本願寺家 武将名鑑

「信長の野望 Online」の「本願寺家」に登場する武将達のプロフィールを紹介しています。


下間 仲孝 下間 頼照 下間 頼廉 下間 頼竜 下間 頼旦 七里 頼周 下間 頼次 本願寺 実悟 下間 兵庫 順興寺 実従 栗津 元隅 性応寺 了寂 柴山 宗綱 綿識寺 勝慧 宇野 主人 興正寺 経尭 本願寺 顕如 本願寺 教如 光教寺 顕誓 興正寺 顕尊 願証寺 証恵 西光寺 専念
・未所属
鈴木 重泰
服部 友貞
杉浦 玄任
窪田 経忠

その他の武将・人物
畠山 義続畠山 義綱
遊佐 続光長 続連
藤原 千方
斎藤 実盛
本願寺 准如 超勝寺 実照 勝興寺 顕称 瑞泉寺 顕秀 下間 頼慶 下間 頼宗 下間 頼成 下間 光頼 下間 頼純

=本願寺家 当主=
本願寺 顕如 (ほんがんじ けんにょ) Lv55 大名 総大将
「長く続く戦乱によって諸国の民は、漆炭の苦しみを味わっておる・・・。
この乱世を終わらせねばならぬ。 その大事を成し得るのは御仏のみ。 阿弥陀如来にすがって、天下に平穏を呼び戻す・・・。 それが、この顕如の悲願である。」

浄土真宗 本願寺、第十一世法主。 「顕如」は法名。 名は「光佐」。
虐げられた民と仏法のため、仏敵・第六天魔王 「織田 信長」 を打ち倒すべく、戦国の世に一向一揆の嵐を巻き起こした武装宗教勢力 「本願寺」 の法主。
しかし信長の苛烈な弾圧の前に、彼らに御仏の加護は届かなかった。
本願寺 顕如、および本願寺家についての詳細は こちら をご覧下さい。
部隊アイテム
顕如上人檄文 = 特殊装備。 防御?。 気合+30、耐久力+5、知力+3、魅力+5。

=本願寺家 武将詰所 (小屋敷)=

鈴木 重泰 (すずき しげやす) Lv35 陰陽師
「・・・最近、当家の侍になりすまし、城内に侵入を図ろうとする輩がおると聞く。 修行も大事だが、お主の使命は殿をお守りすることだということを忘れるなよ。」

一向宗門徒(一向宗の信者)が多く、本願寺家 と友好関係にあった、紀伊半島南部 を支配した職人集団 「雑賀衆」 を束ねる家柄 「鈴木家」 の一族の一人。
一向宗の指導者として活動しており、本願寺家 の要請で「加賀(現在の金沢)」に赴任し、その地の門徒の指導を行っていた。
織田家 による 一向宗 の弾圧が始まると、織田軍に対抗するために城を建築し一向宗門徒 を率いて戦うなどしているため、軍事面の指導者でもあったようだ。

北陸に 織田家 の猛将 「柴田勝家」 が侵攻してきた際、その軍勢と戦い、討ち死にしている。


服部 友貞 (はっとり ともさだ) Lv35 野武士(?)
「勝機は己の手で掴み取るものだ。 気持ちの持ちようで、いかようにでもなるぞ。」

尾張南部の豪族(地方権力者)であり、一向宗門徒でもあった 「服部党」 を率いる頭目。
伊勢長島で起こった一向一揆に参加して、織田軍 を苦しめた。

彼は 「信長の野望オンライン」 では当初、尾張の国に一向宗門徒に囲まれるようにして登場していた。
しかし 2003年12月 に 本願寺家 が導入された際、尾張のNPC武将から 本願寺家 の武将に配置換えとなっている。
「配置換えになった武将」 は彼だけなので、とても珍しい存在と言えるだろう。
本願寺家 の所属になってレベルもアップしたが、合戦参加武将には今一歩届かなかったようだ。 今後のがんばりに期待しよう・・・?


杉浦 玄任 (すぎうら げんとう) Lv35 薬師
「戦いが長期に及ぶときは、相手の技を見切ることだ。 ・・・これが、なかなか難しいのだがな。」

本願寺家の坊官(坊主の役人)であり、「加賀一向一揆」 の軍事面の大将であった人物。
越前(福井県)の大名 「朝倉家」 が滅亡した後、越前 は 朝倉家 の旧臣 「朝倉 景鏡」 が治めていたが、彼は 朝倉家 の当主だった 「朝倉 義景」 を裏切り殺害した人物だった。
そのため 旧朝倉家 の家臣が彼に反発、朝倉家の元家臣の争いが起こる。
杉浦玄任 はこの争いに一向一揆の軍勢を率いて介入し、派遣されてきた 本願寺 の重臣である 「下間 頼照」 と共に 朝倉景鏡 を討伐、これにより結果的に越前は 「一向宗の国」 となった。

しかしその後、織田家 の軍勢が越前に侵攻し、徹底的な虐殺によって、越前の一向一揆勢力は壊滅してしまう。
その様は、まさに地獄絵図であったと言う・・・


窪田 経忠 (くぼた つねただ) Lv35 侍
「今は一致団結の時。 身内での争いが、最大の敵であると思え。」

加賀の国人(地元の領主)であり、元は加賀の豪族(地元の権力者)である 「安吉家」 の家臣だったのだが、その 安吉家 から城を譲られて、その地方の一向一揆の頭領となった。
その後、一向宗の勢力を統率し続けていたが、織田家の武将 「柴田勝家」 の侵攻軍が加賀に侵入してきた際、これと戦い、戦死した。


下間 頼純 (しもづま らいじゅん) Lv44 侍 敵先陣後詰
「勝機は己の手で掴み取るものだ。 気持ちの持ちようで、いかようにでもなるぞ。」

「下間家」 は代々、本願寺 の様々な事務・俗事などを務めていた家柄である。
法主 や 高僧 に従って 「本願寺」 という教団の運営に直接携わって来た、言わば側近とも言える一族だ。
下間頼純 は 「加賀(現在の金沢)」 の国で、一向宗の内乱が発生した時、その事態収拾のために 本願寺 より派遣された。
「信長の野望 オンライン」 では 加賀 は 本願寺 の本国になっているが、実際には 本願寺 の本部は当時、大阪の 「石山」 という場所にあった。

その後、加賀 に侵攻してきた 織田家 の武将 「柴田 勝家」 の軍勢と戦うが破れ、加賀 は 織田家 に制圧される。
しかし彼は 上杉家 の客将となり、その後も 織田家 に対し抵抗を続けた。

ちなみに・・・ 「頼純」 という名前は、パッと見では 「よりずみ」 と読みそうだが、彼らは 「お寺さん」 だったためか、名前を音読みにしていたようだ。
そんな訳で、彼は 「よりずみ」 ではなく、「らいじゅん」 らしい。


下間 光頼 (しもづま こうらい) Lv44 侍 敵先陣後詰
「戦で足が震えるのは、武者震いか、それとも・・・。」

本願寺の重臣 「下間仲考」 の祖父。
「坊官」(坊主の役人)として 伊勢 や 加賀 など、一向宗が勢力を持っていた地域に派遣され、その土地の代官を務めていたようだ。

