織田家 武将名鑑


戦国大名「織田信長」(織田家)の武将達のプロフィールを紹介しています。


織田信長

織田信長

織田 信長

(おだ のぶなが) 
織田家大名 戦国の覇者

織田家の大名。
今川義元の大軍を少数の兵で討ち破り、美濃斎藤家を滅ぼすと、近畿・中部地方を支配して将軍を擁し天下に号令した戦国時代の覇者。
「破壊者」にして「改革者」、「狂気の天才」にして「第六天魔王」と呼ばれた風雲児で、戦国時代に旋風を巻き起こし、突如本能寺の炎に消えた。
織田信長、および織田家についての詳細は こちら をご覧下さい。


織田家 武将詰所

菅屋長頼

菅屋 長頼

(すがや ながより) 
信長馬廻衆

古くから信長に仕えていた「馬廻衆」の一人。
馬廻衆とは大将の側を守る兵士達の事で、つまり近衛兵のこと。
長頼はその馬廻衆の中でも上位であり、戦場での武勲はあまりないが、それは常に信長の近くに控えていたためのようだ。
織田家の重臣「明智光秀」が信長に反逆した「本能寺の変」の際、乱戦の中で討たれたと言う。

山内一豊

山内一豊

山内 一豊

(やまのうち かずとよ) 
「内助の功」の夫

織田家が浅井・朝倉家と戦っていた頃に仕官した武将。妻と共に2006年のNHK大河ドラマ「功名が辻」の主役となった。
目立った軍功はないが、各地を転戦し、秀吉の配下となって順調に出世を果たしている。
東軍・徳川側と西軍・豊臣側が戦った「関ヶ原の戦い」では東軍に参加した。
その際に軍議の席で「味方する以上は城と兵糧の全てを家康様に差し上げて戦場に挑む所存」と発言し、東軍に参加する武将に結束を促した。
関ヶ原の戦闘では特に功績はなかったが、戦前のこの発言が評価され、土佐20万石の大名となっている。

だが、どちらかと言うと、本人よりも妻の「千代」の方が有名だ。
一豊が織田家に仕官したばかりの頃、「馬揃え」というパレードの行事が開かれたが、彼には馬を買うお金がなかった。
しかし彼の妻は嫁入りの支度金をはたいて立派な馬を買わせ、それによって一豊は馬揃えに参加することが出来る。
そしてその話が信長の耳に止まり、重用されることになった。
のち、彼の妻は「内助の功」の代名詞となっている。
「関ヶ原の戦い」の際にも、西軍の情報と共に、東軍への参加を促す密書を笠のひもにねじ込んで一豊に届け、その決意を促したという。

可児才蔵

可児才蔵

可児 才蔵

(かに さいぞう) 
破滅を呼ぶ槍使い

「笹の才蔵」の異名を取り、戦場を渡り歩いた槍の名手。本名は「吉長」。
宝蔵院胤栄に師事した「宝蔵院流槍術」の使い手で、最初は斎藤家に仕えたが、斎藤家の滅亡後は織田家の重臣に仕えることが多かった。
仕えた主人が次々と滅びたため、負け戦も多かったが、常に生き残り、そして武勲を挙げ続けている。
「関ヶ原の戦い」では討ち取った敵の首を取らず、代わりに笹の葉を口にくわえさせ、それを目印とした話が有名だ。
彼が関ヶ原の戦いで討ち取った敵兵の数は、東軍ナンバー1である。

ただ、仕えたのが斎藤龍興柴田勝家明智光秀前田利家織田信孝豊臣秀次佐々成政福島正則と、利家以外はハデに失脚した人ばかりで、もはや呪いの武将状態である。

溝口秀勝

溝口 秀勝

(みぞぐち ひでかつ) 
越後新発田藩主

織田家の重臣「丹羽長秀」の配下として各地を転戦し、武功により城主となった人物。
その後、信長の直属部隊に戻されたが、「本能寺の変」で秀吉の援軍に向かい、そのまま秀吉配下の武将となっている。
羽柴秀吉柴田勝家が織田家の後継者問題で争った「賤ヶ岳の戦い」で活躍し、加賀で4万4千石の城主に任命された。

上杉家が会津に移転になると、上杉家の旧領であった越後に赴任。
そして「関ヶ原の戦い」で東軍・徳川側の味方を宣言し、上杉家の工作により起こった旧上杉派による「越後一揆」を鎮圧、その功績で越後の新発田藩の藩主となった。

佐久間盛政

佐久間盛政

佐久間 盛政

(さくま もりまさ) 
賤ヶ岳の猛将にして敗因

鬼玄蕃(おにげんぱ)と呼ばれた猛将。
織田家の重臣「柴田勝家」の甥で、その配下として加賀の戦いで奮戦し、一躍有名になったのだが・・・
「本能寺の変」の後に羽柴秀吉と柴田勝家が織田家の後継者を巡って争った「賤ヶ岳の戦い」において、秀吉が離れた隙に敵軍に突入、羽柴秀長中川清秀を破って敵の砦を陥落させるものの、柴田勝家の後退命令を無視してそこに居座り、戻ってきた秀吉軍に強襲されて孤立、柴田軍敗北の元凶となってしまった。
「佐久間盛政の勢いに乗じて柴田勝家も進むべきだった」という意見もあるが・・・
猪突猛進の代名詞のように言われることが多い。

前野長康

前野長康

前野 長康

(まえの ながやす) 
蜂須賀小六の弟分

元尾張の豪族(地方権力者)。蜂須賀正勝の舎弟(弟分)。
同じ尾張の豪族だった蜂須賀正勝と共に秀吉の配下となり、各地を転戦。
秀吉が天下を取った後、但馬(現在の兵庫県北部)出石城5万石の城主となる。
しかし豊臣家の跡継ぎ候補「豊臣秀次」が謀反の疑いで処刑された「秀次事件」に関与してしまい、親子共々切腹させられた。

堀秀政

堀秀政

堀 秀政

(ほり ひでまさ) 
オダケのQ太郎

「名人久太郎」と呼ばれた戦上手。
初めは斎藤家に仕えていたが、後に織田信長に仕えた。
戦の指揮に秀でていた一方、重要な使者や伝令役、連絡役なども勤めており、臨機応変な対応が出来た人物だったようだ。
大名や有力者との交渉役、および奉行職も歴任、伊勢神宮の式年遷宮なども取り仕切っている。
「本能寺の変」の後は豊臣秀吉の配下となり、ここでも多くの勲功を重ね「羽柴」の姓まで贈られた。
後に堀家は越後に30万石の領地を与えられている。

なお、幼名の「久太郎」は「きゅうたろう」と読み、秀吉からは「きゅうきゅう」と呼ばれていたという。


織田家 奥屋敷

森長可

森長可

森 長可

(もり ながよし) 
人間無骨の鬼武蔵

信長お気に入りの小姓(身の回りの世話をする子供)である「森蘭丸」の兄。
「鬼武蔵」の異名を取った猛将で、父の森可成と共に信長に仕え、各地の戦いに参加。
「人間無骨」と呼ばれた十文字槍を振り回す猛将で、関所の門番に止められても斬り捨てて押し通る傍若無人な武将だったが、十分な戦功を挙げていたため許されていた。
父の可成が浅井・朝倉軍との戦いで戦死してからは跡を継ぎ、武田攻めで活躍する。

武田家の滅亡後は信濃に赴任して上杉家と戦っていたが、「本能寺の変」によって孤立の危機に陥り、元武田家の木曽義昌に命を狙われる。
この時、森長可は自ら木曽義昌の城に向かい、勝手に上がり込んで飲み食いした挙げ句、息子を「養子にする」と言って勝手に連れ出し、あっけに取られて何も出来なかった木曽義昌を尻目に木曽領を脱出したという。

本能寺の変の後は羽柴秀吉に仕えるが、秀吉と家康が戦った「小牧・長久手の戦い」において、徳川軍の銃弾を眉間に受けて戦死。
家康は「鬼武蔵の死は千人の兵を討つに等しい」と語ったと言う。

原田直政

原田直政

原田 直政

(はらだ なおまさ) 
赤母衣衆

織田家のエリート部隊「赤母衣衆(あかほろしゅう)」の一員。
最初の名前は「塙 直政」であったため、ゲームや歴史物語ではこちらの名前で登場することの方が多い。
「塙」の読みは「はなわ」「はん」「ばん」の記録があって、はっきりしていない。

武田勝頼の騎馬軍団が織田家の鉄砲隊に撃破された「長篠の戦い」において、鉄砲奉行の一人となっている。後に京都の守護職も務めた。
本願寺が織田家に敵対した際、大阪にある石山本願寺城の攻撃部隊を任されるが、本願寺に味方していた雑賀の鉄砲集団の伏兵に遭い、さらに僧兵部隊の突撃も受けて総崩れとなり、一族と共に戦死した。

蜂屋頼隆

蜂屋 頼隆

(はちや よりたか) 
黒母衣衆

織田家のエリート部隊「黒母衣衆(くろほろしゅう)」の一員。
初期の経歴は不明だが、蜂屋家は土岐家の親類で、美濃衆として活動していたことから、元は斎藤家の武将だった可能性がある。
信長の上洛時には柴田勝家森可成と共に先行し、三好三人衆の岩成友通を攻めて京都周辺を制圧した。

