織田 信長(おだ のぶなが)織田家大名 戦国の覇者 織田家の大名。 |
織田 信長(おだ のぶなが)織田家大名 戦国の覇者 織田家の大名。 |
菅屋 長頼(すがや ながより)信長馬廻衆 古くから信長に仕えていた「馬廻衆」の一人。 |
山内 一豊(やまのうち かずとよ)「内助の功」の夫 織田家が浅井・朝倉家と戦っていた頃に仕官した武将。妻と共に2006年のNHK大河ドラマ「功名が辻」の主役となった。 だが、どちらかと言うと、本人よりも妻の「千代」の方が有名だ。 |
可児 才蔵(かに さいぞう)破滅を呼ぶ槍使い 「笹の才蔵」の異名を取り、戦場を渡り歩いた槍の名手。本名は「吉長」。 ただ、仕えたのが斎藤龍興、柴田勝家、明智光秀、前田利家、織田信孝、豊臣秀次、佐々成政、福島正則と、利家以外はハデに失脚した人ばかりで、もはや呪いの武将状態である。 |
溝口 秀勝(みぞぐち ひでかつ)越後新発田藩主 織田家の重臣「丹羽長秀」の配下として各地を転戦し、武功により城主となった人物。 上杉家が会津に移転になると、上杉家の旧領であった越後に赴任。 |
佐久間 盛政(さくま もりまさ)賤ヶ岳の猛将にして敗因 鬼玄蕃(おにげんぱ)と呼ばれた猛将。 |
前野 長康(まえの ながやす)蜂須賀小六の弟分 元尾張の豪族(地方権力者)。蜂須賀正勝の舎弟(弟分)。 |
堀 秀政(ほり ひでまさ)オダケのQ太郎 「名人久太郎」と呼ばれた戦上手。 なお、幼名の「久太郎」は「きゅうたろう」と読み、秀吉からは「きゅうきゅう」と呼ばれていたという。 |
森 長可(もり ながよし)人間無骨の鬼武蔵 信長お気に入りの小姓(身の回りの世話をする子供)である「森蘭丸」の兄。 武田家の滅亡後は信濃に赴任して上杉家と戦っていたが、「本能寺の変」によって孤立の危機に陥り、元武田家の木曽義昌に命を狙われる。 本能寺の変の後は羽柴秀吉に仕えるが、秀吉と家康が戦った「小牧・長久手の戦い」において、徳川軍の銃弾を眉間に受けて戦死。 |
原田 直政(はらだ なおまさ)赤母衣衆 織田家のエリート部隊「赤母衣衆(あかほろしゅう)」の一員。 武田勝頼の騎馬軍団が織田家の鉄砲隊に撃破された「長篠の戦い」において、鉄砲奉行の一人となっている。後に京都の守護職も務めた。 |
蜂屋 頼隆(はちや よりたか)黒母衣衆 織田家のエリート部隊「黒母衣衆(くろほろしゅう)」の一員。 以後も京都を中心に活動していたため、近畿を転戦する一方で、将軍・足利義昭の追放や、香木「蘭奢待」の切り取り、パレードの行事「天覧馬揃え」の実行などにも携わっている。 |
蜂須賀 正勝(はちすか まさかつ)秀吉の懐刀 元尾張の国人(地方領主)。「蜂須賀小六(ころく)」の名の方が有名だろう。 |
生駒 親正(いこま ちかまさ)豊臣三中老 秀吉に早くから仕えていた武将。 「関ヶ原の戦い」では西軍に組したため、責任を取って高野山に出家するが、子の生駒一正が東軍で活躍したため許されている。 |
加藤 嘉明(かとう よしあきら)七本槍にして水軍大将 「賤ヶ岳七本槍」の一人である秀吉配下の名将。 秀吉の四国攻めの際に小早川隆景の配下となり、そこで水軍の扱いを学んだようで、九州攻めや小田原征伐(北条攻め)では淡路水軍を率いる。 冷静沈着な武将としても知られており、関ヶ原の戦いにおいて、東軍の勝ちが決まって多くの将兵が功を焦って敵を追いかける中、彼の部隊だけは陣形を保ち続けたと言う。 |
織田 信包(おだ のぶかね)信長の弟の無野望 信長の弟。 通称「三十朗」。 「本能寺の変」の後は信長の次男である織田信雄に従っており、織田家の跡継ぎ争いで秀吉や信雄と対立していた滝川一益、織田信孝と戦う。 |
佐々 成政(さっさ なりまさ)対秀吉の急先鋒 織田家のエリート部隊「黒母衣衆」の一員。当初は二人の兄と共に信長に仕えていたが、兄たちは早期に戦死した。 後に柴田勝家の与力となり、そのまま本能寺の変をむかえ、勝家と共に秀吉と敵対するが、勝家と秀吉が戦った「賤ヶ岳の戦い」には参加できなかった。 その後、九州の肥後(熊本)の大名となる。 |
