朝倉家 武将名鑑


「信長の野望 Online」の「朝倉家」に登場する武将達のプロフィールを紹介しています。

富田 長繁 印牧 能信 溝江 長逸 青木 景康 山崎 吉家 前波 吉継 富田 重政 小泉 長利 佐々布 光林坊 堀江 景忠 真柄 直隆 朝倉 景健 朝倉 景恒 真柄 直澄 河合 吉統 朝倉 義景 朝倉 宗滴 朝倉 景鏡 朝倉 景紀 朝倉 景隆 朝倉 景連 魚住 景固
・未所属
半田 吉就
堀 吉重
三段崎 紀存
篠島 清政
福岡 吉清

その他の武将・人物
小少将
大野 忠君
南条 甲子斎
甲斐氏当主
八百比丘尼
鳥居 景近 高橋 景業 山崎 長徳 革島 一宣 山崎 吉延 小林 吉隆 桜井 元忠 中村 吉富 萩原 宗俊

=朝倉家 当主=

朝倉 義景 (あさくら よしかげ) Lv55 大名 総大将
「よいか、○○。 そちは名門朝倉の臣下として、その名を辱めぬ者とならねばならぬ。 武にも文にも、切磋琢磨することじゃ。
由緒正しき朝倉の臣下として、都の文化に親しむことも忘れるでないぞ。 武骨な田舎大名と朝倉とでは格が違うのじゃからな。」

朝倉家の大名。
平安時代から続く 「名家」 であり 越前若狭 を支配する 「朝倉家」 の後を継ぎ、一乗谷の城下に京文化の花開いた雅な文化都市を築いて華やかな行事を開催した風流大名。
しかし乱世を生き抜く力は持たず、将軍を擁して天下を取る機会を逃すと、盟友・浅井家の奮戦も空しく 織田信長 の軍勢に破れ、後は没落の一途を辿った。
朝倉義景 と 朝倉家 の詳細は、こちら をご覧下さい。
部隊アイテム
籠手切の太刀 = 刀。 攻撃52、耐久?。 気合+40、腕力+4、知力+4、魅力+4。

=朝倉家 武将詰所 (小屋敷)=

山崎 吉延 (やまざき よしのぶ) Lv46 薬師 敵中陣後詰
「戦いが長期に及ぶときは、相手の技を見切ることだ。 ……これが、なかなか難しいのだがな。」

「山崎家」 は代々朝倉家の家臣を務めていた家柄であり、彼は重臣の 「山崎 吉家」 の弟で、「山崎 長徳」 の父にあたる。
朝倉義景 が開催した大々的なパレード 「犬追物」 にも参加し、茶道もたしなむ風流人でもあった。
織田信長 が 朝倉家 の越前に侵攻した 「刀禰坂の戦い」 で 兄・吉家 と共に しんがり役 を務めて戦死し、朝倉家の滅亡に殉じている。


半田 吉就 (はんだ よしなり) Lv35 僧
「後悔はしても、反省をせぬようでは前には進めぬぞ。 一つ一つの戦いを大事にし、そこから何かを学び取ることだ。」

代々朝倉家の家臣を務めていた 「半田家」 の一人。
朝倉家の名将 「朝倉 宗滴」 に従って、加賀の 一向一揆 と戦っている。
また、京都を脱出した 将軍・足利義昭 が 朝倉家 にご厄介になっている時、足利義昭 と共に 「能」 を舞ったという。
のちに、朝倉義景 の奏者(手紙などを発行する係)を務めている。


中村 吉富 (なかむら よしとみ) Lv44 神主 敵先陣後詰
「戦は勝たねば意味がない! 違うか、○○?」

加賀の一向宗門徒 30 万人 が越前に侵攻してきた 「九頭竜川 大会戦」 で活躍した 中村五郎右衛門 の子。
この 「九頭竜川 大会戦」 ではまず一騎打ちの勝負があり、第一戦は 山崎吉延 の父 「山崎 長吉」 が一向一揆側の代表に勝利し、第二戦では 中村吉富 の父 「中村 五郎右衛門」 が勝利して、これにより一向一揆の士気は大きくくじかれ、逆に朝倉軍の士気は大きく上がったと言う。
「中村家」 はこの功績により、以後 朝倉家 の重臣となった。


堀 吉重 (ほり よししげ) Lv35 陰陽師
「……最近、当家の侍になりすまし、城内に潜入を図ろうとする輩がおると聞く。 修行も大事だが、お主の使命は殿をお守りすることだということを忘れるなよ。」

朝倉義景 が開催したイベント 「犬追物」 にも参加した、身分の高い家臣。
「犬追物」 は名前の通り、犬を的にして行う軍事訓練のようなものなのだが、朝倉義景 はこれを軍事パレードのイベントにして大々的に開催した。
絢爛豪華に着飾った約一万人の将兵が行進し、見物に訪れた人々は数え切れないほどであったという。

また、「曲水の宴」 と呼ばれる、水に流された杯が自分のところに来る前に和歌を詠うというイベントにも参加しており、こうした 義景 が開催したお祭りによく出席していた風流人であったようだ。
のちに 織田信長 の軍勢と近江で戦い、戦死している。


桜井 元忠 (さくらい もとただ) Lv44 陰陽師 敵先陣後詰
「いずれ誰かの手によって、乱世に終止符が打たれるだろう。 それがしは、それが義景様に違いないと……信じているだけだ。 お主も同じであろう?」

通称 「桜井 新左衛門」。
しかし、「桜井家」 は父も兄もみんな通称(仮名)が 「新左衛門」 なので、記録などで誰のことを指しているのかイマイチ解り辛い。

彼の兄 「桜井 景道」 は越前が 織田信長 の侵攻を受けた 「刀禰坂の戦い」 で敗走する 朝倉義景 を護衛し、一乗谷城の臨時の奉行も務めたが、これも他の 「桜井 新左衛門」 の記録と混同があるかもしれない。
とにかく、「桜井家」 の一族が 朝倉家 の重臣であった事は確かだ。