以後も京都を中心に活動していたため、近畿を転戦する一方で、将軍・足利義昭の追放や、香木「蘭奢待」の切り取り、パレードの行事「天覧馬揃え」の実行などにも携わっている。
「本能寺の変」の時には織田信孝を総大将とする四国攻めの準備で大坂にいたため、巻き込まれずに済む。
その後は豊臣秀吉に仕え、重要拠点である敦賀(琵琶湖の北)の城主となるのだが、跡継ぎ不在のまま死去してしまい、蜂屋家は断絶となった。

蜂須賀正勝

蜂須賀正勝

蜂須賀 正勝

(はちすか まさかつ) 
秀吉の懐刀

元尾張の国人(地方領主)。「蜂須賀小六(ころく)」の名の方が有名だろう。
若年時代の秀吉を小物使いとして雇っていたという伝承がある。
元は斎藤家に仕えていたが、斎藤道三の死後は浪人集団となり、信長に平定される前の尾張で傭兵のようになっていた。
後に秀吉に誘われて織田家に仕官、秀吉の指揮の下、「蜂須賀党」を率いて尾張と美濃の間にある重要地「墨俣」に数日で城を築く。(墨俣一夜城)
その後も秀吉の側で武勇を発揮し、また調略(引き抜き工作)や交渉事などの知謀にも長け、秀吉の立身出世の原動力となった。
豊臣秀吉の天下統一後、阿波の国を与えられるが、息子に国を譲り、本人はその後も秀吉の側に近侍し続けたという。

生駒親正

生駒親正

生駒 親正

(いこま ちかまさ) 
豊臣三中老

秀吉に早くから仕えていた武将。
秀吉と共に各地を転戦、目立った武功の記録はないが、秀吉がしんがりを務めた「金ヶ崎の戦い」の際、信長が秀吉に付けた5人の勇士の一人になっており、高い武勇の持ち主であったようだ。
着実に出世を続けており、のちに備中(岡山県西部)高松城15万石の城主となっている。
築城の名人であり、彼が改装した「高松城」は城の中に軍港が設けられ、海軍基地になっていたという。

「関ヶ原の戦い」では西軍に組したため、責任を取って高野山に出家するが、子の生駒一正が東軍で活躍したため許されている。
堀尾吉晴中村一氏と共に、五大老と五奉行の仲裁役になったと言われる「豊臣三中老」を務めたとされるが、三中老という役職が存在したかどうかには異論もある。

加藤嘉明

加藤嘉明

加藤 嘉明

(かとう よしあきら) 
七本槍にして水軍大将

「賤ヶ岳七本槍」の一人である秀吉配下の名将。
父は三河武士で松平家(のちの徳川家)に仕えていたが、徳川家康が独立したばかりの頃に三河一向一揆に荷担、そのため一揆が敗れた後は諸国を放浪していたという。
のちに馬の行商の手伝いをしていたところ秀吉の目にとまり、小姓を経て直臣となる。

秀吉の四国攻めの際に小早川隆景の配下となり、そこで水軍の扱いを学んだようで、九州攻めや小田原征伐(北条攻め)では淡路水軍を率いる。
一度目の朝鮮出兵では九鬼嘉隆に次ぐ水軍の副将として参加し、二度目の朝鮮出兵でも各地を転戦、特に元均の水軍を攻めた巨済島の戦いでは、矢を受けながらも敵の船を次々と奪う奮戦を見せた。

だが、この朝鮮出兵で小西行長と方針で対立。
そのためか帰国後、関ヶ原の戦いのきっかけとなる石田三成暗殺未遂事件(七将襲撃)に荷担する。

冷静沈着な武将としても知られており、関ヶ原の戦いにおいて、東軍の勝ちが決まって多くの将兵が功を焦って敵を追いかける中、彼の部隊だけは陣形を保ち続けたと言う。
家臣の家族にも気を配り、城の工事の際には自ら炊き出しをして人夫に振る舞ったと言われている人徳家。
関ヶ原の頃には伊予20万石の大名となっており、のちに会津40万石を治めることとなった。

織田信包

織田信包

織田 信包

(おだ のぶかね) 
信長の弟の無野望

信長の弟。 通称「三十朗」。
信長の直臣として、主に一向一揆や雑賀衆など、本願寺の勢力と戦った。
織田信忠織田信雄に次いで、織田一門の3番目の地位とされており、信長の三男の織田信孝より上位であった。

「本能寺の変」の後は信長の次男である織田信雄に従っており、織田家の跡継ぎ争いで秀吉や信雄と対立していた滝川一益、織田信孝と戦う。
だが、織田信雄と秀吉が対立し始めると秀吉側に寝返り、以後は豊臣家の武将として活動した。
のちに豊臣家が北条家を攻めた「小田原攻め」の際、北条氏政とその子「北条氏直」の助命嘆願をしたため、秀吉の怒りを買って改易されたが、その後も大名に近い所領を与えられている。
信雄や信孝とは違い、信長の死後に自分がその跡継ぎになる野心は抱いていなかったようだ。

佐々成政

佐々成政

佐々 成政

(さっさ なりまさ) 
対秀吉の急先鋒

織田家のエリート部隊「黒母衣衆」の一員。当初は二人の兄と共に信長に仕えていたが、兄たちは早期に戦死した。
柴田勝家と共に大の秀吉嫌いだった人物として知られるが、秀吉はそれほど嫌っていなかったともいう。
美濃攻めで敵将の首を前田利家と譲り合い、らちがあかないので柴田勝家が変わりに取って信長にそれを報告、3人揃って褒められた逸話がある。
三段構えの鉄砲隊で武田家を打ち破った「長篠の戦い」では、その鉄砲隊の指揮を採った。
彼は早くから鉄砲の二段撃ちを行っていたようで、信長の三段撃ちはそれを元にしたものとも言われている。

後に柴田勝家の与力となり、そのまま本能寺の変をむかえ、勝家と共に秀吉と敵対するが、勝家と秀吉が戦った「賤ヶ岳の戦い」には参加できなかった。
勝家が敗れた後、秀吉側となった前田利家を攻めるも敗北。 秀吉と敵対した徳川家康に期待するが、家康は秀吉と講和してしまう。
そのため険しい冬の日本アルプスを越え、家康に秀吉との徹底抗戦を訴えにいくが(さらさら越え)、良い返事は得られず失意のまま帰宅。
結局、織田信雄の仲介を受け、無念のまま秀吉に従った。

その後、九州の肥後(熊本)の大名となる。
秀吉と敵対していた割にはかなり優遇されているが、大規模な反乱(肥後国人一揆)が起きてしまい、その鎮圧に失敗、周辺の大名が総出で対処する事態となり、その責任を取らされて切腹を命じられてしまった。

織田有楽斎

織田有楽斎

織田 有楽斎

(おだ うらくさい) 
有楽町の語源

信長の10才以上年下の弟。「利休七哲」の茶人の一人。 元の名は「織田長益」。
温厚な人柄で、武将には向かなかったが、信長の信頼は厚かった。
ただ「本能寺の変」で城から逃れ、岐阜へと逃げ帰ったため、「卑怯者」「臆病者」と呼ばれてしまう。

羽柴秀吉徳川家康が戦った「小牧・長久手の戦い」では、家康の味方をしていた兄の織田信雄を説得、秀吉との講和を結ばせることに成功する。
滝川一益佐々成政との交渉でも活躍し、その功績でのちに秀吉から「豊臣」の姓を与えられている。
「関ヶ原の戦い」は東軍・徳川側で参加、敵大将を討ち取る意外な奮戦を見せた。

関ヶ原の後は主に大坂城にいて、淀君の補佐をしつつ徳川家と豊臣家の仲介役を務めていたのだが、両者の関係は悪化、大坂の陣が勃発してしまう。
彼は穏健派として行動し、大坂・冬の陣のあとに講和の取りまとめを行おうとするが、強硬派の妨害によって失敗。
「誰も言うことを聞かん!」と怒って大坂城を退去した。

その後は出家して茶人となり、現在の東京千代田区に屋敷を構え、庵(茶室)を開く。
その場所は有楽原と呼ばれるようになり、現在の「有楽町」の語源となった。

浅野長政

浅野長政

浅野 長政

(あさの ながまさ) 
三成のライバルな豊臣五奉行

元は「浅野長吉」と名乗っていた。浅野家は織田家の武士であり、そこに婿養子として入っている。
羽柴秀吉の妻「ねね」は浅野家の養女で、浅野長政の妻「やや」とは義理の姉妹。
その縁で秀吉の配下となり、代官や奉行職などを歴任、目立った武功はないが検地や民政などに高い手腕を振るった。
豊臣の天下となると大国の城主を任されるようになり、後に「豊臣五奉行」の1人となる。
しかし豊臣五奉行と徳川家康が対立した際、彼が加担したと言われる「徳川家康暗殺」の計画が露見したため、謹慎処分となってしまう。

だが、彼は五奉行の筆頭である石田三成とは意見が合わないことが多く、息子の浅野幸長も三成とは犬猿の仲。
そのため「関ヶ原の戦い」では豊臣五奉行でありながら東軍・徳川側を支援、幸長の活躍もあって東軍の勝利後、和歌山38万石の大名となった。

