三好 長慶(みよし ながよし)三好家大名 日本の福王 三好家の大名。 名は「ちょうけい」とも呼ぶ。 |
三好 長慶(みよし ながよし)三好家大名 日本の福王 三好家の大名。 名は「ちょうけい」とも呼ぶ。 |
羽床 資載(はゆか すけとし)讃岐の守将 羽床家は四国の讃岐(香川)の豪族(地方権力者)であり、讃岐が三好家の支配下になるとこれに従っていた。 その後、同じ讃岐の十河家との合戦中に、陣中で病没している。 |
津田 正時(つだ まさとき)常に負け組の不運 河内の国人(地方領主)の一人で、三好家に従っていたが、三好一族が相次いで急死し松永久秀が三好家から独立すると、これに従って三好家から離反した。 その後は織田家に降ってその家臣となり、明智光秀の配下となるのだが、光秀は「本能寺の変」を起こし、信長を討つも羽柴秀吉との決戦に至る。 |
秋山 直国(あきやま なおくに)北畠配下だった大和豪族 大和(奈良)の豪族(地方権力者)。 「本能寺の変」の後は筒井家と共に豊臣家に従い、蒲生氏郷の配下になったようだが、大和が豊臣秀吉に支配されると、理由は不明だが追放されている。 |
井戸 良弘(いど よしひろ)主君と共に洞ヶ峠したらクビ 井戸家は大和(奈良)の国人(地方領主)で、プチ戦国と言ってもいいぐらい様々な勢力が入り乱れていた大和で戦いを続けていた。 だが「本能寺の変」が起きた時、明智光秀からの誘いを断るも、次男が光秀の娘を妻としていたため、態度を鮮明にしなかった。 |
船越 景直(ふなこし かげなお)へうげものの弟子 淡路島出身の武士。 弓や鉄砲といった飛び道具の扱いに長けており、弓兵の徴兵や弓鉄砲衆の指揮などを任されていた。 秀吉の死後、徳川家康によって召し出され、大坂に所領を与えられて復帰。 |
奥田 忠高(おくだ ただたか)歴代の大和国主に仕える 奥田家は室町幕府のトップクラスの重臣「斯波家」の一族で、大和地方で活躍した武将だ。 |
荒木 元清(あらき もときよ)村重はお茶マニア、彼は馬マニア 摂津の戦国武将で、反逆を繰り返した茶の湯マニア「荒木村重」の親族。 荒木村重と行動を共にしているため、その経歴は荒木村重とほぼ同じになる。 荒木村重はその後、再び信長に反逆し、結局鎮圧されて茶器だけ持って毛利家に逃れるのだが、これにも同行している。 |
三宅 国村(みやけ くにむら)寝返りの末に三好義賢を討ち取る 摂津の豪族(地方権力者)の一人で、室町幕府の重臣であり黒幕である「細川高国」に仕えており、国高の弟「細川晴国」の配下だった。 しかし細川高国が倒れ、その養子「細川氏綱」が細川晴元と対立すると、細川氏綱側に寝返る。 だが後年、六角承禎が三好家と敵対していた近畿の畠山家(畠山尾州家)を支援すべく京都に進軍して来ると、今度は六角家に寝返る。 |
衣笠 範景(きぬがさ のりかげ)「三木の干殺し」で飢えた一人 播磨(兵庫南部)の名家であり大名でもあった「赤松家」の一族で、赤松家の家臣として摂津の城を守っていたが、進攻を受けて三好家に降った。 しかし別所家は中国地方に進軍中の羽柴秀吉と仲違いして、「三木城」に籠城して織田家と敵対。 |
新開 実綱(しんかい さねつな)拭いきれない恨みは天井の板に 新開家は阿波(徳島)の豪族(地方有力者)で、同じ阿波の豪族だった三好家とは近い間柄にあった。 以後は長宗我部家の配下となっていたが、三好家と結んで背く動きを見せたと言われており、そのため長宗我部元親は彼を「丈六寺」という寺におびき寄せ、酒に酔わせた所を刺客に襲わせて暗殺した。 彼が殺された後・・・ 床に染み付いた血は、いくら拭いても落ちなかった。 |
