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(信長の野望 Online における伊賀忍陣容) |
頭領
軍師・四天王
先陣・小荷駄
中陣 守将・副将
後陣 守将・副将
後詰め
留守武将
紀伊のその他の人々
百地 三太夫(ももち さんだゆう)伊賀忍軍頭領 忍者人材派遣の元締「『孫子』を知っておるか? 『彼を知り、己を知れば、百戦あやうからず……』 戦に勝つためには、敵の内情を正確に知ることが肝要だ。 そのために働くことこそ、我ら忍の役目。 忍の働きが、戦の勝敗を左右するのだ」 伊賀忍を統率する「伊賀上忍三家」のひとつ「百地家」の当主にして、伊賀忍の実質的な頭領と言われれる人物。 別名「百地丹波守」。 |
美濃部 茂俊(みのべ しげとし)神君伊賀越えの支援者「結果がすべてだ。 私に認められたくば…… その手で、己の価値を示すがよい」 美濃部家は甲賀忍を形成していた「甲賀五十三家」や「甲賀二十一家」のひとつで、甲賀北部の中心地「水口」を支配していた。 1582年、「本能寺の変」で織田信長が家臣の明智光秀に討たれた時、京都と大阪を観光中だった徳川家康も窮地に陥った。 |
三雲 賢持(みくも かたもち)六角家重臣にして猿飛佐助の父?
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野村 孫太夫(のむら まごだゆう)声優忍者「結果がすべてだ。 私に認められたくば…… その手で、己の価値を示すがよい」 伊賀の忍術書「万川集海」に登場する伊賀の十一名人のひとり。 ある日、彼は忍び込んだ屋敷の主人に気配を悟られてしまい、槍で突かれそうになるが、「家の者が起きたので引き上げよう」「わかった」と言って一人二役で話し声を立て、仲間がいると思わせて相手を逃げさせてから、さらに屋敷の奥に忍び込んだ。 |
毛屋 武久(けや たけひさ)七度主君を変えた苦労人「結果がすべてだ。 私に認められたくば…… その手で、己の価値を示すがよい」 幼い頃に父が戦死し、多くの戦国武将の元を点々とした人物。 黒田長政の元では「黒田二十四騎」と呼ばれた武士のひとりになっており、西軍・石田三成と東軍・徳川家康が戦った「関ヶ原の戦い」に参加。 伊賀忍・甲賀忍としての活動はないが、甲賀ゆかりの人であり、関ヶ原で物見役になっていることから、諜報術の心得があった可能性はあるだろう。 |
杉谷 善住坊(すぎたに ぜんじゅうぼう)信長を狙うスナイパー
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町井 貞信(まちい さだのぶ)織田軍を破った伊賀の副将「結果がすべてだ。 私に認められたくば…… その手で、己の価値を示すがよい」 伊賀を統治した「伊賀十二人衆」のひとり。 伊賀の中心にほど近い「木興荘」を治めた地頭。 そして織田信長の子「織田信雄(北畠信雄)」が伊賀に侵攻した「第一次 天正伊賀の乱」の際には、副大将として伊賀忍軍の指揮を取り、山間部でのゲリラ戦によって織田軍を壊滅させた。 |
福地 定成(ふくち さだなり)つわものどもが夢の跡「小勢で大軍を打ち破らねばならぬときは……奇襲しかない。 突撃だけが、敵を破る手段とは思うな。 屋敷の警護には、重々気をつけるがよい」 福地家は伊賀の有力な豪族(地方権力者)であり、伊賀と甲賀の国境にある「柘植地方」を治めた、大きな領地を持つ家柄だった。 しかし福地家は、織田軍が約5万の大軍で伊賀に侵攻した「第二次 天正伊賀の乱」の際、織田側に付き、伊賀侵攻の道案内を行った。 そして、この松尾家で後に生まれたと言われているのが…… 「奥の細道」で有名な俳人「松尾芭蕉」である。 |