彼も名前を 「みつより」 ではなく、「こうらい」 と音読みする。

=本願寺家 中門前=

下間 頼宗 (しもづま らいしゅう) Lv46 侍 敵中陣後詰
「勝機は己の手で掴み取るものだ。 気持ちの持ちようで、いかようにでもなるぞ。」

通称 「下間 丹後」。 「下間 兵庫」 の弟。
兄の 下間兵庫 と共に、大阪・堺の町に住んでいた有名な茶人 「津田 宗及」 の茶会にしばしば招かれている。
「津田 宗及」 は当時トップクラスの茶人であったため、その茶会に招かれたという事は、かなりの文化人だったと思われる。
また、法主・本願寺顕如 が 織田信長 に最初に送った使者も彼であったので、やはり礼節に長けていたのだろう。


下間 頼成 (しもづま らいせい) Lv44 侍 敵先陣後詰
「今は一致団結の時。 身内での争いが、最大の敵であると思え。」

代々 本願寺 で様々な事務・俗事などを務めた 「下間家」 の一人。
伊勢 で起こった 「長島一向一揆」 によって、伊勢の国を 一向宗門徒(一向宗の信者達)が支配した時に、本願寺 より派遣された 「坊官」 である。
「下間 頼旦」 と共に、伊勢に侵攻してきた 織田家 の軍勢と戦って 織田信長 の弟 「織田 信興」 を敗死させたという。

なお、加賀で一向宗同士の内乱が起こった時、その混乱の責任を取らされて殺されてしまった 「下間 頼盛」 「下間 頼秀」 という兄弟がいる。
信On では 「頼成」 「頼宗」 の2人が共に門を守っているのだが・・・ もしかすると、この 「頼盛」 「頼秀」 の兄弟と混同されているのかもしれない。

=本願寺家 奥屋敷=

下間 頼旦 (しもづま らいだん) Lv45 僧 与力 左翼中陣副将
「訓練と実戦をともに経験してこそ、一人前になれるというものだ。 焦るな、○○・・・。 ゆっくり成長していけばよいのだからな。」

伊勢で起こった 「長島一向一揆」 で活躍し、一揆軍 を幾度も勝利に導いた 本願寺 の誇る武闘派僧侶の一人。
伊勢 で 一向宗門徒 が蜂起した際、本願寺の本部から伊勢にあった 「長島 願証寺」 というお寺に派遣された防官である。

本願寺 と敵対関係にあった 織田家 の城を一揆勢を率いて攻撃し、城主であった 織田信長 の弟 「織田 信興」 を自害させ、城を落城させた。
これに怒った 信長 は配下の武将達を引き連れて 伊勢長島 に攻め込むが、紀伊半島南部の職人集団 「雑賀衆」 の鉄砲隊と共にこれを撃退し、織田家 の武将 「氏家 卜全」 も戦死させる。
その後も嵐に乗じて 織田家 の 滝川一益 の軍を奇襲し壊滅させるなどして、織田軍 を苦しめ続けた。

しかし度重なる 織田家 の侵攻の前に、矢尽き刀折れ、兵糧もなくなり、織田家に降伏してその配下になったと言われているが・・・
その後の消息は不明である。
部隊アイテム
一喝鉄扇 = 特殊装備。 防御2、耐久22。 耐久+3、魅力+3。


下間 頼慶 (しもづま らいけい) Lv46 僧 敵中陣後詰
「戦は気合だ! 先に退いた者が負けると思え。」

本願寺顕如の祖父の代から 本願寺 の重臣として活躍していた有能な坊官。
本願寺顕如の祖父 「本願寺 実如」 の退任騒ぎを交渉によって収束させ、さらに戦国時代初期に有力な勢力だった 美濃 の「土岐家」、近江の「六角家」 などとの交渉にあたるなど、外交面で活躍している。

温厚な性格で人当たりも良く、武田家や将軍家、織田家との交渉にも従事しているが、信On の彼のセリフはとてもそうは思えないセリフだ。


下間 頼照 (しもづま らいしょう) Lv44 僧 与力 先陣中翼
「南無阿弥陀仏。 ・・・うむ。御仏の名を唱えると心が落ち着くわい。 ・・・南無阿弥陀仏。」

越前(現在の福井県)における一向一揆軍の大将。
朝倉家 の滅亡後、越前では 朝倉家 の旧臣同士の争いが起こっていた。
そこに 一向宗門徒 も介入し、一向宗の勢力が大きくなってくる。
そこで 本願寺 は越前に彼を派遣し、一向宗門徒の統率を図る一方で、越前を完全に支配して 織田家 に対抗するための 「信長包囲網」 の一つとして押さえようとした。

下間頼照 は越前に赴任後、すぐに軍勢を率いて 朝倉家 の旧臣であり 織田家 の配下でもあった 「朝倉 景鏡」 を攻めて敗死させ、織田家 の残党を駆逐して越前を掌握する。
だが民に重税をかけたため民衆は彼に反発、一向一揆の中で、彼に対する一揆が起こったりもしている。
さらに 織田信長 の反攻を受けると敗戦を続け、さらに陽動作戦に引っかかって拠点を放棄したあげく、羽柴秀吉 や 明智光秀 などの 織田家 の家臣によって打ち破られ、最後は配下だった 元朝倉家の家臣 「朝倉 景健」 の裏切りによって殺害されてしまった。
そして越前では老若男女を問わず、3万人とも言われる一向宗門徒が 信長 の軍勢によって虐殺されたと言う・・・

戦国時代の初期、その布教活動で 一向宗 と 本願寺 の勢力を大きく拡大させた 「本願寺 蓮如」 は、京都を追われた後、越前を中心に布教活動を行った。
このため、越前や加賀などの北陸地方では、一向宗の影響力が根強かった。
信長の越前での大虐殺には、それも背景としてあったのだろう。
部隊アイテム
仏敵両断刀 = 薙刀。 攻撃41、耐久56。 気合+10、器用+4、水+1。
ドロップアイテム
仏敵成敗刀 = 薙刀。 攻撃41、耐久56。 気合+10、器用+4、水+1。
           Lv?、侍・僧・鍛・薬。


七里 頼周 (しちり よりちか) Lv46 僧 侍大将 中陣中翼大将
「門徒衆の力をひとつにできれば、悪逆非道の大名をも倒せよう・・・。 現に加賀一向一揆では、横暴な領主を追放し、門徒衆が支配する国を作れた。
御仏を信じ、互いの力を寄せ集めれば、天下を動かすことも夢ではない。 そうは思わぬか。」

元は 一向宗門徒 の武士だったという。
加賀(現在の金沢)で 一向宗 の勢力が大きくなった時に 本願寺 より派遣された 坊官 だが、当時の加賀の当主 「富樫 政親」 は、一向一揆の力を借りてその地位に着きながらも、その後に 一向宗 を弾圧しようとした。
これに怒った 一向宗門徒 は 富樫政親 を攻める事を決意し、七里頼周 をリーダーとして城を包囲して攻撃、富樫家 を滅ぼして加賀の国を制圧する。
こうして、加賀に一向一揆により支配された 「農民と一向宗の国」 が誕生した。

そして 七里頼周 は 加賀 の代官となるのだが、彼はその後、一向宗門徒から 「権力をカサに着て威張り散らしている」 と訴えられたりしている。
だがこれには自由を求めて一揆を起こした農民達と、彼らを一向宗の一員として統率する事を望んだ本願寺側の、考えの相違も原因にあったようだ。
その考え方の違いは次第に表面化していき、加賀における 一向宗門徒 と 本願寺坊官 との確執や、坊官同士の対立・内乱に発展していく事になる。

