本願寺 顕如(ほんがんじ けんにょ)本願寺法主 一向一揆の大僧正 浄土真宗 本願寺、第十一世法主。 「顕如」は法名。 名は「光佐」。 |
本願寺 顕如(ほんがんじ けんにょ)本願寺法主 一向一揆の大僧正 浄土真宗 本願寺、第十一世法主。 「顕如」は法名。 名は「光佐」。 |
鈴木 重泰(すずき しげやす)雑賀から加賀に行った指導者 一向宗門徒(一向宗の信者)が多く、本願寺と友好関係にあった紀伊半島の独立勢力「雑賀衆」の頭目的な家柄「鈴木家」の一族の一人。 |
服部 友貞(はっとり ともさだ)尾張の一向一揆「服部党」の頭目 伊勢と南尾張に勢力を持っていた豪族(地方権力者)であり、一向宗門徒でもあった「服部党」を率いる頭目。 |
杉浦 玄任(すぎうら げんとう)越前を一向宗の国にした武闘派坊官 本願寺の坊官(坊主の役人)で、「加賀一向一揆」の軍事面の大将であった人物。 朝倉家の滅亡後、朝倉領だった越前(福井)が内乱状態になると、ここに一向一揆を煽動して介入。 しかし下間頼照の統治に越前の門徒は反発、そこに伊勢の長島一向一揆を滅ぼした織田軍が攻め込んできて、容赦ない織田の攻撃の前に逃走が相次ぎ、杉浦玄任は大敗。 |
窪田 経忠(くぼた つねただ)加賀の一向一揆の頭領 加賀の国人(地方領主)である「安吉家」の家臣だったが、安吉家の当主が出家する際に城を譲られ、一向一揆の頭領の一人となった。 |
下間 頼純(しもつま らいじゅん)織田軍と幾度も戦った坊官 「下間家」は代々、本願寺の様々な事務・俗事などを務めていた家柄である。 加賀(金沢)で一向宗同士の内乱が発生したときには、加賀の統治を行っていた七里頼周の元に派遣され、共に事態収拾にあたった。 |
下間 光頼(しもつま こうらい)高位の下間一族 本願寺の側近の一族「下間家」の一人。下間頼慶の子で、下間仲考の妻の父、下間頼竜の甥。 |
下間 頼宗(しもつま らいしゅう)天王寺屋でお茶する下間 B 通称「下間丹後」で、下間兵庫の弟。 |
下間 頼成(しもつま らいせい)長島一向一揆を煽った張本人 本願寺の様々な事務・俗事などを一族総出で務めた「下間家」の一人。 なお、加賀で一向宗同士の内乱(加賀大小一揆・享禄の錯乱)が起こった時、超勝寺と共に反乱勢力を撃破し、その後も近畿の宗教騒乱(天文の錯乱)に本願寺の兵を率いて参加した「下間頼秀」「下間頼盛」という兄弟がいる。 |
下間 頼旦(しもつま らいたん)信長に仏罰を与えた長島の武僧 伊勢と尾張の国境で起こった「長島一向一揆」で活躍し、一揆軍を幾度も勝利に導いた本願寺の誇る武闘派僧侶の一人。 赴任後すぐに下間頼盛と共に織田家の城を攻め立て、城主であった織田信長の弟「織田信興」を敗死させ、一揆衆の士気を高めた。 しかし、織田家は周辺の諸勢力を味方に付け、願証寺を孤立させたため、兵糧や物資の不足に陥る。 |
下間 頼慶(しもつま らいけい)本願寺の重鎮 本願寺顕如の祖父の代から重臣として活動していた有能な坊官にして重鎮。 |
下間 頼照(しもつま らいしょう)越前一向一揆の夢、破れる 越前(福井)の一向一揆の大将として本願寺から派遣された坊官だが、悲劇的な運命を辿ることになる。 下間頼照は越前に赴任後、すぐに軍勢を率いて朝倉家の旧臣であり織田家の配下になっていた朝倉景鏡(土橋信鏡)を攻めて敗死させ、織田家の残党を駆逐する。 戦国時代の初期、一向宗と本願寺の勢力を大きく拡大させた「本願寺蓮如」は、京都を追われた後、越前を中心に布教活動を行った。 |
