本願寺

本願寺家 と
本願寺顕如 と
一向一揆

人は昔から、3つのものに支配されてきました。
政治、軍事、そして「宗教」です。

政治による知の支配や、軍事による力の支配よりも、宗教による「心の支配」のほうがより強く人を引き付けるのは、現代の社会や事件を見ても明らかですね。

戦国時代にも、そんな宗教の力によって人々を統率・支配していた勢力が存在します。
それがこの「本願寺家」なのですが・・・ 本願寺は元々、仏教の「お寺さん」です。
戦国大名とはちょっと違う存在であり、戦国時代をテーマにしたゲームでは他の勢力と同じように扱われていることが多いのですが、実際には他の大名家とは性質が異なります。
そんな「本願寺家(本願寺)」は、いったいどのような存在だったのでしょうか・・・?

それを語るには、まず「一向宗」という宗教について説明しなければなりません。

南無阿弥陀仏一向宗」とは、仏教の「浄土真宗」の事を指します。

「浄土真宗」とは「親鸞」というお坊さんが広めた仏教の教え(宗派)のひとつで、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と唱え、仏に身を任せれば、全ての人が、例え悪人でも、極楽浄土に至ることが出来る、という教えです。
厳しい修行や悟りを必要とするのではなく、念仏を唱えるだけで、言わばお手軽に極楽に行けるというこの教えは、一般の民衆を中心に日本全土に大きく広まっていきました。
この浄土真宗が創始されたのが、戦国時代から約300年ほど前、西暦1250年頃になります。

一向宗は一般には、この浄土真宗と同じですが、浄土真宗にも色々な派閥があります。
(現在も10の派閥に分かれています)

また、戦国時代に流行した一向宗は、本来の浄土真宗とはかなり違う性質を見せています。
よってここでは、その「一向宗」を「浄土真宗から派生した一派」として説明することにしましょう。


「一向宗」は、他の宗教とは大きく違う点がありました。
それは通常の宗教(仏教)は、僧侶が信者に救済や教えを与えるのに対し、「一向宗」では一人一人の信者が、他の人々や信者に対して救済を行う事を認めていた点です。
「救済」と言っても物理的に助けてあげる訳ではなく、ただ「祈ってあげる」だけですが・・・
科学が未発達であり、多くの迷信や神・仏のご加護が本気で信じられていた当時、それはとてもありがたいものでした。
また「信じる者はみな兄弟」という、今ではよくある宗教の思想も、日本ではこの一向宗から始まったもので、僧も含めて信者同士がみんなで協調しようという考えがありました。

こうした信者単位の布教活動とコミュニティーを形成する考えがあった事で、一向宗は戦国時代に爆発的に普及する事になります。
言わば「新興宗教のハシリ」だったと言えますね。

加えて戦国時代は各所で戦乱が巻き起こり、多くの人々が不幸に晒されていた時代です。
こういう世の中には、それでなくても人々は神や仏に救いを求めます。
つまり一向宗の流行は、当時の社会現象であったと言えるでしょう。

さて「本願寺」についてですが・・・
本願寺というお寺は、浄土真宗の「総本山」のお寺です。
そして一向宗は本願寺の法主により誕生・普及したものなので、つまり本願寺は一向宗のトップにありました。

一向宗の爆発的な流行で日本各地に本願寺のお寺が建てられていきましたが、本願寺はそうしたお寺に「坊官」と呼ばれる信者の統率・指導を行う僧を派遣しています。
そして信者から「お布施」を集め、それにより本願寺は日本各地に大きな支配力と経済力を持つ存在になっていきます。

もともと当時の「寺社」は周辺に大きな影響力・支配力を持つ存在であり、これを「寺社勢力」と呼びます。
一向宗の拡大により、本願寺が寺社勢力の中心となる地域が増えていきました。

ですが、戦国時代初期の「本願寺」は、それでもあくまで「お寺さん」であるに過ぎませんでした。
他の大名家のように「武力」を使った活動をしていた訳ではありません。

しかし・・・ 一向宗のあまりに大きな普及により、熱狂的な信者の中から「独立して一向宗の国を作ろう!」という動きが出始めます。
国を「仏法領(仏の治める国)」とする事で、さらに多くの人々に仏の教えを広めて救済し、国に納める多額の「税」も「お布施」とする事で、さらなる仏の加護を得よう、という考えです。
しかしそれは、いま国を治めている統治者を武力蜂起によって追い出し、国を乗っ取ろうという過激な思想でもありました。

本願寺は当初、こういった「自治・独立」の動きを抑えようとしていました。
浄土真宗の教えには「王法為本」というものがあり、これは「現在の王(統治者)に従い、政治と秩序を助けることが仏法の道である」という考えで、つまり一向宗の「独立」の動きとは正反対のものです。

しかし一向宗門徒(信者)の独立・自治の動きはどんどん大きくなっていき、ついに「加賀(現在の石川県金沢市周辺)」で、一向宗の僧と門徒達による大規模な一揆が勃発します!
この一向宗による一揆を「一向一揆」と呼びます。
そして数十万という門徒(信者)によって加賀の城は陥落、加賀の国主は自害し、本当に一向一揆による「百姓の持ちたる国」が誕生してしまいます!