森 好之(もり よしゆき)松永久秀にトドメを刺した筒井三老臣 大和(奈良)の大名「筒井家」の重臣で、筒井三老臣(筒井の三家老)の一人。 松永久秀の攻勢によって筒井城が落ちた際に松永軍に捕まり、その後は久秀に仕えて信任を得ていたという。 しかしこれは森好之の策略で、彼は城を出ると筒井家の松倉重信の陣所に駆け込み、内情を知らせて相談していた。 その後、森好之は筒井家に戻ったと言われているが、筒井順慶の子「筒井定次」と不仲になって出奔し、農民になったともいう。 なお、森好之のいとこに森好久という人がいて、信貴山城で反乱を起こしたのは森好之の指令を受けた森好久だとする説もある。 |
松倉 重信(まつくら しげのぶ)「筒井の右近左近」の右側 大和(奈良)の大名「筒井家」の重臣である筒井三老臣(筒井の三家老)の一人。 島左近の同僚の割には詳細が伝わっていないが、「本能寺の変」で織田信長が倒れ、秀吉と明智光秀が対峙したとき、筒井順慶がどちらにも味方せず「洞ヶ峠」で日和見を決め込んだのは、松倉右近の献策とも伝えられている。 なお、彼の子「松倉重政」は大坂の陣の手柄で九州・島原の城主となるが、孫の「松倉勝家」が民に重税をかけ、幕府の命令ではあるがキリスト教も弾圧したため、大規模な一揆を起こされてしまい、戦国最後の戦いと言われる「島原の乱」を招いている。 |
島 左近(しま さこん)三成に過ぎたるもの 本名「島勝猛」、および「島清興」。 元は大和(奈良)の大名「筒井家」の重臣である筒井三老臣(筒井の三家老)の一人であり、松倉(右近)重信と共に「筒井の右近左近」と呼ばれ、武略が評判になっていた。 その後、豊臣秀吉の側近「石田三成」に破格の待遇で召抱えられる。 そして豊臣秀吉の死後、豊臣家の家臣団は二派に分裂し、石田三成は徳川家康と対立、世は「関ヶ原の戦い」へと向かっていく。 その後、島左近がどうなったのか・・・ 定かではない。 |
筒井 順慶(つつい じゅんけい)日和見の代名詞 大和(奈良)の大名「筒井家」の当主。 彼は父「筒井順昭」の病死により、わずか2歳で大和の「筒井家」の跡を継いだ。 しかし正式に国主となった筒井順慶の日々は、試練の連続だった。 だが、松永久秀に兄の足利義輝を謀殺されていた足利義昭が、久秀と戦う筒井順慶をバックアップ。 ところがその後、明智光秀は「本能寺の変」で織田信長に謀反を起こす。 これにより、筒井家は秀吉から大和の領地を保障されるが、日和見を決め込んだ筒井順慶はあまり外から良いようには思われなかったようだ。 |
東条 行長(とうじょう ゆきなが)阿波の国人の一人 東条家は阿波(徳島)の国人(領主)か地侍だったようだ。 |
海部 友光(かいふ ともみつ)長宗我部元親の弟の仇 海部家は四国の阿波(徳島)の有力な豪族(権力者)で、三好家も元は阿波の豪族であったことから親密な関係にあり、三好家の四国での軍事行動に大きな役割を果たしていたようだ。 海部家の領地は土佐(高知)との国境にあったため、土佐の大名「長宗我部家」とにらみ合いを続けていた。 なぜ彼が長宗我部元親の弟を襲撃したのかについては諸説あり、故意に行ったとも、敵襲と間違えたとも、謀略によるものとも言われているが・・・ |
原田 秀兼(はらだ ひでかね)阿波の国人の一人 阿波の国人(地方領主)の一人で、元は室町幕府の重臣「細川家」(阿波細川家)の家臣だったようだ。 |