七里 頼周(しちり よりちか)「百姓の持ちたる国」を維持した男 元は一向宗門徒の武士だったという。
加賀(金沢)に本願寺より派遣された坊官の一人。 しかし、その後の加賀では一揆衆の内紛が繰り返されてしまう。 そんな中、加賀の国主だった富樫家の末裔「富樫晴貞」が、織田信長の一向一揆討伐に呼応して挙兵し、権力を取り戻そうとした。 だが、やはり彼も一向宗門徒から「粗暴な振る舞いが多い」「権力をカサに着て威張り散らしてる」と言われ、本願寺に弾劾状が送られる事態になる。 こうして百姓の理想郷は、門徒と坊官の対立の末に滅びた。 |
本願寺 実悟(ほんがんじ じつご)内紛に巻き込まれる蓮如の子 本願寺 第八世法主「本願寺蓮如」の十男にして、23番目の子。 しかし本願寺実悟は本願寺内の家督争いや権力闘争に巻き込まれ、大阪から加賀のお寺に飛ばされてしまう。 のちに赦免され大阪に戻り、願得寺というお寺の住職となって著作に励み、本願寺の様子を詳細に記した「実悟記」や「蓮如上人御一代記」、本願寺における作法をまとめた「本願寺作法之次第」など、数多くの文献を残した。 |
下間 頼次(しもつま らいじ)(下記の「下間兵庫」の本名が「下間頼次」であり、同一人物である可能性が高いのだが・・・ 他に同姓同名の人がいたのだろうか?) |
下間 兵庫(しもつま ひょうご)天王寺屋でお茶する下間 A 下間丹後(頼宗)の兄。 本名は「下間頼次」。 |
下間 頼廉(しもつま らいれん)大坂を難攻不落とした左右の大将 法主・本願寺顕如の執事にして、本願寺が織田信長を相手に対等以上に戦った原動力となった人物。 本願寺顕如は織田信長との戦いを決意すると、大阪にあった「石山本願寺城」に僧兵や一向宗門徒と共に篭城した。 戦いの末、本願寺が織田家と講和すると再び執事に戻り、一向一揆の沈静化に尽力した。 |
粟津 元隅(あわつ もとずみ)東本願寺の側近 「粟津右近」の名で知られる本願寺の家臣。 |
瑞泉寺 顕秀(ずいせんじ けんしゅう)焼き餅ばばあに泣いた越中の坊主大名 越中「瑞泉寺」第七代住職。 武田信玄が上洛(京都への進軍)をする際には、要請を受けて加賀の一向一揆と共に上杉家を攻撃、謙信の動きを止め、信玄の上洛をサポートした。 その後、今度は上杉謙信の上洛に呼応するが、謙信は上洛の準備中に病死。 なお、当時の瑞泉寺は要塞化されていて「井波城」と呼ばれていたが、包囲した佐々成政は瑞泉寺の門前で焼き餅を売っていたお婆に「餅をたくさん買ってやるから抜け道を教えてくれ」と言って、城内への抜け穴の場所を聞き出した。 |
下間 仲孝(しもつま ちゅうこう)歌って踊れる本願寺 越前の一向一揆の統率者「下間頼照」の子。 信長の死後、彼は能楽の才能を生かし「素周」という芸名で能楽師として活動、プロも顔負けの評判となり大成している。 |
宇野 主水(うの もんど)一級資料「宇野主水日記」の著者 本願寺顕如の祐筆(書記)を務めつつ、有力者との交渉や接待を行っていた坊官。 そして彼は詳細な日記を付けており、後世に残している。 |
柴山 宗綱(しばやま むねつな)謎の利休七哲 茶人・千利休の高弟「利休七哲」の一人。 通称「柴山監物」。 しかし彼は、その利休七哲の中で最も謎の人物である・・・ 利休七哲の中でも千利休とは特に親交が厚かったようだが、にも関わらず詳細が伝わっていないのはなぜなのだろうか・・・? |
