本能寺の変・前編

本能寺の変」・・・

敵対勢力を次々と攻め滅ぼし、天下統一目前まで来ていた戦国の覇王「織田信長」が、家臣の「明智光秀」の謀反(反逆)によって殺害されてしまった事件です。

本能寺の変「本能寺の変」は戦国時代最大の事件であり、歴史のクライマックスの1つでもあります。

この事件を契機に、戦国の歴史は大きく変わる事となりました。
「織田信長」が倒れ、「豊臣秀吉」が天下を手中にし、最終的には「徳川家康」が江戸時代を築きます。

さて、そんな「本能寺の変」ですが・・・ それがなぜ起こったのか?
つまり、織田信長の家臣の明智光秀が、なぜ謀反(むほん)を起こしたのかについては、様々な説が飛び交っていて、いまだにハッキリしていません。
それは戦国の最大の謎の1つです。

そこに至るには様々な事柄が関わっていて、謀反の理由についても多様な説が存在しており、特定されていません。
そのため本能寺の変の全容を知るには、戦国時代に関する豊富な知識が必要になります。

また、有名な「本能寺の変」ですが、最近はこれが何なのか、全く知らない方も多いようです。
学校の歴史の授業はどんどん少なくなっており、日本史の授業がないところや、戦国史を扱わない学校も多いようですね。

でも「本能寺の変」の出来事は、一般常識でもある思います。
誰が誰を殺して、どうなったのかぐらいは、知っておいた方がいいでしょう。
そして戦国時代のドラマや小説を見たり、ゲームをするのであれば、関連した知識があるほど、それを楽しむことが出来ます。

このページでは、そんな「本能寺の変」へ至る経緯を、あまり歴史に詳しくない方でも理解できるよう、出来るだけ解りやすく解説しています。

※よって基本的に「定説」をベースとしています。難解になる考察や真偽についての議論は行っていません。
また「戦国無双」や「戦国BASARA」など、戦国時代を題材にしたゲームに登場する、身近な武将をピックアップして解説しています。
画像は 信長の野望 オンライン、および 信長の野望 天下創世信長の野望 蒼天録太閤立志伝V のものです。

※このページは「本能寺の変」特集の1ページ目(前編)です。
「中編」から見たい方は こちら を、「後編」を見たい方は こちら をご覧下さい。


【 本能寺の変 の中心人物 】

まずは「本能寺の変」の中心となる人々を簡単に紹介しておきましょう。

織田信長

織田信長
戦国の覇者。先進的な考えと天才的な才能で戦国時代を席巻した戦国大名です。
戦国時代の初期に大きな勢力を持っていた「今川家」の「今川義元」という大名を少数の兵で討ち破り、その名を轟かせました。
そして美濃(岐阜県)の大名「斎藤家」を攻略して美濃を支配すると、武力によって天下を治める「天下布武」を目指して、勢力の拡大を続けます。

明智光秀

明智光秀
織田信長の家臣の戦国武将。そして、後に「本能寺の変」を起こして織田信長に反逆、信長を死に追いやった本能寺の変の実行者です。
元々は美濃(岐阜県)の「土岐家」という名家の血筋の人でしたが、実家はその後に没落してしまい、諸国を巡った末に織田信長に仕えました。
その後は次々と大きな手柄を立て、秀吉と出世争いをするほどの実力を発揮します。

羽柴秀吉(豊臣秀吉)
信長の家臣の戦国武将。後に天下統一を成し遂げる豊臣秀吉です。
農民の出身でしたが、織田信長の配下になって大活躍し、どんどん出世していきました。
行動力と機転に富んだ人物で、人々の協力を得ながら手柄を立て続け、ついに織田家で1・2を争うほどの家臣となっていきます。

徳川家康
戦国時代を終わらせ、後に「徳川幕府」を築いて江戸時代を到来させた人です。
しかし戦国時代初期の「徳川家」は、小さな大名家の一つに過ぎませんでした。
織田信長と同盟を結んだことで、その協力者として活動しつつ、勢力を拡大していきます。
本能寺の変が起こった頃は、織田信長と共に各地で戦っていました。

では、これから時間をさかのぼり、年表形式で本能寺の変へと至る過程を追っていきましょう。


【 1565年5月 将軍暗殺
※本能寺の変まで、あと17年と1月

当時、日本の政治の中心であったのは「室町幕府」でした。
しかし戦国時代になると各地の「大名」と呼ばれる権力者がそれぞれ独自に政治を行い、互いに勢力争いを始めたため、もはや室町幕府の力は形だけのものになってしまいます。

そして1565年、ついに室町幕府の力が完全に失われている事を示す事件が起こります。
室町幕府の将軍「足利義輝」の暗殺です!

足利義輝は室町幕府の力を取り戻すために活動していましたが、そのために敵対勢力の人物「松永久秀」に襲撃され、命を落としてしまいます。
天下の将軍が暗殺された知らせは、瞬く間に日本中に広まります。

しかし、殺された足利義輝には弟がいました。「足利義昭」と言います。
彼は次の将軍となり、再び室町幕府を復活させるために活動を開始。
そして敵対勢力に支配された京都を奪還してくれる協力者を捜します。

それに応じたのが、勢力拡大を続けていた「織田信長」でした。


【 1568年9月 信長、京都上洛
※本能寺の変まで、あと13年と9月

足利義昭からの要請を正式に受けた織田信長は、さっそく京都へ向かう準備を始めます。

妹の「お市」を京都への道の途中にいる大名「浅井家」の 浅井長政 と結婚させて同盟を結び、さらに浅井家の敵対勢力であり、京都へ進むのに邪魔な大名「六角家」を攻撃して撃破。
そして京都を支配していた将軍家と敵対する勢力「三好家」も攻撃して、これを一蹴。
ついに上洛(京都への進軍)を果たします!

