の中へと消えていく……
百地三太夫、および伊賀忍についての詳細は こちら をご覧下さい。


伊賀忍 武将詰所

美濃部茂俊

美濃部 茂俊

(みのべ しげとし) 

神君伊賀越えの支援者


「結果がすべてだ。 私に認められたくば…… その手で、己の価値を示すがよい」

美濃部家は甲賀忍を形成していた「甲賀五十三家」や「甲賀二十一家」のひとつで、甲賀北部の中心地「水口」を支配していた。
ここは街道の交差点となる交通の要所であり、そのため甲賀の中でも重要な立場であったと言える。
美濃部茂俊は、その美濃部家の1570年頃(信長と義昭の中が悪くなり、織田家と浅井家が姉川の合戦で戦った頃)の当主だったようだ。

1582年、「本能寺の変」で織田信長が家臣の明智光秀に討たれた時、京都と大阪を観光中だった「徳川家康」も窮地に陥った。
この時、家康は伊賀の山中を越えて三河への帰還を目指す「伊賀越え」を行うのだが、美濃部家は家康の要請を受け、多数の忍者を護衛として派遣した。
その中には道案内を務めた「美濃部茂濃」なども含まれ、多くの美濃部家の者が以後、そのまま徳川家に仕えている。

三雲賢持

三雲 賢持

(みくも かたもち) 

六角家重臣にして猿飛佐助の父?
「小勢で大軍を打ち破らねばならぬときは…… 奇襲しかない。 突撃だけが、敵を破る手段とは思うな。 屋敷の警護には、重々気をつけるがよい」

三雲家は南近江の大名「六角家」の重臣の家柄であると同時に、「甲賀五十三家」のひとつでもあり、六角家の合戦には甲賀忍軍を率いて参加していた。
彼のような六角家の重臣を務めていた甲賀衆は「甲賀六家」とも呼ばれる。

だが、六角家では当主の六角義治が重臣の後藤賢豊を斬り、当主と家臣が対立する「観音寺騒動」が起こってしまう。
この混乱に以前から敵対していた浅井家が介入し、三雲賢持はこれを迎撃しようと出陣するも、討ち死を遂げた。
その後、六角家は織田軍に攻められて事実上滅亡してしまうのだが、父の「三雲定持」は六角家の当主だった六角義賢・義治親子を城に迎え、織田軍に対しゲリラ戦を展開し、その進軍を1年以上も止めたという。
この事から、少なくとも三雲定持は甲賀忍軍を率いていたと思われる。

三雲家を継いだ三雲賢持の弟「三雲成持」は、主に行政官として活動しており、忍者を用いたような経歴はない。
ただ、賢持の子「三雲賢春」が真田十勇士の「猿飛佐助」のモデルではないかという説がある。

野村孫太夫

野村 孫太夫

(のむら まごだゆう) 

声優忍者


「結果がすべてだ。 私に認められたくば…… その手で、己の価値を示すがよい」

伊賀の忍術書「万川集海」に登場する伊賀の十一名人のひとり。
その忍びの術の腕前は近隣に知れ渡っていたという。

ある日、彼は忍び込んだ屋敷の主人に気配を悟られてしまい、槍で突かれそうになるが、「家の者が起きたので引き上げよう」「わかった」と言って一人二役で話し声を立て、仲間がいると思わせて相手を逃げさせてから、さらに屋敷の奥に忍び込んだ。
忍者の「隠術」において、「変声」は変装術のひとつとして、重要なものであったという。

毛屋武久

毛屋 武久

(けや たけひさ) 

七度主君を変えた苦労人


「結果がすべてだ。 私に認められたくば…… その手で、己の価値を示すがよい」

幼い頃に父が戦死し、多くの戦国武将の元を点々とした人物。
六角家の家臣に養育され、「甲賀五十三家」でもあった和田家の和田惟政に仕え、惟政の死後は織田家の山崎片家、次に重臣の柴田勝家の配下となった。
しかし賭博をやっていた疑惑をかけられ、毛受勝照に助けられるも勝家の元を去り、前田利家に匿ってもらう。
雑兵としてしばらく戦った後、池田恒興の配下を経て、佐々成政に仕えるが、成政は九州移転のうえに一揆が起きた責任を取らされて失脚。
そのため同じ九州に赴任していた黒田長政の配下となる。

黒田長政の元では「黒田二十四騎」と呼ばれた武士のひとりになっており、西軍・石田三成と東軍・徳川家康が戦った「関ヶ原の戦い」に参加。
このとき、敵軍の物見(偵察)を行って「敵の戦力は言われている程ではない」と報告する。
本当に言われている程ではなかったのかはともかく、これにより味方の士気が上がったとして、家康から賞賛されている。
高齢ながら「大坂の陣」にも従軍した。

伊賀忍・甲賀忍としての活動はないが、甲賀ゆかりの人であり、関ヶ原で物見役になっていることから、諜報術の心得があった可能性はあるだろう。

杉谷善住坊

杉谷 善住坊

(すぎたに ぜんじゅうぼう)

信長を狙うスナイパー
「自慢話は嫌いなのだがな。 俺は甲賀一の鉄砲名人と呼ばれておる。
自慢ではないぞ。 自慢ではないのだが、俺は飛ぶ鳥を撃ち落としたこともある。 持って生まれた才覚というものよのう……。
俺こそまさに雑賀衆を上回る鉄砲名人よ。 いつの日か、敵の大将も撃ち落としてみせるわ。 たとえ魔王のような大将でもな」

飛ぶ鳥も落としたと言われる戦国時代きっての鉄砲の達人。
そして「織田信長を狙撃した者」として有名な人物である。

杉谷家は甲賀忍を形成していた「甲賀五十三家」のひとつで、彼は「近江で知らぬものはいない」と言われたほどの鉄砲の達人であった。
そして南近江の大名「六角家」の当主「六角義賢」から信長狙撃の密命を受け、信長の進軍先に潜んでその命を狙う。
しかし、20メートルほどの間近な距離から撃った彼の弾丸は、信長から反れ、彼の小袖を撃ち抜いたに過ぎなかった。
信長は逃走した善住坊を許さず、懸賞金をかけて捜索を行い、4年後、元浅井家の家臣で織田家の配下となっていた「磯野員昌」に捕らえられ、処刑された。

飛ぶ鳥も落としたと言われる杉谷善住坊が、その至近距離で狙いを外すなど考えられない事だった。
そのため人々と、そして信長自身、「信長は天に護られている」と感じたと言う。


