わかりやすい 大坂(大阪)冬の陣・夏の陣

戦国時代最後の大合戦「大坂 冬の陣・夏の陣」。
徳川家康の天下統一の最終仕上げであり、豊臣家が最後の意地を見せた戦いですね。
真田幸村が天下人となった徳川家康に、一矢報いた戦いとしても知られています。

大坂の陣大坂の陣は「関ヶ原の戦い」が終わって15年ほど経った後に行われたものであり、もう世の中は江戸時代に入っていました。
そのため、他の合戦とはかなり趣が異なります。

もはや戦国大名が覇を競っていた時代ではなく、天下太平になりつつある頃。
そこにわずかにくすぶっていた、反徳川の気概と戦乱への渇望が、「豊臣」の元に集って爆発した戦国の残照です。

ここではそんな大坂の陣と、そこに至る過程を、できるだけ解りやすく解説しています。



【 大坂の陣への経緯 】

1-1:関ヶ原の後。淀、豊臣の中心に

「大坂の陣」への過程は、1600年に行われた天下分け目の合戦「関ヶ原の戦い」より始まります。

関ヶ原の戦い関ヶ原の戦いの前、日本は「豊臣家」が天下統一している状態でした。
しかし豊臣秀吉は1598年に病死、息子はまだ5才でしたから、豊臣家は家臣たちによって運営されることになります。
ところが、豊臣家の家臣は当時「文治派(官僚)」と「武断派(将軍)」に分裂して仲違いしていました。

そして対立の末、石田三成が文治派の代表として「西軍」を、徳川家康が武断派の総大将として「東軍」を率いて、関ヶ原で戦う事になります。
結果、三成の西軍が破れ、豊臣家の重臣であった豊臣五奉行は解体される事となります。
(その詳細は 関ヶ原の戦い のページで解説しています)

さて、徳川家康が勝ったことで、徳川幕府が開かれて江戸時代になる訳ですが……
関ヶ原の戦いは名目的には「豊臣家の家臣団同士の戦い」でした。

一応、トップは大坂城の豊臣秀頼(当時7才)だった訳です。

家臣団のトップしかし徳川家康が関ヶ原の戦いに勝ち、名実共に「豊臣家の家臣の代表」になって、秀頼はまだ子供ですから、家康が実質のトップになります。
関ヶ原の戦いという大合戦で対立に決着が付き、それに文句を言う者はいなくなったため、政務は彼の主導で行われます。

一方、徳川家康と対立していた豊臣家の家臣の多くは、関ヶ原によって死罪か戦死、もしくは領地を没収され追放となってしまいます。
家康側だった人は家康の元に行きましたから、大坂城の豊臣秀頼の周辺には、有力な家臣がいなくなります。

その結果…… 大坂城は豊臣秀頼の母である「」が中心となって運営が行われるようになります。

そして彼女は(当時の大名家の息子としては珍しく)自分の手元で、自分の乳で育てた我が子を、過保護なほどに可愛がっていました。
当然のように彼女にとっては、豊臣秀頼こそが天下人であり、徳川家康は秀頼の家臣に過ぎなかったのです。

こうして大坂の陣に繋がっていく、不幸なすれ違いが起こり始めてしまいます。

1-2:大坂の陣への14年

前述したように、関ヶ原の戦いから大坂の陣に至るまで、約15年もの年月が流れています。
徳川家康と大坂城(淀・豊臣秀頼)の対立は、すぐに合戦に繋がった訳ではありません。

「大坂の陣」に至る流れを年表形式で説明すると、以下のようになります。

以上が「大坂の陣」に至る経緯です。

重要な出来事は、1605年の「徳川秀忠の将軍就任と淀の挨拶拒否」、1611年の「徳川家康と豊臣秀頼の会見」、1613年頃の「豊臣家が幕府を無視して官位を要請、豊臣と徳川の双方が合戦準備を開始」の3つですね。

家康と秀頼の会見淀が徳川幕府に臣従しない姿勢を明確にし、徳川家康と豊臣秀頼が会見を行うまで、6年も間があることがポイントです。

1605年に淀が反徳川の姿勢を見せた時、合戦になると各地が緊張状態になったのですが、家康はこの時は事を穏便に済ませました。
この時点では、なんとか豊臣家を交渉で臣従させたいと考えていたようです。

