三好家 武将名鑑 with 堺・会合衆


「信長の野望 Online」の「三好家」に登場する武将達のプロフィールを紹介しています。

山内一豊 佐久間盛政 可児才蔵 森長可 堀秀政 佐々成政 加藤嘉明 木下秀長 蜂須賀正勝 川尻秀隆 池田恒興 前田犬千代 前田慶次 佐久間信盛 原田直政 村井貞勝 織田信長 羽柴秀吉 柴田勝家 丹羽長秀 滝川一益 明智光秀 片桐 且元 渡辺 了 田中 吉政 小川 祐忠 脇坂 秀勝 阿閉 貞征 小堀 政次 新庄 直頼 弓削 家澄 藤堂 高虎 安養寺 氏種 宮部 継潤 月ヶ瀬 忠清 磯野 員昌 井戸村 光慶 井口 経親 浅井 長政 浅井 久政 雨森 弥兵衛 海北 綱親 赤尾 清綱 遠藤 直経 富田 長繁 印牧 能信 溝江 長逸 青木 景康 山崎 吉家 前波 吉継 富田 重政 小泉 長利 佐々布 光林坊 堀江 景忠 真柄 直隆 朝倉 景健 朝倉 景恒 真柄 直澄 河合 吉統 朝倉 義景 朝倉 宗滴 朝倉 景鏡 朝倉 景紀 朝倉 景隆 朝倉 景連 魚住 景固

七条 兼仲 松永 久通 高山 友照 松倉 重信 岡 国高 島 左近 三宅 国村 筒井 順慶 井戸 良弘 篠原 長房 篠原 自遁 岩成 友道 原田 秀兼 三好 政康 三好 康長 細川 真之 三好 長慶 松永 久秀 三好 義賢 安宅 冬康 十河 一存 三好 長逸
・未所属
津田 正時
秋山 直国
衣笠 範景
近藤 正近
             
その他の武将・人物
宝蔵院 胤栄
柳生 宗厳
柳生 又右衛門
柳生 宗章
エンリーケ
茨木童子
大物主
羽床 資戴 香川 元景 海部 友光 森 好之 奥田 忠高 荒木 元清 東条 行長 新開 実綱 船越 景直
堺・会合衆
 高三 隆達 塩屋 宗悦 千 宗易(千利休) 松江 隆仙 油屋 常琢
 茜屋 宗佐 山上 宗二 紅屋 宗陽 今井 宗久 津田 宗及

=三好家 当主=

三好 長慶 (みよし ちょうけい) Lv55 大名 総大将
「弟たちは、松永久秀のことが気にいらぬらしい……。 佞臣(ねいしん)だの、獅子心中の虫だの。 言うことが手厳しい。
確かにあの男は謀(はかりごと)に長け、油断のならぬ面構えをしておる。 だが、あのような男こそ、この乱世には必要なのだ。 あれに足を掬(すく)われるとしたら、わしの器量がそこまでであったということよ。」

三好家の大名。
室町幕府の権力者 「細川家」 の家臣であったが、その 細川家 により父を謀殺され、兄弟と共に雌伏の時を過ごす。
しかし積年の恨みを晴らすべく淡路で挙兵、主君・細川家 を攻めて下克上、京都を支配して 足利将軍家 をも追放すると、四国の 阿波・讃岐 も奪還し、「日本の副王」 と呼ばれるほどの広大な国を築いた。
だが家臣 「松永久秀」 の謀略により、子と兄弟を謀殺され、悲嘆のうちにこの世を去る。
三好長慶 と 三好家 の詳細は、こちら をご覧下さい。
部隊アイテム
長慶隊備前刀 = 刀。 攻撃52、耐久60。気合+80、腕力+4、耐久+2、器用+2。

=三好家 武将詰所 (小屋敷)=

羽床 資戴 (はゆか すけとし) Lv48 神主 敵後陣後詰
「人望が厚くなれば、自然、人は集まってくるものだ。 一人ではこの乱世……生きていけぬぞ。」

「羽床家」 は四国の 「讃岐(香川県)」 の豪族(地方権力者)であり、讃岐 が 三好家 の支配下になるとこれに従っていた。
しかし 三好長慶 が病死し、三好家 が没落し始めると 讃岐 には中国地方の大名 「毛利家」 や 土佐の大名 「長宗我部家」 などが侵攻を開始する。
羽床資戴 は毛利家の軍勢と激しい戦いを繰り広げるが、その後に侵攻してきた 長宗我部家 には抗しきれず、降伏した。
その後、同じ 讃岐 の 十河家 との合戦中に、彼は陣中で病没している。
羽床家 はその数年後、豊臣秀吉 の四国侵攻によって滅亡させられている。


津田 正時 (つだ まさとき) Lv35 薬師
「戦いが長期に及ぶときは、相手の技を見切ることだ。 ……これが、なかなか難しいのだがな。」

「河内(摂津和泉と大和の間の国で、現在の大阪府東部)」 の国人(地元の領主)の一人で、三好家に従っていたが、三好一族が相次いで急死し 「松永久秀」 が 三好家 から独立すると、松永久秀 に従って 三好家 から離反した。
しかし、そのために三好家の重臣 「三好三人衆」 の攻撃を受け、城は落城。
三好三人衆 が 織田家 に敗れると城に復帰したが、今度は 織田家 の軍勢に攻められてまた落城する。

その後は 織田家 に降伏して家臣となり、「明智光秀」 の配下となるのだが、光秀 は 「本能寺の変」 で 織田信長 に反逆、信長を討ち果たすが 羽柴(豊臣)秀吉 の攻撃を受ける。
彼は 明智光秀 と 秀吉 が戦った 「山崎の合戦(天王山の戦い)」 に 光秀側 として参戦するが、明智光秀 は敗れ、彼は浪人となってしまった。
常に負け組に付いた、不運な武将だ。


秋山 直国 (あきやま なおくに) Lv35 神主
「色々と、物騒な話も聞いておるからな。 外に出る際には、十分気をつけるのだぞ。」

大和(現在の奈良県)の豪族(地方権力者)。
元は 伊勢地方 の大名家 「北畠家」(信On には未登場) の配下だったのだが、北畠家 が 織田家 の侵攻によって没落し、松永久秀 が大和に侵攻してくると、これに従った。
しかし 松永久秀 はその後、織田家 に対し反逆を繰り返して滅亡。
のちに大和は 豊臣秀吉 によって制圧され、彼は追放されている。


井戸 良弘 (いど よしひろ) Lv45 侍 与力 中陣右翼副将
「国を治めるには、民への心配りも必要だ。 町で困っている者を見かけたら、必ず手を貸してやるのだぞ。」

大和の大名家 「筒井家」 の家臣。
戦国時代、大和(奈良県)では長い内乱が続いており、プチ戦国乱世と言っていいぐらい、様々な勢力が覇権を巡って争いを続けていた。
「井戸家」 はその大和の国人(小領主)であり、他の有力勢力の味方をしながら、その乱世をうまく生き延びていたようだ。

しかし 「松永久秀」 が大和に侵攻してくると、筒井家の本隊と共にこれと戦うが敗戦、彼の城も落城する。
だがその後も 松永久秀 に抵抗を続けて勢力を盛り返し、松永久秀 が 信長 に反逆して滅亡すると、織田家 に従属した筒井家の家臣として城主に復帰した。

「本能寺の変」 によって 織田信長 が 明智光秀 の謀反で死んだ際には、光秀 から味方になるよう誘いを受けるが、彼は城を返上して浪人になってしまう。
だが、のちに光秀に味方しなかったことを評価されて 豊臣秀吉 に召しだされ、再び城主となった。
のちに彼の子孫が 「朝鮮出兵」 や 「大阪の陣」 などの合戦で活躍、井戸家 は徳川幕府の旗本の家柄となっている。
部隊アイテム
大和記写本 = 特殊装備。 防御3、耐久8。 耐久力+1、器用+3、知力+2。
ドロップアイテム
大和記 = 特殊装備。 防御3、耐久8。 耐久力+1、器用+3、知力+2。

=三好家 奥屋敷=

船越 景直 (ふなこし かげなお) Lv44 陰陽師 敵先陣後詰
「いずれ誰かの手によって、乱世に終止符が打たれるだろう。 それがしは、それが長慶様に違いないと…… 信じているだけだ。 お主も同じであろう?」

淡路島出身の武士。 信On では陰陽師になっているが、実際には弓や鉄砲といった飛び道具の扱いに長けており、弓兵の徴兵や 「弓鉄砲衆」 の指揮などを任されていた。

三好長慶 の弟で 淡路島 の水軍 「安宅水軍」 を指揮していた 「安宅 冬康」 に仕えていたが、三好一族が急死して 三好家 が衰退した後、豊臣秀吉 が四国に進出し始めると、その家臣となった。
だが、秀吉の養子 「豊臣秀次」 が謀反の疑いで処刑された時、その事件に関わってしまい、没落してしまう。
しかし 秀吉 の死後、西軍・豊臣側 と 東軍・徳川側 が戦った 「関ヶ原の戦い」 で 徳川家康 の配下として活躍、その後は 6千石 の領地を与えられ、徳川幕府 の旗本となっている。


奥田 忠高 (おくだ ただたか) Lv46 侍 敵中陣後詰
「今は一同団結の時。 身内での争いが、最大の敵であると思え。」

「奥田家」 は 室町幕府 のトップクラスの重臣 「斯波家」 の一族で、大和地方で活躍した武将だ。
「松永久秀」 の配下として各地を転戦、松永久秀 が 織田信長 に反逆を起こして滅亡した後は 織田家 の家臣となり、その後は 秀吉 に仕えている。

徳川家 が 豊臣家 と敵対して起こった 「関ヶ原の戦い」 の頃にはすでに引退していたが、彼の武名を聞いた 徳川家康 が彼を召しだして家臣に加えている。

理由はよく解らないが・・・ 戦国時代、なぜか大和地方の武将達の武名は広く世に知れ渡っていたようだ。


荒木 元清 (あらき もときよ) Lv46 侍 敵中陣後詰
「国を治めるには、民への心配りも必要だ。 町で困っている者を見かけたら、必ず手を貸してやるのだぞ。」

摂津の国を支配した戦国武将にして、天下一と言われた茶人 「千 利休」 の七人の弟子 「利休七哲」 の一人でもある 「荒木 村重」 の親族の武将。
また、馬術の達人でもあり、「荒木流馬術」 の創始者でもある。

「荒木 村重」 は摂津の国の豪族(地元権力者)である 「池田家」 の家臣だったが、池田家 の当主よりも大きな力を持っていた。
当初は 池田家 が 「三好三人衆」 と同盟していたため、三好家 と共に敵対勢力と戦っていたが、のちに 織田家 に通じて主君の 池田家 を追放し、三好家 とも手を切って、そのまま摂津の小勢力を制圧すると 織田信長 に従属した。
「荒木 元清」 はその 荒木村重 の片腕として、共に各地を転戦したようだ。