伊賀忍 奥屋敷

町井貞信

町井 貞信

(まちい さだのぶ) 

織田軍を破った伊賀の副将


「結果がすべてだ。 私に認められたくば…… その手で、己の価値を示すがよい」

伊賀を統治した「伊賀十二人衆」のひとり。 伊賀の中心にほど近い「木興荘」を治めた地頭。
織田信長の支援を受けて伊賀の守護職になった「仁木義視」という人を、一旦は迎え入れるも、後に彼を追放し、伊賀を地元の領主達が共同で統治する独立勢力としている。

そして織田信長の子「織田信雄(北畠信雄)」が伊賀に侵攻した「第一次 天正伊賀の乱」の際には、副大将として伊賀忍軍の指揮を取り、山間部でのゲリラ戦によって織田軍を壊滅させた。
しかし1年後、織田軍約5万の大軍が伊賀を攻めた「第二次 天正伊賀の乱」では多勢に無勢、木興城で篭城するも陥落、討ち死にした。

福地定成

福地 定成

(ふくち さだなり) 

つわものどもが夢の跡


「小勢で大軍を打ち破らねばならぬときは……奇襲しかない。 突撃だけが、敵を破る手段とは思うな。 屋敷の警護には、重々気をつけるがよい」

福地家は伊賀の有力な豪族(地方権力者)であり、伊賀と甲賀の国境にある「柘植地方」を治めた、大きな領地を持つ家柄だった。
「伊賀十二人衆」にも「甲賀五十三家」にも含まれていないが、その中間に位置した独立した大豪族と言える。

しかし福地家は、織田軍が約5万の大軍で伊賀に侵攻した「第二次 天正伊賀の乱」の際、織田側に付き、伊賀侵攻の道案内を行った。
甲賀から伊賀に入るルートの入口にいたため、逆らえば真っ先に滅ぼされる立場にあり、仕方ないとも言えるのだが……
そのため他の伊賀の生き残りから白い目で見られるようになり、「本能寺の変」によって織田信長が急死すると、伊賀で起こった内乱で襲撃を受け、そのまま隠居。
福地家の他の人も「福地」の姓を捨て、「松尾家」に改姓した。

そして、この松尾家で後に生まれたと言われているのが…… 「奥の細道」で有名な俳人「松尾芭蕉」である。
松尾芭蕉はその驚異的な旅のスピードや、近辺に伊賀忍ゆかりの者が多かった事、東北地方の大名「伊達家」を内偵していた可能性があることから、徳川幕府に仕える伊賀忍者ではなかったかという説がある。
真偽はともかく、松尾芭蕉が伊賀の有力者「福地家」の子孫であった事は間違いないようだ。
現在、福地家の城があった場所には「芭蕉公園」が設けられている。

富野茂正

富野 茂正

(とみの しげまさ) 

伊賀十二人衆?


「小勢で大軍を打ち破らねばならぬときは……奇襲しかない。 突撃だけが、敵を破る手段とは思うな。 屋敷の警護には、重々気をつけるがよい」

詳細不明だが…… 「町井貞信」のご子孫の方から、以下の情報を頂きました。

「この人物はたぶんですが、町井と同じ十二人衆のうち、柏原荘地頭「滝野十郎吉政」と、島ヶ原荘地頭「富岡忠兵衛貞頼」が混じってしまったものかと思います。
ちなみに滝野十郎は第二次・天正伊賀の乱では伊賀側の終戦交渉の代表になっています。
(というより他の十二人衆は殆ど戦死・逃亡していたからではありますが……)」

植田光次

植田 光次

(うえだ みつつぐ) 

織田軍を追撃した伊賀十二人衆


「結果がすべてだ。 私に認められたくば…… その手で、己の価値を示すがよい」

伊賀を合議で運営していた「伊賀十二人衆」のひとりである下阿波の地頭「植田豊前光信」のことか、もしくはその跡継ぎと思われる。
植田家の領地は伊賀の東部、伊勢との中間にあり、「第一次 天正伊賀の乱」では最前線になったようで、彼は撤退する織田軍を追撃し、しんがりを務めていた柘植保重という織田家の武将を討ち取った。

この活躍があったからか、織田家に対して抗戦派であったようだが、約5万の大軍が攻め込んで来た「第二次 天正伊賀の乱」では多勢に無勢で敗北、脱出して三河へ逃れた。
「本能寺の変」で信長が死んだあとは豊臣秀吉に仕官したという。

唐沢玄蕃

唐沢 玄蕃

(からさわ げんぱ) 

真田の飛び六法


「小勢で大軍を打ち破らねばならぬときは……奇襲しかない。 突撃だけが、敵を破る手段とは思うな。 屋敷の警護には、重々気をつけるがよい」

信濃の出身で、武田家・真田家に仕えた忍者。 真田家の吾妻忍軍(吾妻衆)の「吾妻七騎」の一人。
「飛び六法」と呼ばれた非常に身軽な忍びで、垂直飛びで六尺(1メートル80センチ)ジャンプし、助走なしの幅跳びで十二尺(3.6メートル)も飛べたという。
また、四十尺(12メートル、ビル4階)の高さから音もなく飛び降りたと言われている。

敵城に忍び込んでの放火など潜入術に優れており、武田騎馬軍団が織田家の鉄砲三段撃ちで壊滅した「長篠の戦い」にも参加している。
武田家の滅亡後は「真田家」の忍びとして活躍、「関ヶ原の戦い」の後は徳川家に仕えた真田幸村の兄「真田信幸(信之)」に仕えたという。

彼は実際には、伊賀忍・甲賀忍との接点はないのだが…… ゲーム「信長の野望オンライン」の伊賀忍は、信濃の忍者も含んでいる。
信濃は山伏や修験者の術から発展した忍術の発祥の地と言われており、伊賀・甲賀の忍術も信濃から伝わった部分が大きいという。

根津信政

根津 信政

(ねづ のぶまさ) 

甲陽流忍術と鷹匠の家系


「小勢で大軍を打ち破らねばならぬときは……奇襲しかない。 突撃だけが、敵を破る手段とは思うな。 屋敷の警護には、重々気をつけるがよい」

彼も実際には信濃の人で、武田家・徳川家の配下だった。
根津家(禰津家)は同族の真田家・海野家と共に、信濃の覇権を「村上義清」らと争っていたが、信玄の父「武田信虎」と村上義清、諏訪一族の連合軍との戦いに敗れ、のちに真田家の拠点となる上野(群馬)の吾妻地方に逃れている。
根津信政はその領地を受け継ぎ、真田幸隆と共に武田信玄に仕え、武田家の滅亡後は徳川家の配下として1万石の領地を得て、上野豊岡藩の小大名となった。
しかし、彼の孫に男子が生まれなかったため、上野豊岡藩はその後、改易されてしまった。