五奉行の裏切り者のように言われることもあるが、石田三成が秀吉に「家康の用意した宿は危険なので泊まらないように」と言った際、「そんなことをする人ではない!」と反論、朝鮮出兵の際に秀吉が自ら朝鮮に行くと言い出した時も「直ちに船を作ります」と言った三成に対し、「狐にでも取り憑かれましたか? 殿下が渡海すれば世は乱れます」と反対。
早くから石田三成と対立していたエピソードが散見される。

石田三成とたき火に当たっていた時に家康が通りかかり、三成が頭巾をかぶったまま家康に挨拶しようとして、「失礼だから取れ」と言っても無視したとき、頭巾を奪い取ってたき火に放り込んだ話も有名。

村井貞勝

村井貞勝

村井 貞勝

(むらい さだかつ) 
京都所司代

織田家の古くからの重臣。 織田家における奉行の筆頭。
信長の弟「織田信行」が林通勝柴田勝家と反乱を起こしたときには和平交渉を務め、以後、重要な交渉役や使者などを任された。
将軍「足利義昭」を迎える使者を務めて以後は京都の奉行となり、朝廷対策や京都における政務を行っている。
宣教師ルイス・フロイスも、彼の事を「尊敬できる異教徒の老人」「都の総督」と報告書に記載している。
「本能寺の変」の際、信長の子「織田信忠」と共に戦い、戦死。

佐久間信盛

佐久間信盛

佐久間 信盛

(さくま のぶもり) 
クビになった退き佐久間

織田家の古くからの重臣。 織田家の相続問題で信長を支持して信任を得た。
織田家の大きな戦いにはほぼ従軍しており、しんがりを得意としていたため「退き佐久間」の異名を持った。
しかし本願寺の居城である「石山本願寺城」攻めでは苦戦を強いられ、そのまま5年間も戦線をこう着させてしまう。
雑賀攻めの総大将を任されるも、これも失敗。
結果、その責任を取らされて織田家をクビになってしまった。

その際に信長が彼に送った「折檻状」には、要約するとこう書かれている。
「お前は石山本願寺城を5年も包囲してたくせに何の成果もない。 相手が強いなら調略などをすればいいのにそれもしない。 やり方が解らなければ聞きに来ればいいのに聞きもしない。 ケチで家臣にロクな俸禄を与えないから優秀な部下が集まらず、部下にフォローされる事もない。 お前は怠慢で能無しだ」
・・・そこまで言うかというぐらい、ボコボコである。

河尻秀隆

河尻秀隆

河尻 秀隆

(かわじり ひでたか) 
黒母衣衆筆頭

織田家の古くからの重臣。 エリート部隊「黒母衣衆」の筆頭。一時は織田信友にも仕えていた。
信長の弟「織田信行」が謀反を起こした際には信行の暗殺を行っている。

歴戦の武士であり、特に対武田戦線で活躍、武田家滅亡後は甲斐の国を任された。
しかし武田家との戦いで容赦ない攻撃や処刑を行っており、占領後も「武田残党狩り」などを実施、武田家時代の風習なども認めなかったため、武田家を慕う将兵や民衆から恨みを買っており、「本能寺の変」の際に大規模な反乱を起こされて戦死した。
本能寺の変の直後、徳川家康からの使者を斬り捨て、その使者の家臣が反乱を煽動したという出来事があったため、反乱が家康の策謀だとする説もある。

金森長近

金森長近

金森 長近

(かなもり ながちか) 
美濃の出世頭

織田家の古くからの家臣。元は「金森可近」という名で、美濃の土岐家の一族だったが、内紛に巻き込まれて尾張に逃れ、織田家に仕えたらしい。
美濃攻略戦で勲功を上げ、エリート部隊「赤母衣衆」の一員となった。
そして武田家と戦った「長篠の戦い」で敵の砦を落とす活躍を見せ、その功績で信長から「長」の字を与えられて「長近」に改名する。

越前(琵琶湖の北方)で起こった一向一揆の鎮圧でも活躍し、その地方の城主となって、のちに織田家の北陸方面軍を率いた柴田勝家の与力(部下)となる。
しかし秀吉と柴田勝家が戦った「賤ヶ岳の戦い」では、前田利家と共に戦線離脱、その後は秀吉の配下となった。

のちに飛騨(岐阜県北部)の姉小路家を滅ぼし、飛騨の大名となっている。
関ヶ原の戦い」では徳川方の東軍に参加した。
常に勝ち組に鞍替えしているのは、運が強いのか、時勢を見る目があったのか。

林通勝

林通勝

林 通勝

(はやし みちかつ) 
おじい役 B

信長の父「織田信秀」の命によって信長の筆頭家老となり、初期の信長を補佐し続けた織田家の旧臣。
しかし信長の「大うつけ」な振る舞いに失望し、柴田勝家らと共に信長の弟「織田信行」の擁立を図って信長と戦った。
合戦に敗れた後、再び信長に仕えたのだが、後年、その謀反を理由に突然追放された。
24年も経ってからの措置であり、謎の多い追放であるが、ロクな手柄もないまま重臣筆頭の地位にあったのは、実力主義の信長としては気に入らなかったのだと言われている。
信長を扱ったドラマや映画などでは、平手政秀と共に信長のヤンキーな振る舞いに頭を悩ませるお守役、といった役どころが事が多い。

なお、近年になって彼の名は「林秀貞」が正しく、「通勝」は松永久秀の家臣の林通勝との混同であるという説が出て来ているが、まだ異説の類いである。

前田玄以

前田玄以

前田 玄以

(まえだ げんい) 
僧籍の豊臣五奉行

元比叡山の僧侶。しかしキリスト教に対しても好意的だった。
後の「豊臣家五奉行」の一人。
信長の子「織田信忠」に仕え、「本能寺の変」の際には信忠の命で京都を脱出、信忠の子供で織田家の跡取り候補である「三法師」を保護して尾張に逃れた。
その後、秀吉の配下となって京都の奉行職などを歴任、京都の政務を取り仕切った。

豊臣家の家臣が分裂し始めると、五奉行でありながら中立的な立場を取り、その沈静化に尽力。
関ヶ原の戦い」では徳川家康の上杉征伐に反対し、石田三成の家康討伐の檄文に署名する一方で、石田三成の挙兵を家康に報告し、西軍の出陣要請は病気を理由に断った。
結果として、争いを収めようとした行動を評価されて本領安堵(領地を保証)され、丹波亀山の初代藩主となっている。

池田恒興

池田恒興

池田 恒興

(いけだ つねおき) 
織田家四家老

織田信長の乳兄弟。 幼い頃から信長に仕えており「桶狭間の戦い」でも武勲を挙げている。
各地を転戦したが、佐久間信盛への折檻状に「池田恒興は俸禄が少なくても頑張ってるのに、お前ときたら・・・」と書かれているので、身分は高くなかったようだ。
だが、信長や他の家臣達からの信望は厚かった。

摂津で起こった荒木村重の謀反の鎮圧で功績を挙げ、そのまま摂津に所領を得る。
その後の武田攻めは当初は参加していたものの、なぜか国に帰るよう指示され、のちに秀吉の救援に向かうように言われた。
そのおかげで「本能寺の変」では秀吉の光秀討伐軍にすぐに合流でき、戦場にいち早く到着する。
そして秀吉と明智光秀が戦った天王山の戦い(山崎の合戦)で勝敗を決定付ける側面攻撃を成功させ、信長死後の織田家の今後を相談した「清洲会議」で「織田家四家老」の一人に任ぜられた。

その後も秀吉派として戦っていたが、秀吉と徳川家康が戦った「小牧・長久手の戦い」において、迂回作戦を実行するも徳川軍の急襲を受け、戦死した。

織田信行

織田信勝

織田 信行

(おだ のぶゆき) 
信長の弟にしてライバル

織田信長の弟。 信長の初期のライバル。
織田家は信長が家督を継いだが、「大うつけ」な振る舞いの多かった信長は人から白い目で見られる事が多く、一方で信行はまじめだったため、信行の方が家臣たちの受けがよかった。
そのため、林道勝柴田勝家らの重臣、他の反信長派の勢力などに擁立され、信長に対しクーデターを起こす。
しかし信長の素早い軍事行動によって鎮圧され、結果として信長の大将としての才覚を示す結果となった。
その後、さらに2度目の謀反の機会をうかがうが、信長に降った柴田勝家によって見破られ、河尻秀隆の手の者により謀殺される。

なお、近年の研究で、彼の名は「織田信勝」が正しく、「信行」は間違いだという説が有力になっていた。
しかし最近になって、彼は他にも「達成」「信成」など複数の名前を使っており、「信勝」もその一つに過ぎないことが明らかになった。
このため昨今は再び「織田信行」が使われることが多くなっている。

コーエーのゲームでは、作品によって表記が違う。
2003年にスタートした「信長の野望 Online」では「信行」が使われているが、2004年に発売された「太閤立志伝V」では「信勝」になっている。
以後、信長の野望の本編作品では2017年の「信長の野望・大志」でも信勝が使われているが、2010年からのソーシャルゲーム「100万人の信長の野望」では信行だったりする。