織田 有楽斎(おだ うらくさい)有楽町の語源 信長の10才以上年下の弟。「利休七哲」の茶人の一人。 元の名は「織田長益」。 羽柴秀吉と徳川家康が戦った「小牧・長久手の戦い」では、家康の味方をしていた兄の織田信雄を説得、秀吉との講和を結ばせることに成功する。 関ヶ原の後は主に大坂城にいて、淀君の補佐をしつつ徳川家と豊臣家の仲介役を務めていたのだが、両者の関係は悪化、大坂の陣が勃発してしまう。 その後は出家して茶人となり、現在の東京千代田区に屋敷を構え、庵(茶室)を開く。 |
浅野 長政(あさの ながまさ)三成のライバルな豊臣五奉行 元は「浅野長吉」と名乗っていた。浅野家は織田家の武士であり、そこに婿養子として入っている。 だが、彼は五奉行の筆頭である石田三成とは意見が合わないことが多く、息子の浅野幸長も三成とは犬猿の仲。 五奉行の裏切り者のように言われることもあるが、石田三成が秀吉に「家康の用意した宿は危険なので泊まらないように」と言った際、「そんなことをする人ではない!」と反論、朝鮮出兵の際に秀吉が自ら朝鮮に行くと言い出した時も「直ちに船を作ります」と言った三成に対し、「狐にでも取り憑かれましたか? 殿下が渡海すれば世は乱れます」と反対。 石田三成とたき火に当たっていた時に家康が通りかかり、三成が頭巾をかぶったまま家康に挨拶しようとして、「失礼だから取れ」と言っても無視したとき、頭巾を奪い取ってたき火に放り込んだ話も有名。 |
村井 貞勝(むらい さだかつ)京都所司代 織田家の古くからの重臣。 織田家における奉行の筆頭。 |
佐久間 信盛(さくま のぶもり)クビになった退き佐久間 織田家の古くからの重臣。
織田家の相続問題で信長を支持して信任を得た。 その際に信長が彼に送った「折檻状」には、要約するとこう書かれている。 |
河尻 秀隆(かわじり ひでたか)黒母衣衆筆頭 織田家の古くからの重臣。 エリート部隊「黒母衣衆」の筆頭。一時は織田信友にも仕えていた。 歴戦の武士であり、特に対武田戦線で活躍、武田家滅亡後は甲斐の国を任された。 |
金森 長近(かなもり ながちか)美濃の出世頭 織田家の古くからの家臣。元は「金森可近」という名で、美濃の土岐家の一族だったが、内紛に巻き込まれて尾張に逃れ、織田家に仕えたらしい。 越前(琵琶湖の北方)で起こった一向一揆の鎮圧でも活躍し、その地方の城主となって、のちに織田家の北陸方面軍を率いた柴田勝家の与力(部下)となる。 のちに飛騨(岐阜県北部)の姉小路家を滅ぼし、飛騨の大名となっている。 |
林 通勝(はやし みちかつ)おじい役 B 信長の父「織田信秀」の命によって信長の筆頭家老となり、初期の信長を補佐し続けた織田家の旧臣。 なお、近年になって彼の名は「林秀貞」が正しく、「通勝」は松永久秀の家臣の林通勝との混同であるという説が出て来ているが、まだ異説の類いである。 |
前田 玄以(まえだ げんい)僧籍の豊臣五奉行 元比叡山の僧侶。しかしキリスト教に対しても好意的だった。 豊臣家の家臣が分裂し始めると、五奉行でありながら中立的な立場を取り、その沈静化に尽力。 |
池田 恒興(いけだ つねおき)織田家四家老 織田信長の乳兄弟。 幼い頃から信長に仕えており「桶狭間の戦い」でも武勲を挙げている。 摂津で起こった荒木村重の謀反の鎮圧で功績を挙げ、そのまま摂津に所領を得る。 その後も秀吉派として戦っていたが、秀吉と徳川家康が戦った「小牧・長久手の戦い」において、迂回作戦を実行するも徳川軍の急襲を受け、戦死した。 |
織田 信行(おだ のぶゆき)信長の弟にしてライバル 織田信長の弟。 信長の初期のライバル。 なお、近年の研究で、彼の名は「織田信勝」が正しく、「信行」は間違いだという説が有力になっていた。 コーエーのゲームでは、作品によって表記が違う。 |
木下 秀長(きのした ひでなが)秀吉の栄達を支えた兄 羽柴(豊臣)秀吉の弟。 後の「羽柴秀長」(豊臣秀長)。 当初は「長秀」と名乗った。 政治家として優れ、温厚な人柄で武将達からの人望も厚く、誰からも慕われた人徳家だった。 ちなみに、1996年のNHK大河ドラマ「秀吉」の原作は、秀吉ではなく秀長が主人公だった。 |
前田 慶次(まえだ けいじ)一夢庵風流記 本名「前田 慶次郎 利益」。 滝川家からの養子で、前田利家は叔父。 ただし異説もある。 「本能寺の変」の頃、滝川一益の軍勢にいて、真田信幸に信長の死を伝えたという。 しかし後に前田利家と不仲になり、利家を騙して水風呂に入れて出奔、京都で奇行を繰り返した後、上杉家の「直江兼続」との親交から上杉家に仕官。 |