越前の 朝倉家 の滅亡後、七里頼周 は越前の 一向宗門徒 の要請を受けて出陣し、朝倉家 の旧臣であり 織田家 の配下になっていた 「富田 長繁」 を打ち倒すが、その後、織田家 の 「柴田勝家」 の北陸侵攻軍に破れて降伏、加賀は 織田家 によって制圧された。

一揆によって 「一向宗の国」 となった加賀が割とあっさり陥落したのは、内部での門徒と坊官の対立があったからだと言われている。
しかしそのためか、加賀 では 越前 や 伊勢 であったような一向宗門徒の大虐殺は起こらなかったので、逆に幸いな事だったのかもしれない。
部隊アイテム
阿弥陀陣羽織 = 特殊装備。 防御2、耐久24。 生命+40、耐久+4。


本願寺 実悟 (ほんがんじ じつご) Lv46 僧 目付 中陣右翼大将
「蓮如上人は、かくおっしゃた・・・。 「時節到来というのは、あらかじめ準備をした上で事が起こったときに使う言葉ぞ。 何一つ準備もせずに事が起こったときには使わぬ言葉なのだ」と。
日頃からの鍛錬を怠っていては、時節の到来などあり得ぬことを知るがよい。」

本願寺 第八世法主 「本願寺 蓮如」 の十男にして、23番目の子。
「蓮如」 は戦国時代の初期に 浄土真宗 を民衆に広め、戦国時代の中期に 「一向宗」 が大きな勢力を持つ基礎を作った人物である。

本願寺実悟 は当時の 本願寺 の様子を詳細に記した 「実悟記」 や 「蓮如上人一期記」、本願寺における作法をまとめた 「本願寺作法之次第」など、数多くの文献を残している。
もちろんそれらは現在でも貴重な歴史的資料だ。
92才という、当時としては非常に長生きだった人で、戦国時代における一向宗の隆盛と没落の全てを見続けた人物だと言える。
部隊アイテム
上人一期記写本 = 特殊装備。 防御3、耐久9。 知力+3、魅力+4、土+3。
ドロップアイテム
蓮如上人一期記 = 特殊装備。 防御3、耐久9。 知力+3、魅力+4、土+3。
               Lv15、全職装備。


下間 頼次 (しもづま らいじ) Lv45 僧 目付 中陣中翼副将
「・・・どうなるのであろうな。この国は。」

(詳細不明・・・?
下記の 「下間 兵庫」 の本名が 「下間 頼次」 であり、同一人物である可能性が高いのだが・・・ 他に同姓同名の人がいたのだろうか?
とりあえず、信On では別人として扱われているけど・・・ 単なるミスかも?)
部隊アイテム
煩悩解脱棒 = 棍棒。 攻撃23、耐久85。 気合+50、腕力+5。


下間 兵庫 (しもづま ひょうご) Lv45 僧 目付 中陣右翼副将
「訓練と実戦をともに経験してこそ、一人前になれるというものだ。 焦るな、○○・・・。 ゆっくり成長していけばよいのだからな。」

「下間 丹後(頼宗)」 の兄。 本名は 「下間 頼次」。
僧兵部隊の指揮官として活躍した 坊官(坊主の役人) で、実戦で活躍した僧兵であると同時に、茶の湯 に通じた茶人でもあった。
大阪・堺の町の豪商 「天王寺屋」 の主人であり、高名な茶人でもあった 「津田 宗達」 や 「津田 宗及」 らと親交が厚く、しばしば茶会に招かれている。
部隊アイテム
因果応報鞭 = 打鞭。 攻撃29、耐久81。 気合+60、腕力+2。


下間 頼廉 (しもづま らいれん) Lv44 僧 与力 先陣右翼
「ただ無心に御仏を信じる・・・。 そのことが最も大切じゃ。 信じる力が弱ければ、何事も成し得ぬ。 信じる力を合わせれば、山をも動かせよう。
御仏を信じよ。 ・・・南無阿弥陀仏。」

法主・本願寺顕如 の執事にして、本願寺 が 織田家 を相手に対等以上に戦った原動力となった人物。
僧とは思えない卓越した戦術眼を持ち、織田家 と敵対する以前から 一向一揆 を指揮して各地で戦っていたと言う。

本願寺顕如 は 織田信長 との戦いを決意すると、大阪にあった 「石山本願寺城」 という城に 僧兵 や 一向宗門徒 と共に篭城した。
信長 はすぐに 本願寺 を討伐する軍勢を差し向けるが、この 石山本願寺城 を巡る戦いで実際に大将として戦場で指揮を取ったのが 「下間 頼廉」 である。
彼は 一向宗門徒 や 援軍に来た 「雑賀衆」 を良く統率し、様々な戦術で 織田軍 を幾度も撃退した。
こうして、石山本願寺城 での 織田家 と 本願寺 の戦いは、そのまま7年も続く事となる。
もし彼が本願寺にいなかったら、戦国の歴史は少し違ったものになっていたかもしれない。

戦いの末、本願寺 が 織田家 に降伏した後は再び執事に戻ったが、後に 豊臣秀吉 に召しだされ京都の 本願寺町 の 町奉行 に就任、また 秀吉 の九州征伐の際には武将として参陣している。
部隊アイテム
仏罰戦斧 = 斧。 攻撃33、耐久53。 腕力+4、火+1、風+1。
ドロップアイテム
下間仏罰戦斧 = 斧。 攻撃33、耐久53。 腕力+4、火+1、風+1。
             Lv?、侍・僧・鍛・薬。


粟津 元隅 (あわつ もとずみ) Lv47 神主 侍大将 後陣左翼副将
「色々と、物騒な話も聞いておるからな。 外に出る際には、十分気をつけるのだぞ。」

「粟津 右近」 の名で知られる本願寺の武将。
一向一揆 の際には 雑賀衆 と共に鉄砲隊を指揮して戦ったと言う。
織田信長 の死後、本願寺 は 豊臣秀吉 と友好的な関係を築き、秀吉 が九州征伐に向かった際にも 本願寺顕如 の子 「本願寺 教如」 が挨拶に行くのだが、その際の旅の手はずなどを整えたと言う。
部隊アイテム
加賀の長弓 = 弓。 攻撃21、耐久36。 器用+4、風+4。
ドロップアイテム
加賀の重藤弓 = 弓。 攻撃21、耐久36。 器用+4、風+4。
             Lv?、侍・神。


瑞泉寺 顕秀 (ずいせんじ けんしゅう) Lv46 僧 敵中陣後詰
「訓練と実戦をともに経験してこそ、一人前になれるというものだ。 焦るな、○○・・・。 ゆっくり成長していけばよいのだからな。」

越中 瑞泉寺 第七世住職。
「瑞泉寺」 は越中(現在の富山県)における 一向宗 の総本山となった浄土真宗のお寺である。
瑞泉寺顕秀 は 一向一揆 の戦いのために城を築いて守りを固め、武田信玄 の要請を受けて 一向宗門徒 を率いて出陣し、上杉軍 の守備隊を撃退するなど 「武将」 として活躍した高僧である。

武田信玄 の死後は 上杉謙信 の上洛(京都への進軍)に呼応するが、上杉謙信 は上洛の準備中に病死。
その後、越中は 織田家 の北陸侵攻軍の攻撃を受け、瑞泉寺 の 一向宗門徒 は 織田家 の武将 「佐々 成政」 との戦いに敗れ制圧された。
瑞泉寺顕秀 はその後も 一向宗門徒 を指揮して各地を転戦していたようだが、本願寺 は 織田家 に降伏し、その後を継いだ 豊臣秀吉 と友好関係を築いたため、秀吉 の命令を受け、越中の 瑞泉寺 に戻っている。

