「雑賀衆を味方にすれば必ず勝ち、敵にすれば必ず負ける」
戦国時代、実際に言われていた言葉です。
戦国最強の鉄砲傭兵集団「雑賀衆」、それは戦国大名とは異なる特異な集団でした。
そして伝説の鉄砲使い「雑賀孫市」がいた集団としても有名です。
そんな「雑賀衆」とは、一体どのような勢力だったのでしょうか・・・?
雑賀衆は紀伊半島の西部、現在の和歌山市を拠点としていました。
紀伊半島は大きな半島ですが、その大半は険しい山々に覆われ、海岸も絶壁が多く、人が住むのに適した場所は限られていました。
しかし大阪の南、雑賀の地に「紀ノ川」と呼ばれる大河があり、その周辺には肥沃な土地が広がっていました。
ここに住んでいた人々が「雑賀衆」と呼ばれる集団となります。
紀伊半島の山々からは多くの鉱石や木材を得ることができたため、鍛冶や林業などの工業が発達、太平洋と瀬戸内海を結ぶ海運に適した土地でもあったため、古くから漁業や貿易業も盛んに行われていました。
こうした土地がらのため、山や森で働く人々、海で働く人々の組合が出来ていきます。
それらの代表が相互に協力して運営されていた「共同体」、それが雑賀衆でした。
雑賀衆は「五組」と呼ばれた5つの地域(惣郷)によって構成されていました。
海側にあったのは「雑賀荘」と「十ヶ郷」。
このふたつは当時は砂地で、農耕には適しませんでしたが、漁業や海運には最適な立地でした。
そして、本願寺が広めた一向宗(浄土真宗)の門徒が多く、戦国の歴史に大きく関わっていたのは、この海側の雑賀衆です。
陸側の中郷(中川郷)、宮郷(社家郷)、南郷(三上郷)は農耕に適しており、三緘衆(みからみ衆)とも呼ばれます。
東にあった「根来衆」の影響が大きく、雑賀五郷に含まれてはいましたが、海側の雑賀衆とは別派閥と言えます。
海側を「雑賀党」、山側を「太田党」と言う場合もあります。
さらに広域に目を向けると、紀伊半島にもいくつかの勢力があったことが見えてきます。
雑賀衆のすぐ近くには「根来衆」がありました。
高野山を本山とする「真言宗」の寺社勢力であり、坊院と呼ばれる寺院によって統率され、2万に及ぶ僧兵によって武装していた大きな勢力です。
雑賀衆とは密接な繋がりがあり、雑賀の有力者「土橋家」は根来衆の坊院の院主も務めていました。
高野山はおなじみの大寺院。
また、あまり知られていませんが、その北には粉河衆(こかわ衆)と呼ばれる天台宗の寺院を中心とする勢力がありました。
南方には古来からある神社「熊野三山」があり、熊野水軍を率いる「堀内家」がこの地方の大きな勢力として存在しています。
特徴的なのは、それぞれの勢力が寺社勢力、もしくは宗教に深く関わっていること。
そのためか、勢力内での内紛のようなものは頻発していましたが、他勢力との争いは少なめでした。
もちろん、こんな山奥まで誰も攻めてこなかったのもあります。
一応「畠山家」という紀伊の正式な守護職もいたのですが、戦乱の中で衰退、しかも大阪方面にも領土を持っていて、そちらが活動の中心となっていたため、戦国時代の中期には紀伊の実権はほとんど失っていました。
しかし、本願寺と織田信長の対立、そして鉄砲の伝来が、雑賀衆を戦乱の世へと引っ張り出すことになります。
雑賀衆と言えば「鉄砲」ですね。
戦国時代の合戦を一変させてしまった、南蛮渡来の新兵器。
雑賀衆が「戦国最強の傭兵集団」であったのは、この鉄砲を駆使していたからです。
では、なぜ雑賀衆が鉄砲集団になったのでしょうか……?