こうして足利義昭は正式に室町幕府の将軍に就任、そして織田信長はその将軍の協力者として京都を支配する戦国大名となり、大きな力を持つに至りました。

また、この頃に織田信長の配下となったのが「明智光秀」です。
彼は当初、将軍・足利義昭 と共に活動していたのですが、その才能を見込んだ 織田信長 にスカウトされます。
こうして光秀は信長の家臣となり、以後大きな活躍を見せる事となります。


【 1569年1月 堺、本願寺への圧力
※本能寺の変まで、あと13年と5月

京都周辺で大きな影響力を持っていたのは、戦国大名だけではありませんでした。
戦国時代に爆発的に流行していた宗教「一向宗(浄土真宗)」の総本山である「本願寺」や、日本最大の商業都市であった「」の町を運営する商人組織「堺会合衆」などが存在しています。

京都に上洛した織田信長は、次に彼らを支配下に治めようと、京都の御所(天皇家の住まい)の修繕費用を名目に、本願寺と堺の会合衆に多額の資金提供を要求し、もし断れば織田軍8万の軍勢が攻め込むと脅迫します!
本願寺は大阪に拠点となる城を持っていたため、信長はここからの立ち退きも要求しています。

これに対し本願寺は、資金提供にはすぐに応じますが、本拠地である大阪の城(石山本願寺城)からの退去は拒否しました。
以後、本願寺と織田家は交渉を続ける事となります。


(今井宗久)

一方、堺の会合衆は資金提供の要求を拒否し、織田家と敵対していた三好家と協力して対抗しようとしますが、三好軍は敗退。
その後も会合衆の中では議論が紛糾していましたが、会合衆の一人「今井宗久」という人物が織田信長との和睦を訴え、主戦派の商人たちを説得します。

結果、堺は多額の資金提供に応じ、織田信長に臣従する事になりました。
以後「今井宗久」は、織田家の御用商人(専属の商人)として、高い地位と財力を得る事となります。


【 1569年1月 信長、宣教師と会見
※本能寺の変まで、あと13年と5月

当時、ヨーロッパでは「大航海時代」となっており、次々と(ヨーロッパにとっての)未知の世界が明らかになっていました。

ヨーロッパの国の多くは「キリスト教国」でしたから、他国にキリスト教を広めることに熱心で、多くの宣教師たちが新世界に布教のために旅立っていきました。
(当時、キリスト教のカトリックとプロテスタントが争っており、勢力争いがあったことも影響しています)

そしてこの年、宣教師の一人である「ルイス・フロイス」が 織田信長 と会見します。
後に彼は織田信長と親しくなり、さらに信長の死後、日本の歴史を詳細に綴った歴史書「日本史」を記しています。

新しもの好きで、仏教をはじめとする既存の神や宗教の教えに懐疑的だった織田信長は、ルイス・フロイスの話すキリスト教の理念やヨーロッパの国々の文化・技術に大いに興味を持ち、キリスト教の布教を容認します。

以後、日本の各地でキリスト教の宣教師たちが活動することになりました。


【 1569年3月 信長、将軍と対立
※本能寺の変まで、あと13年と3月

織田信長のおかげで、足利義昭は室町幕府の将軍になる事が出来ました。
足利義昭はさっそく信長を副将軍にして、その貢献に報いようとしますが・・・ 織田信長はこれを辞退してしまいます。

そこで足利義昭は朝廷(天皇家)を動かし、そこからの要請として副将軍への就任を持ちかけますが・・・ 信長はこれも辞退。
これがきっかけで、織田信長は幕府や朝廷の権威を重視していないのではないか、という噂が出るようになります。


(足利義昭)

その後、足利義昭が室町幕府の将軍として各地の大名と交渉しようとすると、信長はこれも止めに入ります。
さらに「他人と勝手に交渉してはならない。何かをするときは織田家の許可を求めなければならない」といった内容の、「殿中御掟」と呼ばれる要請状を足利義昭に提出します。

足利義昭は自分は「天下の将軍」であると思っていましたから、自分より格下(だと思っている)の織田信長にこのような要請状を出され、腹を立てる事になります!

足利義昭はとりあえず「殿中御掟」を受け入れますが、その裏で織田信長を追い落とすための画策を開始。
各地の大名家に密かに信長打倒を訴える手紙を出し始めます。
こうして、織田信長と足利義昭の水面下の対立が始まります。


【 1570年4月 信長包囲網の形成
※本能寺の変まで、あと12年と2月

足利義昭の兄「足利義輝」が暗殺された時、足利義昭は最初、以前から将軍家と深い関係を持っていて、京都に近い場所を領地としていた「朝倉家」に協力を要請しようとしました。
しかし朝倉家の大名 朝倉義景 はまったく動こうとせず、結局 朝倉家を頼る事を断念します。

そして足利義昭は織田信長に協力を要請したのですが、このような事情があったためか、朝倉家は織田信長からの使者を無視し続け、織田信長と朝倉家の関係はどんどん悪化していきました。
そのためこの年、ついに織田信長は朝倉家への攻撃を決意、進軍を開始します!

