【 九州三国志の中心人物 】
・大友宗麟 |
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・島津義久 |
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・龍造寺隆信 |
戦国時代、それは日本中が戦乱に明け暮れた時代です。
特に有名な戦国時代のお話は、織田信長や豊臣秀吉、武田信玄や上杉謙信などが活躍した近畿地方や甲信越のもの。
しかし、東北地方や中国地方、四国や九州でも、激しい戦乱が繰り広げられていました。
特に九州の戦乱は、3つの大きな大名家が台頭した事から「九州三国志」と呼ばれます。
でも、地方の戦いである九州の戦乱について詳しく知っている人は、あまりいません。
九州の戦乱は織田信長や豊臣秀吉、徳川家康と言った戦国の主要人物にはあまり関わっていませんし、大勢が決した頃には、すでに日本は豊臣秀吉により天下統一されつつあったからです。
しかし九州の戦乱にも、本州の戦いに負けず劣らずの激しい戦いと、知略・戦術の応酬がありました。
このページではそんな九州の戦乱を、あまり歴史に詳しくない方でも理解できるよう、出来るだけ解りやすく解説しています。
※よって定説・通説をベースとしています。
※戦国時代を題材にしたゲームや小説等に登場する、身近な武将をピックアップしつつ解説しています。
画像は 信長の野望 オンライン および 信長の野望 天下創世 のものです。
・大友宗麟 |
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・島津義久 |
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・龍造寺隆信 |
大友 VS 毛利! 北九州の覇権 |
1550年~1564年
九州三国志の主要国のひとつ「大友家」は、九州北東の豊後(大分)周辺を支配した戦国大名です。
鎌倉時代からこの地方を治めてきた一族であり、大友宗麟の父「大友義鑑」の時に勢力を拡大、戦国時代の初期には九州最大規模の大名となっていました。
「大友宗麟」は、その大友義鑑の長男なのですが…… しかし彼は、平和的にその跡を継いだ訳ではありません。
家は本来、長男が跡を継ぐものです。 しかし大友義鑑は、三男を一番可愛がっていました。
そこで彼は無理やり三男に跡を継がせようとするのですが…… これに家臣は大反対!
こうして主君と家臣の対立が起こってしまいます。
そして大友義鑑は、反対する家臣を謀殺しようと彼らを屋敷に呼ぶのですが、家臣側もその動きを察知。
逆にこれを利用して三男派を一掃しようと、策に乗ったフリをして屋敷に向かいます。
こうして大友家の屋敷では、主君と家臣の血みどろの斬り合いが発生!
結果、三男は殺され、大友義鑑も瀕死、反対派の家臣達も斬り殺されてしまいます。
騒ぎを聞いて駆けつけた大友宗麟の前には、死を前にした父・大友義鑑の姿が。
大友義鑑は大友宗麟に跡を継ぐよう遺言すると、そのまま息絶えてしまいます……
このドラマチックな大友家の跡継ぎ騒動は「二階崩れの変」と呼ばれています。
二階崩れの変によって大友家の跡を継いだ大友宗麟。
彼の運命は大友家を継いだ翌年から、すぐに大きく動き始めます。
北九州と中国地方に大きな勢力を持っていた「大内家」が、突如崩壊したのです。
大内家は平安時代の頃から中国地方の西部を支配していた名家であり、大大名です。
中国や朝鮮との貿易で大きな経済力を持ち、軍備も拡大。
戦国初期に北九州を支配していた「少弐家」を打倒し、北九州から中国地方に至る大きな勢力を持っていた、当時屈指の戦国大名でした。
しかし主君の「大内義隆」は中国地方の「尼子家」との合戦に敗れて以降、政務への興味を失い、遊んでばかりいるようになります。
これにより家臣同士の対立も発生し、大内家はガタガタに。
そしてこの状況を憂いた大内家の重臣で「西国一の侍大将」とも呼ばれていた「陶晴賢」が、ついに謀叛(反乱)を起こします!
これにより大内義隆は追い詰められ、自害。 大内家は急速に衰退することになります。
そして主君を討った陶晴賢は、大内家の跡継ぎとして「大内義長」という人を擁立するのですが……
実はこの人、大友宗麟の弟でした。
大内義隆は子供がなかなか出来なかったので、大友家から跡継ぎ候補を貰っていたのです。
しかし、主君を殺した人物が擁立した跡継ぎなんてみんな認めませんし、実権も陶晴賢が握ったままでした。
そのため、大内家の配下だった中国地方の勢力「毛利家」の「毛利元就」が、主君の仇討ちを名目に挙兵!
陶晴賢は大軍を持ってこれを鎮圧しようとしますが、毛利元就の作戦で海へと誘い出され、毛利家に協力した瀬戸内海の海賊「村上水軍」の奇襲を受けて、壊滅してしまいます。
この「厳島の合戦」により、陶晴賢は追い詰められ自害。
孤立した大内義長も、その後に毛利元就に討たれてしまいました。
この大内家の崩壊で、中国地方の大内領は毛利家が占領していきます。
一方、大友家は、一時的に弟の大内義長が大内家を継いでいた事もあって、北九州の大内領の権利を主張。
毛利家と交渉しつつ、北九州を占領していきます。
しかし、主君の仇である陶晴賢を討ち倒し、旧大内領の全ての権利を主張する毛利元就は、北九州を諦めてはいませんでした。
なぜなら北九州には、大きな経済力を持つ当時屈指の貿易都市「博多」があったからです。
ここを簡単に諦めることは出来ません。
大友宗麟は孤立した大内義長に救援を求められた時、毛利家と対立することを避けるため、あえてこれを無視していたのですが、毛利元就はその程度で懐柔できる相手ではありませんでした。
北九州の筑前・豊前(福岡周辺)を支配下に治めていく大友家。
北九州を支配する大義名分を得るため、朝廷(天皇家)や幕府(将軍家)に働きかけを行い、豊前・筑前の守護職(その土地を治める正式な役職)や、「九州探題」という官職(幕府の任命する九州の長官職)も手に入れています。
しかし、北九州の支配はそう簡単ではありませんでした。
北九州は元々、鎌倉時代の「元寇」(モンゴル・中国の国『元』が朝鮮半島から北九州に侵攻してきた戦争)で総大将と言える活躍をし、大きな権威を得た「少弐家」によって支配されていました。
しかし少弐家は戦国時代に大内家からの攻勢を受けて衰退。
さらに大内家も陶晴賢の謀反で崩壊し、そこに大友家が進出してきた訳です。
次々と支配者が変わり、少弐家や大内家と深い関係にあった勢力も多かったため、大友家への臣従を拒む者が多かったのです。
中国や朝鮮に近かったため、貿易によって高い力を持つ勢力が多かったことも要因でした。
陶晴賢のクーデターから6年が経った1557年。
大友家に抵抗し、北九州で毛利家の後援を頼りに独立を計ろうとしていた、元・少弐家の配下「秋月家」を大友家は打倒。
しかし秋月家の跡継ぎ「秋月種実」は船で毛利家へと逃れ、毛利元就の長男と義兄弟になり、お家再興の支援を要請します。
それから2年後の1559年……
毛利家は旧大内家の権利と、北九州の諸勢力の支援を大義名分とし、九州と中国地方の間の「関門海峡」に出っ張るように存在していた最前線の城「門司城」を大軍で攻撃!
そのまま占領してしまいます。
毛利家との対話を続け、毛利家が北九州に攻めてこないという約束を取り付けていた(と思っていた)大友宗麟は、虚を突かれることになりました。
怒った大友宗麟は軍勢を集め、数万(正確な兵力は不明)の大軍を率いて、自ら門司城の奪還に向かいます。
しかし、毛利家の勇将「乃美宗勝」や、水際での戦いに長けた毛利家の村上水軍の攻勢により敗退。
加えて「小早川隆景」の毛利水軍が大友軍の退却路に先回りし、敗走する大友軍を追撃!