織田家 中庭

木下秀長

木下秀長

木下 秀長

(きのした ひでなが) 
秀吉の栄達を支えた兄

羽柴(豊臣)秀吉の弟。 後の「羽柴秀長」(豊臣秀長)。 当初は「長秀」と名乗った。
「木下」という姓は秀吉や秀長の農民時代の苗字であり、織田家に仕官する前は「小一郎」という名で、仕官後も通称となっている。
秀吉に誘われて織田家に仕え、以後、秀吉を戦時・平時を問わず補佐した。
「本能寺の変」の後の明智光秀との戦いでは、戦場となった「天王山」をいち早く占拠し、敵の側面攻撃も阻止して秀吉軍の勝利に貢献。
さらに四国の大名「長宗我部家」への進攻では総大将を勤め、その功績で大和を中心とする近畿100万石の大名となる。

政治家として優れ、温厚な人柄で武将達からの人望も厚く、誰からも慕われた人徳家だった。
九州の大名「大友宗麟」が大坂城を訪れた際には「内々のことは利休(千利休)に、公儀のことは私へ」と案内している。
豊臣家の「宰相」と称され、運営になくてはならない人物だったが、そのためか彼の死後、豊臣家は家臣同士の対立が深まっていく事になる。

ちなみに、1996年のNHK大河ドラマ「秀吉」の原作は、秀吉ではなく秀長が主人公だった。
秀長の死後、彼が蓄えた部屋いっぱいの黄金を見た秀吉が「こんなもののために…!」というシーンがあるが、実際に2間(3.6m)四方の部屋の中に金銀がぎっしりと蓄えられていたという。
彼の蓄財が豊臣家の活動に役立っていたことは確かだが、九州出兵の際、参加した大名に兵糧を高く売って儲けようとしたときは、さすがに秀吉に止められた。

前田慶次

前田慶次

前田 慶次

(まえだ けいじ) 
一夢庵風流記

本名「前田 慶次郎 利益」。 滝川家からの養子で、前田利家は叔父。 ただし異説もある。
マンガ「花の慶次」の主人公で、作品内では北斗の拳のような超破壊的な強さを誇っていた。
「かぶき者」と称された変わり者で、ハデな格好で練り歩き、奇行が多く、無類の腕っぷしを持っていたが、一方で茶道や和歌、古典芸術に通じた教養人でもあった。
これは幼少の頃に受けていた、武将としての英才教育の賜物であったようだ。

「本能寺の変」の頃、滝川一益の軍勢にいて、真田信幸に信長の死を伝えたという。
「小牧・長久手の戦い」の頃には前田軍にいて、能登の「末森城」に攻め寄せてきた佐々成政の軍勢を迎撃した。

しかし後に前田利家と不仲になり、利家を騙して水風呂に入れて出奔、京都で奇行を繰り返した後、上杉家の「直江兼続」との親交から上杉家に仕官。
関ヶ原の戦いの裏で行われた上杉家と伊達・最上連合軍との戦いでは先陣として戦い、退却時にはしんがりを勤めている。
通称「穀蔵院怱之斎(こくぞういんひょっとさい)」、「大ふへん者」。


織田家 城内

羽柴秀吉

羽柴秀吉

羽柴 秀吉

(はしば ひでよし) 
天下人

後の「豊臣秀吉」。 天下統一を成し遂げた「天下人」。
1996年のNHK大河ドラマ「秀吉」の他、多くの軍記物語の主人公。 俗称「サル」。 信長曰く「ハゲネズミ」。
元は尾張の農民「木下藤吉郎」だったが、草履取りとして織田家に仕えて以来、その才覚を発揮してトントン拍子に出世する。
ただ、こうした立身出世を妬んでか、柴田勝家滝川一益らの重臣は、秀吉の事をとにかく嫌っていた。
美濃攻めの際には戦略上の重要地「墨俣」に、蜂須賀正勝と共に短期間で城を建てて周囲を驚かせた。(墨俣一夜城)
美濃・伊勢攻めでは次々と敵の武将を調略(寝返り工作)し、また浅井家の寝返りによって織田軍が窮地に陥った「金ヶ崎の合戦」では、最後まで戦場に残ってしんがり役を務めた。(金ヶ崎の退き口)

その後、中国地方侵攻の軍団長に任命されるが、毛利家との交戦中に「本能寺の変」が起きて信長は急死。
その際、毛利家と手早く講和し、昼夜通してわずか2日で近畿地方に駆け戻り(中国大返し)、信長を討った明智光秀と対峙、これを「山崎の合戦」(天王山の戦い)で撃ち破る。
さらに、織田家の今後を決める「清洲会議」で柴田勝家と対立すると、翌年の「賤ヶ岳の戦い」で勝家に勝利して、織田家の実権を掌握した。

その後に徳川家康と「小牧・長久手の戦い」で対峙するが、これは後に和睦。家康は秀吉に臣従する。
四国の「長宗我部家」、九州の「島津家」、東北の「伊達家」なども臣従させ、従わなかった「北条家」の小田原城を包囲、これを滅ぼし天下統一を果たす。
そして官職の最高位「関白」の役職に就任し「天下人」となった。

「本能寺の変」の後の、秀吉の天下取りについては こちら で詳しく解説している。

前田利家

前田又左衛門

前田 犬千代

(まえだ いぬちよ) 
かぶき者の苦労人

「前田利家」のこと。 2002年のNHK大河ドラマ「利家とまつ」の主人公。 通称「槍の又左」。
「犬千代」とは利家の若い頃の呼び名。 精鋭部隊「赤母衣衆」の一員。
若年時代は信長と一緒に奇抜な格好で村を歩き、派手な槍を持ってやたらケンカを売っていた「かぶき者」だったが、ヤンキー過ぎて家中の者を2度も切り捨てたりしたため、一度は織田家を追い出されている。
しかし「桶狭間の戦い」や斎藤家との戦いに勝手に参加して武勲を上げ、帰参が認められた。

羽柴秀吉とも柴田勝家とも仲が良く、秀吉とは家も近所で、家族ぐるみの付き合いをしていた。
一方で、柴田勝家を「オヤジ殿」と言って慕う様子は、歴史小説やドラマの定番である。

だが、柴田勝家の配下として北陸で転戦中に「本能寺の変」が起こり、秀吉と勝家が戦った「賤ヶ岳の戦い」では両者の板ばさみにあってしまう。
結局、戦いには参加せず戦場から離脱し、その後は勝った秀吉に従うことになる。

以後は秀吉の片腕として活躍し、その人徳で多くの武将から慕われ、後に豊臣家の重鎮となり、後の「前田家・加賀百万石」の基礎を築く。
この頃は常時ソロバンを持ち歩き、取り引きから合戦の陣立てまで計算しながら行う計算高さを見せていた。
晩年、分裂する豊臣家臣団を仲裁し、権力を拡大する徳川家康を牽制していたが、関ヶ原の前年に病死。 調停役を失った豊臣家の内紛は決定的となる。

明智光秀

明智光秀

明智 光秀

(あけち みつひで) 
敵は本能寺にあり

戦国最大の事件「本能寺の変」で「織田信長」を討った張本人。 2020年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公。
美濃の元国主「土岐家」の一族でもある。 信長曰く「キンカ頭」。
元は斎藤家の家臣で、その後に朝倉家に仕官、将軍「足利義昭」の付き人となって信長に謁見し、その際に織田家に誘われた。
明智家の記録には、朝倉家には鉄砲の腕前を買われて仕官したと書かれている。

知性派の武将であり、調略や内政などで数々の功績を上げる一方、戦場での部隊指揮にも長け、秀吉と並ぶ多くの勲功を上げている。
しかし1582年、織田信長に突如反逆、京都の「本能寺」に宿泊していた信長を急襲し、これを討ち果たす。
だが、味方してくれる者は少なく、中国地方から速攻で戻ってきた秀吉の軍勢に山崎の合戦(天王山の戦い)で敗れ、落ち延びる途中に落ち武者狩りに遭い、死亡した。

彼が「本能寺の変」を起こした理由は諸説あるが、正確には不明だ。
家康をもてなす用意を突如解任されて侮辱された、本国を突然召し上げられてしまった、母を人質に出して講和した相手を信長が切り捨てたため母が殺されてしまった、などの様々な理由・説がある。
ただ根本的に、自由奔放な信長とマジメな彼では、性格が合わなかったと言われている。
「比叡山焼き討ち」や「一向宗門徒の大虐殺」なども、それに参加した彼の中で、信長に対する恐怖を芽生えさせたのかもしれない。

「本能寺の変」については こちら で詳しく解説している。

滝川一益

滝川一益

滝川 一益

(たきがわ かずます) 
国より茶器が欲しい武闘派

甲賀の出身であり、幼少時代は甲賀の忍びの里で槍の修行をしていたという。
堺で鉄砲の扱いも学んでいたと言われており、織田家には足軽として仕官した。
「進むも滝川、退くも滝川」と呼ばれた猛将で、常に先陣、およびしんがりを務め、戦場での槍働きで一気に織田家の家臣にまで出世した。
柴田勝家と仲が良く、共に各地を転戦。また九鬼嘉隆と共に水軍を率い、海上からの攻撃でも活躍している。鉄甲船の建造にも携わったという。

武田攻めの先鋒となり、武田家滅亡後は上野と信濃の国主となっている。
ただ、滝川一益はこのとき「珠光小茄子」という茶器を欲しがっていて、それは与えられずガッカリしていたので、「国より茶器を欲しがった武将」として、当時の茶器の価値を語る際によく引き合いに出される。

そして「本能寺の変」の後は、一転して転落人生となる。
本能寺の変の混乱に乗じて攻めてきた北条家に敗れて本国に逃げ帰り、その後、秀吉と勝家が対立すると柴田勝家に味方するが、勝家が「賤ヶ岳の戦い」で敗北したため秀吉に降伏。
秀吉と家康が戦った「小牧・長久手の戦い」では秀吉側として参陣するが、徳川軍の攻撃によって撃退され、「捕虜を返せ」との要求にあっさり応じて評判を落とした。
結局、秀吉によって領地を没収され引退し、越前で細々と暮らしたと言う。
ただ、茶会の亭主を務める日々は、彼にとっては満足だったかも?

