(わかりやすい)朝鮮出兵 文禄・慶長の役

朝鮮出兵。それはテレビやドラマなどでは、めったに取り上げられません。
日韓関係を刺激する話であり、ヘタに取り扱うと何を言われるか解りませんからね。

朝鮮出兵しかしこの戦いは、日本の戦国の終幕に大きく関わっています。
ここでの出来事がきっかけで「関ヶ原の戦い」が起きたと言っても過言ではないからです。
すなわち、豊臣家の分裂です。

なぜ石田三成が嫌われたのか? どうして関ヶ原で小早川秀秋が裏切ったのか?
関ヶ原の島津軍の不可解な動きはなぜか? 毛利家のお弁当が空だったのはなぜか?
それらはすべて、朝鮮出兵に発端があります。

ここではそんな朝鮮出兵「文禄・慶長の役」を、できるだけ解りやすく解説しています。

※戦国時代を題材にしたゲームに登場する身近な武将をピックアップしつつ解説しています。
 武将の顔の画像は「信長の野望 オンライン」および「信長の野望 大志」のものです。
※このページは2009年に大河ドラマ「天地人」のブログに投稿した複数の記事を再編し、修正/追記をしたものです。
※近年は「朝鮮出兵」という言葉が使われなくなっているようですが、当ページでは変えていません。朝鮮では「壬辰倭乱」と呼ばれています。


天正19年(1591年)

【 朝鮮出兵はなぜ始まったか 】

※豊臣秀吉の天下統一の翌年

豊臣秀吉
豊臣秀吉

戦国時代を席巻した織田信長は、家臣・明智光秀による謀反「本能寺の変」よって死去。
その光秀も羽柴秀吉によって倒され、権力闘争と家督争いの結果、秀吉が「豊臣秀吉」となって織田家の権力を相続、天下を統一します。
一般に、最後まで従わなかった「北条家」を討ち滅ぼした、小田原征伐(小田原の役)が終わった1590年のこととされます。

しかし、その2年後…… 1592年には、最初の朝鮮出兵「文禄の役」が始まっています。
つまり、天下が統一されても、戦乱は継続したままと言えました。

なぜ朝鮮出兵が行われたのか?
これは戦国時代の謎のひとつであり、明確なところは解りません。

淀と子ドラマや小説では、秀吉と側室「」の子で、豊臣家の跡継ぎであった「鶴松」が1591年に死去、悲嘆に暮れた秀吉が再び戦いに身を投じた、自暴自棄になった、という描かれ方をされることがあります。
鶴松は生まれつき病弱で、3歳で早くも病死してしまいました。
この鶴松の死をきっかけとする説は江戸時代の頃からあったようです。

ただ、朝鮮出兵の計画は1585年頃にはすでにあり、1587年に九州の島津家を従属させると、すぐに取りかかっています。
数ヶ月で準備するのは無理で、鶴松は関係ないという説もあります。

歴史家の中には「武将に与える土地(知行地)が不足して、配下や大名に十分な恩賞を与えることが出来なくなっていたため、新しい土地を求めて朝鮮出兵を行った」と主張している方も多いです。
実際、北条攻めの際には日本各地から軍勢が集められましたが、集まった軍勢に十分な恩賞が与えられておらず、不満の声が少なからず上がっていました。

また、豊臣家が天下統一して太平の世が訪れそうになっても、まだまだ武功や栄達を望む武闘派の武将は多くいました。
この人たちが、すでに準備が進められていた朝鮮出兵の早期開始を切望したとも言われています。
特に「加藤清正」という武将は朝鮮出兵が決まったら、真っ先に準備して乗り込んでいます。

イスパニアの野望 全世界版近年は欧州の国、特にスペインの進出に先駆けたという説も出てきています。
当時、すでにスペインはフィリピンを植民地にしており、しかし思うような利益を上げられていなかったため、新たな植民地として中国(明)を狙っていたことが明らかになっています。

キリスト教の宣教師は中国や日本の状況を詳細に報告しており、「明はキリストの教えを拒んでおり、特産品が多く征服するに相応しいが、日本が邪魔になる」「先に日本を征服すべき」「日本は危険なため懐柔し、共に明を攻めるべし」といった報告書や提案が残されていて、これらのいくつかは秀吉の耳にも入っていたと思われます。

実際、秀吉は朝鮮出兵の前にフィリピンやインドのスペイン総督府に「明には先に行く。むしろお前らが従属しろ」という書簡を出しています。

当時の朝鮮と日本は、今よりも近いものでした。
日本と中国・朝鮮の間では交易が頻繁に行われており、当時の大商人や有力者、九州や中国地方の大名家は、そうした交易で大きな財を得ていました。
豊臣秀吉はそれを見て、朝鮮の支配をかなり早い段階から考えていたようです。


天正20年(1592年)4月

【 文禄の役・序盤、漢城陥落 】

※第一次朝鮮出兵開始

朝鮮出兵が始まったのは1592年の春。
一応、日本側と朝鮮側(李氏朝鮮)で交渉が持たれていましたが、秀吉の目標は中国(明)であり、「明に攻め込むから道を貸してくれ」と言っても明の属国だった李氏朝鮮が「いいよ」と言うはずがなく、開戦は既定路線であったと言えます。

一応、朝鮮も日本が攻めてくるという情報は得ていたようですが、楽観論や日本を過小評価する意見が優先され、満足な防備は行っていませんでした。
中国(明)は諸外国に狙われて疑心暗鬼になっていたのか、朝鮮が裏切るのではないかという考えが強かったようで、土壇場になるまで朝鮮に援軍を送っていません。

水軍出陣1592年4月12日、日本の水軍が朝鮮半島の南東端「釜山」に攻撃を開始。
予期していなかったことと、日本軍の火縄銃の一斉掃射でまともに戦えなかったことで、朝鮮側の砦は次々と陥落します。
朝鮮側の将軍「元均」は全軍壊滅を恐れて釜山の港に水軍を退避させますが、日本の陸海混合の攻撃によって大混乱、多くの軍船は港に繋がれたまま焼き討ちに遭い、残った船も鹵獲を恐れて朝鮮軍が自ら沈め、結局壊滅してしまいます。