しかしその後、「荒木 村重」 は突然 信長 に反逆、織田家 と敵対していた本願寺家や中国地方の大名 「毛利家」 と結び、独立する。
なぜ 荒木村重 が反逆したのかは諸説あって不明だが、毛利家や本願寺、信長 と敵対した 将軍・足利義昭 などの調略・謀略を受けたという説が有力だ。
しかし結果的にこの反乱は 織田軍 によって鎮圧され、荒木村重 は妻や家臣を捨てて 毛利家 に脱出、荒木元清 も共に 毛利家 に逃れている。

織田信長 の死後、荒木元清 は 秀吉 に仕え、豊臣秀吉の養子 「豊臣秀次」 の配下となるが、その 豊臣秀次 が謀反の疑いで自害させられたために失脚。
しかし彼の子孫は 「荒木流馬術」 を評価され、徳川幕府の家臣となっている。


三宅 国村 (みやけ くにむら) Lv45 鍛冶屋 与力 中陣中翼副将
「ふう……。 武芸を極める道のりは、まだまだ長いですな。」

摂津の豪族(地元権力者)の一人。
摂津の国は京都(山城)の国のとなりであるため、京都の政争の影響を大きく受けた地域だった。
室町幕府(足利将軍家)の重臣 「細川家」 が跡継ぎ争いで分裂した時、彼はそのうちの1つ 「細川 高国」 という人に仕えていたが、戦況が不利になったのを見て 細川高国 の子を自害させ、別の 細川家 の跡継ぎである 「細川 晴元」 に従った。

そしてその 「細川 晴元」 が 「三好長慶」 と対立すると、今度は 三好家側 について 細川軍 や 足利家 などと戦い、摂津の周辺各地を転戦する。
最後は戦死したと言われているが、はっきりしていない。
部隊アイテム
摂津斬馬刀 = 薙刀。 攻撃39、耐久56。 気合+10、腕力+3、風+2。


衣笠 範景 (きぬがさ のりかげ) Lv35 侍
「勝機は己の手で掴み取るものだ。 気持ちの持ちようで、いかようにでもなるぞ。」

播磨(現在の兵庫県南部)の大名家 「赤松家」 の一族であり、赤松家 の家臣として摂津にある城を守っていたが、三好家 の攻撃によって城は落城。
その後は 三好家 の配下となって、各地を転戦した。

三好家 が没落した後は 播磨 の豪族 「別所家」 に仕えたが、別所家 は 「羽柴(豊臣)秀吉」 が率いる 織田軍 の攻撃を受ける。
秀吉 はこの戦いで 別所家 の 「三木城」 を完全に包囲し、城内への補給を断つ 「兵糧攻め」 を行った。
この兵糧攻めは2年以上も続き、城内の食料は枯渇して凄惨な状況に陥り、のちに 「三木の干殺し」 と呼ばれるようになる。
衣笠範景 はこの 三木城 の戦いで戦死したとも、戦後に武士を捨てて農民になったとも言われている。


新開 実綱 (しんかい さねつな) Lv44 神主 敵先陣後詰
「……心の動揺は、刀や槍のさばきにも現れる。 心を弱くすれば、それは必ず相手にも伝わるもの。 一度敵と刀を交えたならば、決して迷うな。気で倒せ。」

「新開家」 は阿波(徳島県)の豪族(地元権力者)で、同じ阿波の豪族だった 「三好家」 とは近い間柄にあり、婚姻関係にもあったという。
しかし 三好長慶 が病死し 三好家 が没落した後、阿波には土佐(高知県)を統一した大名家 「長宗我部家」 が侵攻して来た。
新開実綱 はそれに頑強に抵抗したが、5年近くの戦いの末、ついに降伏する。

だがその後、彼は再び 三好家 と結んで 長宗我部家 に背く動きを見せたため、長宗我部家の当主 「長宗我部 元親」 は彼に和議を結ぶ事を提案し、「丈六寺」 という寺におびき寄せ、酒に酔わせた所を刺客に襲わせて、彼を暗殺した。

彼が殺された後・・・ 床に染み付いた彼の血は、いくら拭いても落ちなかった。
そのため寺の者はこの床を外し、天井にしたという。
その天井は 「丈六寺の血天井」 と言われ、今でも残っている。
また、彼を祀った小さな神社も建てられており、今は 「禁酒の神様」 になっているそうだ。


森 好之 (もり よしゆき) Lv46 神主 敵中陣後詰
「色々と、物騒な話も聞いておるからな。 外に出る際には、十分気をつけるのだぞ。」

大和(奈良県)の大名 「筒井家」 の重臣 「筒井三老臣(三家老)」 の一人。
筒井家の当主 「筒井 順慶」 とその父 「筒井 順昭」 の2代に仕えた家臣で、妻は 筒井順昭 の妹である。
しかし彼の詳細についてはよく解っておらず、そのまま 筒井家 に仕え続けて病死したと言う説と、筒井順慶 の子 「筒井 定次」 と不仲になって 筒井家 を出奔し、農民になったと言う説がある。
いずれにせよ、「本能寺の変」 の前にはすでに病死していたようだ。


松倉 重信 (まつくら しげのぶ) Lv46 侍 目付 中陣左翼大将
「我が同輩ながら、島左近は凄まじき男よ。 あの気迫、あの闘志……俺が敵将であったなら、決して忘れることはできまい。 味方ながら戦慄せずにはおれぬほどの戦いぶり。 左近と同じ時代に生き、その姿を目にできたことを、俺は天に感謝せずにはおれぬ。」

大和(奈良県)の大名 「筒井家」 の重臣 「筒井三老臣」 の一人。
別名を 「松倉 右近」 と言い、島左近 と共に 「筒井の右近・左近」 と呼ばれ、その武勇が恐れられた。
島左近 と共に 筒井家 の重臣として、大和に侵攻してくる 松永久秀 の軍と激戦を繰り広げている。
筒井家 の当主が 筒井順慶 の子 「筒井 定次」 の頃に、筒井家 は伊賀地方に移転させられるが、それに従って伊賀に移り、その地で病没した。

信On では、屋敷にいる 筒井順慶 の右に 松倉右近、左に 島左近 が立っていて芸が細かいが・・・ 戦場では左翼陣の大将になっている。
どうせなら右翼にして欲しかったが・・・ でも、敵から見て右なのか・・・?
部隊アイテム
松倉隊陣羽織 = 特殊装備。 防御2、耐久26。 生命+30、耐久+6、風+1。


島 左近 (しま さこん) Lv46 侍 目付 中陣中翼大将
「武将の幸せとは、自分を理解し評価してくれる主君に出会えること。 それに尽きると俺は思う。 そのような主君に会えたならいつ戦場で果てても惜しくはない。
士はおのれを知るもののために死す……。 心地よき言葉よ。」

本名 「島 勝猛」、および 「島 清興」。
関ヶ原 西軍の総大将 「石田 三成」 の切り札 「島左近」 であるが、謎の多い人物でもある。
「北斗の拳」 や 「花の慶次」 「影武者・徳川家康」 などの作品で有名な漫画家 「原 哲夫」 氏のマンガ 「SAKON」 の主人公なので、そちらの方で知っている方も多いかも?

元は大和(奈良県)の大名 「筒井家」 の重臣 「筒井三老臣(三家老)」 の一人であり、松倉(右近)重信 と共に 「筒井の右近・左近」 と呼ばれ、その武略が評判になっていた。
だが、筒井家 が 筒井順慶 の子 「筒井定次」 の代になると 定次 と不仲になり、さらに家臣同士で起こった水の権利を巡るトラブルで一方的に不利な裁定を下されたりしたため、筒井家 を出奔して浪人となった。

その後、豊臣秀吉 の側近 「石田 三成」 に破格の待遇で召抱えられる。
石田三成 はこの時、自分の持つ領地(俸禄)の半分以上を 島左近 に与えてでも彼を召抱えようとした。
この破格の申し出に 島左近 は感動し、以後は 石田三成 のために忠節を尽くすこととなる。 人々は 島左近 を 「三成に過ぎたるもの」 と言ったという。

そして 豊臣秀吉 の死後、石田三成 は急に 豊臣家 に反抗する動きを見せ始めた 「徳川家康」 と敵対関係となり、世は 「関ヶ原の戦い」 へ向かっていく。
豊臣(石田三成) と 徳川 の戦いが避けられなくなると、島左近 は 徳川家康 を討つべく、急襲や夜襲など様々な計画を石田三成に提案した。
しかし、石田三成 はそれをことごとく却下してしまう。
「小心者の 三成 が失敗を恐れていたため」 とも言われているが・・・ 結局そのまま、豊臣・西軍 と 徳川・東軍 は 「関ヶ原の戦い」 に突入。
この戦いで 島左近 は軍を指揮して前哨戦に勝利し、さらに 徳川軍 の先陣に突撃していくが、銃撃を受けて負傷。
本陣に戻ってケガを治している間に 西軍 の武将達は次々と 東軍 に寝返っていき、大勢は決してしまい、豊臣・西軍は破れ 石田三成 は処刑された。

その後、島左近 がどうなったのか・・・ さだかではない。
関ヶ原の戦いで戦死した、もしくは自害したと言われているが、彼の遺体は確認されなかった。
島左近 はその後、30 年以上生きながらえていたと言う記録もあるが、彼の生没年はいまだに謎に包まれている・・・
部隊アイテム
獅子吼の槍 = 槍。 攻撃54、耐久68。 気合+50、腕力+1、耐久+1、火+3。


筒井 順慶 (つつい じゅんけい) Lv46 僧 奉行 中陣右翼大将
「摂津と山城の境にある洞ヶ峠に行ったことがあるか? あそこは摂津も山城も一望できる、戦略上の要衝だ。 後学のためにも機会があったら見ておくといい。 もし、洞ヶ峠に軍勢が登れば近隣の城を守る者は気が気でないだろうよ。」

大和(奈良県)の大名 「筒井家」 の当主。
まず、言っておくべき事として・・・ 信On では 「筒井家」 は 「三好家」 の中に含まれているが、実際には 筒井家 と 三好家 は全く別の戦国大名である。
信On では 大和 の国が三好領である事もあって 三好家 に含まれているようだが、実際には 三好家 とは敵対関係にある事が多かった。

彼は父の病死により、わずか2歳で大和の大名 「筒井家」 の後を継ぐ。
筒井家の家臣によって幼い 筒井順慶 は補佐され成長していくのだが、彼が 11 歳の時に三好家の 「松永久秀」 が大和に侵攻を開始。
筒井軍は破れ、滅亡寸前まで追い込まれてしまう。
しかし 筒井軍 は 右近・左近 の活躍や地元の寺社勢力の協力、さらに 松永久秀 と 敵対した 「三好三人衆」 との同盟などで勢力を盛り返し、その後 10 年近くにわたって大和を巡る攻防戦を繰り広げる事になる。