佐々布 光林坊 (ささふ こうりんぼう) Lv45 僧 与力 中陣右翼副将
「○○よ、九頭竜川での大会戦はしっておるか。 永正三年に一向衆と朝倉家の間で行われた大戦(おおいくさ)よ。
甲斐一族の残党を加えた加賀・越中・能登の一揆勢力の総勢は、実に三十万八千三百! 迎え撃つ、我らが宗滴どのが率いるのは、わずか一万千百……圧倒的な戦力差じゃった。
……が、宗滴どのの見事な采配のもと、敵の不意を突いて戦力差を押し返し、三十万の一揆勢を敗走させたのじゃ。 ……宗滴どのこそ、まさに朝倉家の守護神よ。」


なにやら妙に特徴的な名前の人。
越前にあった 「佐々牟志神社(ささむし神社)」 に由来する家の出身らしい。
とすると神主に近い気もするが、当時の「神社」は「お寺」との明確な分離がなく、仏教と深くかかわっている神社も多かったので、名前が 「光林坊」 だし、そうした家柄の出身なのかもしれない。

この人の名字は 「佐々布(ささふ)」 と 「佐々生(ささお)」 の2通りの資料があり、どちらが正しいのかハッキリしていない。
「布」と「生」の字が似ているのでどちかが誤字だと思われるが、同名の人物が複数いて混同されている可能性もある。

朝倉家の大将 「朝倉宗滴」 に従って 加賀 の 本願寺・一向宗 と戦っている時、朝倉宗滴 が病に倒れてしまったのだが、彼はその時に戦場に残り、臨時で朝倉軍の指揮をとっている。
将軍・足利義昭 が 朝倉家 を頼った時には、その屋敷の警護を任された。
朝倉家 の滅亡後は 織田軍 に降伏し、そのまま 織田家 に従ったが、その後に越前で一向一揆の勢力が大きくなってくると、その一向一揆に攻められて越前から追い出されている。

この後の経歴にも2通りの説があり、「佐々光林坊」 が一向一揆に追い詰められて山中で自害したという従来の説と、「佐々光林坊」 が一向一揆に追われて金沢へ脱出し、姓を 「香林坊」 に変えて生存していたという新説だ。
後者の説の場合、金沢の繁華街 「香林坊町」 の町の名前の由来だとも言われている。
彼については現在も研究が進行中のようなので、また新たな話が出てくるかもしれない。
部隊アイテム
佐々布棍棒 = 棍棒。 攻撃54、耐久68。 気合+30、腕力+3。
ドロップアイテム
佐々布狼牙棒 = 棍棒。 攻撃54、耐久68。 気合+30、腕力+3。
             名声1700、侍・僧・鍛・薬。

=朝倉家 奥屋敷=

萩原 宗俊 (はぎわら むねとし) Lv44 僧 敵先陣後詰
「後悔はしても、反省をせぬようでは前には進めぬぞ。 一つ一つの戦いを大事にし、そこから何かを学び取ることだ。」

朝倉家の名将 「朝倉 宗滴」 の側近であり、朝倉宗滴 の語った言葉を書き残した 「朝倉宗滴話記」 の著者として有名な人物。

「朝倉宗滴話記」 は戦国武将の心得とも言うべきものが書き綴られた教訓所で、
「武者は犬ともいえ、畜生ともいえ、勝つことが本にて候」
「万貫の太刀一本では国は守れぬが、百貫の槍百本あれば戦ができ候」
「大将の心持ち見るために配下は色々試すものにて、いささかも弱気を見せず、言葉にも出すべからず」
など、戦国武将のための様々な家訓が述べられている。

ちなみに、「猿楽や能芸に興じない事(つまり、遊んでばかりじゃダメ)」とも書かれているのだが・・・ 遊び好きの 朝倉義景 は、こういったものが大好きだった。
そのため 朝倉宗滴 は何度も 朝倉義景 をたしなめていたと言うが・・・ 宗滴 が死んだ途端、朝倉義景 は 「犬追物」 などを開催して、無駄づかいモード全開で遊び始める。
朝倉宗滴 の死が、朝倉家衰退のきっかけになった事は確かだろう・・・


小林 吉隆 (こばやし よしたか) Lv46 神主 敵中陣後詰
「……心の動揺は、刀や槍のさばきにも現れる。 心を弱くすれば、それは必ず相手にも伝わるもの。 一度敵と刀を交えたならば、決して迷うな。気で倒せ。」

朝倉家の重臣で、織田信長 が越前に侵攻してきた時には本陣の 朝倉義景 の守りを固めていたと言う。
しかし 朝倉軍 は敗退し、朝倉義景 は逃走の末に自害、朝倉家 は滅亡する。

朝倉家の滅亡後は、織田家に寝返ってその配下となっていた元朝倉家の家臣 「富田 長繁」 の配下となった。
ところが、その 富田長繁 は合戦の恩賞や、同僚の出世の妬みなどから織田家に不満を持ち、越前の 「一向一揆(一向宗の信者による一揆)」 と手を結んで織田家から独立(謀反)、かつての同僚も攻め滅ぼした。
さらに、手を結んでいた一向一揆とも不仲になってこれとも合戦を始め、協力しなかった仲間をも敵とみなして攻撃を始める。
そんな 富田長繁 の配下として、その様子を間近で見ていた 小林吉隆 はついに嫌気がさしたのか・・・ 合戦のさなか、持っていた鉄砲で 富田長繁 を背後から狙い、引き金を引く。
富田長繁 の死後、彼の消息は不明である・・・


三段崎 紀存 (みたざき のりまさ) Lv35 神主
「色々と、物騒な話も聞いておるからな。 外に出る際には、十分気をつけるのだぞ。」

朝倉家の重臣 「朝倉 景紀」 の配下の武将で、彼の名前の 「紀」 の字は 朝倉景紀 から一字を与えられたもののようだ。
敦賀地方(越前の南部)の奉行を務めており、織田家 の軍勢が越前に侵攻してきた時にこれと戦って敗れ、捕らえられたが、のちに釈放されたと言う。


