斎藤家(斉藤家)武将名鑑


戦国大名「斎藤道三」(斎藤家)の武将達のプロフィールを紹介しています。


斎藤道三

斎藤 道三

(さいとう どうさん) 
斎藤家大名 美濃のマムシ

斎藤家の大名。
一介の油商人から一国一城の主に登り詰めた下克上の代名詞。
言葉巧みに主君に取り入り、謀略を駆使して敵を廃し、主君を追放してその地位を乗っ取ると、遂には国をも奪取した「美濃の蝮」。
下克上に生きた男の生涯は、自らの子の下克上により幕を閉じた。
斎藤道三、および斎藤家についての詳細は こちら をご覧下さい。


斎藤家 武将詰所

塩屋秋貞

塩屋 秋貞

(しおや あきさだ) 
戦う塩商人

名前の通りの「塩屋」さん(塩商人)。 実際には斎藤家の武将ではない。
飛騨地方(美濃の北東の山岳地帯)の塩の流通を取り仕切っており、多額の財産を築いていた。
飛騨地方の豪族(地方権力者)である三木家(のちの姉小路家)と協力して武田家と戦った事もあり、三木家は彼に借金をしていたという。
後に越後の上杉謙信と手を結び、豊富な資金を使って越中(富山)へと進攻したが、これも塩の通商ルートを確保するためだったと言われている。
上杉家に従属していた頃は、他の飛騨の豪族「姉小路家」「江馬家」「内ヶ島家」より上位とされていた。謙信の没後は織田家に従属。
商売のために兵を率いた、戦国時代にも珍しい「商人武将」と言えるだろう。

野々村三十朗

野々村 三十郎

(ののむら さんじゅうろう) 
のちの織田家黒母衣衆

「三十郎」は通称で、名は「正成」。斎藤龍興(斎藤道三の孫)の時代に、その武勇が評判になっていた武将。
織田家との戦いで信長のいとこ「織田信益」を討ち取った。
斎藤家の滅亡後は織田家に仕え、織田家のエリート部隊「黒母衣衆」の一員となり、後に織田家の重臣「佐々成政」の配下として活躍。
織田家と武田家が戦った「長篠の戦い」では鉄砲隊を率いている。

「本能寺の変」の際には京都に滞在しており、信長の子・織田信忠のいる二条御所に駆け込んで明智光秀軍と戦うが、信忠と共に戦死した。

堀池元盛

堀池 元盛

(ほりいけ もともり) 
土岐家の奉行

斎藤道三の前に美濃を治めていた大名「土岐家」の家臣。
詳細は解らないが、斎藤義龍の元で稲葉一鉄と共に奉行を務め、クーデターによって焼失した城下町の復興に尽力したという。

妻木広忠

妻木広忠

妻木 広忠

(つまき ひろただ) 
同じ土岐一族の光秀と共に

美濃の元大名「土岐家」の一族であり、彼の娘は織田家の重臣「明智光秀」の妻となっている。つまり光秀の叔父。
明智光秀も土岐一族(分家)であり、近い間柄だった。
土岐家が追放され、美濃が斎藤家に支配されるとそれに従うが、斎藤家が滅ぼされると織田家にいた明智光秀の配下となる。

その後は光秀と共に各地を転戦し、光秀が織田信長に反旗を翻した「本能寺の変」の際も、光秀に追従。
共に信長を討つが、秀吉と戦った「山崎の合戦」(天王山の戦い)で明智光秀が敗れた際、彼も戦死した。
山崎の合戦後、自害した明智一族の墓を作った後に、その前で自刃したとも言われている。

遠藤慶隆

遠藤慶隆

遠藤 慶隆

(えんどう よしたか) 
関ヶ原で所領回復

遠藤家は美濃の国人(地方領主)であり、斎藤家が美濃を支配すると斎藤家に仕えたが、斎藤家が織田家に滅ぼされた後は織田家に仕えた。
竹中半兵衛が稲葉山城を乗っ取ったとき、そのどさくさで親族に城を乗っ取られ、母の再婚相手の長井道利に助けて貰ったことがある。
その後、武田家と密かに手を結び、織田家に反旗を翻そうとするが、武田信玄が病死したために未然に防がれた。
本願寺に内通して斎藤龍興の復帰に協力しようとした動きもあるが、これも未遂で終わっている。
織田家が武田勝頼を攻めた際には、金森長近や、織田家に降っていた日根野弘就と協力し、活躍を見せた。

「本能寺の変」で織田信長明智光秀に討たれたあとは、信長の跡継ぎ候補の一人であり美濃の国主にもなった織田信孝を支持したが、信孝と対立していた秀吉軍に攻め込まれ、降伏後に領地を没収されてしまう。
だが、その後も豊臣家の各地の戦いに参加しており、秀吉の死後に起こった「関ヶ原の戦い」では西軍・石田三成に付いた織田秀信(秀吉に織田家の跡継ぎとされた信長の孫、三法師)から西軍に付くよう説得されるも、これを拒否して東軍・徳川家康を支持。
西軍となった稲葉貞道と美濃で激戦を繰り広げ、旧領の奪還に成功し、東軍の勝利後にその領地を保証されている。
なお、彼の妹は「内助の功」で有名な、あの山内一豊の妻「千代」だと言われている。


斎藤家 中庭

掘田道空

堀田 道空

(ほった どうくう) 
「正徳寺の会見」をセッティング

斎藤家の家老。 斎藤道三がまだ土岐家の家臣だった頃から彼に仕えており、道三の国取りを助けたと言われている。
斎藤道三と織田信長が美濃と尾張の国境にあるお寺「正徳時」で会見した時に、両者の引き合わせ役となった。
その際、彼が「こちらが山城殿(斎藤道三)にて候」と道三を紹介した時、信長が「で、あるか。」と一言、無礼に答えたという話は有名だ。
そのため、信長や道三を扱った物語には必ず登場する。

堀田家は尾張の津島という土地の豪族(地方有力者)で、彼の屋敷で信長が遊んだという記録もあり、もともと織田家との関係が深い人物であったようだ。
のちに堀田家の一族は豊臣家、徳川家に仕えている。

麻生野直盛

麻生野 直盛

(あそや なおもり) 
飛騨の豪族「江馬」の家臣

飛騨地方(美濃北方の山岳地帯)の豪族「江馬家」の家臣。
実際には斎藤家の家臣ではない。
戦国時代、飛騨には 「三木家(後の姉小路家)」と「江馬家」の2つの大きな勢力があり、飛騨の支配を巡って争っていた。
麻生野直盛はその江馬家の次男だったが、「麻生野」という土地を拠点としたため、その地名を取って「麻生野家」に改姓した。
武将としての目立った記録はなく、斎藤家が斎藤龍興(道三の孫)の時代に病死したようだ。

石谷対馬守

石谷 対馬守

(いしがや つしまのかみ) 
芸事で道三と交流

斎藤道三の前に美濃を治めていた「土岐家」の家臣。
石谷は「いしがい」や「いしがやし」の読みもある。
斎藤道三が土岐家の家臣だった頃に芸術などを通じて親交があり、道三が土岐家を追放して美濃を掌握すると、そのまま斎藤道三に従った。
のち、斎藤道三と、道三の息子「斎藤義龍」が争った際には道三側に付いて戦うが、戦力差は圧倒的であり、斎藤道三は戦死、彼の居城も包囲される。
彼の死を惜しんだ斎藤義龍は降伏の使者を送るが、それを断り、辞世の句を結んだ鏑矢を敵陣に放つと、自害した。

長井衛安

長井 衛安

(ながい もりやす) 
斎藤六人衆

長井家は美濃の元大名「土岐家」の重臣だったが、斎藤道三によって乗っ取られ、出世の踏み台とされた家柄だ。
長井衛安は斎藤義龍が斎藤道三に反乱を起こした際に義龍側に加担、義龍が国主となってからは「斎藤六人衆」(斎藤六宿老)と呼ばれた重臣の一人となり、行政に携わった。
しかし義龍の死後、美濃に侵攻して来た織田家との戦いで討ち死にしている。