羽柴 秀吉(はしば ひでよし)天下人 後の「豊臣秀吉」。 天下統一を成し遂げた「天下人」。 その後、中国地方侵攻の軍団長に任命されるが、毛利家との交戦中に「本能寺の変」が起きて信長は急死。 その後に徳川家康と「小牧・長久手の戦い」で対峙するが、これは後に和睦。家康は秀吉に臣従する。 「本能寺の変」の後の、秀吉の天下取りについては こちら で詳しく解説している。 |
前田 犬千代(まえだ いぬちよ)かぶき者の苦労人 「前田利家」のこと。 2002年のNHK大河ドラマ「利家とまつ」の主人公。 通称「槍の又左」。 羽柴秀吉とも柴田勝家とも仲が良く、秀吉とは家も近所で、家族ぐるみの付き合いをしていた。 だが、柴田勝家の配下として北陸で転戦中に「本能寺の変」が起こり、秀吉と勝家が戦った「賤ヶ岳の戦い」では両者の板ばさみにあってしまう。 以後は秀吉の片腕として活躍し、その人徳で多くの武将から慕われ、後に豊臣家の重鎮となり、後の「前田家・加賀百万石」の基礎を築く。 |
明智 光秀(あけち みつひで)敵は本能寺にあり 戦国最大の事件「本能寺の変」で「織田信長」を討った張本人。 2020年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公。 知性派の武将であり、調略や内政などで数々の功績を上げる一方、戦場での部隊指揮にも長け、秀吉と並ぶ多くの勲功を上げている。 彼が「本能寺の変」を起こした理由は諸説あるが、正確には不明だ。 「本能寺の変」については こちら で詳しく解説している。 |
滝川 一益(たきがわ かずます)国より茶器が欲しい武闘派 甲賀の出身であり、幼少時代は甲賀の忍びの里で槍の修行をしていたという。 武田攻めの先鋒となり、武田家滅亡後は上野と信濃の国主となっている。 そして「本能寺の変」の後は、一転して転落人生となる。 |
丹羽 長秀(にわ ながひで)織田軍に不可欠な裏方 織田家の家臣団のナンバー2。 父は斯波家の家臣だった。 織田家の武将を評した「木綿藤吉、米五郎左、掛かれ柴田に、退き佐久間」という言葉があるが、「米五郎左」は丹羽長秀のことで、「米のようになくてはならない」という意味だという。 「本能寺の変」では秀吉と共に明智光秀を討ち、織田家の今後を決める「清洲会議」でも秀吉の味方をした。 結局その後、彼は城に引き篭もって呼び出しにも応じなくなり、やがて病に倒れ、自刃してしまった。 |
平手 政秀(ひらて まさひで)おじい役 A 信長の父「織田信秀」の代からの織田家家臣。 信長の傅役(お守役、後見役)。 信長を扱ったドラマや小説では、暴れ放題で言うことを聞かない信長にいつも困っている「おじい」役が定番になっている。 |
柴田 勝家(しばた かついえ)秀吉に敗れた戦国随一の猛将 織田家の家臣団の筆頭で、織田家随一の猛将。 信長が家督を継いだばかりの頃は、林道勝と共に信長の弟「織田信行」を擁立しようとして信長と敵対し、信長本陣を崩壊寸前に追い込むが、織田信長に敗れた。 その後、織田家の「北陸侵攻軍」の軍団長となり、前田利家や佐々成政と共に加賀・能登・越中の北陸地方を攻略していくが、上杉家の重要拠点であり、越後への入口でもある「魚津城」落としたところで、明智光秀の謀反「本能寺の変」を知る。 この時、距離的には秀吉よりも光秀軍に近い位置にいたものの、上杉軍から追撃を受ける危険があって動けず、秀吉に光秀討伐の先を越されてしまう。 |
お市(おいち)信長の妹、悲劇のヒロイン |
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信長の妹。 兄に負けない気丈な性格で、「東国一」と称されたほどの美貌の持ち主であったと言う。 秀吉がお市にずっと片思いする展開は歴史ドラマの定番である。 お市と浅井長政の娘「茶々」「初」「江」の三人娘は織田家に引き取られており、茶々は秀吉の側室「淀」となって豊臣家の跡継ぎ「豊臣秀頼」を生み、豊臣家を背負った。 |