そんな中、「織田信長」 が 将軍・足利義昭 を奉じて京都に上洛(進軍)する。
松永久秀 は 織田信長 に従属し、織田家 の支援を受けて大和を支配しようとするのだが・・・ 信長 に反逆を繰り返し、自滅。
結果的に 筒井家 が、「明智光秀」 の 取り成しもあって、織田家 に従属して大和の国主となった。

ところがその後、織田信長 は 明智光秀 の謀反によって急死。
その知らせを聞いた 「羽柴秀吉(豊臣秀吉)」 の軍が 信長 の仇を討つべく、明智光秀 の軍と 「天王山」 で相対する。
筒井順慶 は 明智光秀 と親しい間柄だったため、この 「本能寺の変」 では 光秀 から再三の協力要請を受ける事になるのだが・・・
筒井順慶 はここでどちらにも味方せず、近隣の軍勢ににらみを効かせられる 「洞ヶ峠(ほらがとうげ)」 という場所に布陣して、戦いには加わらなかった。
そして、秀吉 が勝ったのを見届けると、秀吉 の陣に戦勝を祝いに向かう。
「日和見」 の言葉と同じく、どっちつかずのまま旗色のいい方に味方しようとする事を 「洞ヶ峠を決め込む」 と言うのは、この故事が元になっている。

これにより、筒井家 は 秀吉 から大和の領地を保障される事になるが、日和見を決め込んだ 筒井順慶 はあまり外から良いようには思われなかったようだ。
しかし、「本能寺の変」 で 筒井家 が非常に苦しい立場に立たされていた事と、筒井家を存続するために、それが最善の策だった事も確かだろう。
数年後に 筒井順慶 は病死、大和の多くの者がその死を嘆いたという。
部隊アイテム
洞々峠の天秤棒 = 棍棒。 攻撃74、耐久81。 気合+60、腕力+3、器用+3。


東条 行長 (とうじょう ゆきなが) Lv44 鍛冶屋 敵先陣後詰
「最初の頃は、何かと武器ばかり新調しがちだが、大事なのはむしろ、命を守る防具のほうだぞ。」

「東条家」 は阿波(徳島県)の国人(領主)か地侍だったようだ。
三好家 の家臣となり城主を務めていたが、三好家 が没落した後は東国に逃れ、房総半島(現在の千葉県)の 「里見家」 に仕えている。
その後、豊臣秀吉 の家臣となり、秀吉 が四国に侵攻した際には阿波にいた彼の親類を説得して、降伏させる使者を務めている。
のちに 秀吉 を怒らせて追放されてしまうが、秀吉 の死後に 徳川家康 に仕え、大和に領地を与えられた。


海部 友光 (かいふ ともみつ) Lv48 侍 敵後陣後詰
「今は一同団結の時。 身内での争いが、最大の敵であると思え。」

「海部家」 は四国の 「阿波(徳島県)」 の有力な豪族(権力者)で、三好家 も元は阿波の豪族であったことから親密な関係にあり、三好家の四国での軍事行動に大きな役割を果たしていたようだ。

海部家 の領地は 「土佐(高知県)」 との国境沿いにあり、そのため土佐の大名 「長宗我部家」 とにらみ合いを続けている状況にあった。
そんなある日、長宗我部家の当主 「長宗我部 元親」 の弟が有馬温泉(現在の神戸にある温泉街)に行った帰り、嵐を避けるために 海部家 の領地の港に寄港するのだが、海部友光 はそれを襲撃してその弟を殺害してしまう。

彼がなぜ 長宗我部元親 の弟を襲撃したのかについては諸説あり、故意に行ったとも、敵襲と間違えたとも、謀略によるものだとも言われているが・・・
いずれにせよ、怒った 長宗我部元親 はそれを理由として 阿波 に侵攻を開始、海部友光 は 長宗我部軍 と激戦を繰り広げ、一度は 長宗我部軍 を撤退させるが、2度目は敗退。 城は陥落し、彼も戦死した。


原田 秀兼 (はらだ ひでかね) Lv47 神主 与力 後陣中翼副将
「人望が厚くなれば、自然、人は集まってくるものだ。 一人ではこの乱世……生きていけぬぞ。」

「阿波(徳島県)」の国人(領主)の一人で、元は阿波を支配していた室町幕府の管領(重臣) 「細川家」 の家臣だったようだ。
三好家 が阿波を支配するとそれに従っていたが、その後、阿波国内での戦いで戦死している。

部隊アイテム
阿波の月影弓 = 弓。 攻撃18、耐久34。 器用+3、知力+1、風+2。


七条 兼仲 (しちじょう かねなか) Lv44 侍 侍大将 先陣左翼
「昔、より強い力を授かりたくて大山寺(たいさんじ)という寺に祈願したことがある。 二十一日間にわたって参拝し祈願を続けたのだ……。
祈願の成果を確かめたくてなあ。 大山寺の境内にあった大石を拝借して城下まで運んできてしまった。 まあ大した大きさではなかったがな……大人四人が手をつないで抱えられる程度だ。
しかし……大山寺の者に持ち返ってくれと伝えたのに、なぜいまだに城下に残ったままなんだろう?」

戦国時代きっての怪力野郎。 「力もち」の代名詞。
地元(徳島県)にはその怪力を示す数多くの武勇伝が伝えられていると言う。

セリフにある通り、阿波の 「大山寺」 というお寺に力が授かるように祈願し、その成果を試すために寺にあった大石を担いで町まで一人で運んだと言う伝承があり、彼はその力を授けられたお礼として神社に 「鏡餅」 を奉納したという。
この故事を元に、大山寺では力自慢が集まって、巨大な餅を抱えてどれだけ歩けるかを競う 「力もち大会」 が行われるようになり、400 年たった現在でも地元のお祭りとして毎年開催されている。

三好家 の家臣として阿波で城主を務めていたが、土佐の 「長宗我部家」 の侵攻により起こった 「中富川の戦い」 で、奮戦の末に戦死した。

ちなみに 「信長の野望オンライン」 では、三好家 の導入当初、彼は 自爆技 「大往生」 を使って自ら勝手に死ぬと言う、前代未聞の 「自爆武将」 として有名だったが・・・ さすがに修正されてしまった。
部隊アイテム
力王剣 = 剣。 攻撃31、耐久44。 生命+10、気合+10、腕力+4、土+2。


細川 真之 (ほそかわ さねゆき) Lv50 陰陽師 奉行 小荷駄隊守将
「……最近、当家の侍になりすまし、城内に侵入を図ろうとする輩がおると聞く。 修行も大事だが、お主の使命は殿をお守りすることだということを忘れるなよ。」

室町幕府管領 「細川家」 の一族、阿波細川家 の後継者。
「細川家」 は 室町幕府 のトップクラスの重臣であり、四国の東部から近畿地方に至る広い地域を支配していて、元は 三好家 もその配下に過ぎなかった。
だが、戦国時代 の混乱の中で 細川家 は後継者問題を巡って分裂する。

阿波の 細川家 は後継者の一人 「細川晴元」 に味方して、三好家 と共に他の後継者と戦うが、その後、細川晴元 は配下だった 三好長慶 の父 「三好 元長」 を謀殺してしまう。
これによって 三好家 は没落、淡路島に逃れ雌伏の時を過ごすのだが・・・
7年後、三好長慶 は父を謀殺した 細川家 との敵対を開始、そして 三好家 の重臣で 三好長慶 の弟でもある 「三好 義賢」 が 阿波細川家 の当主を謀殺、その子を 阿波細川家 の傀儡(飾り)の当主として祭り上げた。
その傀儡当主が、「細川 真之」 である。

しかし 三好長慶 や 三好義賢 が急死し、三好家 が衰え始めると、「細川 真之」 は自分が傀儡である状況を脱しようとして、土佐の大名 「長宗我部家」 を頼って 三好家 から脱出して独立。
周辺の国人達を味方に付け、父を謀殺した 三好義賢 の子である 「三好 長治」 を敗死させるが、長治 の弟 「十河 存保」 に攻められ、自刃した。

当主が家臣を謀殺し、家臣も当主を追い落とす。
そんな乱世が戦国時代初期の京都周辺では繰り返えされていた。
細川家 も、三好家 も、その被害者だったと言えるだろう・・・
部隊アイテム
細川両家紀写本 = 特殊装備。 防御3、耐久9。 生命+30、器用+6、火+3。

=三好家 城内=

近藤 正近 (こんどう まさちか) Lv35 鍛冶屋
「ふう……。 武芸を極める道のりは、まだまだ長いですな。」

(詳細不明です・・・)
( 「近藤家」 は阿波の国人で、かなり名家だったようです。
「近藤 正次」 という人が 「轟城」 という城の城主を務めていて、長宗我部軍と2度に渡って戦っていますが、その 「近藤 正次」 のことか、もしくは 正次 の父だと思われます)


香川 元景 (かがわ もとかげ) Lv48 鍛冶屋 敵後陣後詰
「ふう……。 武芸を極める道のりは、まだまだ長いですな。」

四国の 「讃岐(香川県)」 の西部を支配していた有力な豪族(権力者)。
最初は四国の東部を支配していた 室町幕府 の重臣 「細川家」 の家臣だったが、細川家 が分裂すると 中国地方の大名 「毛利家」 や、伊予(愛媛県)の大名 「河野家」 に通じるなど、有力な勢力に取り入ってその領地を保ち続けていた。
讃岐に 三好家 が侵攻してくると、当初は対抗していたが、敵わないと見て降伏し、以後は 三好家 の家臣となる。

三好家 が衰退し近畿地方で 「織田家」 の勢力が強まると 織田信長 に接近、信長から一字を受け 「香川 信景」 と改名して友好関係を保つが、その後に土佐の大名 「長宗我部家」 の侵攻を受けると 長宗我部家 に降伏。
長宗我部家 の当主 「長宗我部 元親」 の次男を婿にして 「香川家」 の家を譲り、以後は 長宗我部家 の家臣として活動した。

まさに 「長いものには巻かれろ」 的な生涯だが・・・ 小勢力の当主として、乱世の中で領地と家臣と守っていくためには、このような生き方も必要だったのかもしれない。


岡 国高 (おか くにたか) Lv45 鍛冶屋 与力 中陣左翼副将
「最初の頃は、何かと武器ばかり新調しがちだが、大事なのはむしろ、命を守る防具のほうだぞ。」

大和の国人(小領主)。 三好家 というより、松永久秀 の家臣。
大和の国では 「興福寺」 というお寺の勢力が非常に強く、この 興福寺 を中心とする 寺社勢力 が大きな支配力を持っていた。
岡国高 は その 興福寺 の勢力の一人なのだが、興福寺 は 松永久秀 と敵対していたので・・・ 松永久秀 の配下となった彼がどういう状況にあったのか、今ひとつ不明だ。

外交官として活躍し、「武田家」 や 「足利家」 との交渉にあたっているが・・・
織田家 に従属していた 松永久秀 は、武田家 の上洛(京への進軍)や、将軍・足利義昭 が発した 信長討伐令 などに従って 信長 に反乱を起こしているため、彼もそれに関わっていた可能性が高い。
そのためか、彼の領地は 織田軍 の焼き討ちを受けている。