日根野弘就

日根野弘就

日根野 弘就

(ひねの ひろなり) 
謀反謀反滅亡滅亡出奔滅亡出奔出家

斎藤道三が土岐家の家臣だった頃から道三に仕え、そのまま義龍、龍興の斎藤家三代に仕えた重臣なのだが・・・ 尋常ではない経歴の持ち主。
斎藤義龍の重臣「斎藤六人衆」(斎藤六宿老)の一人でもある。

道三が反乱を起こし、主人の土岐頼芸を追放して美濃を乗っ取った際には、その頼芸を攻めて国外へと追いやった。
しかし斎藤道三が息子の斎藤義龍に反乱を起こされた際には、 義龍側に付いて道三の息子達を殺害し、道三を絶望に追いやっている。
斎藤龍興の代には対織田家の急先鋒となり、織田軍と戦い続けたが、本拠地の稲葉山城が陥落して斎藤龍興が逃亡すると、彼は今川家へと逃れた。

今川家では徳川軍と戦って活躍するが、結局滅亡して浪人に。
そして浅井家に仕えるが、殺傷騒ぎのトラブルを起こしてしまい出奔。
次に斎藤龍興や長井道利と共に反信長の活動を続けていた「服部党」に参加し、長島一向一揆で織田軍と戦うが、信長により一揆軍は壊滅し、織田家に降る。
「本能寺の変」では京都にいたが何もせず静観し、その後は秀吉に仕えるが秀吉を怒らせてまた出奔。
晩年は再び秀吉に仕え、関ヶ原ではどちらにも付かず、後に高野山に出家したという。

次々と主君を変えているが、どの勢力でも合戦で活躍しており、主力として重宝された。
また、彼は武具を色々と自作しており、彼が作った「日根野形(ひねのなり)」と呼ばれた甲冑や兜はとても実戦向きで評判になった。
矢や銃弾が命中しても曲面で滑ってそれる形になっており、諸国に広まったという。

明智光安

明智光安

明智 光安

(あけち みつやす) 
明智光秀の叔父

「本能寺の変」で織田信長に謀反を起こした明智光秀の叔父。 光秀の育ての親でもある。
明智家は美濃の守護職にあった「土岐家」の分家であり、実は明智光秀は、その後継者であった。
ただ、明智家の当主であった兄が若くして死に、まだ光秀は幼かったので、叔父の明智光安が光秀の後見人を務めつつ、当主となる。
そして光秀が当主になることを固辞したため、光秀の成人後も彼が当主を務め続けた。

斎藤道三の配下となった経緯はよく解っていないが、妹の「小見の方」を道三に嫁がせ、土岐家ではなく道三との関係を深めていく。
斎藤義龍が土岐家の勢力と共に斎藤道三に反乱を起こすと、道三の味方を宣言して籠城した。
しかし斎藤道三は義龍に討たれ、長井道利らの攻勢を受けて明智城は落城、光安は自害して明智家は離散する。
そして明智光秀は一旦、朝倉家に仕えることとなる。


斎藤家 奥屋敷

内ヶ島氏理

内ヶ島氏理

内ヶ島 氏理

(うちがしま うじまさ) 
「帰雲城」の埋蔵金伝説

名前の読みは「うじとし」かもしれない。実際には斎藤家の家臣ではない。
飛騨地方(美濃北方の山岳地帯)の国人(地方領主)であり、有名な「白川郷」を始めとする山岳部を領地としていた。
飛騨の豪族「姉小路家」や、越中に進出していた上杉家からの圧力を受け、北陸に織田軍が進出すると織田家からの干渉も受けていたが、場所がド田舎のため、大きな攻勢を受けたり外征を行ったりすることはなかった。

しかし「本能寺の変」で織田信長が倒れ、織田家が分裂すると、姉小路家と共に越中の佐々成政に接近。
このため佐々成政と対立していた秀吉は、配下の金森長近に飛騨の攻略を命じ、これにより姉小路家は滅亡。
内ヶ島氏理も留守中に本拠地の「帰雲城」を攻め落とされ、佐々成政も秀吉に降伏したため、金森長近の配下となる形で豊臣家と和睦した。

そして和睦を祝う宴のため、内ヶ島一族が帰雲城に集まっていた、その日の夜・・・
マグニチュード8と推定される「天正大地震」が彼の領地を襲う!
この地震による大規模な土砂崩れにより、帰雲城は城下町ごと生き埋めとなり、彼も含め、その全てが埋没した。

この埋没した城「帰雲城」には、軍勢を整えるための軍資金が眠っていると言われており、その価値は現在の金額に換算すると5000億円以上だという。
また、城と城下が丸ごと埋まっているため、もし発掘できれば考古学的な価値は計り知れない。
「幻の城」「日本のポンペイ」とも言われる、日本に残る埋蔵金伝説のひとつだが、今では城下町の位置さえ特定できなくなっている。
いくつかの発掘プロジェクトが進行しているようだが、帰雲城が雲の下に帰ることはあるのだろうか?

佐藤忠能

佐藤 忠能

(さとう ただよし) 
裏切りの代償で娘が処刑

美濃の国人であり「加治田城」の城主。 斎藤義龍の反乱の際には、義龍軍に加わった。
斎藤道三の孫「斎藤龍興」の時代に、斎藤家の重臣「長井道利」「岸信周」と共に反織田の盟約を結んで織田軍に対抗していたが、戦況は悪化し、降伏勧告を受けて織田家に寝返る。
そのため怒った岸信周は、人質となっていた彼の娘を、城から良く見える場所で処刑したという。
その後、攻め寄せてくる長井道利と岸信周の軍勢を奮戦の末に撃退し、織田家の援軍と共に岸信周の城を逆に包囲、これを落城させた。
斎藤家の滅亡後は、隠居して仏門に入ったという。

加藤光泰

加藤光泰

加藤 光泰

(かとう みつやす) 
米がなければ砂を食べればいいじゃない

秀吉の配下の武将として有名。
最初は斎藤龍興に仕えていたが、その武勇で評判になり、織田家に仕えるよう秀吉に誘われた。
秀吉の側近として各地を転戦、その戦功はめざましく、所領は5千石、1万5千石、2万石とみるみる増えていく。
「本能寺の変」の後に秀吉と明智光秀が戦った「山崎の合戦」(天王山の戦い)では、勝敗を決定付ける突破を行った。

美濃の「大垣城」の城主となった際、預かっていた土地を勝手に使ったため横領したとみなされ、領地を没収されてしまうが、後に赦免され、甲斐24万石の大名へと出世する。
これは関東に移された徳川家康の押さえ役を任されたためのようだ。

しかし、自ら願い出て参加した朝鮮出兵で病にかかり、日本に帰ることなく病死した。
この出兵中に石田三成と対立し、三成の饗応を受けたあとに発病、しかも突然血を吐いて倒れたため、三成に毒殺されたという説がある。

対立した要因は、加藤清正が独断で朝鮮半島の奥深くに進攻していったとき、石田三成がほっといて他の軍勢に後退を指示したため、「見捨てるつもりか!」と怒り、三成が兵糧不足の事情を説明すると「だったら砂でも食え!」「俺が食い方を教えてやる!」と言い出して口論になったため。
そのためか「関ヶ原の戦い」では、子の加藤貞泰は東軍・徳川側に付いている。

坂井政尚

坂井 政尚

(さかい まさひさ) 
織田13段陣の先鋒

出自には諸説あり、尾張の国人、美濃の国人、土岐の一族、佐々成政の兄などの説がある。
元は斎藤家の家臣だったが、いつの頃からか織田信長の配下となっており、しかもいきなり柴田勝家や森可成と並ぶ大将として記録に登場する。
森可成蜂屋頼隆と共に「美濃衆」として活躍していたようだ。

織田軍と浅井・朝倉連合軍が戦った「姉川の合戦」で、織田軍は13段の陣を構えるのだが、その1段目、つまり一番先鋒の陣を任された。
だがその後、朝倉軍との戦いで敵の城を陥落させるも、反撃で退路を断たれて孤立し、奮戦の末に討ち死にした。
その時の戦いぶりは「一騎当千、高名比類なし」と称えられたと言う。

