三好氏

三好家 と 三好長慶

悪逆非道な事を平気で行う英雄を「梟雄」と言います。
戦国時代、「乱世の三梟雄」と呼ばれた、3人の人物がいました。
1人は、謀略によって成り上がり、主君を打ち倒して美濃の国を奪取した「斎藤道三」。
1人は、同僚を謀殺し、奈良の大仏殿を焼き、裏切りを繰り返して将軍をも暗殺した「松永久秀」。
そしてもう1人が・・・ 「下克上(目下の者が目上の者を討つ事)」を繰り返し、遂には将軍家を追放して近畿を制圧した「三好長慶」です。

しかし実は、三好長慶は前の2人とは違い、決して自らの野望のためだけにその所業を行ったのではありませんでした。
むしろ彼は、謀略・策謀の渦巻く戦乱に巻き込まれた犠牲者と言っていいかもしれません。

そんな三好家と三好長慶は、どんな大名家だったのでしょうか・・・?

三好家は「足利将軍家」と京都周辺で戦っていた勢力であり、「信長の野望」シリーズでも近畿の中央部を制圧した状態で登場するため、三好家は近畿・大阪の大名だと思っている人が多いですが・・・

実は、元の三好家の本拠地は「阿波(現在の徳島県)」です。
つまり三好家は、本来は四国の勢力な訳ですね。

戦国初期の細川家室町時代の後期から戦国時代の初期にかけて、京都から大阪、淡路、四国東部の一帯は「細川家」の勢力下にありました。
この細川家は室町幕府における、将軍に次ぐ最高の役職「管領」を務めてきた、名家中の名家です。
他の管領の家柄「斯波家」と「畠山家」が戦国時代の初期に没落したこともあって、一強の状態でした。
将軍家さえも細川家の傀儡(操り人形)となっており、幕府の真の実力者だったと言えます。
三好家は、元はこの細川家の配下でした。

しかし・・・ 細川管領家の内部では権力争いが激化し、跡継ぎ争いも起こって、血で血を洗う抗争が繰り広げられることになります。

三好長慶が子供の頃(1530年頃)、細川家は「細川高国」という人が当主になっていました。
彼は敵に内通した室町幕府の将軍を追い出し、第12代将軍「足利義晴」を擁立するなど、将軍のすげ替えさえも行って幕府の権力を掌握していました。

一方、細川家の跡継ぎ候補「細川晴元」が、細川高国との戦いを続けていました。
そして三好長慶の父「三好元長」は、この細川晴元の側近でした。
細川高国の元に将軍がいるため、そのままでは「逆賊」になってしまう細川晴元と三好元長は、将軍家の親族「足利義維(よしつな)」という人を新たな将軍に擁立し、大義名分を得ようとします。
足利義維は堺に滞在したため、彼等が作った疑似幕府は「堺公方」や「堺幕府」とも呼ばれています。

そして戦いの末・・・ 特に名将「三好元長」の活躍と、細川高国が重臣を謀殺したことで起こった反乱により、細川高国は京都から追い出され、堺公方への攻撃にも失敗して敗死。
戦いに勝利した「細川晴元」は、新たな細川家の当主となります。

ですが、三好家の受難はここからでした。
当主となった細川晴元は、細川高国が擁立していた将軍「足利義晴」と和解、京都に呼び戻してその後見となると、必要なくなった堺公方・足利義維を捨てようとします。
これに三好元長が反対し、細川晴元と三好元長が不仲になってしまいます。

すると、三好元長の活躍に嫉妬していた三好家の親類「三好政長」が、三好元長の讒言(誹謗中傷)を開始。
さらに名家「畠山家」の家臣で、細川晴元に協力していた「木沢長政」も、三好元長を陥れる謀略を行います。

これらによって三好元長は孤立。
そして細川晴元は、三好元長が「法華宗」の信者であったことを利用し、本願寺の実力者「蓮淳」に働きかけ、三好元長の領内で大規模な一向一揆を起こします。
蓮淳は本願寺の法主「本願寺証如」(本願寺顕如の父)を担ぎ出し、「浄土真宗と法華宗の最終決戦である」とまで言って一揆を煽動、その大軍に飲み込まれた三好元長は、ついに自害してしまいます。