彼自身に忍者としての経歴は見られないが、根津家(禰津家)は甲陽流忍術の家元とされており、幕末まで伝承されていたという。
真田家の家臣となった根津一族には「根津潜竜斎」という山伏がいて、彼は真田昌幸の一族とも言われており、山伏/修験者による情報収集を行っていたともされる。
また、禰津村には「巫女道修練道場」があり、ここで修行をした巫女は諸国を巡る「歩き巫女」となって、武田家の諜報活動に大きな役割を果たしていたという。
「禰津流くノ一」を組織していたとする説話もあるようだ。

真田十勇士にも「根津甚八」という、根津の名を持つ忍者が含まれている。
なお、鷹匠の一族としても知られており、現代まで伝わる「根津・諏訪流鷹匠術」の家元でもある。

出浦盛清

出浦 盛清

(いでうら もりきよ) 

甲州忍者「吾妻衆」の頭領


「正体を隠して敵地に潜入するためには、変装は必須の技。 その変装に適した七種類の職業のことを「七方出(しちほうで)」と呼ぶ。
虚無僧、出家、山伏、商人、放下師(ほうかし)、猿楽師、そして常の形(なり)の七つだ。
虚無僧、出家、山伏、商人は、諸国を渡り歩くのに好都合な姿と言える。 放下師は曲芸や手品を見せる芸人よ。 猿楽師も猿楽という芸を見せる者ゆえ、怪しまれずに人に近づくには適しておる。
常の形とは、武士や農民のことだ。 最も目立たないがゆえに、最も目をくらますのに適している、というわけだ」

この人も本当は伊賀の忍者ではなく、甲斐・武田家の忍者だ。
「甲州流忍術」の使い手で、武田家の透波(忍者)である「三ツ者」を率いた頭領の一人である。
潜入術の達人で、仕事先に手下を忍び込ませる時、まず自ら忍び込んで状況を確認し、それを元に手下の仕事がどれだけ正確かを計っていたという。

武田家の滅亡後は織田家の「森長可」に仕えたが、真田家が北信濃で独立するとそれに従った。
このとき、「本能寺の変」によって織田家が混乱に陥り、多くの信濃の者が離反する中で、彼だけは最後まで森長可に付き従っていたため、長可が信濃から去る際に愛用の脇差しを与えられたという。
その後は吾妻忍軍と呼ばれた真田の忍び衆を指揮し、豊臣秀吉が北条家を攻めた「小田原征伐」でも活躍している。
豊臣秀吉の死後は徳川家康に付いた「真田信幸(信之)」に従い、江戸時代になっても真田家の「信濃松代藩」で吾妻地方の代官を兼任しながら、忍者の頭領を務めたという。

数少ない、忍者のままで立身出世した人だ。

東海幸義/海野幸義

東海 幸義

(とうかい ゆきよし) 

「海野幸義」の間違い?


「小勢で大軍を打ち破らねばならぬときは……奇襲しかない。 突撃だけが、敵を破る手段とは思うな。 屋敷の警護には、重々気をつけるがよい」

詳細不明だが…… 真田家や根津家の親類だった「海野家」の一人「海野幸義」と間違っているのではないかと思われる。

海野家は信濃の豪族(地方権力者)だったが、武田信玄の父「武田信虎」、信濃の大将「村上義清」、諏訪大社の神官で湖衣姫の父「諏訪頼重」という当時の甲州オールスターにフルボッコにされて勢力としては滅亡した。
海野幸義もこのとき村上義清に敗れて討ち死にしているが、彼の子が生き残っており、真田の家臣になったと真田家の記録に残されている。
また、「海野」の名は真田十勇士の一人「海野六郎」に用いられており、そして海野六郎は十勇士の中で唯一の実在の人物(真田家の家臣である海野六郎兵衛利一、もしくは海野小平太)だと言われている。

阿波正高

阿波 正高

(あわ まさたか) 

伊賀東の山中を守る


「小勢で大軍を打ち破らねばならぬときは……奇襲しかない。 突撃だけが、敵を破る手段とは思うな。 屋敷の警護には、重々気をつけるがよい」

伊賀と伊勢の国境に位置する「阿波」の国人(地方領主)だったようだ。
織田信長の子「織田信雄」が8千の軍勢で攻め込んできた「第一次 天正伊賀の乱」の際、阿波はその最前線となるが、山深い地であり、伊賀衆は地形を利用したゲリラ戦によって千数百の兵で織田軍を大敗させた。
この侵攻は信長に無断で行われたものであったため、織田信雄は信長に「親子の縁を切る!」と言われるほど怒られている。

翌年、信長が約5万、動員人数10万以上とも言われる大軍で攻めてきた「第二次 天正伊賀の乱」の際は、織田軍は山間部をできるだけ避ける形で進軍してきたため、阿波の地は直接戦場にはならなかった。

甲山太郎次郎

甲山 太郎次郎

(こうやま たろうじろう)

自宅が忍者テーマパークに


「結果がすべてだ。 私に認められたくば…… その手で、己の価値を示すがよい」

「高山ノ太郎次郎」や「太郎四郎」とも呼ばれる伊賀忍者。上野郷の下忍という。
伊賀の忍術書「万川集海」に登場する伊賀の忍術十一名人のひとり。
「甲山太郎左衛門」という人と共に紹介されていて、おそらく兄弟か親子か何かだろう。
「甲賀五十三家」にも「高山家」があるため、ここの出身の人ではないかという説もある。
しかしいずれにせよ、「天正伊賀の乱」で彼の一族は滅亡してしまったようだ。

ちなみに、彼の屋敷は現在も「伊賀流忍者博物館」として現存している。

耳須具明

耳須 具明

(みみす ともあき) 

織田に付いたら竹槍の餌食


「小勢で大軍を打ち破らねばならぬときは……奇襲しかない。 突撃だけが、敵を破る手段とは思うな。 屋敷の警護には、重々気をつけるがよい」

伊賀の北方、河合郷の国人(地方領主)。
織田信長が約5万の大軍で伊賀に侵攻した「第二次 天正伊賀の乱」の時、彼は「福地家」と共に織田家に内通し、寝返った。
そして織田軍の道案内をしていたのだが、地元民の襲撃を受け、竹槍で刺されて死んだという。