1543年、まだ信長や徳川家康が子供で、斎藤道三が美濃の国を奪取したばかりの頃、九州の南の島「種子島」に、嵐に遭った一隻の船が漂着します。
この船に乗っていたポルトガル人が、未知の新兵器「鉄砲」を持っていました。
これを見た種子島の有力者「種子島時尭」は、これを2丁、金2000両で購入します。
これは現在のお金で2億円もの額だったと言われています。
かなりボッタクリですが…… 種子島家は当時、別の勢力の攻撃で島の覇権を失っていたようなので、彼はこの未知の新兵器に種子島奪還の望みを託したのかもしれません。
そして、このときに購入された一丁が、根来衆の「津田監物」によって紀伊半島へと持ち込まれます。
雑賀衆・根来衆は海運によって四国の土佐、九州の鹿児島、種子島や沖縄、さらに中国とも交易していたと言われており、津田監物は種子島時尭と旧知の間柄だったとも言われています。
そして、この鉄砲を元に根来衆の鍛冶屋「芝辻清右衛門」が試作に成功。
それが雑賀衆にも伝わり、こうして雑賀衆と根来衆は鉄砲集団へと変わって行きました。
もちろん鉄砲の量産は簡単ではありませんでしたが、それを短期間で行えたのは、雑賀衆が優れた職人集団だったからに他なりません。
ただ、鉄砲が出来ても「弾」がないとただの筒です。
実は鉄砲より、この弾(火薬)が問題で、日本では火薬の材料となる「硝石」が取れなかったのです。
ですが雑賀衆は海運にも長けた集団。 貿易によって硝石も入手しやすい立場にありました。
つまり雑賀衆は、あらゆる面で鉄砲を使うのに都合が良かったわけです。
こうして鉄砲で武装した雑賀の兵士たちは「最強の戦力」を有する集団となっていきます。
各地で戦乱が起こっていた戦国時代には他の勢力に援軍を求めるのはよくある事で、鉄砲の戦力目当てに各地からお呼びがかかった雑賀衆は、鉄砲傭兵集団になっていきます。
当時、「雑賀を制すものは全国を制す」とさえ言われるようになりました。
そんな鉄砲集団となった雑賀衆ですが・・・
その「最強の戦力」ゆえに、戦国時代の荒波に翻弄されることになります。
将軍・足利義昭を奉じて京都周辺を支配した「織田信長」は、当時爆発的に流行していた「一向宗」の総本山である本願寺と対立、両者は全面戦争に突入します。
どうして信長と本願寺が戦争に至ったかは本願寺の解説を見て頂くとして……
雑賀衆、特に海側「雑賀荘」と「十ヶ郷」には一向宗門徒が多く、本願寺の寺院も多くありました。
このため本願寺の危機を救援しようと、多くの雑賀衆が本願寺が籠城する「石山本願寺城」に向かいます。
この本願寺の救援に向かった一向宗門徒は「雑賀門徒」とも呼ばれます。
そして、この戦いで雑賀衆は大活躍!
石山本願寺城を攻めた織田軍は手痛い被害を受けて連敗し、信長も銃撃を受けて負傷。
織田家の九鬼水軍も、毛利家の村上水軍と雑賀水軍の連合軍に撃破されています。
特に「雑賀孫市(鈴木孫一)」の活躍は大きく、本願寺の下間頼廉と並んで「本願寺 左右の将」と讃えられました。
この頃すでに雑賀衆は、鉄砲隊を二組に分け、一方が弾を込めている間にもう一方が撃つ、鉄砲の連続発射の戦法を用いていたと言います。
また水上の戦いも、作戦のほとんどは雑賀衆が指揮したと毛利家の記録に記されています。
ですが、雑賀衆が噂に違わぬ力を見せつけたこの戦いが、信長の襲来を招くことになります。
本願寺を倒すには、先に雑賀を屈服させなければらないと考えた織田信長は、約10万と言われる大軍を動員、うち6万で雑賀を強襲します。
しかもこのとき根来衆や、雑賀衆の東部は、織田家に付きました。
根来衆は元々織田家と友好的で、織田軍に傭兵として参加していた者も多く、信長が開催したパレードの行事(天覧馬揃え)にも参加しています。
そしてそもそも、根来衆は真言宗(真義真言宗)の寺社勢力。本願寺は宗教的にはむしろライバル。