しかしこの朝倉家は、織田家の同盟国である 浅井家 と非常に親密な関係でした。
そのため浅井家は板挟みになってしまい、結局 浅井長政 は、織田家との同盟を破棄して朝倉家に付くことを決めます。
そして浅井家と朝倉家に挟み撃ちされそうになった織田軍は、不利と見て戦場から退却します。
(この戦いを「金ヶ崎の戦い」と言います。秀吉が捨て身でしんがりを務めたことで有名です)

この動きを、織田信長と対立を深めていた足利義昭はチャンスと判断。
各地の勢力に「織田信長を討て!」という内容の、将軍家の正式な書状「御内書」を送り始めます。
これを受け、大きな勢力を持つ戦国大名の「武田家」や「上杉家」、多くの信者を持つ宗教勢力「本願寺」などが、一斉に織田信長に敵対。
信長包囲網」と呼ばれる軍事同盟が形成され、織田家は一気にピンチに陥ります。


【 1571年9月 比叡山、炎上
※本能寺の変まで、あと10年と9月

「信長包囲網」が作られた事で、織田信長と他の勢力との戦いは急に激しくなっていきます。
まず1570年の6月、織田信長は同盟国である「徳川家」の 徳川家康 と共に、浅井・朝倉家の合同軍と「姉川」という場所で大きな戦いを行います。 これを「姉川の合戦」と言います。
この戦いで浅井・朝倉軍は敗退し、大きな被害を受けますが、織田軍の被害も大きかったため、完全な決着は着きませんでした。

そして敗れた浅井・朝倉軍は、その後に再び攻勢に転じるため京都方面に進軍、織田軍が接近してくると京都の近くにある「比叡山延暦寺」という仏教の総本山に協力を要請し、その山に布陣しました。

そのまま織田軍と浅井・朝倉軍はにらみ合いとなりますが、比叡山延暦寺は京都の間近、しかも「天台宗」という仏教の総本山であるため、ここで戦いが起こると一大事です。
そのため将軍・足利義昭が両軍に停戦を要請し、両者は一旦、兵を引きます。

しかし、これが大事件の発端となりました。
織田信長は反抗を続ける比叡山延暦寺を許さず、後日3万人の軍勢でこの山を包囲、一斉に火を放ち、長い伝統を持つ寺社・仏閣などを燃やし尽くし、そこにいた僧侶や女子供 3000 人をすべて殺害したのです!

当時、比叡山延暦寺の僧侶は堕落しきっており、酒池肉林の状態になっていたと言われていますが・・・
しかしそれでも、神社仏閣を焼き払い、僧侶を皆殺しにした信長の行為を人々は恐れ、こうして以後、織田信長は「第六天魔王」と呼ばれるようになります。

その一方で、信長の配下であり、比叡山延暦寺の焼き討ちにも参加した「羽柴秀吉」や「明智光秀」は、出来る限り僧侶を逃がそうと努力していたと言われています。
また 明智光秀 は後年、この地に領地を持ったため、比叡山の復興に尽力しています。

ちなみにこの頃、織田信長と対立した宗教勢力「本願寺」も、傭兵集団・雑賀衆 を率いる「雑賀孫市」の支援を受けつつ、織田信長に激しく抵抗、各地で織田家の軍勢を攻め立てていました。
比叡山延暦寺の焼き討ちは、信長が本願寺との戦いで仏教勢力に反感を持っており、見せしめの意味があったとも言われています。


【 1573年7月 室町幕府滅亡
※本能寺の変まで、あと8年と11月

甲斐・信濃(現在の長野県・山梨県周辺)を領土とし、戦国最強とも言われていた大名「武田信玄」が率いる武田家
「信長包囲網」に参加し、織田信長と敵対していたその武田家の軍勢が、ついに上洛(京都への進軍)を開始します。
途中、織田家と同盟している徳川家康の軍勢と戦いになりますが(三方ヶ原の戦い)、武田軍が徳川軍を蹴散らして圧勝します。

一方、信長包囲網を形成させた将軍・足利義昭 は、信長からさらに圧力を受けていました。
足利義昭が密かに各地に手紙を送っていた事は信長も解っていたため、信長は義昭が行っている行動に対する批難文「異見十七箇条」を送り付けます。

こうして信長に対する不満がさらに高まっていた足利義昭は、武田信玄が上洛を開始し、徳川家康に圧勝したという報告を受け、ついに自ら立ち上がる事を決意します!
京都で兵を率いて家臣の城に篭もり、織田信長からの独立を訴えます。

しかし肝心の武田信玄が、上洛の途中で持病が悪化し、病死してしまいます。
そして怒った織田信長によって足利義昭は城を攻められ、ついに京都から追放。
足利義昭は将軍職も追われ、事実上これで室町幕府は滅亡することとなります。


【 1573年8月 黄金髑髏の酒宴
※本能寺の変まで、あと8年と10月

最大の敵になると思われていた 武田信玄 が病死し、包囲網の元凶であった 足利義昭 を追放した織田信長は、敵対勢力への反撃を開始します。
中断されていた浅井家朝倉家への攻撃を再開し、浅井家の城「小谷城」を包囲して、救援に来た朝倉軍も撃破。
そのまま浅井家・朝倉家の双方を滅亡させます。
浅井長政 は自害、嫁いでいた信長の妹「お市」は3人の娘と共に織田家に戻されました。

その後、織田信長は「浅井長政」と、朝倉家の当主「朝倉義景」の頭蓋骨に金箔を貼り、それを飾って酒宴を開いたと言います。
信長は浅井長政の頭蓋骨で杯を作り、それで酒を飲んで祝ったとも言われています。
それらは信長の狂気の一面であったかもしれません。

また、この頃の酒宴で、織田信長と明智光秀の関係が悪化している事を示すトラブルが起こっています。
明智光秀は元々、お酒はあまり飲めない人でした。 しかしそれでも織田信長は明智光秀に酒を飲ませようとします。
そして飲めない光秀を野次ったり、中傷したりする事が多かったようです。