遠山友忠

遠山友忠

遠山 友忠

(とおやま ともただ) 
波乱の遠山七頭

遠山家は東美濃の山間部を支配していた豪族(地方権力者)で、実際には独立勢力に近い存在だった。
また、岩村・明知・苗木・飯羽間・串原・明照・安木という「遠山七頭」と呼ばれる家柄に分かれており、それぞれが斎藤家・武田家・織田家の間で独自の外交を行っていたため、動乱の状態にあった。
遠山友忠は遠山七頭の「飯羽間遠山家」の一族だったが、「苗木遠山家」の跡を継いでいた父が亡くなったため、飯羽間と苗木の双方の遠山家を引き継ぐことになる。
これには、妻が信長の姪だったため、西美濃を制圧していた織田信長の意向も影響していたようだ。

しかし程なくして、リーダー格だった「岩村遠山家」の遠山景任が病死。
信長がその跡継ぎを自分の五男(織田勝長。当時の名は坊丸)にしようとしたため、これを警戒した武田信玄が東美濃に軍勢を派遣。
遠山友忠は「明知遠山家」や「串原遠山家」と共に武田軍と戦うが、秋山信友に敗れた。
その後、武田信玄は病没するが、跡を継いだ武田勝頼が東美濃に再進攻し、遠山家の城は次々と陥落。
明照遠山家と安木遠山家は滅亡、串原遠山家は当主が戦死、明知遠山家は居城を失う。
これで残る「遠山七頭」は、遠山友忠の苗木遠山家の他は、ボロボロの明知遠山家と串原遠山家のみとなった。

しかし武田家が「長篠の戦い」で大敗すると織田軍が反撃を開始、武田家に占領されていた岩村遠山家の居城「岩村城」は織田信忠の大軍により陥落する。
この時、遠山友忠は武田家に付いていた信濃の豪族「木曽義昌」を寝返らせ、共に武田家に進攻、織田信長から感状(感謝状)を与えられている。

そして「本能寺の変」が起こると、遠山友忠は岩村城の奪還を目指し、織田家の森長可と対立。
初戦で敗れ、秀吉の仲介で森長可に降伏するよう勧められるが、拒否して徳川家康の元に逃れ、その後も東美濃への帰還を目指して戦った。
しかし、果たせぬまま異郷の地で没している。

後年、子の「遠山友政」が「関ヶ原の戦い」の際に東軍・徳川側の味方を宣言し、東美濃に進攻して旧領を奪還、二代将軍・徳川秀忠の行軍を助けたため、苗木遠山家はそのまま江戸時代に苗木藩となった。
明知遠山家も関ヶ原の戦いで居城を奪還しており、串原遠山家は家臣の離散後、明知遠山家に仕えたため、最終的に二つの遠山が生き残った。

武井夕庵

武井 夕庵

(たけい せきあん) 
織田信長の秘書

織田信長の祐筆(書類の発給係)として有名な人物。
美濃の出身で、最初は土岐家、続いて斎藤道三に仕えたが、斎藤義龍が反乱を起こすと義龍に付いた。
斎藤家が滅亡すると織田信長に仕え、祐筆や外交官として活躍、武田家や毛利家、朝廷との交渉を行っている。
秘書として、信長の側近と言える立場だった。

信長にたびたび苦言・諫言したと言われており、「一向宗の弾圧」や「比叡山の焼き討ち」の際にもその非道を諌めたと言われている。
短気な織田信長も、なぜか武井夕庵の言葉は素直に聞いていたようだ。
織田家における礼儀作法の講師でもあったと言われている。

竹中重矩

竹中 重矩

(たけなか しげのり) 
竹中半兵衛の弟

秀吉の軍師として有名な竹中半兵衛の弟。
竹中半兵衛が斎藤家の居城「稲葉山城」を乗っ取った際には、仮病を使って兄に協力した。
のちに兄と共に織田家に仕え、織田家が浅井朝倉連合軍と戦った「姉川の合戦」では、信長の首を狙おうと織田陣に入り込んだ浅井家の勇将「遠藤直経」を討ち取っている。
その後の消息は不明だったが、近年「本能寺の変」の後、美濃で蜂起した一揆と戦って戦死したという記録が見つかったようだ。

飯沼長継

飯沼 長継

(いいぬま ながつぐ) 
暗殺された蛇の目

斎藤家における城主の一人だったが、斎藤龍興の代に織田家の攻撃によって斎藤家が傾き始めると、他の重臣達と共に織田家に寝返った。
以後、浅井・朝倉家と戦った「姉川の合戦」や一向一揆との戦いで活躍、美濃の「大垣城」の城主となっている。
「本能寺の変」によって織田信長が急死すると羽柴秀吉に仕えたが、秀吉と対立した織田家の跡継ぎ候補「織田信孝」への内通の疑惑を持たれたため、大垣城で暗殺された。
ゲーム(信On)では仮面のようなものを付けているが、目が大きかったため、信長の命令で「蛇の目」を家紋にしたという話があり、それにちなんでいるようだ。

大沢正秀

大沢 正秀

(おおさわ まさひで) 
秀吉の好敵手「鵜沼の虎」

斎藤家と織田家の国境近くにあった「鵜沼城」の城主。「大沢次郎左衛門」の名のほうが有名だ。
秀吉の伝記である「太閤記」に、「墨俣一夜城」を建設しようとする秀吉蜂須賀小六の敵として登場、一夜城を巡って攻防を繰り広げる、初期の秀吉の活躍を語る上で欠かせない人物となっている。
佐久間信盛柴田勝家の墨俣城築城を妨害し「鵜沼の虎」と呼ばれていた。

墨俣一夜城の完成後、秀吉に織田家に降るよう説得され、信長は最初は許さなかったがのちに認め、秀吉の配下となった・・・ はずだが、その後の消息は不明。
近年、研究が進んでいるようで、信長が仕官を許さなかったため、退去して行方不明になったという説が有力だ。
信長の死後に秀吉に仕えたが、豊臣秀次の配下になったため、秀次が処刑された「秀次事件」に関連してしまい、その後は流浪したともいう。
ただし「大沢次郎左衛門」を名乗った人物は複数いたのか、記録ごとに相違が多い。

江間輝盛

江間 輝盛

(えま てるもり) 
ホントは江馬。姉小路と飛騨を争う

実際には「江間」ではなく「江馬」らしい。
「江馬家」は飛騨(美濃北方の山岳地帯)に勢力を持っていた豪族(地方権力者)で、斎藤家の家臣というわけではない。
飛騨の覇権を巡って三木家(後の姉小路家)と争っていた。
だが、飛騨は上杉家と武田家の双方から干渉を受けており、上杉家と武田家に、あるときは攻められ、あるときは従属するのを繰り返していた。

江馬家の当主であった父の「江馬時盛」は武田派と言える存在だったが、子の江馬輝盛は上杉家に付こうとして、父を暗殺し、さらに弟を追放して実権を握る。
そして上杉謙信が死去し、武田家が滅亡、本能寺の変によって織田家の影響もなくなると、いよいよ姉小路頼綱との決戦を行うが、夜襲に失敗し、騎馬突撃するも銃撃されて負傷、戦場で討ち取られ、江馬家は滅亡した。

斎藤利三

斎藤利三

斎藤 利三

(さいとう としみつ) 
明智光秀の片腕

明智光秀の側近。「本能寺の変」で明智光秀と共に織田信長を討ち果たした。
戦国時代を扱ったドラマや小説では、本能寺の変を起こそうと苦悩する光秀の数少ない理解者という役どころが多い。

元は斎藤家の重臣「稲葉一徹」の家臣であったが、織田家に降った際に織田家の重臣となっていた明智光秀の配下となった。
この時、稲葉一徹と明智光秀が彼を取り合ったというエピソードがある。
その後は明智光秀の腹心として各地を転戦、そして光秀と共に「本能寺の変」の計画を立てたとも言われている。
「本能寺の変」と、明智光秀が羽柴秀吉と戦った「山崎の合戦」(天王山の戦い)で明智軍の中核として奮戦するが敗れ、明智光秀は落ち武者狩りに遭い死去。
彼も逃亡後に捕虜となり、処刑された。