元均は他の朝鮮水軍の将軍「李舜臣」や「李億祺」に救援を求めますが、不仲だったからか、「もはや無理」と思われたのか、要請はことごとく無視され、為すすべなく敗走。
日本海の海賊「倭寇」に対する防衛のため、朝鮮も水軍は相応の戦力を持っていたのですが、この一戦であっさりと制海権を失い、日本軍は朝鮮本土への進軍を開始します。

※なお、「倭寇」は一般的に日本の海賊とされていますが、実際には朝鮮人や中国人も多くいました。 と言うか、海賊なので各国が入り乱れています。
日本の倭寇は戦国時代には衰退しており、天下統一した秀吉も海賊停止令を出したため、朝鮮出兵の頃にはほぼ消えています。
戦国初期の倭寇には朝鮮出身者も多く、後期に入ってからは中国が大半です。

文禄の役陸戦に入ってからも日本軍は連戦連勝
と言うか、ほとんど組織的な抵抗を受けませんでした。
長い戦国時代によって"いくさ慣れ"している日本軍に朝鮮軍の散発的な抵抗は効果がなく、しかも李氏朝鮮は国内が荒れていて民心が離れていたため、この機会にと朝鮮政府に反乱を起こす村もあり、まともな抵抗ができなかったのです。

李氏朝鮮は権力闘争を繰り返しており、しかも権力者が変わるたびに政策や学問(儒学や朱子学など)をコロコロと変えていたため、混乱の最中にありました。

さすがに首都である漢城(現在のソウル)に日本軍が迫った頃には組織的な抵抗を開始しますが、この頃には日本軍の強さや恐ろしさが朝鮮兵に広まっていて、やはり連戦連敗で脱走兵も続発。
もちろん練度や戦術にも差があったと思われます。

4月末、朝鮮国王とその側近達は「平壌」への遷都を決意、民に石を投げられながら都を脱出。
同時に漢城の中で民衆が蜂起し、5月2日に日本軍が到着したときには無血開城、むしろ日本軍を招き入れ、日本側があっけに取られたといいます。

こうして、少なくとも序盤戦は日本側が圧倒的に勝利します。
しかし急進し過ぎたことで、補給の問題が起こります。
朝鮮の民衆も、支配を大人しく受け入れ続けるわけがありません。
そして、中国(明)も黙ってはいません。

文禄の役は、徐々に日本側も苦しくなる中盤戦へと移ります。


天正20年(1592年)6~7月

【 文禄の役・中盤、平壌攻防 】

※第一次朝鮮出兵

行軍漢城の陥落までは圧倒的だった日本軍。
よく朝鮮出兵について「日本軍の惨敗」や「日本側の大敗」と書いている記事がありますが、実際のところ戦闘に限って言えば、このあとも日本軍の連戦連勝が続きます。
日本側が敗れた戦いは数えるほどに過ぎず、朝鮮側の反攻・防戦をことごとく退けています。

しかし戦闘以外については、徐々に困窮に陥ります。
最大の問題は補給。

朝鮮半島の山がちな地形は荷駄による輸送が大変で、日本側が想定していた以上でした。
当時の日本軍の報告書には、戦闘のことより「補給がない、物資がない、人足が足りない」といったことばかり書かれています。
それを察した朝鮮側も村々から事前に食料などを取り上げる、俗に言う「焦土作戦」を開始。ますます補給は深刻化します。

さらに朝鮮の水軍が「李舜臣」を中心に、日本の輸送船や停泊船を狙ってゲリラ戦を開始します。
よく李舜臣が日本軍に決戦を挑んで大勝した、などと言っている人がいますが、それは脚色された映画やドラマの話。
実際の李舜臣の戦いの多くは、少ない手勢で敵の補給路や中継地を叩き、敵の本隊が来る前にサッと退くというもの。
喧伝されるような大勝はありませんが、この戦い方が補給不足の日本にとっては、もっとも嫌な戦法でした。

こんな状況のため、朝鮮出兵のために集められた30万人の将兵のうち、実際に朝鮮に渡ったのは半分程度でした。
これでさらに兵が増えたら、補給がどうしようもなくなるからです。

漢城で国王が逃げたのも、日本軍にとっては残念なことでした。
そのおかげで漢城が無血開城されたわけですが、日本軍はこれで国王に降伏を迫れなくなります。

漢城を占領した日本軍は半月ほど待機していましたが、平壌に向けて進軍を再開。
ただ、この辺りから義勇兵を含む10万人以上と言われる朝鮮兵が日本軍の行く手を阻みます。
それでもやはり朝鮮軍は大敗を続けるのですが、なにせ朝鮮の現地ですから、兵はどんどん湧き出てきます。

また、少人数で山に籠もって弓矢で妨害するなどのゲリラ戦が始まり、日本も進軍に手間取り始めます。
特に険しい山岳部である朝鮮半島の南西部「全羅道」方面は、地形にも阻まれて進軍が停滞します。

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6月15日、ついに日本軍は遷都先の「平壌」に迫ります。
平壌の城は川を堀とし、1万以上の兵力で守りを固めた難攻不落の城でしたが、川を渡れなくて困っている日本軍を夜襲する作戦を朝鮮側が行って、これが大失敗。

夜戦夜襲を防がれ、日本側の救援に挟撃され、川のせいで城にも戻れず大被害。
しかも夜襲の際に川を渡った場所を利用されて、逆に城攻めに遭う始末。
"雨乞い"で川を増水させて防ごうとしますが、もちろん効果なし。
敗北を悟った朝鮮側は王族を逃がし、民衆を城に入れ、武器を捨てて門を開け、降伏します。

平壌の陥落により、朝鮮半島は全羅道の一部を除き、日本軍がほぼ制圧します。
逃走していた二人の李氏朝鮮の王子も加藤清正に生け捕られ、いよいよ朝鮮側は窮地に陥るのですが……
平壌まで陥落したことを受けて、ついに明(中国)が動きます。

7月16日、明の5000人の軍勢が平壌に到着。
日本軍によって易々と撃退されますが、それが単なる「先遣隊」であった事は明らかで、日本側は「補給不足だし、中国も来るし、みんな疲れてるし、戦線広げすぎたし、年内は止まって体制を固めよう」ということになります。

