百地 三太夫(ももち さんだゆう)伊賀忍軍頭領 忍者人材派遣の元締 伊賀忍を統率する「伊賀上忍三家」のひとつ「百地家」の当主にして、伊賀忍の実質的な頭領と言われれる人物。別名「百地丹波守」。 |
百地 三太夫(ももち さんだゆう)伊賀忍軍頭領 忍者人材派遣の元締 伊賀忍を統率する「伊賀上忍三家」のひとつ「百地家」の当主にして、伊賀忍の実質的な頭領と言われれる人物。別名「百地丹波守」。 |
美濃部 茂俊(みのべ しげとし)神君伊賀越えの支援者 美濃部家は甲賀忍を形成していた「甲賀五十三家」や「甲賀二十一家」のひとつで、甲賀北部の中心地「水口」を支配していた。 1582年、「本能寺の変」で織田信長が家臣の明智光秀に討たれた時、京都と大阪を観光中だった徳川家康も窮地に陥った。 |
三雲 賢持(みくも かたもち)六角家重臣にして猿飛佐助の父? 三雲家は南近江の大名「六角家」の重臣の家柄であると同時に「甲賀五十三家」のひとつでもあり、六角家の合戦には甲賀忍軍を率いて参加していた。 だが、六角家では当主の六角義治が重臣の後藤賢豊を斬り、当主と家臣が対立する「観音寺騒動」が起こってしまう。 三雲家は三雲賢持の弟である三雲成持が継いだが、主に行政官として活動しており、忍者を用いたような経歴はない。 |
野村 孫太夫(のむら まごだゆう)声優忍者 伊賀の忍術書「万川集海」に登場する伊賀の十一名人のひとり。 ある日、彼は忍び込んだ屋敷の主人に気配を悟られてしまい、槍で突かれそうになるが、「家の者が起きたので引き上げよう」「わかった」と言って一人二役で話し声を立て、仲間がいると思わせて相手を逃げさせてから、さらに屋敷の奥に忍び込んだ。 |
毛屋 武久(けや たけひさ)七度主君を変えた苦労人 幼い頃に父が戦死し、多くの戦国武将の元を点々とした人物。 黒田長政の元では「黒田二十四騎」と呼ばれた武士のひとりになっており、西軍・石田三成と東軍・徳川家康が戦った「関ヶ原の戦い」に参加。 伊賀忍・甲賀忍としての活動はないが、甲賀ゆかりの人であり、関ヶ原で物見役になっていることから、諜報術の心得があった可能性はあるだろう。 |
杉谷 善住坊(すぎたに ぜんじゅうぼう)信長を狙うスナイパー 飛ぶ鳥も落としたと言われる戦国時代きっての鉄砲の達人。 杉谷家は甲賀忍を形成していた甲賀五十三家のひとつで、彼は「近江で知らぬものはいない」と言われたほどの鉄砲の達人であった。 飛ぶ鳥も落としたと言われる杉谷善住坊が、その至近距離で狙いを外すなど考えられない事だった。 |
町井 貞信(まちい さだのぶ)織田軍を破った伊賀の副将 伊賀を統治した「伊賀十二人衆」のひとり。 伊賀の中心にほど近い木興荘を治めた地頭。 そして織田信長の次男である織田信雄(北畠信雄)が伊賀に侵攻して起こった「第一次 天正伊賀の乱」では、副大将として伊賀忍軍の指揮を取り、山間部でのゲリラ戦によって織田軍を壊滅させた。 |
福地 定成(ふくち さだなり)つわものどもが夢の跡 福地家は伊賀の有力な豪族(地方権力者)であり、伊賀と甲賀の国境にある柘植地方を治めた、大きな領地を持つ家柄だった。 しかし福地家は、織田軍が約5万の大軍で伊賀に侵攻した「第二次 天正伊賀の乱」の際、織田側に付き、伊賀侵攻の道案内を行った。 そして、この松尾家で後に生まれたと言われているのが…… 「奥の細道」で有名な俳人「松尾芭蕉」である。 |
富野 茂正(とみの しげまさ)伊賀十二人衆? 詳細不明だが…… 「町井貞信」のご子孫の方から、以下の情報を頂きました。 「この人物はたぶんですが、町井と同じ十二人衆のうち、柏原荘地頭「滝野十郎吉政」と、島ヶ原荘地頭「富岡忠兵衛貞頼」が混じってしまったものかと思います。 |
植田 光次(うえだ みつつぐ)織田軍を追撃した伊賀十二人衆 伊賀を合議で運営していた「伊賀十二人衆」のひとりである下阿波の地頭「植田豊前光信」のことか、もしくはその一族と思われる。 この活躍があったからか織田家に対して抗戦派であったようだが、約5万の大軍が攻め込んで来た「第二次 天正伊賀の乱」では多勢に無勢で敗北、脱出して三河へ逃れた。 |