大被害を被る結果となってしまいました。
この戦いは後に「門司合戦」と呼ばれています。
大友宗麟にとってこの大敗はかなりショックだったようで、戦いの後、宗麟は出家してしまいます。
彼の本来の名は「大友義鎮(よししげ)」と言うのですが、この出家により、名を僧名である「大友宗麟」に改めました。
門司合戦で毛利家に負けてしまった宗麟は…… ここから外交戦を展開します。
室町幕府の将軍「足利義輝」に献金しつつ、毛利家の非道を訴え、幕府による仲介を申し出る一方、毛利家の中国地方のライバルである大名「尼子家」に連絡、対毛利家の連係を取れるよう画策します。
将軍の足利義輝は大友家・毛利家・尼子家の和平の調停を開始しますが、これに対し毛利元就は尼子家を除いた形で大友家との和平交渉を進めようとし、尼子家はそれに反発して交渉の引き延ばしを計ります。
結局、それぞれの思惑によって和平交渉は難航、このまま何年も外交戦は続くことになりました。
門司合戦から5年後の1564年…… 毛利家が北九州の占領地を大友家に返還することで、ようやく合意に至ります。
門司合戦の後も毛利家と大友家の小競り合いは続いていましたが、一方で毛利家は中国地方で尼子家とも戦いを続けており、兵力は二分され、多忙を極める状態となっていました。
この多忙が影響したのか、毛利元就の長男は病死。 その悲しみも毛利元就の心に影響を与えたかもしれません。
しかし毛利軍は九州から撤退したものの、前線基地である「門司城」はそのまま保持します。
北九州の反大友勢力も、毛利家の支援を得て活発化しており、それは再び北九州に大きな戦乱をもたらす事となります……
南九州動乱 島津の系譜 |
1540年~1574年
北九州で大友家が毛利家と戦っている頃……
南九州では「島津家」が台頭していました。 この島津家は南九州を治める「守護職」という役割を持っていた名家です。
しかし、のちに九州を席巻することになる島津家の家柄は、元は本家ではなく、分家に過ぎませんでした。
おまけに戦国時代には各地で小勢力が台頭し、本家も分家も衰えていました。
そんな島津家ですが「島津日新斎(島津忠良)」の登場によって隆盛していくことになります。
分家の出身でありながら評判の高かった彼は、衰退していた島津家の再興を期待され、本家の跡を継ぎます。
もちろん、こういう人事があると定番の「跡継ぎ争い」になるのですが……
島津日新斎は合戦だけでなく交渉事にも優れており、徐々に薩摩(鹿児島西部)を席巻していきます。
そして1543年…… 島津家の将来を大きく変える出来事が起こりました。
未知の新兵器「鉄砲」の伝来です。
種子島に漂着したポルトガル人が持っていたこの鉄砲を、種子島の有力者「種子島時尭」が大金をはたいて購入、これが薩摩にも伝わって急速に実用化されます。
1549年、島津家は日本で最初に鉄砲を合戦で使用。
1554年には対立勢力との戦いで、鉄砲の撃ち合いも起こっています。
そして薩摩を治めるための激しい戦いが続いたことと、新兵器をいち早く活用できた事は、島津家の戦力向上に大きな影響を与えました。
1561年頃、島津家の当主は島津日新斎から、その息子「島津貴久」へと移っており、すでに薩摩は島津家の統治によって安定していました。
そんなある日…… 大隅(鹿児島東部)を支配する大名家「肝付家」と島津家の間で、宴会が催される事になります。
肝付家と島津家は友好的な関係で、互いに娘を嫁がせて縁戚関係にもあり、島津家が薩摩を支配する戦いでも、肝付家は援護を行ってきました。
しかし、この宴会の席でケンカが起こり、両家は激突することになってしまいます!
記録によると、酔っぱらった島津家の家臣が「鶴の吸い物が欲しいものだ(鶴は肝付家の家紋)」と言ったところ、肝付家の家臣が「次の宴会では狐の吸い物を出して貰おう(狐は島津家の守護神)」と返して口論になり、そのまま喧嘩になったとのこと。
ただ、これ以前から両家では何かのわだかまりがあって、それが酒に酔った勢いで出てしまったのが原因とも言われています。
宴会の後、肝付家の当主「肝付兼続」は城に戻ると、すぐに合戦の準備を開始。
この話を聞いて驚いたのは、肝付家と長い間、友好関係を保ってきた島津日新斎です。
彼はすぐに肝付兼続の怒りを鎮めて事を穏便に済まそうとするのですが…… もはや肝付兼続は聞き入れません。
結局、当主の島津貴久は合戦を決意し、両軍は戦いに突入するのですが、肝付家は友好関係にあった日向(宮崎)の大名「伊東家」に救援を要請します。
そしてこの伊東家も、友好関係にあった肥後(熊本)の大名「相良家」に支援を要請したため、次々と参戦する勢力が増加!
ついに宴会の酔っぱらいのケンカは、南九州全土を巻き込む戦乱へと発展します。
戦いは当初、肝付軍が優勢に展開し、島津軍は敗退、島津貴久の弟も戦死します。
伊東家の軍勢も肝付軍と共に島津領に進攻を開始し、防戦一方の島津家は肝付兼続に押される展開が続くのですが……
しかし開戦から3年ほど経った頃、連戦が祟ったのか肝付兼続は病に侵され、それでも陣頭に立っていましたが、2年後に病死。
以後、戦いは一進一退を繰り返すことになります。
そして肝付家との開戦から10年後の1571年…… ついに島津家の当主「島津貴久」も病死します。
こうして島津家の当主は貴久の子「島津義久」となるのですが、ここから島津家は大きな飛躍を遂げていくことになります。
1571年、島津家の当主「島津貴久」の病死を、肝付・伊東・相良の連合軍はチャンスと判断。
翌年、共同で大規模な進軍を開始します。
島津家は肝付軍に対する防備を固めますが、そのため伊東家・相良家が進軍してくる方面には、少数の兵士しかいませんでした。
伊東軍だけで3000人、それに対し、その前面にいた島津軍の兵士は300人……
しかし、その地を守っていた武将こそ、名将として知られる「島津義弘」でした。
「勝敗は数の多少ではない。一丸となって勇気を持って戦えば、必ず勝てる」と、島津義弘は伊東家の大軍に立ち塞がります。
島津義弘は相良家が進軍してくる方面に数十人を派遣、軍旗をたくさん立てかけて大軍がいるように見せかけ、相良軍の進軍を遅らせると、各所に伏兵を配置して伊東軍を待ち構えます。
数に勝る伊東軍は一気に島津家の城に向かって攻め上がりますが…… 川で水浴び中に奇襲を受け、島津義弘との一騎打ちに敗れた総大将が敗死。
そのため伊東軍は一旦後退し、相良家の援軍を待ちます。
しかし、相良軍は来ません。
相良軍は大量に立てられた島津家の軍旗を見て、島津の援軍が来たかと思い引き返していたのです。
伊東軍の油断を見た島津義弘は本隊を率い、伊東軍に突撃を開始!
しかし島津義弘の部隊は百数十人に過ぎず、伊東軍は三千人。
攻勢は失敗して後退、すかさず伊東軍は追撃に入ります。
ところが、これこそが敵をおびき寄せて包囲する島津義弘の得意戦法「釣り野伏」でした。
後退を続けていた島津義弘の部隊は突然停止すると、反転して反撃を開始!
同時に周囲から伏兵が一斉に現れ、伊東軍を四方から取り囲みます。
伊東軍が窮地を悟った時にはすでに遅く、軍勢は壊滅、多くの家臣が戦死。
さらに島津家の本国から来た援軍がちょうど伊東軍の敗走部隊に追いつき、伊東家は大被害を出す結果となります。
少数の部隊だったため、島津側の被害も大きく、島津義弘も何度も危機に陥ったようですが、島津家には家臣が「死ぬまで戦って」大将を逃がすという決死の戦法「捨てがまり」があり、多くの犠牲を出しながらも最後まで踏みとどまりました。
こうして島津兵の強さと結束の固さは、のちに全国で語り草となることになります。
この戦いの後、多数の将兵を失った伊東家はその被害を回復することができず、肝付家よりも先に倒れる事となります。
伊東家の支援を無くした肝付家は以後、防戦一方となり、合戦に長けた島津義弘・家久・歳久の兄弟の攻勢で追い詰められ、戦線はどんどん後退。
1574年、肝付家は降伏。
薩摩・大隅(鹿児島)と日向(宮崎)を支配した島津家は、一気に勢力を拡大し、南九州の覇権を得る事となりました。
毛利再来! 肥前の熊、台頭 |
1567年~1570年
南九州で島津家と肝付家・伊東家の戦いが佳境に入っていた頃・・・
北九州では、大友家がその勢力を大きく伸ばしていました。
毛利家に占領された北九州の土地を外交手段で取り戻した大友宗麟は、北九州で反乱を起こした勢力を次々と鎮圧。
豊後(大分)から肥後(熊本)の北部、北九州の豊前・筑前(福岡)まで広がる、大きな範囲を支配下とします。
ただ、大友家が隆盛を極めたためか……
もともと遊び好きだった大友宗麟は、芸者を呼んで毎日酒を飲み、酒池肉林で遊びまくっていたようです。
家臣の「立花道雪」が忠告しようとしても、ぜんぜん聞いてくれません。
そのため立花道雪は「いい芸者がいますよ! 酒も用意しますよ!」と言って大友宗麟を自分の屋敷に誘い出し、その上で大友宗麟に行いを改めるよう涙ながらに訴えた、という事もあったそうです。
そして、そんな大友宗麟の日頃の行いが…… ついに大トラブルを発生させてしまいます。
大友家には一万田親実という家臣がいたのですが、この人の奥さんがすごく美人でした。
一目惚れしてしまった大友宗麟は…… その家臣を追い詰めて謀殺し、その妻を自分のものにしてしまいます!