なお、彼の娘は徳川幕府の三代将軍・徳川家光の乳母である「春日局」で、親族が四国を支配した戦国大名「長宗我部元親」の妻となっている。
本能寺の変の10日ほど前に彼と長宗我部元親がやり取りした書状が見つかっており、光秀が長宗我部家の援軍をアテにしていた根拠とされる。
斎藤利三を本能寺の変の黒幕とする説もある。

斎藤龍興

斎藤龍興

斎藤 龍興

(さいとう たつおき) 
暗愚な蝮の孫

斎藤家の三代目当主であり、美濃斎藤家の最後の大名。
二代目である「斎藤義龍」の子であり、「斎藤道三」の孫にあたる。
斎藤義龍の病死によって斎藤家の後を継ぐが、その時まだ14才だった。

当主としての器量や才能は全くなく、酒と女に溺れ、家臣を呆れさせる行動や言動を繰り返したため、あっという間に人心は離れていった。
彼の行動や態度を諌めようと、家臣の竹中半兵衛は斎藤家の居城「稲葉山城」をわずか17人で乗っ取ってしまうが、そのためにますます彼の威厳は地に落ちる。
その前年に竹中半兵衛の活躍で織田軍を破っているが、にも関わらず半兵衛を馬鹿にしていたため、仕返しされたとの見方もある。
そして重臣達は次々と織田家に寝返っていき、稲葉山城を織田信長に強襲されるとあっさり敗北、城を捨てて逃亡し、斎藤家はそのまま滅亡した。

ダメダメ丸出しな人な訳だが・・・
父の急死により、いきなり14才で大名にされてしまったのだから、その点では可愛そうだったかもしれない。

その後、長島一向一揆に長井道利日根野弘就と参加、さらに京に逃れ、三好三人衆と共に信長が擁立した将軍・足利義昭を襲う。
本願寺顕如とも結託して信長に抵抗、さらに朝倉家の客将となって織田軍と戦い続けていたが、朝倉義景が信長に敗れた「刀禰坂の戦い」で戦死した。
美濃を追われて苦労を重ねたからか、後年の龍興は一角の人物になっていたという説があり、ルイス・フロイスは「非常に有能で思慮深い」と記録している。
と言うか、近年の斎藤龍興の評価は漫画「センゴク」の影響が大きい気がする。

斎藤義龍

斎藤義龍

斎藤 義龍

(さいとう よしたつ) 
蝮の子は蝮

父である斎藤道三を討ち破り、下克上によって美濃の国を支配した斎藤家の二代目当主。
身長6尺5寸(約2メートル)で、馬に乗っても地に足が着く超大男だったという。

彼の母は斎藤道三が追放した美濃の守護「土岐頼芸」の側室であり、道三に嫁いでから7ヶ月で義龍が生まれたため、斎藤義龍は斎藤道三の実子ではなく、土岐頼芸の子だという噂があった。
おまけに斎藤義龍が成長したらバカでかい大男(道三は小柄な方だった)、しかも性格まで道三とは正反対で、おっとりしててのんびり屋。
そのため斎藤道三も本当の我が子と思わなかったのか、彼を跡継ぎにはしないと言い始め、義龍と道三の親子の仲は悪化していった。

しかしある日、斎藤道三は隠居(引退)を宣言し、斎藤義龍に国主を譲る。
これは土岐頼芸の子であると言われている義龍に国を譲ることで、義龍に接近していた土岐派の勢力を抑え、裏で義龍を操ろうとする狙いがあったと言われているが、正確には不明だ。
いずれにせよ、国主となった斎藤義龍はこの一件でさらに自らの危機を感じたらしく、重臣や土岐派の勢力などを味方に付け、弟である他の斎藤道三の子を急襲して討ち滅ぼすと、道三に宣戦を布告した。
すぐに斎藤道三も軍勢を集めるが、もはや多数の家臣・勢力が義龍側に付いており、後手に回った道三には少数しか集まらず、二度の合戦の末、斎藤道三は戦死する。
父・道三を討ち果たした斎藤義龍は美濃一国を掌握し、下克上により戦国大名となった。

その後、美濃には織田信長の軍勢が侵攻してくるが、これを何度も討ち破り、美濃の国を守っている。
その一方で道三の代から続く商業の奨励を続け、さらに国を富ませると共に、朝廷に働きかけて名家「一色家」の姓と官位を拝領するなど、政略的な手腕にも優れていた。
しかし道三との戦いから5年後、流行り病にかかり、35才であっけなくその生涯を終えてしまう。
そして斎藤家は子の斎藤龍興が継ぐのだが・・・ 後は、衰退の一途を辿る事となる。


斎藤家 城内

長井道利

長井道利

長井 道利

(ながい みちとし) 
蝮の弟も蝮

長井家は美濃の元大名「土岐家」の重臣の家だったが、斎藤道三によって乗っ取られ、その出世の踏み台となった家柄だ。
長井道利はその「長井家」を継いでいるが、出生は今ひとつ不明で、道三の弟であると言われているが、義弟であるという説や、若い頃の道三の子であるという説もある。

斎藤道三に近い間柄だったことは確かなようだが、道三が息子の斎藤義龍と対立を始めると、義龍に「謀反を起こすなら、まず道三の他の息子達を討つべきだ」と進言する。
斎藤義龍の命令で日根野弘就が斎藤道三の息子達(義龍にとっては弟)を討つと、道三に反旗を翻し、義龍と共に斎藤道三を討ち果たした。
さらに明智光安の明智城に兵を回し、道三との合流を阻止、のちに落城させる。
その後は斎藤義龍の重臣「斎藤六人衆」(斎藤六宿老)の一人となるが、謀反の際の発言や行動で危険視されたのか、義龍にはあまり重用されなかったという。

しかし斎藤義龍の死後、斎藤龍興の代になると龍興の側近となり、織田家の攻撃を防ぐために奔走する。この頃は武田家とも交流があったようだ。
だが、斎藤家の家臣は次々と織田家に寝返っていき、滅亡への動きを止めることは出来なかった。

斎藤家の滅亡後、長島一向一揆に斎藤龍興日根野弘就と加わり、お家再興を画策するが失敗。
その後は京都に向かい三好家に仕えた後、信長と対立し始めた将軍・足利義昭の配下となるが、摂津(大阪)の合戦で戦死した。
朝倉家に向かい、斎藤龍興と共に戦死したという説もある。
彼もまた、「美濃のマムシ」の血筋の生涯であったと言えるかもしれない。

岸信周

岸 信周

(きし のぶちか) 
中濃三城盟約も虚し

斎藤家の終末期の忠臣。
斎藤龍興の代に、斎藤家の重臣「長井道利」「佐藤忠能」と共に反織田の盟約を結び、美濃に侵攻してくる織田軍と戦った。
しかし盟約を結んだ一人の佐藤忠能が織田家に寝返ったため戦況は悪化、彼の元にも降伏勧告の使者が来たが、「盟約を結んだ以上は討ち死にする覚悟、生きて栄える気はない」と言い拒絶、佐藤忠能の娘を磔にすると、長井道利と共に佐藤忠能の城を強襲した。
しかし攻めきれず、織田軍の来援を招き、少数の手勢と共に篭城するも多勢に無勢。
奮戦の後、炎上する城と共に果てたという。

長谷川重成

長谷川 重成

(はせがわ しげなり) 
秀吉の赤母衣衆

斎藤家の三代目、斎藤龍興の家臣。 斎藤家の滅亡後は織田家に仕えた。
織田家では秀吉の配下となり、精鋭部隊である母衣衆の一員となっている。
「関ヶ原の戦い」では東軍・徳川側に属し、以後は徳川家の家臣となった。