山田八右衛門

山田 八右衛門

(やまだ はちえもん) 

万川集海で語られる忍術の一例
「小勢で大軍を打ち破らねばならぬときは……奇襲しかない。 突撃だけが、敵を破る手段とは思うな。 屋敷の警護には、重々気をつけるがよい」

伊賀の忍術書「万川集海」に登場する伊賀の十一名人のひとり。
本名は「瀬登八右衛門」というのだが、山田村に住んでいたため「山田ノ八右衛門」と呼ばれていたようだ。

ある日、彼の忍術の評判を妬んだ男がいて、その男の刀を山田八右衛門が奪えるかどうかという賭けをする事になった。
そして伊賀の「敢国神社」の祭りの日、山田八右衛門はその男の前方に現れ、その先を歩き始める。
男は八右衛門に注意していたが、いきなり八右衛門は民家に入り、裏口から出てきて、小山に登ってタバコをプカプカ吸い始めた。
男はしばらく見ていたが、そのまま動く様子がないので、お供に見張らせて神社に参拝に向かったのだが、参拝した後に腰を見ると刀がなくなっていた。
八右衛門は民家の中で同じ格好の別人とすり代わり、老婆に変身して彼に近づいて、参拝中の彼の刀を抜き取ったのだと言う。

このような、1人が敵の気をひき付けて、もう1人が仕事を済ませる事を、忍術では「双忍の術」と呼ぶ。
忍術と言うとファンタジーなものや、大道芸的なものが思い浮かばれる事も多いが、実際にはこのような策略・作戦的なものが多かったようだ。

なお、彼は伊賀の「敢国神社」の世話役だったとも言われている。
この神社では伊賀の上忍「服部家」の一党が、黒装束に身を包み、秘密の儀式「黒党祭」を行っていたという。
なんだか、とってもアヤシイ・・・

神部小南

神部 小南

(かんべ こなん) 

真実はいつも藪の中


「小勢で大軍を打ち破らねばならぬときは……奇襲しかない。 突撃だけが、敵を破る手段とは思うな。 屋敷の警護には、重々気をつけるがよい」

伊賀の忍術書「万川集海」に登場する伊賀の十一名人のひとり。
南伊賀の忍術の達人。
だが、彼がどのような人だったのかについて、文献などには全く記述がない。
忍者は極秘に活動する者であるから、名前は知られているが、活動の詳細が解らないというのは、凄腕だった事の証なのかもしれない・・・

下柘植小猿

下柘植 小猿

(しもつげ こさる) 

猿忍者。猿飛佐助のモデルか?


「手裏剣を使いますか? 手裏剣を打つ…… 投げるのを打つと言いますが、大きく二つのやり方があります。
一つは、手裏剣の切っ先を標的に向け、回転させずに打つ「直打法」……。 もう一つは、回転を加えて打つ「回転打法」です。
「回転打法」は飛距離も伸び、威力も強いのですが、命中の精度に難があります。 逆に「直打法」は命中精度は高いですが、威力は弱くなります。
打ち方は、状況に応じて変える必要があるのですよ」

伊賀の忍術書「万川集海」に登場する伊賀の忍術十一名人のひとり。
「下柘植木猿」とは親子とも兄弟とも言われている。

名前の通り「猿」のような忍術を得意としていて、身のこなしが素早く、樹木に隠れるのがうまく、動物の声真似が得意だったとう。
普段は「猿楽師」(芸人。能や歌舞伎、曲芸なども含むが、彼の場合はそのまんま"猿回し")として活動しており、その猿を他の家に進入させて、家の木戸を中から開けさせたりしていたという。
また、動物の声真似を使って騒ぎ、家のものが「うるさい」と言うのを聞いて、それで相手の位置を特定して討ち取った、という記録もあるようだ。

真田十勇士の忍者として有名な「猿飛佐助」のモデルの一人と言われている。

下柘植木猿

下柘植 木猿

(しもつげ きさる) 

猿飛佐助の有力なモデル


「武士ならば不名誉だが、忍びにとっては逃げることも大事だ。 そのための技こそ、天遁(てんとん)、地遁(ちとん)、人遁(じんとん)の三十法からなる遁走術よ。
天遁は、雲遁・霧遁・雨遁・雪遁などの十種類からなり、天気を利用して逃げる方法だ。
地遁は、火遁・土遁・水遁などの十種類から構成される。 火遁は放火や煙玉を使う方法。 水遁は川や池を使う、または使ったと見せかけて逃げる方法よ。
人遁は、男遁・女遁・老遁・獣遁・虫遁などの十種類からなっている。 内容については、またいつか話そう」

伊賀の忍術書「万川集海」に、「下柘植子猿」と共に名が出てくる伊賀の忍術十一名人のひとり。
実際には「下柘植ノ木猿」というのは通称で、下柘植という場所の出身であり、猿のような忍術を用いたからそう呼ばれていたもので、本名は「上月佐助」と言った。
これが、下柘植子猿・木猿が「猿飛佐助」のモデルであるという有力な理由となっている。
水戸黄門に出ていた柘植の飛猿も彼らがモデルなのだろう。

大和(奈良)の戦乱に伊賀衆を率いて参加し、筒井家に味方して敵城を陥落させた記録が残されている。
また、「浮足」と言う名の、口頭でのみ伝えていた秘術を持っていたらしい。


伊賀忍 中庭

石川五右衛門

石川 五右衛門

(いしかわ ごえもん) 

大泥棒にして歌舞伎のヒーロー


「京の南禅寺に行ったことはあるかい? いや別に坊主の説教を聞きに行ったわけじゃねえよ。
あの寺の山門がさ。いい眺めなんだ。 絶景ってやつだねえ。 おめえも、一回登ってみたらいいぜ。 南禅寺の山門によ」

言わずと知れた天下の大泥棒「石川ゴエモン」である。
・・・が、一般的な石川五右衛門の姿は後の歌舞伎で脚色されたものであり、あまりに伝承が多すぎて、かえってその実像はよく解っていない。

