【 本能寺の変 の中心人物 】
まずは「本能寺の変」の中心となる人々を簡単に紹介しておきましょう。
・織田信長 |
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・明智光秀 |
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・羽柴秀吉(豊臣秀吉) |
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・徳川家康 |
では、これから時間をさかのぼり、年表形式で本能寺の変へと至る過程を追っていきましょう。
「本能寺の変」・・・
敵対勢力を次々と攻め滅ぼし、天下統一目前まで来ていた戦国の覇王「織田信長」が、家臣の「明智光秀」の謀反(反逆)によって殺害されてしまった事件です。
それは戦国時代最大の事件であり、歴史のクライマックスのひとつでもあります。
この事件を契機に、戦国の歴史は大きく変わる事となりました。
織田信長が倒れ、豊臣秀吉が天下を手中にし、最終的には徳川家康が江戸時代を築きます。
そんな「本能寺の変」ですが、それがなぜ起こったのか?
信長の家臣であった明智光秀が、なぜ謀反(むほん)に及んだのかは、様々な説が飛び交っており、いまだにハッキリしていません。
それは戦国最大の謎です。
そこに至るには様々な事柄が関わっており、謀反の理由と思われる出来事もひとつではありません。
そのため本能寺の変の全容を知るには、戦国時代に関する豊富な知識が必要になります。
このページでは、そんな「本能寺の変」へ至る経緯を、あまり歴史に詳しくない方でも理解できるよう、出来るだけ解りやすく解説しています。
まずは「本能寺の変」の中心となる人々を簡単に紹介しておきましょう。
・織田信長 |
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・明智光秀 |
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・羽柴秀吉(豊臣秀吉) |
|
・徳川家康 |
では、これから時間をさかのぼり、年表形式で本能寺の変へと至る過程を追っていきましょう。
永禄8年(1565年)5月
※本能寺の変まで、あと17年と1月
当時、日本の政治の中心であったのは「室町幕府」でした。
しかし戦国時代になると各地の「大名」と呼ばれる権力者がそれぞれ独自に政治を行い、互いに勢力争いを始めたため、もはや室町幕府の力は形だけのものになってしまいます。
そして1565年、ついに室町幕府の力が完全に失われている事を示す事件が起こります。
室町幕府の将軍「足利義輝」の暗殺(永禄の変)です!
足利義輝は室町幕府の力を取り戻すために活動していましたが、そのために敵対していた「三好三人衆」に襲撃され、命を落としてしまいます。
天下の将軍が暗殺された知らせは、瞬く間に日本中に広まります。
しかし、殺された足利義輝には弟がいました。「足利義昭」と言います。
幕府の家臣たちに救出された彼は、新たな将軍となって、室町幕府を復活させるための協力者を捜します。
それに応じたのが、勢力拡大を続けていた「織田信長」でした。
永禄11年(1568年)9月
※本能寺の変まで、あと13年と9月
足利義昭からの要請を正式に受けた織田信長は、京都へ向かう準備を始めます。
妹の「お市」を京都への道中にいる大名「浅井家」の浅井長政と結婚させて同盟を結び、浅井家と敵対していて、京都へ進むのに邪魔になる大名「六角家」を攻撃して撃破。
そして京都を支配していた足利義昭と対立する「三好三人衆」と戦い、これを一蹴。
ついに上洛(京都への進軍)を果たします。
こうして足利義昭は正式に室町幕府の将軍に就任。
そして織田信長はその将軍の後援者として、大きな力を持つに至りました。
また、この頃に織田信長の配下となったのが「明智光秀」です。
彼は当時、朝倉家と足利義昭の配下だったのですが、その才能を見込んだ織田信長にスカウトされます。
こうして光秀は信長の家臣となり、以後大きな活躍を見せる事となります。
永禄12年(1569年)1月
※本能寺の変まで、あと13年と5月
京都周辺で大きな影響力を持っていたのは、戦国大名だけではありませんでした。
戦国時代に爆発的に流行していた宗教「一向宗(浄土真宗)」の総本山である「本願寺」や、日本最大の商業都市であった「堺」の商人組織「堺会合衆」などが存在します。
京都に上洛した織田信長は、次に彼らを支配下に治めようと、京都の御所(天皇家の住まい)の修繕費用を名目に、本願寺と堺の会合衆に多額の資金提供を要求、もし断れば織田軍8万の軍勢が攻め込むと脅迫します!
