関東一円の広範囲を支配下とし、戦国最大の巨城「小田原城」に居を構えていたのが、この「北条家」です。
北条家は勢力の大きさの割には、ややマイナーな感がありますが・・・
上杉謙信や武田信玄の進攻を何度も追い返した、有数の戦国大名であることは間違いありません。
戦国大名としての北条家の始まりは、「戦国時代の先駆者」と言われる「北条早雲」から始まります。
彼は最初、今川家の家臣としてその地位を高め、領土を得ると、伊豆半島に進攻して支配下に収めます。
さらに相模(現在の神奈川)を制圧、ここを拠点とし、さらに周辺に勢力を広げていきました。
早雲の死後、その後を継いだ「北条氏綱」が関東に進出、そしてその子「北条氏康」も、関東一帯を支配下とするために勢力拡大を続けます。
北条氏康は「武田信玄」や「上杉謙信」に比べると政治家のイメージが強いと思いますが、実際は生涯三十六度の合戦で一度も敵に背を見せず、受けた傷は全て向こう傷だったと言われている勇敢な武人です。
1545年、関東の諸勢力が結託し、今川家の支援も受けて、約8万の大軍を率いて北条家に進攻してきます。
関東には幕府直属の「鎌倉足利家」と呼ばれる勢力があったのですが、それが「古河公方」「山内上杉家」「扇谷上杉家」といった勢力に分裂していました。
彼等は関東の覇権を争っていましたが、そこに北条家がやって来たため、連合を組んで追い出そうとしたのです。
しかし北条氏康は8千の精鋭を率いて夜襲をかけ、この10倍の敵軍を撃破。
この戦いは「川越合戦」や「河越夜戦」と呼ばれており、北条家の武名を大きく上げることになりました。
同時に関東の諸勢力が衰退し、北条家は関東一帯の支配を確立します。
その一方で氏康は政治家としても非常に優秀で、他の大名家に先駆けて本格的な「検地」(土地を調べて税金などを決めること)を実施、通貨や量りを統一し、街道を整備し、学校を援助します。
北条家には「家臣や民を慈しみ、人心を掌握し、戦いに勝っても思慮深くあるように」という家訓が代々伝わっており、北条氏康の統治は、まさにそれを表したものでありました。
特に北条家の行政機構は近代的であり、他の大名家よりも進んでいたことで知られています。
その後、北条家は武田家・今川家と三国同盟(甲相駿三国同盟)を締結。
関東の開発と統治に集中します。
しかしこの後、北条家は領土を守るため防戦一方の展開となって行きます。
1561年、北条家に敗れた「山内上杉家」が、上杉家の家名と関東を治める役職「関東管領」を、武勇で知られる越後の長尾景虎に譲って救援を求めます。
これにより彼は「上杉謙信」となり、毎年のように北条家に進攻。
加えて、ずっと敵対していた房総半島の「里見家」との戦いも続き、今川義元の死後に三国同盟が解消されると、武田家も進攻してくるようになります。
かつて撃退した「山内上杉家」や「古河公方」の家臣も小勢力ながら敵対行為を続けており、まさに四方から外敵の進攻を受ける状態となりました。
そんな中、北条氏康は城の改築を繰り返し、難攻不落の巨城へと変えて行きます。
小田原城の改修は以前から行われていましたが、進攻を受けるたびにその必要性が増し、こうして天下の巨城「小田原城」が誕生することになります。
1571年、北条氏康は病没します。享年56才。
織田信長が浅井&朝倉家と戦った「金ヶ崎の戦い」や「姉川の戦い」があった翌年で、武田信玄が上洛を開始する前年。
氏康の死後、北条家は子の「北条氏政」、さらに「北条氏直」が後を継ぎます。
その後も上杉家や武田家から進攻を受けていましたが、 小田原城での篭城戦(城にこもって戦う事)でそれを防ぎ、里見家とは和睦。
中小の敵勢力は衰退し、上杉謙信や武田信玄の死、本能寺の変による織田軍の撤収もあって、北条家は安泰。
氏康の死後も20年近く、関東の覇者となっていましたが・・・
その間に天下は動き続け、日本はほぼ「豊臣秀吉」に支配される事となりました。
そして日本をほぼ制圧した豊臣家は、北条家を攻めるか、従属させようと考えます。
この動きに対し、北条家の家臣たちは和平派と主戦派で意見が真っ二つ。
一時は秀吉に従う意見が優勢だったのですが、家臣の一人が秀吉の仲介で講和していた「真田家」の城に勝手に攻め込んだ「名胡桃城事件」が起こり、北条家は豊臣家の侵攻を受けることになります。
北条家は例によって、小田原城に篭って戦おうとしますが、しかし秀吉は難攻不落のこの城をまともに攻める気はありませんでした。
豊臣家の大軍は小田原城を完全に包囲すると、そのまま何年でも包囲し続けて、中の物資が枯渇するのを待つ「兵糧攻め」を行います。
もちろん小田原城にも、その巨大さに見合うだけの物資が保管されていましたが・・・ 秀吉側も長期戦の構え。
しかも秀吉軍は部隊を入れ替えながら包囲を続けつつ、これ見よがしに城の周囲で大宴会を開いたり、突然目の前に城を出現させるといった「力の差のアピール」も行いました。
もはや日本をほぼ支配している豊臣秀吉と北条家では差は歴然であり、例え小田原城があっても、北条家に勝ち目はありませんでした。
この時、小田原城の中では降伏するか打って出るか、このまま守り続けるかで日々議論が行われていましたが、いつまでたっても結論は出ません。
時間ばかりかかって何の結論も出ない会議を「小田原評定」と言うのは、この故事から来ています。
こうして、家臣の裏切りもあり、北条家は降伏。
北条氏政は切腹、北条氏直は流刑となってしまいます。
和平派であった北条氏政の弟が秀吉に取り立てられ、一応その後も江戸時代の藩主としては存続しますが、戦国大名としての北条家は、ここに滅亡することとなります・・・
広大な関東全域を支配し、小田原城を頼りに防戦を続けた北条家。
しかし領地が広いほど、守らなくてはならない場所は増えてしまいます。
難攻不落の巨城を持っていたことも、逆に氏政の判断を誤らせたのでしょうか?
また、北条早雲の下克上で成立し、鎌倉足利家の残党を蹴散らして拡大した北条家には、「権威など何するものぞ」という気概が、最後まであったのかもしれません。