これに怒ったのが大友家の家臣で、合戦での功績も高かった一万田親実の弟「高橋鑑種」という人。
(高橋鑑種は養子に入っていたので苗字は違いますが、兄弟です)
人妻目当てに兄を殺された高橋鑑種はこの一件を理由に、大友家からの独立を宣言!
すると高橋鑑種の離反を皮切りに、北九州の多くの諸勢力も次々と離反。
そして大友家に一度壊滅させられ、毛利家に逃れていた北九州の名家「秋月家」も呼応し、毛利家に救援を要請。
まだ北九州を諦めていなかった毛利家はこれ幸いと、反大友陣営に支援を開始。
こうして北九州の動乱は、再び再燃することになります。
実際には、高橋鑑種の離反は以前から噂されていて、毛利家にもかなり前から内通していたようです。
きっかけは大友宗麟の略奪愛ですが、それ以前から離反の計画はあったようで、毛利家が裏で手引きをしていた可能性もあると言われています。
また、この頃から大友宗麟は「キリスト教」を信仰し始めます。
彼がキリスト教の布教を許したのは「南蛮貿易」(ヨーロッパ諸国との貿易)が目当てでしたが、徐々に大友宗麟自身もキリストの教えに傾倒していきました。
しかしそのため、家臣の間で宗教論争や寺社絡みのトラブルが起こっており、これらも北九州で離反が相次いだ要因のようです。
もちろんこの反乱を、大友宗麟も黙って見ているはずがありません。
政務に復帰した大友宗麟は離反した勢力への進攻を開始。
そしてこの戦いで特に活躍したのが、「雷神の化身」や「鬼道雪」と称された大友家の名将「立花道雪」(当時の名前は戸次鑑連)です。
立花道雪の攻撃で、九州の諸勢力は序盤戦に敗退します。
しかし秋月家が籠城して持久戦を展開、その支援を名目として毛利家が百隻以上の船団を派遣し、北九州への上陸を開始すると、秋月軍も夜襲で反撃。
これで大友軍が劣勢になったことで、ますます多くの勢力が反大友陣営に参加していきました。
そしてこの時、反大友陣営に荷担した勢力のひとつが…… 「龍造寺家」です。
肥前(佐賀)の勢力である龍造寺家は、元はこの地方を支配していた大名「少弐家」の配下でした。
しかし戦国時代の初期、龍造寺家が大友家に内通している疑いがあった事や、龍造寺家の当主「龍造寺家兼」の評判が良かったこと、さらに龍造寺家が過去に少弐家を裏切っていた事から、少弐家は龍造寺の存在に危険を感じ、ある日、襲撃して討ち滅ぼしてしまいます。
こうして龍造寺家は一族のほとんどを殺され、領地も失い没落していました。
そんな龍造寺家を再興させたのが、後に「肥前の熊」と称される勇猛果敢な大名「龍造寺隆信」です。
彼はお寺に奉公に出されていたので、龍造寺家が急襲された時、その難を逃れていました。
彼が龍造寺家を継いだ後も、反乱で国を追われるなど危機的な状況が続いていましたが、子供の頃から怪力で腕っぷしが強かった龍造寺隆信は、敵対勢力を打倒して領地を奪還。
その後も勢力を拡大して仇である「少弐家」を滅亡させ、再び龍造寺家を肥前の有力勢力へと発展させます。
そして北九州の諸勢力が反大友陣営を形成すると、大友家と対立していたため、これに加わります。
これを聞いた大友軍は、龍造寺家を早期に抑えるべく肥前へと進軍しますが……
ここで毛利家の大軍が北九州に上陸。
名将として知られる毛利元就の2人の息子「小早川隆景」と「吉川元春」が4万以上の大軍を率い、北九州の大友家の城を次々と制圧。
ついに北九州の中心拠点「立花城」も落城させます。
大友軍は龍造寺攻撃を中止して軍勢を再編すると、立花城の奪還に向かいます。
こうして大友軍の3万5千の軍勢と、毛利軍4万の軍勢が各所で激突!
多数の鉄砲も使用された、激しい攻防戦が繰り広げられます。
この戦いは立花道雪が率いる大友軍が徐々に優勢になり、立花城を包囲しますが、城で守る毛利軍も態勢を立て直して抵抗し、戦いはこう着状態に。
こうして両軍の睨み合いが続く中…… 大友宗麟は家臣の進言を受け、一計を案じます。
毛利家本国への逆進攻です。
大友家には、滅亡した大内家の親族である「大内輝弘」という人がご厄介になっていました。
大友宗麟は幕府から与えられていた、大内家の正式な跡継ぎの認可状を彼に持たせ、「大内家の再興」を大義名分に数千の兵を与えて、中国地方へと進攻させます。
この軍勢には大内家に旧恩のある勢力が次々と参加し、山陰の勇将「山中鹿之介」が率いる、すでに滅亡していた毛利家のライバル「尼子家」の残党勢力も加わります。
これを無視できなくなった毛利元就は仕方なく、小早川隆景&吉川元春に北九州からの撤収を命じます。
もちろん2人は「まだ負けた訳ではない!」とこれに反対しますが…… 主力が出払っている中国地方の毛利軍は、大内輝弘&山中鹿之介に苦戦。
毛利元就からの強い命令で、北九州の毛利軍は涙を飲んで同地から撤退。
立花城は大友軍に奪還され、戸次鑑連はこれを機に「立花道雪」に改名し、この城の城主となります。
中国地方に帰った毛利軍は、すぐに大内輝弘の軍勢を総攻撃、輝弘は敗死。
その後の戦いで山中鹿之介も打ち破り、尼子残党軍は衰退していくのですが、翌年、ついに毛利元就は死去。
その後、東から織田信長の軍勢も接近して来たため、以後、毛利家が九州を狙おうとする事はありませんでした。
毛利家の大軍が九州から撤退したことで、北九州の諸勢力は次々と大友家に降伏していきます。
争乱の発端となった「高橋家」、大友家に抵抗し続けた「秋月家」も従属を余儀なくされ、反大友陣営は瓦解しました。
こうなると、孤立してしまうのが…… 龍造寺家です。
龍造寺家は肥前(佐賀)の有力勢力となっていましたが、まだ肥前全土を掌握している訳ではありませんでした。
毛利軍の援護を受けて肥前の大友派を打倒しようとしていましたが、毛利元就は「肥前の情勢は複雑であるため、ヘタに介入しないように」という指令を出していたため、龍造寺隆信は満足な支援を得られません。
おまけに毛利軍は中国地方に撤退し、北九州の諸勢力も次々と大友家に降伏。
龍造寺家も大友家に和平を申し入れますが一蹴され、大友家の大軍が龍造寺家の城「佐賀城」に進軍します。 その数3万以上!
一方、龍造寺軍の総兵力は約5千人。 まさに絶体絶命でした。
しかし後のない龍造寺軍の士気は高く、大友軍も決定的な勝利を得ることが出来ません。
そのため大友宗麟はさらに増援を派遣し、必勝態勢を整えます。
そしてこの増援部隊を率いていた大将が「大友親貞」という人でした。
彼は龍造寺家の城「佐賀城」の近くにある「今山」という場所を押さえ、布陣します。
善戦してはいるものの、孤立していて救援も期待できない龍造寺家では、大友軍がさらに増えていくのを見て「もう降伏しかないのではないか」という意見が出始めます。
さすがの龍造寺隆信も、この時はそう考えていたようですが……
これに反対したのが龍造寺隆信の義兄弟でもある龍造寺家の名将「鍋島直茂」です。
彼は偵察によって、数に勝る大友軍がたるんでいた事を指摘し、「敵軍は我らを侮っており、これぞ天の与えるところ。 今夜、許しを頂ければ、十死一生の夜襲にて勝敗を決して参りましょう!」と発言します。
こうしてその夜…… 鍋島直茂はわずか17騎で城を飛び出し、大友親貞の本陣に向かって出撃します。
あまりに少数ですが、話を聞いた龍造寺家の家臣「成松信勝」や「百武賢兼」など、龍造寺家の武士たちが次々と合流、さらに龍造寺家や鍋島直茂を慕う国人たちに加え、山伏の一団まで加わって、最終的には
700人近くの軍勢が集まります。
鍋島軍は闇に紛れ、裏から回って大友軍に近づきます。 その夜、大友親貞の本陣では宴会が催されていました。
鍋島直茂はそれを隠れて眺め「もしこの戦で勝ったら、あの大友家の杏葉の紋を我が家の家紋としよう」と語ったと言います。
そして大友軍の将兵が宴会で酔って寝静まり、夜が明けようとしていた頃……
鍋島軍は一斉に大友親貞の本陣を襲撃、夜襲を敢行します!