革島 一宣 (かわしま かずのり) Lv46 侍 敵中陣後詰
「勝機は己の手で掴み取るものだ。 気持ちの持ちようで、いかようにでもなるぞ。」

名前の読みは 「かずのぶ」 かもしれない。 山城の国人(領主)の1人。
京都の西に領地を持っていたが、三好家 との戦いに敗れて 丹波(兵庫県北部)に逃れた。
その後、織田信長 の越前侵攻に協力して山城の領地を取り戻し、以後は 織田家 の配下となった将軍家の重臣 「細川 藤孝」 の家臣となるが、細川藤孝 の領地が 丹波 に移された時にはこれに同行せず、以後は 「明智光秀」 に従った。
ところがこれが大失敗。
明智光秀 はその後 「本能寺の変」 で 織田信長 に謀反を起こし、そしてすぐ 豊臣秀吉 に討たれたため、革島家もそのまま没落してしまった。

信On では彼は 朝倉家 の家臣となっており、実際にそう紹介されている記録もあるようだが・・・ これは、間違いであるらしい。


溝江 長逸 (みぞえ ながやす) Lv44 薬師 目付 先陣右翼
「そのほう……近頃、堀江景忠めの噂を聞かぬか? ほれ、あの謀反の……そうじゃ、その噂よ。
もともと堀江とは、朝倉家に敵対した国人の家系。 信用できぬものとわかりきっておった。 もし堀江めが謀反を翻したそのときには、この長逸は先頭に立って戦う所存だ。 いまから腕がなるのう。」

名前の読みは 「ながゆき」 かもしれない。
重臣の役職 「年寄衆」 の1人であり、朝倉宗滴 に従って加賀の本願寺・一向宗との戦いで活躍した。
また、かつては朝倉家と敵対していた同じ重臣の 「堀江家」 と領地が隣り合っていたため、その 堀江家 の監視役でもあったようだ。
そして 1567年(斉藤家が滅亡した年)、堀江家 が加賀の 一向宗勢力 と組んで 朝倉家 に謀反を起こそうとしているという噂が立つと、その 堀江家 を攻めて加賀に追いやっている。

その後、朝倉家 が 浅井家 と共に 織田・徳川連合軍 と戦った 「姉川の合戦」 に敗れて没落し始めると、織田家 に密かに内通。
織田家が越前に侵攻してきた時も 織田軍 との戦いに参加せず、朝倉家 が滅亡した後は 織田家 に従った。
しかしすぐ翌年、かつて彼が加賀に追いやった 堀江家 が一向一揆と共に越前に反攻を開始、彼の領地は一向宗の激しい攻撃を受け、溝江家の館は炎上、彼も戦死した。
部隊アイテム
溝江成敗杖 = 錫杖。 攻撃31、耐久64。 知力+10。


篠島 清政 (しのじま きよまさ) Lv35 侍
「勝機は己の手で掴み取るものだ。 気持ちの持ちようで、いかようにでもなるぞ。」

(この人については詳細がわかりませんでした・・・)
( 「篠島 伊賀守」 という名の朝倉家の家老が存在していた事は確かなようですが、それ以上のことはちょっと不明です)


(この情報は 覇王伝 の 大木 さんから頂きました。<(__)>)


真柄 直澄 (まがら なおずみ) Lv47 侍 与力 後陣右翼副将
「奇妙な夢を見た……。
押し寄せる敵軍の中、この俺がただひとり踏みとどまり、太郎太刀を振るっている……。 敵勢はひとりとして、俺の前を通り抜けることができぬ……。 実に痛快な夢であった。
もし戦場で、そのような晴れ舞台を得られたなら、我が人生に一片の悔いも残るまい。 心からそう思うぞ。」

朝倉家の誇る怪力無双の豪傑。 「真柄 直隆」 の弟。
織田・徳川連合軍 と、浅井・朝倉連合軍 が戦った 「姉川の合戦」 で、敗戦して撤退している 朝倉軍 を追撃しようとする 徳川軍 の前に立ち塞がり、五尺三寸 (約1メートル60センチ) の大太刀 「太郎太刀」 を振り回し、孤軍奮闘して 徳川軍 を食い止めたと言う、まさに戦国無双な人。
彼の活躍で 朝倉軍 は撤退に成功し、壊滅を免れたと言う。

だが徳川軍の配下である 「匂坂三兄弟」 と戦い、激戦の末に討ち取られた。
彼の使っていたと言う 「太郎太刀」 は 彼を討ち取った 匂坂兄弟 の長兄 「匂坂式部」 によって熱田神宮に奉納され、現在も 「熱田神宮宝物館」 に所蔵されている。

ちなみに、その 「匂坂式部(吉政)」 は・・・ 信On では今川家所属の NPC として登場している。
が、三河で迷子になっており、信On が始まって1年以上が経つが、いまだに迷子のままである・・・ 彼が故郷に帰れるのは、いつの日か・・・ ^^;
部隊アイテム
次郎太刀 = 薙刀。 攻撃41、耐久56。 気合+30、腕力+3。
ドロップアイテム
太郎太刀 = 薙刀。 攻撃41、耐久56。 気合+30、腕力+3。
          Lv?、侍・僧・鍛・薬。


真柄 直隆 (まがら なおたか) Lv47 侍 侍大将 後陣左翼副将 
「おい、おめえよお。……朝倉で一番の猛者って言ったら、誰でえ?」
(もちろん真柄直隆どのですよ)
「いやあ、それほどでもねえけど、よ。 はっはっは。 いい奴だな、おめえ。」

「真柄 直澄」 の兄で、彼も弟と同じく大太刀を振るう怪力の豪傑だった。
徳川軍と戦った 「姉川の合戦」 では、一騎駆けしてきた徳川の猛将 「本多 忠勝」 と激戦を繰り広げている。
その後、敗走する 朝倉軍 を追撃しようとする 徳川軍 の前に弟と共に立ち塞がり、大太刀 を奮って無双の活躍をみせ、朝倉軍 を撤退させる事に成功するが、徳川軍の 匂坂三兄弟 との激戦の末に討ち取られたと言う。