伝承によると、伊賀の上忍「百地三太夫」に弟子入りして伊賀の忍術を習ったと言われているが、南蛮人から盗みの基礎を学んだという話もある。
その後は伊賀忍に所属していたが、百地三太夫の妻を寝取ったあげく、愛人を殺して井戸に投げ込み、金品も奪って逃走し、抜け忍となった。
そして京都に居を構え、忍術を悪用して窃盗・強盗を繰り返し、手下を多数率いる大盗賊となる。

後年、豊臣秀吉の城に忍び込み、秀吉の秘宝「千鳥の香炉」を盗もうとするが、香炉の千鳥が「チリリ」と鳴いたため見つかってしまい、京都の奉行「前田玄以」に捕らえられ、京都の「三条河原」で一族郎党と共に「釜茹での刑」で処刑されたという。
だが、豊臣秀吉の城に忍び込んだのは秀吉を暗殺するためだったという話もあり、さらにそれを依頼したのは豊臣秀吉の養子「豊臣秀次」であるという話や、「百地三太夫」の指令だったというものなど、様々な伝承がある。

江戸時代には歌舞伎の登場人物として欠かせない人となり、京都の「南禅寺」というお寺の山門の上で「絶景かな、絶景かな。 春の眺めは値千金とは、小せえ、小せえ」とタンカを切る場面が歌舞伎の名場面として伝わっている。
また、人のために盗みをする義賊として脚色されるなど、様々な形で後世に伝わっていった。

一時はその実在が疑われていたりもしたのだが、近年ヨーロッパで見つかった当時の宣教師の記録に彼に関する記述が見つかり、「釜茹での刑」にされた実在の大盗賊であった事が確認された。
今後は、彼の伝承がどこまで事実なのかが検証される事になるだろう。


伊賀忍 城内

城戸弥左衛門

城戸 弥左衛門

(きど やざえもん) 

狙撃、逃走、変装。もはやルパン


「最初の頃は、何かと武器ばかりを新調しがちだが、大事なのはむしろ、命を守る防具のほうだぞ」

通称「音羽ノ城戸」。 伊賀の中忍だと言われている。
伊賀の忍術書「万川集海」に登場する伊賀の忍術十一名人のひとりで、特に鉄砲の扱いに長けていたと言う。
五遁(火遁や水遁などの術)で身を隠す「隠形術」にも優れ、伊賀に残された記録にも「謀術・火術の妙を得ていた」と記されている。

信長を狙撃した人物としても有名で、「天正伊賀の乱」の後、視察に来た信長が神社で休憩中のところを仲間と共に鉄砲で狙った。
しかし、信長の周囲にいたお供は倒れたが、信長には銃弾は当たらず、狙撃は失敗に終わる。
すぐに信長の家臣が彼らを追うが、「飛鳥の如く」逃げ去ったという。

そして後日、彼は狙撃後の信長の様子を見るために、変装してお菓子を持参し、信長に近づいたと言われている。
まさかそれが狙撃者本人とは思わない信長は、彼に「森から撃たれたようだ。 おそらく伊賀か甲賀の者なので探してくれ」と頼んだと言う。
もし本当なら、相当の度胸である。

果心居士

果心 居士

(かしんこじ) 

日本屈指の怪人物


「お主は松永弾正という男を知っておるか? 三好長慶配下の武将、松永久秀のことよ。 一度、からかってやったことがある。 思い上がっておったでな。 くっくっくっくっく……。
『戦場の修羅場を幾度もくぐり抜けた自分を恐ろしがらせるようなものを見せよ』などと申しおった。 で、見せてやったのよ。 あやつの死んだ女房の顔を、な。 あやつめ…… 蒼白な顔となって震えておったわ。 ひっひっひっひっひ……。
何? なにゆえ、あやつが死んだ女房を恐れるのか、だと。 さて、なぜかのう? ひっひっひっひっひ……」

生没年不詳、正体不明、戦国時代に現れた謎の幻術師。 別名「七宝行者」。

大和の国で僧をしていた事もあるようだが、池に笹の葉をまいて、それを魚に変えて人々を驚かせたため、「人心を惑わした」として破門されたと言う。
その不思議な術は瞬く間に評判となり、インチキ呼ばわりした者の歯をあっという間にボロボロにして黙らせたりした。
噂を聞いた三好家の重臣「松永久秀」に呼ばれ、「戦場を幾度もくぐり抜けたワシを恐がらせてみろ」と言われた時は、松永久秀の死んだ女房を出現させ、一晩中付きまとわせて久秀をビビらせたという。
だが、松永久秀の謀略に手を貸していたという話もあるようだ。

他に、彼が持っていた「地獄絵図の掛け軸」を信長が強引に奪ったが、その絵図がいきなり白紙になったとか、明智光秀に呼ばれた時、いきなりそこに琵琶湖が現れて小船に乗って消えてしまったとか、信じられない伝承が残っている。
のちに豊臣秀吉の前に現れ、秀吉しか知らないはずの秘密を暴露したために捕らえられ、はりつけにされるが、ネズミに姿を変え、鳥にくわえられて、そのまま飛び去っていったという。

あまりにファンタジーなので、江戸時代になってから様々な物語や演劇に登場するようになり、「謎の人物」として一躍有名になった。
現代でも、色々な小説や映画、マンガやゲームなどに登場しているので、その名を聞いた事がある人も多いだろう。
伊賀に伝わっていた山伏・修験者の術を使っていたとも言われており、忍者であるとされる場合も多い。

篠山理兵衛

篠山 理兵衛

(ささやま りへえ) 

施されたら施し返す。恩返しです


「小勢で大軍を打ち破らねばならぬときは……奇襲しかない。 突撃だけが、敵を破る手段とは思うな。 屋敷の警護には、重々気をつけるがよい」

篠山家は甲賀忍を形成していた「甲賀五十三家」のひとつ「大原家」の一族。理兵衛は通称で、名は「資家」や「景春」という。
配下の甲賀衆と共に織田信長に仕えていたが、信長は「本能寺の変」で急死。
その後継者を巡って信長の子「織田信雄」と「羽柴(豊臣)秀吉」が争うようになると、彼の一党は秀吉に従うも、織田信雄との内通を疑われて追放されてしまう。
一族の他の者も秀吉によって甲賀の領地を追われ、篠山家は没落した。

しかし約十年後…… たまたま徳川家康と会ってこの話をした時、不憫に思った家康が彼を召抱え、甲賀の近くの代官に彼を推薦した。
これにより甲賀に復帰した篠山理兵衛は、以後、家康の忠臣となる。