七条 兼仲(しちじょう かねなか)大岩を一人で運んだ怪力無双 戦国時代きっての怪力野郎。「力もち」の代名詞。 阿波の「大山寺」というお寺に力が授かるよう祈願し、その成果を試すために寺にあった大石を担いで町まで一人で運んだという伝承があり、彼はその力を授けられたお礼として神社に「鏡餅」を奉納したという。 三好家の家臣として阿波で城主を務めていたが、土佐の「長宗我部家」の侵攻により起こった「中富川の戦い」で奮戦の末に戦死した。 |
細川 真之(ほそかわ さねゆき)阿波細川家の傀儡当主 室町幕府の管領「細川家」の一族、阿波細川家の後継者。 だが、細川京兆家が足利将軍家を巻き込んで跡継ぎ争いを起こし、近畿で争乱が始まる。 これを見て怒った細川持隆は、足利義維を保護し、死んだ三好元長の子供たちも連れて四国に戻った。 だが、細川持隆はその後、細川晴元と和解。 細川真之はそのまま三好家に従っていたが、三好四兄弟が次々と死んでいき、近畿の三好勢力が織田家に敗れると、傀儡から脱しようとする。 だが、讃岐の「十河家」の養子になっていた三好長治の弟「十河存保」がこれに反発、三好家の新たな代表となり、長宗我部&細川真之に敵対。 |
近藤 正近(こんどう まさちか)近藤正次のことか? 阿波の城主 詳細不明……。 おそらく阿波の「轟城」の城主を務めていた「近藤正次」と間違っていると思われる。 「轟城」は三好家の本拠地「勝瑞城」の西に位置した支城で、長宗我部元親の進攻を受けるが、近藤正次は夜襲してきた敵の先発隊を勝瑞城からの十河存保軍と挟み打ちにして撃退し、勝利した。 |
香川 元景(かがわ もとかげ)長いものには巻かれろ 香川家はその名の通り、讃岐(香川)の西部を支配していた有力な豪族(地方権力者)で、讃岐の守護代(守護の次席)だった。 最初は「細川京兆家」の家臣だったが、跡継ぎ争いの末に細川京兆家の実権を細川氏綱&三好長慶が握るようになると、三好家に従った。 三好家が衰退して三好長治が当主となり、その悪政が目立つようになると、三好家から完全に独立。 しかし今度は、織田家を引き継いだ豊臣秀吉の軍勢が四国に進攻してくる。 なお、香川家にはこんな伝承がある。 |
岡 国高(おか くにたか)松永久秀の配下にして興福寺の一員 大和の国人(地方領主)で、三好家というより松永久秀の家臣。 興福寺は「法相宗」という宗教のお寺で、守護職のいなかった大和(奈良)を春日大社と共に統治する立場にあり、独自の僧兵軍団を持っていた。 興福寺は筒井家に味方しており、松永久秀とは敵対していたので、興福寺の一員であった岡国高が松永久秀の下でどのような立場だったのかは気になるが…… 松永久秀が信長に2度目の反乱を起こした際に久秀と共に滅んだと言われているが、信長からの降伏勧告を受け、織田家に降ったとも言われている。 |
三好 康長(みよし やすなが)信長にも気に入られた三好の重鎮 三好長慶の叔父。 別名「三好笑岩」。 三好長慶の死後は本拠地の阿波(徳島)に戻り、織田家や松永久秀と戦う「三好三人衆」の後方支援を担当。 だが、織田信長が足利義昭を奉じて京都に進軍してくると、三好三人衆はこれに蹴散らされ、京都の支配を奪われる。 足利義昭が織田信長と不仲になり、俗に言う「信長包囲網」が形成され、三好義継と松永久秀が信長に反逆、摂津勢も荒木村重の反逆で味方になると、再び信長に対抗しようとするが、四国で篠原長房が弟の篠原自遁&その嫁「小少将」の讒言で殺される騒動が起こって後方支援を失ってしまい、武田信玄の病死、足利義昭の追放、三好三人衆の壊滅もあって、ついに抵抗を諦めて天下の名物茶器である三日月の茶壷(唐物三日月)を手土産に、織田家に降伏した。 織田家では外交官として重用され、本願寺との和解交渉をまとめ上げ、四国の諸勢力に降伏勧告を行う使者も務めており、高い成果を上げる。 |