一方、先遣隊の報告を聞いた明も、あまりに一方的にやられたことにショック。
日本の火縄銃の性能がオーバーテクノロジーなうえに、中原で有用な騎兵隊の機動戦術が山がちな朝鮮半島では使い辛く、日本兵の長槍がやたら長くて突き合いでも不利。
また、日本の刀の使い方を賞賛(恐怖)した報告が多く、「槍を構える前に斬り伏せられる。接近戦では勝ち目がない。火器や弓を用いて戦うべし」などと書かれています。ただ、弓矢も日本の方が射程や威力で勝っていたようです。

こうして明は、日本との和平交渉を開始。
「沈惟敬」という人を代表にして、日本側の外交担当であり、平壌の守将でもあった「小西行長」と交渉を重ねることになります。

結果的にはこの二人が、あとで"やらかす"わけですが……


天正20年(1592年)8月以降

【 文禄の役・決戦から停戦へ 】

※第一次朝鮮出兵

1592年の8月、日本と明の間で50日の休戦合意が結ばれます。その結果、年内は明との合戦は起こりませんでした。
朝鮮側は休戦に反対していましたが、中国の属国と言える立場であったため、宗主国には逆らえなかったようです。
ただ、この休戦中に朝鮮各地で反乱が発生し、日本は対応に追われることになります。

李舜臣
李舜臣

9月、休戦命令を無視して「李舜臣」の海軍が釜山奪還を目指して進攻します。
これは李舜臣には珍しく大規模な拠点攻撃で、休戦合意への反発や、明を翻意させる目的があったのかもしれません。

ここまでの小規模な戦いにおいて、李舜臣の水軍は日本軍に優勢でした。
特に7月に行われた「閑山島海戦」では、おとりを使って日本の「脇坂安治」の水軍を潮流が早い難所に誘き寄せ、「元均」や「李億祺」と共に撃破しています。

しかしこの戦いを教訓に日本も戦法を改めており、釜山港を巡る戦いで朝鮮水軍は大敗。(釜山浦海戦)
それでなくても戦力の少ない朝鮮水軍はこのダメージを挽回しきれず、そのまま文禄の役が終わるまで、目立った行動は取れなくなります。

※なお、閑山島海戦は数少ない朝鮮側が勝利した戦いであるため、韓国では戦果などが過剰に喧伝されていますが、そこまで大きな戦いではありません。(兵士数や戦死者数を10倍にして教えたりしている)
日本の「九鬼嘉隆」と「加藤嘉明」の水軍も参戦する予定で、これを足せば大規模な海戦だったと言えますが、脇坂安治が抜け駆けして撃破されたため、両名の水軍はまともに戦わずに帰投しています。

亀甲船※閑山島海戦では「亀甲船」が3隻参加していたと、朝鮮側の資料には書かれています。
亀甲船は上部を鉄張りにした軍船で、世界初の装甲艦とも言われていますが、目立った戦果があったかどうかは不明で、少なくとも日本側の記録には出てきません。
喫水が低く、カメの甲羅のような装甲の上部にトゲトゲが付いていたようで、それで敵の斬り込みを防いでいた、対倭寇用の軍船であったと思われます。最初の登場は1400年代と、意外と古いです。

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翌年1月、明(中国)の大将「李如松」が率いる大軍勢が平壌への攻撃を開始します。
集められた4万人の軍勢はすべて私兵であり、精鋭無比の強さを誇ると言われたマンガのような人。

合戦数々の火砲によって平壌城の防壁は破壊され、城は混乱に陥ります。
城内には火縄銃を持った日本の狙撃兵が待ち構えていましたが、攻め込んでも犠牲が大きいと判断した李如松は、ワザと囲いの一部を解いて敵を逃がし、追撃戦を行います。

この戦いは日本軍にも大きな被害が出た、初の大敗となります。
守っていた「小西行長」は近くの「大友義統」に救援を求めますが、彼はすでに逃げていたため、小西行長も防衛をあきらめて城を脱出して撤退。
小西軍を追撃しながら、李如松は漢城に迫ります。

※なお、城に民衆が逃げ込んでいた影響で、戦いで討ち取られた者の半数、城内で死んだ者のほとんどは朝鮮の民だったようです。
そのため朝鮮の民衆からの李如松の評判は最悪で、近年再評価されてはいますが、今でも韓国では酷い言われようです。

しかし「石田三成」が漢城で迎撃軍を編成。
この迎撃軍には 小早川隆景、立花宗茂、黒田長政 などの名将を始め、宇喜多秀家、吉川広家 なども参加しており、「西国オールスター」と言える軍勢でした。
のちに「関ヶ原」で重要になる人も多いです。
(なお、小早川隆景が漢城の北にある開城というところで迎え撃つべきだと主張し、石田三成と喧嘩した一幕があったようです)

小早川隆景
小早川隆景
立花宗茂
立花宗茂
黒田長政
黒田長政
宇喜多秀家
宇喜多秀家

さすがに戦国の名将がそろったこの軍勢が相手だと勝ち目がなかったか……
「文禄の役」の一大決戦と言えるこの合戦「碧蹄館の戦い」で、李如松の明軍は大敗。
これにより明の停戦への動きが加速することになります。
中国兵は騎馬に短剣、火器はなく、道は険しく泥にはまり、日本兵は長刀を振るい、左右から突撃奮闘、精鋭にて無敵」の言葉が中国側の記録に残されています。

神機箭※なお、朝鮮軍が「神機箭」という新兵器で日本軍を撃退したという話がありますが、これは映画の話です。
実際の神機箭はロケット花火を付けた矢をまとめて撃つもので、世界初のロケット砲と喧伝されていますが、どこに飛ぶか解らないシロモノであり、見た目は派手ですが、殺傷力や実用性があったとは思えません。
ただ、多連装ロケット砲が「どこに飛ぶか解らない」「見た目と音は派手だが殺傷力(貫通力)はない」というのは現代でもそうなので、その意味では確かにロケット砲と言えるかもしれません。
韓国では神機箭が弾道ミサイルになっている映画が公開されていますが…… あり得ないです。

一方、日本軍も勝利はしましたが、平壌と多くの物資を失って補給不足はさらに深刻化。
3月に兵糧庫を焼き討ちされたこともあり、石田三成と小西行長は停戦の交渉を急ぎます。