丹羽長秀

丹羽長秀

丹羽 長秀

(にわ ながひで) 
織田軍に不可欠な裏方

織田家の家臣団のナンバー2。 父は斯波家の家臣だった。
柴田勝家と並ぶ織田家の二大宿老だが、猛将の勝家とは異なり、彼は工作や補給などの手腕に長けていた。
織田家の各地の戦いに参加した優秀な指揮官である一方、合戦前の補給線の確保や陣の構築、物資調達などに活躍。
信長の居城「安土城」の築城の際にも、材料や職人、人足の手配を素早く的確に行い、短気な信長を満足させるスピードで城を完成させ褒美を賜っている。

織田家の武将を評した「木綿藤吉、米五郎左、掛かれ柴田に、退き佐久間」という言葉があるが、「米五郎左」は丹羽長秀のことで、「米のようになくてはならない」という意味だという。

「本能寺の変」では秀吉と共に明智光秀を討ち、織田家の今後を決める「清洲会議」でも秀吉の味方をした。
しかしこれは、純粋に「その方が織田家のためになる」と考えてやった事であり、そのため秀吉がその後、織田家の他の跡継ぎ候補を攻撃して「豊臣家」の支配を強め始めると、秀吉との考えのズレを感じ始めるようになる。

結局その後、彼は城に引き篭もって呼び出しにも応じなくなり、やがて病に倒れ、自刃してしまった。
ただ近年、寄生虫に悩んでおり、その苦痛で腹を刺して死んだという説も出て来ている。

平手政秀

平手政秀

平手 政秀

(ひらて まさひで) 
おじい役 A

信長の父「織田信秀」の代からの織田家家臣。 信長の傅役(お守役、後見役)。
信秀の命令で信長の「元服」(成人の儀式)や「武者始め」などの後見を務め、信長の教育係でもあった。
織田信長と斎藤道三の娘「帰蝶」の婚姻を立案したのも彼だという。
しかし、いつまでたっても信長が「大うつけ」な振る舞いをやめないので、それを命を賭して諫めようとして、自刃した。

信長を扱ったドラマや小説では、暴れ放題で言うことを聞かない信長にいつも困っている「おじい」役が定番になっている。

柴田勝家

柴田勝家

柴田 勝家

(しばた かついえ) 
秀吉に敗れた戦国随一の猛将

織田家の家臣団の筆頭で、織田家随一の猛将。
徹底的な秀吉嫌いで、秀吉のライバルでもある。

信長が家督を継いだばかりの頃は、林道勝と共に信長の弟「織田信行」を擁立しようとして信長と敵対し、信長本陣を崩壊寸前に追い込むが、織田信長に敗れた。
以後、信長の忠実な腹心となり、大将として各地を転戦。大きな戦功を挙げ「猛将」として知られるようになる。
南近江(琵琶湖の南)の六角家を攻めた際には、六角軍に包囲されて水を絶たれるものの、最後に残った瓶の水を部下に与えて瓶を割り、「渇きで死ぬか討ち死にするか二つに一つ!」と叫んで打って出て、六角軍を討ち果たした。
以後「瓶割り柴田」の異名を持つようになる。

その後、織田家の「北陸侵攻軍」の軍団長となり、前田利家佐々成政と共に加賀・能登・越中の北陸地方を攻略していくが、上杉家の重要拠点であり、越後への入口でもある「魚津城」落としたところで、明智光秀の謀反「本能寺の変」を知る。

この時、距離的には秀吉よりも光秀軍に近い位置にいたものの、上杉軍から追撃を受ける危険があって動けず、秀吉に光秀討伐の先を越されてしまう。
その後、織田家の今後を決める「清洲会議」で秀吉と対立するが、他の織田家の家臣をうまく味方をつけることができず、冬の雪で動けない間に会議で領土としていた近江の地を取られ、地理的にも不利になる。
それでも織田家の跡継ぎ候補「織田信孝」を擁立するために「滝川一益」と協力して秀吉に対抗したが、「賤ヶ岳の戦い」で秀吉軍に敗れ、自刃した。


尾張のその他の人々

お市

(おいち) 
信長の妹、悲劇のヒロイン
織田市

信長の妹。 兄に負けない気丈な性格で、「東国一」と称されたほどの美貌の持ち主であったと言う。
政略結婚により近江の「浅井長政」に嫁ぎ、仲睦まじく暮らしていたが、浅井家が織田家に敵対して滅ぼされたため、彼女も織田家に戻っている。
この浅井家が織田家を裏切った際、兄・信長に袋の両端を紐でくくった小豆を陣中見舞いとして送り、織田軍がすでに「前も後ろも塞がれている」事を暗に伝えたと言う。
その後、柴田勝家の妻となるが、勝家が「賤ヶ岳の戦い」で秀吉に敗れると、運命を共にした。

秀吉がお市にずっと片思いする展開は歴史ドラマの定番である。
ただ、お市と浅井長政の息子「万福丸」が秀吉に捕まって殺されており、信長の命令ではあったが、それで秀吉を嫌っているという展開も定番。
(ただし万福丸については、お市が産んだ子ではないという説もある)

お市と浅井長政の娘「茶々」「」「」の三人娘は織田家に引き取られており、茶々は秀吉の側室「淀」となって豊臣家の跡継ぎ「豊臣秀頼」を生み、豊臣家を背負った。
初は京極家の跡継ぎ「京極高次」に嫁ぎ、関ヶ原の後、豊臣家と徳川家の仲介に尽力する。
江は2011年のNHKの大河ドラマ「江 ~姫たちの戦国~」の主人公で、2度の離縁の後、徳川幕府の二代将軍・徳川秀忠に嫁いで多くの子を儲けている。

お濃

(おのう) 
マムシの娘にして信長の妻、さらに光秀のいとこ
帰蝶

斎藤道三の娘「帰蝶」のこと。 政略結婚で信長に嫁いだ。
美濃から来た姫であるため、織田家では「お濃の方」や「濃姫」と呼ばれていた。
美濃の明智家の出身であり、明智光秀とはいとこの関係にある。
織田家に嫁ぐ際、父の道三から短刀を渡され、「信長が噂通りのうつけ者ならこの刀で殺して来い」と言われたが、彼女は「この刀はいずれ父上に向けられるかもしれません」と答え、道三は「さすがはワシの娘」と言い喜んだという逸話がある。
それぐらいしかエピソードのない女性だが、信長の妻で光秀のいとこなのに加え、帰蝶というキャッチーな名前で、記録が少ないおかげで脚色しても歴史に相反しないため、ドラマ・ゲーム・漫画などで引っ張りだこであり、様々な描かれ方がされている。

斯波 義銀

(しば よしかね) 
信長に追い出された尾張守護
斯波義銀

戦国時代初期に尾張を支配していた「斯波家」の末裔。
斯波家は室町将軍「足利家」の有力一門で、「将軍と同格」と言われたほどの名家だが、信長が生まれた頃にはすでに尾張の実権を織田家に奪われていた。
父である尾張の斯波家の頭首「斯波義統」が織田信友に襲われ、居城の「清洲城」も奪われたため、信長に救援を求め、これに応じた信長に城を奪還して貰った。
しかしその後、義銀は同じ足利一門である今川家に内通、今川軍を海から引き入れようとしたため、信長に追放され、勢力としての斯波家(斯波武衛家)は滅亡した。
結果的に清洲城は、織田信長の居城となっている。

織田 信友

(おだ のぶとも) 
尾張平定前の信長の対抗者
織田信友

信長が織田家の家督を継いだばかりの頃、織田家はいくつかの勢力に分裂していた。
その一派の当主で、信長に反乱を起こした信長の弟「織田信行」を支援するなどした。
名目上の尾張の守護「斯波義統」を下克上で暗殺し、その居城を奪取するが、信長に攻められて敗北。
さらに信長の叔父で、信長支持だった「織田信光」により謀殺された。

服部 友治

(はっとり ともはる) 
長島一向一揆の大将?
服部友貞

ゲーム(信長の野望 Online)では元々、尾張南部の郊外に「服部友貞」という武将が登場していた。
彼は伊勢と南尾張に勢力を持っていた豪族(地方権力者)であり、一向宗門徒でもあった「服部党」を率いる頭目で、「斯波義銀」が今川家に内通した際には、彼がその手引きをしたという。
今川義元の上洛の際には織田家を尾張の南から攻め立てた。
織田家との戦いの中で謀殺されたと言うが、その後も服部党は伊勢長島で起こった一向一揆に参加し、織田軍と戦っている。
この時、斎藤龍興など、信長に敗れていた多くの武将が「服部党」に身を投じていたという。