篠原 自遁(しのはら じとん)魔性の女に魅了され三好を堕とす 不倫騒動で三好家を滅亡に向かわせてしまった人物。 最近知名度が上がっている「小少将」の三番目の夫。 三好長慶や三好義賢の死後、三好義賢の妻であり、四国の三好家の後継者となった「三好長治」や、その弟「十河存保」の母でもある「小少将」と結婚する。 こうして篠原長房は追い詰められて自害、当主の三好長治が実権を持つのだが、この長治が暴君でやりたい放題。 そして三好長治が細川真之に討たれたため、十河存保が三好家の跡を継ぐと宣言するが、篠原自遁はこれに反対して独立。 なお、小少将は長宗我部元親の妻になっており、どうやら寝取られた(?)ようだが、ここまでの小少将をすべて同一人物とすると、この頃60才に近くなってしまうため無理がある。 |
松永 久通(まつなが ひさみち)松永久秀とずっと一緒 松永久秀の子。 松永久秀が大和の国をほぼ掌握した頃に「松永家」の家督を継いだが、実権は父・久秀が握ったままだった。 ただ、松永久秀が行方をくらましていた時期があり、そのときは独力で城を守っていた。 |
篠原 長房(しのはら ながふさ)阿波三好家の事実上のトップ 三好家の後期に、三好家の統治を背負った重臣。 阿波の豪族(地方権力者)の一人。 三好四兄弟が相次いで死ぬと、残された三好家の重臣「三好三人衆」と協力して、三好義賢の子「三好長治」を四国の三好家の後継とし、長治がまだ若かったこともあって自分が摂政(政務の代行者)のような立場となる。 その後は四国東部の統治を行いながら、近畿で戦っていた三好康長を後方支援していたが、弟の篠原自遁が三好義賢の元妻で三好長治の母である「小少将」と婚姻したことに苦言を呈し、それが元で篠原自遁から讒言(誹謗中傷)され、主君の三好長治と阿波守護の細川真之(共に小少将の子)に攻められる結果となり、防戦するも力尽き、自刃した。 彼は阿波や讃岐を統治する際に「新加制式」と呼ばれる法律書をまとめ、それを元に行政を行っていた。 |
高山 友照(たかやま ともてる)デウスに仕えたジュスト右近の父 「高山右近」の父として知られ、神・デウスのために生涯を捧げたキリシタン大名である。 元は松永久秀の家臣で、その頃にキリスト教の宣教師と仏教の僧侶の宗教討論が行われることになり、その審査役となった。 しかし足利義昭と織田信長が不仲になると和田惟政は板挟みとなり、さらに織田家に反逆した荒木村重の攻撃を受けて戦死してしまう。 こうして高山友照は、荒木村重の配下となるが・・・ その荒木村重は織田信長に降伏後、反織田勢力からの調略(寝返り工作)を受けて再び反乱を起こす。 息子の高山右近はその後も活躍し、「本能寺の変」では明智光秀の誘いを断って秀吉に付き、秀吉と光秀が戦った「山崎の合戦(天王山の戦い)」では秀吉軍の先鋒となる。 だが、豊臣秀吉が大名のキリスト信仰を禁止したため、信仰を選んで大名の地位を捨て、父の元に向かい、共に布教の日々を送った。 高山友照・高山右近(重友)はまだ城主だった頃から、名もないキリシタンの農民が死んだ時、その葬儀を行い、棺を担いで、自ら墓を掘って弔っていたと言う。 |