富野 茂正(とみの しげまさ)伊賀十二人衆?「小勢で大軍を打ち破らねばならぬときは……奇襲しかない。 突撃だけが、敵を破る手段とは思うな。 屋敷の警護には、重々気をつけるがよい」 詳細不明だが…… 「町井貞信」のご子孫の方から、以下の情報を頂きました。 「この人物はたぶんですが、町井と同じ十二人衆のうち、柏原荘地頭「滝野十郎吉政」と、島ヶ原荘地頭「富岡忠兵衛貞頼」が混じってしまったものかと思います。 |
植田 光次(うえだ みつつぐ)織田軍を追撃した伊賀十二人衆「結果がすべてだ。 私に認められたくば…… その手で、己の価値を示すがよい」 伊賀を合議で運営していた「伊賀十二人衆」のひとりである下阿波の地頭「植田豊前光信」のことか、もしくはその跡継ぎと思われる。 この活躍があったからか、織田家に対して抗戦派であったようだが、約5万の大軍が攻め込んで来た「第二次 天正伊賀の乱」では多勢に無勢で敗北、脱出して三河へ逃れた。 |
唐沢 玄蕃(からさわ げんぱ)真田の飛び六法「小勢で大軍を打ち破らねばならぬときは……奇襲しかない。 突撃だけが、敵を破る手段とは思うな。 屋敷の警護には、重々気をつけるがよい」 信濃の出身で、武田家・真田家に仕えた忍者。 真田家の吾妻忍軍(吾妻衆)の「吾妻七騎」の一人。 敵城に忍び込んでの放火など潜入術に優れており、武田騎馬軍団が織田家の鉄砲三段撃ちで壊滅した「長篠の戦い」にも参加している。 彼は実際には、伊賀忍・甲賀忍との接点はないのだが……
ゲーム「信長の野望オンライン」の伊賀忍は、信濃の忍者も含んでいる。 |
根津 信政(ねづ のぶまさ)甲陽流忍術と鷹匠の家系「小勢で大軍を打ち破らねばならぬときは……奇襲しかない。 突撃だけが、敵を破る手段とは思うな。 屋敷の警護には、重々気をつけるがよい」 彼も実際には信濃の人で、武田家・徳川家の配下だった。 彼の表立った経歴に忍者としての活動は見られないが、根津家(禰津家)は甲陽流忍術の家元とされており、幕末まで伝承されていたという。 真田十勇士にも「根津甚八」という、根津の名を持つ忍者が含まれている。 |
出浦 盛清(いでうら もりきよ)甲州忍者「吾妻衆」の頭領「正体を隠して敵地に潜入するためには、変装は必須の技。 その変装に適した七種類の職業のことを「七方出(しちほうで)」と呼ぶ。 虚無僧、出家、山伏、商人、放下師(ほうかし)、猿楽師、そして常の形(なり)の七つだ。 虚無僧、出家、山伏、商人は、諸国を渡り歩くのに好都合な姿と言える。 放下師は曲芸や手品を見せる芸人よ。 猿楽師も猿楽という芸を見せる者ゆえ、怪しまれずに人に近づくには適しておる。 常の形とは、武士や農民のことだ。 最も目立たないがゆえに、最も目をくらますのに適している、というわけだ」 この人も本当は伊賀の忍者ではなく、甲斐・武田家の忍者だ。 武田家の滅亡後は織田家の森長可に仕えたが、真田家が北信濃で独立するとそれに従った。 数少ない、忍者のままで立身出世した人だ。 |
東海 幸義(とうかい ゆきよし)「海野幸義」の間違い?「小勢で大軍を打ち破らねばならぬときは……奇襲しかない。 突撃だけが、敵を破る手段とは思うな。 屋敷の警護には、重々気をつけるがよい」 詳細不明だが…… 真田家や根津家の親類だった「海野家」の一人「海野幸義」と間違っているのではないかと思われる。 海野家は信濃の豪族(地方権力者)だったが、武田信玄の父「武田信虎」、信濃の大将「村上義清」、諏訪大社の神官で湖衣姫の父「諏訪頼重」という当時の甲州オールスターにフルボッコにされて勢力としては滅亡した。 |