本願寺は大阪に拠点となる城を持っていたため、信長はここからの立ち退きも要求しています。
これに対し、本願寺は資金提供にはすぐに応じますが、本拠地である大阪の城(石山本願寺城)からの退去は拒否しました。
以後、本願寺と織田家は交渉を続ける事となります。
一方、堺の会合衆は資金提供の要求を拒否し、織田家と敵対していた三好家と協力して対抗しようとしますが、三好軍は敗退。
議論が紛糾しますが、会合衆の一人「今井宗久」が織田信長との和睦を訴え、主戦派の商人たちを説得します。
結果、堺は多額の資金提供に応じ、織田信長に臣従する事になりました。
以後、今井宗久は織田家の御用商人(専属の商人)として、高い地位と財力を得る事になります。
永禄12年(1569年)1月
※本能寺の変まで、あと13年と5月
当時、ヨーロッパでは「大航海時代」となっており、次々と(ヨーロッパにとっての)未知の世界が明らかになっていました。
ヨーロッパの国の多くは「キリスト教国」でしたから、他国にキリスト教を広めることに熱心で、多くの宣教師たちが新世界に布教のために旅立っていきました。
(当時、キリスト教のカトリック派とプロテスタント派が争っており、勢力争いがあったことも影響しています)
そしてこの年、宣教師の一人である「ルイス・フロイス」が織田信長と会見します。
後に彼は織田信長と親しくなり、さらに信長の死後、日本の歴史を詳細に綴った歴史書「日本史」を記しています。
新しもの好きで、仏教をはじめとする既存の神や宗教の教えに懐疑的だった織田信長は、ルイス・フロイスの話すキリスト教の理念やヨーロッパの国々の文化・技術に大いに興味を持ち、キリスト教の布教を容認します。
以後、日本の各地でキリスト教の宣教師たちが活動することになりました。
永禄12年(1569年)3月
※本能寺の変まで、あと13年と3月
織田信長のおかげで、足利義昭は室町幕府の将軍になる事が出来ました。
足利義昭はさっそく信長を副将軍にして、その貢献に報いようとしますが・・・ 織田信長はこれを辞退してしまいます。
そこで足利義昭は朝廷(天皇家)を動かし、そこからの要請として副将軍への就任を持ちかけますが・・・ 信長はこれも辞退。
これがきっかけで、織田信長は幕府や朝廷の権威を重視していないのではないか、という噂が出るようになります。
その後、足利義昭が室町幕府の将軍として各地の大名と交渉しようとすると、信長はこれも止めに入ります。
さらに「他人と勝手に交渉してはならない。何かをするときは織田家の許可を求めなければならない」という内容の「殿中御掟」と呼ばれる要請状を足利義昭に提出します。
足利義昭は自分は「天下の将軍」であると思っていましたから、自分より格下(だと思っている)の織田信長にこのような要請状を出され、腹を立てる事になります!
足利義昭はとりあえず「殿中御掟」を受け入れますが、その裏で織田信長を追い落とすための画策を開始。
各地の大名家に密かに信長打倒を訴える手紙を出し始めます。
こうして、織田信長と足利義昭の水面下の対立が始まります。
元亀元年(1570年)4月
※本能寺の変まで、あと12年と2月
足利義昭の兄「足利義輝」が暗殺された時、足利義昭は当初、将軍家と深い関わりがあり、京都に近い越前(福井中部・北部)を支配していた「朝倉家」に協力を要請しようとしました。
しかし朝倉家の大名「朝倉義景」はなかなか動かず、結局、彼の協力を得るのは断念。
そして義昭は、代わりに織田信長に協力を要請します。
このような経緯があったためか、朝倉家は織田信長と足利義昭から「将軍就任を祝いに参上するように」という要求が来ても、無視し続けます。
これにより、織田信長と朝倉家の関係はどんどん悪化、ついにこの年、信長は朝倉家への攻撃を決意、進軍を開始します!
ところが、朝倉家は織田家の同盟国であった「浅井家」と親密な関係でした。
そのため浅井家の当主「浅井長政」は板挟みになってしまい、ついに織田家との同盟を破棄、朝倉家に付くことを決意します。
このため、織田軍は浅井軍と朝倉軍に挟み撃ちされる危機に陥り、不利と見て戦場から退却します。
(この戦いを「金ヶ崎の戦い」と言います。秀吉が捨て身でしんがりを務めたことで有名です)
この動きを、織田信長との対立を深めていた足利義昭はチャンスと判断。
各地の勢力に「織田信長を討て!」という内容の、将軍家の正式な書状「御内書」を送り始めます。
これを受け、大きな勢力を持つ戦国大名「武田家」や「上杉家」、多くの信者を持つ宗教勢力「本願寺」などが、一斉に織田信長に敵対!
のちに「信長包囲網」と呼ばれる軍事同盟が形成され、織田家は一気にピンチに陥ります。
元亀2年(1571年)9月
※本能寺の変まで、あと10年と9月
「信長包囲網」が作られた事で、織田信長と他の勢力との戦いは急に激しくなります。
まず1570年の6月、織田信長は同盟国である「徳川家」の徳川家康と共に、浅井・朝倉家の合同軍と「姉川」という場所で大きな戦いを行います。 これを「姉川の合戦」と言います。
この戦いで浅井・朝倉軍は敗退、大きな被害を受けますが、織田軍の被害も少なくはなく、完全な決着は着きませんでした。
そして敗れた浅井・朝倉軍は、再び攻勢に転じるため、琵琶湖の西を通って京都方面に進軍、迎撃に来た織田軍に痛撃を与えると、京都の近くにある「比叡山延暦寺」という仏教の総本山に協力を要請、その山に布陣しました。
そのまま織田軍の本隊と浅井・朝倉軍はにらみ合いとなりますが、比叡山延暦寺は京都の間近、しかも天台宗という仏教の総本山であるため、ここで戦いが起こると一大事です。
そのため将軍・足利義昭は両軍に停戦を要請し、両者は一旦、兵を引きます。
しかし、これが大事件の発端となりました。
織田信長は反抗を続ける比叡山延暦寺を許さず、後日3万人の軍勢でこの山を包囲。
一斉に火を放ち、長い伝統を持つ寺社・仏閣などを燃やし尽くし、そこにいた僧侶や女子供3000人をすべて殺害したのです!