例えば、大量の酒を注いで刀を抜いてムリヤリ飲ませようとしたり、酒宴を途中で抜けた光秀を「なぜ逃げた! 成敗してくれる!」と槍を突きつけて脅したりする事があったと言われています。
自由奔放な 織田信長 と、真面目な 明智光秀、その性格の違いが表面化し始めたようです。


【 1574年3月 蘭奢待事件
※本能寺の変まで、あと8年と3月

蘭奢待(らんじゃたい)」とは、香木(お香の木)です。
それは天皇家に代々伝わっていた国宝であり、天皇でさえ勝手に持ち出す事は出来ないとされ、奈良の東大寺で厳重に保管されていました。
実際、かつて様々な権力者が蘭奢待を見ることを希望しましたが、誰も見る事は出来ていませんでした。

しかし織田信長はある日、急に「蘭奢待が見たい」と言い出します。
もちろんそれは許される事ではありませんが、信長は自ら東大寺に行き催促します。
当時、すでに織田信長が比叡山焼き討ちなどで、敵対する者には容赦しない事は知られていました。
「ここで断るとどうなるか解らない」と恐れた東大寺側は、嫌々ながらも蘭奢待を信長の前に差し出します。

すると信長は短刀を取り出して「一方は天皇に献上し、もう一方は自分が使う」と言って蘭奢待の一部を2ヶ所、無造作に切り取って持って行ってしまいます。
翌月、織田信長はその蘭奢待を炊いて茶会を催しました。

さらに信長は将軍・足利義昭を追放した直後、本来は朝廷(天皇家)しか行えない「年号」の変更を、その権力を持ってムリヤリ実行し「天正」という年号に変えていました。

それらは自らの権力が頂点にある事のアピールだったとも言われており、一方で朝廷や既存の権力者にとっては、それ以上ないほどの圧力になったと言われています。


【 1574年9月 長島一向一揆の虐殺
※本能寺の変まで、あと7年と9月

武田信玄 の死や浅井・朝倉家の滅亡後も織田信長に抵抗し続けていたのが、「一向宗」という仏教を信じる宗教勢力「本願寺」です。
宗教によって結束し、「進むは極楽、引けば地獄」と言って死も恐れず攻撃してくる信者達の軍勢は、織田信長にとっても手強い相手でした。

特に伊勢長島(現在の三重県の北部)の地には要塞化された一向宗の大きなお寺があり、織田軍は攻撃するも手痛い反撃を受け、その後も他の方面の戦いが激化したため、なかなか攻勢に出ることが出来ず、苦戦していました。

しかし 足利義昭 が追放され、浅井家朝倉家 も滅亡した今、織田信長は軍勢を集めて大規模な「長島討伐」を開始します。
さすがの一向宗の軍勢も、今回の織田軍の攻撃には耐えきれず、次々と降伏しようとするのですが・・・
織田信長は降伏を許さず、女子供老人を含め、一向宗の信者は全て皆殺しにしてしまいます!

降伏を許したふりをして一向宗側が出て来たところを鉄砲で一斉射撃したり、砦を柵で囲んで逃げられないようにしてから火を放ち、全員焼き殺すなどの苛烈さで、この時に虐殺された一向宗門徒(信者)は2万人を越えると言われています。

この徹底的な虐殺行為は、まだ各地に多く存在していた一向宗門徒に対して「信長に敵対するとこうなる」というのをアピールしたものだったと言われていますが、信長自身、「見えもしない仏を信じて戦う者」に対する嫌悪感があったと言われています。

以後、「比叡山の焼き討ち」や「長島一向一揆の虐殺」により、信長はさらに畏怖・恐怖の対象として知られるようになります。


【 1575年5月 武田騎馬軍団の壊滅
※本能寺の変まで、あと7年と1月

武田信玄は病死しましたが、武田家はまだまだ精強でした。
武田家は信玄の子「武田勝頼」が跡を継ぎ、織田家の同盟国である徳川家との戦いを続けていて、徳川軍は押され気味の展開となっていました。

そしてある日、武田軍は軍勢を率いて徳川家の城を包囲、攻撃を開始します。
知らせを受けた織田信長は徳川家に救援を出すことを決定、徳川家康と共に武田軍を迎え撃ちますが・・・

この時 織田信長は、三千の鉄砲を持って行きました。 これは戦場で使われた鉄砲の数としては前例がないほどの量です。
そして信長は鉄砲を持った兵士を3列にずらっと並べ、その前に敵の突撃を防ぐ柵を立て、武田軍を待ちかまえます。

武田軍には「戦国最強」と言われた騎馬軍団がいました。
当時の鉄砲は連続で発射することが出来なかったため、武田勝頼 は騎馬軍団で突撃すれば勝てると考えていました。
しかし織田信長は、3列に並べた鉄砲隊の前列が撃っている間に、後列が弾を込め、撃った者は後ろに下がる、と言う方法で鉄砲を連続で発射する新戦術を考案しており、それにより武田騎馬軍団を蜂の巣にします!