お濃(おのう)マムシの娘にして信長の妻、さらに光秀のいとこ |
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斎藤道三の娘「帰蝶」のこと。 政略結婚で信長に嫁いだ。 |
斯波 義銀(しば よしかね)信長に追い出された尾張守護 |
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戦国時代初期に尾張を支配していた「斯波家」の末裔。 |
織田 信友(おだ のぶとも)尾張平定前の信長の対抗者 |
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信長が織田家の家督を継いだばかりの頃、織田家はいくつかの勢力に分裂していた。 |
服部 友治(はっとり ともはる)長島一向一揆の大将? |
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ゲーム(信長の野望 Online)では元々、尾張南部の郊外に「服部友貞」という武将が登場していた。 そして、ゲーム(信長の野望 Online)で服部友貞が本願寺に配置替えになったあと、代わりに登場するようになったのが「服部友治」なのだが・・・
彼の経歴は不明。 |
沢彦 宗恩(たくげん そうおん)織田信長 徒党員 信長と岐阜の名付親 |
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織田信長の父「織田信秀」の時代から織田家と深い交流のあった禅僧。 美濃の大名「斎藤家」を滅ぼし、稲葉山城 を居城とした織田信長は、ここを天下の拠点にしようと考えて沢彦宗恩に良い名がないかと尋ねた。 |
織田 信孝(おだ のぶたか)織田信長 徒党員 反秀吉の信長後継候補 |
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織田信長の三男。信長の死後、その後継者を巡って争った跡継ぎ候補の一人である。 「本能寺の変」の直前、彼は四国攻めの総大将に任命され、丹羽長秀と共に準備を進めていた。 この動きに反発した織田信孝は、秀吉と対立する柴田勝家と組み、二度に渡って岐阜で挙兵。 |
森 蘭丸(もり らんまる)織田信長 徒党員 戦国のアイドル |
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今ではすっかりメジャーになった、信長に仕える美少年。 信長のお気に入りの小姓(身の回りの世話をする子供)で、容姿端麗で品行方正、「他に人なきが如く」信長は彼を可愛がっていたと言う。 |
太田 牛一(おおた ぎゅういち)織田信長 徒党員 「信長公記」著者 |
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信長の軍記である「信長公記」を始めとする、多くの軍記物の著者として有名な人物。 |
兼松 正吉(かねまつ まさよし)織田信長 徒党員 ぞうりが家宝 |
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尾張の下級武士の子であったが、合戦での勲功により出世していった。 その後も各地を転戦し、一騎打ちの逸話も多い。 |
加藤 清正(かとう きよまさ)羽柴秀吉 徒党員 名将・肥後の虎 |
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「虎退治」の逸話で有名で、名馬「帝釈栗毛」に乗り、片方の刃が折れた「片鎌槍」をトレードマークとする人気の武将。 秀吉の配下として活躍し、特に柴田勝家と秀吉が戦った「賤ヶ岳の戦い」では大きな手柄を立て、「賤ヶ岳七本槍」の一人と讃えられ肥後(現在の熊本県)の城主となる。 朝鮮出兵が始まると加藤清正は主力として活躍、朝鮮軍を各地で打ち破って2人の王子を生け捕りにし、さらに「蔚山城の戦い」で明(中国)の数万の大軍を相手にわずかな兵で防ぎ、味方の救援を受けて反撃、明・朝鮮の兵から「鬼将軍」と呼ばれ恐れられた。 秀吉の死後、石田三成を嫌う者たちと共に石田三成の暗殺未遂事件を起こすが失敗、その後は石田三成と対立する徳川家康に協力し、石田三成(西軍)と徳川家康(東軍)の戦いとなった「関ヶ原の戦い」が起こると、九州の肥後で西軍に味方しようとする諸勢力を牽制、この功績で肥後の国全土を与えられ52万石の大名となった。 |