当時の比叡山は堕落しており、酒池肉林の状態になっていたとも言われていますが……
しかしそれでも、神社仏閣を焼き払い、僧侶を皆殺しにした信長の行為を人々は恐れ、こうして以後、織田信長は「第六天魔王」と呼ばれるようになります。
その一方で、信長の配下であり、比叡山延暦寺の焼き討ちにも参加した「羽柴秀吉」や「明智光秀」は、出来る限り僧侶を逃がそうとしていたと言われています。
また明智光秀は後年、この地に領地を持ったため、比叡山の復興に尽力しています。
ちなみにこの頃、織田信長は宗教勢力「本願寺」との対立を深めていました。
本願寺と比叡山延暦寺は別宗派ですが、同じ仏教勢力である本願寺への見せしめの意味があったとも言われています。
元亀4年(1573年)7月
※本能寺の変まで、あと8年と11月
甲斐・信濃(長野・山梨周辺)を領土とし、戦国最強と言われていた大名「武田信玄」が率いた「武田家」。
「信長包囲網」に参加し、織田信長と敵対していたその武田の軍勢が、ついに上洛(京都への進軍)を開始します。
途中、織田家と同盟している徳川家康の軍勢が戦いを挑みますが(三方ヶ原の戦い)、武田軍に蹴散らされます。
一方、信長包囲網を形成させた将軍・足利義昭は、信長からさらに圧力を受けていました。
足利義昭が密かに手紙を送っていた事は信長も解っていたため、信長は義昭に対する非難文「異見十七箇条」を送り付けます。
こうして信長に対する不満がさらに高まっていた足利義昭は、武田信玄が上洛を開始し、徳川家康にも圧勝したという報告を受け、ついに自ら立ち上がる事を決意します!
京都で兵を率いて家臣の城に篭もり、織田信長からの独立を訴えます。
しかし肝心の武田信玄が、上洛の途中で持病が悪化、病死してしまいます。
そして足利義昭の城は怒った織田信長に攻められ、ついに義昭は京都から追放。
事実上、これで室町幕府は滅亡することとなります。
天正元年(1573年)8月
※本能寺の変まで、あと8年と10月
最大の敵になると思われていた武田信玄が病死し、包囲網の元凶であった足利義昭も追放した織田信長は、敵対勢力への反撃を開始します。
中断されていた浅井家・朝倉家への攻撃を再開し、浅井家の城「小谷城」を包囲して、救援に来た朝倉軍も撃破。
そのまま浅井家・朝倉家の双方を滅亡させます。
浅井長政は自害、嫁いでいた信長の妹「お市」は3人の娘と共に織田家に戻されました。
その後、織田信長は浅井長政と朝倉義景の頭蓋骨に金箔を貼り、それを飾って酒宴を開いたと言います。
信長は浅井長政の頭蓋骨で杯を作り、それで酒を飲んで祝ったとも言われています。
それは信長の狂気の一面であったかもしれません。
なお、この頃の酒宴で、織田信長と明智光秀の関係が悪化している事を示すトラブルが起こっています。
明智光秀は元々、お酒はあまり飲めない人でした。 しかしそれでも織田信長は明智光秀に酒を飲ませようとします。
そして飲めない光秀を野次ったり、中傷したりする事があったようです。
ある時は大量の酒を注いで刀を抜いてムリヤリ飲ませようとしたり、酒宴を抜けた光秀を「なぜ逃げた! 成敗してくれる!」と槍を突きつけて脅したりする事があったとも言われています。
自由奔放な織田信長と、真面目な明智光秀、その性格の違いがこの辺りから表面化し始めます。
天正2年(1574年)3月
※本能寺の変まで、あと8年と3月
「蘭奢待(らんじゃたい)」とは、香木(お香の木)です。
天皇家に代々伝わっていた国宝であり、天皇でさえ勝手に持ち出す事は出来ないとされ、奈良の東大寺で厳重に保管されていました。
実際、かつて様々な権力者が蘭奢待を見ることを希望しましたが、ほとんど見る事は出来ていませんでした。
しかし織田信長はある日、急に「蘭奢待が見たい」と言い出します。
もちろんそれは許される事ではありませんが、信長は自ら東大寺に行き催促します。
当時、すでに織田信長が比叡山焼き討ちなどで、敵対する者には容赦しない事は知られていました。
「ここで断るとどうなるか解らない」と恐れた東大寺側は、嫌々ながらも蘭奢待を信長に差し出します。
すると信長は「一方は天皇に献上し、もう一方は自分が使う」と言うと、蘭奢待の2ヶ所を切り取って、持ち帰ってしまいます。
翌月、織田信長はその蘭奢待を炊いて茶会を催しました。
さらに信長はこの前年、将軍・足利義昭を追放した直後、本来は朝廷(天皇家)しか行えない「年号」の変更を、その権力を持ってムリヤリ実行し「天正」という年号に変えていました。
それらは自らの権力が頂点にある事のアピールだったとも言われており、一方で朝廷や既存の権力者にとっては、大きな圧力になったと言われています。
天正2年(1574年)9月
※本能寺の変まで、あと7年と9月
武田信玄の死や浅井・朝倉家の滅亡後も織田信長に抵抗し続けていたのが、「一向宗」という仏教を信じる宗教勢力「本願寺」です。
宗教によって結束し、「進むは極楽、引けば地獄」と言って死も恐れず攻撃してくる信者達の軍勢は、織田信長にとっても手強い相手でした。
特に伊勢長島(尾張と伊勢の国境付近)には要塞化された「願証寺」という一向宗の大寺院があり、織田軍は攻撃するも手痛い反撃を受け、他の方面の戦いも激化したため、なかなか攻勢に出ることが出来ず、苦戦していました。
しかし足利義昭が追放され、浅井家・朝倉家も滅亡した今、織田信長は軍勢を集めて大規模な「長島討伐」を開始します。
さすがの一向宗の軍勢も、この織田軍の攻撃には耐えきれず、次々と降伏しようとするのですが・・・
織田信長は降伏を許さず、女子供や老人を含め、一向宗の信者は全て皆殺しにしてしまいます!