実は、この 真柄兄弟 の奮戦の話は今ひとつ正確に伝わっておらず、徳川軍の前に立ち塞がったのが 真柄兄弟 だと言う説の他に、この兄弟が同一人物であるという説や、立ち塞がったのは 真柄直隆 とその息子だという説もある。
また、真柄直澄 の太刀は 「次郎太刀」 という 「太郎太刀」 よりやや短めの刀で、真柄直隆 の使っていたのが 「太郎太刀」 であったという説や、真柄直隆 の太刀は 七尺八寸 (約2メートル40センチ)で、直澄 のものよりさらにデカかったという話もある。

色々と記録が錯綜しているが、とにかく大太刀を振るう 真柄 という武将が 徳川軍 の前に立ち塞がり、誰もが驚くような奮闘を見せた事は確かなようだ。
だからこそ、様々な文献に様々な形で記録されているのだろう。
部隊アイテム
真柄戦斧 = 斧。 攻撃38、耐久56。 気合+20、腕力+4、耐久力+2。
ドロップアイテム
真柄の大まさかり = 斧。 攻撃38、耐久56。 気合+20、腕力+4、耐久力+2。
               Lv?、侍・僧・鍛・薬。


山崎 吉家 (やまざき よしいえ) Lv45 侍 与力 中陣左翼副将
「勝機は己の手で掴み取るものだ。 気持ちの持ちようで、いかようにでもなるぞ。」

「山崎 吉延」 の兄であり、朝倉家の中でも高位の将軍の一人。
加賀の一向一揆との戦いや、織田・徳川軍と戦った 「姉川の戦い」 など、朝倉家の主要な合戦には必ず参陣している。
織田家 の侵攻軍を相手に互角以上に戦い、信長の甥 「織田信治」 や織田家の重臣 「森 可成」 を撃破して討ち取るなど、数々の軍功を上げた。
しかし 朝倉家 は次第に追い詰められていき、彼は 織田家 が越前に侵攻した 「刀禰坂の戦い」 でしんがり役を務め、朝倉義景 を撤退させた後、壮絶な戦死を遂げた。
部隊アイテム
山崎隊十字槍 = 槍。 攻撃44、耐久60。 気合+60。
ドロップアイテム
十文字血槍 = 槍。 攻撃44、耐久60。 気合+60。 Lv?、侍・僧・鍛・薬。


福岡 吉清 (ふくおか よしきよ) Lv35 陰陽師
「……千里の行も、足下より始まる。 どんなに遠大な計画も、手近な一つ一つの行いから始まるものだ。 焦らず、騒がず、まずはできる事から努力していくことが大事だぞ。」

朝倉家の重臣の1人。
朝倉宗滴 に従軍して、加賀の一向一揆攻めに参加するなどしている。
また、朝倉義景 が大々的に開催したイベント 「犬追物」 にも参加、のちに 朝倉義景 の奏者(手紙などを発行する係)も務めた。


山崎 長徳 (やまざき ながのり) Lv48 僧 敵後陣後詰
「何事も途中で投げ出さず、最後までやり遂げることが肝心だ。 つらくとも、最後まであきらめるな。○○。 努力も、才能のうちぞ。」

信On には 兄・弟・子 と一族総出で登場している山崎ファミリーの最年少。
「山崎 吉延」 の息子であり、「山崎 吉家」 の甥にあたる。

最初は朝倉家に仕えていたが、朝倉家が滅亡した後は織田家に降伏し、「明智光秀」の配下となる。
しかし 明智光秀 は 「本能寺の変」 で 織田信長 に反逆、信長を討ち倒すが、そのすぐ後に 「豊臣秀吉」 に破れてしまう。
そのため彼は越前に逃げ戻り、そこで 「柴田勝家」 に仕えた。
ところが 柴田勝家 も、その後に 豊臣秀吉 との戦いに敗れて滅亡。
浪人となった彼は、今度は加賀の大名となった 「前田利家」 に仕える。

その後は 「小田原征伐(秀吉の北条攻め)」や、「関ヶ原の戦い」 などで活躍し、出世して一万四千石の小大名となった。
ただ 前田利家 は彼のことを、「性根は良いが、武辺物ゆえ、部隊長には良いが、大将としては無用」 と評していたと言う。


堀江 景忠 (ほりえ かげただ) Lv48 神主 奉行 後陣左翼大将
「近頃、貴様の噂、聞き及んでおるぞ。 これからも、怠らずに励むことだ。 しっかりと、な。
いずれ、戦場で競うときもあろう。 それまで鍛錬を怠るなよ。」

戦国時代の前、越前の国では 「斯波家」 と 「甲斐家」 という権力者が覇権を巡って争いを起こした。
この戦いで、斯波家 に付いたのが 「堀江家」 であり、甲斐家 に付いたのが 「朝倉家」 だった。
そしてこの戦いは 甲斐家 が勝利、斯波家 は越前での支配力を失い、甲斐家 に味方した 朝倉家 もその勢力を伸ばす事になる。

その後、京都で起こった権力闘争 「応仁の乱」 で 朝倉家 と 甲斐家 は敵対し、互いに越前の覇権を争うようになる。
この争いは 朝倉家 が徐々に押していき、甲斐家は没落していったため、甲斐家寄りだった 堀江家 も 朝倉家 に従った。
だが、このような経緯があるため、朝倉家 は 堀江家 を配下にしたと言えども警戒し、家臣の 「溝江家」 などを側に置いて監視役を務めさせていた。

そして 朝倉義景 の時代に、堀江家 の当主 「堀江 景忠」 が加賀の一向一揆と手を結び、朝倉家に対して謀反をたくらんでいるという噂が立ち始める。
事の真相は不明だが、これが原因で 堀江家 は 溝江家 を始めとする朝倉軍に攻められて、越前から追いだされた。

しかし 朝倉家 が 織田家 との戦いに敗れて滅亡すると、堀江景忠 は 再び一向一揆と手を結び、越前に侵攻して仇敵 「溝江家」 を討ち滅ぼす。
そして今度は 織田家 に内通し、一転して越前の一向一揆の討伐に協力、これによって 織田家 から 越前 の領地を保障されたのだが、その恩賞が思っていたより低かったため、これを不服として再び一向一揆に内通しようとした。
しかし結局バレて、信長 の刺客によって殺害されてしまう。