しかし6年交渉しても結果が出ず、1611年に何とか秀頼と家康の会見まで持ち込んだものの…… そこから両者の関係は急速に悪化してしまいます。

この急速な悪化は、「家康が立派な秀頼を見て危機感を抱いたから」と言われることも多いのですが、豊臣家の実権は相変わらず「淀」が握っていたため、「最後の手段であった会見も、淀の存在や考えを変えさせることが出来なかったから」という見方の方が自然かもしれません。

また、この頃から豊臣家の方も急に軍備を始めているので、「豊臣家が焦り始めた」という見方が一般的です。
焦り始めた理由は正確には解りませんが、豊臣家に近い有力大名の高齢化と病死が進んでいたことや、徳川幕府の体制が年々強固になっていった事など、理由はいくつも考えられます。

1-3:方広寺鐘銘事件

そして大坂の陣が起こる直接のきっかけとなったのは、有名な「方広寺鐘銘事件」。

方広寺鐘銘事件豊臣家が方広寺というお寺に収めた鐘に「国家安康」「君臣豊楽」と書かれており、これを見た徳川幕府が「これは『家康』の字を2つに分けて呪い、さらに『豊臣』が主君になって栄えるという意味だ!」という言いがかりを付け、豊臣家に釈明を求めた事件です。

この「言いがかり」を言いだしたのは、後に「黒衣の宰相」と呼ばれる家康の参謀の僧侶「以心崇伝(金地院崇伝)」です。
彼は以前から「豊臣家に各地の寺院の修繕を命じてその資金力を削ぐ」という案を提示しており、その寺院の修繕で作られた鐘の文章にイチャモンを付けた訳ですから、まさに豊臣家は以心崇伝の術中にハマったとも言えます。

以心崇伝以心崇伝 本多正純本多正純

また、これを元に豊臣家を攻める計画を作ったのは、家康の側近であった本多正信の子「本多正純」であったようです。
しかしこんな言いがかり、誰の目にも強引な訳で、最初から「ムチャな言いがかりで相手を怒らせる」という考えもあったのかもしれません。

これに対し豊臣家は「片桐且元」と「大蔵卿の局」という2人の使者を派遣し、弁明を行います。
ところがこの2人に対して家康は、大蔵卿の局には直接会って「ぜんぜん問題ないよー」と言い、その一方で片桐且元に対しては、本多正純を通して「ぜってー許さねー! 臣従するか、淀を人質に出すか、移転するか、どれかを選べ!」と返答。
そのため豊臣側は「大蔵卿の局」の報告を信用し、片桐且元に「徳川と結託しているのではないか?」という疑惑の目を向けてしまいます。

結果、片桐且元は大野治長織田頼長といった主戦派に命を狙われ、豊臣家から脱出。
そしてこの事を徳川家康は非難し、豊臣家は合戦が不可避であることを悟って防戦体制を固め、ついに徳川家康は豊臣の討伐を宣言します。

片桐且元片桐且元

片桐且元の件も徳川側の術中にハマったと言えますが、片桐且元はその後に徳川家康の元に逃れ、大坂城攻めでも様々なアドバイスを行っています。
単にハメられたのなら家康の元に行くとも思えないため、どこまでが家康の「謀略」だったのかは解りません。
いずれにせよ、徳川側が「合戦も辞さない構えになった」時点で、もはや戦いは避けられない状況だったと言えます。

そして時代は、戦国の終幕「大坂 冬の陣・夏の陣」に向かうこととなります……


【 大坂 冬の陣 】

2-1:両軍、将兵を招集

兵士入城1614年11月、いよいよ徳川家と豊臣家、双方が合戦の準備を始めます。

徳川家康は全国の大名に豊臣討伐のため参陣するよう要請、全国から軍勢が集まりました。 その数、約20万
一方の豊臣家も、全国の大名に味方するよう嘆願しますが、応じた大名家はひとつもありません。
その割には…… 豊臣家にも約10万もの兵力が集まっています。