降伏した一向宗側が砦から出て来たところを鉄砲で一斉射撃したり、砦を柵で囲んで逃げられないようにして火を放つといった苛烈な弾圧が記録されており、この時に虐殺された一向宗門徒(信者)は2万人を越えると言われています。
この徹底的な虐殺行為(根切)は、まだ各地に多く存在していた一向宗門徒への見せしめと、宗教の信者を改心させることの難しさのためと言われていますが、信長自身に「見えもしない仏を信じて戦う者」に対する嫌悪感があったとも言われています。
以後、「比叡山の焼き討ち」や「長島一向一揆の虐殺」により、信長はさらに畏怖・恐怖の対象として知られるようになります。
天正3年(1575年)5月
※本能寺の変まで、あと7年と1月
武田信玄は病死しましたが、武田家はまだまだ精強でした。
武田家は信玄の子「武田勝頼」が跡を継ぎ、織田家の同盟国である徳川家との戦いを続けていて、徳川軍は押され気味の展開となっていました。
そしてある日、武田軍は軍勢を率いて徳川側の城を包囲、攻撃を開始します。
知らせを受けた織田信長は徳川家に救援を出すことを決定、徳川家康と共に武田軍を迎え撃ちますが・・・
この時、織田信長は三千の鉄砲を持って行きました。 これは戦場で使われた鉄砲の数としては前例がないほどの量です。
そして信長は鉄砲を持った兵士を3列に並べ、その前に敵の突撃を防ぐ柵を立て、武田軍を待ちかまえます。
武田軍には「戦国最強」と言われた騎馬軍団がいました。
当時の鉄砲は連続で発射することが出来なかったため、武田勝頼は騎馬軍団で突撃すれば勝てると考えていました。
しかし織田信長は、3列に並べた鉄砲隊の前列が撃っている間に、後列が弾を込め、撃った者は後ろに下がる、という鉄砲を連続で発射する戦術を考案しており、それにより武田騎馬軍団を蜂の巣にします!
こうして最強と言われた武田軍は壊滅。
この戦いは「長篠(ながしの)の戦い」と呼ばれ、新時代の武器と戦術を用いた織田信長が、さらにその才能を誇示した戦いとして知られています。
以後、大被害を受けた武田家は、衰退の一途を辿る事となります。
なお、この戦いの後…… 織田信長は富士山の見物に向かっています。
信長は富士山をまだ見た事がなかったため、迂回して観光するルートを取るのですが、ここで事件が起きます。
帰路の途中、明智光秀が「この度の大勝利も、一重に信長様と将兵の皆様のお力のたまものですね」と言った際、信長が突然「皆様の力だと? お前が何をしたというのだ!」と言って怒り、光秀を叩き飛ばしたという事件です。
近くにいた人が仲裁し、大事には至らなかったようですが…… すでに両者が微妙な関係であったことが伺えます。
天正3年(1575年)8月
※本能寺の変まで、あと6年と11月
織田信長に敵対する宗教勢力「本願寺」。
彼らが信仰していた一向宗は日本中に広まっていたため、長島一向一揆が虐殺された後も、各地で抵抗が続いていました。
そんな一向宗門徒(信者)が「越前(福井県中部・北部)」を占領します。
ここは朝倉家の旧領で、朝倉家が織田家に滅ぼされた後は、織田家に降った元朝倉家の家臣たちに治められていたのですが……
紆余曲折(朝倉旧臣「富田長繁」の暴走など)の末、本願寺の下間頼照が率いる一向一揆が支配することになります。
もちろん信長にとって、これは許されざる出来事。
越前への大規模な攻勢を行い、「逆らう一向宗門徒は皆殺しにしろ」という命令を出します。
そしてこの月、越前の一向一揆は内部分裂もあって崩壊、織田軍は一向宗門徒は容赦せず、老若男女すべて殺害します。
この時の被害者数は長島一向一揆を上回るもので、3万人以上と言われています。
越前に視察に行った信長は、書状に「市中は死骸で埋め尽くされており、空いている所はない」と書いています。
そして「第六天魔王」と呼ばれた信長の殺戮に対する恐怖で、一向一揆は次第に沈静化していく事となります。
この一向一揆討伐には、明智光秀も参加していましたが…… 朝倉家に仕えていたこともあった彼の胸中は、どのようなものだったでしょうか?