竹中半兵衛

竹中半兵衛

竹中 半兵衛

(たけなか はんべえ) 
病弱の天才軍師。秀吉の両兵衛の一人

豊臣秀吉の軍師として有名な人物。名は「重治」。
その経歴から中国の天才軍師「諸葛亮孔明」に例えられることも多い。

始めは斎藤家の家臣だったが、主君の斎藤龍興は彼のことを平気でバカにする事が多く、さらに彼の叔父である安藤守就を些細な事で処罰したりしていた。
そこで彼は、そんな主君を諌めようと斎藤龍興の居城「稲葉山城」の乗っ取りを計画する。
まず弟の竹中重矩が稲葉山城で病と称して寝込み、それを見舞いするという名目で武具を含めた見舞い品を16人の従者に持たせて入城、そのまま武装蜂起!
わずか17人で稲葉山城を乗っ取って、斎藤龍興を追い出してしまった。
その後、叔父の安藤守就の援助を受けつつ城を占拠し続け、織田信長から「美濃を半分やるから城を譲ってくれ」と再三の要求を受けるが、「他人や栄達のためにやった訳じゃない」と言い、斎藤龍興に城を返還すると、近江の山奥に引っ込んでしまった。

その後、稲葉山城の話を聞いた各地の大名から仕官の誘いを受けるが、病弱であることを理由に断り続ける。
しかし羽柴秀吉の「三顧の礼」を受けて秀吉の配下となり、以後は軍師として活躍。
織田家が近畿地方の制圧する際の秀吉の手柄には、半兵衛の活躍が大きかったと言われている。
しかし、生来の病弱な体質は改善されず、寝込むことが多くなり、秀吉が中国地方への進軍を命じられた後、従軍中に36才の若さで陣中で病没した。
その時、秀吉は「お先まっくら」と言って泣き崩れたという。

ちなみに秀吉には「黒田官兵衛」と「竹中半兵衛」の二人の軍師がいたが、官兵衛が謀略や政略に長け、半兵衛は軍略や兵法に優れていたと言われている。
彼の活躍には伝承も多いと言われているが、斎藤家の家臣だった頃に織田軍を伏兵を駆使して撃ち破り、武田家と戦った「長篠の戦い」では陽動に引っかかった秀吉を無視して陣を守備、秀吉が不在の隙に攻撃しようとした武田軍を追い返したという。

黒田官兵衛が謀反を起こした荒木村重に捕らえられ、寝返ったと勘違いした信長に息子(黒田長政)を殺されそうになった時には、偽の首を提出してその子を匿い、のちに官兵衛から大変感謝された。
また、知らないふりをする「知らぬ顔の半兵衛」という言葉は、前田利家が半兵衛を引き抜くために娘と仲良くなったのを、織田家の調略だと見抜きながら知らないふりをして、逆に前田利家から織田家の内情を聞いていた故事に由来するという。
体が弱く、女性のように細身で物静か、それでいて天才軍師という人物像のおかげで、江戸時代の頃から大人気なキャラクターである。

竹腰尚光

竹腰 尚光

(たけこし なおみつ) 
斎藤六人衆で五人衆

元の名は「成吉尚光」。 斎藤義龍の重臣「斎藤六人衆」(斎藤六宿老)の一人。
また、斎藤家の中枢にあった家臣を「西美濃四人衆」と言うのだが、彼を含めて「西美濃五人衆」とする場合もある。
つまり、それだけ斎藤家の中心的な人物だった。

彼の父は斎藤道三と斎藤義龍が戦った「長良川の合戦」で戦死したため、義龍の代になって彼が後を継ぎ、重臣となった。
斎藤龍興の代になると斎藤家の家臣は次々と織田家に寝返っていくが、彼は最後まで斎藤家に忠誠を尽くしており、斎藤龍興が国外へ逃亡すると農村に身を隠し、ひっそりと余生を過ごしたという。

遠山景任

遠山景任

遠山 景任

(とおやま かげとう) 
遠山七党の惣領格

東美濃の山間部を支配していた独立勢力「遠山一族」の一人。
遠山家は「遠山七頭」と呼ばれる家柄に分かれていたが、その中でも特に大きい「岩村遠山家」「苗木遠山家」「明知遠山家」を遠山三頭(三遠山)と言い、最も大きいのが遠山景任が当主を務めていた「岩村遠山家」だった。
ただし彼が跡を継いだとき、まだ若かったため、反対者が現れて東山七頭で揉め事になっている。

遠山七頭の領地は山奥ながら交通の要所にあり、さらに斎藤家・織田家・武田家が競合する地域であったため、各勢力から交渉や調略を頻繁に受けていた。
岩村遠山家は武田信玄の進攻により武田家に従属していたが、斎藤義龍が美濃を支配するとこれに従い、織田家とも交流があった。
そして織田信長の叔母である「おつやの方」を妻に迎えて婚姻関係を結び、斎藤家の滅亡後は織田家と武田家を仲介する存在となる。

しかし「苗木遠山家」が武田信玄の意向を受けて、信濃の木曽義昌と共に飛騨の三木家(のちの姉小路家)を攻めた際、当主が重症を負って死んでしまう。
そして信長の姪を妻としていた遠山友忠が跡を継いだため、織田家の影響力が拡大。
そんな中、遠山景任も病死してしまい、これを気に遠山一族を従属させようと、織田信長は自分の五男「坊丸」を養子として岩村城に送り込み、さらに重臣の河尻秀隆、親族の織田信広も派遣した。

これを受け、このままでは東美濃は織田家に支配されてしまうと考えた武田信玄は、秋山信友の軍勢を東美濃へと進攻させる。
そして女城主として岩村城の指揮を執っていた「おつやの方」に、秋山信友の「結婚して」攻撃が炸裂。
おつやの方は秋山信友と祝言を挙げ、岩村城は武田家の支配下となり、信長の子「坊丸」は甲府へと送られた。
これに信長は激怒し、こうして遠山七頭は戦乱に巻き込まれていくことになる。(以後は遠山友忠の解説にて)

日々野清実

日比野 清実

(ひびの きよざね) 
斎藤六人衆

斎藤義龍の重臣「斎藤六人衆」(斎藤六宿老)の一人。
義龍の代に中心的な家臣となっており、配下には素手で首を取ったという怪力の猛者「首取り足立」こと足立六兵衛がいたという。
しかし龍興の代に織田家が美濃に侵攻してきた際、長井道利と共に迎撃に向かうも大敗、討ち死にしてしまった。
これにより織田家は美濃侵攻の拠点となる「墨俣」の地を制圧し、後にここに、秀吉が「墨俣一夜城」を築くことになる。
首取り足立も前田利家に討ち取られており、織田家をクビになっていた彼は、この手柄で織田家に復帰する。

斎藤長龍

斎藤 長龍

(さいとう ながたつ) 
蝮の末っ子は知られざる忠臣

斎藤道三の末っ子。 斎藤義龍にとっては弟。「利治」「利興」といった名もある。 通称は「新五郎」。
斎藤道三の子「孫四郎」と「喜平次」は斎藤義龍の反乱の際に殺害されているが、彼は無事だったので、その時にはまだ元服(成人)していなかったようだ。
斎藤道三が死の前に織田信長に送ったという「美濃一国譲り状」は、彼が持って来たものだという。
そして信長は当初、彼に斎藤家を継がせようと考えていたようで、領地を与えて家臣とした。

信長の美濃侵攻で織田家に寝返った佐藤忠能と共に、岸信周長井道利の居城を攻め落とした。
そして佐藤忠能の養子となり、彼の隠居後に城主となって「加治田衆」を率いる。

その後は織田家の武将として各地を転戦、長井道利や日根野弘就がいた長島一向一揆、斎藤龍興がいた朝倉家との戦いにも参加した。
そして信長の長男「織田信忠」の側近となるのだが、そのために「本能寺の変」に巻き込まれ、信忠と共に討ち死にしている。
この時、彼は信忠に逃亡を勧め、信忠が逃げるのをあきらめると奮戦、幾度も敵を撃退し、最後は義兄の斎藤利三に攻められて戦死したという。