不意を突かれた大友軍は大混乱! 次々と将兵が討ち倒され、大将の大友親貞も龍造寺軍の成松信勝に討ち取られます。
壊乱した大友軍では同士討ちも発生し、数時間にわたる戦闘で大被害、総崩れとなって四方へと敗走していきました。
この戦いはのちに「今山の戦い(今山合戦)」と呼ばれています。
これにより、大勝した龍造寺軍の士気はさらに高まります。
そして大友親貞の軍勢が壊滅したうえに、佐賀城が落ちる気配もなかった大友軍は、龍造寺家と一旦講和。
その後、龍造寺家はこの戦いで敵対した勢力に進攻を行い、肥前一国を掌握すると、その後も勢力拡大、九州の有力な戦国大名へと躍進していきます。
こうして九州には、九州北東部の「大友家」、九州北西部の「龍造寺家」、南九州の「島津家」という、3つの大きな大名家が君臨する事となります。
十字軍 VS 島津十字 千年王国の夢 |
1578年
1569年、毛利家が北九州に2度目の進攻をするも、大友家との戦いの末に撤退。
同年、龍造寺家が「今山の合戦」で大友軍を破る。
1572年、伊東家が島津家に進攻するも大敗。
1574年、島津家が肝付家を滅ぼし、九州南部を支配。
こうして…… 九州では大友家・龍造寺家・島津家が勢力を拡大。
他の中小の勢力はその圧力に耐えられなくなり、それぞれの傘下に入っていきます。
結果として九州は、この3つの大名家で三分割される事になりました。
言わば「三国鼎立」です。
しかし、この状態はそう長くは続きませんでした……
島津家の攻勢で壊滅した日向(宮崎)の大名「伊東家」の当主「伊東義祐」は、友好関係にあった大友家に逃れます。
一方、島津家の進出により、日向の小勢力は次々と島津家の傘下に入っていきました。
そしてついに、大友家と島津家の国境付近の勢力が、島津家になびき始めます。
「このままでは本拠地(豊後)の統治も危うくなる」と考えた大友宗麟は、日向国境への進軍を決意。
3万の軍勢を派遣し、島津家に寝返った勢力の討伐を命じます。
この戦いは、大友軍の大勝利に終わりました。
そして、この勝利に気を良くしたのか、大友宗麟は2度目の日向進攻を計画します。
その大義名分は、大友家に逃れてきた日向の大名「伊東義祐」の領地を奪還し、伊東家の「お家再興」を支援すること。
しかし、その本音はまったく違っていました。
大友宗麟の本当の目的、それは……
日向の地にキリシタンの理想郷「神の王国」を築くことでした。
この頃、大友宗麟は完全にキリスト教に傾倒していました。
2人の息子と共にキリシタンの洗礼を受け、「ドン・フランシスコ」のクリスチャンネームを与えられ、日々キリストの神に祈りを捧げる毎日を送っています。
しかし北九州は元々、大きな寺や神社が多く、「寺社勢力」の影響が強い地域でした。
それでなくても当主が異国の宗教に改宗してしまったのですから、家臣の反発は必至!
おまけにキリシタンとなった息子がお寺や神社を破壊し始めたため、領民からも反発が起こり、大友家では宗教関連のトラブルが続発していました。
そのためか大友宗麟は日向を占領し、そこにキリシタンと宣教師を集めた神の国を作ろうとしたのです。
しかし、この2度目の日向進攻に、家臣たちは猛反対!
相手は屈強で知られる島津家。 そう簡単に勝てるはずがなく、被害が大きくなる事は必至。
それに本当の目的が「キリシタンの国を作りたいから」というのは家臣も解っていたため、立花道雪を始めとして反対者多数。
特に大友家の軍師であり、立花道雪の師匠でもある「角隅石宗」は、「毛利や龍造寺が攻めてきたり、反乱が起こったらどうするんですか! 今は国内の整備を優先するべきです!」と強く反対するのですが……
神の国の理想に燃える大友宗麟は、もはや聞きません。
こうしてついに、大友宗麟自らが総大将を勤める4万の軍勢が、日向へと南下を開始します。
大友宗麟は船で移動を行いましたが、その船の帆には金縁の飾りと大きな赤い十字架が描かれており、まさに「十字軍」のようだったと伝えられています。
陸路で南下した本隊も、行く先々に十字架の旗を立てて移動していたと言います。
一方、その知らせを受けて、島津家も急いで軍勢を集めます。
島津家はこれを家の存亡をかけた一大決戦だと考え、各地から出来る限りの兵力を招集します。
日向に入った大友軍は島津側の小部隊を撃破しつつ、南下を続けます。
そして「耳川」という川を越えてさらに進み、その先の「高城」を包囲。
島津家にとって高城は突破されると危険な重要拠点であったため、島津家の勇将「島津家久」が守備に向かいますが、その軍勢は約3000人。
4万の大友軍の前には、さすがに小勢です。
しかし、高城の城主「山田有信」が奮戦、高城自体も川や崖に囲まれた難攻不落の要害であったため、なかなか落城しません。
城からの鉄砲攻撃も激しく、大友軍は一旦後退して持久戦に入ります。
そうしているうちに、島津軍の本隊が戦場に到着。 両軍は高城の側で睨み合いとなります。
ですが、この睨み合いは長くは続きませんでした。
大友軍の中で、武将同士の仲間割れが発生したからです。
軍師の角隅石宗は「後方から援軍が来るまでは、慎重に行動しよう」と進言、総指揮を勤めていた「田原親賢」もこれを支持していました。
ところが武将の一人「田北鎮周」が、「敵を目の前にして黙っていられるか! どうせ死ぬなら自分だけでも突撃する!」と言い出して聞かず、勝手に自分の陣に帰り、最期の別れの酒盛りを始めてしまったのです。
しかもこれに賛同した武士が多数現れ、各所で討ち死にを覚悟した酒盛りが始まってしまいます。
実は大友軍には、出陣前から死を覚悟して来た者が多くいたのです。
キリスト教徒でない武将にとっては、この出陣は本意ではありません。
そのためか、多くの者が負けを悟り、出発前から最期の宴会や茶会などが行われていたと言います。
また、角隅石宗や田北鎮周はこの出陣に反対していましたが、田原親賢は数少ない賛成派のひとりでした。
そのため総指揮を任されたようですが、この事に田北鎮周には当初から反発があったようです。
おまけに大友宗麟は家臣の出陣要請を拒否し、後方に作った聖堂で「お祈り」を捧げている事が多く、主君が現場にいなかったことも武将の分裂を誘発することになりました。
翌朝…… 田北鎮周の部隊は、大友軍と島津軍の間にあった川を渡り、島津軍へと突撃!
彼に従う部隊も次々と川を渡り、田北鎮周の行動を抑えられなかった大友軍の本隊も、結局はこれを見捨てることが出来ず、攻撃に参加。
こうして大友軍の一斉攻撃が始まります。
序盤は覚悟を決めた大友軍がさすがに強く、島津軍の前線部隊は崩壊します。
しかし大友軍はそのまま島津軍の本陣へ突撃しようとし、結果、敵の中に深入りする格好になってしまいます。
これを島津軍が見逃すはずがありません。
すかさず島津義弘の軍勢が、渡河中の敵に鉄砲を放ち、大友軍の側面を攻撃!