こうして1593年4月、日本と明の間で和平交渉が成立。
両軍は半島の北端・南端まで後退し、その後も小規模な攻防は続いたものの、最初の朝鮮出兵「文禄の役」は終結しました。
例によって朝鮮側は和平に反対していましたが…… 両国に無視されています。

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なお、「加藤清正」に生け捕られていた李氏朝鮮の二人の王子は、和平交渉の成立で朝鮮側に返還されています。
「酷いことをされていた」と言う人もいるようですが、礼を尽くして対応しており、二人の王子が清正に宛てた感謝の書状が残されています。

ただ、加藤清正は和平の際に王子を返還することには反対しており、早く和平交渉を進めたい石田三成・小西行長と対立。
この二人の対立は合戦中からすでに始まっており、連戦連勝でガンガン進みまくる加藤清正に対し、石田三成は「進みすぎるな」となんども制止。
加藤清正は朝鮮半島の北を支配する女真族(オランカイ)と戦い、彼らの領土を経由して明に進むルートを探していたようですが、補給を担当する石田三成は半島を突き抜けて進みまくる清正軍に「かんべんしてくれ」という気持ちになっていたようです。

停戦交渉の際も、すぐに朝鮮から撤収しようとする石田三成と小西行長に対し、加藤清正は「交渉を有利に進めるためにも、主力は残して攻勢を継続すべきだ」と主張、完全に意見が対立しています。

そしてこの対立が、2度目の朝鮮出兵でさらに深まっていくこととなります……。

なお、平壌陥落の際、小西行長をほっといて先に逃げてしまった九州大友家の跡継ぎ「大友義統」は、それを咎められ追放(改易)されてしまいます。
彼は「関ヶ原の戦い」の際、お家再興を目指して毛利家の後援を受け、旧大友家の家臣を集めて西軍として挙兵。
九州で東軍として挙兵した「黒田官兵衛」(黒田如水)と九州で戦うのですが…… それはまた、別のお話。

ちなみに明の「李如松」は第二次朝鮮出兵には参加しておらず、その裏で発生した他民族との戦いで伏兵に遭い、戦死しています。


文禄2年(1593年)~文禄5年(1596年)

【 外交文書偽装、停戦決裂 】

※第一次出兵後、第二次出兵開始までの期間

小西行長
小西行長

日本と明(中国)、両国の停戦後、日本は「小西行長」を、明は「沈惟敬」という人を代表として交渉を行います。
小西行長は堺の商人の息子で、豊臣政権下で「舟奉行」を務めており、しかもキリシタン。
武将である一方、交易を取り仕切る立場であり、朝鮮や中国を含む諸外国との交渉役を務めていました。

明の沈惟敬は弁説が巧みで、日本の事情に明るく、自ら交渉役に立候補した人物。
そんな二人ですから、なんとか交渉を穏便に進めようとしていたのですが……

しかし、交渉が成立しそうな気配はまったくありませんでした。
と言うのも、日本も明も「自分が勝った」と思っていたからです。

明(中国)にとっては「日本が朝鮮に攻め入ったけど、進攻を継続できず撤退した」という形であり、日本にとっては「朝鮮半島の大部分を占領し、明軍も撃破した」形です。
そのため、日本は中国に朝鮮南部の割譲や皇帝の娘の嫁入りなどを要求し、中国は日本に朝鮮からの完全撤兵と中国の体制下に入る要求を行います。
話がぜんぜんズレています……。

そこで小西行長と沈惟敬は相談し…… 外交の書状を「勝手に書き換えてしまう」という小細工をすることを決めます!

日本からの手紙は日本が「ごめんなさい」と言っている形に、中国からの手紙は中国が「ごめんなさい」と言っている形に、勝手に変えてしまったのです。
これにより和平交渉はようやく進行しますが…… こんな小細工、いずれおかしくなるに決まっています。

使者文禄の役の終結から約3年後の1596年9月、中国(明)からの使者が日本に訪れます。
秀吉は「中国が要求を飲んだ」と思っていましたから、豪華な宴会で持てなすのですが……
使者の返答は「日本の王(秀吉)に(中国の)役職を与える」というものでした。
中国は日本が「ごめんなさい」と言っていると思ってましたからね。

そして秀吉、大激怒! 中国が要求を飲む気も、負けたと思っていないことも知ります。
そして小西行長と沈惟敬が内容を勝手に変えた、欺瞞外交をしていたことが発覚。
小西行長はすぐに切腹を命じられ、秀吉は即時、二度目の朝鮮出兵を行うことを決定してしまいます!

小西行長はその後、石田三成などの助命嘆願によって、切腹を免れます。
朝鮮や中国の事情に明るい小西行長を殺してしまうと後で困る、というのもあったようです。
しかしこれで、小西行長は後がなくなります。

ちなみに中国側の代表だった沈惟敬も、外交の偽装がバレて処刑されています。
その際、日本に逃げようとして捕まった一幕があったようです。

こうして、汚名返上を申し渡された「小西行長」、最初の出兵で活躍したけど行長と険悪な「加藤清正」、さらに毛利家や島津家、宇喜多家などの西国の大名が、再び朝鮮へと渡っていくことになります。

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なお、以下はあくまで異説に近いのですが……

拾丸最初の朝鮮出兵「文禄の役」が終わる頃、秀吉の側室「」の懐妊がわかり、8月に第二子の「拾丸」が生まれています。
この名前は「捨て子は育つ」という話から取られたもので、つまりゲン担ぎですね。
秀吉と淀の最初の子「鶴松」が3歳で病死してしまったので、無事に育って欲しいという願いが込められています。
この子がのちに「大坂の陣」で総大将となり、豊臣家最後の大名となった「豊臣秀頼」です。

それまで子供が産まれなかった秀吉に、晩年になって長男が死んだ後に、タイミング良く次男が産まれたわけですから、誰の目にも不自然で、当時から「アレって秀吉の子供じゃないんじゃないの?」という噂が飛び交っていましたが……

ともあれ、朝鮮出兵のきっかけを鶴松の死とする説、及び小説などでは、拾丸の誕生を「文禄の役」の終結に結びつけている場合が多いようです。

なお、それまで跡継ぎ候補の筆頭だった「豊臣秀次」が、拾丸の誕生によって邪魔者のように切腹させられた「秀次事件」が起こったのは、拾丸誕生の2年後の1595年(文禄4年)。2度目の朝鮮出兵が決まる前年。