阿波 正高(あわ まさたか)伊賀東の山中を守る「小勢で大軍を打ち破らねばならぬときは……奇襲しかない。 突撃だけが、敵を破る手段とは思うな。 屋敷の警護には、重々気をつけるがよい」 伊賀と伊勢の国境に位置する「阿波」の国人(地方領主)だったようだ。 翌年、織田軍が約5万、動員人数10万以上とも言われる大軍で攻めてきた「第二次 天正伊賀の乱」の際は、織田軍は山間部をできるだけ避ける形で進軍してきたため、阿波の地は直接戦場にはならなかった。 |
甲山 太郎次郎(こうやま たろうじろう)自宅が忍者テーマパークに「結果がすべてだ。 私に認められたくば…… その手で、己の価値を示すがよい」 「高山ノ太郎次郎」や「太郎四郎」とも呼ばれる伊賀忍者。上野郷の下忍という。 |
耳須 具明(みみす ともあき)織田に付いたら竹槍の餌食「小勢で大軍を打ち破らねばならぬときは……奇襲しかない。 突撃だけが、敵を破る手段とは思うな。 屋敷の警護には、重々気をつけるがよい」 伊賀の北方、河合郷の国人(地方領主)。 |
山田 八右衛門(やまだ はちえもん)万川集海で語られる忍術の一例
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神部 小南(かんべ こなん)真実はいつも藪の中「小勢で大軍を打ち破らねばならぬときは……奇襲しかない。 突撃だけが、敵を破る手段とは思うな。 屋敷の警護には、重々気をつけるがよい」 伊賀の忍術書「万川集海」に登場する伊賀の十一名人のひとり。 |
下柘植 小猿(しもつげ こさる)猿忍者。猿飛佐助のモデルか?「手裏剣を使いますか? 手裏剣を打つ…… 投げるのを打つと言いますが、大きく二つのやり方があります。 一つは、手裏剣の切っ先を標的に向け、回転させずに打つ「直打法」……。 もう一つは、回転を加えて打つ「回転打法」です。 「回転打法」は飛距離も伸び、威力も強いのですが、命中の精度に難があります。 逆に「直打法」は命中精度は高いですが、威力は弱くなります。 打ち方は、状況に応じて変える必要があるのですよ」 伊賀の忍術書「万川集海」に登場する伊賀の忍術十一名人のひとり。 名前の通り「猿」のような忍術を得意としていて、身のこなしが素早く、樹木に隠れるのがうまく、動物の声真似が得意だったとう。 真田十勇士の忍者として有名な「猿飛佐助」のモデルの一人と言われている。 |
下柘植 木猿(しもつげ きさる)猿飛佐助の有力なモデル「武士ならば不名誉だが、忍びにとっては逃げることも大事だ。 そのための技こそ、天遁(てんとん)、地遁(ちとん)、人遁(じんとん)の三十法からなる遁走術よ。 天遁は、雲遁・霧遁・雨遁・雪遁などの十種類からなり、天気を利用して逃げる方法だ。 地遁は、火遁・土遁・水遁などの十種類から構成される。 火遁は放火や煙玉を使う方法。 水遁は川や池を使う、または使ったと見せかけて逃げる方法よ。 人遁は、男遁・女遁・老遁・獣遁・虫遁などの十種類からなっている。 内容については、またいつか話そう」 伊賀の忍術書「万川集海」に、「下柘植子猿」と共に名が出てくる伊賀の忍術十一名人のひとり。 大和(奈良)の戦乱に伊賀衆を率いて参加し、筒井順慶に味方して敵城を陥落させた記録が残されている。 |
石川 五右衛門(いしかわ ごえもん)大泥棒にして歌舞伎のヒーロー「京の南禅寺に行ったことはあるかい? いや別に坊主の説教を聞きに行ったわけじゃねえよ。 あの寺の山門がさ。いい眺めなんだ。 絶景ってやつだねえ。 おめえも、一回登ってみたらいいぜ。 南禅寺の山門によ」 言わずと知れた天下の大泥棒「石川ゴエモン」である。 伝承によると、伊賀の上忍「百地三太夫」に弟子入りして伊賀の忍術を習ったと言われているが、南蛮人から盗みの基礎を学んだという話もある。 