こうして最強と言われた武田軍は壊滅。
この戦いは「長篠(ながしの)の戦い」と呼ばれ、新時代の武器と戦術を用いて勝利した織田信長が、さらにその才能を誇示した戦いとして知られています。
以後、大被害を受けた武田家は、衰退の一途を辿る事となります。

なお、この戦いの後・・・ 織田信長は富士山の見物に向かっています。
信長は富士山をまだ見た事がなかったため、帰りに迂回して見物するルートを取るのですが、ここで事件が起きます。

帰路の途中、明智光秀が「この度の大勝利も一重に信長様と将兵の皆様のお力のたまものですね」と言った際、信長が突然「皆様の力だと? お前が何をしたというのだ!」と言って怒り、光秀を叩き飛ばしたという事件です。
近くにいた人が仲裁し、大事には至らなかったようですが・・・ すでに両者が微妙な関係であったことが伺えます。


【 1575年8月 越前一向一揆討伐
※本能寺の変まで、あと6年と11月

織田信長に敵対する宗教勢力「本願寺」。彼らが信仰していた一向宗は日本中に広まっていたため、長島一向一揆の信者が虐殺された後も、各地で抵抗を続けていました。
そんな一向宗が特に勢力を持っていたのが、「越前(現在の福井県)」でした。

そのため信長はこの地方への攻勢を強化し、「逆らう一向宗門徒は全て皆殺しにしろ」という命令を出します。
そしてこの月、越前の一向一揆は内部分裂もあって崩壊、織田軍は一向一揆に参加した者は容赦せず、老若男女問わず、全て殺害します。
この時の被害者数は長島一向一揆を上回るもので、3万人以上と言われています。

越前に視察に行った信長は、書状に「市中は死骸で埋め尽くされており、空いている所はない」と書いています。
そして「第六天魔王」と呼ばれた織田信長の殺戮に対する恐怖で、一向一揆は次第に沈静化していく事となります。
この一向一揆討伐には、明智光秀も参加していましたが・・・ 彼の胸中はどのようなものであったでしょうか?


【 1575年10月 名物狩り
※本能寺の変まで、あと6年と9月

織田信長の意外な趣味・・・ それが「茶の湯」です。
お茶を飲むという行為に「禅」の思想を取り入れた茶道を体験した信長は、その風流な趣向に感銘を受け、以後茶の湯を好んで行うようになりました。
こうした和歌や茶道などの風流な催しは、元は裕福な商人・町人の間で広まったものですが、戦国時代にはこうした文化が武士の間にも急速に広まっていきました。

そして、主君である織田信長が趣味にしている事で、配下の武将達も好むようになり、茶道は武将達の間で大きなブームとなっていきます。

こうした中、織田信長は茶道に使う「茶器」の収集を始めます。
それは資金や物品と引き替えに、裕福な商人が持っていた高価な茶器をムリヤリ買い取るというもので、相手に拒否権を与えない強引なものでした。
そして集めた茶器を使った格式の高い茶会や、茶器そのものを、信長は武将達の手柄に対する褒美として与えるようになります。
いつしか茶器は一国より高い価値を持つようになり、茶人の地位も戦国武将に劣らぬほど高まって行くこととなりました。

この年、織田信長は京都の「妙覚寺」というお寺で、天下一の茶人と言われた「千利休」を茶頭とし、大規模な茶会を開催します。
それは内外に自らの地位をアピールするものとなりました。


【 1576年2月 安土城築城開始
※本能寺の変まで、あと6年と4月

織田信長は美濃の岐阜城(現在の岐阜県)を本拠地としていましたが、この年、琵琶湖の東岸に新たに巨大な城を築き、ここを居城とします。
安土城」と呼ばれたその城は、西洋のデザインを取り入れた天守閣を持つ壮麗なもので、場所的にも京都に近く、商業的に栄えていて、各方面に移動もしやすい軍事上の要所でもありました。

それは織田信長の「天下布武(武によって天下を治める)」の象徴であったといいます。


【 1576年4月 足利義昭の策謀
※本能寺の変まで、あと6年と2月

織田信長によって京都から追放されてしまった室町幕府の将軍「足利義昭」。
しかし彼はまだ、室町幕府の再興をあきらめてはいませんでした。

かつて室町幕府を作った「足利尊氏」が落ち延びて、再起を計った中国地方の「備後の鞆」(広島県東部の港町)に留まり、そこから各地の大名や権力者に信長を非難する書状を送り続ける、信長打倒の活動を続けていたのです。

一方、本願寺と織田信長の対立はこの頃、やや沈静化していましたが、本願寺が大阪で守りを固めたことを理由に、信長は再度進攻を開始します。
足利義昭はこれを受け、中国地方の大名「毛利家」に本願寺支援を要請、さらに上杉家武田家とも連絡を取ります。

足利義昭はかつての「信長包囲網」を、水面下で復活させようとしていました。


【 1577年8月 上杉謙信、西進
※本能寺の変まで、あと5年と10月


(上杉謙信)

越後(現在の新潟県)の戦国大名「上杉謙信」。
武田信玄と並んで戦国最強の大名の一人と言われる上杉謙信は、関東地方で武田家北条家と戦っていましたが、この頃から北陸地方を西に向かって進み始めます。
北陸地方には織田家も進出していましたから、両者が激突するのは時間の問題でした。

そのため能登半島の攻略を開始した上杉軍に対し、信長は北陸地方への増援を行います。


(松永久秀)

しかし、その隙に京都の南の大和地方(現在の奈良県)で、「松永久秀」が謀反(反逆)を起します!