それから数年後、豊臣秀吉が病死し、徳川家康の権力が豊臣政権下で大きくなり始めた頃、「豊臣五奉行」のひとり「長束正家」が「当家の領地をお通りになる時は、おもてなししたいので、ぜひお越し下さい」と家康を誘った時、彼はそれが「家康暗殺」の謀略である事を探り当て、家康に報告する。
家康は長束正家の領地を夜中に女性用のカゴに乗って駆け抜け、難を逃れたと言う。
だが一ヶ月後、豊臣家の「石田三成」と家康の対立が決定的となり、石田三成が京都の徳川家の城「伏見城」の鳥居元忠を攻めた時、篠山理兵衛もこの戦いに参加するが、孤立した城は落城、彼も配下と共に戦死した。

家康は彼の子を取立て、篠山家はその後も代々、代官職を務めたという。

和田宗立

和田 宗立

(わだ むねたて) 

将軍側近「和田惟政」の父


「万が一に備えぬとな……。 将軍家にもしものことが…… いや、今は戦に集中する!」

和田家は「甲賀五十三家」の中でも上位の家柄で、六角家の重臣も務めた「甲賀六家」のひとつでもあった。
そして彼は、足利将軍家の家臣として有名な「和田惟政」の父である。

六角家は将軍家に近い家柄で、信長台頭前の近畿の戦乱において、将軍家ゆかりの勢力に請われて大きな活躍をしていた。
将軍家を保護する機会も多く、将軍・足利義輝や、その父である足利義晴は、京都の争乱に巻き込まれて近江(滋賀)に逃れた際、南近江を支配していた六角家に何度もご厄介になっていた。
そのため、将軍家と密接な関係を持つ甲賀の有力者が増えていく。和田宗立もその一人である。

この縁で彼の子「和田惟政」は第13代将軍・足利義輝に仕えることになった。
足利義輝は京都の政争の末、政敵であった三好家の重臣「三好三人衆」に殺害されてしまうが、和田惟政は細川藤孝らと協力して義輝の弟「足利義昭」を救出し、その将軍擁立に奔走した。
このとき、救出した義昭は一旦、和田惟政の甲賀の自宅に匿われていたという。
そして交渉に応じた織田信長が足利義昭を奉じて京都に上洛、和田惟政は信長によって摂津の守護職を命じられ、重責を担うことになる。
ただ、和田惟政が有名すぎて、父である和田宗立がその後どうなったのかは、今ひとつわかっていない。

多羅尾光俊

多羅尾 光俊

(たらお みつとし) 

伊賀越えの立役者。甲賀組頭領


「俺は相手によって言葉遣いを変える男と、よく非難される。 けどな、これは必要なことだぜ。 お互いの関係も、抱えている事情も変わるのなら、言葉も変えんとなあ。
非難されるようなことじゃなく、気遣いなんだ。 まして俺たちは忍びだ。 状況によって対応を変える才覚は誉められこそすれ、非難されるようなことじゃないと思うぞ」

多羅尾家は甲賀忍を形成していた「甲賀五十三家」のひとつで、伊賀との国境に大きな領地を持っていた豪族(地方権力者)だった。
織田信長が約5万の大軍で伊賀を攻めた「第二次 天正伊賀の乱」の際、甲賀は織田家に従属してその難を逃れるのだが、信長は甲賀が降伏する条件として「多羅尾の軍勢が伊賀攻めに参加すること」をあげていたため、それだけ大きな勢力だった事がわかる。
これに従い、多羅尾家は第二次 天正伊賀の乱で伊賀攻撃に参加、結果として甲賀の中でもトップクラスの力を持つ事になるが、以後、地元の他の勢力とは微妙な関係になったようだ。

それから一年後…… 織田信長は「本能寺の変」で配下の明智光秀に急襲され戦死、その時に京都に招待されていて、堺の町を観光していた徳川家康も光秀の軍に追われ、街道も封鎖されて窮地に陥った。
そして徳川家康は伊賀の山地を抜けて三河への帰還を目指す「伊賀越え」を行うのだが、この時に多羅尾光俊は家康からの救援要請に応じ、甲賀忍者200名を護衛として派遣、さらに自分の領地に家康を案内してかくまい、伊賀越えの成功に大きな役割を果たした。
家康が多羅尾家に救援を求めたのは、多羅尾家が「天正伊賀の乱」で織田家側についていたからと思われる。

その後、多羅尾光俊は豊臣秀吉に仕え、秀吉の養子「豊臣秀次」の配下となり、最盛期には8万石の大名となったが、豊臣秀次が謀反の疑いで処刑された「秀次事件」に巻き込まれて失脚、甲賀の領地も失い、そのまま隠居してしまった。
だが、彼の子がすぐに徳川家康に取り立てられ、再び甲賀の領地を与えらて代官となり、「関ヶ原の戦い」にも参加。
その後、多羅尾家は徳川幕府における元伊賀・甲賀忍者で構成された侍「伊賀同心」の「甲賀組」の頭領となっている。

鵜飼孫六

鵜飼 孫六

(うかい まごろく) 

家康に雇われた甲賀の手練れ


「おう、よいところに参った。 謎かけをいたそうぞ。 まあ、ちょっと付き合ってくれ。
上を見れば下にあり、下を見れば上にあり、母のはらをとりて、子の肩にあり。 さて、答えは?」

「甲賀五十三家」のひとつである「鵜飼家」の出身と言われる甲賀忍者。
伊賀の上忍「服部半蔵保長(有名な服部半蔵正成の父)」の要請を受けて、徳川家に派遣された200名の甲賀忍者のひとりである。

「桶狭間の戦い」で織田信長が今川義元を討ち倒し、松平元康(後の徳川家康)が三河で独立したばかりの頃、松平元康は三河を支配するために今川家の「鵜殿城」という城を攻めていた。
だが、力攻めは難しいと判断した松平元康は、鵜飼孫六の率いる甲賀忍者に城への潜入を依頼、配下と共に城内に入った鵜飼孫六は火を放ち、城の中で暴れ始めた。
今川軍は裏切り者が出たかと思って大混乱となり、城は炎上して陥落、城を守っていた今川家の重臣「鵜殿長照」も捕虜となる大戦果を挙げた。

ちなみに、謎かけの答えは「」である。

森田浄雲

森田 浄雲

(もりた じょううん) 