こうなると、ますます一向宗門徒の独立と自治の動きは強まり、各地で大名や権力者との対立・抗争が始まります。
大名家によって一向宗への対応は異なりましたが、特に一向宗との対立が大きかったのは「朝倉家」「徳川家」「上杉家」、南九州の「島津家」などです。
特に朝倉家は加賀のとなりの国だったため、30万人というものすごい一揆の大軍に侵攻され、徳川家は独立したばかりの頃に一揆軍に城を包囲されて窮地に陥っています。

天文の錯乱そもそも当時は、宗教団体にとっても戦国時代。
近畿地方では一向宗と法華宗の信者が激突、天台宗も法華宗と激突、一向宗同士、浄土真宗同士の内乱もあり、多くの寺や神社がその戦火に巻き込まれ、破壊・略奪・焼失を受けています。
もはや蜂起と戦いは当たり前で、本願寺が時の権力者の要請で起こした一向一揆もありました。

本願寺はあまりに過激な行動は「王法為本」によって抑えようとしましたが、一度火の付いた一向宗の熱狂ぶりと、独立の動きは抑えきることが出来なくなってきます。
それどころか、本願寺に対する門徒の不満も広がっていきます。
「俺達は一向宗のためにこんなにがんばって戦っているのに、どうして本願寺はそれを認めようとしないんだ!」という訳です。

さて、そんな頃・・・ 戦国時代に一人の男が登場しました。「織田信長」 です。
彼は尾張・美濃(名古屋・岐阜)を拠点とし、将軍「足利義昭」を伴って京都を制圧、広い範囲を支配下にして戦国時代の覇者となりました。

当初、本願寺は「王法為本」に従って、信長に従う姿勢を見せていました。
信長が京都を制圧すると法主の「本願寺顕如」が自ら進んで信長に挨拶に行き、その後、信長からいきなり5000貫もの資金提供を要求された時も、これにすぐに応じています。

しかし信長の本願寺への要求はどんどんエスカレートしていきます。
信者の動きは織田家に逐一報告しろ、本願寺が指令を出す際は織田家の許可を求めろ、勝手に他の大名家と交渉してはならない、などの要求が繰り返され、さらに大阪の「石山」という場所にあった本願寺の中心拠点「石山本願寺城」の開け渡しも要求されます。

信長としては、潜在的な脅威である本願寺を押さえておきたいという考えがあったようで、石山本願寺城は西国への進出を考える信長にとって、理想的な立地でもありました。
ですが、本願寺としてもこれらの要求を受け続けていては独自性は失われ、ただの部下になってしまいます。

それに加え、一向宗の「独立・自治」の動きを認めて欲しいと各地の門徒や僧から突き上げを受けるようになり、さらに信長によって京都に帰還した将軍・足利義昭からも、義昭と信長が不仲になったことから、「信長を討て」という要求を受けるようになります。

こうして、ついに法主・本願寺顕如は時の権力者「織田信長」に対し、反旗を翻す事を決意します!
「仏敵信長を討て!」の檄文を各地に飛ばし、「仏法の灯火を守るため、織田家と一向宗に敵する者と戦え! 従わぬものは破門する!」とまで言い切ります!

これにより「王法為本」の制約を解かれた各地の一向宗門徒は一斉に武力蜂起、各地で一向一揆が巻き起こります!
さらに本願寺顕如と本願寺の高僧達は大阪の「石山本願寺城」に多数の僧兵と共に入城、そこで篭城戦(城にこもって戦うこと)の準備を行います。

さらに紀伊半島の南部一帯を拠点とする、一向宗門徒の多かった勢力「雑賀衆」に救援を要請。
多数の鉄砲を持つ傭兵集団でもあった彼らから武力援助を受けると、織田家と敵対している中国地方の大大名「毛利家」と同盟、毛利家の「村上水軍」から海上輸送での物資補給を受けます。

それは仏教のお寺さんであった本願寺が、武装宗教過激派組織「本願寺家」に変わった瞬間でもありました。

石山本願寺籠城と一向一揆この動きに対し、すぐに信長も本願寺討伐の兵を差し向けます。
しかし石山本願寺城の攻撃に向かった織田軍は、本願寺の門徒と僧兵によって手痛い反撃を受け、雑賀の鉄砲隊の奇襲もあって大敗。