唐沢 玄蕃(からさわ げんぱ)真田の飛び六法 信濃の出身で、武田家・真田家に仕えた忍者。 真田家の吾妻忍軍(吾妻衆)の「吾妻七騎」の一人。 敵城に忍び込んでの放火など潜入術に優れており、武田騎馬軍団が織田家の鉄砲三段撃ちで壊滅した「長篠の戦い」にも参加している。 彼は実際には、伊賀忍・甲賀忍との接点はないのだが……
ゲーム「信長の野望オンライン」の伊賀忍は、信濃の忍者も含んでいる。 |
根津 信政(ねづ のぶまさ)甲陽流忍術と鷹匠の家系 彼も実際には信濃の人で、武田家・徳川家の配下だった。 彼の表立った経歴に忍者としての活動は見られないが、根津家(禰津家)は甲陽流忍術の家元とされており、幕末まで伝承されていたという。 真田十勇士にも「根津甚八」という、根津の名を持つ忍者が含まれている。 |
出浦 盛清(いでうら もりきよ)甲州忍者「吾妻衆」の頭領 この人も本当は伊賀の忍者ではなく、甲斐・武田家の忍者だ。 武田家の滅亡後は織田家の森長可に仕えたが、真田家が北信濃で独立するとそれに従った。 数少ない、忍者のままで立身出世した人だ。 |
東海 幸義(とうかい ゆきよし)「海野幸義」の間違い? 詳細不明だが…… 真田家や根津家の親類だった「海野家」の一人「海野幸義」と間違っているのではないかと思われる。 海野家は信濃の豪族(地方権力者)だったが、武田信玄の父「武田信虎」、信濃の大将「村上義清」、諏訪大社の神官で湖衣姫の父「諏訪頼重」という当時の甲信オールスターにフルボッコにされて勢力としては滅亡した。 |
阿波 正高(あわ まさたか)伊賀東の山中を守る 伊賀と伊勢の国境に位置する「阿波」の国人(地方領主)だったようだ。 翌年、織田軍が約5万、動員人数10万以上とも言われる大軍で攻めてきた「第二次 天正伊賀の乱」の際は、織田軍は阿波周辺を避けたため、戦場にはならなかった。 |
甲山 太郎次郎(こうやま たろうじろう)自宅が忍者テーマパークに 「高山ノ太郎次郎」や「太郎四郎」とも呼ばれる伊賀忍者。上野郷の下忍という。 |
耳須 具明(みみす ともあき)織田に付いたら竹槍の餌食 伊賀の北方、河合郷の国人(地方領主)。 |
山田 八右衛門(やまだ はちえもん)万川集海で語られる忍術の一例 伊賀の忍術書「万川集海」に登場する伊賀の十一名人のひとり。 ある日、彼の忍術の評判を妬んだ男がいて、その男の刀を山田八右衛門が奪えるかどうかという賭けをする事になった。 このような、1人が敵の気をひき付けて、もう1人が仕事を済ませる事を、忍術では「双忍の術」と呼ぶ。 なお、彼は伊賀の敢国神社の世話役だったとも言われている。 |
神部 小南(かんべ こなん)真実はいつも闇の中 伊賀の忍術書「万川集海」に登場する伊賀の十一名人のひとり。 |
下柘植 小猿(しもつげ こさる)猿忍者。猿飛佐助のモデルか? 伊賀の忍術書「万川集海」に登場する伊賀の忍術十一名人のひとり。 名前の通り「猿」のような忍術を得意としていて、身のこなしが素早く、樹木に隠れるのがうまく、動物の声真似が得意だったとう。 真田十勇士の忍者として有名な「猿飛佐助」のモデルの一人と言われている。 |
下柘植 木猿(しもつげ きさる)猿飛佐助の有力なモデル 伊賀の忍術書「万川集海」に、「下柘植子猿」と共に名が出てくる伊賀の忍術十一名人のひとり。 大和(奈良)の戦乱に伊賀衆を率いて参加し、筒井順慶に味方して敵城を陥落させた記録が残されている。 |