松永久秀 が 信長 に2度目の反乱を起こした際に、久秀 と共に滅んだと言われているが、信長 から降伏の使者を受け 織田家 に降ったとも言われている。
部隊アイテム
一乗院鋼鉄鞭 = 鞭。 攻撃22、耐久71。 気合+10、腕力+1、土+3、風+1。


三好 康長 (みよし やすなが) Lv47 僧 侍大将 後陣右翼副将
「後悔はしても、反省をせぬようでは前には進めぬぞ。 一つ一つの戦いを大事にし、そこから何かを学び取ることだ。」

三好長慶 の叔父。 別名 「三好 笑岩」。
三好家 の重鎮として 三好兄弟 の兄弟ゲンカを仲裁するなど、三好家の運営に大きな役割を果たしていた人物だった。

三好長慶 の死後は本拠地の阿波(徳島県)に戻り、近畿で 織田家 や、織田家側 について 三好家 に反旗を翻した 松永久秀 と戦う 「三好三人衆」 の後方支援を担当し、戦いが激しくなると自らも兵を率いて 松永久秀 と戦っている。
織田家 が 将軍・足利義昭 を奉じて京都周辺を支配すると、信長 に反乱を起こした 松永久秀 と共に 織田家 と戦うが・・・
京都に進軍中の 武田信玄 が病死し、将軍・足利義昭 が 信長 によって追放され、松永久秀 も信長に討伐されると、天下の名物茶器 「三日月の茶壷」 を 織田信長 に献上して、織田家 に降伏した。

その後は 織田家 の配下として、本願寺家 との和解交渉を務めたり、四国の勢力への降伏勧告の使者などを務め、高い成果を上げ、信長 から阿波の国を与えられることを約束されていた。
「本能寺の変」 によって 信長 は配下の 明智光秀 に襲撃され急死してしまうが、その後も 豊臣秀吉 に仕え、高い地位を与えられている。

茶人や歌人としても高名で、堺の商人でありトップクラスの茶人だった 「津田宗及」 の茶会にも何度も招かれている。
部隊アイテム
三好記写本 = 特殊装備。 防御3、耐久8。 生命+20、魅力+2、水+4。


篠原 自遁 (しのはら じとん?) Lv47 薬師 侍大将 後陣左翼副将
「戦いが長期に及ぶときは、相手の技を見切ることだ。 ……これが、なかなか難しいのだがな。」

「篠原家」 は阿波(徳島県)の豪族(地元権力者)で、篠原家の当主 「篠原 長房」 は 三好家 が近畿に進出した後に 阿波 の統治を任されていた、重要な家老の一人だった。
そして 「篠原自遁」 は、その 篠原長房 の弟で、城主も勤めていたのだが・・・

三好長慶 とその兄弟が死去し、三好家 が衰退し始めた頃、彼は 三好家 を継いでいた主君 「三好長治(三好義賢 の子)」 に 兄・篠原長房 のことを讒言(悪い噂を告げ口する事)をし、篠原長房 を追い詰める。
そして 篠原長房 はそれが原因で 三好長治 に攻められ、敗死した。

その後、三好長治 の死後に独立しようとするが、織田信長 の配下となっていた 三好家 の後継者 「十河 存保」 に攻められて降伏。
しかし四国統一を目指して進軍していた土佐(高知県)の大名  「長宗我部家」 に内通し、三好家 と 長宗我部家 が戦った 「中富川の合戦」 が起こると 長宗我部家 に城を開け渡して寝返った。
その後は 長宗我部家 の家臣として活動していたと思われる。
部隊アイテム
遍路の錫杖 = 錫杖。 攻撃28、耐久60。 生命+20、器用+2、水+4。


松永 久通 (まつなが ひさみち) Lv44 陰陽師 侍大将 先陣中翼
「我が父・久秀どのはよき茶釜を持っておられる……。 そう、「平蜘蛛釜」よ。 名を聞いたことぐらいあるであろう。 ぜひ譲ってほしいと言ったことがあったのだが……。 「他人に渡すぐらいなら、自分で打ち砕いてくれるわ」 と怒鳴られてしまったわい。」

松永久秀 の子。 ほとんど 松永久秀 と行動を共にしている。
松永久秀 が 大和 の国をほぼ掌握した頃に 「松永家」 の家督を継いでいるが、実権は 父・久秀 が握ったままだったようだ。

松永久秀 に従って 将軍・足利義輝 を暗殺し、久秀 が 織田信長 に降伏した後で、反逆 を繰り返した時にもそれに従っている。
そして2度目の 織田家 への謀反の際、織田信長 の軍勢に城を攻められ、父と共に自害した。
部隊アイテム
多聞院日記写本 = 特殊装備。 防御3、耐久8。 知力+5、魅力+3。


篠原 長房 (しのはら ながふさ) Lv48 神主 目付 後陣左翼大将
「よき政(まつりごと)を行いたくば、わしがまとめた「新加制式」を参考にするがよい。 行政の手腕に優れた義賢どのの治政を基にして制定したものだ。 争いごとを解決し、国を丸く治まるようにする知恵が詰まっている。 機会があったら目を通してみるがよい。」

三好家 後期に活躍した重臣で、阿波の豪族(地元権力者)の一人。
元は 三好義賢 の配下だったが、「才知ある者」 として 三好長慶 にも高く評価されており、三好家 の活動が近畿に移ると、四国の 三好家 の領地の統治を任されている。

その後、三好長慶 とその兄弟が相次いで死ぬと、残された 三好家 の重臣 「三好三人衆」 と協力して、三好義賢 の子 「三好 長治」 を 三好家 の跡継ぎとし、足利将軍家 の親類に当たる 「足利 義栄」 という人物を 足利義輝 の死後の 「室町幕府・第14代 足利将軍」 として擁立、三好長慶 死後の 三好家 の基盤を整えようとした。
しかし、織田信長 が 足利義輝 の弟 「足利義昭」 を奉じて京都に進軍してきて、さらに 松永久秀 が 織田家 に寝返り、三好三人衆 も 織田軍 に敗れたため、四国に撤退する。

その後、織田信長 とは和睦し、四国の領地の統治を行っていたが、弟の 「篠原自遁」 に讒言(悪評の告げ口)をされ、主君の 三好長治 に攻められてしまい、防戦するも力尽き、討ち死にした。
彼の死が、その後の 三好家崩壊 のきっかけになったとも言われている。

彼は 阿波 や 讃岐 を統治する際に、「新加制式」 と呼ばれる法律書をまとめ、それを元に行政を行っていた。
この 「新加制式」 は要点が簡潔にまとめられた優れた政治書で、「一読して古典に通じ、文才ある者の立法である事がわかる」 ものだという。
部隊アイテム
新加制式写本 = 特殊装備。 防御3、耐久8。 知力+5、魅力+2、土+3。


高山 友照 (たかやま ともてる) Lv44 侍 目付 先陣右翼
「私の生涯の幸せは、宣教師ロレンソどのに会えたことです。 もし会えなければ、今のような心の平穏は得られなかったでしょう。 本当によかった。
我が息子の右近もまた「ジュスト」という洗礼名を授かって、ともに受洗することができました。 デウスの思し召しでしょう。」

「高山右近」 の父として知られ、「神・デウス」 のために生涯を捧げたキリシタン大名である。 クリスチャンネームは 「ダリヨ」。

元は 松永久秀 の家臣だったが、三好家 が 足利家 と和睦している頃に 足利将軍家 の重臣 「和田 惟政」 の臣下にもなった。
その後、京都で日本人初の宣教師 「ロレンソ」 と議論をし、キリスト教に感銘を受け、そのまま妻と息子と共に洗礼を受けてキリシタンとなる。
その後、松永久秀 がキリスト教を弾圧したために 松永久秀 とは手を切り、和田惟政 の家臣となるが、数年後に 和田惟政 は戦死。
その子 「和田 惟長」 が 和田家 を継ぐが、彼とは不仲になり、さらに息子の 「高山右近」 が 和田惟長 とチャンバラになったため、摂津の有力者 「荒木 村重」 の支援を受けて 和田家 を攻めて追放、事実上その城を乗っ取った。

こうして 高山友照 は 荒木村重 の配下の城主となるのだが・・・ その 荒木村重 は 織田信長 に降伏後、反織田勢力 からの調略を受けて反乱を起こす。
これに際し、高山友照 は 荒木村重 に従うが、息子の 高山右近 は 信長 から 「おまえがこっちに来なかったらキリスト教を弾圧する!」 と言われたため、織田家(の派遣した宣教師)の説得を受けて 信長 に降った。
その後、荒木村重 の謀反は 織田軍 により鎮圧され、織田家 に降った息子の 右近 はその後も 織田家 で重用されるが、高山友照 は領地を没収され、北陸の 柴田勝家 に預けられる身となった。
その後は 北陸 で妻と共に布教活動に従事し、のちに加賀の国主となった 前田利家 に保護されている。

息子の 高山右近 は合戦と内政の双方で活躍し、さらに 「利休七哲」 と呼ばれる 茶人 の一人となって出世を続けるが、豊臣秀吉 が大名の キリスト信仰 を禁止したため、信仰を選んで大名の地位を捨て、父と共に布教の日々を送る。
だが 徳川家康 もキリスト教を禁止したため、江戸幕府が開かれた後、彼は国外追放処分となった。
高山右近 の名声は海外にも轟いており、流刑先のマニラで街を挙げての大歓迎を受けるが、同地で病に倒れ、神の国に召された。

高山友照・高山右近(重友) の親子は日本より海外で有名だった。
彼らはまだ城主だった頃から、名もないキリシタンの農民が死んだ時、その葬儀を行い、棺を担いで、自ら墓を掘って弔ったりしたと言う。
一国の殿様がそんなことをするのは前例がなく、その活動に多くの者が共感し、彼らの領地の住民は大半がキリスト教に改信して行ったという。
彼らが布教を行った北陸地方には、高山右近(ジュスト) のステンドグラスを飾ったキリスト教会が、今も数多く建てられている。
部隊アイテム
摂津のロザリオ = 首防具。 防御13、耐久19。 生命+30、魅力+5、土+2。


岩成 友道 (いわなり ともみち) Lv48 薬師 奉行 後陣中翼大将
「三好長逸どの、三好政康どのは良きお方よ。 先日も話し合ったのだ。
「我ら三人衆こそ、三好家を支える柱石。 もっと重用してくださるよう、殿にお願いしよう」 とな。
そうじゃ。弟君たちだけではなく、まして松永久秀などより、我らを用いるべきなのだ。 よしっ! 今度、殿に直訴いたそう。」