岩成 友道(いわなり ともみち)家臣団代表の三好三人衆 三好長慶の死後に近畿で織田信長・松永久秀との戦いを繰り広げた「三好三人衆」の一人。 出自は不明だが、三好家の奉行衆を務めており、堺・会合衆の一人「津田宗達」(津田宗及の父)の茶会に出席していた記録がある。 だが、松永久秀と対立し、大和(奈良)での戦いに発展、戦火で大仏殿を全焼させ、久秀と共に「将軍弑逆」に加え「大仏炎上」の悪名を被る。 この後、一旦織田家に臣従しているが、足利義昭が織田信長と対立し、いわゆる「信長包囲網」が形成されると再び信長と敵対した。 |
三好 長逸(みよし ながゆき)筆頭にして重鎮の三好三人衆 三好家の重臣「三好三人衆」の筆頭にして、三好一族の重鎮。 三好長慶の死後は、十河一存の子「三好義継」を近畿の三好家の後継者に擁立し、他の三好三人衆である岩成友道と三好政康、さらに松永久秀&久通と共謀、敵対していた将軍「足利義輝」を暗殺した「永禄の変」を起こす。 その後、織田信長が足利義輝の弟「足利義昭」を奉じて京都に上洛を開始。 その後、信長との仲が悪くなった足利義昭の呼びかけにより「信長包囲網」が形成されると、三好三人衆は織田家に反逆した松永久秀&三好義継と再び手を結び、信長に対抗する。 |
三好 政康(みよし まさやす)なぜか大坂城にいた三好三人衆 三好長慶の死後、三好家の実働部隊となった「三好三人衆」の一人。 彼は三好長慶の父「三好元長」を、幕府の実力者「細川晴元」と共に謀殺した「三好政長」の長男だった。 その後の活動については、他の三好三人衆である岩成友道、三好長逸と同じである。 ところが、それから40年以上のち・・・ 三好政康はいきなり再び姿を現す。 そんな彼は「真田十勇士」の一人「三好青海入道」のモデルと言われている。 |
安宅 冬康(あたぎ ふゆやす)海賊の頭領たる三好四兄弟の三男 三好兄弟の三男。
三好長慶・三好義賢の弟で、十河一存の兄。 三好家が大阪・京都と四国東部で自由に兵を動かす事が出来たのは、安宅水軍が大阪湾の制海権を支配していたからであり、安宅水軍の存在が三好家の軍事行動のポイントであったと言える。 しかし・・・ 彼は松永久秀によって「謀反の疑いがある」という噂を立てられてしまい、久秀の讒言(悪評の告げ口)を信じた三好長慶によって謀殺されてしまった。 海賊のイメージとは正反対の、穏やかで優しい、仁慈の将だったと言われている。 |
三好 義賢(みよし よしかた)文武両道の三好四兄弟の次男 三好兄弟の次男。
別名「三好実休」。 三好長慶の弟で、安宅冬康、十河一存の兄。 三好兄弟の父「三好元長」は、主君「細川晴元」が室町幕府の名家「細川京兆家」の後継者となるのに貢献した人物だった。 そこに、三好元長の出世を妬んでいた「三好政長」の讒言(悪評の告げ口)と、名家「畠山総州家」の家臣で細川晴元に接近していた「木沢長政」の謀略が加わって、三好元長はどんどん立場が悪化。 その後、三好長慶は細川晴元の家臣となり、ある日、三好政長と木沢長政のものになっていた父の領土の返還を要求。 一方、三好義賢は四国で阿波細川家の家臣となっていたが、当主の細川持隆が細川晴元と戦っている三好長慶をことあるごとに批難するようになる。 その後、四国の兵を率い、近畿で戦う三好長慶の援軍に赴いて転戦、三好家の支配地域を広げていくが、紀伊の根来衆の銃撃により負傷し、陣中で没した。 なお、彼は茶道の大家「武野紹鴎」から教えを受けた茶人でもあり、一国の価値があると言われた「三日月の茶壷」を所持していた。 |