そして、ゲーム(信長の野望 Online)で服部友貞が本願寺に配置替えになったあと、代わりに登場するようになったのが「服部友治」なのだが・・・ 彼の経歴は不明。
史実で長島一向一揆に参加していた服部党は「服部政光」という人で、一揆の後に服部党を継いだ人は「服部正友」という。


徒党員として登場する武将

沢彦 宗恩

(たくげん そうおん) 
織田信長 徒党員  信長と岐阜の名付親
沢彦宗恩

織田信長の父「織田信秀」の時代から織田家と深い交流のあった禅僧。
幼少時代の信長の教育係であり、信長に帝王学や兵学を授けたと言われている。
「信長」という名前の名付け親でもあるようだ。

美濃の大名「斎藤家」を滅ぼし、稲葉山城 を居城とした織田信長は、ここを天下の拠点にしようと考えて沢彦宗恩に良い名がないかと尋ねた。
この時に彼は、800年続いた中国の「周」の国の王が「岐山」という山で挙兵したことと、「曲阜」という場所で孔子が生まれたことを告げ、「岐阜」の名を薦めたと言う。
さらに信長の「印」として「天下布武」の四字を授けている。

織田 信孝

(おだ のぶたか) 
織田信長 徒党員  反秀吉の信長後継候補
織田信孝

織田信長の三男。信長の死後、その後継者を巡って争った跡継ぎ候補の一人である。
政略的な理由により伊勢地方の有力者「神戸家」に養子に入っていたため「神戸信孝」とも名乗っていた。

「本能寺の変」の直前、彼は四国攻めの総大将に任命され、丹羽長秀と共に準備を進めていた。
本能寺の変によって織田信長と、信長の長男で織田家の跡継ぎだった「織田信忠」が明智光秀により討たれると、兵を率いて秀吉の軍と合流し、共に光秀軍と戦う。
しかし、その後に織田家の重臣によって開かれた、織田家の跡継ぎを決める会議「清洲会議」では、自分や兄の「織田信雄」ではなく、まだ幼い織田信忠の子供「三法師」が秀吉によって織田家の跡継ぎに決められる。

この動きに反発した織田信孝は、秀吉と対立する柴田勝家と組み、二度に渡って岐阜で挙兵。
しかし秀吉側に協力した兄「織田信雄」に攻め込まれ、頼みの柴田勝家も秀吉に敗れ、自刃した。

森 蘭丸

(もり らんまる) 
織田信長 徒党員  戦国のアイドル
森蘭丸

今ではすっかりメジャーになった、信長に仕える美少年。
織田家の家臣「森可成」の三男で、兄には「森長可」がいる。乳母は「せん」だという。

信長のお気に入りの小姓(身の回りの世話をする子供)で、容姿端麗で品行方正、「他に人なきが如く」信長は彼を可愛がっていたと言う。
頭がよく機転が効き、例えば信長に「あっちのふすまを閉めてこい」と言われ、その場に行くとふすまが閉まっていたときは、一度開けてからピシャッと音が鳴るように閉めて戻ってきたという。
だが、彼が小姓になって5年、城も与えられてこれからという段階で、「本能寺の変」により主君・信長と共に明智光秀の謀反によって討たれた。
まだ18才だったという。

太田 牛一

(おおた ぎゅういち) 
織田信長 徒党員  「信長公記」著者
太田牛一

信長の軍記である「信長公記」を始めとする、多くの軍記物の著者として有名な人物。
元は足軽だったが、弓の腕前を買われて信長の直臣となり、各地の合戦で活躍した。
そして、学問好きで文書の作成に優れていたため、信長の秘書を務めるようになり、各地の代官にも就任している。
「本能寺の変」で信長が死んだ後は隠棲していたが、秀吉に取り立てられ、検地(土地を調べて税金を決める事)を行う奉行に就任。
秀吉の死後は豊臣家の跡継ぎ「豊臣秀頼」に仕えつつ軍記物の著作に励み、「信長公記」「安土日記」「太閤さま軍記のうち」など、多くの歴史書を残した。

兼松 正吉

(かねまつ まさよし) 
織田信長 徒党員  ぞうりが家宝
兼松正吉

尾張の下級武士の子であったが、合戦での勲功により出世していった。
朝倉家との戦いで、彼は手柄を立てて戻ってきたが、裸足だったので足は真っ赤になっていた。
そのため、見かねた信長は持っていた「足半(あしなか。山歩きに適した半分ほどのサイズの草履)」を彼に与えた。
彼は貰った足半を家宝にし、それは今でも伝えられているという。

その後も各地を転戦し、一騎打ちの逸話も多い。
「本能寺の変」の後は信長の子「織田信雄」や豊臣秀吉に仕え、豊臣家の親衛隊「黄母衣衆」の一員にもなっている。
関ヶ原の戦いの後、徳川家の武将に誘われて、松平家の家臣となった。

加藤 清正

(かとう きよまさ) 
羽柴秀吉 徒党員  名将・肥後の虎
加藤清正

「虎退治」の逸話で有名で、名馬「帝釈栗毛」に乗り、片方の刃が折れた「片鎌槍」をトレードマークとする人気の武将。
秀吉と同郷の出身で、彼の母と秀吉の母はいとこであったらしい。幼名は「夜叉丸」と「虎之助」で、鍛冶屋の子。

秀吉の配下として活躍し、特に柴田勝家と秀吉が戦った「賤ヶ岳の戦い」では大きな手柄を立て、「賤ヶ岳七本槍」の一人と讃えられ肥後(現在の熊本県)の城主となる。
だが、肥後には秀吉配下の重臣「小西行長」も領地を与えられており、小西行長がキリシタン、加藤清正が熱心な仏教徒であったため、犬猿の仲になっていく。

朝鮮出兵が始まると加藤清正は主力として活躍、朝鮮軍を各地で打ち破って2人の王子を生け捕りにし、さらに「蔚山城の戦い」で明(中国)の数万の大軍を相手にわずかな兵で防ぎ、味方の救援を受けて反撃、明・朝鮮の兵から「鬼将軍」と呼ばれ恐れられた。
また、この頃に日本軍を悩ましていた人食い虎を退治し、それが「虎退治」の逸話として語り継がれている。(別の人物の逸話を元にした創作とする説もある)
だが、朝鮮出兵の最中に小西行長とはさらに険悪になり、さらに小西行長と仲の良かった豊臣家の政務のトップ「石田三成」とも意見が対立する。

秀吉の死後、石田三成を嫌う者たちと共に石田三成の暗殺未遂事件を起こすが失敗、その後は石田三成と対立する徳川家康に協力し、石田三成(西軍)と徳川家康(東軍)の戦いとなった「関ヶ原の戦い」が起こると、九州の肥後で西軍に味方しようとする諸勢力を牽制、この功績で肥後の国全土を与えられ52万石の大名となった。
その後も豊臣家と徳川家の仲を取り持つ活動を行っている。
武闘派として知られる武将だが、築城や治水作業にも秀でており、彼の築いた熊本城は日本三大名城の1つに数えられている。

福島 正則

(ふくしま まさのり) 
羽柴秀吉 徒党員  秀吉子飼いの猛将
福島正則

秀吉配下の猛将。秀吉と同郷の出身で、彼の母は秀吉の母の妹。
9才の頃に秀吉の小姓となり、加藤清正と共に可愛がられていた。 幼名は「市松」で、桶屋の子。
子供の頃から怪力の持ち主で、各地の戦いで功績を挙げ、トントン拍子に出世していった。
彼は常に先陣にいて真っ先に敵に突っ込んでいくタイプで、他の者に手柄で先を越されると、地団太を踏んで悔しがったという。
秀吉の軍勢と柴田勝家の軍が戦った「賤ヶ岳の合戦」では敵将を討ち取る手柄を立て、「賤ヶ岳七本槍」の筆頭に上げられた。

各地の合戦で活躍するが、豊臣家は次第に「武断派」と「文治派」に分かれて対立するようになっていく。
そして秀吉が死に、仲裁役をしていた前田利家も死去すると、ついに彼は加藤清正など「七将」の武断派の武将たち(実際は10人)と共に、文治派のトップ「石田三成」を暗殺しようとする。
この暗殺は未遂に終わってしまうが、三成はこの責任を取って謹慎、これにより徳川家康が豊臣政権下でさらに大きな力を持ち、世は石田三成(西軍)VS 徳川家康(東軍)の「関ヶ原の戦い」へと向かっていく。

関ヶ原の戦いで福島正則は徳川家康に協力し、各地の大名が集まった席上で「これは豊臣家との戦いではない! 石田三成を討伐する戦いである!」 と発言、各武将へ東軍への参加を求め、合戦でも先陣として戦った。
この功績で戦後、安芸(現在の広島・山口)49 万石の大名となるが、彼は「親豊臣」の武将であるため、徳川幕府から警戒される。
そして「大阪の陣」では危険人物として江戸城に留め置かれ、その後に広島城の石垣を無断で修理したという理由で領地を没収、川中島4万5千石に移転させられた。
そして彼の死後、福島家は取り潰されてしまう。

感情的で酒好き、武闘派の彼は、やはりインテリとは合わなかった様だ。
安芸の領地を没収された後年、こんな言葉を残している。
「俺は弓だ。 戦国の世では重宝されるが、太平の世では袋に入れて、蔵にしまわれてしまう。(乱世が終われば、用無しだ)」