同時に島津軍の一斉反撃が始まり、高城の島津家久も城から打って出ます。
多方向から攻撃を受け始めた大友軍はまともに戦える状況ではなくなり、田北鎮周などの武将は次々と戦死。
開戦前から敗北を悟り、秘伝の書を焼き捨てていた角隅石宗も、自ら敵陣に突撃して戦場に散ります。
さらに大友軍は「耳川」を越えて撤退しなければならなくなり、しかし増水した川の渡河に手間取って島津軍に追いつかれ、追撃を受けてしまいます。
こうして…… 北九州の大友家は甚大な被害を受け、その勢力を衰退させてしまいました。
九州の戦局を大きく変えたこの戦いは「耳川の戦い(耳川合戦)」と呼ばれます。
大友家にやむを得ず従属していた秋月家などの北九州の勢力は、大友軍の耳川の大敗を聞いて再び蜂起! 次々と離反していきます。
大友家と停戦していていた龍造寺家も、大友軍の弱体を見て大友領への進攻を再開。
島津軍も再び日向を制圧していき、こうして九州の戦力バランスは、大きく変化していく事になります。
恐怖政治の果て 龍造寺の最期 |
1579年~1584年
北九州最大の勢力であった大友家が「耳川の戦い」で島津軍に大敗し、弱体化してしまった事は、九州の各勢力に大きな衝撃を与えました。
特に影響が大きかったのは、大友家の配下となって国を維持していた中小の勢力です。
肥後(熊本)の南部に位置していた「相良家」と、肥後の中部に位置する「阿蘇家」は、大友家に従属し、その支援を受けて独立を維持していました。
特に相良家は、かつて肝付家・伊東家と共に島津家と戦っていたため、肝付家・伊東家が滅亡した後は危機に陥り、大友家の後ろ盾で身を守っていました。
ところが、大友家が島津家に破れて衰退したため…… 必然的に、島津家の矛先が向くことになります。
「耳川の合戦」が起こった翌年、さっそく島津家は相良家に進攻を開始。
相良家にも「深水長智」「犬童頼安」などの勇将がいて、最初の進攻は撃退します。
しかし相良家と島津家の国力の差は大きく、2年後、島津家は再び進軍。
抵抗しきれなくなった相良家の当主「相良義陽」は降伏を決意し、島津家の勢力は肥後へと伸びていきます。
肥後の中部には「阿蘇家」という大名家がありました。
九州の中央に位置していたため、周辺の大名からの影響が大きく、分裂傾向にありましたが、知勇兼備の名将として知られる「甲斐宗運」によって勢力を維持しており、それは遠からず島津家の障害となる存在でした。
そこで島津家は、降伏した相良家に阿蘇家への攻撃を命令します。
しかし相良義陽は甲斐宗運とは盟友の関係で、彼は本当は、阿蘇家と戦いたくありません。
そのため心ならずも出陣し、甲斐宗運と対峙すると、自ら不利な場所に陣を張り、敵を待ち構えました。
甲斐宗運は最初は罠かと思ったようですが、相良義陽が自ら死を選ぼうとしている事を知り、その運命を嘆きます。
宗運は相良軍を奇襲で破り、泣く泣くこれを討ち倒しますが、「相良を失い、阿蘇家もまた、3年経たずして滅亡するであろう」と語ったと言います。
相良義陽の義に準じた死と、相良家の家臣の外交努力により、相良家は島津家の配下として存続を認められますが、相良義陽の死から2年後、甲斐宗運は病死。
阿蘇家の当主や跡継ぎも次々と死去したため、阿蘇家は急速に衰退し、そのまま島津家に滅ぼされることになります。
こうして肥後の南部を占領した島津家は、ついに九州の南半分を支配することになりました。
一方その頃、九州北部では…… 龍造寺家がその勢力を拡大していました。
大友家 が「耳川の戦い」で敗れると、すかさず龍造寺家は周辺地域へ進攻を開始。
筑前・筑後(福岡西部)の大友側の勢力を次々と撃破、従属させていきます。
そして肥前西部(長崎)に進出、その地を支配していた大名「大村家」「有馬家」を従属させ、肥後(熊本)の北部にまで勢力を伸ばし、大きな勢力を築き上げました。
この頃の龍造寺隆信は壱岐・対馬を含む「五州二島の太守」と呼ばれ、全盛を極めます。
ただ、大勢力の当主になったためか……
龍造寺隆信は芸者を呼んで毎日酒を飲み、酒池肉林で遊びまくります。
どこかで聞いたような話です。
しかもこの頃の龍造寺隆信は非道さ・残忍さが目立っており、敵対するものは一族や兵士もろとも皆殺し、反対する家臣も容赦なく粛正し始めます。
人質として送られてきた幼い子供2人をはりつけにして、処刑した事もあったようです。
もともと龍造寺隆信には粗暴なところがあり、それは敵の降伏を促したり、反乱を抑える効果もあったようですが、この頃は行き過ぎていました。
しかも、これらの行為を止めるよう忠告していた鍋島直茂が別の城に移され、遠ざけられてしまいます。
隆信の短所を補っていた彼がいなくなり、ますます歯止めが効かなくなります。
そしてついに、配下の蒲池鎮漣が反乱を起こします。
この蒲池家は龍造寺隆信が跡を継いだばかりの頃、追い詰められて行き場を失っていた時、かくまって復帰を支援してくれた恩のある家柄でした。
しかし龍造寺隆信は反乱を起こした蒲池家を許さず、蒲池鎮漣を「和平を結びたいから」と騙しておびき寄せ、襲撃して暗殺すると、蒲池家の同郷の者や親族たちを兵士として派遣。
同族同士で殺し合いをさせるという行為に及びます。
これによって龍造寺隆信の非道さはさらに噂となり、今度は従属していた長崎の島原半島の大名「有馬家」が離反を起こします!
龍造寺隆信は最初、これを息子の龍造寺政家に討伐させようとしたのですが、龍造寺政家の妻は有馬家の姫でした。
そのため全くやる気が出ず、その様子に怒った龍造寺隆信は自ら大軍を率い、有馬家を滅ぼそうと出陣します。
話を聞いて驚いた鍋島直茂はすぐに駆けつけ、「大将が自ら出陣しては危険!」と忠告しますが、もはや聞き入れられません。
こうして龍造寺軍3万~5万の軍勢が、長崎の島原半島へと進軍していく事となります。
有馬家は龍造寺軍が迫っていると聞き、急いで軍勢を集めますが、その数は約3000人。
さすがに勝ち目がありません…… そこで有馬家の当主「有馬晴信」は、島津家に救援を求めます。
ただ、島津家も九州各地で大友家や龍造寺家と対峙しており、余裕はありませんでした。
加えて島原半島の地理に詳しくなかったため、援軍は送らない方がいいという意見が多く出ます。
しかし当主の島津義久は、「当家を慕って一命を預けてきた者を見殺しにする事は、仁義に欠ける。 戦は兵の大小で決まるものではない。 知略と勇烈があれば、小勢でも勝つことが出来よう」と、援軍の派遣を決定します。
こうして、合戦に長けた島津家久と、その息子「島津豊久」が率いる精鋭軍3000人が、島原半島へと駆けつけます。
龍造寺軍は島津来援の情報を聞いて警戒していましたが、島津軍が思ったより多くなかったため、そのまま進攻を継続。
一方、上陸した島津軍は有馬軍と合流後、船を繋ぎ止めておく綱を全て切り、兵士たちに決死の覚悟をさせ、文字通り「背水の陣」をしきます。
そして有馬家と作戦を相談、城で守っても包囲されるだけであり、これ以上の援軍も期待できないため、こちらから打って出て有利な地形に敵を誘い込み、敵本陣を狙うしかないという結論に至ります。
その後、島津家久は部隊をいくつかに分けると各所に潜ませ、先鋒部隊を龍造寺軍の前面に配置。
この先鋒部隊には、幼い我が子をはりつけで処刑され、龍造寺家を離反した「赤星統家」の部隊も加わっていました。
島津家久自身は鉄砲隊を率い、龍造寺軍の進軍先で敵を待ち伏せます。
龍造寺軍は最初、部隊をいくつかに分けて慎重に進んでいましたが、敵が小勢なのを知った龍造寺隆信は島津側が布陣を完了しているのを知らなかった事もあり、予定を変更。
一気に敵の城に攻め込もうと自ら本隊を率いて進撃し、島津軍の先鋒部隊と戦闘に入ります。
さすがに数が違いすぎ、島津軍の先鋒は早々に敗走、龍造寺軍は追撃に入るのですが……
しかしこれこそ、敵をおびき寄せる島津軍の得意戦術「釣り野伏」でした。
龍造寺軍の主力は、そのまま「沖田畷」という場所に誘い込まれてしまいます。
沖田畷の「畷(なわて)」とは、田んぼの間にある狭い「あぜ道」のこと。
時はちょうど田植えシーズン。 沖田畷はこの頃、周囲を泥田に囲まれた細いあぜ道が、ずっと続いていたといいます。
島津軍を追撃していた龍造寺軍の先頭部隊は沖田畷に入り、そのまま島津軍を追っていましたが、ここで身を隠していた島津家久の鉄砲隊が出現!