三好長慶 の死後に近畿で 織田信長・松永久秀 の軍勢と戦いを繰り広げた 三好家 の重臣 「三好三人衆」 の一人。

三好長慶 とその兄弟が急死した後、「松永久秀」 と共謀し、三好家 と政争を続けていた 「将軍・足利義輝」 を襲撃して暗殺する。
そして 三好三人衆 が保護していた 足利家 の親族 「足利 義栄」 を次の将軍に擁立しようとするのだが、三好三人衆 と 松永久秀 は仲違いしてしまい、双方争う状態となってしまう。
松永久秀 と一進一退の戦いを続ける中、織田信長 が 足利義輝 の弟 「足利義昭」 を保護して京都への進軍を開始。
そこで 三好三人衆 は 南近江 の大名 「六角家」 と同盟、共同で 織田軍 を迎撃する作戦をとるが、六角家 はボコボコに敗退。
岩成友道 は 六角家 への援軍に向かっていたのだが、間に合わないと見て反転し、城で篭城するも 織田軍 によって攻め落とされてしまう。
その後も 三好三人衆 は京都の奪還を目指して戦いを続けるが、戦況は好転しなかった。

のちに 信長 に擁立された 「将軍・足利義昭」 が 信長 と不仲になって、各地の大名に 「信長を討伐せよ」 という指令を発すると、それに従って 岩成友道 も挙兵するが、織田軍によって攻められ、敗死した。
部隊アイテム
岩成八角棒 = 棍棒。 攻撃74、耐久81。 気合+30、腕力+6、火+3。


三好 長逸 (みよし ながゆき) Lv50 僧 中老 本陣四天王
「お、恐ろしい夢を見た……。
東大寺の大伽藍が地獄の業火に焼かれ、その前で男が嘲笑しているのだ……。
やがて炎に包まれた大仏の首が落ちた。 笑っていた男が振り返ると……。
それは、あの男であった……。」

三好家 の重臣 「三好三人衆」 の筆頭。
三好家 の将軍として早くから活躍していた人物で、三好家 が近畿に進出する際の各地の戦いで、大きな功績を挙げている。
三好家 が京都を制圧した後は、山城地方の南半分を統治していた。

三好長慶 の死後は、長慶 の弟 「十河 一存」 の子 「三好 義継」 を 三好家 の後継者に擁立し、さらに 松永久秀 と共謀して、敵対していた 「将軍・足利義輝」 を襲撃して暗殺すると、保護していた 「足利 義栄」 という人を次期将軍に祭り上げ、三好家 の権力を安定させようとした。
しかし、三好三人衆 と 松永久秀 は仲違いしてお互いに争う状態となり、さらに 三好家 の後継者とした 「三好義継」 が出奔、松永久秀 に寝返ってしまう。
双方の戦いは泥沼化していき、この戦いの中で、セリフにもある 松永久秀 が 「奈良の大仏殿」 を焼き払うと言う事件が起きた。

その後、織田軍 が 足利義輝 の弟 「足利義昭」 を奉じて京都に進軍し始めたため、三好三人衆 は 南近江 の大名 「六角家」 と同盟してこれに対抗しようとするが、六角家 は敗退。
彼は戦況不利と見て四国に撤退し、そのまま戦況が好転する事はなかった。
彼がその後、どうなったのかは定かではない・・・

なお、松永久秀 の 「大仏殿」 の焼き討ちは、実際には 三好三人衆 との戦いの中で起こった失火であり、故意ではなかったとも言われている。
だが、松永久秀 自身は自分が焼いた事について否定していないし、大和の寺社勢力は 松永久秀 と敵対していたため、寺社勢力のシンボルである 奈良の大仏 が焼け落ちることは、久秀 にとってマイナスなことではなかった。
様々な説があるが・・・ 真相は不明である。

ちなみに、現在の奈良の大仏殿&大仏様 は、江戸時代に再建されたものだ。
部隊アイテム
弑虐斧 = 斧。 攻撃51、耐久66。 腕力+3、土+3、火+8。


三好 政康 (みよし まさやす) Lv48 忍者 奉行 後陣右翼大将
「松永久秀は得体の知れぬ男だなあ。 あれが忠臣なのか佞臣(ねいしん)なのか、俺にはさっぱりわからぬ。
しかし頭の悪い俺にも一つだけわかることがある。 あれは尋常な器量の男ではない。 間違いなく破格の男だ。」

三好長慶 の死後に近畿で活躍した 三好家 の重臣 「三好三人衆」 の一人。
三好長慶 に従って、摂津での戦いでも活躍している。

その活動の詳細は、他の 「三好三人衆」 の説明とダブってしまうが・・・
「松永久秀」 と共謀して 「将軍・足利義輝」 を暗殺し、その後に 松永久秀 と仲違いして争いを続け、さらに 足利義輝の弟 「足利義昭」 を奉じて京都に進軍してきた 「織田信長」 とも近畿の覇権を巡って戦いを続けた。

信長 に敗れ 京都 の支配を失った後、帰還する信長を襲撃したり、京都の奪還を目指して 足利義昭 のいる寺を包囲したりしたが、織田軍 に撃退されている。
その後、三好三人衆 は 信長 と一時和睦したが、将軍・足利義昭 が 信長 と不仲になって 「信長討伐令」 を各地に発するようになると、これに乗じて挙兵し、再び 信長 と敵対する。
しかしまたも敗れ去り、歴史からその姿を消した・・・

・・・が、それから 40 年以上のち、三好政康 はいきなり再び姿を現す。
すでに徳川の天下となっていた 1615 年、徳川家 が 豊臣家 を討伐すべく大阪城に攻め込んだ 「大阪・冬の陣、夏の陣」 に、豊臣側 として参陣した。
そして戦国最後の合戦である 「大阪・夏の陣」 で、討ち死にしている。
武人として、その最後を戦場で飾りたかったのだろうか?
でも 40 年もどこで何をやってたのか、まったく不明である。

そんな彼は、「真田十勇士」 の一人 「三好青海入道」 のモデルと言われている。
「真田十勇士」 は 「大阪の陣」 で活躍し 「日本一の兵」 と呼ばれた武将 「真田 幸村」 の配下として活動したと言う十人の忍者のことで、架空の存在だが、彼らの活躍するお話は 講談 として、江戸時代から庶民に親しまれてきた。
「真田十勇士」 の 「三好青海入道」 は、大酒飲みで大食いの大男で、150 キロの超巨大棍棒をブン回す破戒僧として登場している。
信On の 三好政康 は 忍者 だが、セリフがなんとなくそれっぽい・・・?
部隊アイテム
弑虐の太刀 = 刀。 攻撃48、耐久54。 気合+30、知力+3、風+6。


安宅 冬康 (あたぎ ふゆやす) Lv50 侍 中老 本陣四天王
「大将などというものは所詮、神輿(みこし)のようなものです。 いくら威儀を正しても、担ぎ上げてくれる者たちに覆されたら、地面に落ちて泥にまみれてしまう……。 大将は、配下の者たちの力があればこそ、大将でいられるのです。
海の上では、はっきりとそのことがわかります。 常にそのことを思い出し、戒めとしなければなりませんね。」

三好兄弟 の三男か四男。(両方の説があり、はっきりしていない)
三好長慶・三好義賢 の弟で、淡路島を本拠地とする 「安宅水軍(淡路水軍)」 を統率した 海賊衆 の頭である。
三好兄弟 の父が殺され、淡路島 で雌伏の時を過ごしている時に、淡路水軍 の頭目の家柄だった 「安宅家」 に養子に入り、頭目を継いだ。

三好家 が 大阪 と 四国東部 で自由に兵を動かす事が出来たのは、安宅水軍 がこの海域の 「制海権」 を支配していたからであり、まさに 安宅水軍 の存在が 三好家 の軍事行動のポイントであったと言える。
当時の 海賊 は独自勢力と言ってもいい存在で、戦国時代には軍船や商船の通行権を巡って、商人 や 大名家 から交渉や依頼を受ける事も多かった。
また、彼は茶の湯や和歌にも通じており、堺の豪商で高名な茶人でもある 「津田宗久」 と茶会を催したりもしている。

しかし・・・ 彼は 「松永久秀」 によって 「謀反の疑いがある」 という噂を立てられてしまい、久秀 の讒言(悪評の告げ口)を信じた 三好長慶 によって、謀殺されてしまった。
彼の死が、その後の 三好家 の衰退に大きく影響した事は確かである・・・
部隊アイテム
安宅水軍陣羽織 = 特殊装備。 防御3、耐久28。
              生命+40、耐久力+8、魅力+1、水+1。


三好 義賢 (みよし よしかた) Lv50 侍 中老 本陣四天王
「幕府の官僚・細川晴元ほど、許せぬ男はおらぬ。 我が父・元長の力で細川の当主となれたものを、木沢長政ごとき佞人(ねいじん)の言葉に惑わされ、父を討ち死にさせた……。
兄弟の力で木沢長政を討ち果たしたものの、晴元はいまだのうのうと生きている。 いつか必ず晴元を権力の座から引きずり降ろしてやる。」

三好兄弟の次男。 別名 「三好 実休」。
兄・三好長慶 と共に 三好家 の再興に尽力し、そして父を殺して 三好家 を没落させた者たちへの復讐に生きた、三好家 の名将である。

三好兄弟 の父 「三好 元長」 は 主君・「細川 晴元」 の勢力拡大に貢献したにも関わらず、その権力と出世を妬んだ 「三好 政長」 の讒言により、細川晴元 によって謀殺されてしまった。
三好家 の実権は 細川晴元 と 三好政長 に奪われ、三好長慶たち 三好四兄弟 も危険な状況に陥るが、阿波を支配していた 細川家 の一族 「細川 持隆」 によって彼らは保護され、その後、家臣と共に 淡路島 に逃れる事となる。

それから7年後・・・ 三好兄弟 は 細川晴元 と 三好政長 に敵対を宣言、三好長慶 は近畿に出兵し、三好政長 を討ち取って、細川晴元 を追い詰めていった。
だが、その軍事行動に阿波の 細川家 の当主であり、三好兄弟 の恩人でもあった 細川持隆 が反発、三好長慶 をことあるごとに非難するようになり、三好家 との対立を強めていく。
そのため 三好義賢 はついに恩人であった 細川持隆 を暗殺、その子 「細川真之」 を 阿波細川家 の傀儡(飾り)の当主にして操り、さらに 細川真之 の母で、細川持隆 の側室だった女性を自分の妻にして、三好家 の跡継ぎを生ませた。
こうして彼は 阿波、および四国東部の 三好家 の支配力を強固なものにしていくのだが・・・ この手段のため、阿波の多くの者が彼を憎んだという。

その後も彼は 三好家 の各地の戦場を転戦し、三好家 の支配地域を広げていくが、雑賀・根来衆 の銃撃により負傷し、陣中で戦死した。
彼はその最期に、「主君を殺した報いを逃れる事は出来なかった」 という意味の辞世の句を詠んだという。
やむを得ずとは言え、主君であり恩人でもあった 細川持隆 を殺したことを、彼は最後まで気にかけていたようだ。 下克上に生きた男の悲しい最期である・・・