勝興寺 顕幸(しょうこうじ けんこう)織田に徹底抗戦した越中一揆の住職 越中「勝興寺」第十代住職。 その後、上洛(京都への進軍)をする武田信玄を援護すべく、瑞泉寺や越中の豪族「神保家」と共に上杉家を攻撃、武田家の上洛を背後から援護する。 しかし勝興寺顕幸は、本願寺顕如の長男「本願寺教如」が徹底抗戦を訴えて石山本願寺城に籠城すると、これを支持。 だが「本能寺の変」の後、越中を支配した佐々成政によって呼び戻され、勝興寺は再建される。 なお、ゲーム(信長の野望 Online)では「勝興寺顕称」から「勝興寺顕幸」に名前が変更になったが、「顕称」は11代住職で、10代目「顕幸」の後である。 |
下間 頼竜(しもつま らいりゅう)大坂本願寺城の守りの要 「頼龍」と書かれている場合もある。下間頼廉と並ぶ、石山本願寺の一向一揆軍の大将。 信長と和平した本願寺顕如と、徹底抗戦を訴えた顕如の子「本願寺教如」の確執によって本願寺が分裂した際は、下間頼廉・仲考と袂を分かち、本願寺教如の「東本願寺」に従っている。 茶人としても有名で、堺の豪商「天王寺屋」の主人であり高名な茶人「津田宗達」の茶会に幾度も出席、彼らを招いて茶会を開催する事もあった。 |
超勝寺 実照(ちょうしょうじ じつしょう)加賀大小一揆の超勝った方 「超勝寺」という、いかにも無敵そうな名前のお寺の住職。 加賀に再建された超勝寺は山上に築かれ、城壁に覆われ、正面には巨大な堀、背後と側面には崖という、難攻不落の城塞になっていたという。 しかし本覚寺が超勝寺に援軍を派遣し、本願寺の総本山も反乱側を反逆者としたため、超勝寺側が挽回、最終的には超勝って、以後も加賀で権勢を振るった。 超勝寺実照は、朝倉家と和睦して越前に戻ろうとしている。 |
順興寺 実従(じゅんこうじ じつじょう)本願寺三代に仕えた蓮如の末っ子 本願寺の「中興の祖」と言われる本願寺の第八世法主「本願寺蓮如」の27番目の子。 彼の父である本願寺蓮如(蓮如上人)は、戦国時代の最初期に北陸地方で浄土真宗の布教活動を行った人物で、旅をしながら各地に寺院を建立していった。 なお、蓮如は非常に子だくさんで、85才で死去するまでに27人もの子を残している。 |
興正寺 経尭(こうしょうじ きょうぎょう)本願寺顕如の次男の養父 京都の本願寺のお寺「興正寺」の名跡を継ぎ、本願寺顕如の次男「興正寺顕尊」の養父となった人物。 彼の祖父「経豪」は「佛光寺(仏光寺)」という、同じ浄土真宗ではあるが、本願寺とは別の一派の寺の住職を務めており、しかも当時は本願寺を凌ぐ勢力を持っていた。 ところが、蓮教の子「蓮秀」の代に、近畿地方では「天文の錯乱」と呼ばれる宗教争乱が起こり、興正寺は焼失する。 蓮秀の跡を継いだ証秀(経尭)は、大阪の荒れ地を買って興正寺の別院(掛所)を建立し、その住職となる。 |
錦織寺 勝慧(きんしょくじ しょうえ)比叡山に起源を持つ真宗の寺 「錦識寺」は比叡山・延暦寺の僧が建立した「毘沙門天」をまつる寺院だったが、浄土真宗の始祖である「親鸞」がここに滞在したことから、以後は浄土真宗の道場となった。 江戸時代には錦織寺は浄土真宗の本山のひとつとなり、現在は真宗の各流派「真宗十派」のひとつである「木辺派」の総本山になっていて、本願寺派とは別の浄土真宗のお寺である。 |
性応寺 了寂(しょうおうじ りょうじゃく)雑賀領内の本願寺本山。エロくはない 「性応寺」は紀伊半島の南部にあった浄土真宗のお寺であり、天台宗から転宗した。 性応寺了寂は、その性応寺の戦国時代初期から中期にかけての住職だったようだ。 |