これは「大坂の陣」という戦いが、いかに特殊なものだったかを物語っています。

豊臣家はこの数年前から資金を惜しみなく使い、全国から浪人を集めました。
「関ヶ原の戦い」の際、西軍に味方して没落してしまった大名家や、その家臣・武士が全国にたくさんいたため、そうした浪人たちが関ヶ原のリベンジと「お家再興」を目指して、数多く大坂に集まったのです。

主な武将としては、
関ヶ原の後に取り潰された四国・長宗我部家の末裔「長宗我部盛親」、関ヶ原で毛利軍として参加していた「毛利勝永」。
関ヶ原の宇喜多軍の主力で熱烈なキリシタンであり、徳川家のキリスト禁止に反発していた「明石全登」。
さらに武闘派として有名な「後藤又兵衛(後藤基次)」や、大谷吉継の子「大谷吉治」、仙石秀久の子「仙石秀範」などがいます。

もちろん豊臣家に恩義を感じていて、豊臣家に従った武将もいます。
福島正則の子「福島正守」なんかもそのようですが、しかし父の「福島正則」は徳川家から「危険人物」として目を付けられていたため、江戸で軟禁状態にされていました。

また「これが戦国最後の合戦だろう。豊臣家に従って死に花を咲かせよう」と考えて参加した武将もいたようです。
三好家の生き残り「三好政康」や、足利・伊達に仕えた「和久宗是」などは、そうした「死に花」組だったようです。

そして豊臣家の一般兵士には、傭兵や傾奇者(かぶきもの)が多かったことも特徴です。
各地で合戦があった戦国時代、お金を貰って兵士になる傭兵まがいの集団が多くいました。
しかしそうした集団は、太平の世になると仕事がなくなります。
そのため、その多くが一攫千金や出世を夢見て大坂城に入ったようで、中には山賊の類もいたようです。

傾奇者(かぶきもの)は今で言うヤンキーみたいなものですね。
織田信長の末裔である織田頼長がその代表格で、こうした人は当時、戦国の世に「あこがれ」のようなものを持っており、合戦での活躍と立身出世を夢見て、大坂城に傭兵として入る者が少なくなかったようです。
すでに関ヶ原の戦いから14年…… もはや「戦国」は現実ではなく、物語になりつつあった時代でした。
(だからこの手の中には、ゴテゴテに着飾って鎧が重すぎて馬がバテて身動き取れないとか、デカい旗を背負って現れ突風にあおられて吹っ飛んだとか、DQN な ユニークな人も多いです)

これらを集めたことで、豊臣家は約10万という、状況から考えると破格の大兵力を擁することができたのですが……
しかし中を見てみると、傭兵や素性の知れない者の寄せ集め。 徳川軍は正規軍。
これでは「大坂城」があっても、勝つのは難しかったのが実情です。

2-2:鴫野の戦い

大坂の陣は、大坂城の攻防戦が中心となりましたが、いくつか野戦も行われました。
大坂・冬の陣」で特に大きかったのは「鴫野(しぎの)の戦い」という合戦です。

鴫野の戦いこれは大坂城の東で行われたもので、豊臣軍はここを約二千の兵で守っていましたが、徳川側の上杉軍がこれを撃破。
豊臣軍はこの報告を聞き、一万以上の兵力を救援に向けますが、徳川軍もすぐに増援を出して激戦となったものです。
この時、上杉軍は部隊を左右に分け、その中に入り込んだ敵に鉄砲を一斉掃射し、さらに追撃する作戦を取って豊臣軍を押し返したと言います。

さらに北の方では、徳川側の大名「佐竹家」の軍勢が豊臣軍のイケメン侍「木村重成」に攻撃され苦戦、さらに後藤又兵衛(後藤基次)の追撃を受けて窮地に陥っていました。
しかしこれも、鴫野の戦いに勝利し、意気の上がる上杉軍&徳川増援の到来で逆転。
豊臣軍は撤退しています。(今福の戦い)

なお、この地点を占領後、徳川家康は上杉軍に別の部隊と交替して休むよう命令したのですが、上杉景勝は「武士として生まれ先陣を争い、身を粉にして戦って奪った土地を、他人に任せることなど出来ない!」と返答、拒否する一幕があったようです。