なお、彼は茶道の大家の一人である 「武野 紹鴎」 から教えを受けた茶人でもあり、一国の価値があると言われた 「三日月の茶壷」 を所持していた。
また、軍略・政略にも優れ、三好長慶 は四国での活動を彼に一任したと言う。
部隊アイテム
物外軒の無名刀 = 刀。 攻撃47、耐久57。 気合+80、知力+3、風+3。


十河 一存 (そごう かずまさ) Lv50 侍 中老 本陣四天王
「まったく……あの太鼓持ちと口をきくたびに不快になるわい。 誰のことだと? 決まってるではないか。 松永弾正久秀のことよ。
口もききたくなかったのだが、つい湯治で有馬の湯へ行く話をしてしまった。 ところが、奴は……。 「権現さまは葦毛馬が嫌いゆえ、有馬の湯山権現へは葦毛(あしげ)の馬で参るな」などとぬかす。 ええい、まったく、こうるさい奴よ。
俺はこう言ってやったわ。 「俺は貴様が大嫌いゆえ、貴様の忠告だけは断じて聞かぬ」 とな。」

三好兄弟 の三男か四男。 (どちらか、はっきりしていない)
「鬼十河」 「夜叉十河」 と言われた 三好家 きっての猛将で、讃岐(香川県) の豪族である 「十河家」 の養子となり、その後を継いだ。

三好家 を没落させた叔父の 「三好政長」 を討ち取った 摂津(大阪)の戦いでは 戦功第一 となり、さらに 細川軍 を追い詰めて京都に侵攻し、室町幕府の 「細川晴元」 や 「足利義輝」 らを攻めて近江へと追いやった。
四国での戦いでも活躍し、阿波・讃岐 の各地を転戦、これらの戦いで 鬼十河 の異名を持つ事となる。

ところが、セリフにもある通り、病の療養のために 「有馬温泉」 に向かっている時に、落馬して不慮の死を遂げてしまった。 まだ 30 才ぐらいだったという。
彼の死には謎が多く、ただの事故死とも言われているが、松永久秀 により暗殺された可能性も高い。
少なくとも、彼と 松永久秀 は互いに犬猿の仲であり、そして 十河一存 の死の際には、松永久秀 が同席している。
とにかく、彼の死が 三好家 の急速な衰退に繋がった事は確かである。

ちなみに、彼は兜をかぶっている時に頭がむれるのを嫌って、前髪から頭の中ほどまでを大きく剃り込んでいたという。
この髪型は 「十河額」 と呼ばれ、江戸時代に 十河一存 の武勇にあやかろうとして男子の中で流行した。 俗に言うチョンマゲ頭の前半分が、コレである。
部隊アイテム
鬼夜叉の槍 = 槍。 攻撃67、耐久76。 気合+40、腕力+8、耐久力+1、土+1。


松永 久秀 (まつなが ひさひで) Lv50 陰陽師 中老 本陣軍師
「いかんなあ。長慶さまの末弟、十河一存(そごうかずまさ)どのにヘソを曲げられてしまったわい……。
湯治で有馬の湯へ行かれると伺ったので、忠告したのじゃ。 「有馬の湯山権現なら葦毛(あしげ)馬での参詣はなりませぬぞ。権現さまがお嫌いですから」 とな。
が、一存(かずまさ)どのは 「俺は貴様が大嫌いゆえ、貴様の忠告だけは断じて聞かぬ」 と、ヘソを曲げられてしまわれた。
一存(かずまさ)どのに湯山権現の罰が当たらねばよいが……。 ふっふっふっふっふっふ……。」

戦国の大悪党。 梟雄(悪逆非道な英雄)の代名詞。
同僚を殺し、主君を廃し、将軍を暗殺し、大仏殿を焼き、反逆を繰り返したという極悪人の代表 「松永久秀」 である。

彼の出身は不明だが、いつの間にか 三好家 の家臣となっており、祐筆(書記)を務めたり、摂津や京都での戦いで部隊を率いて活躍したりしている。
三好長慶 が京都を支配すると 幕府政治 や 朝廷工作 などで 三好長慶 の参謀役となっており、もともと教養に長けた人物であったようだ。
だが、三好長慶 の弟 「三好義賢」 や 「十河一存」 とはかなり仲が悪かった。
その後、大和(奈良県)への侵攻を開始し、その地をほぼ支配下に収める。

しかし 三好家 の重鎮 「三好義賢」 が戦死し、「十河一存」 が事故死すると、三好家 に暗雲が垂れ込めてくる。
この 三好義賢 や 十河一存 の死には、その裏に 松永久秀 の影があるとも言われている。
さらに、人望があり将来を期待されていた 三好長慶 の子 「三好 義興」 を毒殺すると、三好長慶 の弟で 安宅水軍 の頭目である 「安宅 冬康」 の謀反の噂を流し、安宅冬康 の讒言(悪評の告げ口)をして 三好長慶 に殺させた。
弟と子を相次いで失った 三好長慶 は悲嘆に暮れ、そのまま病に倒れ病死してしまうが、この 三好長慶 の死にも 松永久秀 が関わっていたと言われている。

三好兄弟 亡き後、彼は 三好三人衆 と共に 「将軍・足利義輝」 を暗殺、足利家の別の親類を 将軍家 の跡継ぎにして操ろうとするが、計画はうまくいかず、さらに 三好三人衆 と仲違いしてしまい、双方争う結果となる。
この戦いの中で、三好三人衆 が陣を構えていた奈良の東大寺の 「大仏殿」 に火を放ち、大仏殿は焼失、大仏の首は転げ落ちた。

その後、織田信長 が 足利義輝の弟 「足利義昭」 を奉じて京都に進軍を開始すると、松永久秀 は 信長 に天下の名物茶器 「九十九茄子」 を献上し、信長 に従属する。
織田信長 と 松永久秀 は 破壊者同士(?)ウマが合ったようで、久秀 は 信長 のために京都の支配について色々とアドバイスし、織田家 が 朝倉家 を攻めて 浅井家 の寝返りにより撤退した 「金ヶ崎の戦い」 の時も、退却する 信長 に付き従って道案内を務めている。

だが、織田信長 が 将軍・足利義昭 と不仲になって、足利義昭 が各地の勢力に 「信長を討伐せよ」 という命令書を出し、浅井・朝倉・本願寺・武田・毛利 などによる 「織田包囲網」 が形成されると、松永久秀 も 織田家 に反旗をひるがえし、独立した。
しかし京都に進軍中の 武田信玄 が病死し、足利義昭 も追放されると、再び 信長 に降伏する。 この時、信長 も割とあっさり 久秀 を許している。

しかし4年後、織田家 と 本願寺家 の戦いが激化していくと、再び 信長 から離反、2度目の謀反を起こす。
だが 織田軍 に城を包囲され、反乱はすぐに鎮圧されてしまう。
信長はこの時も、松永久秀 の持っていた 名物茶器 「平蜘蛛の茶釜」 を差し出せば罪を許すと言ったのだが、久秀 は 「この白髪頭と平蜘蛛だけは、信長にはやれん」 と言い、平蜘蛛に火薬を詰め、爆死した。
戦国一の大悪党に相応しい、ハデな最後である・・・

松永久秀 のその特異な生涯と生き様は多くの歴史家の興味を呼び、後世 数多くの 論文・書物・小説 などが記された。
おかげで戦国武将の中でもかなりの有名人であり、ハッキリ言って、三好長慶 よりよっぽど知名度がある。
歴史的にも、「下克上」 してると言えるだろう。
部隊アイテム
弾正の茶釜 = 特殊装備。 防御3、耐久18。 生命+40、魅力+8、器用+1、水+1。

高三 隆達 (たかさぶ りゅうたつ)
「以前、寺にいたことがありましてね。 その頃から明けても暮れても小歌の毎日。 今じゃ、小歌が仕事、商いが趣味といったところなんですよ。」

商業自治都市 「堺」 を運営していた 「会合衆(えごうしゅう)」 の一人。
だが、彼は商人より 「歌人」 として有名な人である。

「高三家」 は 薬問屋 だったのだが、彼は跡継ぎではなかったのでお寺に奉公に出され、そのまま僧になって住職を務めていた。
しかし兄が病死したために還俗し、高三家 を継ぐ。
その後、琉球(沖縄)から伝わった 三味線 に、寺で習った 小歌 を付けて、「隆達小歌(隆達節)」 を作曲して大ヒット、そのままメジャーデビューする。
織田信長 の前でリサイタルを開いた事もあったという。
また、書画や俳句にも優れ、「堺流書道」 の達人として 豊臣秀吉 にも召しだされている。


塩屋 宗悦 (しおや そうえつ) 南蛮菓子屋
「堺ちゅうたら、南蛮渡来の品々や! さあ、遠慮せんでど〜んと買うてってや。」

商業自治都市 「堺」 を運営する 「会合衆(えごうしゅう)」 の一人。
「会合衆」 は堺の商人や有力者によって構成され、名前の通り 「会合」 によって堺の運営を行った組織であり、戦国時代の初期から存在していた。
最初は 10 人で構成されていたのだが、戦国時代に入って定員が増えていき、最終的には 36人で組織されている。

塩屋宗悦 は 信長 が 堺会合衆 の中から 10人 を招いて行った茶会に出席した一人であるため、会合衆 の中でも特に有力な人物だったようだ。
また、京都で 信長 が開いた茶会にも、「津田宗及」 「松江隆仙」 と共に招待されている。

信On では、愛想よく 「カステラ」 とか 「天ぷら」 とかを売ってくれる。


千 宗易 (せんのそうえき) 茶器屋
「おおきに。手前は千宗易と申す、茶碗屋ですわ。 あなたさまほどのお方に足をお運びいただけるとは、えらい嬉しいですなあ。 せやけど、本日はもう店じまい。 えらいすいませんが、また日を改めて……。」

天下一の茶人 「千利休 (せんのりきゅう)」 である。

戦国時代、「堺」の町では 「珠光」 という人が広めた 「わび茶」 が流行した。
これは茶道に 「禅」 を取り入れ、茶の湯の作法と静けさの中に自然と一体となった 「不足の美」 を追求する 「わび・さび」 を見出すもので、珠光 の弟子 「武野 紹鴎」 という人によって広められた。
千宗易(千利休)はこの 武野紹鴎 の弟子であり、「わび茶」 の極地 「茶禅一味」 を完成させたと言う。

その後、堺の街を支配した 織田信長 にその腕前を認められて 「茶頭」 (筆頭の茶人)に命じられ、彼の茶人としての名声は世に広まることとなる。
ちょうどその頃、信長 の影響で各地の 大名・武将 にも茶道が流行し、そのため彼に 茶の湯 を習おうと多くの著名人が弟子入りした。
そして 千利休 の特に優れた弟子は後に 「利休七哲」 と呼ばれ、細川忠興、高山右近、荒木村重、蒲生氏郷 など、一流の戦国武将も名を連ねている。