天正3年(1575年)10月
※本能寺の変まで、あと6年と9月
織田信長の意外な趣味…… それが「茶の湯」です。
堺の会合衆との交渉を通じ、お茶を飲むという行為に「禅」の思想を取り入れた茶道を体験した信長は、その風流な趣向に感銘を受け、以後、茶の湯を好んで行うようになります。
こうした和歌や茶道などの風流な催しは、元は裕福な商人や公家の間で広まったものですが、戦国時代にはこうした文化が武士の間にも急速に広まっていました。
こうした中、織田信長は茶道に使う「茶器」の収集を始めます。
それは金銭や物品と引き替えに、裕福な商人が持っていた高価な茶器をムリヤリ買い取るもので、相手に拒否させない強引なものでした。
そして集めた茶器を使った格式の高い茶会や、茶器そのものを、信長は武将たちへの褒美として与えるようになります。
いつしか茶器は一国より高い価値を持つようになり、茶人の地位も戦国武将に劣らぬほど高まって行くこととなりました。
この年、織田信長は京都の「妙覚寺」というお寺で、天下一の茶人と言われた「千利休」を茶頭とし、大規模な茶会を開催します。
それは内外に自らの地位をアピールするものとなりました。
天正4年(1576年)2月
※本能寺の変まで、あと6年と4月
織田信長は美濃の岐阜城を本拠地としていましたが、この年、琵琶湖の東岸に巨大な城を築いて、ここを居城とします。
「安土城」と呼ばれたその城は、西洋のデザインを取り入れた「天守閣」を持つ壮麗なもので、場所的にも京都に近く、商業的に栄え、各方面に移動しやすい軍事上の要所でもありました。
それは織田信長の「天下布武(武によって天下を治める)」の象徴であったといいます。
天正4年(1576年)4月
※本能寺の変まで、あと6年と2月
織田信長によって京都から追放されてしまった室町幕府の将軍「足利義昭」。
しかし彼はまだ、室町幕府の再興をあきらめてはいませんでした。
かつて室町幕府を作った「足利尊氏」が落ち延び、再起を計った中国地方の「鞆」(広島東部の港町)に留まり、各地の大名や権力者に信長を非難する書状を送り続ける、信長打倒の活動を続けていたのです。
そして彼の仲介により、本願寺と中国地方の大名「毛利家」が同盟。
この頃、本願寺と織田家の対立はやや沈静化していましたが、毛利水軍によって武器や兵糧を補充できるようになった本願寺は、再び大阪の「石山本願寺城」で挙兵します。
織田家は本願寺への攻撃を行いますが、紀伊半島の鉄砲傭兵集団「雑賀衆」の妨害もあって苦戦、水上での戦いも毛利と雑賀の水軍に撃退されてしまいます。
天正5年(1577年)8月
※本能寺の変まで、あと5年と10月
越後(新潟)の戦国大名「上杉謙信」。
武田信玄と並んで戦国最強と言われる大名です。
彼は関東地方で武田家や北条家と戦っていましたが、この頃から北陸地方を西に向かって進み始めます。
これは越後の西「越中」の一向一揆の鎮圧や、その地方の勢力から救援要請を受けたためのようですが、足利義昭からも「織田信長打倒」の要請を受けていたと言われています。
上杉謙信は将軍家と友好的で、織田軍も一向一揆の討伐を兼ねて北陸地方に進出していましたから、両者が激突するのは時間の問題でした。
そのため能登半島に進軍した上杉家に対し、信長は北陸地方への増援を行います。
しかし、その隙に京都の南、大和地方(奈良)で「松永久秀」が謀反(反逆)を起します!
松永久秀は元は三好家の家臣でしたが、その三好家の主君や同僚を謀殺して成り上がったと言われる梟雄(悪逆非道な英雄)で、三好家が衰退した後は織田信長に仕えていました。
信長包囲網の形成と武田信玄の上洛、足利義昭の挙兵があった際にも謀反を起し、信長に反逆していたのですが、その時は信長に許されています。
しかしこの年、包囲網が再び形成されると見たのか、信長に対して再度反逆します。
この久秀の反逆も、再び信長を窮地に追い込もうと画策していた足利義昭の活動の影響があったと言われています。
天正6年(1578年)4月
※本能寺の変まで、あと4年と2月
謀反を起した松永久秀ですが、すぐに織田軍に包囲されてしまいます。
家臣の寝返りにあった、約束されていた本願寺の援軍が来なかった、などの理由があると言われていますが……
ともかく、大和地方の反乱は久秀の死であっさり沈静化します。
このとき、彼は名物茶器「平蜘蛛の釜」に火薬を詰めて爆死したとも伝えられています。
その後、北陸から軍勢を進める上杉謙信と、羽柴秀吉や柴田勝家などの重臣を率いる織田信長の軍勢が激突。
「手取川の戦い」と呼ばれる合戦が起こります。
この戦いは柴田勝家とケンカした秀吉が勝手に帰るといった、織田軍の仲間割れもあって、謙信の急襲により織田信長が大敗。
この時、信長は危機を迎えるのですが、翌年に上杉謙信は脳卒中で急死してしまいます。
結局、これら戦いで、織田信長の抵抗勢力は逆に消えていく事となりました……。
この後、織田信長は朝廷から与えられた身分「官位」の返上を申し出ます。
それは前年に信長の要請で与えられたものだったのですが、信長はこれを辞任、息子の「織田信忠」に譲ることを願い出ました。
「息子への委譲」という形であったため大きな騒動にはならなかったのですが、公家や天皇家にはさらに「信長が朝廷の権威を軽んじているのではないか」
という不安が流れることになります。
なお、この前年に雑賀衆も織田家の大規模な進攻を受け、降伏しています。
とは言え、雑賀の一部はその後も信長に抵抗を続けるのですが……。
天正6年(1578年)10月
※本能寺の変まで、あと3年と8月
「荒木村重」は織田信長が京都方面に進出した際に家臣になった人物です。
信長に気に入られて破格の待遇を与えられており、「摂津(大阪周辺)」の統治を任され、茶人としても有名でした。
しかしその荒木村重が突然、同僚と共に謀反を起します!