後年、豊臣秀吉の城に忍び込み、秀吉の秘宝「千鳥の香炉」を盗もうとするが、香炉の千鳥が「チリリ」と鳴いたため見つかってしまい、京都の奉行「前田玄以」に捕らえられ、京都の「三条河原」で一族郎党と共に「釜茹での刑」で処刑されたという。 江戸時代には歌舞伎の登場人物として欠かせない人となり、京都の「南禅寺」というお寺の山門の上で「絶景かな、絶景かな。 春の眺めは値千金とは、小せえ、小せえ」とタンカを切る場面が歌舞伎の名場面として伝わっている。 一時はその実在が疑われていたりもしたのだが、近年ヨーロッパで見つかった当時の宣教師の記録に彼に関する記述が見つかり、「釜茹での刑」にされた実在の大盗賊であった事が確認された。 |
城戸 弥左衛門(きど やざえもん)狙撃、逃走、変装。もはやルパン「最初の頃は、何かと武器ばかりを新調しがちだが、大事なのはむしろ、命を守る防具のほうだぞ」 通称「音羽ノ城戸」。 伊賀の中忍だと言われている。 織田信長を狙撃した人物としても有名で、「天正伊賀の乱」の後、視察に来た信長が神社で休憩中のところを仲間と共に鉄砲で狙った。 そして後日、彼は狙撃後の信長の様子を見るために、変装してお菓子を持参し、信長に近づいたと言われている。 |
果心 居士(かしんこじ)日本屈指の怪人物「お主は松永弾正という男を知っておるか? 三好長慶配下の武将、松永久秀のことよ。 一度、からかってやったことがある。 思い上がっておったでな。 くっくっくっくっく……。 『戦場の修羅場を幾度もくぐり抜けた自分を恐ろしがらせるようなものを見せよ』などと申しおった。 で、見せてやったのよ。 あやつの死んだ女房の顔を、な。 あやつめ…… 蒼白な顔となって震えておったわ。 ひっひっひっひっひ……。 何? なにゆえ、あやつが死んだ女房を恐れるのか、だと。 さて、なぜかのう? ひっひっひっひっひ……」 生没年不詳、正体不明、戦国時代に現れた謎の幻術師。 別名「七宝行者」。 大和の国で僧をしていた事もあるようだが、池に笹の葉をまいて、それを魚に変えて人々を驚かせたため、「人心を惑わした」として破門されたと言う。 他に、彼が持っていた「地獄絵図の掛け軸」を信長が強引に奪ったが、その絵図がいきなり白紙になったとか、明智光秀に呼ばれた時、いきなりそこに琵琶湖が現れて小船に乗って消えてしまったとか、信じられない伝承が残っている。 あまりにファンタジーなので、江戸時代になってから様々な物語や演劇に登場するようになり、「謎の人物」として一躍有名になった。 |
篠山 理兵衛(ささやま りへえ)施されたら施し返す。恩返しです「小勢で大軍を打ち破らねばならぬときは……奇襲しかない。 突撃だけが、敵を破る手段とは思うな。 屋敷の警護には、重々気をつけるがよい」 篠山家は甲賀忍を形成していた「甲賀五十三家」のひとつ「大原家」の一族。理兵衛は通称で、名は「資家」や「景春」という。 しかし約十年後…… たまたま徳川家康と会ってこの話をした時、不憫に思った家康が彼を召抱え、甲賀の近くの代官に彼を推薦した。 それから数年後、豊臣秀吉が病死し、徳川家康の権力が豊臣政権下で大きくなり始めた頃、「豊臣五奉行」のひとり「長束正家」が「当家の領地をお通りになる時は、おもてなししたいので、ぜひお越し下さい」と家康を誘った時、彼はそれが「家康暗殺」の謀略である事を探り当て、家康に報告する。 家康は彼の子を取立て、篠山家はその後も代々、代官職を務めたという。 |
和田 宗立(わだ むねたて)将軍側近「和田惟政」の父「万が一に備えぬとな……。 将軍家にもしものことが…… いや、今は戦に集中する!」 和田家は「甲賀五十三家」の中でも上位の家柄で、六角家の重臣も務めた「甲賀六家」のひとつでもあった。 六角家は将軍家に近い家柄で、信長台頭前の近畿の戦乱において、将軍家ゆかりの勢力に請われて大きな活躍をしていた。 この縁で彼の子「和田惟政」は第13代将軍・足利義輝に仕えることになった。 |