織田信長 は 「本能寺の変」 で配下の 明智光秀 に討たれてしまうが、その後を 豊臣秀吉 が次ぎ、そのまま 千利休 は秀吉に取り立てられる。
そして、1000人以上が招待され、天下の名物茶器が一堂に展示された 大茶会 「北野大茶会」 の 「亭主」 を務め、名実共に天下一の茶人となるのだが・・・
その数年後、彼は 秀吉 によって幽閉され、それから間もなく自害に追い込まれてしまった。

彼が 秀吉 により自害させられた正確な理由は、いまだに不明だ。
「千利休の木像が偉そうな場所に建てられたのをみて、秀吉が怒ったから」、「千利休が茶器に法外な値段を付けて売りさばいていたから」 などの理由が表向きには出されたようだが・・・
単に、秀吉 と 利休 の性格や、茶道に対する考えの不一致が原因だったようだ。

千利休・信長・秀吉 の性格をよく示した、「あさがお」 の話がある。
ある日、千利休 の庭に あさがお が見事に咲いているという話を聞いた 秀吉 は、早起きして 利休 の家にそれを見に行った。
ところが 秀吉 が庭に行ってみると、あさがお は全て切り取られており、一輪も残っていなかった。
驚いた 秀吉 が茶室に行ってみると、そこにはその日 一番見事に咲いていた あさがお が、一輪挿しにして飾られていた。
信長 は、こうした 利休 の演出をたいそう気に入っていたという。
しかし 秀吉 はこれを見て、「勝手なことをするな」 と怒って帰ってしまった・・・

そもそも、秀吉 の作った 「黄金の茶室」 とかいうものは、千利休 の目指した 「わび・さび」 の茶の湯の世界とは、対極にあるものである。
あさがお の一輪挿しも、それを訴えた無言の抵抗であったのかもしれない。


松江 隆仙 (まつえ りゅうせん)
「いらっしゃい。 はい、確かに。会合衆が一人、<松江隆仙>はわたしですわ。」

堺会合衆 の一人で、織田信長 が 「相国寺」 というお寺で 10 人の会合衆を招いて開いた 茶会 に招待された一人。
この時に招かれた 10 人が、そのまんま 信On に登場する 堺・会合衆 の 10 人であり、実質 「堺」 はこの 10 人で運営されていたと言う説もある。

当時の 「堺の街」 は商業都市として 輸入品 や 薬剤 など、あらゆる物資の流通の拠点であっただけでなく、雇われた傭兵隊によって守備され、町の周囲には 堀 と 防衛用の門 が作られた 「城塞都市」 でもあった。
そのため、堺の会合衆との関係を保つ事は、周辺の大名にとって重要なことだったと言える。


油屋 常琢 (あぶらや じょうたく) 薬剤屋 
「…………………………。 そういうことや。」

「油屋」 は堺の豪商であり、かなり大きな力を持っていた商人だったようだ。
おそらく彼は、数多くの名物茶器を所有し 信長 とも関係の深かった 「油屋常祐」 という人と同一人物だと思われる。
また、戦国時代にはこの 油屋 の寄進で 堺 に 「妙国寺」 という大きなお寺が建てられている。

信On では、「れい羊角」 などを含む貴重な薬の材料を売ってくれるため、かなり重要な商人なのだが・・・ 取引するには条件が必要だ。
その条件は正確には解っていないが、薬師だと取引しやすいようだ。
なお、当時の 堺の街 には海外から進んだ 医学・薬学 が伝わっており、著名な薬師も多く在住していた。


茜屋 宗佐 (あかねや そうすけ) 南蛮武具屋
「えらいすみませんが……当店では腕の立つ方のみに品物をご覧いただいてます。 お引取りください。」

堺の豪商で、織田信長 が 10 人の 堺・会合衆 を招いて茶会を開催した時に招待された一人。
「わび茶」 の大家 「武野紹鴎」 から茶の湯を学んだ一人でもある。

茜屋 や 油屋 には 「大名物」 と呼ばれた茶器が数多くあり、中にはそのまま 「茜屋」 や 「油屋」 の名で呼ばれた茶器もあった。


山上 宗二 (やまのうえ そうじ) 南蛮雑貨屋
「ああ、いらっしゃい……と思うたら、どちらさまやろ?」

「武野紹鴎」 や 「千利休」 などの天下の茶人から茶の湯を学んだ 「茶匠」。
苗字の 「山上(やまのうえ)」 は、そのまんま山の上に住んでいたところから来ている。
千利休 の一番弟子と言われ、豊臣秀吉 の 「茶頭八人衆」 では 千利休・今井宗久・津田宗及 の3名に次いで、4番目の地位を得ていた。
千利休 からは、「上手にて、物も知り、人に押される事なき人」 と評されていたという。

しかし彼は 「毒舌家」 でもあり、利休 からも 「口悪き者」 と言われていた。
それが原因で、のちに彼は 秀吉 に追放されてしまい浪人となる。
だが浪人として各地を放浪している間に 茶の湯 の秘伝を深め、それを弟子達に伝えるために 「山上宗二記」 を記した。
この書物は今も現存し、貴重な歴史資料となっている。
その後、関東の 「北条家」 の客人となり、関東に茶の湯を広めた。

しかしその後、千利休 の取り成しで再び 秀吉 に謁見した時、秀吉 にまたも暴言を吐いたため、耳と鼻を削られて処刑されてしまった。
やはり、「口は災いの元」 である・・・


紅屋 宗陽 (べにや そうよう) 南蛮防具・装飾屋
「おっと!? 誰かと思えば……どちらさんですか?」

「紅屋」 は 「臙脂屋」 とも書くが、難しいので 「べに屋」 とひらがな表記される場合も多い。
紅屋 は 堺・会合衆 の中でも 「天王寺屋」 や 「能登屋(信On 未登場)」 と共に高い権力を持っていた古参のメンバーだったようだ。

まだ堺が 「三好家」 を支援していた頃、近畿を支配した 「織田信長」 が堺に対して 2万貫 の資金提供を要求した時、紅屋 は 能登屋 と共にそれに反対し、徹底抗戦の構えを見せている。
しかし 会合衆 の一人となった 「今井宗久」 の説得により、信長 に謝罪した。
以後は 信長 の開催した茶会にも幾度も出席し、関係を深めている。

なお、紅屋 は 「紅谷庵」 という屋敷を建て、そこに有名な歌人 「牡丹花 尚柏」 という人を住まわせていた。
この人の指導によって堺の町には 「和歌・連歌」 が急速に広まり、茶道と合わせて 堺の街 の古典文化の向上に大きな役割を果たしたという。
この 「紅谷庵」 は今も現存しており、堺の街の観光スポットの1つになっている。


今井 宗久 (いまい そうきゅう) 鉄砲屋
「わざわざおいでいただいたんですけど、うちで扱うとる品は特別な物ばかり……。 そないなわけで、特別なお客さまとのみ取引させていただいとります。」

一代で 天下の大商人 に登りつめた戦国最強の商売人。
また、千利休 や 津田宗及 と並ぶ天下の茶人 「三宗匠」 の一人でもあった。
「信長の野望」 シリーズにもほとんど登場している、おなじみの商人だ。

元は 近江 の人だったのだが、堺の商人 「納屋」 に奉公して商人を目指す。
その後、商才を発揮して武器商人として名を成し、茶人であると同時に同じ武器商人でもあった 「武野紹鴎」 の娘婿となって、堺・会合衆 に加わる。
その後、商売 を通じて知り合っていた 「松永久秀」 を通じて 「織田信長」 に会い、家宝だった名物茶器 「松島の茶壷」 と 「紹鴎茄子」 を献上。
これが 信長 の 「茶道」 に対する興味を沸かせ、戦国武将の間で茶の湯ブームが巻き起こるきっかけとなる。

そして 近畿地方 を制圧した 信長 が 「堺の街」 に侵攻しようとすると、徹底抗戦 を訴える旧派閥の会合衆を説得、信長 に協力する方針で会合衆の意見をまとめ、堺の街を戦火から救った。
これによって 今井宗久 は 織田家 の 「御用商人」 になると同時に、堺・会合衆 の筆頭と、信長 の 「茶頭」 としての地位を確立する。
さらに 織田家 の 軍事物資の調達や補給、鉱山開発 などの仕事を一手に引き受けるようになり、莫大な富を得て、「天下一の政商」 と呼ばれるようになった。

しかし、織田信長 が 「本能寺の変」 で急死し、豊臣秀吉 の時代になると、徐々に 商人 としても 茶人 としても権力を失っていく。
商業力も他の商家の追い上げで衰退していき、そして彼の死後、「納屋」 は急速に没落して力を失っていった。
彼の子孫には商才がなかったのか、武士として徳川幕府の旗本になっている。

そして 豊臣家 を 徳川家 が攻めた 「大阪・夏の陣」 で、堺の街が 徳川軍 の補給基地になることを恐れた 豊臣側 が堺の街に放火。
堺の街はあっという間に炎上し、焼け野原となり、商業都市としての役目を終える事となる・・・


津田 宗及 (つだ そうきゅう) 武具材料屋
「私が商う品々は、どれも高額の物ばかりでっせ。 えらいすんませんなぁ。 よそでお求めになったほうがええですわ。」

堺の商家 「天王寺屋」 の主人。
「天王寺屋」 は堺でも有数の豪商で、茶人としても高名であり、堺・会合衆の中でもトップの力を持っていた。
彼と、彼の父 「津田宗達」 は著名人などを招いて幾度も 「茶会」 を開催しており、その茶会の記録 「天王寺屋会記」 は茶道と、そして戦国史を知る超一級の資料となっている。

織田信長 が近畿を制圧すると 信長 の 「茶頭」 の一人となり、さらに 千利休 や 今井宗久 と共に 「三宗匠」 と呼ばれるようになった。
そして 織田信長 が 「本能寺の変」 で急死し、「豊臣秀吉」 の天下となると、秀吉 に接近して商売の権利も獲得していき、商人としてもトップに登り詰めていく。
そして、秀吉 が開催した千人規模の大茶会 「北野大茶会」 では 千利休 と共に 「亭主」 を務め、茶人としての名声も極めることとなった。

彼の死後も 天王寺屋 は豪商として営業を続け、堺の街が焼失した後は大阪に移転し、商売を続けていたようだ。

=摂津和泉、大和のその他の人々=
宝蔵院 胤栄
「大和(奈良県)」 の寺社勢力 「興福寺」 に所属する寺院の1つ 「宝蔵院」 の住職(院主)。
そして、日本最大の槍術 「宝蔵院流槍術」 の創始者である。