突っ込んできた龍造寺軍に一斉掃射を開始します。
龍造寺軍の部隊はあわてて後ろに下がり、体勢を立て直そうとするのですが…… その時、予想外の出来事が。
後方の道から味方の兵士たちが、すごい勢いで次々と押し寄せて来たのです。
これでは下がれません!
その少し前…… 龍造寺軍の本隊も、沖田畷にさしかかっていました。
しかしこんな狭い場所を大軍で通ろうとすると、当然のように渋滞が引き起こり、隊列も細長くなってしまいます。
そのため進軍が進まないことにイライラした龍造寺隆信は伝令を呼び、前方の部隊に早く進むよう伝えさせます。
ところが、この伝令が…… 「後ろがつかえて殿が怒っているから早く進め!」と知らせて回ってしまいます。
残忍で容赦のない事で知られる龍造寺隆信が「怒っている」と言うのです。 これはコワイ!
そのため前方にいる将兵は、あわてて前進を開始。
それが先頭の部隊にどんどん押し寄せて行ったため、最前線では島津軍の鉄砲射撃の前に兵士たちが次々押し出される格好になり、凄惨な状態になってしまいます。
2門の大砲を積んだ有馬軍の軍艦も海上から砲撃を開始し、これらによって龍造寺軍は大混乱!
この状況を島津軍が見逃すはずがありません。
そして島津家久の号令の元、各所に潜んでいた島津軍が一斉に現れ、龍造寺軍の本陣に向かって雪崩れ込みます!
混乱しているうえに隊列が細長くなり、連携が取れない龍造寺軍は、周囲が泥田で大軍が機能しなかった事もあり、本陣が孤立して壊滅。
龍造寺家の武将「成松信勝」は最期まで龍造寺隆信を守ろうと奮戦していましたが、ついに敵を支えきれず戦死。
龍造寺四天王と呼ばれた「百武賢兼」や「円城寺信胤」などの主力武将も次々と討ち死にしていきます。
こうして龍造寺隆信も乱戦の中、島津兵によって討ち取られてしまいました。
戦国大名の中で戦闘中に敵兵に首を取られてしまったのは、今川義元と龍造寺隆信ぐらいだと言われています。
主君の死を聞いた龍造寺軍の武将「江里口信常」は、島津兵を装って島津家久に接近、一矢報いようと斬りかかりますが、傷を負わせるものの、あと一歩のところで周囲の近衛兵に殺されてしまいます。
龍造寺軍の名将「鍋島直茂」は本隊とは別の部隊を率いていたため、敗走するものの何とか戦場から脱出、生還を果たしました。
この「沖田畷(おきたなわて)の戦い」で、龍造寺家は主君と多くの重臣を失い、急速に衰退。
龍造寺家がすでに人心を失っていた事もあって、離反も相次ぎます。
そして大友家・龍造寺家の双方を打倒した島津家は、名実共に九州一の勢力となり、いよいよ九州統一に向けて動き出していく事となります。
一方その頃、日本の中央では…… 戦国の覇王「織田信長」が「本能寺の変」によって急死。
織田家の後継者争いの末に、「豊臣秀吉」が次なる天下人として台頭し始めていました。
豊臣来襲! 九州戦乱の結末 |
1585年~1587年
「沖田畷の戦い」で龍造寺家を打倒した島津家は、そのまま北へと進軍。
肥後(熊本)全土を支配し、北九州の諸勢力も次々と島津家の傘下に加わっていきます。
大友家と対立していた北九州の勢力「秋月家」なども、島津家に従属しました。
一方、大友家も、龍造寺家の衰退に乗じて北九州の支配を取り戻すべく、進軍を再開。
立花道雪は龍造寺家に奪われていた筑後(福岡西部)の領土を取り戻していきます。
その留守を狙って、秋月家の当主「秋月種実」が進攻してきますが、これはのちに「剛勇鎮西一」と讃えられた名将「立花宗茂」が夜襲と火計で撃退します。
しかしここで…… 老齢となっていた立花道雪は、陣中で病没。
その死の影響は大きく、大友家の進軍は、北九州を取り戻すことなく終わります。
大友宗麟はその後、日本の中央を支配していた「豊臣秀吉」に、島津家との和平の仲介を要請。
しかし豊臣家による和平交渉を、島津家は断固拒否。
もはや戦いは避けられない状態となります。
そして独力では島津家に対抗できないことを悟った大友宗麟は……
「沖田畷の戦い」から2年後の1586年、高価な茶器を手みやげに大坂城へと向かい、豊臣秀吉に謁見。
「豊臣家の傘下に入るので、島津家から守って欲しい」と嘆願します。
こうして、大友家は豊臣家に臣従。
戦いは「天下人・豊臣家 VS 九州の覇者・島津家」へと移っていくことになりました。
豊臣家が九州に介入してくる事が決定的になると、島津家は急いで北上の準備を進めます。
しかし島津家の当主「島津義久」は、大友家にどこから攻め込むか悩んでいました。
大友家の本拠地に最短で攻め込めるのは、九州の東側「日向(宮崎)」を通るルート。
しかし秋月家などからは、「北九州の占領を進めるには諸勢力が混在している筑前・筑後・肥前などを先に抑えることが必要不可欠」という進言があり、島津義久は思い悩みます。
島津義久は一度、日向から攻め込む最短ルートを決定しますが、その後に思い直して取りやめる始末で、そうこうしているうちに半年近く経ってしまい、それは大友・豊臣に貴重な時間を与える結果となってしまいます。
結局、1586年の6月、西と東の2方向から進む作戦が決定され、島津軍は進攻を開始。
東から進む軍団は総大将の島津義久に加え、島津義弘や家久などが率いる3万の軍勢。
一方、西から回り込む軍団は島津義久のいとこ「島津忠長」が大将を勤める2万の軍勢でした。
ただ、西回りの軍団には北九州の諸勢力が次々と合流し、最終的には約5万の軍勢に膨れ上がります。
東から直進する軍団は、西の軍団と同時に大友領に攻め込むため、日向で一旦停止。
そして7月、西回りの島津軍は北九州へと入り、大友家の拠点「岩屋城」を包囲します。
この城にいた兵力は、わずか800人足らず…… 戦力差は絶望的。
しかしここを守るのは、大友家の名将「高橋紹運」でした。
立花城にいた高橋紹運の子「立花宗茂」は合流して敵に対抗するよう進言しますが、高橋紹運は「別の軍と合わされば人の和が乱れる恐れがあり、この危機にあって数人の大将が同じ場所にいるのも良くない。 命の限り戦えば14、5日は持ちこたえ、敵兵三千人は討てるであろう。 そうすれば島津軍も進軍が遅れ、そのうちに豊臣家の援軍が到着できる」と、決死の心構えを語ります。
そして配下の兵と共に死の覚悟を決めると、城を包囲する島津家からの降伏勧告を断り、「我々は命の限り戦うため、いささか手強いと覚悟されよ」と返答、島津軍の前に立ち塞がります。
こうして島津軍の一斉攻撃が開始され、岩屋城で激戦が繰り広げられます。
攻撃側は数にものを言わせて攻めかかりますが、岩屋城を守る高橋紹運の兵たちの防戦は凄まじく、城は全く落ちません。
島津軍の損害は大きなものになっていきますが、急がなければ豊臣軍が来てしまうため、持久戦に入ることは出来ず、そのまま力攻めが続きます。
開戦から10日、昼夜を問わず戦い続けていた高橋紹運の兵はさすがに疲労の極致に達していましたが、それでも降伏勧告をはねつけ、徹底抗戦を続けます。
そして13日目…… 壮絶な戦いの末、ついに落城。 城兵は一人残らず戦死し、高橋紹運も自害。
しかし攻撃側も5000人前後の大被害を受け、半月近く足止めを受けてしまう結果となりました。
その後、島津軍は立花宗茂が守る「立花城」に進軍して行きますが、疲労が重なっており、立花宗茂の「詐降の計略」(投降を偽って近づき奇襲する計略)なども受け、攻めあぐねてしまいます。
そして8月下旬、ついに豊臣家からの援軍である、毛利家の「小早川隆景」の軍勢が北九州に上陸。
その報告を受け、ついに西回りの島津軍は、これ以上の進攻を断念。
立花宗茂は島津軍の後退を聞いて反撃を開始し、筑前の城を次々と奪還、抵抗していた秋月家も立花宗茂に再び敗れて後退。
島津家に降伏していた龍造寺家も島津陣営より脱退し、豊臣軍に参加します。
こうして島津家の西回りの作戦は失敗に終わり、北九州は豊臣・大友軍により制圧されていく事となりました。
9月に入り、淡路の「仙石秀久」、土佐(高知)の「長宗我部元親」、讃岐(香川)の「十河存保」といった四国の軍勢が、豊臣家からの援軍として大友家の本拠地である豊後(大分)に到着します。
しかし、この時に到着したのは大友家を救援するために駆けつけた先発部隊。
豊臣家の本隊は、まだ準備中です。
そのため豊臣秀吉は、豊臣軍や大友軍に「堅く守って本隊の到着を待つように。決して軽率な行動をしてはならない」と厳重な命令を与えていました。
ところが…… この命令は、あっさり破られてしまいます。
大友領の豊前(福岡東部)で反乱が起こり、大友家の跡継ぎである「大友義統」が、仙石秀久にこの反乱の鎮圧を要請。
大友宗麟の制止を無視して、2人で軍勢を率いて豊前に向かってしまったのです。
一方、島津軍は西回りの軍勢が北九州から後退した報告を受け、南から大友領へと進攻する決意をし、その機会をうかがっていました。
そんな時、大友義統と仙石秀久が、反乱鎮圧のために北に向かっていきます。
もちろんこれは、島津家にとってはチャンス!