多羅尾 光俊(たらお みつとし)伊賀越えの立役者。のちの甲賀組頭領「俺は相手によって言葉遣いを変える男と、よく非難される。 けどな、これは必要なことだぜ。 お互いの関係も、抱えている事情も変わるのなら、言葉も変えんとなあ。 非難されるようなことじゃなく、気遣いなんだ。 まして俺たちは忍びだ。 状況によって対応を変える才覚は誉められこそすれ、非難されるようなことじゃないと思うぞ」 多羅尾家は甲賀忍を形成していた「甲賀五十三家」のひとつで、伊賀との国境に大きな領地を持っていた豪族(地方権力者)だった。 それから一年後…… 織田信長は「本能寺の変」で配下の明智光秀に急襲され戦死、その時に京都に招待されていて、堺の町を観光していた徳川家康も光秀の軍に追われ、街道も封鎖されて窮地に陥った。 その後、多羅尾光俊は豊臣秀吉に仕え、秀吉の養子「豊臣秀次」の配下となり、最盛期には8万石の大名となったが、豊臣秀次が謀反の疑いで処刑された「秀次事件」に巻き込まれて失脚、甲賀の領地も失い、そのまま隠居してしまった。 |
鵜飼 孫六(うかい まごろく)家康に雇われた甲賀の手練れ「おう、よいところに参った。 謎かけをいたそうぞ。 まあ、ちょっと付き合ってくれ。 上を見れば下にあり、下を見れば上にあり、母のはらをとりて、子の肩にあり。 さて、答えは?」 「甲賀五十三家」のひとつである「鵜飼家」の出身と言われる甲賀忍者。 「桶狭間の戦い」で織田信長が今川義元を討ち倒し、松平元康(後の徳川家康)が三河で独立したばかりの頃、松平元康は三河を支配するために今川家の「鵜殿城」という城を攻めていた。 ちなみに、謎かけの答えは「 一 」である。 |
森田 浄雲(もりた じょううん)正体不明の伊賀代表「国を治めるには、民への心配りも必要だ。 町で困っている者を見かけたら、必ず手を貸してやるのだぞ」 伊賀の「猪田」を所領とした豪族(地方権力者)の一人で、伊賀の豪族連合(伊賀惣国一揆)の中心人物の一人とされる。 約5万の織田軍が侵攻してきた「第二次 天正伊賀の乱」の際、新しい砦を築いて「百地丹波(三太夫)」と共に篭城した。 ただし「第二次 天正伊賀の乱」で一之宮城で戦死したという説や、織田家に降った後に織田信雄に討たれたという説もある。 |
佐治 為次(さじ ためつぐ)秀吉に最後まで抵抗した甲賀者「結果がすべてだ。 私に認められたくば…… その手で、己の価値を示すがよい」 佐治家は甲賀忍を形成していた「甲賀五十三家」、および「甲賀二十一家」のひとつであり、甲賀の中でも上位であった。 しかし、信長の後継者となった豊臣秀吉は、伊賀忍や甲賀忍、雑賀衆など、地方の領主によって運営されている共同体のような勢力の存在を良いとは思っていなかった。 |
望月 吉棟(もちづき よしむね)甲賀五十三家筆頭「甲賀には名門と呼ばれる五十三家がある。 中でも「鈎(まがり)の陣」で大いに活躍した二十一家は、名門中の名門。 その筆頭格が、我が望月家なのだ。 はっはっは。自慢話になってしまったのう。いかんな。 忍たる者、過去の栄光ではなく、今の現実に生きねばならぬのにな……」 セリフにある通り、望月家は「甲賀五十三家」の筆頭格であり、望月吉棟はその当主だった。 戦国時代の初期、六角家は足利将軍家に反乱を疑われて大規模な侵攻を受けたが、六角側についた望月家の甲賀忍者は「霧隠れの術」や「木の葉隠れの術」で足利軍を翻弄し、クタクタに疲れた足利軍を強襲、六角軍に勝利をもたらしたという。 彼らの使った「霧」は、実際の霧、及び火や煙を使った煙幕だったと言われている。 |