元はただの僧侶だったのだが、武術を好み、特に僧兵に伝わる薙刀の扱いに優れていた。
その後、彼の寺を訪れた剣術家 「上泉 信綱」 と試合をして完敗し、彼に弟子入り。
上泉信綱 の元で 「新陰流」 の剣術を会得する。
さらに 「成田 大膳」 という 槍術家 に出会って槍の扱いを学び、「池に浮かぶ三日月を突き」、宝蔵院流 の槍術の秘伝を編み出した。
「十文字鎌槍」 という刃が十字になった槍を発明し、その槍の使い手として有名になり、後に 松永久秀 の主催で行われた 槍試合 でも 12連勝 したという。
その後、彼の名声を聞き諸国の 武芸者 が彼に弟子入りしていった。 「信長の野望オンライン」 では 織田家 の武将となっている 「笹の才蔵」 こと 「可児 才蔵」 も、彼の弟子の一人である。

晩年、彼は 「仏門にありながら人を殺める武術を行ってきたことは、罪深いことである」 と言い、武術を捨て、僧として生涯を終えた。
しかし彼の子 「宝蔵院 胤舜」 は、「この寺が名高いのは槍術のためであり、それを捨てる事は出来ない」 と言い、宝蔵院流槍術 を会得して再び 槍術 を広めていく。
こうして、「宝蔵院」 は槍の道場として盛況になり、その槍術は広く世に広まっていくこととなる。

柳生 宗厳
剣術 「柳生新陰流」 の創始者である剣豪。 別名 「柳生 石船斎」。
後の徳川幕府の剣術指南役 「柳生 宗矩」 の父であり、時代劇で有名になった剣豪 「柳生 十兵衛」 の祖父にあたる。

あまり知られていないが、「柳生家」 は元は 大和(奈良県) の豪族(地方権力者)であり、大和の覇権を巡って 「筒井家」 などと争っていた。
しかし、彼の父の代に  「三好家」 と結んで 筒井家 に対抗するが敗れ、筒井家 に従属。
その際に 柳生宗厳 は 筒井家 の人質となっている。
彼はその器量を認められ、筒井家 の一族の娘を嫁に与えられるなどして優遇されるが、筒井家 は 松永久秀 に敗れて一時没落、その後に彼は 松永久秀 の配下となっている。

彼は若い頃から武術を学ぶ事に熱心で、越前・朝倉家 の剣術家 「富田 勢源」 の 「中条流」 や、剣豪 「塚原 卜伝」 の 「新当流」 など数多くの剣術を学び、近畿地方随一の剣術家と呼ばれていた。
また、同じ 大和 に住んでいた武術家 「宝蔵院 胤栄」 とも親友だった。
しかし、ある日 宝蔵院 のところに来た 剣聖 「上泉 信綱」 の弟子 「疋田 文五郎」 に完敗し、もちろん 上泉信綱 にも何度挑んでも敵わず、そのまま 宝蔵院胤栄 と共に 上泉信綱 に弟子入りする。
そして上泉信綱 の元で 「新陰流」 の剣術を学んだ彼は、上泉信綱 から認められ 新陰流 の正当後継者となり、素手で敵に立ち向かう秘技 「無刀取り」 を開眼、「柳生新陰流」 を創始した。

こうして 剣術家 としての秘伝を極めた彼だが・・・ 小勢力の当主としては、散々だった。
松永久秀 は 織田信長 に反逆を繰り返して滅亡、その後は 信長 に仕えるが、信長 は 「本能寺の変」 で配下の 明智光秀 に襲われ急死。
その後、豊臣秀吉 の時代となって 秀吉 の養子 「豊臣秀次」 に仕えるが、秀次 は謀反の疑いで切腹を命じられてしまう。
さらにその後、「太閤検地」(豊臣秀吉 の行った土地の調査と税金の制定)で、彼の領地で 「隠し田」 (要するに 脱税) が発覚し、柳生家は領地を没収されてしまい、没落。
彼はその後に隠居し、自分を 「石船斎」 と命名しているが、これは 「水に浮かべても沈んでしまう船」 に自分を例えた自虐的なものだったようだ。

しかし後年、「柳生新陰流」 の剣術を 徳川家康 に披露した際、徳川家の 「兵法指南役」 になって欲しいと懇願される。
彼はすでに引退していたため、息子の 「柳生 宗矩」 を推薦したが、これによって 柳生家 は領地を取り戻して復興、そして 「柳生新陰流」 は 徳川幕府 の元で大きく広まってゆく事となる。

柳生 又右衛門
「又右衛門」 とか言ってもわかりにくいが・・・ 徳川幕府の剣術指南役 「柳生 宗矩」 の事である。
父・柳生宗厳 によって創始された 「柳生新陰流」 の剣術を受け継ぎ、その父の推薦によって 徳川家 の兵法指南役(剣術の師範)となった。
剣術家 としてだけでなく、敵の情報を探る 「諜報役」 としても活動しており、西軍・豊臣側 と 東軍・徳川側 が戦った 「関ヶ原の戦い」 でも、父・宗厳 と共に諜報や徴兵などで活躍している。

その後、徳川幕府2代将軍 「徳川 秀忠」、3代将軍 「徳川 家光」 の 「兵法指南役」 として仕え、側近の一人となるが、彼は 剣術家 ではなく、参謀(アドバイザー)として活動していたようだ。
彼は 「たくわん」 を作った人として有名な 「沢庵和尚」 から 「禅」 の心を学び、「剣禅一如」 の心得を完成させ、「柳生新陰流」 の剣術を 治世の剣 「活人剣」 として位置づけた。
そのため、将軍 「徳川秀忠」 や 「徳川家光」 から絶大な信頼を寄せられたが、しかし彼の 「剣術家」 としてのエピソードはほとんど存在していない。

唯一、「大阪・夏の陣」 で、徳川本陣 が襲撃を受けたとき、「瞬く間に七人を斬り捨てた」 と記されているのみである。

柳生 宗章
「柳生宗厳」 の子で、「柳生宗矩(又右衛門)」の兄。 でもかなりマイナーな人。
柳生一族として剣と槍を学び、かなりの腕前だったという。

「関ヶ原の戦い」 で 徳川家康 が勝利し、「徳川幕府」 が開かれた後、彼は 「伯耆(現在の鳥取県)」 を支配していた 「中村家」 の家臣である 「横田 村詮」 という人の配下となっていたのだが、その 中村家 で内乱が発生し、中村家 の当主が 横田村詮 を襲撃、討ち取ると言う事件が起こった。
柳生宗章 はこの内乱に巻き込まれ、奮戦の末に討ち死にしている。
彼はその時、数本の刀と槍が全て折れるまで戦い、その後に敵中に突撃して散ったという。

エンリーケ
えー、直接関係ないと思うのですが・・・ いちおう、「モデル」がいる人なので、ちょっと説明。
「大航海時代」 の先駆けとなったポルトガルの王子 「エンリケ航海王子」 にちなんでいるようだ。

エンリケ航海王子 は ポルトガル の王子でありながら、探検心旺盛で、艦隊を率いて北アフリカに進出したり、大西洋に冒険船団を派遣して「マディラ島」 や 「アゾレス諸島」 という列島を発見するなど、後の 「大航海時代」 が始まるきっかけを作った人物である。
ポルトガルの 「リスボン」 の街にある 大航海時代 に活躍した航海者たちのモニュメントの中で、彼の姿は一番先頭に立っている。

信On の 「エンリーケ」 は、話しかけると 「大航海」 の素晴らしさを力説してくれる。
きっと、このゲーム の回し者に違いない・・・

茨木童子
えー、武将とか歴史上の人物ではなく・・・ 妖怪です。
平安京に出没したと言う鬼で、同じく平安京を荒らしまわっていた鬼 「酒呑童子」 の弟子。

摂津の国の、ある農家で生まれた子だったが、母の胎内に 16 ヶ月もいたため生まれた時から歯が生えており、さらに恐ろしい形相をしていて、母は睨まれたショックで死んでしまったという。
村人も気味悪がり、結局 捨てられ、その後に山に入り鬼となった。
その後、京の町や近隣の村を荒らしまわる 「酒呑童子」 の弟子となり、人を殺し、喰らい、女をさらい、金銀を奪った。

だが、帝の命を受けた 「源 頼光」 や 「渡辺 綱」 などの5人の将軍が鬼の討伐に向かう。
そして激戦の末、渡辺綱 が 名刀 「髭切」 で 茨木童子 の腕を斬り落とし、酒呑童子 も殺された。
茨木童子 はその後も逃げ延び、渡辺綱 と 「羅生門」 という場所で格闘したり、斬り取られた 腕 を取り戻すため、渡辺綱 の家に老婆に化けて訪れ、腕を奪って烈風と共に逃げたりしたという。

おそらく、茨木童子 の話は平安時代に京都に出没した山賊が、伝説化したものだと思われる。
「信長の野望オンライン」 では、陰陽師の奉行試験が 妖刀 「髭切」 を使って鬼女を退治する話になっており、この伝承にちなんだものになっている。
また、浅井家 の武将 「渡辺 了」 は、茨木童子 を倒した 「渡辺 綱」 の子孫である。
ドロップアイテム
茨木童子の右腕 = 特殊装備。 防御3、耐久32、名声3000。 腕力+7。

大物主
えー、こちらも武将とか歴史上の人物とかではないです。 「神」 です。
「出雲大社」 に奉られている 国津神(日本土着の神)で、別名 「大国主(オオクニヌシ)」 とも。
「大国主」 は 大国 を音読みすると 「ダイコク」 になるので、七福神 の 「大黒天」 ともされている。
「日本書紀」 や 「古事記」 などに記されている古代の神々の一人。

「イナバの白兎」 を助けたことで、国の統治者となることを予言されたが、そのために 80 人の兄から命を狙われる事になり 「スサノオ」 の神のいる黄泉の国へと逃れる。
そこでスサノオの出す数々の難題をクリアし、多くの 「神器」 を得て現世に戻り、兄を討伐して出雲を統治し 「スクナヒコナ」 という神と協力して国作りを行うが、「アマテラス」 などの 天津神 との戦いに負け、国を譲ったという。

一説によると、この話は古代に起こった 出雲地方 と 大和地方 の 統治者同士 の争いが神格化されたものだと言われており、また 「大物主」 は大陸から来て 出雲地方 を支配した、異民族だという説もある。
大物主 は戦いには敗れたが、その後は 「帝のために八百万(やおろず)の神を統べて国の統治を助けた」 とされており、出雲だけ 「神無月」 を 「神有月」 と呼ぶのも、そこで古代のサミットが行われていたからではないかと言われている。

なお、「信長の野望オンライン」 では ナーガ(蛇人間) のような姿になっているが、これは 「大物主」 が 「オオナムチ」 と言う名の 「蛇神」 ともされているためだろう。
戦闘時には、子の「コトシロヌシ」 や 「タケミナカタ」、「アジスキタカヒコネ」、妻の「カムヤタテヒメ」 などの他の神々と共に登場し、ゲームがおもいっきり 女神転生 になる。

普段は紀伊の 「三輪山」 に住むとされ、有名な陰陽師 「安倍 晴明」 はその存在を、「その秘儀を文字・数・音楽・舞・形状のすべてに象徴として隠した、知恵と魔術の秘密の神」 と表現したと言う。

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