そして秀吉の正室(北政所、ねね)の兄の子で、跡継ぎ候補の一人であった「豊臣秀俊」も、拾丸の誕生により候補から外され、「小早川家」の養子になっています。
この人が、のちに「関ヶ原の戦い」のキーパーソンとなる「小早川秀秋」であり、2度目の朝鮮出兵にも出陣しています。


慶長2年(1597年)6月

【 慶長の役・序盤、南部制圧 】

※第二次朝鮮出兵開始

1597年2月、2度目の朝鮮出兵の陣容が発表されます。
先陣は偽装外交で切腹を命じられ、この戦いでの汚名返上しないと後がない「小西行長」と、1度目の朝鮮出兵で大活躍して朝鮮の二人の王子も捕虜にした「加藤清正」。
水軍は「加藤嘉明」や「藤堂高虎」といった人が大将を務めます。(織田水軍で知られる九鬼嘉隆は隠居)
石田三成」は朝鮮に渡らず、日本に留まっていましたが、彼は彼で政務に奔走していたようです。

さらに、のちの関ヶ原の戦いの重要人物となる「小早川秀秋」、関ヶ原西軍の主力「宇喜多秀家」、関ヶ原で毛利軍を率いた「毛利秀元」と「吉川広家」、石田三成&小西行長と関ヶ原の計画を立てた「安国寺恵瓊」、関ヶ原の戦いで東軍となり石田三成の本陣を攻めた「黒田長政」、関ヶ原の戦いで最後に苛烈な突撃を見せた「島津義弘」などが参加しています。
つまり、関ヶ原の戦いの重要人物がそろっている事になります。
これは、この「慶長の役」が関ヶ原の戦いに大きく関わっていることを意味します。

対する朝鮮&明(中国)軍も、1度目の朝鮮出兵での苦戦を教訓として、対策を練っていました。
朝鮮軍は1度目の戦いで善戦した水軍をさらに強化し、明軍もすぐに朝鮮に急行できる体制を整えます。
しかし朝鮮の水軍には、肝心なものが抜けていました……。水軍の名将「李舜臣」です。

李舜臣
李舜臣

李舜臣がこの時に失脚していた理由は諸説ありますが、実際のところは度重なる命令違反のためだったようです。
李舜臣は日本と明(中国)が停戦した後も、徹底抗戦を訴えていました。
そして中国側の制止を無視して日本の拠点への襲撃を繰り返し、しかも失敗しまくっていました。
こんなのがいたら中国にとっては、停戦交渉の邪魔でしかありません。
そのため中国からの命令で失脚してしまったようです。

ただ、中国(明)が停戦交渉を初めても、朝鮮側(李氏朝鮮)は徹底抗戦を訴えていました。
当時の朝鮮は中国には逆らえなかった訳ですが、李舜臣の行動は朝鮮側の立場を表していたものだったとも言えます。

韓国では、李舜臣が失脚したのは同僚の「元均」という人に讒言(中傷・告げ口)されたためだ、とも言われています。
実際に李舜臣と元均は1度目の朝鮮出兵の頃から仲が悪く、李舜臣の急な出世を妬む者も多くいたようです。

また、元均は最初の朝鮮出兵で(勝敗はともかく)最初から最後まで戦っていましたが、李舜臣は当初はやる気なし。
終戦後は命令違反の連発ですし、これだと政府としては「元均の方がまだマシだ」と思ったかもしれません。

絵罫線

そして1597年6月、いよいよ日本軍は朝鮮半島の南東端「釜山」の港に集結。
2度目の朝鮮出兵「慶長の役」が始まります。
釜山は「文禄の役」が終わっても朝鮮側に返還されていなかったため、日本は半島に拠点を持った状態からのスタートです。

朝鮮水軍の「元均」は日本軍船への攻撃を命じられますが、水軍を再建したと言っても、正面から当たるのは厳しい。
過去の敗戦の経験もよぎったでしょう。
消極的な攻撃を何度か行って失敗した後、釜山の西にある島(巨済島)に停泊します。

慶長の役、前半戦この情報を得た日本軍は7月半ば、海上からの一斉攻撃と島に上陸しての陸戦で挟撃。
朝鮮水軍の多くの船が鹵獲され、他の船はことごとく焼き払われ、逃げ場のない島で朝鮮の水兵は壊滅。(漆川梁海戦)
主将の「元均」や、文禄の役を戦い抜いた「李億祺」など、主な将兵も戦死してしまい、再建されたばかりの朝鮮水軍は、またしても初戦で無力化されることになります。
朝鮮側の記録では、敗因を「元均が消極的すぎたから」としています。

朝鮮政府はあわてて「李舜臣」を将軍に復帰させますが、もはや彼一人でどうにかできる状況ではありません。

制海権を得た日本軍は最初の出兵で地理を得ていたこともあり、瞬く間に朝鮮南部を制圧します。
朝鮮軍も前回の戦いを教訓とした防衛体制を整え、明の駐留軍も各所に配置されていたのですが、毛利軍・宇喜多軍・鍋島直茂や加藤清正らの活躍で明&朝鮮は連戦連敗。
最初の出兵で最後まで抵抗していた「全羅道」(南西部)も瞬く間に占領され、日本は1度目以上の快進撃を続けます。

しかし、明(中国)も日本軍の再来があったらすぐに救援できる体制を整えていたため、報告を受けて漢城(現ソウル)へと軍勢を急行させます。
このため北上していた黒田長政は、漢城の手前で明の主力と遭遇し、一戦交えた後で睨み合い。
日本はここで一旦、進軍を停止する事になります。


慶長2年(1597年)9月

【 鳴梁海戦・蔚山城の戦い 】

※第二次朝鮮出兵

1597年9月、朝鮮の「李舜臣」の水軍が、釜山から西に向かっている日本の水軍を阻もうとした「鳴梁海戦」が起こります。
「元均」の後を継いだ李舜臣でしたが、主力艦隊はすでに壊滅。
半島の西に残っていた軍船で新たな水軍を急造し、戦力の再建に専念していました。