=本願寺家 城内=

下間 仲孝 (しもづま ちゅうこう) Lv44 僧 与力 先陣左翼
「蓮如上人さまは、こう仰せられたそうです。
「人は嘘をつかぬよう努めることをよきことと思うておるが、心に嘘いつわりなきようにしようと努める人はそれほど多くはない」
まこと、そのとおりですね。 心に嘘いつわりなき生き方。 叶うことならしてみたいと、思わずにはおれませぬ。」

越中一向一揆の総大将 「下間 頼照」 の子。
「信長の野望オンライン」 では親子で 本願寺 の先陣を守る。
法主・本願寺顕如 が 「石山本願寺城」 で篭城した時には、「下間 頼廉」 「下間 頼竜」 などの下間一族と共に、攻め寄せてくる 織田家 の軍勢と戦った。
長い篭城戦の末、本願寺 が 織田家 に降伏する事になった際には、下間頼廉、下間頼竜 と共に、法主・本願寺顕如 の代理として和平の書状に血判を押している。

その後、信長 と和平した 「本願寺 顕如」と、徹底抗戦を訴えた 顕如 の子 「本願寺 教如」 の確執によって 本願寺 が分裂すると、下間頼廉 と共に 本願寺顕如・准如 の 「西本願寺」 に所属した。

織田信長 の死後、彼は 「能楽」 の才能を生かし、「素周」 という芸名で 能楽家 として活動し大成している。
秀吉 や 家康 にも 能 を披露・指導し、能楽の教本 「童舞抄」 などを後世に残している。
部隊アイテム
童舞抄写本 = 特殊装備。 防御3、耐久8。 器用+3、知力+3。
ドロップアイテム
童舞抄 = 特殊装備。 防御3、耐久8。 器用+3、知力+3。
        Lv11、全職装備。


宇野 主人 (うの もんど) Lv47 陰陽師 侍大将 後陣右翼副将
「いずれ誰かの手によって、乱世に終止符が打たれるだろう。 それがしは、それが顕如様に違いないと・・・ 信じているだけだ。 お主もそうであろう?」

本願寺の 坊官 として、一向宗が盛んだった各地に派遣されていた人物だったようだ。
そして彼は詳細な 「日記」 を付けており、それを後世に残している。
そこには 一向一揆 の衰勢や、揺れ動く 本願寺 の事情、そして 織田信長 が台頭し、豊臣秀吉 が天下を治め、徳川家康 が幕府を開くまでの戦国時代の激動期が、彼の視点から描かれている。

その日記 「宇野主人日記」 は現在にも伝わっており、戦国時代を知る貴重な歴史資料となっている。
部隊アイテム
宇野主人日記写本 = 特殊装備。 防御3、耐久8。 器用+4、知力+4。
ドロップアイテム
宇野主人日記 = 特殊装備。 防御3、耐久8。 器用+4、知力+4。
              Lv13、全職装備。


柴山 宗綱 (しばやま むねつな) Lv47 侍 侍大将 後陣中翼副将
「日々の鍛錬を怠るなよ。 いざというときに後れを取るようじゃ、話にならんからな!」

「利休七哲」 の一人。 通称 「柴山 監物」。
「利休七哲」 とは 織田信長 の茶頭(筆頭茶人) にして、「天下一の茶人」 と言われる 「千利休(せんのりきゅう)」 の、特に優れた7人の弟子の事で、つまり彼は当時最高クラスの茶人であったようだ。
同じ 利休七哲 には、蒲生氏郷 や 細川忠興 など、当時の一級の武将も名を連ねている。

しかし彼は、その 「利休七哲」 の中で最も謎の人物である・・・
武勇に長け、同じく 「利休七哲」 の一人であったと言われる 「荒木 村重」 という武将の家臣だったようだが、荒木村重 が 織田家 から離反し、そして降伏した後に 織田家 の家臣となり、その後は 秀吉 に仕えたと言われている。
しかし 「信長の野望オンライン」 でそうであるように、本願寺家の一員としてもその名が見えるようだ。

利休七哲 の中でも 千利休 とは特に親交が厚かったようだが、にも関わらず詳細が伝わっていないのはなぜなのだろうか・・・?
もちろん、出身、晩年、共に不明である。
部隊アイテム
阿弥陀帯 = 腰装備。 防御12、耐久24。 腕力+4、耐久力+4。


勝興寺 顕称 (しょうこうじ けんしょう) Lv48 僧 敵後陣後詰
「・・・何事も情熱を持って打ち込めば、必ず事はうまく運ぶものだ。 つらくとも、最後まであきらめるな。○○。 努力も、才能のうちぞ。」

「勝興寺」 というお寺の戦国時代の住職。
「勝興寺」 は越中(現在の富山県)における 一向宗 の総本山となったお寺で、同じ越中の 一向一揆 の拠点であった 「瑞泉寺」 と双璧を成した。
その寺院の周囲には堀や壁が張り巡らされ、要塞化していたという。
「瑞泉寺」 と共に越中の 一向一揆 を指揮して 反一向宗勢力 と戦い、最盛期には 越中の西側から加賀(現在の金沢)にかけての広い範囲を勢力下にしていたという。
勝興寺 の勢力は 本願寺 と 一向宗 の一部ではあったが、正確には 本願寺 に従属する独自勢力とも言える存在だった。

その後、上洛(京都への進軍)をする 武田信玄 を援護すべく、「瑞泉寺」 や 越中の豪族(地方権力者)である 「神保家」 などと共に 上杉家 を攻撃し、武田家 の上洛を背後から援護する。
だが 武田信玄 は病死、そのため今度は 上杉謙信 に協力するが、謙信 も上洛の準備中に急死し、本願寺 は 織田信長 からの反撃を受け始める。
勝興寺の兵は 本願寺家 の本拠地となっていた大阪の 「石山本願寺城」 を援護するために出陣するが、その最中に 勝興寺 は 織田軍 の奇襲を受け炎上。
越中の一向宗勢力は 織田家 の 北陸侵攻軍 に破れ、本願寺 も 織田家 に降伏し、一向一揆 の戦いは終わった。

その後、越中 の城主となった 織田家 の「佐々 成政」によって 勝興寺 は再建され、江戸時代 には 加賀 を統治した 「前田藩」 とも親密になり、再び寺院として復興していくこととなる。


下間 頼竜 (しもづま らいりゅう) Lv46 僧 与力 中陣左翼大将
「先頃、わしは堺の津田宗達どのを招待して茶会を催した。 その茶会のことを、宗達どのが「天王寺屋会記」に書かれたらしい。 茶の湯巧者の宗達どのが記された、茶会の記録じゃ。 一度、拝見させていただきたいものよ。」

本願寺 に仕える一族 「下間家」 の 筆頭 とも言える存在で、本願寺家における重鎮のような存在だった。
法主・本願寺顕如 が 織田信長 との戦いを決意し、「石山本願寺城」 に篭城すると、「下間頼廉」 「下間仲考」 と共に 一向宗門徒 を指揮して 織田軍 と戦う。
長い戦いの末、本願寺 が 織田家 に降伏する事になった時は、本願寺 の代表として 下間頼廉・仲考 と共に書状に血判をした。

