「美濃のマムシ」と恐れられ、梟雄(悪逆非道な英雄)として知られる戦国大名「斎藤道三」。
「下克上」(下の者が目上の人を討ってのし上がる事)の代名詞とされている人物です。
一介の油商人から一国一城の主にまで登りつめた彼は、まさに戦国の象徴と言え、司馬遼太郎の「国盗り物語」など、様々な小説やドラマで扱われてきました。
ただし、彼の前半生には謎が多く、伝承に彩られています。
そして多くの研究者が独自の新説を唱えているため、近年になるほど逆に実像が解りにくくなっています。
彼はどんな戦国大名だったのか・・・ ここでは定説・通説を中心にご紹介いたします。
彼がどこで生まれ、誰に育てられたのか、イマイチはっきりしていません。
ただ、11才になってから京都の「妙覚寺」というお寺に預けられ、僧侶としての修行をしていたようです。
しかしいつしか、還俗して(僧侶を辞めて)「松波庄五郎」と名乗る、量り売りの油商人になっています。
彼は一文銭の中央にある穴を通して油を注ぎ、もし穴からそれたらタダにするという街頭パフォーマンスをしながら油を売って、人気者になっていました。
そんなある日、彼を見た「土岐家」の侍に「その技を武芸に注げば立派な武士になれるのに、惜しいことだ」と言われます。
「そうか」と思った彼は商人を辞め、槍と鉄砲の稽古をして、僧侶時代のツテもあり、美濃の国主「土岐家」の家臣である「長井家」に仕官します。
長井家では、その配下の家名を継いで「西村勘九郎」と名乗ったと言います。
元々斎藤道三は、何をやっても器用な人だったらしく、頭が切れ、仕事も遊びも達者で、人間的な魅力にあふれていたといいます。
そして土岐家の次男「土岐頼芸」のお気に入りの家臣となり、頼芸の側室を与えられて妻とするぐらいに信頼される事となります。
そしていよいよ、マムシが毒牙を剥き始めます。
ちょうどその頃、美濃は争乱の最中にありました。
美濃の守護職であった「土岐家」の当主と、守護代(守護の次席)の「斎藤家」の当主が、一揆に急襲され戦死してしまったのです。
それでなくても美濃では土岐家の跡継ぎ争いが起こっていて、荒れていました。
弟が兄を、分家が主家を、平民が君主を討とうとする「下克上」が、道三が来る前から続いていたのです。
美濃の名目上のトップは「土岐家」でしたが、長い跡継ぎ争いによって権威が低下。
次席だった「斎藤家」の力が強くなるものの、前述したように一揆に襲われて当主が死に、跡継ぎはまだ幼少。
そのためナンバー3(小守護代)だった土岐家の重臣「長井家」の力が強くなります。
そして1517年、当時の土岐家の当主が死ぬと、斎藤家に擁立された長男の「土岐政頼」(頼武とも)と、長井家に擁立された次男の「土岐頼芸」の間で、家督を争う合戦が起こります。
一旦は長男の土岐政頼が勝つのですが、道三は土岐頼芸に、再戦して兄・政頼を追放することを進言。
1525年、土岐頼芸は長井家の当主である「長井長弘」と、名前を「長井規秀(長井新左衛門尉)」に変えて長井家の重臣となっていた、のちの斎藤道三と共に、再び挙兵。
彼らは斎藤家の居城「稲葉山城」を陥落させ、土岐政頼の館も占拠し、政頼を当主の座から陥落させます。
その後も戦いは数年続きましたが、土岐政頼(頼武)は最終的に朝倉家に逃れ、土岐頼芸が新たな美濃の守護となります。
そして程なくして、長井長弘は「土岐政頼に内通した」という容疑で長井規秀、つまり斎藤道三に攻められ、殺害されます。
これは道三の謀略であったと言われており、これにより斎藤道三は長井家を乗っ取って、小守護代にランクアップ。
さらに、美濃から追放された土岐政頼の子「土岐頼純」が朝倉家の後援を受けて攻め込んできて、土岐家の家督争いが再び起こると、長井規秀(斎藤道三)は調略(寝返り工作)を駆使して土岐頼純の味方を減らし、協力者を増やしていきます。
そして1538年、「斎藤家」の当主が死去すると、その後を継いで守護代にランクアップ。
名を「斎藤(新九郎)利政」と改めます。 ここでようやく、斎藤道三が当主の「斎藤家」が誕生します。
同時に稲葉山城を、大名に相応しい城に大改築します。
その後、いよいよ総仕上げ。
まず斎藤道三は、土岐頼芸の弟「土岐頼満」を毒殺します。
土岐頼満がどんな人だったのか、なぜ毒殺に至ったのかは伝わっていません。
しかしこの一件で、斎藤道三の裏切りが明らかに。
土岐頼芸は交渉によって土岐頼純との戦いを講和に持ち込んでいましたが、長い土岐同士の内紛と道三の調略のためか、斎藤家と対立することになっても、もはや支持は集まりませんでした。
1542年、斎藤道三は土岐頼芸を国外に追放、ついに美濃一国を奪取します。
しかし、「国盗り」はそう簡単には終わりませんでした。
追放された土岐頼芸は織田信長の父「織田信秀」に支援を依頼、敵であった土岐頼純とも協力し、斎藤道三への攻撃を続けます。
1544年、斎藤道三はこの挟撃に苦戦し、和睦を提案。
土岐頼芸を美濃の国主に復帰させ、織田家には娘を嫁がせるという約束を結びます。