10月、島津軍は日向(宮崎)と肥後(熊本)の2方向から進軍を開始。
ついに九州東側でも、大友・豊臣軍と島津軍の戦いが始まります。
しかしこの島津軍の進攻は、大友家の若き大将「志賀親次」「佐伯惟定」などの活躍で押し止められてしまいます。
さらに大友宗麟も、前線の城で自ら防衛戦を指揮。
さすがにこの時は祈っているだけではダメだと悟ったのか、陣頭に立って島津軍の攻勢を防ぎます。
また、ポルトガルから輸入し、大友宗麟が名付けた2門の大砲「国崩し」も島津軍に炸裂!
国崩しはその威力もさる事ながら、着弾時の轟音がもの凄く、兵や馬が恐れをなして混乱、島津軍の攻撃が阻まれます。
結局、北に向かっていた仙石秀久の軍勢もあわてて戻ってきたため、島津軍の本隊は一旦後退します。
12月、島津軍の本隊は大友家の本拠地である「府内城」に向かって進軍し、その途上の「鶴賀城」を包囲します。
城の兵士は約2000人、包囲する島津家久の軍勢は18000人でしたが、城の兵士は頑強に抵抗していました。
この話を聞いた豊臣軍の仙石秀久は、今度はこの城の救援に向かおうと主張します。
これを聞いた豊臣軍の長宗我部元親と十河存保は、共に大反対!
「堅く守って軽率な行動をしないようにと言われたはずだ」と語り、仙石秀久を止めようとします。
しかし仙石秀久は「味方の危機を見捨てるのは武士として義に反する。 誰も行かないなら自分だけでも行く!」と言って聞きません。
結局、豊臣秀吉の直臣である仙石秀久の方が立場が上だった事もあって、長宗我部元親と十河存保は仕方なくこれに従う事になり、約6000の兵を率いて鶴賀城へと向かっていきます。
島津家久は豊臣軍が来るのを聞いて城の包囲を中断、「戸次川」の後方まで下がって、敵を待ち構えました。
戦場に到着した豊臣軍の仙石秀久は、さっそく「川を渡って敵を蹴散らせ!」と命令を出します。
しかし長宗我部元親と十河存保は再び反対!
「川を渡っての攻撃は不利です! ここはにらみ合いつつ援軍を待ち、改めて作戦を練りましょう」と進言します。
しかし今回も、立場の影響があったのか、それとも仙石秀久が強情だったのか……
結局、渡河攻撃をする事が決定されてしまいます。
こうして翌日早朝…… 豊臣軍は川を渡って一斉に攻撃!
しかし島津家久は相手が思ったほどの兵力ではないことを知り、すでに迎撃の体制を整えていました。
それでも長宗我部家が率いる四国・土佐の兵は強く、島津軍の第一陣は崩壊し、序盤は豊臣軍が優勢になります。
しかし島津軍も第二陣を繰り出して、第一陣を収容、長宗我部軍を押し返すと、第三陣が豊臣軍を側面から攻撃、激戦が繰り広げられます。
そして寒い冬に渡河した影響もあって豊臣軍は次第に不利になっていき、ついに敗走に陥る事となります。
そして、この時…… 兵の撤退を支援しようと、長宗我部元親の長男で、武勇に長けた「長宗我部信親」が島津軍の前に立ち塞がり、奮戦を見せますが、多勢に無勢で戦死してしまいます。
信親の死を聞いた長宗我部元親は、悲しみのあまり自分も敵に突撃しようとし、家臣に押し止められます。
元親はその場は逃げ延びましたが、その落胆は大きく、長宗我部家では跡継ぎ争いや家臣同士の対立も起こり、以後、没落の一途を辿る事となりました。
また、この戦いで三好家の後継者を称していた十河存保も戦死し、四国の豊臣軍は瓦解。
仙石秀久はあまりの失態に誰にも顔向けできなかったのか、そのまま四国まで勝手に逃げ帰ってしまい、秀吉の怒りを買って領地を没収されてしまいます。
こうして豊臣家 VS 島津家の初戦となった「戸次川の戦い」は、島津家の勝利で終結します。
しかし…… 翌月の1587年1月、ついに豊臣秀吉の本隊が九州への進軍を開始します。
全国の豊臣傘下の大名が次々と九州に着陣。
3月には豊臣秀吉自身も出陣し、その総勢は、なんと20万!
さすがにこの大軍を前に、九州の諸勢力は次々と豊臣家に臣従。 戦局は豊臣家の方に傾いていきました。
島津軍は兵力が分散していては勝ち目がないと考え、後退を開始。 九州北部から撤退します。
島津家と共に大友家に抵抗していた秋月家も、3月末に豊臣軍の武将「蒲生氏郷」の軍勢に敗れ包囲されます。
秋月家の当主「秋月種実」は城で守って時間を稼ごうとしますが、近くの破棄した城を豊臣軍が一晩で修復した(ように見せた)ことに驚愕。
この秀吉お得意の「一夜城」で力の差を痛感し、間もなく豊臣家に降伏します。
その後、豊臣軍は軍勢を2つに分け、秀吉の弟「豊臣秀長」が率いる軍勢は九州の東側、日向(宮崎)方面から南下。
一方、豊臣秀吉自身は肥後(熊本)を通って、九州の西側から南下するルートを通ります。
4月、島津軍は日向の南にある「高城」に兵力を集め、豊臣秀長を待ち受けました。
この高城はかつて、「耳川の合戦」で島津軍が大友軍を撃ち破った難攻不落の城です。
この付近に島津軍は3万5千の兵力を集め、南下してくる大軍を再び打ち破ろうと考えていました。
しかし、8万以上の大軍を擁する豊臣秀長の軍勢は、高城を包囲すると、その周囲に陣地や砦をいくつも構築。
あわてて攻め込まず、持久戦の構えを取ります。
これは島津軍にとって最も嫌な戦法でした。なぜなら、九州の西側から豊臣秀吉の軍勢が南下しているからです。
この場所でそのまま睨み合いを続けていると、西側から進む豊臣秀吉の軍勢が、本拠地の薩摩に攻め入ってしまいます。
高城も難攻不落とはいえ、そのまま大軍に包囲されていれば、いずれは陥落を免れません。
そして4月中旬…… これ以上待てなくなった島津軍は、包囲された高城を救援すべく、「根白坂」という場所に豊臣軍が築いた砦を急襲します。
この攻撃は無謀であることが解っており、大将の島津家久は反対していたのですが、だからと言ってこのまま立ち止まっていることも出来ない情勢であり、もはや島津家には他に選択肢はなくなっていました。
一方、根白坂は島津軍が高城を救援するのに絶対に通らなければならない場所であったため、豊臣軍の武将「宮部継潤」が守りを固めており、敵を待ち構えていました。
こうして根白坂で激しい戦闘が開始されます。
島津義弘や島津家久など、島津軍の歴戦の猛者が先頭に立ち、2万の軍勢が根城坂の砦を急襲します。
しかし対する宮部継潤の1万の軍勢も、柵や堀で砦の周囲を固めており、さらに多数の鉄砲隊が配備されていて、襲いかかる島津軍を撃ち崩します。
豊臣軍の鉄砲は改良が重ねられており、連射性能が高く、必死で柵を押し倒して突破しようとする島津軍は、次々とその餌食になっていきました。
そして疲弊した島津軍に、豊臣軍の藤堂高虎が率いる500人の部隊が攻勢をかけます。
高虎の部隊は少数でしたが、巧みな指揮で島津軍を翻弄。
浮き足だった島津軍を、さらに豊臣軍の小早川隆景と黒田官兵衛の軍勢が攻撃。
こうなると、兵力に劣る島津軍には、もう勝ち目はありません。
大被害を被った島津軍は敗走し、高城も総攻撃を受けて落城。
ついに島津家の最重要拠点は陥落する事となったのでした。
翌月の1587年5月、島津家の本拠地・薩摩に迫る豊臣家の大軍を前に、ついに島津義久は降伏を決意。