そうこうしている間に全羅道(南西部)はほぼ陥落し、日本軍は漢城に迫ります。
いよいよ後がなくなりそうな李舜臣は、漢城方面に向かう日本水軍の阻止に向かいます。

鳴梁海戦戦力に劣る李舜臣は、半島南西端の、潮が渦巻く難所と言われる海峡に陣取ります。
日本軍はここに突っ込むわけにはいきませんが、無視はできないし敵は少数。
そこで水軍を率いる藤堂高虎小回りの利く中型船で少数艦隊を編成、伊予(愛媛)の海賊大名「来島通総」に率いさせて攻撃を行いますが…… 失敗。
来島通総は戦死してしまいます。
しかし兵力に差があり、李舜臣もこれ以上は無理と判断、早々に引き上げています。

この鳴梁海戦、韓国では「鳴梁大捷」(鳴梁大戦)と呼ばれ、李舜臣が日本の大艦隊に圧倒的な損害を与えて勝利した戦いとして、教科書に載ったり、映画(バトル・オーシャン 海上決戦)になるほど喧伝されていますが……
実際には小規模な戦いであり、双方共に大きな損害はありません。

※韓国では参戦兵力や戦死者数が、軍船の数20倍、兵力200倍というレベルで誇張されています。

ただ、この戦いは日本の大名が戦死した唯一の戦いで、それを撃破したのが李舜臣であるため、韓国では特に喧伝されています。
これによって日本の補給路が遮断された、とも言われているようですが、補給にはあまり関係ない海域で、そもそも李舜臣がすぐに退いたため、日本の水軍はそのまま半島西部へと進み、周辺を制圧しています。

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9月半ば、鳴梁海戦が起こっていた頃……
漢城の目前まで迫っていた日本の陸軍は、突然南へと反転、来た道を戻っていきます。
朝鮮と明が「罠ではないか」と思って追撃しなかったほど。

日本は最初の朝鮮出兵「文禄の役」のとき、急進しすぎて補給不足になった経験があります。
そこで南部を制圧して安全を確保したら、南端に拠点となる城を築き、主力は一旦引き上げる手はずになっていました。
まずは足場固め、というわけですね。

当初の計画では、この年と翌年は拠点の構築に専念し、再来年に改めて進軍することになっていました。
最初から長期計画だったわけです。

慶長の役 蔚山城の戦いしかし朝鮮や明(中国)が、城が出来るのを黙って見ているはずがありません。
その年の12月、明軍は約5万の大軍を持って進軍を開始。
半島の南東端、日本軍の上陸地点である釜山の近くに築かれていた「蔚山城」を総攻撃します!

この報告を受けて「加藤清正」が城に入って指揮を採りますが、多勢に無勢で苦戦。
城にいた日本軍は約1万と記録されていますが、当初は数百人だったようです。
加藤清正は「浅野幸長」と共に銃弾の雨を浴びせて防ぎ続けますが、兵糧が尽き、冬の寒さと疲労でいよいよ窮地に陥ります。

しかし翌年(1598年)の1月3日、毛利秀元吉川広家黒田長政蜂須賀家政宇喜多秀家小早川秀秋立花宗茂などが率いる約1万3千の援軍が到来、海上からも長宗我部元親の水軍が到着し、蔚山城を包囲中の明軍を一斉に攻撃します!

この急襲によって明軍は大被害を出して敗北、加藤清正も討って出て、明軍は漢城までの長い敗走を続けることになります。

この「蔚山城の戦い」で、明軍は2万人以上の損害を受けたと言います。
当時の合戦の死傷率は多くても約5%、武田信玄と上杉謙信が戦い、戦国最大の乱戦になったと言われる「第四回・川中島の戦い」でも約10%ですから、5万の軍勢で2万人が死んだのは極めて大被害です。

加藤清正
加藤清正

明軍は「文禄の役」でもっとも活躍していた加藤清正を捕らえれば、味方の士気が大きく上がり、敵の士気をくじけると考えていたようで、彼がいると聞き、むしろチャンスだと思ったようです。
確かに城が完成しておらず、兵力も少ないこのときは好機であり、「弾より多い敵には勝てない」の法則を地で行ったようですが…… 銃弾の豪雨の前に、死体を積み上げただけで終わりました。
漢城までの長すぎる撤退戦も、さらに戦死者を増やすことになったようです。

ちなみに、朝鮮や明にも「勝字銃筒」などと呼ばれるいくつかの火器があったのですが、鉄球や矢を火薬で撃ち出す原始的な筒で、鉄砲とは呼べないものでした。

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しかし、日本の大勝利となったこの「蔚山城の戦い」こそが……
豊臣家の武将達に深刻な亀裂を生み、「関ヶ原の戦い」へと繋がっていく大きな要因となります。

蔚山城の戦いで最後まで城を守り、何倍もの明の大軍を相手に奮戦した加藤清正浅野幸長ですが、彼らの功績はあまり認められませんでした。
さらに、彼らを助けるために戦った小早川秀秋は、自ら先頭を切って戦っていたため「軽率すぎる」と報告され、評価されるどころか処罰対象に。

蜂須賀家政という人も加藤清正や浅野長政を救援しますが、「最初は戦ってなかった」「追撃しすぎて戦線を広げすぎ」などと言われ、むしろ領地の一部を没収。
黒田長政も同様に「消極的だった」と報告され、秀吉から処罰を受けています。

蔚山城
処罰者
小早川秀秋
小早川秀秋
蜂須賀家政
蜂須賀家政
黒田長政
黒田長政

毛利家の朝鮮派遣軍の大将だった毛利秀元と、その麾下の吉川広家も、この戦いでもっとも大きな功績を挙げたにも関わらず、決戦の前の日に抜け駆け的に夜襲を行ったため、同じ毛利軍にいた安国寺恵瓊という人に「あいつら軍令違反だ!」と報告され、不穏な状態に。

毛利家
家臣
毛利秀元
毛利秀元
吉川広家
吉川広家
安国寺恵瓊
安国寺恵瓊

そして、これらの評価を奉行として秀吉に伝えたのが…… 石田三成でした。
実際に検分をしたのは軍目付と呼ばれる別の役職の人ですが、三成が彼らのトップであって、しかし三成は朝鮮にいません。
これでは石田三成が恨まれるのは当然と言えますね。