正体不明の伊賀代表


「国を治めるには、民への心配りも必要だ。 町で困っている者を見かけたら、必ず手を貸してやるのだぞ」

伊賀の「猪田」を所領とした豪族(地方権力者)の一人で、伊賀の豪族連合(伊賀惣国一揆)の中心人物の一人とされる。
ただし、現在に伝わる「伊賀十二人衆」のメンバーの中に彼の名はない。

約5万の織田軍が侵攻してきた「第二次 天正伊賀の乱」の際、新しい砦を築いて「百地丹波(三太夫)」と共に篭城した。
ところが、ここで信長から和議の申し出があり、降伏した森田浄雲は伊賀の「一之宮城」という城の城主に任命される。
しかし「本能寺の変」で織田信長が急死したことで伊賀で争乱が起こり、それに乗じて織田家に反旗を翻すも、内乱の中で戦死した。

ただし「第二次 天正伊賀の乱」で一之宮城を守るも落城、そのときに戦死したという説や、織田家に降った後に織田信雄に討たれたという説もある。
いまいち正体がハッキリしないが、現在の伊賀上野城に彼の鎧兜が展示されているため、実在はしていたと思われる……
百地三太夫は伊賀十二人衆「百田籐兵衛」と同一人物という説があり、そして「百田」なので「森田」も同一の可能性はある。

佐治為次

佐治 為次

(さじ ためつぐ) 

秀吉に最後まで抵抗した甲賀者


「結果がすべてだ。 私に認められたくば…… その手で、己の価値を示すがよい」

佐治家は甲賀忍を形成していた「甲賀五十三家」、および「甲賀二十一家」のひとつであり、甲賀の中でも上位であった。
甲賀が織田家に従属した後は織田家から領地を保障され、その後は1万4千石の大名となっている。

しかし、信長の後継者となった豊臣秀吉は、伊賀忍や甲賀忍、雑賀衆など、地方の領主によって運営されている共同体のような勢力の存在を良いとは思っていなかった。
そのため秀吉は、甲賀の豪族に「合戦での不手際」などの適当な罪状を付けて、甲賀地方からの移転を強要する。
多くの甲賀の国人・豪族はそれに従って故郷から離れていったのだが、佐治家はそれに従わず、甲賀に居座って秀吉に抵抗した。
そのため豊臣軍の大規模な侵攻を受け、佐治家は滅ぼされている。

望月吉棟

望月 吉棟

(もちづき よしむね) 

甲賀五十三家筆頭


「甲賀には名門と呼ばれる五十三家がある。 中でも「鈎(まがり)の陣」で大いに活躍した二十一家は、名門中の名門。 その筆頭格が、我が望月家なのだ。 はっはっは。自慢話になってしまったのう。いかんな。
忍たる者、過去の栄光ではなく、今の現実に生きねばならぬのにな……」

セリフにある通り、望月家は「甲賀五十三家」の筆頭格であり、望月吉棟はその当主だった。
同時に、南近江の大名「六角家」の家臣でもあり、病に倒れた時には六角家の当主「六角義賢」が何度も見舞いに訪れている。
望月家は元は信濃の出身で、平安時代に反乱を起こした「平将門」の討伐に功績があり、甲賀の地を任せられたという。
また「霧」を自在に使った忍法で敵軍を幻惑するのを得意とした。

戦国時代の初期、六角家は足利将軍家に反乱を疑われて大規模な侵攻を受けたが、六角側についた望月家の甲賀忍者は「霧隠れの術」や「木の葉隠れの術」で足利軍を翻弄し、クタクタに疲れた足利軍を強襲、六角軍に勝利をもたらしたという。

彼らの使った「霧」は、実際の霧、及び火や煙を使った煙幕だったと言われている。
また「木の葉隠れの術」は、衣服に木の葉や枝を付けて身を隠すカモフラージュであったようで、それらを使った奇襲戦法が望月の「忍術」であったようだ。

山中俊房

山中 俊房

(やまなか としふさ) 

十勇士の敵として描かれる甲賀の頭領


「九代将軍義尚公が六角高頼どのを討伐されようとしたときの攻防。 それが世に名高い「鈎(まがり)の陣」よ。 我らの祖父である甲賀衆は、六角どのにお味方したのじゃ。
義尚公は鈎(まがり)の里に本陣を布き、甲賀山中に甲賀衆と六角どのを追撃した……。 が、義尚公の軍勢は、巧みに山や谷を逃げ回る甲賀衆と六角どのを、ついに追い詰めることができなんだ。 義尚公の軍勢は追撃をあきらめ、その夜は疲れ果てて本陣に戻った。 そこを甲賀衆が襲撃したのじゃ。
本陣は大混乱となり、義尚公は命からがら逃げ出したそうじゃ」

山中家も「甲賀五十三家」の筆頭格の家柄で、甲賀を統率した上忍だと言われている。
歴史小説などでも、彼が甲賀の頭領として登場する場合が多い。

甲賀忍軍は豊臣秀吉によってほぼ解体されてしまうのだが、山中家はその後に豊臣家に仕えて活動している。
秀吉が行った大規模な茶会や花見などの行事では、山中俊房に率いられた甲賀忍者たちが、その警護にあたっていたと言う。
また、彼の子は書画が巧みで、秀吉の祐筆(手紙や書類の発行役)となり、のちに豊臣姓と1万石を与えられ、小大名となった。
ただ「関ヶ原の戦い」で西軍に付いたため、東軍・徳川家康の勝利後、大名の地位は失っている。

映画や大河ドラマにもなった人気小説「真田太平記」に甲賀忍者として登場し、「猿飛佐助」などの真田十勇士と対決するため、彼がよく小説などの登場人物として描かれるのは、そこから来ているようだ。

伴長信

伴 長信

(とも ながのぶ) 

甲賀上忍「柏木三家」の一人


「小勢で大軍を打ち破らねばならぬときは……奇襲しかない。 突撃だけが、敵を破る手段とは思うな。 屋敷の警護には、重々気をつけるがよい」

「伴」は「ばん」とも「とも」とも読むが、元は「大伴(おおとも)」だったらしいので「とも」のようだ。
伴家は望月家、山中家と並ぶ「甲賀五十三家」および「甲賀二十一家」の頭領格の家柄であり、この三家で「柏木三家」とも呼ばれる。

三河で松平元康(後の徳川家康)が独立したばかりの頃、甲賀忍者200名が今川家の城に潜入し、城を大混乱に落としいれた時、この伴家の忍者が敵将を討ち取る大きな活躍を見せたと言う。
そして、その時に家康が甲賀に送った感謝状が、今も残されている。