彼の最後は、「因果応報」 と言えるかも知れない・・・
部隊アイテム
堀江隊重藤弓 = 弓。 攻撃26、耐久40。 気合+60。 器用+6。

=朝倉家 城内=

富田 重政 (とだ しげまさ) Lv45 侍 与力 中陣中翼副将
「俺の叔父、富田勢源どのは、目を患いながらも、中条流中興の祖とも言うべき剣の達人だった……。
ことに小太刀の技に優れておられてね。 三尺四五寸の木刀を持った相手を、一尺二三寸の薪で打ち破った、とも聞く。
…それだけに、目さえ悪くなかったらと、思わずにはいられないんだ。」

「富田流剣術」 継承者であり、「名人越後」 の異名を持つ剣術家。
名前の読みは 「とみた」 「とんだ」 かもしれないが、はっきりしない。

「富田流剣術」 は小太刀の達人 「富田 勢源」 の流派 「中条流」 から派生したもので、現代剣術流派の三大始祖の1つである。
富田勢源 は朝倉家の家臣でもあり、目が悪かったため若くして引退したが、その剣術は弟子に引き継がれ 「富田重政」 もその一人となった。
しかし、富田重政 が若い頃に 朝倉家 は滅亡したため、重政 も 朝倉家 の家臣として活動していたかどうかは解らない。

富田重政 はのちに 加賀百万石 の大名となった 「前田家」 に仕えたことで有名な人で、剣術の腕前だけでなく兵法家としても優れ、一向一揆との戦いなどで活躍し、加賀 の 「前田家」 と 越中の 「佐々成政」 が戦った 「末森城の合戦」 では一番槍の手柄も立てている。
前田家の 「兵法指南役」 として 「小田原征伐(秀吉の北条攻め)」 や 「関ヶ原の戦い」 にも参加して活躍し、のちに一万三千石の領地を得た。

彼にはこんな有名なエピソードがある。
彼は素手で相手の刀を奪う 「無刀取り」 という奥義を習得していたのだが、前田家の主君が 「ぜひ無刀取りを見せてくれ」 と言い、刀を抜いて身構えた。
すると彼は、「無刀取りは秘伝ですので、誰にでも見せられる訳ではありません。 後ろの襖からこちらをのぞいている者がいますので、まずそれを追い出してください」 と言った。
そのため主君は思わず後ろの方を向いたのだが、その瞬間に彼は踏み込んで主君が刀を持っている腕を強く握り締め、こう言った。
「これが無刀取りです。」

結局、「無刀取り」がどんな奥義だったのかはよく解らないのだが・・・ ^^;
そんな彼だからこそ、いくさ上手でもあったのだろう。
部隊アイテム
名人越後の無銘刀 = 刀。 攻撃31、耐久45。 生命+10、気合+20。
                器用さ+2、魅力+1。


魚住 景固 (うおずみ かげかた) Lv47 陰陽師 侍大将 後陣中翼副将
「互いを信頼し、理解し、尊重し合うことで、団結心は強くなっていくものだ。 仲間とは、密に連絡を取り合うのだぞ。」

朝倉家 の国政を担っていたトップクラスの重臣 「一乗谷四奉行」 の1人。
主に国の行政を担当していたが、重臣の 「堀江 景忠」 が 一向宗勢力 と組んで謀反を起こそうとしているという噂が立った時には、「山崎 吉家」 「溝江 長逸」 と共に軍を率い、堀江家 の討伐も行っている。

しかし、織田家 が越前に侵攻し、朝倉義景 がこれを迎え撃とうと出陣した時、彼にも出陣要請が来たのだが、それを拒否して出兵しなかった。
すでにこの時、織田家 に内通していたとも言われている。
朝倉義景 が 織田信長 に敗れ滅亡すると 織田家 に降伏し、すでに 織田家 に寝返っていた 「朝倉 景鏡」 「富田 長繁」 「前波 吉継」 らと共に、越前の統治を任された。
しかし、越前では 一向一揆 の勢力が強くなり、朝倉景鏡 は 一向一揆 との戦いに敗れて戦死、富田長繁 は織田家から独立し、一向一揆 と組んで 前波吉継 を襲撃して敗死させる。
そのため彼は 富田長繁 の動きを抑えようとするが、長繁 の刺客によって謀殺された。
朝倉家滅亡後の、越前の混乱の被害者である。
部隊アイテム
一乗谷陰陽軍配 = 特殊装備。 防御2、耐久24。 魅力+8。


高橋 景業 (たかはし かげなり) Lv48 神主 敵後陣後詰
「人望が厚くなれば、自然、人は集まってくるものだ。 1人ではこの乱世……生きていけぬぞ。」

主君・朝倉義景 の最後を見届けた人物、その1。
織田家 が越前に侵攻した 「刀禰坂の戦い」 で 朝倉義景 は総大将として出陣するが、すでに彼に人望はなく、多くの重臣がこの戦いに参加することを拒ばみ、そのまま 朝倉軍 は壊滅、朝倉義景 もボロボロの状態で城に逃げ帰った。
その後、朝倉義景 は重臣の 朝倉景鏡 に説得されて本拠地 「一乗谷城」 から脱出し、逃げ回りながら再起を図る

だが、その 朝倉景鏡 に裏切られ、滞在していた 「賢松寺」 というお寺を包囲され、ついにそこで自刃した。
この 朝倉義景 が自刃した時、介錯を務めたのが 高橋景業 である。
その後、彼もそのまま殉死したという。


鳥居 景近 (とりい かげちか) Lv48 陰陽師 敵後陣後詰
「……千里の行も、足下より始まる。 どんなに遠大な計画も、手近な一つ一つの行いから始まるものだ。 焦らず、騒がず、まずはできる事から努力していくことが大事だぞ。」

