将軍様・・・ 皆さんはその言葉から、どんな人を想像するでしょうか?
お屋敷の奥などにいて、偉そうにふんぞり返っている人を想像する方が多いと思います。
「暴れん坊将軍」とか、身分を騙ってお供と旅する「水戸の副将軍」とかだと、ちょっと別かもしれませんが。
足利将軍家は、「室町時代」の将軍です。
室町時代は戦国時代の前であり、鎌倉時代の後になります。
将軍はこの頃の日本の王であり、室町幕府は日本の政府、武士と政治の頂点として君臨していました。
有名なところでは、「一休さん」に出てくる「将軍さま」が、室町幕府の第3代将軍です。
つまり足利家は戦国時代の初期までは、天皇家と並んで日本で最も偉かった家柄なのですが・・・
戦国時代は戦乱の時代、そんな将軍様も戦乱に巻き込まれる運命となります。
ですが「足利義輝」は、その乱世にあって自らの力で幕府の権力を取り戻そうと奔走した「剣豪将軍」であり、決してお屋敷でふんぞり返っていたような人物ではありません。
そんな足利義輝と足利将軍家は、どんな存在だったのでしょうか・・・?
足利家は、室町時代に日本を支配した「幕府」の中心です。
室町幕府は「足利尊氏」という人によって創られ、3代将軍「足利義満」の頃に全盛期を迎えました。
これがだいたい1300年代の後半の頃です。
戦国時代が始まる約100年くらい前で、織田信長が誕生する150年ほど前になります。
しかし、1400年代の後半・・・ 一気に足利将軍家は傾きます。
6代目の将軍である「足利義教」の頃に飢饉と疫病が流行、それに伴い一揆も多発、彼は強権的なやり方で幕府を立て直そうとするも、行き過ぎた恐怖政治によって暗殺される結果となります。
跡を継いだ7代目の義勝はわずか9才、しかも8ヵ月であっさり病死。
8代目として足利義政と言う人が将軍になりますが、この人は「金持ちのボンボン」で、政治には全く興味はなく、浪費家で遊び三昧な人でした。
仕事は重臣である「細川家」や「山名家」に任せっきり。
「銀閣寺」を建て、毎日お茶して、絵を描いて過ごします。
こんな状況ですから・・・
重臣である細川家や山名家の権力がどんどん強まります。
それでなくても幕府の中では内紛や権力闘争が起こっていて、将軍家の権威は低下し続けている状況でした。
おまけに細川家の当主「細川勝元」は策略家として知られ、権力を維持するためにあの手この手の謀略三昧。
山名家の当主「山名宗全」は勢力拡大の野望を持ち、周辺の混乱に乗じて積極的に兵を派遣していました。
必然的に両者はライバルとなり、衝突は時間の問題となります。
そんなある日・・・「もう将軍、やってらんねー」と思った足利義政は、とっとと隠居して趣味の世界に没頭しようとし、弟に将軍職を譲る事を決めてしまい、「細川家」にその後見人を依頼します。
ところが・・・ それから間もなく彼に息子が誕生します!
こうなると、息子に後を継がせたいと考えるもの。
しかもその息子の母親(日野富子)が、我が子を将軍職に就かせるため「山名家」に協力を依頼しました。
こうして・・・ 2人の将軍候補を、2人の権力者がそれぞれ支持する事となります。
こうなると、もはやお約束の展開です。
「家督相続争い」です!
将軍の弟を擁立しようとする細川勝元、将軍の息子を擁立しようとする山名宗全、それぞれが協力関係の大名に援軍を要請し、各地から集まった双方の軍勢は合計で26万!
これが京都の市街地で長い戦乱を繰り広げます!