福島 正則(ふくしま まさのり)羽柴秀吉 徒党員 秀吉子飼いの猛将 |
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秀吉配下の猛将。秀吉と同郷の出身で、彼の母は秀吉の母の妹。 各地の合戦で活躍するが、豊臣家は次第に「武断派」と「文治派」に分かれて対立するようになっていく。 関ヶ原の戦いで福島正則は徳川家康に協力し、各地の大名が集まった席上で「これは豊臣家との戦いではない! 石田三成を討伐する戦いである!」 と発言、各武将へ東軍への参加を求め、合戦でも先陣として戦った。 感情的で酒好き、武闘派の彼は、やはりインテリとは合わなかった様だ。 |
曾呂利 惣八(そろり そうはち)羽柴秀吉 徒党員 ソロリと歩く透波 |
「曾呂利」は「曽呂利」と書く場合もあり、当て字である。 歴史的には曾呂利惣八と秀吉には全く接点がないと思われるが、「そろり」というもう一人の人物が戦国時代の後期に秀吉の御伽集(おとぎ衆。近侍する役職)となっている。 |
柴田 勝豊(しばた かつとよ)柴田勝家 徒党員 柴田勝家敗因のひとつ |
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柴田勝家の家老の子供で、母が勝家の姉であったため、勝家の養子となった。 |
梁田 正綱(やなだ まさつな)柴田勝家 徒党員 桶狭間の斥候 |
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織田信長が今川義元の大軍を討ち破った「桶狭間の合戦」において、戦功第一(一番手柄)とされた兵士である。 |
徳永 寿昌(とくなが ながまさ)柴田勝家 徒党員 朝鮮撤兵の伝達役 |
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柴田勝豊の家臣だったが、勝豊が秀吉に降伏したため以後は秀吉の家臣となる。 |
柴田 勝政(しばた かつまさ)柴田勝家 徒党員 鬼玄蕃の弟 |
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「鬼玄蕃」と呼ばれた猛将「佐久間盛政」の弟で、両親と死別したために柴田勝家の養子となり「柴田」の姓を名乗るようになる。 |
溝尾 茂朝(みぞお しげとも)明智光秀 徒党員 明智光秀を介錯 |
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元は美濃の斎藤道三の家臣だった。 通称「庄兵衛」。 「本能寺の変」や、秀吉と光秀の軍勢が戦った「山崎の合戦」(天王山の戦い)に参加するが、明智軍は秀吉軍に敗れてしまう。 その後も危険な道中が続くため、彼は光秀の首を持って帰ることを諦め、その辺の地中に埋めて弔うと光秀の居城「坂本城」に帰還。 ただ、明智光秀が本当にこの戦いで死んだのかについては、疑惑もある。 |
明智 秀満(あけち ひでみつ)明智光秀 徒党員 鬼武者 |
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幻魔王となった織田信長を倒すため、鬼の篭手を用いて幻魔と戦う鬼武者「明智左馬介」その人である! 「本能寺の変」の際には先陣として本能寺を焼き討ちして攻め込んだ。 明智秀満は天王山に向かおうとするも間に合わないため、光秀の居城「坂本城」に戻ろうとするが、途中で織田軍の堀秀政に見つかって追われてしまう。 死後、彼が「敵に渡すぐらいなら全て燃やしてしまおう」という意見を押し留め、名品と馬を敵に渡してから自害したことに秀吉や武将達は感服したという。 ちなみに、余談だが・・・ 信長が主人公のコーエーのゲーム「決戦 III」で、信長が秀満を倒すと「鬼のような武者であった・・・ だが俺は負けん!」と叫んだのは笑った。 |
安田 国継(やすだ くにつぐ)明智光秀 徒党員 明智三羽烏 |