主君・朝倉義景 の最後を見届けた人物、その2。
越前に侵攻した 織田軍 によって朝倉家は崩壊、本拠地の一乗谷城も包囲されるが、朝倉景鏡 に説得された 朝倉義景 は城から脱出し、逃げながら再起を図ろうとした。
しかしその 朝倉景鏡 の裏切りにあい、滞在していた 「賢松寺」 を包囲され、あきらめた 朝倉義景 はそこで自刃する。

鳥居景近 は 朝倉義景 の側近としてそれに付き従っていたが、主君・義景 の死を見届けると、寺を包囲していた 朝倉景鏡 の軍勢に単身斬り込み、奮戦したのちに切腹して果てたと言う。
朝倉家の最後の意地を見せたと言えるかも知れない。


富田 長繁 (とだ ながしげ) Lv44 侍 侍大将 先陣左翼
「○○よ。 お主は本当に生涯、朝倉家の家臣でよいと思っておるのか? 迷いはないのか? 朝倉は名門だが……果たして、いまのご主君義景さまのご器量はどうなのか……?」

戦国武将の中でも、特に強烈な生涯を送った人物の1人。
苗字は 「とみた」 「とんだ」 と読む説もあるが、はっきりしていない。

最初は 朝倉家 の家臣であり城主も務めていたが、朝倉家が 「姉川の合戦」 で 織田軍 に敗れると 織田家 に内通し、朝倉義景 の出兵要請にも応じず、朝倉家 の滅亡後は 織田家 に従った。
その後、織田家の武将として越前の 一向一揆 との戦いで大きな活躍を見せるのだが、思うような恩賞が与えられず、一緒に 織田家 に寝返った同僚の 「前波 吉継」 が彼よりも出世したため、それを妬んで 織田家 から独立する。

そして敵だった越前の一向一揆と結託し、不仲になった 「前波 吉継」 を攻めて滅ぼすが、この動きに 元朝倉家 の家臣達が反発し、越前では内乱が勃発。
彼は敵対した 朝倉家 の元同僚 「魚住 景固」 を謀殺すると、他の 朝倉家 の元家臣たちと戦って勢力を広げ、そのやり方に反発した一向一揆とも敵対し、さらに戦火を拡大した。
だが、彼のそうしたやり方に不満を持った配下の 「小林 吉隆」 に裏切られ、背後から銃撃されて戦死する。

彼が死んだ時、まだ 24 才だったという。 若さゆえの無謀だろうか・・・?
まさに、「駆り立てるのは野望と欲望、横たわるのは犬と豚」 な生涯である・・・
部隊アイテム
千代鶴国安 = 刀。 攻撃36、耐久48。 生命+80。


印牧 能信 (かねまき よしのぶ) Lv44 薬師 目付 先陣中翼
「近頃は卑怯未練な振る舞いを恥じぬ者が多くなった……。残念なことよ。
戦場だけではない。平時にあっても、他人を陥れ、騙して恥じない愚か者の、なんと多いことか。
ひとは……美しく生きるべきなのだ。 それを忘れてはならん。」

「印牧」 は 「かねまき」 と読み、代々朝倉家の重臣だった。
また、剣術家 「富田 勢源」 が広めた 「中条流」 の剣術を伝える武門の家柄でもあり、印牧能信 もその剣術を習得していたと思われる。

織田家 が越前に侵攻した 「刀禰坂の戦い」 で奮戦するが、力尽きて捕虜となり、織田信長 の前に連れて来られた。
この時、信長 は彼の武勇を惜しんで助けようとしたのだが、彼はそれを拒み、信長 の面前で自害したという。

なお、北条家 の「剣術指南役」となり、宮本武蔵 と対決した 佐々木小次郎 の師匠と言われる剣術家 「鐘捲 自斎」 も、この 印牧家 の一族だと言われている。
部隊アイテム
印牧隊大薙刀 = 薙刀。 攻撃53、耐久64。 気合+40、腕力+6。
ドロップアイテム
印牧斬馬刀 = 薙刀。 攻撃53、耐久64。 気合+40、腕力+6。
            名声4400、侍・僧・鍛・薬。


青木 景康 (あおき かげやす) Lv46 薬師 目付 中陣左翼大将
「朝倉家のご恩に報いるためには、日頃から研鑽努力が必要だ。 優れた力、身につけてこそ、お家の役に立てるのだからな。」

朝倉義景 の父の代から 朝倉家 に仕えていた古参の重臣。
越前の中部一帯を治める 「府中奉行」 という役職にあり、その地方の税収や裁判など、行政業務全般を統括していた執政官だったようだ。
内政面におけるトップクラスの重臣と言える。

織田信長 の越前侵攻の際、これと戦い、討ち死にしている。
部隊アイテム
義景亭御成記写本 = 特殊装備。 防御3、耐久9。 魅力+10。
ドロップアイテム
朝倉義景亭御成記 = 特殊装備。 防御3、耐久9。 魅力+10。
                Lv15、全職装備。


前波 吉継 (まえば よしつぐ) Lv46 薬師 奉行 中陣中翼大将
「腹が減っては戦はできぬ! だ。 めしを食わねえ奴に、ろくな奴ぁいねえぜ。」

別名 「桂田 長俊」。 「前波 吉継」 は 朝倉家臣時代 の名前である。
朝倉家の家臣として、朝倉義景 が開催した 「犬追物」 や 「曲水宴」 などの様々なイベントに参加している文化人だったようだ。
しかし、兄を差し置いて 前波家 の跡継ぎにしてくれと訴えたために 朝倉義景 の怒りを買い、勘当処分を受けてしまったため、浅井・朝倉家 と 織田・徳川家 が戦った 「姉川の合戦」 の際、白昼堂々と織田の陣に駆け込み、そのまま 織田信長 に臣従した。

その後、織田家 が 朝倉家 を攻める際の道案内などを務め、朝倉家が滅亡した後は越前の国主(守護職)に任命されている。
しかし、同じく 朝倉家 から 織田家 に寝返った 富田長繁 が彼の出世を妬み、それが元で双方不仲になって、のちに一向一揆と結託して独立した 富田長繁 に攻め込まれて敗れ、戦死した。