この戦いが戦国時代の幕開け「応仁の乱」です。
こうして京都の街はボロボロ。
結局、細川勝元と山名宗全は戦乱の中で病死して(もちろん暗殺説あり)、戦いは一応収束しますが、これにより足利将軍家の権威は地に落ち、戦乱は各地に波及。
ある者は勢力を拡大しようと、ある者はそれを防ごうとして、戦いを始めます。
もはや将軍家にそれを防ぐ力はなく、世は「戦国時代」へと移っていく事になります。
足利将軍家は結局、息子(足利義尚)が9代目として跡を継ぐのですが、南近江で幕府に抵抗した「六角家」を攻撃中、甲賀忍軍のゲリラ戦に敗れ(鈎の陣)、そのまま病死してしまいます。
10代将軍(足利義稙)、11代将軍(足利義澄)も細川家と日野富子に利用され、細川家の内部対立に巻き込まれ続けることとなりました。
彼らも何とか自立しようとしましたが、対立派との戦いに敗れ、京都から逃げ出すのを繰り返しています。
さて、織田信長や武田信玄、上杉謙信などが生きていた1550年頃の戦国時代に、室町幕府の将軍を務めていたのは「足利義輝」です。
足利義輝の父である12代将軍「足利義晴」も、幕府の権力闘争によって京都と近江で戦いと逃走を繰り返しており、義輝はそんな父の姿を見て育ちました。
彼は「将軍家の跡継ぎ」でありながら、戦乱と混乱の中で生まれ育ったのです。
将軍家の権威がなくなったのは、「応仁の乱」の原因にもなった重臣「細川家」の権力が強くなり過ぎていて、しかも細川家で跡継ぎ争いが起こって分裂、各派閥が自分達に都合の良い将軍を担ごうとして、将軍という存在が傀儡(操り人形)と化していたためです。
義輝の父「足利義晴」が将軍だった頃、細川家(細川京兆家)は「細川高国」と「細川晴元」の2人が争いを続けていました。
ここに将軍家ゆかりの勢力である六角家や朝倉家、畠山家なども加わって、矢と謀略が飛び交う乱戦状態に。
父の足利義晴は細川高国派でしたが、高国が細川晴元に破れて敗死すると、晴元と講和して一旦は京都に戻ります。
しかし、細川晴元の謀略で父を殺された三好長慶が京都に進攻してきて、これに敗れてまた「都落ち」してしまいます。
そして脱出先の近江の地で、将軍復権と京都帰還を果たせぬまま、病没してしまいました・・・
13代将軍・足利義輝の幕府再興のための戦いは、ここから始まる事になります。
幼い頃から戦乱の中で育った足利義輝は、「己の身は己で守る」と思ったのか「剣術」を学ぶようになります。
「一の太刀」の奥義を極めて「鹿島新當流(新当流)」を創始した剣豪「塚原ト伝」から剣術を学び、いつしか人々から「剣豪将軍」や「抜刀将軍」と呼ばれるようになります。
晩年には「新陰流」の創始者で天下一と呼ばれた剣聖「上泉信綱」にも師事して、新陰流の剣技も会得。
一方で、近江にある「国友鍛冶」に鉄砲の開発を依頼し、新兵器による武装も推進しています。
ですが、いくら個人の武力が強くても、彼には合戦の戦力である「軍勢」がありませんでした。
足利家は権威はありましたが、「領地」や「軍隊」を持っていなかったのです。
室町幕府は立場的にはトップでしたが、有事の際に協力してくれた勢力への恩賞として、領地を切り売りしていたため、どんどん兵と収入が減っていきました。
土地を褒美として与える当時の「知行制度」が、室町幕府の首を絞めていったのです。