彼の配下が密かに本願寺に米を売ったため、謀反の容疑をかけられたからとも言われていますが、正確な理由は今でも不明です。
足利義昭からの要請や、中国地方の大名「毛利家」からの工作があったからとも言われています。
そして荒木村重は、信長が送った講和の使者を無視し続け、旧知の間柄であった羽柴秀吉の軍師「黒田官兵衛(黒田如水)」の説得も拒否、彼を投獄して徹底抗戦の構えを取り続けました。
さらにこの頃、織田信長に臣従していた播磨(神戸周辺)の大名「別所長治」、丹波(京都北西の山地)の大名「波多野家」も織田家に敵対し、交戦を開始しています。
この時期、中国地方の大名は一斉に反織田の立場を取り始めました。
しかし荒木村重は結局、怒った織田信長に攻め込まれて敗北します。
そして妻子や家臣120人がはりつけで処刑され、城にいた500人が小屋に閉じこめられ焼き殺されたと言われていますが……
荒木村重本人は毛利家に逃れ、その後も余生を過ごしています。
なお、この騒動で荒木村重に捕らえられた黒田官兵衛は、1年近くも投獄されたままになっていて、そのため信長は荒木村重に寝返ったのだと思い、人質となっていた彼の息子(黒田長政)を処刑するよう命令しています。
結局この命令は、羽柴秀吉のもう一人の軍師「竹中半兵衛」の機転によって、実行されなかったのですが……
これらの相次ぐ謀反や騒動で、織田家は疑心暗鬼になっていたと言われています。
天正7年(1579年)6月
※本能寺の変まで、あと3年
京都の西「丹波」の地を支配していた戦国大名「波多野家」。
丹波は京都に近い山岳地帯であり、京都の権力者にとって重要な地域でした。
波多野家は足利将軍家を支援して三好家と戦っていたため、織田信長が三好家を京都から追い出して足利義昭を新たな将軍にすると、これに従っていました。
しかし足利義昭と織田信長が不仲になって、ついに義昭が京都から追い出されると、織田家との関係が悪化。
ついに波多野家は丹波にいた明智光秀の軍勢を襲撃し、これを追い出して織田家との敵対を宣言します。
怒った織田信長は明智光秀に丹波の制圧を命じますが、山を巧みに利用して防戦する波多野軍に苦戦。
波多野の同盟国であった播磨(神戸)の「別所家」も織田家に敵対し、この頃に松永久秀や荒木村重も信長に反逆、上杉謙信も上洛の気配を見せ、二度目の信長包囲網が形成されかけます。
しかし、上杉謙信は病死、松永久秀と荒木村重の反逆も鎮圧され、別所家は羽柴秀吉の軍勢に包囲されます。
波多野家も長い戦いで物資や兵糧が枯渇し、寝返りも相次いで追い詰められていきました。
それでも波多野家は城で守っていましたが、明智光秀は自分の母親を人質にして、波多野家に降伏を迫ります。
こうして波多野家の大名「波多野秀治」と、弟の「波多野秀尚」は降伏を決意、信長の元に向かったのですが……
なんと織田信長は、この両者の降伏を許さず、処刑してしまいます。
このため怒った波多野家の家臣によって、明智光秀の母も殺されることになります。
この件で明智光秀は、信長に深い恨みを持ったと言われています。
この話は明智側の記録に出てこないため、信憑性が薄いと言われているのですが、降伏を認めた相手を信長が殺してしまったことは確かで、何かの怨恨が生まれていたかもしれません……
天正7年(1579年)9月
※本能寺の変まで、あと2年と9月
織田信長の同盟者「徳川家康」。
彼は織田信長と共に各地で戦って来ましたが、この年、その信長から妻と息子の切腹を命じられる事件が起こります。
事の起こりは、織田信長の娘であり、徳川家康の息子「徳川信康」の妻となっていた「五徳姫(徳姫)」が、姑であり徳川信康の母である徳川家康の正妻「築山殿」と不仲になっていて、「築山殿が武田家に内通している」という内容を含む、築山殿と徳川信康を非難する手紙を、父の信長に送ったのが発端です。
この手紙を見た信長は、徳川家の重臣「酒井忠次」にこの内容が本当なのか聞きますが、酒井忠次が否定しなかったため、徳川家康に築山殿と徳川信康の切腹を命じます。
この「信康事件」には不可解な点が多く、どうしてこうなったのか、今でも議論の対象になっています。
五徳姫の嫉妬心によるでっち上げ説、築山殿が武田家に送った手紙を誤認した説、信長が徳川信康の優秀さを聞いて危機感を覚えた説、離反が相次いでいた信長が徳川家康の忠誠心を試した説、酒井忠次を始めとする徳川家臣のクーデター説、などなど……
織田信長から連絡を受けた徳川家は大騒動になりましたが、織田家には逆らえないと判断した徳川家康は、妻の築山殿と息子の信康に切腹を命じ、信長の意向通りにしています。
ただ、徳川家康は後々までこのことを後悔していたようで、これが家康の苦い過去、恨み事となっていた事は確かなようです。
天正7年(1579年)10月
※本能寺の変まで、あと2年と8月
後の豊臣秀吉である織田家の重臣「羽柴秀吉」。
彼はこの頃、中国地方への進軍を命じられていました。
しかし中国地方には織田家に敵対する勢力が多く、織田家と対立している大きな大名「毛利家」もあったため、さすがの秀吉も簡単には進出できませんでした。
そこで羽柴秀吉は、備前(岡山)を支配していた毛利家の同盟国「宇喜多家」の宇喜多直家と交渉を開始。
宇喜多家と毛利家の同盟を破棄させ、織田家に臣従させる事に成功します。
交渉が成功したことに秀吉は大喜び! さっそく織田信長に報告に行くのですが……
秀吉は逆に信長から「勝手に同盟を結ぶな! すぐに条約を破棄して宇喜多を攻め滅ぼしてこい!」とおもいきり叱り飛ばされる事になります!