十河 一存(そごう かずまさ)剛勇で知られる三好四兄弟の四男 三好兄弟の四男。三好長慶、三好義賢、安宅冬康の弟。 父・三好元長の仇の一人である叔父「三好政長」を討ち取った戦いでは戦功第一となり、京都の細川晴元&足利義輝も打ち破って近江へと追いやった。 だが、病の療養のために「有馬温泉」に向かった時に、落馬して不慮の死を遂げてしまった。 まだ30才ぐらいだったという。 ちなみに、彼は兜をかぶっている時に頭がむれるのを嫌って、前髪から頭の中ほどまでを大きく剃り込んでいたという。 |
松永 久秀(まつなが ひさひで)乱世の梟雄 戦国の大悪党。 梟雄(悪逆非道な英雄)の代名詞。 彼の出身は不明だが、いつの間にか三好家の家臣となっており、祐筆(書記)を務めたり、摂津や京都での戦いで部隊を率いて活躍したりしている。 しかし三好家の重責を担う三好義賢が戦死し、十河一存が事故死すると、三好家に暗雲が垂れ込めてくる。 三好四兄弟の亡き後、三好三人衆と謀って将軍・足利義輝を暗殺、三好家に保護されていた足利家の親類「足利義栄」を次の将軍にして操ろうとするが、計画はうまくいかず、三好三人衆と対立してしまい、足利義栄からも「久秀討伐令」を出され、双方争う結果となる。 その後、織田信長が足利義輝の弟「足利義昭」を奉じて京都に進軍を開始すると、松永久秀は信長に天下の名物茶器「九十九茄子」を献上し、信長に従属する。 だが、織田信長が将軍・足利義昭と不仲になり、足利義昭が各地の勢力に「信長を討伐せよ」という命令書を出し、浅井・朝倉・本願寺・武田・毛利などによる「信長包囲網」が形成されると、松永久秀も織田家に反旗をひるがえし、独立した。 だが4年後、織田家と毛利・上杉・本願寺の戦いが激化、上杉謙信に上洛の気配があると、またも信長に反逆する。 松永久秀の特異な生涯と生き様は多くの歴史家の興味を呼び、後世、数多くの論文・書物・小説などが記された。 近年、「三好兄弟の暗殺は濡れ衣」「久秀は将軍を襲ってない」「大仏の焼失は失火」という「きれいな久秀」を主張する意見が増えているが、織田信長は徳川家康に松永久秀を紹介するとき「この男は常人では為し得ないことを三つもしている。主家を乗っ取り、将軍を殺し、奈良の大仏を焼いたことだ」と言っており、多くの記録に同様の罪状が書かれていて、なにより本人に否定する素振りがないため、そうした人物として当時から伝わっていたことは間違いない。 |
高三 隆達(たかさぶ りゅうたつ)歌う会合衆 商業自治都市「堺」を運営していた「会合衆(えごうしゅう)」の一人。 高三家は薬問屋だったが、跡継ぎではなかったのでお寺に奉公に出されており、僧になって住職も務めていた。 |
塩屋 宗悦(しおや そうえつ)信長に招待された高名な茶人 商業自治都市「堺」を運営していた「会合衆(えごうしゅう)」の一人。 織田信長は堺会合衆の中の10人を相国寺というお寺に招いて、茶会を行った。 |
千 宗易(せんのそうえき)茶聖 天下一の茶人「千利休 (せんのりきゅう)」のことである。 そして戦国時代、堺の町では「珠光」という人が広めた「わび茶」が流行していた。 その後、堺の町を支配した織田信長にその腕前を認められて「茶頭」(筆頭茶人)に命じられ、茶人としての名声が世に広まることとなる。 織田信長が「本能寺の変」で配下の明智光秀に討たれた後も、豊臣秀吉に取り立てられた。 彼が秀吉により自害させられた正確な理由は、いまだに不明だ。 千利休と秀吉の性格をよく示した「あさがお」の話がある。 この「おもてなし」に秀吉は感心したと伝えられているが、勝手なことをするなと怒ったという説もある。 |