彼は織田家に寝返った際、名前を 「桂田 長俊」 という全く違う名前に変えたため、記録やゲームなどではこちらの名前で登場する場合も多い。
おかげで、かなり紛らわしい・・・
部隊アイテム
一乗谷絵図写本 = 特殊装備。 防御3、耐久9。
               生命+30、器用+2、知力+8、魅力-1。


河合 吉統 (かわい よしむね) Lv50 陰陽師 奉行 小荷駄隊守将
「公平なまつりごととは難しいものよ……。 だが、民が安心して暮らせてこそ、国の礎は固まるというもの……。 愚痴ばかり言っててはいかんな。」

朝倉家の本拠地 「一乗谷城」 の四人の奉行 「一乗谷四奉行」 の1人で、朝倉家の家臣団の中でもトップクラスの重臣だった。
朝倉義景 を補佐して 朝倉家 の行政を行っていた人物だが、浅井家 が 織田家 に攻められた際には兵を率いて救援軍も指揮している。
織田家 が 朝倉家 に侵攻した 「刀禰坂の戦い」 で戦死した。
部隊アイテム
越前国図田帳写本 = 特殊装備。 防御3、耐久9。 生命+40。 知力+8。


小泉 長利 (こいずみ ながとし) Lv46 陰陽師 奉行 中陣右翼大将
「いずれ誰かの手によって、乱世に終止符が打たれるだろう。 それがしは、それが義景様に違いないと……信じているだけだ。 お主も同じであろう?」

朝倉家 の国政を担当していた重臣 「一乗谷四奉行」 の1人。
また、越前の豪族(有力者) 「溝江家」 の一族でもある。
朝倉家 が 織田家 に滅ぼされた後も助命され、越前の行政に携わっていたようだが、その後 越前 では一向一揆(一向宗の信者による一揆)が激しくなり、彼は 「溝江 長逸」 と共に 溝江家 の館に篭城するが、 溝江家 は敗戦、彼も戦死している。
部隊アイテム
朝倉氏所領役帳 = 特殊装備。 防御3、耐久9。 器用+8。 知力+4。


朝倉 景健 (あさくら かげたけ) Lv48 侍 中老 後陣中翼大将
「○○よ。 人の真価は勝ち戦のときではなく、負け戦のときにこそ、わかるものだ。
派手な手柄に惑わされて、人の真価を見誤ってはならぬ。 ……また、我らも、常に人に恥じぬ振る舞いを心がけねばな。」

朝倉義景 のいとこで、「朝倉 景隆」 の子と言われる朝倉一族の1人。
そして、浅井・朝倉連合軍 と、織田・徳川連合軍 が戦った 「姉川の合戦」 における 朝倉軍 の総大将である。
姉川の合戦 には敗退したが、その後の 織田家 との戦いで配下の 「山崎 吉家」 と共に 織田家 の重臣 「森 可成」 や 「織田 信治」 などを討ち取っており、織田軍 に大きな被害を与えている。

その後、織田軍 が 越前に侵攻した 「刀禰坂の戦い」 では、大敗して自刃しようとする 朝倉義景 を説得して護衛し、一乗谷城に撤退させた。
しかし 織田軍 の追撃で 朝倉軍 は崩壊、彼も 織田家 に降伏する。

朝倉家の滅亡後、越前では 本願寺・一向宗 の勢力が大きくなり、そこに 織田家 の配下となっていた元朝倉家の家臣 「富田 長繁」 の反乱も加わって、内乱状態に陥った。
彼はこれに際し、一向一揆と手を結んで 富田長繁 の勢力を攻撃、富田長繁 が配下に裏切られて殺された後、その残存勢力を駆逐して滅亡させる。
しかしその後、織田信長 の軍勢が越前に侵攻して 一向一揆 と戦い、一向宗は連戦連敗。
そのため彼は 一向一揆 を裏切り、越前の一向一揆の大将で 本願寺家 の坊官でもあった 「下間 頼照」 を殺害、それを手土産として 織田家 に降伏しようとするが、許されず自害させられた。

信On の彼のセリフは、朝倉家の家臣のセリフと考えると意味深だ・・・
部隊アイテム
朝倉の鉄扇 = 特殊装備。 防御3、耐久?。 生命+70、耐久力+7。


朝倉 景連 (あさくら かげつら) Lv50 薬師 中老 本陣四天王
「聞き及んでおるか、○○。 先年開催された「犬追物(いぬおうもの)」で、この景連がいかに華麗な行列を率いたか、を。
弓取り三十人、太刀帯三十人、殿原百余人、薙刀・槍三十人……。 都合五百余人を美々しく着飾らせて参加したのじゃ。 ……見物人の多くが、この景連を朝倉の当主と見間違えおったわ。 まあ無理もないことじゃがのう。 はっはっはっは。」

朝倉義景 の 叔父 と言われており、朝倉家 の国政に携わっていた 「一乗谷四奉行」 の1人でもある古参の重臣。
朝倉宗滴 と共に加賀の一向宗との戦いでも活躍した。

朝倉義景 が大々的に開催したパレードのイベント 「犬追物」 では、そのイベントの奉行を務めており、派手で豪華に着飾らせた配下 500 名を引き連れて自らもパレードに参加、その姿に見物人の多くが彼を 当主・朝倉義景 だと思うほどに注目を浴びたという。
そのためか、信On でも彼の衣装はハデだ。 ^^;

朝倉義景 が開催した水芸と和歌のイベント 「曲水の宴」 にも参加しているが、朝倉家 が 織田家 と戦う前には、すでに老齢で亡くなっていたようだ。
部隊アイテム
景連隊金細工腰刀 = 刀。 攻撃47、耐久?。 腕力+4、器用+4、魅力6。


朝倉 景隆 (あさくら かげたか) Lv50 薬師 中老 本陣四天王
「戦いが長期に及ぶときは、相手の技を見切ることだ。 ……これが、なかなか難しいのだがな。」

朝倉一族の一人で、「朝倉 景健」 の父。
朝倉家の古参の家臣の一人で、朝倉義景 の父の代から朝倉家に仕えている。
朝倉家 の軍事の総大将であった 「朝倉 宗滴」 が病死すると、その後を継いで 総大将 を務め、加賀の 本願寺・一向宗 との戦いに2度に渡って出陣した。
浅井・朝倉軍 と 織田・徳川軍 が戦った 「姉川の合戦」 では息子の 「朝倉 景健」 が総大将を務めているので、その時にはすでに病死していたと思われる。
部隊アイテム
犬追物目安 = 特殊装備。 防御4、耐久10。 気合+20、腕力+10、器用+2。