この松永久秀は元は三好家の家臣でしたが、その三好家の主君や同僚を謀殺して成り上がったと言われる梟雄(悪逆非道な英雄)で、三好家が衰退した後は織田信長に仕えていました。
信長包囲網の形成と武田信玄の上洛、足利義昭の挙兵があった際にも謀反を起し、信長に反逆していたのですが、この時は信長に許されています。
しかしこの年、包囲網が再び形成されると見たのか、信長に対して再度反逆します。

これらの出来事には、再び信長を窮地に追い込もうと画策していた足利義昭の活動の影響があるとも言われています。


【 1578年3月 謙信病死、官位返上
※本能寺の変まで、あと4年と3月

謀反を起した松永久秀ですが、すぐに織田軍に包囲されてしまいます。
彼は名物茶器「平蜘蛛の釜」に火薬を詰めて爆死、大和地方の反逆はあっさり沈静化します。

その後、北陸から軍勢を進める 上杉謙信 に対し、織田信長羽柴秀吉柴田勝家 などの重臣を率いて出陣。
両軍は「手取川の戦い」と呼ばれる合戦で激突するのですが・・・ 織田軍は大敗します。
この時、信長は危機を迎えるのですが、翌年に上杉謙信は脳卒中で急死してしまいます。

結局、これら戦いで、織田信長の抵抗勢力は逆に消えていく事となりました。

この後、織田信長は朝廷から与えられた身分「官位」の返上を申し出ます。
それは前年に信長の要請で与えられたばかりだったのですが、信長はこれを辞任、息子の「織田信忠」に譲ることを願い出ました。
「息子への委譲」という形であったため大きな騒動にはならなかったのですが、公家や天皇家にはさらに「信長が朝廷の権威を軽んじているのではないか」 という不安が流れることとなります。


【 1578年10月 荒木村重、謀反
※本能寺の変まで、あと3年と8月

荒木村重」は織田信長が京都方面に進出した際に家臣になった人物です。
信長に気に入られて破格の待遇を与えられていた武将で、「摂津(現在の大阪周辺)」の国の統治を任されており、茶人としても有名な人でした。


(荒木村重)

しかしその荒木村重が突然、同僚と共に謀反を起します!
彼の配下が密かに本願寺に米を売ったため、謀反の容疑をかけられたからだと言われていますが、正確な理由は今でも不明です。
足利義昭からの要請や、中国地方の大名「毛利家」からの寝返り工作があったのではないかとも言われています。
そして荒木村重は、信長が送った講和の使者を無視し続け、さらに旧知の間柄であった羽柴秀吉の軍師「黒田官兵衛(黒田如水)」が説得に来たときも、これを投獄して徹底抗戦の構えを取り続けました。

さらに同じ頃、織田信長に臣従していた播磨(現在の兵庫県南部、神戸周辺)の大名「別所長治」も織田家に反逆し、同盟国である丹波(現在の兵庫県北部)の大名「波多野家」と共に、織田家との交戦を開始します。
この頃、中国地方の戦国大名は一斉に、反織田の立場を取り始めました。

しかし結局、怒りの爆発した織田信長に攻め込まれ、荒木村重は敗北します。
妻子や家臣120人がはりつけにされて処刑され、城にいた500人以上が小屋に閉じこめられ焼き殺されたと言われていますが・・・
荒木村重本人は毛利家に逃れて、その後も余生を過ごしています。

なお、この騒動で荒木村重に捕らえられた黒田官兵衛は、1年近くも投獄されたままになっていて、そのため信長は彼が荒木村重に寝返ったのだと思い、人質となっていた彼の息子(黒田長政)を処刑するよう命令しています。
結局この命令は、羽柴秀吉のもう一人の軍師「竹中半兵衛」の機転によって、実行されなかったのですが・・・

この頃の相次ぐ謀反や騒動で、織田家は疑心暗鬼になっていたと言われています。


【 1579年6月 波多野家の処刑
※本能寺の変まで、あと3年

京都の西「丹波」の地で織田信長に抵抗を続けていた大名「波多野家」。
京都に近くであり、中国地方の入り口にもあたるこの場所は戦略上の重要地で、1575年から明智光秀がこの地の制圧を受け持っていましたが、苦戦が続いていました。

しかし長い戦いの末、ついに波多野家の兵糧が尽き、波多野家は明智光秀に降伏します。
そして明智光秀は波多野家の大名「波多野秀治」と、弟の「波多野秀尚」を、織田信長の元に送るのですが・・・
織田信長はこの両者の降伏を許さず、処刑してしまいます。

この時、明智光秀は波多野秀治を降伏させるために、自分の母を人質として波多野家に送っていたため、波多野秀治が殺された事で、明智光秀の母も殺されてしまい、織田信長に深い恨みを持ったと言われています。

この話は明智側の記録に出てこないため、信憑性が薄いとも言われていますが、降伏を認めた相手を信長が殺してしまった事は確かであり、何かの怨恨が生まれていたかもしれません・・・


【 1579年9月 信康事件
※本能寺の変まで、あと2年と9月

織田信長の同盟者「徳川家康」。
彼は織田信長と共に各地で戦って来ましたが、この年、その信長から妻と息子の切腹を命じられる事件が起こります。

事の起こりは、織田信長の娘であり、徳川家康の息子「徳川信康」の妻となっていた「五徳姫(徳姫)」が、姑であり徳川信康の母である徳川家康の正妻「築山殿」と不仲になっていて、「築山殿が武田家に内通している」という内容を含む、築山殿 と 徳川信康 を非難する手紙を織田信長に送ったのが発端です。

この手紙を見た信長は、徳川家の重臣「酒井忠次」にこの内容が本当なのかどうか聞きますが、酒井忠次が否定しなかったため、徳川家康に 築山殿徳川信康 の切腹を命令します。

この「信康事件」には不可解な点が多く、どうしてこうなったのか、今でも議論の対象になっています。
五徳姫の嫉妬心によるでっち上げ説、築山殿が武田家に送った手紙を誤認した説、信長が徳川信康の優秀さの噂を聞いて危機感を覚えた説、離反が相次いでいた信長が徳川家康の忠誠心を試した説、酒井忠次を始めとする家臣のクーデター説、などなど・・・