2-3:真田丸の攻防と家康の大砲

各地で小競り合いはあったものの、豊臣側は最初から城で守りながら戦う「籠城戦」を予定していたため、戦いはそのまま大坂城へと移ります。

城と出城そして「大坂・冬の陣」でもっとも激戦となったのが、真田幸村が築いた出城真田丸の攻防です。
「出城」とはその名の通り、城の外壁などの部分に、出っ張るように築かれた小型の城や砦のこと。

大坂城は周囲を淀川や大和川などに囲まれた「天然の水掘」がある城でした。
しかし南側には川がなく比較的手薄で、徳川軍もそこからの進攻を準備します。
そこで真田幸村は、そこに小さな城を築き、それを前線の防衛拠点として敵の進攻を阻もうとしました。

ただ、これは戦術的な理由以外に、「自分の思い通りに戦いたいから」というのもあったようです。
真田幸村は当初、大坂城から出撃して各地で敵を遊撃する「積極策」を主張しました。
しかし大野治長などの豊臣家の首脳部に却下され、篭城する作戦を取ります。

真田幸村は豊臣家にお願いされて大坂城に入った訳ですが、豊臣家の中枢部は淀と、その周辺の家臣。
幸村が作戦を提案しても、なかなか通らなかったようです。
そこで本陣から離れ、真田家の家臣団だけで守る「真田丸」での防衛を決めたようです。
いずれにせよ、敵の進攻方向が決まっている以上、そこで守りを固めるのは定石ではあります。

開戦時の大坂城南部の布陣と、各軍の進行方向は以下のような形でした。

真田丸の攻防大坂城のような巨大な城をまともに攻めても大被害が出るだけです。
それは徳川軍も解っていましたから、徳川家康は当初、包囲だけして打って出ないよう命令していました。
しかし真田幸村は、前面にある「篠山」という山に伏兵を潜ませておき、前田軍に何度も鉄砲を撃って挑発します。
そのため前田軍は数日後、篠山に一斉に攻撃をかけますが…… すでにもぬけの殻。
真田軍はすでに篠山から退いていて、しかもその様子を見てワザとバカにするように大爆笑します。

これでキレた前田軍の先発部隊の一部が、ついに真田丸に攻撃を開始!
するとこれを「前田軍の抜け駆け」かと思った井伊直孝、松平忠直、藤堂高虎の部隊も真田丸に殺到します。
前田軍も先発部隊を放置しておけないので進攻を開始、しかしそれは真田幸村の思う壷でした。
敵が城壁に取り付いたところで真田幸村は反撃を開始!
準備していた罠や鉄砲隊で一斉に徳川軍を撃ちのめします。

真田幸村は大坂城に入る前、鉄砲の産地であった紀州(紀伊半島)に滞在していました。
そのため部隊内に鉄砲の名手が多くいて、それも真田丸が強力だった理由のようです。

さらにここで、予想外の事態が発生します。 真田丸の後方の大坂城内で、火薬の爆発事故が起きて櫓が焼け落ちたのです。
徳川軍は事前に豊臣軍の武将「南条元忠」という人に、合戦中に寝返るよう調略(寝返り工作)をかけていました。
真田丸の後方の爆発は、この南条元忠の寝返りによるものだと思った徳川軍は、チャンスと見てさらに一斉に攻撃を開始!

南条元忠南条元忠 後藤基次後藤基次

ところが、これは単なる事故。
実は南条元忠は、すでに寝返りがバレて処刑されていた後でした。
おまけに豊臣軍の後藤又兵衛が、南条元忠の筆跡を真似て「バッチリ寝返りますよ!」という「偽書」を徳川軍に送っていたものだから、徳川軍はみんな勘違いしてしまいます。

こうして徳川軍は爆発のあった辺りで城門が開くものと思い進軍しますが、当然開かないうえに、城から攻撃を受けまくってボコボコに。
真田丸を攻めていた部隊も鉄砲射撃で撃ちのめされ、ついに撤退を開始しますが、すかさずここで真田軍、及び後方の豊臣軍が一斉に打って出ます。
後はもう掃討戦に近い状態となり、徳川軍は大被害を被って撤退することとなりました。