信長 と和平した 「本願寺 顕如」と、徹底抗戦を訴えた 顕如 の子 「本願寺 教如」 の確執によって 本願寺 が分裂した際は、下間頼廉・仲考 とたもとを分かち、本願寺 教如 の 「東本願寺」 に所属する。
下間家 として双方を立て、両方に 下間一族 が仕えるよう配慮したのだろう。

茶人としても有名で、セリフにある通り 大阪・堺 の豪商 「天王寺屋」 の主人であり高名な茶人でもあった 「津田 宗達」 の茶会に幾度も出席、また彼らを招いて茶会を開催する事もあった。
津田宗達 の子 「津田 宗及」 は、織田信長・豊臣秀吉 にも仕え、明智光秀・徳川家康 とも親交があり、秀吉 の時代には 茶頭(茶人の筆頭)になっているという、千利休 と並ぶトップの茶人である。
セリフに出てくる 「天王寺屋会期」 は 津田宗達・宗及 の2代によって記された茶会の記録であり、茶道の根本の教本であると同時に、当時の歴史が解る一級の資料だ。
部隊アイテム
御仏の長槍 = 槍。 攻撃44、耐久60。 気合+40、火+1、風+1。
ドロップアイテム
御仏の朱槍 = 槍。 攻撃44、耐久60。 気合+40、火+1、風+1。
            Lv11、侍・僧・鍛・薬。


超勝寺 実照 (ちょうしょうじ じつしょう) Lv48 僧 敵後陣後詰
「訓練と実戦をともに経験してこそ、一人前になれるというものだ。 焦るな、○○・・・。 ゆっくり成長していけばよいのだからな。」

「超勝寺」 という、いかにも無敵そうな名前のお寺の住職。
「超勝寺」 は元は越前(現在の福井県)にあったお寺なのだが、「加賀大小一揆」 と呼ばれる 一向宗同士 の内乱に敗れて焼失し、加賀に移転した。
加賀に再建された 超勝寺 は山上に築かれ、城壁に覆われ、正面には巨大な堀、背後と側面には崖という、もはや 「城」 とも言えるものだったという。
もちろん 一向一揆 の重要な拠点の一つであり、本願寺 の直系の子孫が代々住職を務める位の高い寺院で、大きな支配力を持ち続けていた。


順興寺 実従 (じゅんこうじ じつじょう) Lv48 僧 奉行 後陣左翼大将
「この実従は蓮如上人の二十七番目の子、最後の子よ。 上人は、実徒の生まれた翌年にご逝去なされたのじゃ・・・。 わしは、父である上人を憶えてはおらぬ。 されど、上人のお言葉は、我が心に深く沁み込んでおる。」

本願寺の 「中興の祖(中期に栄えさせた人物)」 と言われる 本願寺 の第八世法主 「本願寺 蓮如」 の 27 番目の子。
大阪にあった 「順興寺」 というお寺の住職となり、「私心記」 と呼ばれる日記を書き残した。
これは現在、戦国時代を知る重要な資料となっている。

「本願寺 蓮如(蓮如上人)」 は、戦国時代の初期に北陸地方を中心に浄土真宗の布教活動を行った人物で、旅をしながら各地に寺院を建立していった。
そして ひらがな で書かれた教本などを使い、解りやすく民衆に浄土真宗の教えを広めて行ったため、その教えは一気に日本中に広がっていく事になる。
そしてその信者は 「一向宗」 という形で戦国時代に爆発的に増加していった。

本願寺蓮如 は非常に子だくさんで、85 才で死去するまでに 27 人もの子を残している。
セリフにある通り、順興時 実従 は彼の最後の子だが、生まれた翌年に 蓮如 が死んだという事は、なんと 84 才で彼を作った事になる。
まったくもって (ピーー) (以下自主規制)
部隊アイテム
私心記写本 = 特殊装備。 防御3、耐久?。 生命+60、知力+6。


興正寺 経尭 (こうしょうじ きょうぎょう) Lv50 僧 小荷駄隊守将
「<陣形の書>の使用により、戦の明暗は大きく分かれる。 合戦では、常に冷静に周囲の状況を見定めることだ。 ・・・周りと足並みをそろえねば、陣はすぐに落されるぞ。」

京都の本願寺のお寺 「興正寺」 の住職。
「興正寺」 は元々、浄土真宗 の中では 「本願寺」 とは別の一派であり、一時は 本願寺 を凌ぐほどの勢力を持っていた。
しかし本願寺第八世 「本願寺 蓮如」 の布教活動によって日本全国に浄土真宗(一向宗)が広まると、「興正寺」 は 本願寺 の活動に呼応して帰属、再び 本願寺 の一院となった。
そのため 「興正寺」 は、本願寺 の寺院の中でも特別な存在だった。

興正寺経尭 はその 興正寺 の戦国時代中期の住職で、一向一揆 の隆盛期に活動していたが、本願寺 が 織田信長 と敵対した頃にはすでに引退している。

ちなみに 「興正寺」 は現在、浄土真宗における 本願寺派 とは別の 「興正派」 という宗派になっているようで・・・ やはり、今でも特別な存在のようだ。
部隊アイテム
興正寺陣羽織 = 特殊装備。 防御3、耐久?。 生命+60、耐久力+6。


綿識寺 勝慧 (きんしょくじ しょうえ) Lv48 僧 奉行 後陣右翼大将
「親鸞聖人は「明日ありと思う心のあだ桜、夜半に嵐の吹かぬものかは」と歌に詠まれたそうじゃ。 明日などと申しても、人は儚いもの。 今日を無駄にせぬことが大切ということじゃな。
今生きている、この瞬間を大切にせよ。 それが御仏の教えじゃ。」

「錦識寺」 は元は 比叡山・延暦寺 の僧が建立し、「毘沙門天」 を祭っていたお寺だったが、浄土真宗の始祖である 「親鸞」 がここに滞在したことから、以後は浄土真宗(一向宗)の道場となった。
おかげで 「阿弥陀如来像」 がご神体となり、毘沙門天 は脇役になってしまったようだ。
戦国時代、比叡山の僧侶 と 本願寺の門徒 は対立関係にあり、その争いで多くの寺院が焼失しているが、ここは 比叡山 の僧が建立した 本願寺 の寺院 という特殊な立場だったためか、その戦火を免れている。

現在は 浄土真宗 の各流派 「真宗十派」 の1つである 「木辺派」 の総本山となっており、本願寺派 とは別の浄土真宗のお寺である。
部隊アイテム
御仏の錫杖 = 杖。 攻撃36、耐久?。 器用さ+6、知力+6。


性応寺 了寂 (しょうおうじ りょうじゃく) Lv48 僧 奉行 後陣中翼大将
「蓮如上人は、かくおっしゃられた・・・。 「思いがけぬ人が過分の贈物を持ってきたときは、必ずわけがある」と。
「贈りものを受ければ、うれしく思うのが人の常。 頼みごとがあるとき、人はそのようなことをするものである」とな。 まさしく、その通りよのう。」

「性応寺」 は紀伊半島の南部にあった浄土真宗のお寺である。
つまり戦国時代には、本願寺 と友好関係にあった 「雑賀衆」 の勢力下の地域にあった一向宗のお寺であり、雑賀衆 と深い関係にあったようだ。
雑賀衆 は 一向宗門徒 が多く、大阪 や 伊勢 での 織田軍 との戦いに本願寺側の援軍として参戦し、大きな戦力となっているため、「性応寺」 はそのパイプ役として重要な役割を果たしていただろう。