いずれにせよ、織田信長から連絡を受けた徳川家は大騒動になりましたが、織田家には逆らえないと判断した徳川家康は、妻の築山殿と息子の信康に切腹を命じ、信長の意向通りにしています。

ただ、徳川家康は後々までこのことを後悔していたようで、事件に関連した 酒井忠次 に後年与えられた領地も少なくされているため、この件がずっと家康の苦い過去、恨み事となっていた事は確かなようです。


【 1579年10月 宇喜多家の臣従
※本能寺の変まで、あと2年と8月

後の「豊臣秀吉」である織田家の重臣「羽柴秀吉」。
彼はこの頃、中国地方の制圧を命じられていました。
しかし中国地方は織田家に敵対する勢力が多く、織田家と対立している大きな大名家「毛利家」もあったため、さすがの秀吉も簡単には進軍できませんでした。

そこで羽柴秀吉は、備前(現在の岡山県)を支配していた毛利家の同盟国「宇喜多家」の宇喜多直家と交渉を開始、宇喜多家と毛利家の同盟を破棄させ、織田家に臣従させる事に成功します。
交渉が成功したことに秀吉は大喜び! さっそく織田信長に報告に行くのですが・・・
秀吉は逆に信長から「勝手に同盟を結ぶな! すぐに条約を破棄して宇喜多を攻め滅ぼしてこい!」とおもいきり叱り飛ばされる事となります!

今さら条約を破棄することは出来ない上に、宇喜多家の戦力は毛利家との戦いにおいて大きなものであったため、結局そのまま秀吉は宇喜多家と共に毛利家と戦うのですが・・・
宇喜多家の処遇については、その後の悩みのタネになっていたようです。


【 1580年3月 本願寺降伏
※本能寺の変まで、あと2年と3月

大阪の「石山本願寺城」で徹底抗戦を続けていた宗教勢力「本願寺」。
しかし各地の本願寺の一向一揆は、織田軍の進攻によって次々と壊滅していきました。
そしてこの年、ついに本願寺家は天皇を仲介して織田家に降伏することを受諾、長きに渡った織田家と本願寺の戦乱が終結します。

こうして本願寺の法主「本願寺顕如」は城から退去し、各地の一向宗門徒に戦いの終結を訴えたのですが・・・
しかし本願寺顕如の子「本願寺教如」はこれを不服とし、徹底抗戦を訴えて城から出ず、そのまま支持者と共に篭城してしまいます!

これに怒った織田信長は再び本願寺城への攻撃を再開、一度降伏した本願寺軍にそれを防ぐ力はなく落城。
これによって立場の悪化した本願寺顕如は教如と共に、紀伊半島南部の協力勢力「雑賀衆」に逃げ込みます。
しかし織田軍からの追っ手が伸びて、雑賀衆 は次第に窮地に追い込まれていきました。

また、本願寺の支配下であった加賀(現在の金沢県)方面でも、織田家に徹底抗戦を訴えた一向一揆勢力が抵抗を続けます。
ですが加賀の一向一揆は、織田家の重臣「柴田勝家」の軍勢の攻撃で壊滅。
加賀は講和の際、本願寺に返還されることになっていたのですが、結局この戦いによってその条約は無視されます。
本願寺は織田軍の講和を受け入れながらも、さらに追い詰められていく事となりました。


【 1580年8月 信長、重臣を追放
※本能寺の変まで、あと1年と10月


(佐久間信盛)

織田信長が織田家の跡を継いだ頃からの、織田家の長年の重臣である「佐久間信盛」と「林通勝」。
しかしこの2人が突然、織田信長からリストラされてしまうという事件が起きます。

この両名は、特に何かの失敗をした訳ではありません。
しかし「何の功績もなかった」として、信長は2人をクビにしてしまいます。

佐久間信盛がクビになった理由は「石山本願寺城の攻撃を任せていたのに、何の進展もないまま何年も戦線を硬直させてしまった」のが主な理由とされています。
ただ林通勝に関しては「信長が織田家を継いだとき反乱を起したから」という、30年近くも前の出来事が理由にされていました。
しかし、かつて林通勝と共に反乱を起した「柴田勝家」には、何の咎めもありませんでした。

彼ら2人が急にクビになった件については、織田信長の「徹底した実力主義」があると言われ、それは枠に捕らわれない織田信長の美点であるとも言われていますが、トップクラスの重臣である2人が突然追放された事は、織田家の家臣に動揺を呼び、大きな不安を与えたと言われています。


【 1581年2月 天覧馬揃えの挙行
※本能寺の変まで、あと1年と4月

この年、大々的なパレードの行事「天覧馬揃」が挙行されました。
京都の中心をきらびやかに着飾った500騎以上の騎馬武者が、絢爛豪華に行軍したと言われています。
それは当時の天皇「正親町天皇」も見物したと言われ、織田信長が「天下人」である証しとなり、織田家の権勢が世に轟いている事を示すものとなりました。
このパレードで 山内一豊 の妻が、支度金をはたいて夫に馬を買わせた話は有名です。

ただ、この天覧馬揃えは天皇の御所のすぐ前で行われたものであったため、朝廷(天皇家)に対する威嚇・威圧の意味があったとも言われています。
なお、この馬揃えの責任者は明智光秀でした。

一方、織田信長の居城として建築されていた安土城の城下町には、南蛮渡来のキリスト教の神学校「セミナリヨ」が築かれました。
織田信長は神や仏を信じていなかったと言われていますが、キリスト教の宣教師とは友好的であり、南蛮の文化を積極的に取り入れる姿勢を見せていました。