その後、この被害を見て徳川家康は大坂城を力攻めで落とすことを断念。
豊臣側との和平交渉を開始します。

大砲一方、豊臣側の方も大砲を連日撃ち込まれて疲労困ぱい。
昼夜を問わず飛んでくる大砲で守備兵は夜も寝られない状態で、特に大坂城の本丸に砲弾が直撃し、淀の目の前で侍女の一人が死んだため、当初は強気だった淀も一気に意気消沈。
そのまま和平交渉に応じることを決めます。

豊臣側は大坂の陣になっても淀が強い力を持っていましたが、彼女はやはり女性。
連日撃ち込まれる大砲に怯えていたようで、これも豊臣軍が長期戦が出来ない理由であったようです。

こうして「大坂・冬の陣」は終わりますが……
それは「大坂・夏の陣」の始まりに過ぎませんでした。


【 大坂 夏の陣 】

3-1:大坂城、堀を埋められる

「大坂・冬の陣」が終わった後、双方の間で以下のような取り決めが行われました。

内堀を埋めて淀げきおこところがここで…… 徳川側は「外堀」を埋めた後、「内堀」まで埋めてしまいます!
防衛拠点となる「二の丸」と「三の丸」、さらにその周囲の砦まで徹底的に壊され、大坂城は掘や砦のない丸裸の城になってしまいました。

この「内堀」まで埋めた一件は(定説として)徳川側が取り決めを無視して、勝手に行った事だと言われており、豊臣家に大きな反発や不信感を与えることになります。

一方、豊臣家は「大坂・冬の陣」が終わった後も、浪人たち(兵士)をそのまま城内に留め置いていました。
これは「浪人たちの罪は問わない」というのを豊臣側が都合のいいように解釈したためと言われていますが、徳川側は武装解除を要求していたため、それが受け入れられないことに不信感を感じてしまいます。

そして翌年の3月…… ついに徳川家康は、浪人たちが町で乱暴を働いている事を理由に、豊臣家に「浪人を解雇する」か「別の土地に移る」かのどちらかを選ぶよう通達します。 事実上の最後通告です。

これを受け、淀と豊臣秀頼の側近で、秀頼の実の父親とも噂されていた大野治長が、大坂城にいた織田有楽斎と共に講和の取りまとめを行おうとするのですが……
強硬派であった弟の大野治房に襲撃されて負傷。 有楽斎も大坂城から退去してしまい、講和案は消滅。

翌月、徳川家の要求を拒否した豊臣家は、すぐさま合戦の準備を開始。
家康も再び各地の大名家に京都に集結するよう呼びかけます。

大坂城はすでに防御力を失っており、「冬の陣」の後に退去する浪人も多くいたため、もはや豊臣側に勝ち目があるとは思えない状況でした。
そのためか家康は「兵糧は3日分でいい」と言っています。
一方の豊臣側は積極的に打って出る作戦で、この状況を打開しようとしていまいた。

こうして 1615 年の4月末、戦国最後の合戦「大坂・夏の陣」が始まります。

3-2:道明寺の戦い

大坂・夏の陣」の双方の兵力は、豊臣側が約7万、徳川側は15万以上だったと言われています。
相変わらず兵力には2倍の差がありますが、豊臣家の当時の状況を考えると、7万でもかなりの大軍と言えます。

まず豊臣家は大野治房を大将として、奈良の町を襲撃、さらに商業都市「堺」と、紀伊(和歌山)方面に進攻します。
徳川家に協力的だった奈良と堺を焼き払い、紀伊で一揆を煽動、徳川軍の後方を脅かそうとします。
しかし先発隊が紀伊半島の大名「浅野家」に撃退され、一揆の煽動にも失敗したため、一旦帰還します。(樫井の戦い)

この動きを受けて、徳川軍も進軍を開始。
大和(奈良)と大坂城の中間にある「道明寺」という場所に、両軍が向かいます。
ここは山と川に挟まれた防衛に向いた場所で、豊臣軍も真田幸村毛利勝永明石全登後藤又兵衛などの主力武将を派遣、ここで徳川軍を迎撃しようと考えていました。