曾呂利 惣八

(そろり そうはち) 
羽柴秀吉 徒党員  ソロリと歩く透波

「曾呂利」は「曽呂利」と書く場合もあり、当て字である。
戦国時代の初期に尾張にいたという大泥棒であり、透波(すっぱ)と呼ばれた野党的な忍者集団の頭領でもあった。
忍び込む時に音を立てず「ソロリ ソロリ」と忍び込むことからこの名が付いたという。 また、刀を抜く時に「ソロリ」と音を立てずに抜くからとも言われている。
彼の死後、葬式の時に黒雲の中から怪物が現れて惣八の棺を盗もうとしたが、盛禅和尚というお坊さんが退散させたというおとぎ話があるそうだ。

歴史的には曾呂利惣八と秀吉には全く接点がないと思われるが、「そろり」というもう一人の人物が戦国時代の後期に秀吉の御伽集(おとぎ衆。近侍する役職)となっている。
その人は「曾呂利 新左衛門」といい、元は堺で刀の鞘を作っていた職人で、刀が「ソロリ」と抜けるからこの名が付いたというが、トンチの効いた受け答えがうまく、秀吉のお気に入りとなった。
例えば、秀吉が猿に似ていることを気にしていた時、「殿下が猿に似ているのではありません。猿が殿下に似ているのです」と答えたという。

柴田 勝豊

(しばた かつとよ) 
柴田勝家 徒党員  柴田勝家敗因のひとつ
柴田勝豊

柴田勝家の家老の子供で、母が勝家の姉であったため、勝家の養子となった。
「本能寺の変」によって織田信長が死んだ後、織田家の今後を決める会議「清洲会議」で、かつての秀吉の領地である近江の「長浜」という城の城主となる。
ここは近畿の中央に位置する重要拠点であり、柴田勝家としては死守すべき場所だったが、秀吉が長浜城に進攻したとき、柴田勝豊は大した抵抗もせずにあっさり降伏した。
病床だったことに加え、柴田勝家に冷遇され、その家臣の佐久間盛政とも不仲だったためと言われている。
秀吉と柴田勝家による「賤ヶ岳の戦い」が終わった直後、病死している。

梁田 正綱

(やなだ まさつな) 
柴田勝家 徒党員  桶狭間の斥候
梁田正綱

織田信長が今川義元の大軍を討ち破った「桶狭間の合戦」において、戦功第一(一番手柄)とされた兵士である。
梁田正綱はこの土地の出身者であり、桶狭間の地形や天候を良く知っていて、偵察に出ていた彼は信長に「今川軍の本隊は田楽狭間で休憩中。また雲行きが怪しく、昼には雨になるだろう」と報告したという。
信長はこの情報を元に計画を立て、降り出した大雨に乗じて今川本陣を襲撃、今川軍は混乱に陥って大軍も機能せず、今川義元が討ち取られ、織田軍の勝利となった。
そして信長は一番の手柄は梁田正綱の情報にあるとして、知行と城を与えている。

徳永 寿昌

(とくなが ながまさ) 
柴田勝家 徒党員  朝鮮撤兵の伝達役
徳永寿昌

柴田勝豊の家臣だったが、勝豊が秀吉に降伏したため以後は秀吉の家臣となる。
美濃に2万石の領地を与えられて城主となり、秀吉が死んだ際には朝鮮に渡って、朝鮮出兵中の日本軍に撤収命令を伝えた。
「関ヶ原の戦い」では徳川側・東軍に属し、その功績で5万石の小大名となっている。

柴田 勝政

(しばた かつまさ) 
柴田勝家 徒党員  鬼玄蕃の弟
柴田勝政

「鬼玄蕃」と呼ばれた猛将「佐久間盛政」の弟で、両親と死別したために柴田勝家の養子となり「柴田」の姓を名乗るようになる。
柴田勝家の配下として加賀(現在の金沢)の一向一揆討伐で活躍した。ただ、柴田勝豊とは仲が悪かったという。
そして、秀吉と柴田勝家が戦った「賤ヶ岳の戦い」に参陣するのだが・・・ この後の経歴に2通りの説があって、どちらが正しいのか不明だ。
一方は、この賤ヶ岳の戦いで戦死したと言うもの。
もう一方は、賤ヶ岳の戦いの後も生きていて、秀吉配下の武将「金森長近」を通じて秀吉に仕え、「豊臣」の姓も贈られたというものだ。

溝尾 茂朝

(みぞお しげとも) 
明智光秀 徒党員  明智光秀を介錯
溝尾茂朝

元は美濃の斎藤道三の家臣だった。 通称「庄兵衛」。
斎藤道三が息子の斎藤義龍に討たれた後、明智光秀の配下となる。
光秀がまだ織田家に使える前からの側近であり、光秀と共に各地を転戦した。

「本能寺の変」や、秀吉と光秀の軍勢が戦った「山崎の合戦」(天王山の戦い)に参加するが、明智軍は秀吉軍に敗れてしまう。
そして光秀は敗走後、落ち武者狩りに襲われ、以下の辞世の句を残して自刃したというが、溝尾茂朝はその介錯を勤めている。
「逆順無二門 大道徹心源 五十五年夢 覚来帰一元」
(順逆二門無し、大道は心源に徹す。 五十五年の夢、覚め来たれば一元に帰す)

その後も危険な道中が続くため、彼は光秀の首を持って帰ることを諦め、その辺の地中に埋めて弔うと光秀の居城「坂本城」に帰還。
戦後処理を行った後、明智秀満と共に自刃した。

ただ、明智光秀が本当にこの戦いで死んだのかについては、疑惑もある。
あくまで異説に過ぎないが、誰も明智光秀の死体を見つけておらず、光秀のものだとわかる首も見つからなかった。
上記の溝尾茂朝の話も、明智側の話であり、確証があるものではない。
しかし溝尾茂朝の死後、真相を知る者は、もはや誰もいない・・・

明智 秀満

(あけち ひでみつ) 
明智光秀 徒党員  鬼武者
明智秀満

幻魔王となった織田信長を倒すため、鬼の篭手を用いて幻魔と戦う鬼武者「明智左馬介」その人である!
・・・と、言うのは某ゲームの話で、実際は明智光秀の娘婿。
ウサギの耳が付いた兜をかぶっていたため、ドラマなどで登場すると妙に目を引く。

「本能寺の変」の際には先陣として本能寺を焼き討ちして攻め込んだ。
その後、明智軍は織田信長の居城「安土城」に向かおうとするが、道中にある「瀬田川」の橋を山岡景隆に焼き落とされてしまい、足止めを受ける。
そのため、彼が少数の手勢を率いて安土城に向かい、制圧した。
だが、明智光秀は中国地方から急遽戻ってきた秀吉の軍勢と「天王山」で戦って敗死する。

明智秀満は天王山に向かおうとするも間に合わないため、光秀の居城「坂本城」に戻ろうとするが、途中で織田軍の堀秀政に見つかって追われてしまう。
この時、彼は馬に乗ったまま湖の上を駆け抜け、危機を逃れたという伝承がある。
城に戻った彼は光秀の一族を自害させると、城にあった数々の名品を目録と共に城を包囲する堀秀政に引渡し、その後に城の火薬に火を放ち、自害した。

死後、彼が「敵に渡すぐらいなら全て燃やしてしまおう」という意見を押し留め、名品と馬を敵に渡してから自害したことに秀吉や武将達は感服したという。
また、湖を渡った彼の馬は「曙」と名付けられ、その後「賤ヶ岳の戦い」の際には二十里(約 80 Km)の悪路を走駆したと伝えられている。

ちなみに、余談だが・・・ 信長が主人公のコーエーのゲーム「決戦 III」で、信長が秀満を倒すと「鬼のような武者であった・・・ だが俺は負けん!」と叫んだのは笑った。

安田 国継

(やすだ くにつぐ) 
明智光秀 徒党員  明智三羽烏
安田国継

明智光秀の配下で、武勇に優れ「明智三羽烏」と呼ばれた武士の一人だった。 通称「作兵衛」。
本能寺の変」の際には「一番槍」となり、織田信長本人を槍で突いて傷付け、さらに森蘭丸とも格闘を繰り広げている。
山崎の合戦」(天王山の戦い)で明智光秀が秀吉に敗れた後は「天野源右衛門」と改名し、秀吉の弟である羽柴秀長や、蒲生氏郷などに仕えた。
後年は北九州の立花宗茂などに仕え、朝鮮出兵にも参加している。

戸田 勝成

(とだ かつしげ) 
丹羽長秀 徒党員  惜しまれた西軍武将
戸田勝成

「戸田重政」とも名乗っていた。 丹羽長秀の配下の武将。
丹羽長秀の死後は豊臣家に仕え、九州征伐や小田原攻めなどに参陣。
秀吉の死後に起こった「関ヶ原の戦い」では石田三成の訴えに共鳴して、豊臣・西軍として参加した。
だが、西軍の武将が次々と寝返った時、彼の部隊はその近くにいたため総攻撃を受ける形となり、耐えきれず戦死する。
彼は交友関係が広く、多くの大名と親交を深めていたため、東軍の武将の中にも、その死を悼む者が多かった。