知名度は低いが、遊撃隊として多くの合戦に参加し、大きな武功も挙げている、織田家の勇将の一人である。
働きまくっていたので、武田攻めの頃には信長と信忠から「家族と休養するように」と命じられた。
本能寺の変の後「武名を天下に輝かせ、忠志を全うした」と賞賛されている。

稲葉一鉄

稲葉一鉄

稲葉 一鉄

(いなば いってつ) 
頑固一徹な美濃三人衆

元の名は「稲葉良通」。斎藤家の重臣「美濃三人衆」の一人。ただ、斎藤義龍の重臣「斎藤六人衆」(斎藤六宿老)には入っていない。
最初は美濃の守護「土岐頼芸」に従っていたが、土岐家が斎藤道三に追放されると道三に従った。
以後、斎藤家の中枢として政治・軍事の両面で活躍。 斎藤義龍が反乱を起こした際には義龍側に付いている。
しかし斎藤家が斎藤龍興の代になると進言も聞き入れられなくなり、重用されなかったため、他の美濃三人衆と共に織田家に寝返った。

織田家に所属した後は他の美濃三人衆「安藤守就」「氏家卜全」と共に美濃衆を率いて活躍、主要な合戦にはほぼ参加しており、各地で勲功を上げている。
特に浅井・朝倉家と戦った「姉川の合戦」では、浅井軍の攻勢で危機に陥った織田軍を側面攻撃で救援、信長から戦功第一とされている。
また、戦いの前に信長から「誰か援軍として欲しい人いる?」と言われた徳川家康は、稲葉一鉄を指名していた。
これを見て他の者は一鉄の武名をうらやましがったという。
武田攻めでは60代ながらも朱の槍と鎧を身にまとって奮戦、信長から「今弁慶」と称された。

本能寺の変」で信長が明智光秀によって討たれると、明智光秀が土岐家の血筋であることから、美濃の支持者が挙兵すると考え、所領に戻って臨戦態勢を取る。
そして織田家を追放されていた安藤守就が明智光秀と通じ、土岐派と共に挙兵すると、これを迎撃して敗死させた。
織田家の今後を決める「清洲会議」では信長の三男「織田信孝」が美濃の国主に決まるが、柴田勝家&織田信孝と秀吉&織田信雄が戦うようになると秀吉陣営に付き、美濃で柴田陣営と攻防戦を繰り広げる。
秀吉が柴田勝家を討ち倒し、徳川家康も臣従させて織田家を相続すると、美濃の国主に任じられた。

美濃三人衆の中で最も活躍した武将であり、文才や茶の湯に優れ、医術や能の嗜みもあり、文武兼備として信長にも高く評価されていた。
讒言(中傷)を信じた信長が城に呼び寄せて殺そうとした事があったが、その場にあった古典を引用して無実を述べ、学識の高さに感嘆した信長に謝罪されている。
仁君でもあり、領内の視察を行う際には、一飯の銭を施すための銭袋を常に携帯していたという。
ちなみに、彼はかなり頑固な性格だったらしく、「頑固一徹」という言葉は彼が語源だと言われている。

氏家卜全

氏家卜全

氏家 卜全

(うじいえ ぼくぜん) 
最初に死んだ美濃三人衆

「美濃三人衆」の一人。元の名は「氏家直元」。斎藤義龍の重臣「斎藤六人衆」(斎藤六宿老)の一人でもある。
他の美濃三人衆と同じく、最初は美濃の守護「土岐頼芸」の配下で、土岐家が斎藤道三に追放されると斎藤家の重臣となる。
だが斎藤龍興には重用されなかったため、織田家に寝返った。

織田家では「稲葉一鉄」「安藤守就」と共に美濃衆を率いて伊勢攻めや浅井家・朝倉家との戦いに参加。
しかし長島一向一揆との戦いで織田軍が敗れた際、しんがり役を務め、一揆勢に討ち取られた。
最初は柴田勝家がしんがり(撤退時の足止め役)をしていたが負傷したため、氏家卜全に交代、だが伏兵と泥に阻まれて落馬し、戦死したという。

不破光治

不破光治

不破 光治

(ふわ みつはる) 
西美濃四人衆

美濃の重臣といえば「美濃三人衆」が有名だが、それに不破光治を加えて「西美濃四人衆」と称する場合もある。
つまり彼は、美濃三人衆に並ぶ斎藤家の中心人物の一人だった。
美濃三人衆とは違い、途中で織田家に寝返ったりはしていないが、斎藤家の滅亡後は織田家に仕えている。

織田家では美濃三人衆とは別に活動していたようで、将軍「足利義昭」の出迎えや、信長の妹「お市」が浅井長政に嫁ぐ付き添いをしており、礼儀作法に長けていたようだ。
一方で、浅井・朝倉家との戦いや、越前(福井)の一向一揆の鎮圧などで活躍。
越前が織田家の重臣「柴田勝家」の支配になると、勝家の与力(配下)となり、同じ勝家配下の前田利家佐々成政と合わせて「府中三人衆」と呼ばれるようになる。
雑賀攻め、伊賀攻めにも参加しているが、国人・豪族の共同体のような勢力を相手にしていることが多いのは、交渉役を兼ねていたからだろうか?
本能寺の変で織田信長が急死した後もそのまま柴田勝家に従い、勝家と秀吉と戦った「賤ヶ岳の戦い」に破れて自刃したというが、その前に病死した説もある。

なお、余談だが・・・ 「信長の野望」シリーズの彼には、能力値が低いと子孫からクレームが入り、しばらく未登場になったという噂がある。
(将星録から天道までの16年間、7作品で登場していない。信onなどの派生作は除く)
真偽は不明だが、戦国無双でも本願寺顕如や一向一揆の扱いに本願寺からクレームが入ったという噂があり、こうした話はチラホラ聞かれる。
近年の信長の野望は武将がやたらイケメンになっているが、キャラゲーとしての側面を強める意味の他に、「全ての戦国武将にご子孫がいるため、失礼なことはできない」という方針があるからのようだ。
NHKの大河ドラマでもクレーム問題が深刻になっており、近年は重要な役どころ(特に悪役)をモデルのある架空武将か、経歴不明のマイナー武将に任せることがある。
歴史を扱うのは、それだけ大変なことようだ。

安藤守就

安藤守就

安藤 守就

(あんどう もりなり) 
美濃三人衆に敗れた美濃三人衆

「美濃三人衆」の一人。斎藤義龍の重臣「斎藤六人衆」(斎藤六宿老)の一人でもある。
元の姓は「伊賀」だったようで、「伊賀守」を称していたため、当初は「伊賀伊賀守守就」という珍名さんだったようだ。
他の美濃三人衆と同じく、元は美濃の守護「土岐頼芸」の配下で、土岐家が斎藤道三に追放されると斎藤家の重臣となり、義龍が道三に反乱を起こした際には義龍に付いた。
斎藤龍興の時代に娘婿の竹中半兵衛が稲葉山城を乗っ取った際には、その支援を行っている。
重臣であるにも関わらず、安藤守就が斎藤龍興に軽く扱われていたことも、竹中半兵衛の稲葉山城乗っ取りの要因であったようだ。

その後は他の美濃三人衆と共に織田家に寝返り、浅井・朝倉と戦った「姉川の合戦」や、長島一向一揆との戦いなどに従軍。
氏家卜全が死んだ長島一向一揆との戦いでは、彼も負傷している。

しかし、のちに武田家と内通している疑惑を持たれてしまい、林道勝などと共に織田家から追放されてしまった。
実際に内通していたかは不明で、厄介払いだった可能性も高い。
だが2年後、織田信長は「本能寺の変」で明智光秀の謀反に遭って死去。
これを機に再興しようと、土岐家の一族である明智光秀と結んで美濃で挙兵するが、土岐派の反乱に備えていた稲葉一鉄と衝突し、美濃三人衆同士の戦いに敗れ、戦死した。