雑賀東部(中郷、宮郷、南郷)も、根来衆の影響が大きかったうえに、宮郷は名前の通り神道の影響も強かったため、一向宗門徒もいましたが、織田の大軍を前にして信長になびきます。
また、以前から海側と陸側の雑賀衆は小競り合いが多かったのもありました。
こうして雑賀衆(海側)はピンチに陥りますが……
鉄砲を使ったゲリラ戦、川を使った足止めなどを駆使し、織田軍に大きな被害を与え、1ヶ月近く粘ります。
最終的に、雑賀の七人の頭目が「これからは織田家に従います」と署名した書状を信長に出し、織田家に降るのですが、 兵力差を考えると、停戦に持ち込んだのは金星と言って良いでしょう。
半年後、雑賀西部の「雑賀党」が、信長来襲時に織田側に付いた雑賀の東部「宮郷」の「太田党」を攻撃。
これにより織田家の重臣「佐久間信盛」の8万の大軍が再び派遣されて来ますが、これも撃退しています。
ですが、これらの合戦により、雑賀衆には修復しがたい亀裂が生じることになってしまいます。
本願寺は結局、織田家に降伏。
法主・本願寺顕如は石山本願寺城を織田家に明け渡します。
このとき、子の「本願寺教如」が戦いの継続を訴え、抗戦派と共に城に立て籠もってしまったため、違約違反を問われた本願寺顕如は雑賀に逃れます。
こうして本願寺と織田信長の戦いは一段落付いたのですが……
この頃から、雑賀党(雑賀西部)の有力者「鈴木家」と「土橋家」の対立が表面化します。
鈴木家は雑賀孫市(鈴木孫一)の一族である、雑賀党のトップクラスの有力者。
土橋家は雑賀党だけでなく、太田党(雑賀東部)とも関係が深く、さらに根来衆を構成する「泉識坊」の院主も務めていた、雑賀衆から根来衆まで幅広い繋がりを持つ有力者でした。
ただ、この両家は以前から仲が良くなかったようで、本願寺の救援に行った時も雑賀孫市と土橋家の当主「土橋守重」は別行動をしています。
そして織田家の雑賀進攻後、鈴木家は親織田派、土橋家は反織田派の立場となり、真逆の方針に。
徹底抗戦を訴える土橋家に対し、鈴木家は織田家に支援を求めたりしており、これに以前からの利権を巡る争いも加わって、ついに抗争に発展。
結果、土橋守重は雑賀孫市の急襲によって戦死してしまいます。
ただ、鈴木家もこれによって雑賀に居づらくなったようです。
土橋家の一族は一旦は四国に逃れていましたが、のちに土佐の長宗我部家の後ろ盾を得て雑賀に復帰、根来衆や太田党も土橋家に付き、とうとう鈴木家は雑賀から追い出されてしまいます。
以後、鈴木孫一(鈴木重秀)の消息はわかりません。
そして「本能寺の変」のあと、雑賀衆は滅亡へと向かっていきます。
本能寺の変によって織田信長が倒れると、織田家では「家督争い」が始まります。
その詳細は本能寺の変・後編で解説していますが……
ともあれ、明智光秀を倒した「羽柴秀吉」が、ライバルの柴田勝家も撃破して後継の立場に。
その後、織田信長の次男「織田信雄」が「徳川家康」に支援を要請し、秀吉と家康が「小牧・長久手の戦い」という合戦を繰り広げることになります。
そしてこの戦いの裏で、雑賀衆・根来衆、さらに根来衆の近くの勢力「粉河衆」は、徳川家康の要請で大阪方面へと攻め上がります。
この進攻は黒田官兵衛・黒田長政親子、さらに秀吉配下の中村一氏の奮戦で撃退され(このとき、無数のタコが襲ってきて退散した伝説がある)、雑賀勢もあまり深くまでは進攻しなかったのですが、秀吉と家康の戦いが終わった後、秀吉の怒りの矛先が雑賀に向くことになります。
かつての信長の雑賀攻めと同じく約10万の兵力を動員した秀吉は、まずは大阪南部に築かれていた根来衆の城塞群を攻撃。
根来衆も大量の鉄砲射撃で応戦し、秀吉軍に甚大な被害を与えるのですが、城の火薬庫が火矢を受けて爆発炎上する不運などもあり、防衛線は3日で崩壊。
根来寺はほとんど焼失し、同じ頃に粉河衆の寺も焼け落ちます。
一方その頃、雑賀西部の雑賀荘では、雑賀の年寄衆(頭領)の一人「岡吉正」がいきなり寝返り!