伴長信は山中俊房と同じく、小説「真田太平記」に甲賀忍者として登場し、真田十勇士の敵役となっている。
そのため物語にはよく出てくる人物だ。
ただ、実際の伴長信は織田信長に降った後、「本能寺の変」に遭遇し、明智光秀の軍勢と戦って討ち死にしたと言われているため、真田十勇士の舞台である戦国末期にはすでに亡くなっている。 信長の側で最後まで奮戦したという。

的場源四郎

伊賀崎 道順

(いがさき どうじゅん) 

伊賀忍術名人の筆頭


「忍は闇に生きるもの。 平時より、いざというときのために力を身につけておかねばならぬ。
今日は、闇の中で物を見る技の鍛錬法について、教えてやろう。 闇に灯火を立て、数間の間隔を隔てて座す。 そして、灯火を瞬きせずに注視する……。 瞬きする手前で目を閉じて心を鎮める。 これを繰り返すのだ。
慣れたら、さらに上位の鍛錬法を教えてやる。 試してみるがいい」

名前の読みは「いがのさき」や「いがざき」かもしれない。
通称は「楯岡ノ道順」で、伊賀の中忍だという。
伊賀の忍術書「万川集海」に伊賀の忍術十一名人の筆頭として紹介されており、「伊賀忍術 四十九流」の始祖とも言われている忍術の達人である。

ある日、六角家の家臣だった「百々家」という一族が反乱を起こしたのだが、百々家の城は堅固で、攻めても落城させる事が出来なかった。
そこで六角家の当主「六角義賢」は、忍術の腕前が評判になっていた伊賀崎道順に城攻めを依頼する。
道順は伊賀・甲賀の者48人に百々家の家紋の入った提灯を持たせて、百々家の家臣に成りすまして城に潜入。
そして城内に火を放ち、混乱を誘発させ、門を開けて六角家の軍勢を招き入れ、一晩で落城させた。
その様子は「伊賀崎入れば落ちにけるかな」と唄に詠まれたと言う。

その後、共に城に忍び込んだ48人はそれぞれ伊賀崎流の忍術を伝えたため、伊賀忍術は本家と合わせて「四十九流」になったのだという。
近江の佐和山城を十一人の忍びで落城させたという記録もある。
また、織田家が伊賀を攻めた「天正伊賀の乱」の後、鉄砲で信長を狙撃したとも言われている。
伊賀忍軍の滅亡後は徳川家康に仕えたという。

藤林正保

藤林 正保

(ふじばやし まさやす) 

謎に包まれた伊賀上忍


「忍術を使う者は正しき心を持ち、臨機応変に物事を考えねばならぬ。 邪心を持って技を使えば、盗人の術に成り下がってしまう。 そのことを忘れるな」

一般には「藤林長門守」と称される事が多い、伊賀の上忍の一人。
藤林家は「百地家」「服部家」と並ぶ「伊賀上忍三家」であり、つまり伊賀の頭領格と言える立場のはずなのだが……
彼がどんな人物だったのか、その記録はほとんど残されておらず、詳細は謎に包まれている。

伊賀の忍術書「万川集海」には、上忍について次のように書かれている。
「上忍は、音もなく、匂いもなく、智名もなく、勇名もない。 人の知る事なくして、巧者なる事を上忍とするなり」
つまり、詳細不明の彼こそが、真の「上忍」と言えるのかも知れない……

以下は伝承や仮説も含むが、伊賀の頭領「百地丹波(三太夫)」と同一人物であるという説が以前は有力だった。
百地丹波は「伊賀十二人衆」の一人である長田荘の地頭「百田籐兵衛」のことだと言われているが、名前が「籐兵衛」で「藤」の字が藤林と共通するからである。
ただし、藤林家は伊賀北部「湯船郷」の地頭で、北伊賀衆を率いたとも伝わっており、甲賀にも大きな影響力を持っていたという。
今川義元に雇われていたことがあり、そのときに武田家の軍師となる「山本勘助」に忍術を教えたという記録がある。
「第二次 天正伊賀の乱」では、多羅尾光俊と共に織田側に付いて、織田軍を手引きしたという説があるが、織田家の蒲生氏郷軍と戦ったともいう。
のちに彼の子孫が忍術書「万川集海」や「正忍記」を記し、忍者の実態を後世に伝えた。


伊賀のその他の人々

加藤翁

(かとうおきな) 

「飛び加藤」こと加藤段蔵か

ゲーム「信長の野望オンライン」で伊賀の屋敷に登場する謎の老人なのだが・・・
おそらく、越後や甲斐・信濃で活動していた凄腕の忍者「加藤段蔵」の事だと思われる。
加藤段蔵は「飛び加藤」とも言われ、信州戸隠山の忍者だと言われているが、風魔小太郎から忍術を学んだ風魔乱波とも、伊賀流の忍者とも言われており、その出身ははっきりしない。

幻術や跳躍に優れ、牛を1頭丸飲みにする「牛呑の術」や、ジャックと豆の木のように種から巨大な植物を生やす「生花の術」など、あやしい術を駆使していたという。
上杉謙信に仕官しようとして、「直江の家の刀を盗んでみろ」と言われた時は、見張りや番犬をものともせず、直江家にいた眠ったままの幼女と一緒に目的の刀を盗んできたと言う。
しかし、あまりにも神出鬼没で、アヤシイ術を使いまくるため、不審に思った上杉謙信は彼を殺そうとしたが、術を使って消え失せてしまった。

その後、武田信玄に仕官しようとしたが、信玄もアヤシサ爆発の彼を信用せず、配下に命じて殺させてしまったと言う。
一説には、彼は武田信玄の持っていた「古今集」という本を盗もうとして、武田家の家臣「飯富虎昌」の配下の忍び「突破の熊若」に捕らえられたとされている。

やたらファンタジーだが、有名な忍者のひとりであり、数々の小説や物語の登場人物になった。
彼の使った牛を丸呑みにする「牛呑の術」は、それを遠くから見ていた男が「加藤は牛の上にいる」と言うと、たちまち術が解けてしまったという。
どうやら、彼が使っていたのは催眠術だったようだ。




一部の武将の顔画像は信長の野望シリーズ「天下創世」「革新」「大志」および「太閤立志伝V」のものです。
信On のアイテム情報は攻略本(破天の章 オフィシャルガイド)と「信長の野望Online 寄合所」で有志の方々により集められたデータを参考にさせて頂きました。
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