美濃のその他の人々

深芳野

(みよしの) 
産んだ子は鷹か蝮か
深芳野

美濃の守護だった「土岐頼芸」の側室で、斎藤道三の側室でもあり、斎藤義龍の母。 稲葉一鉄の姉だという。
土岐頼芸に気に入られていた斎藤道三が、頼芸から与えられて側室としたのだが、道三に嫁いでわずか7ヶ月程で道三の長男「斎藤義龍」を生んだ。
そのため斎藤義龍は生まれた時から「道三の子ではなく、土岐頼芸の子なのではないか」と言われ続ける事になる。
実際に義龍が誰の子であったのか、それは誰にも解らない。
しかし彼はその行動で、自分がマムシの子である事を証明して見せたと言える。

小見の方

(おみのかた) 
光秀との関係も深い、帰蝶の母
小見の方

美濃の「明智家」の姫で、斎藤道三の妻(正室)。 明智光秀の姉とも叔母とも言われる。
斎藤道三は最初に「深芳野」と婚姻したのだが、深芳野は主君「土岐頼芸」の側室であったため、彼女を正妻とはしなかった。
そのため、後から結婚した「小見の方」が道三の「正室」という形になっている。

小見の方は「美濃一の美女」と言われており(深芳野も同じように言われていたが)、織田信長に嫁いだ斎藤道三の娘「帰蝶」(お濃)の母となった。
つまり、帰蝶と明智光秀はいとこの関係にある。
帰蝶が信長に嫁いだ2年後に亡くなったと言われていたが、近年、その18年後に信長が挨拶に行った記録が見つかっている。
帰蝶には早世説や離縁説があったが、早世や離縁しているなら結婚して20年後にその母に会いに行くとは思えないため、早世説や離縁説が否定される理由となっている。

斎藤 孫四郎

(さいとう まごしろう) 
兄に殺される道三の子
斎藤孫四郎

斎藤道三の次男。 つまり斎藤義龍にとっては弟。
母が深芳野小見の方かは解らない。
義龍が道三に対して謀反を起こした際、長井道利の進言で義龍の兵に急襲され、弟の「喜平次」と共に日根野弘就によって殺害された。
信長の伝記「信長公記」には「驕り高ぶり、兄の義龍を侮っていた」と書かれている。

殺されたとき、すでに元服して「斎藤龍重」を名乗っていたようで、道三に寵愛されていたが、それが義龍の危機感を煽ったと見られている。
また、弟の喜平次には名家「一色」の姓を名乗らせていたようで、これも義龍の謀反の理由とされることが多い。
(小見の方が一色家の姫なので、母の姓を名乗っただけかもしれないが)
ゲーム(信On)では「えへんっ!」とか言ってむじゃき丸出しなのだが・・・ やはり義龍に殺される運命にあるのだろうか?

姉小路 良綱

(あねこうじ よしつな) 
元「三木家」の中納言(偽
姉小路良綱

飛騨(美濃の北方の山岳地帯)の戦国大名「姉小路家」の元当主。 姉小路頼綱の父。
元は「三木家」という名前の飛騨の豪族(地方権力者)だったのだが、本家であり飛騨の国司(国を治める役職)でもあった「姉小路家」を攻め滅ぼす。
そして、官位や官職への憧れが強かったようで、朝廷工作を行って「従五位下・飛騨守」と「姉小路」の家名の継承を与えられた。
その後も朝廷工作を続け、翌々年には「従三位」に昇進する。
さらに、旧・姉小路に並ぶ「中納言」を得ようとして、さすがにそこまでは無理だったが、諦めきれなかったのか、勝手に中納言を名乗った。

一方で、飛騨にはもう一つ「江馬家」という豪族がいて、飛騨を巡る争いを続けていた。
江馬家が武田信玄の後ろ盾を得ると、姉小路良綱は上杉謙信と結んで対抗。さらに子の「姉小路頼綱」の妻に斎藤道三の娘を迎えて婚姻関係を結ぶ。
しかし、ついに武田家の進攻を受け、山県昌景に敗れて従属させられた。
その後も上杉家と裏で結んだり、将軍・足利義昭を擁立させた織田信長との交流を行っていたが、病に倒れ、子の頼綱に家督を譲った。

姉小路 頼綱

(あねこうじ よりつな) 
おなじみの弱小大名「姉小路」の当主
姉小路頼綱

飛騨(美濃の北方の山岳地帯)の戦国大名「姉小路家」の当主。 当初の名前は「三木自綱」。
本家の「信長の野望シリーズ」では、初代からずっと登場し続けている定番の弱小大名だ。
父の良綱が「中納言(自称」だったので、彼は「大納言(自称」である。

姉小路家(三木家)はずっと武田家・上杉家の影響下にあったが、彼が姉小路家を継いだ翌年、武田信玄が病死。
その2年後には「長篠の戦い」が起こって武田家が衰退し、3年後には上杉謙信も病死。
武田・上杉の圧力がなくなったため、彼は織田信長に接近し、同盟を締結して後ろ盾を得る。
織田軍の斎藤長龍が飛騨を経由して越中に進攻した際には、彼も加勢した。

しかし、長男と弟を謀反の疑いで謀殺し、上杉派だった国人衆を次々と攻め滅ぼすなど、恐怖政治を行う。
「本能寺の変」が起こって織田家が混乱に陥ると、飛騨のライバル「江馬輝盛」が決戦を挑んでくるが、これは撃退に成功。
だが、その際に味方だった勢力までまとめて討ち滅ぼした。

これにより姉小路家は飛騨をほぼ平定するが、飛騨の国人たちの支持は失っていた。
秀吉柴田勝家が織田家の後継者を争うと、反秀吉派だった越中の佐々成政に接近するが、そのため秀吉配下の金森長近の進攻を受け、飛騨の有力者の多くは金森軍に付く。
姉小路軍は各方面で撃破され、佐々成政からの援軍もなく、姉小路家は瓦解した。
朝廷の仲介で停戦となったため、彼は一命を取り留めたが、京都で幽閉され、以後は娘婿の遠藤慶隆の援助を受けながら、公家として暮らしたという。
中納言や大納言を自称しただけあって、公家らしいマナーや文化は学んでいたようだ。

土岐 頼芸

(とき よりあき) 
道三に簒奪された美濃の守護
土岐頼芸

正式な美濃の守護「土岐家」の最後の当主。 鷹の絵を得意とした。「頼芸」の読みは正確には解っていない。
土岐家は室町幕府を創始した足利尊氏の配下として活躍し、美濃の守護に任ぜられ、足利将軍家の重臣となった名門である。
だが戦国期に入ってからは内乱が続発、1500年頃には土岐家の先代の長男「土岐政頼」(頼武とも)と、次男「土岐頼芸」の家督争いが続いていた。
一時は土岐政頼(頼武)が当主になったが、土岐頼芸の家臣となった斎藤道三が、兄・政頼を追放して当主になる事を進言。
頼芸と道三は共謀し、兄を急襲して国外へと追いやって、美濃の国主となる。
(近年は、ここまでは道三の父の手柄だとする説が有力)

だが、土岐政頼の跡を継いだ「土岐頼純」が、越前の「朝倉家」や南近江の「六角家」の支援を受けて美濃に進攻し、再び紛争状態となる。
土岐頼芸は外交によってこれを収めるものの、土岐同士で争っている間に斎藤道三が重臣であり守護代(守護の次席)の「斎藤家」を乗っ取って力を付け、頼芸の弟「土岐頼満」を毒殺。
これにより道三と対立するも、長い内乱で疲弊や離反もあったのか、土岐頼芸は斎藤道三に抗しきれず、美濃から追放された。
これにより土岐家は実質、滅亡となる。

しかし土岐頼芸はその後も、尾張の織田信秀(信長の父)や、朝倉家にいる土岐頼純、さらに美濃三人衆と共に、お家再興を狙って美濃に侵攻した。
そのため斎藤道三は、一旦は土岐頼芸と和睦し、これにより頼芸は守護の地位に復帰する。