願証寺 証恵(がんしょうじ しょうえ)長島一向一揆の総大将 名は「しょうけい」とも。「願証寺」は伊勢と尾張の国境にある長島という場所で起こった最大規模の一向一揆「長島一向一揆」の中心となった寺院である。 織田信長はこの一揆を鎮圧しようと進攻するが、本願寺より派遣された下間頼旦を大将として織田軍の先手を打ち、信長の弟「織田信興」を敗死させる。 なお、近年になって、長島一向一揆で戦っていたのは願証寺証恵の子「証意」であり、証恵はその前に亡くなっているという説が出て来ている。 |
光教寺 顕誓(こうきょうじ けんせい)加賀大小一揆に敗れ、過去をチラ裏に残す 「光教寺」は元は加賀にあった浄土真宗(一向宗)のお寺で、一向一揆により「百姓の持ちたる国」となった加賀を統率する「賀州三ヶ寺」のひとつだった。 しかし本願寺の総本山は賀州三ヶ寺を反逆者としたため、寝返る者が続発、下間一族の増援が超勝寺に加わり、越中の一向宗の寺院「勝興寺」と「瑞泉寺」も敵となった。 だが、朝倉宗滴は初戦で本願寺軍を破るも、大雨で増水した川で足止めされ、畠山家俊は合戦に破れ敗死。 後年・・・ 光教寺顕誓はその罪を許され、本願寺に復帰する。 |
興正寺 顕尊(こうしょうじ けんそん)宗教戦争で焼け落ちた興正寺を継いだ次男 法主「本願寺顕如」の次男。つまり顕如の子である。 天文の錯乱は室町幕府の権力者「細川晴元」が、三好長慶の父「三好元長」と不仲になり、元長が「法華宗」の熱心な信徒であったことから、本願寺の実力者「蓮淳」に働きかけ、一向一揆を起こして元長を排除しようとして起こった争乱。 コントロール不能になっている一向一揆を見て細川晴元は本願寺と決別、裏切られた本願寺の蓮淳は細川晴元への攻撃を一向一揆に指示。 その後、本願寺と一向一揆は細川軍、法華一揆、以前から本願寺と対立していた六角家に包囲され、将軍・足利義晴からも討伐令を出されて敗北。 興正寺顕尊が跡を継いだとき、興正寺の寺は前述した理由で焼失していたが、格としてはまだナンバー2のままだった。 |
西光寺 真敬(さいこうじ しんけい)越前の入口を守って奮戦 「西光寺」は寺院の名前としてはありがちで、日本各地に同名のお寺がたくさんあるのだが・・・ そして織田信長の越前一向一揆討伐軍が迫ると、真敬が自ら陣頭に立って織田軍と戦うが、丹羽長秀・滝川一益・蜂屋頼隆の軍勢に敗れ、そのまま木の芽峠で自刃した。 なお、他にも「西光寺」は一向一揆に関連したものだけでも、石山本願寺城と共に戦った大阪の「横玉山西光寺」、籠城する石山本願寺城に四国から兵糧を運び込んでいた「諦観山西光寺」、三河の一向一揆の拠点となった「長親山西光寺」などがある。 ゲーム(信長の野望 Online)では「西光寺専念」から「西光寺真敬」に名前が変更になっており、西光寺専念は諦観山西光寺の住職だったのだが、西光寺真敬の方が武将として相応しいと判断されたようだ。 |
本願寺 教如(ほんがんじ きょうにょ)強硬派と東本願寺を創始した長男 法主・本願寺顕如の長男。「教如」は法名。名は「光寿」。 本願寺顕如は一向宗門徒と共に織田信長と長い戦いを繰り広げたが、徐々に追い詰められ降伏を決意し、本拠地であった「石山本願寺城」から退去した。 その後、本願寺顕如が死去すると、本願寺教如が本願寺の第12世法主になるのだが、その翌年、顕如が作成していたとされる遺言が公開され、そこには「本願寺は准如(顕如の三男)に継がせる事」と記されていた。 豊臣秀吉が死去し、「関ヶ原の戦い」によって徳川家康の天下になると、本願寺教如は家康に接近、自らの寺院の建立を願い出る。 家康は当初、教如に元の本願寺に戻るよう勧めていたようで、その書状も発見されているが、教如はそれを断って新たな寺社の建立を望んだ。 |