そしてこの三好元長が、「三好長慶」と、その弟「三好義賢」「安宅冬康」「十河一存」の父でした。
父を謀殺された三好四兄弟は淡路島に逃れ、雌伏の時を過ごすこととなります・・・

細川家は、いくつかの家柄に分かれていました。
京都を中心に活動した本家であり、幕府の官僚を務めていたのは「細川京兆家」。
一方、阿波を中心に四国東部を治めていたのは「阿波細川家」と言います。

阿波細川家の当主「細川持隆」は三好元長に補佐されて育ち、足利義維の擁立にも協力していたため、細川晴元が足利義維を排斥し、三好元長も謀殺したことに怒り、足利義維と三好四兄弟を保護して阿波に戻ってしまいます。
こうして堺公方は阿波公方となり、三好長慶ら四兄弟は細川持隆に匿われます。

細川持隆はその後、細川晴元と和解。
そのため三好長慶は細川晴元に仕え、しばらくはその配下として、近畿で暴れていた一向一揆の討伐などに尽力していました。
しかし三好四兄弟は、父の仇への復讐を忘れてはいませんでした。

力を蓄えていた三好長慶は(1540年頃)、ついに細川家に三好元長が持っていた領地・権利の返還を要求します!
三好元長の領地は、父を讒言した三好政長や、父を陥れた木沢長政のものとなっていました。
そのため両者はこれに反対しますが、三好長慶は退かず、争乱に発展。
一旦は将軍家や六角家の調停が入って和睦しますが、これにより摂津に拠点を得ることに成功します。

三好家の進出そして、木沢長政が畠山家での権力闘争の末に細川晴元と敵対すると、細川軍の一員として木沢長政を討ち滅ぼし、さらに細川高国の残党を摂津で撃破して勢力を拡大。
さらに一転、今後は細川高国の後継を宣言した「細川氏綱」と手を組んで、細川晴元&三好政長と戦い、ついに三好政長も討ち取ります

そして三好長慶は最大の仇敵「細川晴元」を倒すべく京都に進軍。
敗れた細川晴元は将軍・足利義晴を伴って近江へと脱出して失脚。
父を追い詰めた本願寺の煽動者「蓮淳」も同時期に病死しており、こうして父の仇を取った三好長慶は、近畿を支配する大大名へと成長しました。

一方、阿波細川家の当主「細川持隆」は、三好長慶が細川晴元と対立したことを批難し始めます。
そのため三好四兄弟の次男「三好義賢」は彼を謀殺し、その息子を阿波細川家の傀儡の当主に祭り上げ、さらに持隆の妻(小少将)を自分の嫁として、四国東部の支配を確立しました。
ただ、三好兄弟にとっては恩人を殺したことになり、これが後に「梟雄」と呼ばれる理由となったようです。

四国東部から摂津、大和、京都までの広い範囲を支配下とした三好家。
しかしここから(1550年頃)、三好家の試練が始まります。

まず、三好長慶の前に立ち塞がった厄介な敵が、将軍「足利義輝」です。
細川晴元は名目上、将軍家の補佐でしたから、それと戦うことは室町幕府の将軍家に盾突くことになります。

足利義輝細川晴元と共に近江に逃れていた12代将軍・足利義晴は、その後も三好家に抵抗を続けていましたが、ついに力尽きて息子の義輝に将軍位を譲ります。
戦乱の中で育った第13代将軍・足利義輝は剣豪将軍と呼ばれる腕っぷしと、周辺の勢力に協力を要請できる権威・政治力を持ち、三好長慶にとって手強い相手でした。
義輝の刺客により暗殺されそうにもなっています。

一旦は長慶は足利義輝と和解し、彼を京都に迎えます。
しかし幕府の再興を考えている足利義輝と、三好家の勢力維持を考えている三好長慶では対立は不可避で、義輝とその側近は潜伏中の細川晴元と通じて長慶に反乱。
この戦いは三好長慶が勝利しますが、以後も対立は続きました。

それから5年ほど経ち、再び足利義輝が攻め込んでくると、撃退した三好長慶は六角家の仲介もあって、改めて足利義輝と和睦。
このとき長慶は義輝を京都に迎えると、自分が京都にいては講和は難しいと考えたのか、息子の「三好義興」を京都に置いて、自分は摂津に移っています。