今さら条約を破棄することは出来ない上に、宇喜多家の戦力は毛利家との戦いにおいて大きなものであったため、秀吉は結局そのまま、宇喜多軍と共に毛利家と戦うのですが・・・
宇喜多家の処遇については、その後の悩みのタネになっていたようです。
天正8年(1580年)3月
※本能寺の変まで、あと2年と3月
大阪の「石山本願寺城」で徹底抗戦を続けていた宗教勢力「本願寺」。
しかし各地の本願寺の一向一揆は、織田軍の進攻によって次々と壊滅していきました。
そしてこの年、ついに本願寺は織田家の降伏勧告を受諾します。
こうして本願寺の法主「本願寺顕如」は城から退去し、各地の一向宗門徒に戦いの終結を訴えたのですが・・・
しかし本願寺顕如の子「本願寺教如」はこれを不服とし、徹底抗戦を訴えて城から出ず、そのまま支持者と共に篭城してしまいます!
これに怒った織田信長は再び本願寺城への攻撃を再開、一度降伏した本願寺軍にそれを防ぐ力はなく落城。
これによって立場の悪化した本願寺顕如は、紀伊半島の協力勢力「雑賀衆」に逃げ込みます。
本願寺の支配下であった加賀(金沢)は、まだ一向一揆が抵抗を続けていました。
しかし加賀の一向一揆は内紛もあって強固ではなく、織田家の重臣「柴田勝家」の攻撃で壊滅。
加賀は講和の際、本願寺に返還されることになっていましたが、結局この戦いにより、その条約は無視されます。
本願寺・一向宗は織田家の講和を受け入れながらも、さらに追い詰められていく事となりました。
天正8年(1580年)8月
※本能寺の変まで、あと1年と10月
織田信長が織田家の跡を継いだ頃からの、長年の重臣である「佐久間信盛」と「林通勝」。
しかしこの2人が突然、織田信長からリストラされてしまうという事件が起きます。
この両名は、特に何かの失敗をした訳ではありません。
しかし「何の功績もなかった」として、信長は2人をクビにしてしまいます。
佐久間信盛がクビになった理由は「石山本願寺城の攻撃を任せていたのに、何の進展もないまま何年も戦線を膠着させてしまった」のが主な理由とされています。
確かに佐久間信盛は織田軍の主力の一角でしたが、本願寺や雑賀衆との戦いでは失敗が目立ちます。
ただ林通勝に関しては「信長が織田家を継いだとき反乱を起したから」という、30年近くも前の出来事が理由にされていました。
しかし、かつて林通勝と共に反乱を起した「柴田勝家」には、何の咎めもありませんでした。
他に、斎藤家の重臣「美濃三人衆」のひとりであった「安藤守就」もクビになっています。
彼らが急にクビになった件については、織田信長の「徹底した実力主義」があると言われ、それは枠に捕らわれない織田信長の美点であるとも言われていますが……
トップクラスの重臣が突然追放された事は、織田家の家臣に動揺を呼び、大きな不安を与えたと言われています。
天正9年(1581年)2月
※本能寺の変まで、あと1年と4月
この年、大々的なパレードの行事「天覧馬揃(京都御馬揃え)」が実施されました。
京都の中心をきらびやかに着飾った500騎以上の騎馬武者が、絢爛豪華に行軍したと言われています。
それは当時の天皇「正親町天皇」も見物したと言われ、織田信長が「天下人」である証しとなり、織田家の権勢が世に轟いている事を示すものとなりました。
このパレードで山内一豊の妻が、支度金をはたいて夫に馬を買わせた話は有名です。
ただ、この天覧馬揃えは天皇の御所のすぐ前で行われたものであったため、朝廷(天皇家)に対する威嚇・威圧の意味があったとも言われています。
なお、この馬揃えの責任者は明智光秀でした。
一方、織田信長の居城として建築されていた安土城の城下町には、南蛮渡来のキリスト教の神学校「セミナリヨ」が築かれました。
織田信長は神や仏を信じていなかったと言われていますが、キリスト教の宣教師とは友好的であり、南蛮の文化を積極的に取り入れる姿勢を見せていました。
この頃、キリスト教の宣教師が天皇への謁見を信長に依頼した際に、「この国の王は自分である。よって天皇に会う必要はない」と答え、それを拒否しています。
天皇と宣教師が会うことを拒んだ理由は不明ですが、この話は他所にも広まり、信長が朝廷(天皇家)を軽視しているという風聞をさらに強めるものとなったようです。
天正9年(1581年)9月