石川 五右衛門(いしかわ ごえもん)大泥棒にして歌舞伎のヒーロー 言わずと知れた天下の大泥棒「石川ゴエモン」である。 伝承によると、伊賀の上忍「百地三太夫」に弟子入りして伊賀の忍術を習ったと言われているが、南蛮人から盗みの基礎を学んだという話もある。 後年、豊臣秀吉の城に忍び込み、秀吉の秘宝「千鳥の香炉」を盗もうとするが、香炉の千鳥が「チリリ」と鳴いたため見つかってしまい、京都の奉行「前田玄以」に捕らえられ、京都の「三条河原」で一族郎党と共に「釜茹での刑」で処刑されたという。 江戸時代には歌舞伎の登場人物として欠かせない人となり、京都の「南禅寺」というお寺の山門の上で「絶景かな、絶景かな。 春の眺めは値千金とは、小せえ、小せえ」とタンカを切る場面が歌舞伎の名場面として伝わっている。 一時はその実在が疑われていたりもしたのだが、近年ヨーロッパで見つかった当時の宣教師の記録に彼に関する記述が見つかり、「釜茹での刑」にされた実在の大盗賊であった事が確認された。 なお、伊賀の忍術書「万川集海」や「正忍記」には、次のような記述がある。 |
城戸 弥左衛門(きど やざえもん)狙撃、逃走、変装。もはやルパン 通称「音羽ノ城戸」。 伊賀の中忍だと言われている。 織田信長を狙撃した人物としても有名で、「天正伊賀の乱」の後、視察に来た信長が神社で休憩中のところを仲間と共に鉄砲で狙った。 そして後日、彼は狙撃後の信長の様子を見るために、変装してお菓子を持参し、信長に近づいたと言われている。 |
果心 居士(かしんこじ)日本屈指の怪人物 生没年不詳、正体不明、戦国時代に現れた謎の幻術師。 別名「七宝行者」。 大和の国で僧をしていた事もあるようだが、池に笹の葉をまいて、それを魚に変えて人々を驚かせたため、「人心を惑わした」として破門されたと言う。 他に、彼が持っていた「地獄絵図の掛け軸」を信長が強引に奪ったが、その絵図がいきなり白紙になったとか、明智光秀に呼ばれた時、いきなりそこに琵琶湖が現れて小船に乗って消えてしまったとか、信じられない伝承が残っている。 あまりにファンタジーなので、江戸時代になってから様々な物語や演劇に登場するようになり、「謎の人物」として一躍有名になった。 |
篠山 理兵衛(ささやま りへえ)施されたら施し返す。恩返しです 篠山家は甲賀忍を形成していた「甲賀五十三家」のひとつ「大原家」の一族。理兵衛は通称で、名は資家や景春という。 しかし約十年後…… たまたま徳川家康と会ってこの話をした時、不憫に思った家康が彼を召抱え、甲賀の近くの代官に彼を推薦した。 それから数年後、豊臣秀吉が病死し、徳川家康の権力が豊臣政権下で大きくなり始めた頃、「豊臣五奉行」のひとりである長束正家が「当家の領地をお通りになる時は、おもてなししたいので、ぜひお越し下さい」と家康を誘った時、彼はそれが「家康暗殺」の謀略である事を探り当て、家康に報告する。 家康は彼の子を取立て、篠山家はその後も代々、代官職を務めたという。 |
和田 宗立(わだ むねたて)将軍側近「和田惟政」の父 和田家は「甲賀五十三家」の中でも上位の家柄で、六角家の重臣も務めた「甲賀六家」のひとつでもあった。 六角家は将軍家に近い家柄で、信長台頭前の近畿の戦乱において、将軍家ゆかりの勢力に請われて大きな活躍をしていた。 この縁で彼の子「和田惟政」は第13代将軍・足利義輝に仕えることになった。 ただ、和田惟政が有名すぎて、父である和田宗立がその後どうなったのかは、今ひとつわかっていない。 |
多羅尾 光俊(たらお みつとし)甲賀の実力者にして伊賀越えの立役者 多羅尾家は甲賀忍を形成していた「甲賀五十三家」のひとつで、伊賀との国境に大きな領地を持っていた豪族(地方権力者)だった。 それから一年後…… 織田信長は「本能寺の変」で配下の明智光秀に急襲され戦死、その時に京都に招待されていて、堺の町を観光していた徳川家康も光秀の軍に追われ、街道も封鎖されて窮地に陥った。 その後、多羅尾光俊は豊臣秀吉に仕え、秀吉の養子である豊臣秀次の配下となり、最盛期には8万石の大名となったが、豊臣秀次が謀反の疑いで処刑された「秀次事件」に巻き込まれて失脚、甲賀の領地も失い、そのまま隠居してしまった。 |
