斎藤氏

斎藤家 と 斎藤道三


美濃のマムシ」と恐れられ、天下の「梟雄(悪逆非道な英雄)」として知られる「斎藤道三」。
彼はまさに、戦国時代における「下克上(下の者が目上の人を討ってのし上がる事)」の代名詞と言える人物です。
一介の油商人から、一国一城の主にまで登りつめた斉藤道三は、まさに戦国時代象徴の1つであるとも言えるでしょう。

若い頃、彼がどこで何をしていたのかはイマイチはっきりしていません。
彼は元々、京都にある「妙覚寺」というお寺で修行していた僧だったと言われていますが、僧侶だったのは彼の父であると言う説もあります。
いずれにせよ、彼はその後 京都から「美濃(現在の岐阜県)」に渡り、量り売りの油商人となっています。
彼は一文銭の中央にある穴を通して油を注ぎ、もし穴から油がそれたらそれをタダにするという街頭パフォーマンスをしながら油を売って、人気者になりました。
その後、僧侶時代のツテもあって美濃の有力者の1人 「長井家」 に仕官、そこからさらに長井氏に紹介されて、その主人の「土岐頼芸」に仕える事になります。
当時、美濃は「土岐家」という大名が支配しており、「土岐頼芸」はその一族の1人でした。
元々彼(道三)は何をやっても器用な人だったらしく、しかも頭が切れ、仕事も遊びも達者で人間的な魅力に溢れていたといいます。
すぐに彼は 土岐頼芸 の一番のお気に入りの家臣となり、頼芸の側室を与えられて妻とするぐらい信頼される事となります。
しかし、彼の主人の 「土岐頼芸」 は、実は美濃の大名であった 「土岐政頼」 とは不仲でした。
そこで彼は 頼芸 を言葉巧みに誘導し、そして 1527年、頼芸と共にクーデターを実行します!
土岐政頼 の城を夜襲で一気に襲い、大名だった 政頼 を追放
こうして 土岐頼芸 は美濃の大名となり、若い頃の 斎藤道三 も土岐家の一番の家臣となります。

ですが、こうした彼のやり方と急激な台頭について、他の家臣たちの多くがあまりよく思っておらず、彼を 土岐頼芸 に紹介した 長井氏 も、彼の専横を疎ましく思うようになります。
そこで彼はかつての恩人である長井氏を殺害、そして長井家を乗っ取り、「長井(新九郎)規秀」 と名乗って長井家の城 「稲葉山城」 を居城とします。

さらに敵対勢力を、ある時は非道な謀略で、またある時は巧みな和解交渉で交わしつつ、一方で 「稲葉 一徹」 や 「安藤 守就」 といった有力な豪族(地元の権力者)を味方に引き入れ、力を蓄えます。

そして、元々美濃の守護職(美濃を統治する役職)にあった 「斎藤家」 の家を継いで 「斎藤氏」 となり、ついに 1538 年、クーデターを実行して自分の主人である 土岐頼芸 の城を襲い、頼芸 をも追放!
こうして、彼は美濃の国を奪取し、ここに一国一城の戦国大名にのし上がることになります。
美濃の国を得た斉藤道三は、街道の整備や「楽市楽座」(税金なしでどこでも自由に露店が開けるようにする法令。それまでは商売をするのに場所代を払わないといけなかった)などを実行、これらにより美濃の城下町は商業的に大きく発展していくことになります。
「楽市楽座」 はその後、全国的に広まっていく事になりますが、これは街頭で油を売っていた道三らしい法令と言えますね。
「信長の野望 Online」の斉藤家は、ちょうどこの頃がスタートの状態となっています。

しかし、斎藤家 と 斎藤道三 の運命は、ここから大きく傾いていく事になります・・・
追い出されたかつての美濃の大名 「土岐家」 は、美濃を取り戻そうと尾張の 織田家 に協力を要請、その後押しを受けて 斉藤家 にたびたび攻撃を仕かけて来ました。
そこで道三は、織田家 と縁組をして同盟を結ぶ事を考え、娘を 織田家 に嫁がせる事にします。
その嫁いだ相手が、尾張の風雲児 「織田信長」 でした。
1553年、斎藤道三 は 「正徳寺」 というお寺で 織田信長 と会見。
道中、トンでもない格好でやってきた信長は会見の席では一転して正装して現れます。
さらに尊大な態度で受け答えする 信長 の姿に 道三 は大いに感服し、「我が子らは皆、あの男の配下となることだろう」と語る事になります。
しかしこれが、後のわざわいの火種となります。
斎藤道三は国内の土岐家の勢力や、土岐家に恩のあった家臣達を牽制するために、元 土岐頼芸の側室の妻の生んだ長男、「斎藤義龍」に家督を譲ります。