大坂・夏の陣ところが、この日は濃霧!
視界が悪く、部隊の進行はバラバラになってしまいます。

これは豊臣軍が傭兵集団であり、非常時の部隊の統率に欠けていたのも影響したようです。

そして戦場に最初にたどり着いたのは、兵力2800の後藤又兵衛の軍勢。
ところが他の部隊はみんな遅れており、しかも徳川軍はすでに道明寺に差しかかっていました。

そのため後藤又兵衛はそこにある「小松山」を占拠し、単独で徳川軍を押し止めようとするのですが……
騎馬鉄砲隊を率いる伊達政宗本多忠勝の息子の本多忠政、猛将として知られた水野勝成など2万の軍勢から集中攻撃を受け、多勢に無勢で壊滅。

さらにそこに、霧を抜けて明石全登などの他の豊臣軍の部隊が到着。
後藤又兵衛を救援しようとすぐに徳川軍に向かっていくのですが、バラバラのタイミングで到着して個々に敵に突っ込んでいったため、戦力逐次投入の形になり、突っ込んだ端から各個撃破されていく展開に。
こうして「道明寺の戦い」で、後藤又兵衛の他、多くの豊臣側の武将が戦死することになってしまいます。

後藤又兵衛を撃破した徳川軍はそのまま西に進み、山と川に挟まれた難所を通過。
そして午後に入ってから、ようやく真田幸村と毛利勝永がその地に到着します。

真田幸村真田幸村 毛利勝永毛利勝永

幸村は到着が遅れて後藤又兵衛を死なせてしまった事で落ち込んでいましたが、毛利勝永の励ましで奮起し、伊達政宗の軍勢を迎撃。1万を超える伊達軍に大きな被害を与えます。(誉田の戦い)
徳川軍は大坂に近づく前に消耗することは避けるよう言われていたため、迎撃が後手になったとも言われています。
こうして幸村到着後は、徳川側が一時押し返されたのですが……
その北の方、大坂城の西では、他の豊臣軍の部隊が苦戦していました。

大坂城の西では、徳川軍の井伊直孝藤堂高虎が進軍中で、これを豊臣軍は豊臣秀頼の親友と言われる美男子「木村重成」と、没落した四国の大名・長宗我部家の最後の当主「長宗我部盛親」の軍勢で止めようとします。
そして長宗我部盛親と木村重成は、まず共同で藤堂高虎軍を撃破、当初は戦いを優勢に進めていました。

木村重成木村重成

しかし、さらにやってきた井伊直孝の軍勢に対し、木村重成は「兵が疲れているから一旦休みましょう」という家臣の意見を無視して連戦で挑み、敗退。 そのまま戦死してしまいます。(八尾・若江合戦)
こうなると長宗我部盛親も敵中に孤立してしまうため退かざるを得なくなり、これにより真田幸村も急いで大坂城に戻らなければならなくなります。
大坂城はすでに防御力を無くしているため、井伊直孝軍が大坂城に迫ると危険だったためです。

こうして大坂・夏の陣は、いよいよ大坂城近郊の戦いに移ります。

3-3:天王寺口の戦い

翌日、豊臣軍は大坂城の南に軍勢を集結。
徳川軍もその地に集まり、最後の決戦「天王寺・岡山の戦い」が始まります。
しかし、すでに豊臣軍3万弱、一方の徳川軍は10万以上…… 大きな差がありました。

戦いの前、真田幸村は「豊臣秀頼」自身が出陣することを何度も要請しています。
最後の決戦で勝つには総大将自らが戦場にあって、兵士を鼓舞し、士気を高めないと勝てないと考えていたようです。
しかしこれは、淀と側近の家臣が断固として拒否。
幸村の再三の要請で城門までは行ったのですが、結局秀頼は本丸に帰ってしまい、そのまま戦いが始まってしまいます。

この最後の戦いは、両軍が正面からぶつかった戦いとして知られています。
なぜなら豊臣軍にとって、もう勝つ方法は「徳川家康の首を取る」しかないからです。
「せめて家康を道連れに!」みたいな気持ちもあったのかもしれません。

真田幸村の突撃そのためか、この最終戦での豊臣軍の戦いぶりは凄まじく、特に真田幸村の突撃は敵味方を問わず賞賛されたほど苛烈なもので、前面に立ち塞がった徳川家の部隊を次々と討ち破り、ついに徳川軍の本陣にも突入!