鵜飼 孫六(うかい まごろく)家康に雇われた甲賀の手練れ 「甲賀五十三家」のひとつである「鵜飼家」の出身と言われる甲賀忍者。 「桶狭間の戦い」で織田信長が今川義元を討ち倒し、松平元康(後の徳川家康)が三河で独立したばかりの頃、松平元康は三河を支配するために今川家の鵜殿長照が守る城を攻めていた。 ちなみに、謎かけの答えは「 一 」である。 |
森田 浄雲(もりた じょううん)正体不明の伊賀代表 伊賀の「猪田」を所領とした豪族(地方権力者)の一人で、伊賀の豪族連合(伊賀惣国一揆)の中心人物の一人とされる。 約5万の織田軍が侵攻してきた「第二次 天正伊賀の乱」の際、新しい砦を築いて百地丹波(三太夫)と共に篭城した。 ただし「第二次 天正伊賀の乱」で一之宮城で戦死したという説や、織田家に降った後に織田信雄に討たれたという説もある。 |
佐治 為次(さじ ためつぐ)秀吉に最後まで抵抗した甲賀者 佐治家は甲賀忍を形成していた「甲賀五十三家」、および「甲賀二十一家」のひとつであり、甲賀の中でも上位であった。 しかし信長の後継者となった豊臣秀吉は、伊賀忍や甲賀忍、雑賀衆など、地方の領主によって運営されている共同体のような勢力の存在を良いとは思っていなかった。 |
望月 吉棟(もちづき よしむね)甲賀五十三家筆頭 セリフにある通り、望月家は「甲賀五十三家」の筆頭格であり、望月吉棟はその当主だった。 戦国時代の初期、六角家は足利将軍家に反乱を疑われて大規模な侵攻を受けたが、六角側についた望月家の甲賀忍者は「霧隠れの術」や「木の葉隠れの術」で足利軍を翻弄し、クタクタに疲れた足利軍を強襲、六角軍に勝利をもたらしたという。 彼らの使った「霧」は、実際の霧、及び火や煙を使った煙幕だったと言われている。 |
山中 俊房(やまなか としふさ)十勇士の敵として描かれる甲賀の頭領 山中家も「甲賀五十三家」の筆頭格の家柄で、甲賀を統率した上忍だと言われている。 甲賀忍軍は豊臣秀吉によってほぼ解体されてしまうのだが、山中家はその後に豊臣家に仕えて活動している。 映画や大河ドラマにもなった人気小説「真田太平記」に甲賀忍者として登場し、「猿飛佐助」などの真田十勇士と対決するため、彼がよく小説などの登場人物として描かれるのは、そこから来ているようだ。 |
伴 長信(ばん ながのぶ)甲賀上忍「柏木三家」の一人 「伴」は「ばん」とも「とも」とも読むが、元は「大伴(おおとも)」だったらしいので「とも」のようだ。 三河で松平元康(後の徳川家康)が独立したばかりの頃、甲賀忍者200名が今川家の城に潜入し、城を大混乱に落としいれた時、この伴家の忍者が敵将を討ち取る大きな活躍を見せたと言う。 伴長信は山中俊房と同じく、小説「真田太平記」に甲賀忍者として登場し、真田十勇士の敵役となっている。 |
伊賀崎 道順(いがさき どうじゅん)伊賀忍術名人の筆頭 名前の読みは「いがのさき」や「いがざき」かもしれない。 ある日、六角家の家臣だった「百々家」という一族が反乱を起こしたのだが、百々家の城は堅固で、攻めても落城させる事が出来なかった。 その後、共に城に忍び込んだ48人はそれぞれ伊賀崎流の忍術を伝えたため、伊賀忍術は本家と合わせて「四十九流」になったのだという。 |
藤林 正保(ふじばやし まさやす)謎に包まれた伊賀上忍 一般には「藤林長門守」と称される事が多い、伊賀の上忍の一人。 伊賀の忍術書「万川集海」には、上忍について次のように書かれている。 以下は伝承や仮説も含むが、伊賀の頭領「百地丹波(三太夫)」と同一人物であるという説が以前は有力だった。 |
加藤翁(かとうおきな)「飛び加藤」こと加藤段蔵か |
ゲーム「信長の野望オンライン」で伊賀の屋敷に登場する謎の老人なのだが・・・ 幻術や跳躍に優れ、牛を1頭丸飲みにする「牛呑の術」や、ジャックと豆の木のように種から巨大な植物を生やす「生花の術」など、あやしい術を駆使していたという。 その後、武田信玄に仕官しようとしたが、信玄もアヤシサ爆発の彼を信用せず、配下に命じて殺させてしまったと言う。 やたらファンタジーだが、有名な忍者のひとりであり、数々の小説や物語の登場人物になった。 |