義龍はその側室が道三に嫁いですぐに生まれたので、道三 の子ではなく、土岐頼芸 の子だという噂がありました。
そのため道三はこれを利用して義龍に家督を譲る事で、国内の土岐家寄りの勢力をなだめようとしたのですが・・・
しかし、義龍は道三とは似ても似つかぬ巨漢で、しかも大人しい性格であり、部屋で本ばかり読んでいるような人で、道三とは正反対の人でした。
そのためか道三は 「あんな軟弱者に国はまかせられん」 と考え、一度は義龍に家督を譲りましたが、後にそれを撤回、他の兄弟に国を継がせようとします。
しかしそれが土岐家寄りの家臣達の感情を逆なでする事になり、そして義龍自身も、自分が道三によって廃されようとしているのを悟ります。
加えて、道三が信長と会見した時に 「我が子らは皆、あの男(信長)の配下となることだろう」 と語ったことも広まってしまい、ますます義龍は危機感を感じる事となります。
道三がこれまで、非道な裏切りと謀略を繰り返して今の地位を得たと言う事実も、義龍の不安を募らせたかもしれません。
こうして・・・ 1556年、斉藤義龍 は土岐家に恩のあった家臣達や権力者達の支持を受け、道三に対してクーデターを実行
他の兄弟を襲ってこれを討ち倒すと、そのまま父、斎藤道三 を襲います!
斎藤道三 もすぐに軍勢を集めますが、家臣の多くは 義龍 の側につき、もはや戦える状態ではありませんでした。
道三は信長への 「美濃一国譲り状(美濃の国を譲り渡すと言う書状)」 を 織田家 へ届けさせると、多勢に無勢の戦いの中で、息子 義龍と対峙します。
最後の戦いで道三は、義龍の見事な采配を見て、「虎を猫と見誤るとはワシの眼も老いたわ。 しかし当面、斉藤家は安泰」 と語ったと言います。
そして戦いに破れた道三は、そのまま命を落とします・・・ 享年 62 才。

その後 斉藤義龍 は、美濃の支配をさらに強化しつつ国内を発展させ、「美濃一国譲り状」を大義名分として度々攻撃を仕掛けてくる織田の軍勢を撃退し続けますが、1561 年、流行り病によって 34 才の若さで病没します。
後を継いだ 「斎藤龍興」 は僅か 14 才の若さであり、国主としての器量も無く、家臣達は次々と織田家に寝返っていき、そして 1567 年、織田家の攻撃によって美濃は占領され、斉藤家は滅亡することとなります。

度重なる下克上によって油売りから戦国大名にまで登った斎藤道三は、自らの息子の下克上によって、その生涯を断たれる事となりました。
戦国時代をそのまま象徴した人生であったといえますが・・・
因果は巡る、ということなのかも知れません。
しかし、「信長の野望 Online」のスタート時点では、斉藤家はちょうど絶頂の時期にあたります。
一方で織田 信長とは同盟関係ではなく敵対しているため、今後どうなるか、史実とは全く異なる展開を見せる可能性も高いでしょう。
立地的にもマップ上の中央付近にあり、信長の野望 Online での斉藤家の動向は、まさに予断を許さないものとなりそうですね。

【注記:斎藤道三の漢字表記、および伝記について】
「斎藤道三」 の漢字は 「斎藤」 の表記が正しいようです。
「斉藤道三」 の字が使われている場合も多いのですが、「斎」 と 「斉」 は漢字としては別字であるようです。
ただ一般的に新字体である 「斉藤道三」 の表記が使われている事も多く、また当時の正確な表記は旧字体である 「齋藤道三」 であることから、当ページでは 「斎藤道三」 と 「斉藤道三」 の表記の双方を使用しています。
また、斎藤道三の下克上は近年の研究では、斎藤道三の父と道三本人、親子二代にかけて行われたものであるという新説が有力となりつつありますが、当サイトは初心者向けの歴史解説を行っているため、基本的に定説を記載しています。
よって、当ページでは親子二代とはしていません。
以上の点をご了承下さい。<(_ _)>

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