本願寺 准如(ほんがんじ じゅんにょ)穏健派と西本願寺を引き継いだ三男 法主・本願寺顕如の三男。「准如」は法名。名は「光昭」。 長年戦ってきた織田信長への降伏を巡り、講和を決断した本願寺顕如と、徹底抗戦を訴えた顕如の長男「本願寺教如」が対立する。 このままでは内乱の恐れもあると考えた豊臣秀吉は、本願寺顕如の遺言通りに事を進ませるべきだと考え、本願寺准如を法主とし、本願寺教如は隠棲するべきだと、准如側に便宜を計った。 だが、隠棲させられた本願寺教如に同情する門徒・坊官は多く、そのため本願寺教如が徳川家康に接近し、その援助を受けて新たな寺院を建立すると、そちらに従うものも多く出た。 本願寺側は、この東西分裂は秀吉・家康の策謀だとしている場合が多い。 ちなみに余談だが、西本願寺の総本山のお寺は「世界文化遺産」に登録されている。 |
畠山 義続(はたけやま よしつぐ)弱小大名はホントは超名家 |
|
「畠山家」は本家の「信長の野望」シリーズには毎回登場している、定番の弱小大名だ。 だが、彼が畠山家の跡を継いで当主になっても、まだ若かった事もあって実権はなく、政治は筆頭家老の遊佐続光の主導で行われていた。 そのため当主の畠山義続に権威はなく、「畠山七人衆」と呼ばれる家臣によって国が運営されていく事になるが、こういう状況が嫌になったのか畠山義続は隠居、息子の畠山義綱に家督を譲り、自分は後見役(アドバイザー的な立場)となる。 |
畠山 義綱(はたけやま よしつな)家臣にハブられる畠山の跡継ぎ |
|
畠山義続の子。 本家「信長の野望」シリーズでは皆勤賞。 義続の跡を継いで「畠山家」の当主となる。 そこで義綱は、「連歌の会をやるから」と言って温井総貞を誘い出し、これを暗殺。 その後、上杉家の協力を受けつつ何度も復帰の機会を伺うが、家臣の離反などがあってことごとく失敗、異国の地で没している。 |
遊佐 続光(ゆさ つぐみつ)能登畠山のトラブルメーカー |
|
反乱を起こしては復帰する能登半島の火薬庫。 ところが、主君の畠山義綱が強権的に国の運営を行い始めると、それに反発して長続連とまたまた内乱を発生させ、主君・畠山義綱を追放してしまう。 |
長 続連(ちょう つぐつら)暗殺反乱、傀儡に下克上。それが戦国ゆえ |
|
なんだかとっても長そうな名前の人。 能登畠山家の重臣。 しかし、畠山義綱が権力を掌握し、専制的に政治を始めると遊佐続光と共にそれに反発、クーデターを起こして畠山義続・義綱を追放し、義綱の子「畠山義慶」を擁立した。 その後、畠山義春が跡を継ぐがすぐ死んで、その弟の畠山義明もすぐ死んで、畠山家は断絶。 |
(藤原 千方) |
戦国時代の人ではないのだが、信長の野望オンラインの伊勢に登場するので紹介。 平安時代に存在していたと言われる「千方将軍」とも呼ばれた呪術師で、「金鬼」「風鬼」「水鬼」「隠形鬼」の四人の鬼を従えた、神出鬼没の恐るべき将軍である。 だが、朝廷の将軍「紀友雄」という大将が、和歌を使って「ここは鬼の住む世界ではない」と四鬼を説得。 こうした言い伝えは、盗賊を討伐した話が伝説化したケースが多いが、四鬼と藤原千方の正体は、本当はなんだったのだろうか・・・? |
(斎藤 実盛) |
戦国時代の人ではないのだが、信長の野望オンラインの加賀に登場するので紹介。 この「篠原の戦い」で彼は「老いて侮辱されるのは恥だ」と言い、白髪を墨で黒く染め、若く見えるようにして戦いに望んだ。 |