抗戦派だった同僚を銃撃し始め、雑賀軍は大混乱に陥り、土橋家は長宗我部家を頼って脱出。
「雑賀も内輪散々になって自滅」と記録される有り様となります。
結果、わずか数日で、雑賀・根来で残ったのは雑賀東部の「太田党」の居城「太田城」のみに。
雑賀と根来の残党はここに集まって抵抗しますが、秀吉軍はこれを包囲すると、大工事を行って紀ノ川の水を引き込み、水攻めにします。
「日本三大水攻め」のひとつに数えられるこの包囲で1ヶ月後には物資は枯渇、ついに太田城は降伏。
戦国最強と言われた雑賀衆・根来衆は、ここに滅亡することになります……。
最後に、伝説の人物「雑賀孫市」について、少し話しておきましょう。
イメージ的に「雑賀孫市 = 雑賀衆」だったりもしますしね。
彼が何者だったのか、実はいまだにはっきりしていません。
「信長の野望シリーズ」では、雑賀衆は「鈴木家」として登場しています。
実際には雑賀衆は大名家ではありませんでしたから、雑賀衆の名で登場させると問題があるため、雑賀衆の有力者であり、戦国の歴史にも大きく関わっていた「鈴木家」を代表として登場させているようです。
雑賀孫市(孫一)はこの鈴木家の誰かであったと思われますが、実際に誰かははっきりしていません。
雑賀衆の鉄砲隊長であった「鈴木重秀」だと言われていますが、鈴木家の当主であった「鈴木佐太夫(重意)」や、鈴木重秀の兄弟である「鈴木重朝」など、複数の人物の活躍をまとめたものとも言われています。
「孫市」という通称は鈴木家の中で代々使われていたものでもあったようです。
とりあえず、伝説も含めて全てまとめると「雑賀孫市」はこんな人になります・・・
「雑賀党のまとめ役であり、リーダー格でもあった雑賀孫市は、雑賀衆の鉄砲傭兵団の隊長であり、各地の戦いで活躍していた。
雑賀衆と友好的だった本願寺が織田信長と戦うようになると、いち早く本願寺の救援に向かい、鉄砲を使った先進的な戦術で織田軍を撃破し、「本願寺 左右の将」と称えられる。
信長の攻撃によって一度は降伏するが、その後も信長に対抗する各勢力を救援、さらに織田の追っ手が本願寺の法主・顕如に迫ると、わずかな手勢で1万を越える織田軍を相手に決死の戦いを繰り広げた。
本能寺の変によって九死に一生を得た孫市は、その後は豊臣秀吉の配下となる。
秀吉が雑賀衆を攻めた際には降伏を勧める使者となり、取次ぎ役を務めた。
その後、豊臣軍の「鉄砲頭」となり、朝鮮出兵では九州を守る。
「関ヶ原の戦い」では西軍・豊臣側として、京都の戦いで徳川家の重臣「鳥居元忠」を討ち取るが、西軍が敗戦したため領地を失い浪人となる。
しかし東北の大名「伊達政宗」に取り立てられ、雑賀衆に伝わる騎馬鉄砲術を伝授した。
その後、伊達政宗の取り成しで徳川家に仕え、晩年は水戸徳川藩の旗本として余生を過ごしている」
ちなみに、戦国無双ではかる~い感じのナンパ野郎に描かれていますが、これは雑賀孫市を主人公にした小説「尻啖え孫市(司馬遼太郎 著)」から来ているようです。
雑賀衆は「共同体」でした。
他の大名家のような専制君主制ではなく、共和政体であった訳です。
しかし共和政治は、物事が都合よく進んでいるときは和気あいあいと出来ますが、一度窮地に陥ると議論紛糾して、時には内部分裂を招きます。
そこに「宗教」が絡むとなおさらで、 戦国の世において雑賀衆の分裂は、避けられない事であったのかもしれません。
ですが、戦国大名とは違う存在であることが、雑賀衆の魅力でもあるでしょう。
なにより戦国の鉄砲傭兵…… カッコイイことこの上ないですね!