その後は堺・会合衆との交渉、京都の公家を通じた朝廷工作、大阪の本願寺や大和の興福寺などの寺社勢力との友好を深め、近畿地方に吹き荒れる権力闘争の嵐をなんとか収束させようとしました。

しかし、新たな敵が現れます。 しかもそれは外ではなく、内にありました。
乱世の梟雄「松永久秀」です。

松永久秀は三好家の家臣として早くから活動していた武将で、細川家や足利家、六角家との戦いで活躍、近畿地方に三好家が進出する大きな力となった一人です。
三好長慶の祐筆(書記)を勤め、幕府政治や朝廷工作の参謀役にもなっていたようです。
また、京都の南にある大和(奈良)の制圧に大きな功績がありました。

しかし、彼の野望はその程度では収まらないものだったのです・・・

松永久秀まず、三好兄弟の一人で、武勇に優れ、四国と近畿を転戦して活躍した「十河一存」が、有馬温泉に湯治に行った際に落馬し、事故死してしまいます。

さらに翌年、政治・軍事の両面で重要な役割を果たしていた三好長慶の弟「三好義賢」が合戦中に受けた銃撃の負傷で、命を落としてしまいます。

加えて追い討ちをかけるように、将来を嘱望されていた三好長慶の長男「三好義興」も、突然の病死を遂げてしまいます。

次々と訪れる弟と息子の不幸でショックを受けた長慶は落ち込み、政務への熱意も冷めたと言います。
そしてこれらの事件の裏には、謀略家「松永久秀」の影があったと言われています。

さらに松永久秀は、三好家の軍事行動のポイントであった淡路島の海賊衆「安宅水軍」の頭領で、長慶の弟でもあった「安宅冬康」の讒言(中傷)を行い、三好長慶に殺させてしまいます。
すでにこの頃、三好長慶は鬱の状態だったとも言われています。

四国・近畿・海上、それぞれのトップの重臣をまとめて失った事は、三好家が瞬く間に衰退していく大きな要因となりました。
そして三好長慶自身も、弟や息子の後を追うように、それから間もなく病死してしまいます・・・
享年、43歳。

そして三好家は、歴史からその姿を消していきます。

三好長慶の死後、将軍・足利義輝は京都の奪還と幕府の再興を狙いますが、三好家の重臣である「三好三人衆」は松永久秀と共に、将軍・足利義輝を暗殺してしまいます。

彼らは足利義維の子で、堺公方・阿波公方の末裔だった「足利義栄(よしひで)」を新たな将軍として擁立しますが、「将軍殺し」である彼らへの風当たりは強く、内乱も発生してうまく行きません。
その結果、三好三人衆と松永久秀はケンカ状態となり、三好家の跡継ぎとなった「三好義継」も急に松永久秀側に移ってしまい、三好家は完全に分裂

そこに織田信長が、足利義輝の弟「足利義昭」を奉じて京都に進軍して来て、三好三人衆は敵わず敗退。
松永久秀も信長に従属し、京都や大阪は織田信長に支配されます。

加えて四国の三好家も、不倫騒動が発端と言われる内紛によって統治者であった「篠原長房」が死に、当主となった「三好長治」はどうしようもない暴君で、あっという間にガタガタに。
最後は長宗我部家の侵攻の前に敗北し、こうして戦国初期に最大勢力を誇った三好家は、跡形もなく消失する事となります・・・


晩年の三好長慶は、穏やかな暮らしを望んでいたと言われています。

彼は風流を好み、身のこなしも爽やかで、大言を言う事もなく、唄や茶を好みました。
合戦に行く時も、連歌仲間に「ちょっと用事を済ませてきます」と言って出立していき、そして帰ってきた後に勝ち戦や武功を自慢する事もなかったと言います。

近年は、彼が「梟雄」に含められることはなくなりつつあります。
下克上も将軍追放も成り行きだった感があり、あまり謀略家や野心家の面は見られません。

しかし、だからこそ、野心家の松永久秀や、権威の回復に燃える足利義輝に付け込まれたのかもしれません・・・


三好家 武将名鑑
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