山中 俊房(やまなか としふさ)十勇士の敵として描かれる甲賀の頭領「九代将軍義尚公が六角高頼どのを討伐されようとしたときの攻防。 それが世に名高い「鈎(まがり)の陣」よ。 我らの祖父である甲賀衆は、六角どのにお味方したのじゃ。 義尚公は鈎(まがり)の里に本陣を布き、甲賀山中に甲賀衆と六角どのを追撃した……。 が、義尚公の軍勢は、巧みに山や谷を逃げ回る甲賀衆と六角どのを、ついに追い詰めることができなんだ。 義尚公の軍勢は追撃をあきらめ、その夜は疲れ果てて本陣に戻った。 そこを甲賀衆が襲撃したのじゃ。 本陣は大混乱となり、義尚公は命からがら逃げ出したそうじゃ」 山中家も「甲賀五十三家」の筆頭格の家柄で、甲賀を統率した上忍だと言われている。 甲賀忍軍は豊臣秀吉によってほぼ解体されてしまうのだが、山中家はその後に豊臣家に仕えて活動している。 映画や大河ドラマにもなった人気小説「真田太平記」に甲賀忍者として登場し、「猿飛佐助」などの真田十勇士と対決するため、彼がよく小説などの登場人物として描かれるのは、そこから来ているようだ。 |
伴 長信(とも ながのぶ)甲賀上忍「柏木三家」の一人「小勢で大軍を打ち破らねばならぬときは……奇襲しかない。 突撃だけが、敵を破る手段とは思うな。 屋敷の警護には、重々気をつけるがよい」 「伴」は「ばん」とも「とも」とも読むが、元は「大伴(おおとも)」だったらしいので「とも」のようだ。 三河で松平元康(後の徳川家康)が独立したばかりの頃、甲賀忍者200名が今川家の城に潜入し、城を大混乱に落としいれた時、この伴家の忍者が敵将を討ち取る大きな活躍を見せたと言う。 伴長信は山中俊房と同じく、小説「真田太平記」に甲賀忍者として登場し、真田十勇士の敵役となっている。 |
伊賀崎 道順(いがさき どうじゅん)伊賀忍術名人の筆頭「忍は闇に生きるもの。 平時より、いざというときのために力を身につけておかねばならぬ。 今日は、闇の中で物を見る技の鍛錬法について、教えてやろう。 闇に灯火を立て、数間の間隔を隔てて座す。 そして、灯火を瞬きせずに注視する……。 瞬きする手前で目を閉じて心を鎮める。 これを繰り返すのだ。 慣れたら、さらに上位の鍛錬法を教えてやる。 試してみるがいい」 名前の読みは「いがのさき」や「いがざき」かもしれない。 ある日、六角家の家臣だった「百々家」という一族が反乱を起こしたのだが、百々家の城は堅固で、攻めても落城させる事が出来なかった。 その後、共に城に忍び込んだ48人はそれぞれ伊賀崎流の忍術を伝えたため、伊賀忍術は本家と合わせて「四十九流」になったのだという。 |
藤林 正保(ふじばやし まさやす)謎に包まれた伊賀上忍「忍術を使う者は正しき心を持ち、臨機応変に物事を考えねばならぬ。 邪心を持って技を使えば、盗人の術に成り下がってしまう。 そのことを忘れるな」 一般には「藤林長門守」と称される事が多い、伊賀の上忍の一人。 伊賀の忍術書「万川集海」には、上忍について次のように書かれている。 以下は伝承や仮説も含むが、伊賀の頭領「百地丹波(三太夫)」と同一人物であるという説が以前は有力だった。 |
加藤翁(かとうおきな)「飛び加藤」こと加藤段蔵か |
ゲーム「信長の野望オンライン」で伊賀の屋敷に登場する謎の老人なのだが・・・ 幻術や跳躍に優れ、牛を1頭丸飲みにする「牛呑の術」や、ジャックと豆の木のように種から巨大な植物を生やす「生花の術」など、あやしい術を駆使していたという。 その後、武田信玄に仕官しようとしたが、信玄もアヤシサ爆発の彼を信用せず、配下に命じて殺させてしまったと言う。 やたらファンタジーだが、有名な忍者のひとりであり、数々の小説や物語の登場人物になった。 |