頭を丸めて、豊臣秀吉の元に謝罪に向かいます。
豊臣秀吉はそれを絢爛豪華な大宴会で迎え、盛大なもてなしをした後、降伏を受諾し、島津家の薩摩・大隅(鹿児島)の領土を保証する約束を行いました。
これらは豊臣秀吉が天下統一のため、豊臣家に敵対することの愚かさと、豊臣家に従属することの利点を世間に訴えるための、政治的なアピールでもありました。
それでも島津義弘など、一部の武将は戦闘を継続していたのですが……
島津義久の説得によって、5月の下旬には戦いは完全に終結します。
九州の各地の勢力も、全て豊臣家の傘下となりました。
「九州三国志」はここに終わりを迎え、それから3年後の1590年、豊臣秀吉により日本は天下統一される事となります。
(後日談) 関ヶ原と戦乱の果て |
1600年~
ここからは「九州三国志」の後日談です。
島津・大友・龍造寺の三つ巴の戦いは終わりましたが、九州での戦いは、もう少し続くことになります……
1592年から、豊臣秀吉は「朝鮮出兵」を開始。 多くの大名の軍勢が朝鮮半島へと渡っていきました。
このとき、九州はその前線基地となっています。
そして朝鮮出兵で大きな活躍をした島津義弘、立花宗茂、加藤清正、小西行長は、みんな九州に領土を持っていた(もしくは秀吉から九州の領土を与えられていた)人たちでした。
しかし朝鮮出兵の最中、加藤清正と小西行長が激しく対立。
この二人は共に肥後(熊本)に領地を持っており、領土争いがあったと言われています。
そして豊臣家の家臣たちは対立の末、文治派(官僚)と武断派(将軍)に分裂。
これが深刻な事態を招くことになります。
また、大友家の跡継ぎ「大友義統」は、朝鮮出兵中に窮地に陥った小西行長を見捨てて撤退してしまい、領地を没収されてしまいます。
大友宗麟は豊臣家が九州を制圧した頃に病死しており、これにより実質、大友家は滅亡する事となりました。
ただ、豊臣秀吉の軍師で、切れ者と知られる「黒田官兵衛」が大友家の旧領に赴任しており、大友義統は彼に接近、お家再興の機会を伺います。
黒田官兵衛の方にも「野心」があり、大友義統を利用しようとしていたと言われています。
1593年に朝鮮出兵は一旦停戦しますが、1597年に再開。
1598年、豊臣秀吉の病死によって終了します。
そして二度目の朝鮮出兵で文治派と武断派の対立はさらに激化!
ついに文治派の筆頭「石田三成」が率いる西軍と、武断派を味方にした大名「徳川家康」が率いる東軍の決戦に発展。
1600年、日本を二分した天下分け目の合戦「関ヶ原の戦い」が勃発します。
黒田官兵衛はこの動きを早くから予期していて、合戦の準備を整えており、関ヶ原の戦いの勃発と同時に挙兵!
彼はこの「関ヶ原の戦い」を利用して九州に一大勢力を築こうとしていたと言われており、天下への野望を持っていたとも言われています。
家康との関係が深く、石田三成と対立していた黒田官兵衛は、東軍への参加を宣言すると、主力が出払っている毛利家や小早川家など、西軍側の城への進攻を開始。
さらに官兵衛と連絡を取っていた加藤清正も東軍として挙兵、西軍の首謀者の一人となった小西行長の領地に進攻を開始します。
一方、立花宗茂は「秀吉公の恩義を忘れ、東軍に付くことなど出来ない」と語り、西軍への参加を宣言、関ヶ原の戦いに参加するため近畿地方へと遠征。
すると態度を明確にしていなかった、龍造寺家の実権を握っていた鍋島直茂が東軍への参加を宣言し、立花宗茂の領地に攻撃を行います。
大友宗麟の子である大友義統は黒田官兵衛と協力する予定でしたが、旧知の間柄だった西軍の大将・毛利輝元からの説得を受け、土壇場で寝返り!
西軍への参加を宣言して大友家の旧臣と共に挙兵すると、毛利家の支援も受け、細川忠興に与えられていた旧大友領の奪還を狙います。
黒田官兵衛は大友家の力を借りて戦おうとしていましたが、この寝返りで、まず大友義統と戦わなければならなくなります。
島津家の島津義弘は東軍に参加するため、近畿地方へと出陣。
ところが西軍によって関所が封鎖されていて合流できず、足止め役として京都で戦っていた東軍の「鳥居元忠」に味方しようとするも、元忠から鉄砲を撃たれる始末。
鳥居元忠は「捨て駒」として戦っていたので、それに島津軍を巻き込みたくなかったためと言われていますが、島津義弘は西軍に囲まれて孤立。
結局、石田三成の説得を受けて西軍に参加することになります。
こうして…… 九州はまだら模様のように各勢力が東軍と西軍に分かれてしまいます。
当然のように各地で同時多発的に戦闘が発生、大乱戦の様相を見せるのですが……
しかし、このまま九州が戦国時代に戻ってしまう事はありませんでした。
「関ヶ原の戦い」の本戦が1日で決着し、西軍のトップである石田三成・小西行長などが処刑され、戦後処理も早いうちに片付いていったからです。
肥後(熊本)の小西行長の領土は加藤清正によって制圧され、のちに清正は肥後全土を治める大大名となります。
大友家の再興を目指した大友義統は黒田官兵衛と戦いますが、秀吉の軍師を務めた官兵衛が相手では勝負になりませんでした。
序盤は大友家の旧臣の活躍で有利になるものの、細川忠興の配下である松井康之の防戦により城を奪還できず、黒田官兵衛の攻撃を受けて壊滅。
再興に失敗した大友家は、完全に滅亡してしまいます。
島津義弘は関ヶ原の本戦で苛烈な突撃を見せ、その戦いぶりを称えられるものの、大被害を受けて撤退。
立花宗茂も西軍が敗れたために撤退し、かつて北九州で争った二人は、並んで九州へと帰ります。
しかし九州では鍋島直茂が立花家を攻撃中!
大友家を片付けた黒田官兵衛もこれに加わり、立花宗茂は包囲されます。
立花宗茂は鍋島直茂に戦いを挑むと、約1300の部隊で鍋島軍3万の軍勢を一時撃破しますが、兵力が違いすぎて結局は押し込まれ、籠城することに。
これを受けて島津家が立花家へ援軍を出そうとし、黒田官兵衛もそれを迎え撃とうとして、決戦の様相を見せますが……
徳川家康からの停戦命令が各勢力に届けられたことと、加藤清正の説得により、立花宗茂は降伏し、島津家も撤兵。
こうして「関ヶ原の戦い」の裏で行われた九州の戦乱は、幕を閉じることとなります。
この戦いの功績で、鍋島直茂は江戸時代に佐賀の藩主となり、龍造寺家と鍋島家は主従関係が入れ替わりました。
黒田官兵衛は停戦命令が来ると、占領した城を徳川家に献上し、もう動くことはありませんでした。
ただ、関ヶ原の戦いで活躍した息子の黒田長政が帰ってきた時、「右手で褒美を貰うとき、左手は何をしていた?(なぜ家康を刺して来なかった)」と言ったというエピソードが伝えられています。
降伏した立花宗茂は浪人となりましたが、加藤清正や島津義弘の推薦により、後に大名に復帰しています。
こののち・・・
徳川幕府が開かれ、世は「江戸時代」に入ります。
九州では関ヶ原の戦いから38年後、長崎の島原半島でキリシタンの反乱「島原の乱」が起こりますが、これが戦国期の最後の合戦となりました。
こうして日本は、長い「天下太平の世」に移っていく事となります……