いつしか室町幕府は単なる政治機関となってしまい、そのため将軍家が戦いを起こすには、諸国の勢力に軍勢の派遣を要請して、「戦ってもらう」必要がありました。
直属の軍隊と領地が乏しかった事は、室町幕府が代々抱えていた大きな問題でした。
そのため義輝は周辺勢力との友好を深めつつ、京都へ帰還する機会を伺い続ける事になります。
しかしその後、三好家は方針を転換して、足利義輝との講和を提案してきます。
足利家は一応「将軍家」ですから、それと敵対し続ける事は逆賊となり、各地の将軍家由来の勢力と敵対する事になるため、三好家としても何とかしたいと考えていたのです。
こうして六角家の取り成しもあって、足利義輝は三好長慶と和睦。
再び京都に戻り、ようやく将軍職としての立場を取り戻すことになりました。
ですが、それは新たな戦いの幕開けに過ぎませんでした・・・
将軍として京都に復帰した足利義輝。
しかし京都を中心とした近畿の権力は、相変わらず三好家が握っていました。
やはり足利家は、まだ「権威があるだけの飾り」に過ぎなかったのです。
それに三好家としても、ずっと敵対していた将軍家に自分達の権力を返上する気などありませんし、そこまでの義理もありません。
しかし足利義輝の望みは「室町将軍家の権力復興」です。
ただの飾りで終わるつもりはなく、三好家と足利家の「水面下の政争」が始まります。
足利義輝は将軍家としての威光を示すべく、各地の大名家に使者を送ります。
これは「将軍家の戦力 = 協力勢力の戦力」ですから、必須な事でもあります。
織田家や上杉家に幕府の役職を与え、また上杉家と武田家、上杉家と北条家、今川家と徳川家などに使者を送り、戦いを止めて和睦するよう勧めています。
幕府として「国の混乱を収める」という役目を果たしつつ、協力勢力の疲弊を防ごうとしたようです。
一方、細川家の残存勢力や、将軍家ゆかりの朝倉家、六角家、本願寺と連絡を取り、「三好包囲網」とも言える工作を施して、足利将軍家の独立を目指します。
こうした足利義輝の策謀のため、三好家の当主「三好長慶」もかなり参っていたと言います。
しかしその三好家から、足利義輝の最大のライバルが登場します。
「松永久秀」です。
後に「戦国の大悪党」と呼ばれ、梟雄(非道な英雄)の代表的な存在になる松永久秀は、謀略に長けた人物で、三好家の軍師と言える存在になります。
そして、彼の恐るべき野心は自分が仕えている三好家を食い尽くし、将軍家をも消し去ろうとするほどのものだったのです。
松永久秀は三好家の中に不和を生じさせ、自分と敵対する三好家の家臣を滅ぼし、主君である三好長慶の息子と弟も暗殺・毒殺します。
三好長慶は悲嘆の中で病死し、弱体化した三好家の中で、松永久秀は自らの権力を強化していきます。
三好家の弱体化は、足利義輝にとってもチャンスでした。
彼はいよいよ足利将軍家を復興させようと行動を開始、松永久秀を含む三好家の家老たちを京都から追放すると、将軍家の独立を狙います。
ですが、松永久秀も黙ってはいません。
彼は三好家の家老「三好三人衆」と策謀を巡らし、足利義輝の親類である「足利義栄」という人を新たな将軍に擁立して、邪魔になった足利義輝を亡き者にしようと企みます。
そして1565年5月・・・
寺院参拝と称して京に向かった松永久秀の配下と三好三人衆は、密かに兵を進めて足利義輝がいる二条城を包囲し、一斉に襲撃します!
戦国を震撼させた大事件「将軍暗殺」です!