なお、小西行長は石田三成と親密だったため、三成に様々な報告を行っていましたが、小西行長と加藤清正は以前から犬猿の仲。
(領地が近くて縄張り争いがあった、キリシタンの行長と仏教徒の清正は合わなかった、などが理由とされています)
これも加藤清正と、彼と親しい人物が、石田三成を嫌った理由と言われています。
真偽は解りませんが、朝鮮側の記録には「小西行長が加藤清正の上陸を密告してきたが、李舜臣は罠かと思い攻撃しなかった」というものがあるようです。

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やや余談ですが…… 二度目の朝鮮出兵では、日本軍が「朝鮮の人々の耳や鼻をそぎ取った」と伝えられています。
これは、日本まで海を越えて首を持って帰るのは手間がかかるため、手っ取り早く鼻で戦功の検分(討ち取った敵の評価)を行っていたためです。

朝鮮では「罪もない女子供の耳や鼻まで取った」と言われているようですが、それは「手柄の虚偽申告」ですからバレれば重罪であり、そのような例が多かったとは思えません。
(そもそも髭で男性だと判別できるよう鼻にしているので、女性や子供だとすぐバレる)
2度目の朝鮮出兵では地元の民衆が「民兵」として多数徴兵されていたため、そうした民兵の被害を「民衆の被害」に含めている可能性も高いです。

また、そぎ取られた耳を集めた「耳塚」が朝鮮各地に作られていますが、日本軍は耳で戦功検分は行っていません。
朝鮮軍や中国(明)軍は討ち取った敵兵の耳で戦功の検分を行っていたため、それと混同されているようです。
野蛮だからと言う理由で、日本では鼻塚も「耳塚」と言うことがありましたが、江戸時代になってから。
「日本軍は耳も取った」と言っている人もいますが、その必要がないため、朝鮮出兵においてはまずあり得ません。


慶長3年(1598年)8月

【 秀吉の死、三城同時攻防戦 】

※第二次朝鮮出兵

「蔚山城の戦い」で大被害を受け、城も落とせなかった明(中国)軍ですが……
これでへこたれた訳ではなく、むしろ危機感を覚えたようです。
敗戦の報告を受けた明はさらに大兵力の動員を開始、日本が城で守っているという報告を聞き、攻城兵器の準備も始めます。

一方の日本側は、さらに城の守りを固め、兵糧や武器も大量に運び込んでいきます。
これは翌年に攻勢をかけるための準備だったようで、そのためか主力の一部は再出兵に備え、一旦帰国しています。
(そして小早川秀秋や黒田長政などは、帰国して褒めて貰えるのかと思ったら三成らの報告で逆に秀吉に怒られ、処罰されて不満を持つことになります)

死去しかし、状況が変わります。 その年の5月に秀吉の病状が悪化。
そして8月…… ついに豊臣秀吉が病死したのです。
この時点で、日本が朝鮮出兵を継続する理由はなくなりました。

ですが、士気に影響するため、その死は朝鮮にいる日本軍には伝えられませんでした。
と言うのも、大攻勢の準備を整えた明&朝鮮の総勢10万以上の大軍勢が、出陣を開始したからです!
9月、明軍は部隊を3つに分け、約3~5万ずつの軍勢で日本が朝鮮南部に築城した3つの城に同時攻勢をかけます!
まさに明の総力を挙げた攻撃です。

しかし、この戦いはまたも日本側が圧勝することになります。

慶長の役 後半戦南東部の「蔚山城では加藤清正が、堅く守りを固めていました。
半年前に窮地に陥ったときはまだ城が未完成でしたが、今回は城が完成していて物資も豊富、守りは完璧。
明+朝鮮は約3万の軍勢で攻勢を繰り返しますが、まったく落ちる気配が無く、鉄砲で撃たれまくり損害ばかりが増していきます。
加藤清正もどうやっても出てこなかったため、城が落ちる目処が立たず、10日ほどで明軍は撤退を余儀なくされます。

中央部の「泗川城」では島津義弘が守っていました。
総勢二十万と号された明軍(実際は5万ほどだったと思われます)が城を包囲しようとしますが、初戦の攻防で島津軍に兵糧庫を焼き討ちされ、長期戦が出来ない状態に。
そのため城に強襲をかけますが、約7千の島津軍は多数の鉄砲と火砲で武装しており、引き付けての一斉掃射で明軍は蜂の巣にされます。

城の前には地雷がしかけられており、激しい光と煙を発する謎の筒(手榴弾?)まで使用されたようで、さらに合戦中に明の火薬庫が爆発、大混乱に陥った明軍は3万以上(中国側の資料では8万人)の大損害を受けて壊滅します。
この時、明軍は「溶けるように消えていった」との事で、これ以後、島津義弘は「鬼石蔓子(鬼シマヅ)」と呼ばれ恐れられることになります。

鉄砲掃射南西部の「順天城」では、1万3千の兵で小西行長が守っていました。
対する明+朝鮮軍は陸から約2万5千、海からも李舜臣の水軍の約2万5千で攻撃を行います。
ここでは海からの強襲に加えて、陸からは多数の攻城兵器(雲梯と呼ばれるはしご車や、飛楼と呼ばれる移動式やぐらなど)を使った攻撃が行われましたが、日本軍の鉄砲射撃と焼き討ちによって攻城兵器はことごとく燃やされ、陸の明軍は被害を増すばかりとなり、海からの攻撃も失敗が続きます。
そして「泗川城」方面の明軍が島津軍に大敗したこと、被害が増え続けて陸からの攻撃が成功する目処が立たなかったことがあり、ついに攻勢を断念します。

ただ、朝鮮水軍は近くの拠点まで撤退し、これが後に小西行長を危機に落とすことになります。
なお、この戦いの前、和平交渉を持ちかけられた小西行長がそれに応じようとして出て行き、生け捕りにされそうになって、命からがら逃げたという一幕があったようです。

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明+朝鮮軍の10万以上の大攻勢が全て失敗に終わった報告を聞き、日本側は撤退のチャンスと判断。
すでに秀吉が死んで撤収の方針は決まっており、そのタイミングを見計らっていたときだったため、直ちに準備が始まります。
しかし、勝ったはずの日本軍が急に撤退の準備をしているのを見て、朝鮮側も秀吉が死んだことを突き止めます。