性応寺 了寂 は、その 「性応寺」 の戦国時代初期から中期にかけての住職だったようだ。
部隊アイテム
性応寺の半袈裟 = 特殊装備。 防御3、耐久?。 気合+60、魅力+6。


願証寺 証恵 (がんしょうじ しょうけい) Lv50 僧 中老 本陣四天王
「念仏を唱える者は皆、同胞ぞ。 御仏の前にはみな平等なのじゃ。」

「願証寺」 は 伊勢 の 長島 という場所で起こった最大規模の一向一揆 「長島一向一揆」 の中心となった寺院である。
寺の周囲には 14 もの城や砦が築かれ、要塞化されていた。
願証寺証恵 はその 「願証寺」 の住職で、法主・本願寺顕如 の親類でもあった。

織田信長 は自国に近い 「伊勢」 で規模を拡大しているこの 一向一揆 を鎮圧しようと軍を進めるが、長島 の 一向一揆側 は 本願寺 より派遣された 「下間 頼旦」 を大将として 織田軍 の城を先手を打って攻撃、信長 の弟 「織田 信興」 を敗死させ、城を落城させる。
怒った 信長 は 伊勢 に侵攻してくるが、願証寺 の 一向一揆 は 「雑賀衆」 の援護も借りてそれに頑強に抵抗、逆に何度も 織田軍 を撃退した。
しかし 織田信長 の本格的な攻略戦を受けると 一向一揆側 は徐々に追い詰められていき、ついに中心拠点だった 「長島城」 も落城。
願証寺 証恵 は入水自殺して没し、一切の降伏を許さなかった 信長 は、一向宗門徒2万人をここで虐殺する。
そしていつしか織田信長 は、「第六天魔王」 と呼ばれるようになった・・・

ちなみに、「戦国無双」 の 「長島一向一揆」 のステージに登場する 「証恵」 という人は、この人の事だろう。
部隊アイテム
仏敵粉砕棒 = 棍棒。 攻撃86、耐久?。 気合+30、腕力+8、耐久力+3。


光教寺 顕誓 (こうきょうじ けんせい) Lv50 僧 中老 本陣四天王
「本願寺中興の祖、第八世蓮如上人は延暦寺衆徒に追われて、越前吉崎へ移られました。 しかし、そこから本願寺を大きく発展させたのです。
蓮如上人は、誰にでも平等な態度で接し、わかりやすく一向宗の教えを説かれました。 そのおかげで、多くの者が御仏に帰依したのです。
上人さまのことを考えるたびに、頭の下がる思いがするのですよ。」

「光教寺」 は元は加賀にあった浄土真宗(一向宗)のお寺だった。
しかし、格式の高い 「超勝寺」 というお寺がその地域での支配力を強めるため、加賀にあった小規模な寺院の権力を無視し始める。
これに反発した 「光教寺」 などの加賀の寺院は同盟を結び、「超勝寺」 との敵対を宣言した。
こうして、一向宗同士の内乱 「加賀大小一揆(享禄の錯乱)」 が勃発する。

戦いは 「超勝寺」 側が優勢で、加賀の寺院は次々と陥落していき、「光教寺」 が加賀の寺院連合の最後の砦となった。
そこで 光教寺 顕誓 は、越前の 「朝倉家」 に援軍を要請する事を決意、こうして 朝倉家 の名将 「朝倉 宗滴」 が出陣する。
朝倉家 の援軍によって形勢は逆転し、光教寺 は敵対する寺院を次々と焼き討ちして、「超勝寺」 もついに陥落・炎上 した。
しかし東の 越中方面 では、「勝興寺」 などの寺院勢力との戦いに敗れて戦線が維持できなくなり、この動きを見て 朝倉軍 も撤退。
光教寺 顕誓 はついに戦いの継続を断念して、朝倉家 に亡命する。
そして内乱を拡大した 「光教寺」 を 本願寺 の本家は許さず、光教寺 は廃絶された。

後年・・・ 光教寺 顕誓 はその罪を許され、本願寺に復帰する。
お寺の 「光教寺」 はもう存在しなかったが、光教寺 顕誓 は長老格の高僧として、本願寺 のアドバイザー的な役割を担った。
そして、「反故裏書」 と呼ばれる本願寺の歴史を記した書物の原本を書いたと言われている。
原本と言っても、「反故」 とはいらなくなった紙の事で、つまり 「反故裏書」 は、いらなくなった紙の裏に書いたメモのようなものだった。
それは 「物を大切にする」 という事を意味しているとも言われている。
部隊アイテム
反故裏書写本 = 特殊装備。 防御4、耐久?。 器用+3、知力+8、魅力+3。


興正寺 顕尊 (こうしょうじ けんそん) Lv50 僧 中老 本陣四天王
「後悔はしても、反省をせぬようでは前には進めぬぞ。 一つ一つの戦いを大事にし、そこから何かを学び取ることだ。」

法主 「本願寺 顕如」 の次男。 つまり 顕如 の子である。
「興正寺」 は戦国時代の初期まで 本願寺 よりも大きな勢力を持っていた 浄土真宗 のお寺であり、本願寺 の寺院としては総本山に次いでナンバー2の高い格式であったと言える。
だが、京都にあった 「興正寺」 は戦火によって焼失してしまったため、「石山本願寺城」 のあった大阪に新たに再建され、彼はそこの住職となった。

本願寺 の 本拠地 も元々は京都にあったのだが・・・ これも、「比叡山・延暦寺」 の僧兵の襲撃によって焼失し、本願寺の 「中興の祖」 と言われる 「本願寺 蓮如(蓮如上人)」 も京都での布教が出来なくなり、北陸に脱出した。
本願寺 が当時、大阪 と 加賀 を本拠地としていたはこのためである。
戦国時代の終わり頃、「本願寺」 は 「興正寺」 と共に京都に戻っている。

「比叡山・延暦寺」 と言えば、戦国時代に 織田信長 の焼き討ちにあい、寺社仏閣が全て焼き払われ、僧侶 3000 人が殺害された事で有名だが・・・
実はその 比叡山 も、それ以前に何度も他の寺社を焼き討ちしていた。
比叡山 は朝廷(天皇家)から 京都の守護 の役目を受けていた格式の高い寺院だったが、当時の京都は 「浄土真宗(一向宗)」 を始めとする様々な宗派の中心でもあり、「天台宗」 の 比叡山・延暦寺 の立場は低下していた。
そのため、それを快く思わない 比叡山 の僧兵達は、それを実力で排除しようとして、本願寺 など他の宗派の寺院を襲撃し、焼き討ちしていたのだ。
当時 は宗教団体にとっても 「戦国時代」 だった訳である。

織田信長 が比叡山を焼き討ちしたのは、それに対する強烈な 当て付け だったのかも知れない。
それとも、御仏が与えた因果応報だったのだろうか・・・?
部隊アイテム
興正寺の宝錫 = 杖。 攻撃38、耐久71。 器用+7、知力+7。


西光寺 専念 (さいこうじ せんねん) Lv50 僧 中老 本陣四天王
「後悔はしても、反省をせぬようでは前には進めぬぞ。 一つ一つの戦いを大事にし、そこから何かを学び取ることだ。」