城と言っても二条城は京都の御所。 防御力などありません。
義輝の近習達も必死で防戦し将軍の脱出を計ろうとしますが、護衛だけの足利家に比べ三好軍の数は圧倒的で、もはや逃げられる状態ではありません。
足利義輝は秘蔵の愛刀の数々を取り出すと、新当流と新陰流の剣術を振るい、襲いかかる刺客を次々と斬り倒していきます。
その光景は「剣豪将軍」の名に相応しい、凄まじいものだったと言われていますが・・・
ほどなくして二条城は炎に包まれ陥落。
乱世に生き、乱世に散った剣豪将軍は、その剣舞と共に消えていきました・・・
享年、まだ29才。
その戦いぶりは、以下のように記録されています。
「数々の名刀を畳に刺し、斬れなくなる度に新しい刀と交換しながら、敵兵と戦い続けた」(日本外史)
「自ら薙刀を振るい、人々はその技量に驚いた。その後は敵に接近するため刀を抜いて戦った。その奮戦はさながら勝利を目前にした者にも劣らなかった」(フロイス日本史)
「数度も斬って出で、討ち崩し、数多の敵を手負わせる。公方様、お働き候」(信長公記)
松永久秀と三好三人衆は「将軍殺し」の大罪人として諸国に知られるようになります。
同時にそれは、室町幕府の権力が完全に失墜したことを意味しました。
彼らは足利家の親類である「足利義栄」を自らの傀儡将軍にしましたが、将軍殺しである彼らが擁立する将軍なんて、誰も認めません。
一方、足利義輝の弟が、出家してお寺に出されていました。
弟の元にも松永久秀の魔の手は伸びていましたが、「細川藤孝」などの幕府の家臣たちが彼を救出、還俗させて将軍にし、室町幕府の再興を計ります。
将軍となる決意をしたその弟が、室町幕府最後の将軍「足利義昭」となります。
第15代将軍となった足利義昭は織田家に協力を求め、織田信長は彼を奉じて京都に進軍します。
京都ではこの頃、松永久秀と三好三人衆が仲互いして、双方争っているところでした。
それでなくても三好家は弱体化していましたから、そんな状態で織田家に立ち向かえるはずもなく、あっという間に織田軍により京都から追い出され、足利義昭は京都に帰還、将軍職に就きます。
ですが織田信長にとっても、足利義昭は権力のための飾り「傀儡将軍」に過ぎませんでした。
足利義昭は兄・義輝の時と同じように、各地の大名家に使者や手紙を送りますが、信長はそれに対して「勝手に手紙を送るな」と将軍の行動に制限を加えます。
自分が飾りであることを悟った将軍・義昭は信長に対抗すべく、武田家・上杉家・本願寺・浅井家・朝倉家などに水面下で協力を要請、「信長包囲網」と呼ばれる反織田陣営を形成します。
そして、武田信玄の上洛(京都への進軍)に呼応して自らも京都で挙兵、織田家からの独立を果たそうとするのですが・・・ 武田信玄は上洛の途上で病死、浅井家や朝倉家も苦戦。
結局、織田軍に攻め込まれ、京都から追い出されてしまいました。
彼が信長によって京都から追放された時点で「室町幕府は滅亡」したとされています。
歴史的にはこの時点から、時代は「安土桃山時代(織豊時代)」になります。
その後、足利義昭は中国地方の大名「毛利家」の保護を受け、かつて足利尊氏が挙兵した「鞆の浦」という港町で、なおも反織田の活動を続けていました。
都落ちしたとはいえ相応の人数が義昭に付き従っていたようで、この時期の彼らを「鞆幕府」と呼ぶ場合もあります。
しかし、織田信長が「本能寺の変」で死去し、毛利家と豊臣秀吉が講和すると、その活動も出来なくなってしまいます。
これで完全に足利家の幕府は「終わった」事になります。
のちに義昭は豊臣秀吉に許されて京都に戻り、秀吉の「おとぎ衆」(主人に近侍する人)の一人となります。
彼の子「義在」は足利の姓を捨て、「永山家」に改姓しました。
もはや足利将軍家の家柄は重荷だったのでしょう。
こうして室町幕府は、歴史からその姿を消す事となります・・・
将軍・足利義輝は当時からかなり評判の高かった人で、「優れた器量を持つ将軍」と人々に噂されていました。
しかし、どんなに彼が優れていようと、剣豪として腕っぷしが強かろうと、軍事力を持たない室町幕府に戦国の世を生き抜く「力」はありませんでした。
最後の将軍「足利義昭」は、信長を打倒するために一生懸命、お手紙(御内書、将軍家の命令書)を送っていましたが、のちに「時代の覇者に対して、お手紙で戦っていた人」と笑われたりしています。
しかし、権威を使って他の勢力から兵を借りて戦わなければならない室町幕府という立場では、それしか方法がなかったのも、また事実なのです・・・