本陣の旗が踏み荒らされ、徳川家康の本隊が混乱状態に陥るほどのものでした。
別方面(岡山口)で戦っていた二代将軍の徳川秀忠も、大野治房の奮戦により本陣への突入を許し、やはり混乱に陥っています。
この戦いで、徳川家康が切腹を考えたという話や、家康が討ち取られたという伝承もあるほどです。

しかし、豊臣軍は多勢に無勢……
苛烈な突撃を見せた真田幸村もついに力尽き、戦死。 統率を取り戻した徳川軍に豊臣側は撃破されていきます。
開戦から3時間後、なんとか戦線を維持していた毛利勝永は全軍に大坂城内に退却するよう命令。
城を盾に最後の戦いを行おうとしますが、城内から火の手が上がり、大坂城は炎上。

こうして豊臣家の命運は尽き、戦国時代は終焉を迎えました。
その夜、京都からも大坂の空が真っ赤になるのが見えたと言います。

3-4:千姫の助命嘆願

大坂城が落城間近になると、は家康の孫娘で、秀頼の妻であった千姫に「豊臣秀頼の助命嘆願をして欲しい」と言って、護衛を付けて大坂城を脱出させます。

姫の脱出その後、千姫は堀内氏久という豊臣側の武将により、坂崎直盛という徳川側の武将に引き渡され、無事に父の二代将軍・徳川秀忠の元に到着。
すぐに家康に豊臣秀頼の助命嘆願を行っています。

しかし、もはやこの状況で徳川側が助命嘆願など聞くはずがありません。
特に千姫の父である徳川秀忠が断固として反対。

淀は秀頼と共に蔵の中に隠れていましたが、これは千姫による助命嘆願が承諾されるのを待っていたと言われています。
しかし音沙汰はなく、淀は助命が聞き入れられないことを悟ります。

翌日、淀と豊臣秀頼は、毛利勝永の介錯によって自害。
毛利勝永もすぐに後を追い、豊臣家は滅亡しました。

豊臣秀頼には側室との間に2人の子がいたのですが、息子(国松)は大坂から脱出していたものの、徳川家の捜索によって発見され処刑されてしまいます。
ただ、幸村と共に薩摩(鹿児島)に落ち延びたという伝承もあるようです。

娘は落城時に徳川軍に捕らえられ処刑されそうになりますが、千姫が身を挺してかばい、出家することを条件に許されました。

千姫はその後、本多忠勝の孫にあたる「本多忠刻」という武将に嫁いでいます。
彼女を案内した坂崎直盛がのちに千姫を奪おうとして、ひと騒動があったとも伝えられています。


以上が、大坂の陣の顛末です。

「淀」の人物像については色々と言われていますが、結局この人は「普通の女性」だったのだと思います。
ねねのような政治的センスも、お市のような気丈さもない、我が子を愛しただけの、普通の女性。
しかし普通の女性が背負うには、豊臣家の命運は重すぎたのでしょう。

豊臣秀頼は若くして死んだので、大将としての才覚は解りませんが、徳川家康は会見した時に「賢き人なり。人の意見を聞くような人では(人の意見に惑わされることは)ないだろう」と語っています。
ただ、淀は秀頼を可愛がるあまり、外に出すことは少なく、危ないからと言って武芸なども行わせていませんでした。
超温室育ちだった訳で、これでどこまで大将として通用したかは疑問です。
家康の感想も…… 感想と言うより、願望に近い気がしますね。

「大坂・夏の陣」の戦いは、真田幸村が徳川家康の本陣に切り込む戦国最後の名場面があるため、よくドラマや小説のハイライトになっています。
今後も様々な形で、テレビや書籍で語られていくことでしょう。