「西光寺」 という名前のお寺は全国に多数存在するので、いったいどの 西光寺 の事を指しているのかよく解らないのだが・・・
とりあえず 本願寺 に関係してそうな 西光寺 は、大阪にあった元 「真言宗」 のお寺で、本願寺 蓮如 が 浄土真宗の寺に改めた 「横玉山 西光寺」 と、加賀にあった お寺で、本願寺 蓮如 のいとこが住職となった 「室江 西光寺」 がある。
でも、「西光寺」 ってありがちなお寺の名前なので、もっとあるかもしれない。

有名な 「西光寺」 には、「浄土宗」 お寺で、織田信長 の城 「安土城」 で、信長 と大勢の僧侶の前で 「法華宗」 の僧侶と 「安土問答」 と言う 宗論(宗教論議) を戦わせた 「西光寺 貞安」 という人のお寺があるが・・・
これとは宗派が違うので別だろう。
(要するに、よくわかりません・・・)
部隊アイテム
西光寺の宝珠 = 特殊装備。 防御?、耐久?。 気合+70、魅力+7。


本願寺 教如 (ほんがんじ きょうにょ) Lv50 僧 中老 本陣軍師
「諸国の群雄の中には、平然と裏切りを行い、信義を守らぬ罰当たりどもがいる。 うかうかと、極悪人どもの言葉に乗せられては、仏法の破滅を招くことになりかねん。
人を疑うことは、阿弥陀如来の御心に沿わぬやもしれぬ。 が、仏法の破滅を避け、門徒を救うためには、極悪人に欺かれてはならぬ。
仏敵は断じて許してはならぬのだ。」

法主・本願寺 顕如 の長男。 「教如」は法名。 名は「光寿」。
「東本願寺」 の創始者であり、すなわち 浄土真宗 東本願寺 第一世法主。

本願寺顕如 は 一向宗門徒 と共に 織田信長 と長い戦いを繰り広げたが、徐々に追い詰められ降伏を決意し、本拠地であった 「石山本願寺城」 から退去した。
しかし、信長 に降伏するのを良しとしなかった者達もいた。
その一人が 本願寺 顕如 の跡継ぎ 「本願寺 教如」 であり、彼は徹底抗戦を主張して 父・顕如 が城から退去した後も 「石山本願寺城」 に抗戦派の門徒と共に立てこもる。
だがもちろんこれに 本願寺 顕如 は怒り、教如 を勘当処分にしてしまう。
結局この騒ぎは、教如 が 織田軍 によって城から追い出された後、坊官たちが必死で双方を説得して、一応収束するのだが・・・
こうして父と子の確執が起こり始める。

その後、本願寺 顕如 は引退し、本願寺 教如 が本願寺の 第12世法主 に就任するのだが・・・ 間もなくして 本願寺 顕如 は死去。
その際に 顕如 は 「本願寺 は 本願寺 准如(顕如の三男) に継がせる事」 と遺言したため、結局これにより 教如 は法主としての地位を弟の 「本願寺 准如」 に譲る事になり、自らは京都に隠居する事になった。
だが、徹底抗戦 を訴えた 教如 を支持する者は多く、また隠居させられた 教如 を哀れむ者も多かった。

さらにその後、豊臣秀吉 が死去し、天下分け目の 「関ヶ原の戦い」 により 徳川家康 の天下となると、本願寺教如 は 家康 に接近し、自らの寺院の設立を願い出る。
そして 家康 は 京都 の土地を寄進し、教如 はそこにもう1つの 「本願寺(東本願寺)」 を建立、これに各地の 門徒 や 寺院 が賛同し、こうして 「西」 と 「東」 の2つの 本願寺 が誕生、本願寺 は2派に分裂する事となった。
この 本願寺 の分裂は今もそのままであり、現在は 西本願寺 が 「浄土真宗 本願寺派」、東本願寺 が 「真宗 大谷派」 となっている。

家康 は当初、教如 に元の本願寺に戻るよう進めていたのだが、教如 はそれを断り、新たな 寺社 の建立を望んだ。
彼が 本願寺 を分裂させたその真意は、何だったのだろうか・・・?
部隊アイテム
教如書状 = 特殊装備。 防御?、耐久?。 気合+80、知力+3、火+3。


本願寺 准如 (ほんがんじ じゅんにょ) Lv48 僧 敵後陣後詰
「・・・衆人団結して事に当たれば、遂げざることなし。 他者の手を借りることは恥ではない。 皆で、協力して殿をお守りするのだぞ。」

法主・本願寺 顕如 の三男。 「准如」は法名。 名は「光昭」。
浄土真宗 本願寺、第十二世法主。

長年戦ってきた 「織田信長」 への降伏を巡り、講和 を決断した 「本願寺 顕如」 と、徹底抗戦 を訴えた顕如の長男 「本願寺 教如」 が対立する。
一度は 本願寺教如 が 顕如 の後を継いで 「法主」 となるのだが、本願寺 顕如 がその死の際、「三男の 准如 に法主の地位を与える事」 と遺言したため、再び本願寺では 顕如 の跡継ぎを 教如 にするか 准如 にするかで揉めてしまう。

そしてこのままでは内乱の恐れもあると考えた 「豊臣秀吉」 は、本願寺 顕如 の遺言通りに事を進ませるべきだと考え、本願寺准如 を法主とし、本願寺 教如 は隠棲するべきだとして、准如側に便宜を計った。
本願寺顕如 と 豊臣秀吉 は友好的な関係にあり、当時の本願寺の寺院も 秀吉 が建造して寄進したものだったため、本願寺側はこれに従う事となり、教如 は 准如 に法主の地位を譲って隠居。
こうして、本願寺准如 が正式に(西本願寺)第十二世・法主 となる。

だが、隠棲させられた 「本願寺 教如」 に同情する 門徒・坊官 は多く、そのため 本願寺教如 が 徳川家康 に接近し、その援助を受けて新たな寺院を建立すると、そちらに従うものも多く出た。
こうして、本願寺は 東西 の2派に分裂し、現代まで至る事となる。

本願寺側は、この東西分裂は 秀吉・家康 の策謀だとしている場合が多い。
しかし実際には、根本の原因はやはり 本願寺自体 にあったと言えるだろう。
そして現在、浄土真宗は 「真宗十派」 と呼ばれる 10 の派閥に分かれている。

ちなみに、余談だが・・・ 西本願寺の総本山のお寺は、現在 「世界文化遺産」 に登録されている。

=加賀・伊勢 のその他の人々=

畠山 義続
「畠山家」 は 室町幕府 における 「四職」 と呼ばれた家柄の1つで、「斯波家」 「細川家」 などと共に戦国時代以前には幕府のトップクラスの重臣として、日本の政治に直接関わってきた家だった。
戦国時代にはすでに名ばかりの存在となっていて、その権威は失墜していたが、それでも能登地方の守護職にあり、「神保家」 などの周辺の豪族を(名目上)従える立場にあった。

だが、彼が 畠山家 の跡を継いで当主になっても、まだ若かった事もあって実権はなく、政治は筆頭家老の 「遊佐続光」 の主導で行われていた。
しかしこの 遊佐続光 の政治はうまく行かず、おまけに反対派の粛清なども始めたため、「長続連」 や 「温井総貞」 などの他の家臣が反発して内乱が発生!
遊佐続光 が追放されて内乱が鎮圧されたと思ったら、今度は 一向一揆 による内乱が発生!
それが終わったと思ったら、遊佐続光 が復帰を狙って兵を率いて進入してまた内乱が発生!
とにかく政治情勢はボコボコだった。