また、朝倉家&土岐頼純とも講和し、頼純には娘の「帰蝶」が嫁ぐことになります。
ですが、ここからまた斎藤道三の謀略が始まります。
まず、朝倉家との講和の条件として、土岐頼芸が持つ美濃の「守護」の役職が、土岐頼純に譲られることになりました。
これは朝倉家が出した条件ですから、斎藤道三がどこまで関わっていたのかは解りませんが、これで土岐頼芸は守護ではなくなります。
その後、土岐頼芸は織田家と朝倉家の後援を得て、土岐派の家臣団を集めて再び挙兵、道三と敵対します。
どういう理由でこの挙兵に至ったのか詳しくは解っていないのですが、斎藤道三の圧力の影響と思われます。
しかし土岐頼芸は、道三との戦いに再び敗北。
さらに道三は、土岐家の支援を理由に進攻してきた織田信秀の軍勢も、奇襲で蹴散らします(加納口の戦い)
そして程なくして、守護となっていた土岐頼純が「謎の急死」を遂げます。
どう考えてもアヤシイのは斎藤道三。これで美濃の守護は不在に。
これで守護代の斎藤道三が、名実共に美濃のナンバー1にランクアップ。
土岐頼純の死により、嫁いでいた帰蝶が戻ってきたので、今度は彼女を織田家に嫁がせます。
今川家にも苦戦していた織田信秀は、この婚姻を受け入れ、織田信長と帰蝶が結婚して講和。
これによって土岐頼芸は後ろ盾をなくし、今度こそ完全に追放されることになります。
その後、斎藤道三は娘婿となった織田信長と「正徳寺」というお寺で会見。
会見後、「無念なり。我が子らは皆、あの男の門前に馬を繋ぐ(配下になる)ことだろう」と語ったことは有名です。
こうして、美濃一国を下克上で奪取した斎藤道三ですが、その地位は長くは続きませんでした。
1554年、斎藤道三は出家して、息子の「斎藤義龍」に家督を譲ります。
道三が家督を譲った理由は諸説ありますが、土岐家に恩のあった有力者を抑えるため、土岐頼芸の子であるという噂があった斎藤義龍を跡継ぎにして、国内の安定化を図ったというのが通説です。
斎藤義龍の母は、元は土岐頼芸の側室であり、道三に嫁いでわずか七ヶ月で義龍を産んだため、その頃から「道三ではなく頼芸の子ではないのか?」という噂がずっとありました。
しかも義龍は道三とは似ても似つかぬ大男、しかも大人しい性格であり、部屋で本ばかり読んでいるような人だったため、見た目も性格も道三とは正反対でした。
そのため道三は「あんな軟弱者に国は任せられん!」と言って、次男の「孫四郎」、三男の「喜平次」の方を可愛がっていたと言います。
道三が信長と会見した時に「我が子らはあの男の配下となる」とつぶやいたことも広まっていたようです。
そのため斎藤義龍は、自分が廃嫡(跡継ぎを撤回)されるのではないかという危機感を抱いたようです。
いや、抱くように土岐派の誰かが語っていたのかもしれません。
そもそも斎藤道三は、下克上でのし上がった男。 いざとなったら自分も・・・ とは頭によぎったことでしょう。
こうして1555年、斎藤義龍は挙兵!
斎藤道三の弟や子とも言われている長井道利の進言を受け、弟の孫四郎と喜平次を殺害すると、土岐派の家臣を集めて反乱を起こします。
斎藤道三もすぐに兵を集めますが、多くの重臣や有力者が斎藤義龍に付き、1万7千を超える義龍軍に対して、斎藤道三の兵は2700程度・・・
もはや戦う前から、勝負は決していました。
道三は織田信長に「美濃一国譲り状」を送ると、多勢に無勢の中で、義龍と対峙します。
最後の戦いで道三は義龍軍を見て、「虎を猫と見誤るとはワシの眼も老いたわ。 しかし当面、斎藤家は安泰」 と語ったと言います。
そして「長良川の戦い」戦いに破れた斎藤道三は、子の下克上によってその生涯を閉じました。
戦国時代は、家臣が主君を倒し、分家が主家を乗っ取り、兄弟で家督を争う時代でした。
とは言え、裏切りや下克上を目の当たりにした者が、何も感じないわけはありません。
非道な謀略で築かれたものは、あまりに脆い、ということでしょうか。
しかし斎藤道三の生涯は、戦国武将として、とても魅力と動乱に満ちたものです。
これからも様々な物語で、多くの道三像が描かれていくことでしょう。
【注記:斎藤・斉藤の漢字表記、および伝記について】
近年、斎藤道三の漢字は「斎藤」の表記が正しいとされています。
ただ、新字体である「斉藤」の表記が使われることも多く、また、当時の正確な表記は旧字体である「齋藤」のようです。
当ページには画像などに「斉藤」の表記が混じっていますが、この点はご了承下さい。
また、斎藤道三の下克上は近年の研究では、斎藤道三と道三の父、親子二代にかけて行われたものであるという説が有力になっています。
ただし、当サイトは初心者向けの歴史解説を行っているため、基本的に一代による従来説で記載しています。
新説では、「長井新左衛門尉」までが父で、「長井規秀」になってからが道三と言われていることが多いです。
なお、長井新左衛門尉は「ながい しんざえもんのじょう」と読みます。