陸の明+朝鮮軍には追撃の余力がなかったため、撤退はほぼスムーズに進むのですが、戦力が健在の李舜臣が率いる朝鮮水軍が撤退の阻止に動き、順天城周辺の海域を封鎖、小西行長は脱出できず窮地に陥ります。
しかし小西行長のピンチを聞いて、島津義弘立花宗茂が艦隊を率いて救援に向かいます。

水戦強襲こうして、日本と明・朝鮮の水軍が最後に激突した、朝鮮出兵の最終戦「露梁海戦」が起こります。
この海戦は救援に向かう日本軍を明と朝鮮の水軍が待ち伏せし、挟撃する形で始まり、日本は序盤から不利になりました。
特に島津家の水軍は損害が大きく、旗艦の帆も折れ、島津義弘も一時は死を覚悟したと言われています。
立花軍は善戦していましたが、そもそも彼らは水軍の将ではなく、日本の軍船の損害はこの戦いがもっとも大きくなりました。

しかし、最後に朝鮮軍が一矢報いたこの戦いで、李舜臣は戦死してしまいます。
両軍の記録をまとめると、まず明の水軍指揮官である「鄧子龍」という人が突出しすぎて日本の軍船に囲まれ、それを救援しようと李舜臣が前に出て、こちらも日本の軍船に包囲され、乗り込んできた日本兵に船尾から鉄砲で撃たれて落命した、となります。

鄧子龍も共に戦死しており、他にも明と朝鮮は多くの指揮官が戦死。
なぜ優勢だったこの戦いで、明と朝鮮の指揮官ばかり大勢死んでいるのか解りませんが、彼らが迎撃に出たことで海域の封鎖が解かれ、小西行長軍は脱出に成功。
指揮へのダメージが大きく、明・朝鮮軍は追撃が困難となり、日本側の撤収によって、朝鮮出兵は幕を閉じることとなります。


慶長4年(1599年)3月

【 石田三成襲撃、関ヶ原へ 】

※朝鮮出兵、終結後

石田三成
石田三成

朝鮮からの撤兵が始まったのは1598年11月、完全に終わったのは1599年の1月頃と言われています。
すでに豊臣秀吉は亡く、政務はそのトップであった石田三成を中心とする「文治派」の家臣たちによって行われていましたが……
それは加藤清正ら、三成と対立する「武断派」と呼ばれた武将達には面白くありません。

1599年3月、朝鮮出兵の終結から約3ヶ月後、豊臣家の分裂を決定付けた「石田三成暗殺未遂事件」が起こります。
七将襲撃」とも呼ばれており、加藤清正・福島正則・黒田長政・浅野幸長・蜂須賀家政・加藤嘉明・藤堂高虎・脇坂安治・細川忠興・池田輝政 が石田三成を亡き者にしようと、屋敷を襲撃した事件です。
10人いますが、文献によってメンバーが違っており、「大名十人でやる」という記録もあるため、実際は10人であったようです。

加藤清正
加藤清正
福島正則
福島正則
黒田長政
黒田長政
浅野幸長
浅野幸長
蜂須賀家政
蜂須賀家政
加藤嘉明
加藤嘉明
藤堂高虎
藤堂高虎
脇坂安治
脇坂安治

このうち、池田輝政以外は全員、朝鮮出兵に参加していた人たちです。
そして 加藤清正、浅野幸長、黒田長政、蜂須賀家政 は、慶長の役の「蔚山城の戦い」で、奮戦したにも関わらず認められなかったり、処罰されてしまった人たち。
水軍を率いて功績のあった加藤嘉明や藤堂高虎はちゃんと評価され、恩賞も貰っていましたが、彼らから見ても、石田三成が伝えた評価はおかしかったのかもしれません。

徳川家康
徳川家康

襲撃された石田三成の行動には諸説ありますが、最終的には「徳川家康」の元に身を寄せます。
襲撃した武断派は家康に「三成を引き渡せ!」と要求しますが、徳川家康は「三成は隠居し、蔚山城の査定も見直す」と言い、この場を取り成します。

石田三成の失脚後、政務を取り仕切った徳川家康はすぐに「蔚山城救援の諸将に落ち度がなかったことは歴然」と発表し、黒田長政や蜂須賀家政、小早川秀秋の処分を撤回、浅野幸長や吉川広家らの名誉も回復させます。
彼らが「関ヶ原の戦い」で、最終的にどちらに付いたかは言うまでもありません。
(加藤清正はこの後、島津家に反乱を誘発させた罪を問われ、最終的に徳川側となりましたが、微妙な立場になっています)

これによって襲撃事件は収まったのですが…… 石田三成側としては、面目丸つぶれです。
彼らとしては、このまま黙って徳川の天下にするわけには行かなかったでしょう。

一方、徳川家康も味方を増やす活動を行っており、武将の婚姻の斡旋、困窮している大名への援助、トラブルの取り成しなどを積極的に行っています。

島津義弘
島津義弘

九州鹿児島の島津家は、2度目の朝鮮出兵「慶長の役」で大活躍したものの、被害が大きく戦費もかさんでおり、財政的にピンチに陥っていました。
徳川家康はこれを援助し、その際に「何かがあったら協力して欲しい」と島津義弘に頼んでいます。
彼はその後、成り行きで石田三成の「西軍」に所属することになりますが、家康にも恩があり、心情的に微妙だったようです。

なお、徳川家康は朝鮮出兵には参加していません。
1590年、朝鮮出兵が始まる2年前、豊臣秀吉の命令で、それまで治めていた東海地方の東部と甲信越から、関東一帯へと「国替え」(移転)させられていたからです。
中央に近く、徳川への忠誠心も高い地域に家康を置いたままにしておくのは危険だと、秀吉が警戒したからだと言われていますが、この国替えにより徳川家は朝鮮への出兵を免除されており、結果として「徳川家康が十分に力を蓄えることになった」というのは、よく言われる話です。

そして戦国の世は、「関ヶ原の戦い」へと向かっていく事になります……


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2020/7/22 原文を再編して当ページを作成、公開
2009/8/10、2009/9/7 大河ドラマ「天地人」のブログに投稿。初稿(原文)