そんな訳で 当主・畠山義続 に権威はなく、「畠山七人衆」 と呼ばれる家臣達によって国が運営されていく事になる。
こういう状況が嫌になったのか(?)、畠山義続 は隠居して 息子・畠山義綱 に家督を譲り、自分は後見役(アドバイザー的な立場)となった。
しかし以後も家臣同士の いざこざ・内乱 は続き、それに乗じて 畠山義続・義綱 親子は主君としての権力復帰を狙うが、逆に家臣達から追放されてしまう。
その後は近江に逃れ、異国の地で寂しく没したようだ・・・
なお、「畠山家」 は、本家の 「信長の野望シリーズ」 では、定番の大名家である。
ただし、弱小国の定番でもあるけど・・・

畠山 義綱
畠山義続 の子。 義続 の跡を継いで 「畠山家」 の当主となる。
しかし 畠山家 はすでに 「畠山七人衆」 の合議による統治となっており、主君に権力はなかった。
だがその 七人衆 の間で確執が生まれ、その中で特に力を持っていた 「遊佐続光」 と 「温井総貞」 が対立し、内乱が発生する。
畠山義綱 は 温井総貞 と共に、遊佐続光 の反乱軍と戦ってこれを撃退するが、その結果は 温井総貞 がさらなる権力を持っただけだった。
そこで 義綱 は、「連歌の会をやるから」 と言って 温井総貞 を誘い出し、これを暗殺。
そして反乱を起こした 温井総貞 の旧臣たちを 上杉家 の援軍を受けて撃破し、権力を掌握する。
さらに 将軍家 に使者を送り、近隣の 「神保家」 や 「上杉家」 とも外交を重ね、内乱も抑えていったん政情を安定させた。
しかし、彼が強い権力を持った事に家臣達は反発し、その中でも特に力を持っていた 「長続連」 や、重臣に復帰していた 「遊佐続光」 によってクーデターが発生!
これによって 畠山義綱 は追放され、近江に逃れる事となり、当主の座を奪われた。
その後、上杉家 の協力を受けつつ何度も復帰の機会を伺うが、家臣の離反などもあってことごとく失敗し、そのまま異国の地で没している。
後年、秀吉の家臣になったという説もあるようだ。

遊佐 続光
畠山家 の 内乱発生源。 まさに能登半島のトラブルメーカー。
「畠山家」 の筆頭の重臣だったのだが、政治の失敗 と 反対派の粛清 によって他の家臣から反発を受け、内乱を発生させてしまう。
これに敗れて一時追放されるが、その後、兵を集めて復讐と復帰のために能登に侵攻し、再び内乱の原因を作る。
結果的に畠山家の重臣に復帰して 「畠山七人衆」 の一人となるが、今度は同じ 七人衆 の一人 「温井総貞」 と対立し、またも内乱に発展。
再び敗れて追放されるが、温井総貞 が暗殺されると再び畠山家の重臣に復帰する。
ところが、主君の 畠山義綱 がワンマン的に国の運営を行い始めると、それに反発して 「長続連」 と共にまたまた内乱を発生させ、畠山義綱 を追放してしまう。
そして 義綱 の子であった 「畠山 義慶」 を主君として擁立し、再び家臣主動での政治を開始。
その後は 上杉家 との友好策などを推進しているが、以後も謀略や暗殺に手を染めた。
ここまで内乱を起こしまくっているのに、その度に家臣に復帰できている所が、この人の不思議なところだ。

長 続連
なんだかとっても長そうな名前の人。 能登 「畠山家」 の重臣。
能登の 「守護代」 という地位にあり、名目的にも 畠山家 に次ぐナンバー2の立場にあった。
畠山義続・義綱 に仕え、内乱によって重臣だった 「温井総貞」 の勢力 と 「畠山義綱」 が戦った時には、義綱側 として大きな活躍をしている。
しかし、畠山義綱 が権力を掌握し、専制的に政治を始めると 「遊佐続光」 と共にそれに反発、クーデターを起こして 畠山義続・義綱 を追放し、義綱 の子 「畠山 義慶」 を擁立した。
その後、畠山義慶 も家臣に毒殺されるのだが、これは 長続連 の仕業ではないかと言われている。
そして 畠山家 は 義慶 の弟 「畠山 義隆」 が後を継ぐが、彼も 「遊佐続光」 によって変死させられた。
もう 畠山家、ボロボロである。
その後、畠山義春 が後を継ぐがすぐ死んで、その弟の 畠山義明 もすぐ死んで、畠山家 は断絶。
その結果、名目的にナンバー2であった 「長続連」 が代表となるのだが、その頃に 上杉家 が能登に進軍してきて窮地に陥る。
長続連 は 織田家 に救援を求めるが、「遊佐 続光」 が上杉家に内通し、彼によって 長続連 は謀殺されてしまった。
まさに 畠山家 の居城 「七尾城」 は、暗殺と謀略と裏切りの館であったと言えるだろう・・・

藤原 千方
平安時代に存在していたと言われる 「千方将軍」 とも呼ばれた 呪術師。
「金鬼」、「風鬼」、「水鬼」、「隠形鬼」 の四人の鬼を従えた、神出鬼没の恐るべき将軍である。
四鬼の力によって 伊勢・伊賀地方 に大きな勢力を持っていたと言われ、朝廷(天皇家)の命令さえも無視し、独自の支配を行っていた。
そのため 朝廷 の軍勢に攻められるのだが、これも鬼の力によって撃退していたと言う。
だが、朝廷の軍の 「紀 友雄」 という大将が、「ここは鬼の住む世界ではない」 と四鬼を説得。
これにより四鬼は戦いを止めてしまい、その後の攻撃によって 藤原千方 は討ち破られた。
そして彼は捕えられ斬首されるのだが、その首は川の上流へ飛んでいったと言う。
彼の使った呪術は 「伊賀忍術」 の元とも言われており、伊勢地方にはこの伝説を由来とする地名が数多く残っている。
「四鬼」 と 「藤原千方」 の正体は、本当はなんだったのだろうか・・・?
信On では、伊勢の屋敷に 四鬼 と共に登場している。

斎藤 実盛
この人も戦国時代の武将ではないです・・・  「源平合戦」の時代に戦っていた平家の武士。
平氏の武士ではあるが、源氏の名将であり 平家物語 の主人公でもある 「木曽義仲」 が幼少の頃にその命を狙われた時、彼をかくまって助けた事がある。
その後、成長した 木曾義仲 の軍と越中の「倶梨伽羅峠(くりから峠)」で戦うが、平氏の軍は惨敗。
平氏 は体勢を立て直し、加賀の 「篠原」 という場所で挽回を狙う。
この 「篠原の戦い」 で彼は、「老いて侮辱されるのは恥だ」 と言い、白髪を墨で黒く染め、若く見えるようにして戦いに望んだ。
だが、この戦いでも平氏の軍は大敗し、彼も孤軍奮闘の末に戦死する。
戦後、討ち取られた彼の首を池で洗うと、墨が取れて髪が白くなった。
これによって彼が 斉藤実盛 である事が解り、その死を嘆いた 木曽義仲 は彼を手厚く葬り、その地に祭ったと言う。
信On では 加賀 の NPC として登場し、この故事にちなんだイベントが発生する。
加賀 でスタートする人は、一度尋ねてみるのもいいだろう。

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