この頃、キリスト教の宣教師が天皇への謁見を信長に依頼した際に、「この国の王は自分である。よって天皇に会う必要はない」と答え、それを拒否しています。
天皇と宣教師が会うことを拒んだ理由は不明ですが、この話は他所にも広まり、信長が朝廷(天皇家)を軽視しているという風聞をさらに強めるものとなったようです。


【 1581年9月 天正伊賀の乱
※本能寺の変まで、あと9月

紀伊山地の中、伊賀(現在の三重県伊賀市)の地にあった忍者軍団「伊賀忍軍」。
彼らは各地の勢力からの依頼を受けて忍者の派遣を行い、報酬を得ていた存在でした。

忍者は今で言うスパイであり、戦乱の世には必要不可欠な存在ではありましたが、中小の勢力では忍者軍団を設立・育成することは難しいため、伊賀忍軍のような組織に諜報活動を依頼する事もありました。

しかし織田家は 伊賀忍軍 に、「勝手に他の大名家の仕事を受けてはならない」という高圧的な要請を行います。もちろん伊賀側はこれを拒絶。
以後、織田家とは対立する関係となります。

1579年、織田信長の子「織田信雄」が率いる織田軍が小競り合いの末に伊賀に進攻し、合戦となりますが、伊賀忍軍のゲリラ戦の前に大敗。
織田信長はこの話を聞いて激怒します。(第一次 天正伊賀の乱)

そして1581年、織田軍は約5万の大兵力を集め、再び伊賀に進攻を開始します。
1万にも満たない伊賀忍軍は多勢に無勢、里は壊滅し、女子供を含む数千人が殺害されました。(第二次 天正伊賀の乱)

生き残りの伊賀忍者は山中に潜伏したり、各地に離散していく事となりますが、組織としての伊賀忍軍は消えることになります。


【 1582年3月 武田家の滅亡
※本能寺の変まで、あと3月

戦国最強とも呼ばれた大名 武田家。 
しかし「武田信玄」が死去し、その子「武田勝頼」が織田信長の鉄砲隊に敗れて大被害を受けた後は、家臣の離反も相次いで衰退する一方でした。

この年、ついに織田家と徳川家の攻勢によって、武田家はその最後を迎えます。
武田勝頼 の最期は、頼った家臣の 小山田信茂 に裏切られて追い詰められるという悲惨なもので、一族と共に「天目山」という山で自害し、武田家は消えることとなりました。

さらにそのすぐ後、武田家と親しい関係にあり、天皇から僧としての最高の称号「国師」も授けられた高僧「快川紹喜」が、織田信長と敵対していた人物を匿った罪で寺ごと焼かれ、焼死する出来事も起こります。
「国師」を焼き殺したという事実は、既存の権力や信仰を気にしない信長の姿勢を、改めて示すものとなりました。

その後、徳川家康 には武田攻めの功績として武田家の領地であった駿河の国が与えられ、さらに信長から「安土城」と京都の見物をする、接待の誘いを受けます。
徳川家康はその誘いに応じ、徳川家の重臣を含む30人ほどで、安土城へと向かいました。

一方この頃、織田家の主要な軍団は各地を制圧するために出陣中でした。
羽柴秀吉は中国地方で「毛利家」と戦闘中、
柴田勝家は北陸地方で「上杉家」と戦闘中です。
滝川一益は武田攻めに参戦した後、そのまま信濃(現在の長野県周辺)に駐留して、関東の「北条家」と睨み合います。
明智光秀は京都の西にある丹波地方(現在の兵庫県北部)を制圧した後であり、そのまま中国地方北部へ進軍する準備を行っていました。
また、織田信長の子「織田信孝」や 丹羽長秀 を大将として四国の「長宗我部家」への侵攻も準備されています。

各方面で軍勢が進行中であり、織田信長は天下統一の総仕上げに入っていました。

ただ、各方面に軍勢を派遣しているため、織田信長本人のいる京都周辺の守りは、手薄になっていました・・・


【 1582年3月 信長「神」を称する
※本能寺の変まで、あと1月

織田信長はその日、前例のない行動に出ます。

各地のお寺から「ご神体」を集め、その上に「盆山」という名前の「石」を置き、それを自らの化身として祀って、自分の誕生日にはこの石に参拝するよう人々に命じたのです。

それは、信長が「神」を自称した瞬間でした。

神や仏を信じない織田信長が自らを神として祀ったのは、どういう意図があったのか・・・
それは解りません。

また、安土城の天守閣は、天守閣ではなく「天主閣」であり、その上階には釈迦の住む仏教世界が描かれ、最上階は金箔で覆われ、古代中国の賢人達が描かれていたと言います。

自らを神とした信長の意図はともかく、キリスト教の宣教師たちには、それは神を冒涜する恐るべき行為に見えました。
宣教師の一人 ルイス=フロイス は「信長は神デウスにのみ捧げられるべき礼拝を横領し、途方もない狂気の言動と暴挙に及んだ。 我らの神デウスは、彼と彼を参拝する者達の歓喜が続くことを許さなかった」と記しています。


そして 1582年6月21日(天正10年6月2日)の「本能寺の変」へと続いていきます・・・


    

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武将の顔グラフィックは「信長の野望 Online」および「信長の野望 天下創世」のものです。
画像も主に信長の野望シリーズや、太閤立志伝シリーズからのものです。
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2017/9/15 ページレイアウトを修正、スマホ対応
2009/5/15 表記を一部修正
2007/1/1 初稿(本能寺の変、実行前まで作成)