だが、朝倉家が和睦の条件として土岐頼純への守護の譲渡を要求したため、守護職を退任。
そして翌年、その土岐頼純が疑惑の急死を遂げる。(2020年のNHKの大河ドラマ「麒麟がくる」では、斎藤道三に毒の茶を飲まされていた)
さらに、土岐頼純に嫁いでいた道三の娘「帰蝶」が織田信長に嫁いで、斎藤道三と織田家が和睦したため、土岐頼芸は後ろ盾を失って、再び追放された。

以後、親類を頼って各地を放浪するが、病によって失明したこともあり、再び権力を持つことはなかった。
晩年、豊臣秀吉の時代に、美濃の国主となっていた稲葉一鉄に誘われて帰郷。 その年の冬に病死したという。

土岐 頼次

(とき よりつぐ) 
梟雄に追放されて梟雄に仕える
土岐頼次

美濃の元守護「土岐頼芸」の次男。
長男は頼芸と仲が悪かったため、彼が土岐家の跡継ぎとなるはずだったが、斎藤道三によって父・頼芸と共に美濃から追放されてしまった。
その後、父と共に美濃奪回とお家再興を狙って戦っていたが、父が完全に失脚すると、大和(奈良)の謀将「松永久秀」に仕える。
松永久秀が信長に謀反を起こして爆裂した後は織田家に仕え、後に豊臣家の家臣となり、秀吉の馬廻り衆(近衛兵)となって河内(大阪)に所領を得た。
秀吉の死後、石田三成徳川家康が戦った「関ヶ原の戦い」では東軍・徳川側に付き、その功績で土岐家は本領を安堵(保証)され、以後も存続し続けることとなる。
波乱の人生だが、最終的には勝利者だったと言えるだろう。

土岐 頼元

(とき よりもと) 
土岐の子だが斎藤
土岐頼元

美濃の元守護「土岐頼芸」の四男。
父が追放されたとき、まだ幼かったため、斎藤家で養われた。 そのため「斎藤頼元」と名乗っていたようだ。
斎藤家の滅亡後は武田家に仕えるが、武田家の滅亡後は兄の土岐頼次と共に豊臣家に仕え、最終的には徳川家の家臣となり、美濃に知行(領地)を与えられたという。


徒党員として登場する武将

稲葉 貞通

(いなば さだみち) 
稲葉一鉄 徒党員 信長の子と縁がある一鉄の子
稲葉貞通

稲葉一鉄の次男。 父と共に土岐家、斎藤家、織田家に仕え、各地を転戦した。 父が僧籍に入ると家督を継ぐ。
「本能寺の変」の後、美濃の国主であった信長の三男「織田信孝」が柴田勝家と共に挙兵し、秀吉と対立すると、父の稲葉一鉄は秀吉に付き、彼もそれに従った。
しかし織田信孝に弓を引くことに後ろめたさがあったらしく、一度は息子に家督を譲ろうとしている。(息子の不手際で撤回となった)
その後、美濃に領地を持っていた遠藤慶隆が敵に内通している疑いで追放されたため、彼にその領地が与えられた。
小田原征伐(秀吉の北条攻め)では、信長の次男「織田信雄」の配下となっている。

そして後年、豊臣秀吉が死去すると、世の中は豊臣家を二分した「関ヶ原の戦い」へと向かっていく。
稲葉一鉄の死後、美濃の国主は信長の孫である「織田信秀」となっており、彼が西軍に付いたため、それに従って西軍入りを宣言。
しかし、東軍に付いた遠藤慶隆が領地を奪還すべく攻め込んで来て合戦となる。
この戦いで稲葉貞通の城は激しく攻め立てられ、一度は降伏するのだが、一矢報いなければ気がすまなかったのか、降伏後に遠藤慶隆軍に襲いかかってこれを蹴散らしている。

降伏後に攻めたのだから後で怒られそうだが、稲葉貞通は頭を剃って詫びを入れ、その後に東軍に参加して活躍し、許された。
しかし美濃の領地は遠藤慶隆に与えられ、彼は豊後(北九州)に移転となっている。(形としては加増)

稲葉 重通

(いなば しげみち) 
稲葉一鉄 徒党員 春日局の養父

稲葉一鉄の長男。 ただし側室の子であったため、家督は稲葉貞通が継いでいる。
稲葉一鉄と共に各地を転戦し、後に豊臣秀吉の馬廻衆(近衛兵)となるが、関ヶ原の戦いが始まる前に死去した。
彼は「稲葉正成」という養子を貰っていて、この人の妻が後に徳川幕府の三代将軍の乳母であり、NHKの大河ドラマの主人公にもなった「春日局」(かすがのつぼね)となって、のちに大きな権威を持つに至っている。
そのため「春日局の義父」として知られている人だ。

稲葉 直政

(いなば なおまさ) 
稲葉一鉄 徒党員

稲葉一鉄の三男。稲葉貞通重通の弟。
詳細は不明だが、織田信忠と年が近く、仲が良かったという。 秀吉に仕えてからは稲葉重通と同じく、秀吉の馬廻衆(近衛兵)となる。

氏家 行広

(うじいえ ゆきひろ) 
氏家卜全 徒党員 豊臣秀頼の介錯人
氏家行広

氏家卜全の次男。 父と兄の後を継ぎ、美濃で城主となる。
彼には武将としての才覚があったようで、合戦の度に出世を繰り返し、最後には豊臣秀吉から伊勢の領地を与えられ、大名にまでなっている。

秀吉の死後、「関ヶ原の戦い」の際に豊臣家の石田三成が徳川討伐を訴えて挙兵すると、徳川軍に合流中だったが、豊臣秀頼がまだ幼いことを理由に中立を宣言、伊勢の城に戻った。
しかし、西軍・三成側からの圧力を受けて中立を維持できなくなり、西軍に参加して伊勢を封鎖、東軍・徳川家康の部隊と戦う。
「関ヶ原の戦い」で西軍が敗北したのを知ると開城して降伏したが、改易されて浪人となり、「荻野道喜」と改名して諸国を放浪した。

それから14年後、徳川家が豊臣家の大阪城を攻める際、徳川家康から10万石の領地を与えるという破格の条件で味方になるよう説得されるが、これを辞退して大坂城に入り、徳川軍と対峙する。
大坂の陣」ではアドバイザー的な役割を果たしたが、大坂城落城の際に自刃した。
豊臣家の当主「豊臣秀頼」の自害の介錯をしたとも言われている。

氏家 直昌

(うじいえ なおまさ) 
氏家卜全 徒党員 旧主・斎藤龍興を討ち取る

氏家卜全の長男。 長島一向一揆との合戦で父が戦死した後、家督を継いだ。
朝倉家との戦いで、斎藤家の旧主・斎藤龍興を討ち取る武功を挙げる。
他にも荒木村重の反乱の鎮圧や、石山本願寺城攻めでも活躍した。
しかし「本能寺の変」の翌年に病死してしまい、氏家行広が跡を継ぐ事となる。

氏家 直行

(うじいえ なおゆき) 
氏家卜全 徒党員

(信長の野望 Online に登場するが、詳細不明……。 氏家卜全の親族に「直行」という名前は見られない。直昌と行広が混じったか?)
(氏家卜全の三男「行継」は「直元」とも称しており、彼は兄・氏家行広と行動しているが、関ヶ原の後は細川忠興に仕えている)

竹中 重門

(たけなか しげかど) 
竹中半兵衛 徒党員 竹中半兵衛の子
竹中重門

秀吉の軍師「竹中半兵衛」の子。
秀吉に仕え、秀吉と徳川家康が戦った「小牧・長久手の戦い」に若干12才で参加。
その後も各地で戦い、朝鮮出兵では出発地点となった北九州を守る。

秀吉の死後に起こった「関ヶ原の戦い」では、最初は西軍を支持したが、徳川家の重臣「井伊直政」の説得を受けて東軍に鞍替えし、幼なじみの黒田長政と共に活躍。
そして関ヶ原の戦いが終わった後、逃亡を続けていた西軍の主要人物の1人「小西行長」を捕らえる手柄を立て、父から受け継いだ美濃の領地を保障された。
また、彼は茶道や華道、文学を学んだ教養人でもあり、晩年に豊臣秀吉の伝記である「豊鑑」という書物を記している。