松江 隆仙(まつえ りゅうせん)妙覚寺茶会の招待者 商業自治都市「堺」を運営していた「会合衆(えごうしゅう)」の一人。 |
油屋 常琢(あぶらや じょうたく)家康の伊賀越えを地味に支援 堺の薬問屋「油屋」の主人であり、「油屋常言」とも呼ばれた。 三好義賢の寄進で堺に建立され、しかし戦乱で放置されていた「妙国寺」というお寺を大規模に改築した。 |
茜屋 宗佐(あかねや そうさ)名物茶器を持つ豪商 商業自治都市「堺」を運営していた「会合衆(えごうしゅう)」の一人。 |
山上 宗二(やまのうえ そうじ)毒舌茶人 武野紹鴎や千利休などの天下の茶人から茶の湯を学んだ「茶匠」。 しかし彼は「毒舌家」でもあり、利休からも「口悪き者」と言われていた。 しかしその後、千利休の取り成しで再び秀吉に謁見した時、またも秀吉を怒らせることを口走り、耳と鼻を削られて処刑されてしまった。 |
紅屋 宗陽(べにや そうよう)反信長派だった会合衆 「紅屋」は「臙脂屋」とも書くが、難しいので「べに屋」とひらがな表記される場合も多い。 だが、近畿を支配した織田信長が堺に対して2万貫の資金提供を要求した時は、紅屋は能登屋と共にそれを拒否し、徹底抗戦を訴えた。 なお、紅屋宗陽と共に会合衆の上位にあり、信長に抵抗した能登屋の「能登屋平久」は、信長が10人の会合衆を呼んで歓待した相国寺茶会のメンバーには含まれていない。 |
今井 宗久(いまい そうきゅう)トップ3の茶人にして信長の御用商人 一代で天下の大商人に登りつめた戦国最強の商売人。 元は近江の人だったが、堺の商家「納屋」に奉公して商人を目指す。 そして近畿地方を制圧した信長が堺に法外な資金要求をしてくると、徹底抗戦を訴える旧派閥の会合衆を説得し、信長に協力する方針で意見をまとめ、堺の町を戦火から救う。 しかし織田信長が「本能寺の変」で急死し、豊臣秀吉の時代になると、他の商家の追い上げを受けるようになる。 |
津田 宗及(つだ そうきゅう)「天王寺屋会記」の亭主 堺の商家「天王寺屋」の主人。 当初は本願寺や三好家との関係が深かったが、織田信長が近畿を制圧すると信長の「茶頭」の一人となり、さらに千利休や今井宗久と共に「三宗匠」と呼ばれた。 また、堺会合衆10人が信長に歓待された相国寺茶会では、千利休と津田宗及だけが、織田信長から蘭奢待(東大寺に収められた香木。天皇でさえ容易に手を出せないと言われた超一級の宝物。信長はその一部を切り取っていた)を一包み与えられている。 織田信長が「本能寺の変」で急死し、豊臣秀吉の天下になった後も、ますます商人・茶人としてトップに登り詰めていき、秀吉が開催した千人規模の大茶会「北野大茶会」では「亭主」の第一を秀吉、第二を千利休、第三を津田宗及、第四を今井宗久が務めた。 彼の死後も天王寺屋は商家として営業を続け、茶会も催していたが、彼の子「津田宗凡」は石田三成と親しかったため「関ヶ原の戦い」で西軍を支持、そのため以後は衰退したと見られている。 |
宝蔵院 胤栄(ほうぞういん いんえい)宝蔵院流槍術の創始者 |
大和(奈良)の寺社勢力「興福寺」に所属する寺院のひとつ「宝蔵院」の住職(院主)。 僧兵の伝統武術である薙刀の扱いに優れ、奈良の春日大社に所属していた槍術家「成田大膳」に神道流の槍術を学び、「池に浮かぶ三日月を突き」十文字鎌槍の奥義を会得した。 そして松永久秀の主催で行われた槍試合で12連勝し、その名声を聞いて多くの武芸者が彼に弟子入りする。 晩年、彼は「仏門にありながら人を殺める武術を行ってきたことは、罪深いことである」と言い、武術を捨て、僧として生涯を終えた。 |