徳山 秀現

(とくやま しゅうげん) 
丹羽長秀 徒党員  勝家の与力
徳山秀現

柴田勝家の家臣。武将時代の名は「徳山則秀」。「秀現」は出家後の名だが、歴史的にはこちらが使われる方が多いらしい。名字は「とくのやま」の読みもある。
柴田勝家の北陸進攻軍の一員として、加賀・能登・越中などの北陸各地を転戦、城主として4万石を与えられている。
柴田勝家と羽柴秀吉が戦った「賤ヶ岳の戦い」においても活躍するが、柴田軍が敗戦したため高野山に出家する。
しかしすぐに秀吉に召しだされ、丹羽長秀前田利家の配下となり、晩年は家康の御伽衆(おとぎ衆、主君に近侍する役職)の一人となった。

滝川 雄利

(たきがわ かつとし) 
滝川一益 徒党員  七転び八起き
滝川勝利

伊勢の大名「北畠家」の家臣の家柄「木造家」の一族である。
彼は当初、出家して「源浄院 主玄」という名前の僧侶になっていたのだが、織田信長が伊勢に進攻した際に還俗し、木造家を北畠家から離反させて織田家に協力、その後は滝川一益の娘婿となって名前も改め、織田家の伊勢支配に貢献した。
その後は伊勢の国主となった信長の次男「織田信雄」(当時は北畠家の養子だったため北畠信雄)の家老となるが、基本的には義父の滝川一益と行動を共にしていたようだ。

「本能寺の変」が起こって信長が死去すると、滝川一益が秀吉と敵対したため彼も秀吉軍と戦うが、反秀吉派の柴田勝家織田信孝が次々と敗れて死んだため、秀吉に降伏した。
徳川家康と豊臣秀吉が戦った「小牧・長久手の戦い」の際には軍師格の武将となっており、「羽柴」の姓も贈られている。

後に秀吉の養子「豊臣秀次」が謀反の容疑で処刑された秀次事件に巻き込まれたり、「関ヶ原の戦い」で西軍・豊臣側に付いたため、東軍の勝利によって没落したりしてしまうが、そのたびに秀吉や徳川家康に召しだされ、城主に戻っている。
失脚してもすぐ復帰できているため、人柄や器量に優れていたのだろう。

佐久間 正勝

(さくま まさかつ) 
佐久間信盛 徒党員  へうげもの
佐久間正勝

織田家の重臣「佐久間信盛」の子。 現在は「佐久間信栄」とする説の方が有力。
佐久間信盛が本願寺の「石山本願寺城」を攻めていた時には留守を預かり、代わり軍勢の指揮を取る事もあった。
しかし佐久間信盛が石山本願寺城を落とせなくて織田家をクビになった時、彼もその責任を負わされ追放されてしまう。
そのときには信長から「お茶ばっかりしてんじゃねぇ。お前の失態を書いてると墨がなくなるわ!」というダメ出し19連発の折檻状を送られている。

しかし一年半後に信長の長男「織田信忠」の家臣として織田家に復帰。
信長と信忠が「本能寺の変」で死んだ後は、信長の次男「織田信雄」の配下となり、総大将も任せられている。
ただ、織田信雄が徳川家康と組んで秀吉と戦った「小牧・長久手の戦い」では、留守中に居城を滝川一益に奪われてしまう失態をしている。

武将としてはあまりいいところがないが、天下の茶人「千利休」の弟子であり、「数奇者(茶人、風流人)」として名を知られていた。
そのため後に秀吉に召しだされて御伽衆(おとぎ衆)となり、秀吉の死後は徳川幕府の2代将軍「徳川秀忠」にも召しだされている。

原 長頼

(はら ながより) 
河尻秀隆 徒党員  賤ヶ岳の先鋒
原長頼

元は斎藤家の家臣だったらしい。織田家の家臣となった後は、越前の朝倉家攻めや、近畿地方の各地で転戦。
その後に柴田勝家の配下となり、北陸侵攻に参加した。
「本能寺の変」の後、柴田勝家と羽柴秀吉が戦った「賤ヶ岳の戦い」では先鋒として奮戦するが、敗戦後に秀吉の配下となる。
「関ヶ原の戦い」では西軍・豊臣側として参加、別働隊を率いて伊勢の「長島城」という城を落とし、その後に関ヶ原に向かっていたが、その途上ですでに西軍が敗れてしまったことを知り、西国に逃亡。 その後、自刃した。

河尻 秀長

(かわじり ひでなが) 
河尻秀隆 徒党員  秀吉の馬廻衆
河尻秀長

河尻秀隆の子。 実際には、織田家に仕えたのは「本能寺の変」が起こった後であり、父が「本能寺の変」の混乱の中で起こった一揆により戦死したのと入れ替えの形で仕官した。
豊臣秀吉の配下として、秀吉と家康が戦った「小牧・長久手の戦い」では馬廻衆(近衛兵)の隊長となっている。
その後、九州征伐(秀吉の九州侵攻)に参加し、朝鮮出兵では九州の守備をした。
「関ヶ原の戦い」では西軍・豊臣側に参加して奮戦したが、戦いの中で戦死している。

毛受 勝照

(めんじゅ かつてる) 
河尻秀隆 徒党員  柴田勝家の忠臣
毛受勝照

苗字の読みは「めんじゅ」と「めんじょう」の2通りの説がある。
元は柴田勝家の小姓(身の回りの世話をする子供)で「小姓頭」にもなっていた。
成人してからは柴田勝家の配下として活躍、織田家が伊勢長島を攻めた際には、敵に奪われた柴田軍の馬印(大将の旗)を敵陣に突入して奪還し、柴田勝家を大いに喜ばせた。
「本能寺の変」の後に柴田勝家と秀吉が戦った「賤ヶ岳の戦い」では、敗北した柴田勝家に城に退却するよう進言し、柴田勝家の馬印をつけて勝家の身代わりとなってしんがり役を務めて奮戦、勝家の撤退の時間を稼いだ後、戦死した。

蜂須賀 家政

(はちすか いえまさ) 
蜂須賀正勝 徒党員  阿波の古狸
蜂須賀家政

秀吉の側近「蜂須賀(小六)正勝」の長男。 父に劣らぬやり手の武将。
秀吉の配下として父と共に各地を転戦、特に中国地方へ侵攻した際には敵将を捕らえる手柄も立てている。
「本能寺の変」後、豊臣家の親衛隊「黄母衣衆」の一員となり、秀吉と徳川家康が戦った「小牧・長久手の戦い」の際には大阪に侵攻してきた雑賀衆・根来衆3万の軍勢を、秀吉の軍師「黒田官兵衛」と共に8千の兵で撃退した。
その後、父の蜂須賀正勝が拝領していた17万5千石の阿波・徳島の領地を相続し、大名の一人となる。

朝鮮出兵では「蔚山城の戦い」で味方を救援したにも関わらず、追撃時に深追いしすぎたと言われて秀吉に処罰されそうになり、その報告をした石田三成に恨みを持つ。
そして秀吉の死後に加藤清正福島正則ら「武断派」の武将と共に「石田三成暗殺」を行うが失敗。
この一件で豊臣家の内部分裂が決定的となり、世は「関ヶ原の戦い」へと動いていく。

関ヶ原の戦いが起こりそうになると、彼は西軍・豊臣側への参加を宣言しつつ、自分の領地を豊臣家(石田三成) に返上し、出家して高野山に入ってしまう。
その一方で、自分の子を東軍・徳川側に所属させ、さらに西軍には「家臣の一部が暴走した」という名目で兵を送り、どちらが勝っても蜂須賀家が存続できるよう工作した。
結果、東軍の勝利後、西軍に加わらなかった事と、息子が東軍として戦ったことを評価され、阿波・徳島の国を再び与えられ大名に復帰した。
その処世術を伊達政宗は「阿波の古狸」と表現したと言う。
なお、有名な「阿波踊り」は、彼が徳島城の完成を記念して始めたものだと言われている。

前野 景定

(まえの かげさだ) 
前野長康 徒党員  秀次事件の被害者

前野長康の子。 豊臣家の跡継ぎとされていた「豊臣秀次」の側近となる。
しかし「豊臣秀次」は様々な乱交の疑いと謀反の容疑で死罪となってしまい、前野景定もその乱交に関わっていたとして、豊臣家の家臣「中村一氏」に預けられた。
そして豊臣秀次が処刑された翌日、自害している。

豊臣秀次は子供のいなかった豊臣秀吉が息子に跡を継がせるのをあきらめた後、豊臣家の跡継ぎとして養子にした人物である。
だが、その二年後に秀吉の子(後の豊臣秀頼)が生まれたため、秀次は「必要なくなった」。
豊臣秀次は霊山である比叡山で狩りをしたり、罪もない領民を殺したりして殺生関白と呼ばれ、その行動が問題視されていたというが、これが事実なのか、それとも邪魔になった彼を追い落とすための謀略によるものなのかは、定かではない。

前野 茂定

(まえの しげさだ) 
前野長康 徒党員

詳細不明・・・ 前野長康の一族だと思うのだが、息子などではないようだ。
官職を与えられているようなので、前野長康や景定と同じ、豊臣家の武将だったと思われる。
前野家には「前野家文書」と呼ばれる歴史資料が伝わっており、それを編纂した「武功夜話」という軍記本が発刊されている。
資料としての信憑性には疑問が呈されているが、織田家の内情を知る貴重な記録のひとつとなっている。