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明智光秀の配下で、武勇に優れ「明智三羽烏」と呼ばれた武士の一人だった。 通称「作兵衛」。 |
戸田 勝成(とだ かつしげ)丹羽長秀 徒党員 惜しまれた西軍武将 |
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「戸田重政」とも名乗っていた。 丹羽長秀の配下の武将。 |
徳山 秀現(とくやま しゅうげん)丹羽長秀 徒党員 勝家の与力 |
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柴田勝家の家臣。武将時代の名は「徳山則秀」。「秀現」は出家後の名だが、歴史的にはこちらが使われる方が多いらしい。名字は「とくのやま」の読みもある。 |
滝川 雄利(たきがわ かつとし)滝川一益 徒党員 七転び八起き |
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伊勢の大名「北畠家」の家臣の家柄「木造家」の一族である。 「本能寺の変」が起こって信長が死去すると、滝川一益が秀吉と敵対したため彼も秀吉軍と戦うが、反秀吉派の柴田勝家や織田信孝が次々と敗れて死んだため、秀吉に降伏した。 後に秀吉の養子「豊臣秀次」が謀反の容疑で処刑された秀次事件に巻き込まれたり、「関ヶ原の戦い」で西軍・豊臣側に付いたため、東軍の勝利によって没落したりしてしまうが、そのたびに秀吉や徳川家康に召しだされ、城主に戻っている。 |
佐久間 正勝(さくま まさかつ)佐久間信盛 徒党員 へうげもの |
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織田家の重臣「佐久間信盛」の子。 現在は「佐久間信栄」とする説の方が有力。 しかし一年半後に信長の長男「織田信忠」の家臣として織田家に復帰。 武将としてはあまりいいところがないが、天下の茶人「千利休」の弟子であり、「数奇者(茶人、風流人)」として名を知られていた。 |
原 長頼(はら ながより)河尻秀隆 徒党員 賤ヶ岳の先鋒 |
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元は斎藤家の家臣だったらしい。織田家の家臣となった後は、越前の朝倉家攻めや、近畿地方の各地で転戦。 |
河尻 秀長(かわじり ひでなが)河尻秀隆 徒党員 秀吉の馬廻衆 |
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河尻秀隆の子。
実際には、織田家に仕えたのは「本能寺の変」が起こった後であり、父が「本能寺の変」の混乱の中で起こった一揆により戦死したのと入れ替えの形で仕官した。 |
毛受 勝照(めんじゅ かつてる)河尻秀隆 徒党員 柴田勝家の忠臣 |
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苗字の読みは「めんじゅ」と「めんじょう」の2通りの説がある。 |
蜂須賀 家政(はちすか いえまさ)蜂須賀正勝 徒党員 阿波の古狸 |
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秀吉の側近「蜂須賀(小六)正勝」の長男。 父に劣らぬやり手の武将。 朝鮮出兵では「蔚山城の戦い」で味方を救援したにも関わらず、追撃時に深追いしすぎたと言われて秀吉に処罰されそうになり、その報告をした石田三成に恨みを持つ。 関ヶ原の戦いが起こりそうになると、彼は西軍・豊臣側への参加を宣言しつつ、自分の領地を豊臣家(石田三成) に返上し、出家して高野山に入ってしまう。 |
前野 景定(まえの かげさだ)前野長康 徒党員 秀次事件の被害者 |
前野長康の子。 豊臣家の跡継ぎとされていた「豊臣秀次」の側近となる。 豊臣秀次は子供のいなかった豊臣秀吉が息子に跡を継がせるのをあきらめた後、豊臣家の跡継ぎとして養子にした人物である。 |
前野 茂定(まえの しげさだ)前野長康 徒党員 |
詳細不明・・・ 前野長康の一族だと思うのだが、息子などではないようだ。 |