※本能寺の変まで、あと9月
紀伊山地の中、伊賀(三重県伊賀市)の地にあった忍者軍団「伊賀忍軍」。
彼らは各地の勢力からの依頼を受けて忍者の派遣を行い、報酬を得ていた存在でした。
忍者は今で言うスパイであり、戦乱の世には必要不可欠な存在でしたが、中小の勢力では忍者の軍団を設立・育成することは難しいため、伊賀忍軍のような組織に諜報活動を依頼する事もありました。
しかし織田家は伊賀忍に「勝手に他の大名家の仕事を受けてはならない」「行動時には織田家に報告すること」などの高圧的な要請を行います。もちろん伊賀側はこれを拒絶。
以後、織田家とは対立する関係となります。
1579年、織田信長の子「織田信雄」が率いる織田軍が小競り合いの末に伊賀に進攻、伊賀忍軍のゲリラ戦の前に大敗する出来事が起こります。(第一次
天正伊賀の乱)
これは織田信雄が勝手にやったことのようで、織田信長は大激怒! 信雄には「親子の縁を切る!」とまで言いますが……
この年、 信長は約5万の大兵力を集め、織田信雄に再び伊賀に進攻させました。(第二次
天正伊賀の乱)
1万にも満たない伊賀忍軍は多勢に無勢で、伊賀の里は壊滅、女子供を含む数千人が殺害されることになります。
生き残りの伊賀忍者は山中に潜伏したり、各地に離散していく事となりますが、組織としての伊賀忍軍は消えることになります。
天正10年(1582年)3月
※本能寺の変まで、あと3月
戦国最強とも呼ばれた大名「武田家」。
しかし「武田信玄」が死去し、その子「武田勝頼」が織田信長の鉄砲隊に敗れて大被害を受けた後は、家臣の離反も相次いで衰退する一方でした。
この年、ついに織田家と徳川家の攻勢によって、武田家はその最後を迎えます。
武田勝頼の最期は、頼った家臣の小山田信茂に裏切られて追い詰められるという悲惨なもので、一族と共に「天目山」で自害。
武田家は消えることとなります。
さらにそのすぐ後、武田家と親しい関係にあり、天皇から僧としての最高の称号「国師」も授けられた高僧「快川紹喜」が、信長と敵対していた人物を匿った罪で寺ごと焼かれ、焼死する出来事も起こります。
「国師」を焼き殺したという事実は、既存の権力や信仰を気にしない信長の姿勢を、改めて示すものとなりました。
その後、徳川家康には武田攻めの功績として武田家の領地であった駿河の国が与えられ、さらに信長から「安土城」と京都・大阪の見物をする、接待の誘いを受けます。
徳川家康はその誘いに応じ、徳川家の重臣を含む30人ほどで、安土城へと向かいました。
一方この頃、織田家の主要な軍団は各地を制圧するために出陣中でした。
羽柴秀吉は中国地方で「毛利家」と戦闘中、
柴田勝家は北陸地方で「上杉家」と戦闘中です。
滝川一益は武田攻めに参戦した後、そのまま信濃(現在の長野県周辺)に駐留して、関東の「北条家」と睨み合います。
明智光秀は京都の西にある丹波地方(京都北西部)を制圧し、そのまま中国地方北部へ進軍する準備を行っていました。
また、織田信長の子「織田信孝」や 丹羽長秀 を大将として四国の「長宗我部家」への侵攻も準備されています。
各方面で軍勢が進行中であり、織田信長は天下統一の総仕上げに入っていました。
ただ、各方面に軍勢を派遣しているため、織田信長本人のいる京都周辺の守りは、手薄になっていました・・・
天正10年(1582年)5月
※本能寺の変まで、あと1月
織田信長はその日、前例のない行動に出ます。
各地のお寺から「ご神体」を集め、その上に「盆山」という名前の「石」を置き、それを自らの化身として祀って、自分の誕生日にこの石に参拝するよう人々に命じたのです。
それは、信長が「神」を自称した瞬間でした。
神や仏を信じない信長が自らを神として祀ったのは、どういう意図があったのか……
それは解りません。
また、安土城の天守閣は、天守閣ではなく「天主閣」であり、上階には釈迦の住む仏教世界が描かれ、最上階は金箔で覆われ、古代中国の賢人達が描かれていたと言います。
信長の意図はともかく、キリスト教の宣教師たちには、それは神を冒涜する恐るべき行為に見えました。
宣教師のルイス=フロイスは「信長は神デウスにのみ捧げられるべき礼拝を横領し、途方もない狂気の言動と暴挙に及んだ。 我らの神デウスは、彼と彼を参拝する者達の歓喜が続くことを許さなかった」と記しています。