柳生 宗厳(やぎゅう むねよし)柳生新陰流の創始者 |
剣術「柳生新陰流」の創始者である剣豪。 別名「柳生石船斎」。 あまり知られていないが、「柳生家」は元は大和の豪族(地方権力者)であり、大和の覇権を巡って筒井家などと争っていた。 彼は若い頃から武術を学ぶ事に熱心で、越前朝倉家の剣術家「富田勢源」の中条流や、剣豪「塚原卜伝」の鹿島新當流(新当流)など、数多くの剣術を学び、近畿地方随一の剣術家と呼ばれていた。 こうして剣術家としての秘伝を極めた彼だが・・・ 小勢力の当主としては散々だった。 彼はその後に隠居し、自分を「石船斎」と命名しているが、これは「水に浮かべても沈んでしまう船」に自分を例えた自虐的なものだったようだ。 しかし後年、柳生新陰流の剣術を徳川家康に披露した際、徳川家の「兵法指南役」になって欲しいと懇願される。 |
柳生 又右衛門(やぎゅう またえもん)徳川幕府の剣術指南役 |
「又右衛門」と言ってもわかりにくいが・・・ 徳川幕府の剣術指南役「柳生宗矩(むねのり)」の事である。 西軍・石田三成側と、東軍・徳川家康側が戦った「関ヶ原の戦い」では、具体的なことは不明だが、父の宗厳と共に西軍の「後方牽制」を行ったという。 その後、徳川幕府の2代将軍「徳川秀忠」、3代将軍「徳川家光」の兵法指南役として仕え、側近の一人となる。 |
柳生 宗章(やぎゅう むねあき)辺境の小さなトラブルに散った柳生 |
柳生宗厳の子で、柳生宗矩(又右衛門)の兄なのだが、かなりマイナーな人。 徳川家への仕官を断り、小早川秀秋に仕えたが、小早川秀秋が「関ヶ原の戦い」で寝返りの末に世間の中傷を浴びて死に、改易されてしまうと、伯耆(鳥取) を支配していた中村一氏の子である中村一忠に仕えた。 |
茨木童子(いばらきどうじ) |
戦国武将ではなく、人間でもなく、もはや「鬼」なのだが、ゲーム「信長の野望オンライン」の摂津に登場するので紹介。 平安京に出没したと言う鬼で、同じく平安京を荒らしまわっていた鬼「酒呑童子」の弟子。 摂津の国の、ある農家で生まれた子だったが、母の胎内に16ヶ月もいたため生まれた時から歯が生えており、さらに恐ろしい形相をしていて、母は睨まれたショックで死んだという。 だが、帝の命を受けた「源頼光」や「渡辺綱」などの5人の将軍が鬼の討伐に向かう。 酒呑童子と茨木童子の話は、平安時代に京都に出没した山賊が伝説化したものだと言われている。 |
大物主(おおものぬし) |
戦国武将ではなく、人間でもなく、もはや「神」なのだが、ゲーム「信長の野望オンライン」の大和に登場するので紹介。 出雲大社に奉られている国津神(日本土着の神)で、別名「大国主(オオクニヌシ)」とも。 「イナバの白兎」を助けたことで、国の統治者となることを予言されたが、そのために80人の兄から命を狙われる事になり、「スサノオ」の神のいる黄泉の国へと逃れる。 この話は古代に起こった出雲地方と大和地方の統治者の争いが神格化されたものだという説があり、また大物主は大陸から来て出雲地方を支配した異民族だという説もある。 ゲームではナーガ(蛇人間)のような姿で描かれることが多いが、これは大物主が「オオナムチ」という「蛇神」ともされているためだろう。 普段は紀伊の「三輪山」に住むとされ、有名な陰陽師「安倍晴明」はその存在を、「その秘儀を文字・数・音楽・舞・形状のすべてに象徴として隠した、知恵と魔術の秘密の神」と表現した。 |