さらに尾張(名古屋)と伊勢(三重)の国境で「長島一向一揆」と呼ばれる一向宗門徒の大規模な武力蜂起が起こり、織田家の守備軍が撃破され、討伐軍も敗戦を重ねます。
織田軍は石山本願寺城を弱体化させるため、海上輸送ルートを攻撃しますが、これも毛利家の村上水軍に撃退され、信長は各地で後退するハメになります。

進むは極楽、退けば地獄」と鼓舞され、「南無阿弥陀仏」の経文を唱えながら死をも怖れず攻撃してくる一向宗の軍団は、覇王たる織田の軍勢にとっても恐るべき相手だったのです。

そこで信長は、各地の敵対勢力を個別に潰していく作戦に出ます。

進者往生極楽 退者無間地獄まず、近畿地方の反織田勢力「浅井家」や「朝倉家」を攻撃しながら、「長島一向一揆」の周辺の拠点をひとつずつ攻略していきます。
これにより長島一向一揆は孤立、織田の大軍に包囲され、そして捕らえられた門徒2万人は女子供も含め、全て殺害されてしまいます。

浅井家と朝倉家が京都方面に進軍し、そして「比叡山・延暦寺」に立て籠もったため、今度はここに大軍を差し向け、神社仏閣を全て焼き払い、そこにいた僧侶3千人を殺害します。
比叡山は「天台宗」であり、「一向宗」である本願寺とは微妙な関係だったのですが、歴史と格式のある仏教の総本山を容赦なく破壊・殺戮する信長の所業は天下に広まり、他の宗教組織に対しての見せしめであったとも言われています。

そして浅井家と朝倉家を滅ぼした信長は、一向宗門徒が蜂起した越前への進攻を開始。
ここでも一向一揆の軍勢を圧倒すると、捕らえた門徒は全て殺戮するという苛烈さで、その犠牲となった門徒は3万人とも7万人とも言われています。

この時期に殺された一向宗門徒は全国で十万を超えると言われており、それは日本史上における最大規模の虐殺であったことは間違いありません。
これらの所業により、いつの頃からか織田信長は「第六天魔王」と呼ばれるようになります。

ただ、信長の側にも彼等を殺さなければならない理由はあったようです。
なぜなら一向宗門徒は、信仰で結束している者達。
彼等が自らその信仰を捨てない限り、たとえ戦いに破れようと、国が滅びようと、彼等が屈服することは絶対にないからです。

信長による門徒の殺戮と、それによる織田軍に反抗することの恐怖によって、次第に各地の一向一揆はなりを潜めていきました。
宗教は信者がいなければ意味がありません。
本願寺の武力のほとんどは各地の一向宗門徒による「一向一揆」でしたから、これが沈静化したことによって、徐々にその力を失っていきます。

「反織田」の有力勢力だった武田信玄、上杉謙信も相次いで病死。
将軍・足利義昭も京都から追放され、さらに織田家で建造された鉄張りの軍艦「鉄甲船」によって、石山本願寺城に海上補給していた毛利家の村上水軍も敗退。

一向一揆によって作られた一向宗の国「加賀」も制圧され、こうして孤立した本願寺家は、ついにその蜂起から約10年後、織田家と降伏に近い講和を行い、石山本願寺城から退去。
本願寺による武力闘争は幕を閉じたのでした。

その後、法主・本願寺顕如は信長に助命されると、再び「王法為本」を元に、各地の一向一揆を抑える役割を持つことになります。
こうして戦国の世に巻き起こった「一向一揆」の嵐は終息することになります・・・

ただ、信長に降伏する際、本願寺顕如の子「本願寺教如」がそれに反対、石山本願寺城から退去せず、強硬派と共に立て籠もったため、勘当されることになります。
そして徹底抗戦を訴える教如は熱狂的な僧や門徒に支持され、これが結果的に本願寺の分裂を生み、「西本願寺(顕如派)」と「東本願寺(教如派)」に分かれる事となります。

この両本願寺はその後も「浄土真宗」の総本山として存続し続け、現代に続いています。
本願寺のお寺は日本中にあるので、行った事がある人も多いでしょうね。


一向宗門徒のほとんどは「農民」でした。
力の弱い、虐げられた彼等が一向宗の信仰を通して望んだものは「支配からの解放」でした。

しかし、そんな彼等を統率しようとした「本願寺」もまた、彼等にとっての「支配」に他なりません。
その事実が表面化したとき、一枚岩であったはずの一向宗に亀裂が生じます。
ですが悲しい事に、統率のない集団は「烏合の衆」に過ぎません。

自由と信仰を求めた彼らの戦いは、力と支配によって、討ち破られる運命だったのかも知れません・・・


本願寺 武将名鑑
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