朝倉 景紀 (あさくら かげのり) Lv50 神主 中老 本陣四天王
「人望が厚くなれば、自然、人は集まってくるものだ。 1人ではこの乱世……生きていけぬぞ。」

朝倉家の名将 「朝倉 宗滴」 の養子であり、一人息子。
父・宗滴 と共に各地を転戦し、「将軍・足利義晴(足利義輝の父)」 を援護して三好家と戦った時には大きな活躍を見せ、将軍から感状(感謝状)を与えられた。
加賀の 一向宗勢力 との戦いでも活躍し、朝倉宗滴 が病死すると家督を継ぐ。
浅井・朝倉軍 と 織田・徳川軍 が戦った 「姉川の合戦」 では、先陣の大将を務めている。
朝倉家 が滅亡する前年に病死。 茶の湯や和歌に親しんだ文化人でもあったという。
部隊アイテム
宗滴話記写本 = 特殊装備。 防御4、耐久10。 器用+4、知力+10。


朝倉 景鏡 (あさくら かげあきら) Lv50 陰陽師 中老 本陣四天王
「そのほうは確か……○○とか申したな。
当家で器量第一の武将とは誰か、知っているか? ……ふふん、言わずと知れた、この景鏡のことよ。 義景の器量では、この朝倉、切り盛りすることはできぬ。 真に実力のある者が当主となるべきなのじゃ。」

主君・朝倉義景 を死に追いやった人物。 名は 「かげあきら」 と読む。
朝倉家の家臣団の筆頭とも言える存在だったが、「朝倉 景紀」 とはかなり仲が悪かったようだ。
「将軍・足利義昭」 が 朝倉家 を頼った際には出迎えを行っており、総大将として加賀の一向宗・本願寺攻めも何度か行っている。

その後も 朝倉軍 の大将として 「姉川の合戦」 を始め、織田軍 との戦いを各地で繰り広げるが、朝倉軍 は徐々に追い詰められ、織田軍 が越前に侵攻した 「刀禰坂の戦い」 で 朝倉義景 の本隊が壊滅すると、彼は裏切りを決意。
一乗谷城 に逃げ戻った 主君・朝倉義景 を、城から脱出して再起を図るよう説得し、義景 がその説得に応じて城から出て郊外に滞在中のところをを襲撃、朝倉義景 を自刃に追い込んで、その首を手土産として 織田信長 に降伏した。

その後、朝倉景鏡 は 朝倉義景 の首を取った手柄として越前の領地を保障され、信長から一字を与えられて 「土橋 信鏡」 と改名し、越前の統治を任されるのだが・・・
朝倉家の滅亡後、越前では一向宗の勢力が急速に強まり、そして一向一揆衆は 「主君を死に追いやって信長に取り入った悪逆非道な者に天誅を」 という感じで 朝倉景鏡 を激しく攻め立てた。
そして 朝倉景鏡 はついに攻撃に耐え切れず、戦死する。

たとえ戦国の世と言えど、「裏切り者」 への風当たりはやはり厳しい。
彼の最後も、因果応報と言えるのかも知れない・・・
部隊アイテム
越前陣羽織 = 特殊装備。 防御?、耐久?。
            生命+30、気合+100、器用+2、魅力-1。


朝倉 景恒 (あさくら かげつね) Lv48 僧 中老 後陣右翼大将
「後悔はしても、反省をせぬようでは前には進めぬぞ。 一つ一つの戦いを大事にし、そこから何かを学び取ることだ。」

「朝倉 景紀」 の子で、「朝倉 宗滴」 の孫にあたる。
最初は出家して僧侶になっていたのだが、朝倉宗滴 の家系を継いでいた彼の兄が戦死してしまったため、還俗してその後を継ぎ、朝倉家 の家臣となった。
足利義昭 が 朝倉家 の元から離れ、織田家 に向かう際、その護衛役を務めている。

織田家 が 朝倉家 を最初に攻撃した 「金ヶ崎の戦い」 において、彼はその金ヶ崎城の城主をしていたのだが、別の城からの救援要請を受け、それに応えようと出陣する。
ところが救援は間に合わず、その城は陥落、おまけに退路を塞がれて金ヶ崎城にも戻る事が出来なくなってしまい、仕方なく 織田軍 に降伏する。
しかし、織田家 と 朝倉家 の板挟み状態になっていた 浅井家 が、朝倉側 に味方することを決意して 織田軍 を攻撃し始めたため、織田軍 は撤退。
これによって彼も救われたのだが・・・ そのすぐ後、彼は死んでいる。
理由は不明だが・・・ 降伏したのを恥じて、自害したのだろうか・・・?
部隊アイテム
百疋の槍 = 槍。 攻撃69、耐久?。 気合+30、腕力+10、火+1。


朝倉 宗滴 (あさくら そうてき) Lv50 侍 中老 本陣軍師
「わしは、のう。 たとえ不器用で力不足の者であっても、懸命に務める者はかわいがってやりたいと思っておる。 また、多少臆病であっても、姿かたちの良い者ならば、適した役目を与えて、かわいがってやりたい。
わかるか、○○? 人はみな、その器量に合った役目がある。
ゆえに、わしは各々にその器量に応じた役目を与えてやろうと思うのじゃ。」

朝倉家の武の化身。 戦国時代初期の偉大な名将の一人。
本名は 「朝倉 教景」 で、「宗滴」 は若い頃に出家した際の僧としての名前。
戦国大名としての朝倉家初代 「朝倉 孝景」 の子で、以後 朝倉5代 に仕えて常に最前線で戦い続けた 朝倉家 の重鎮である。

越前の豪族(地方権力者) 「甲斐家」 と戦って 朝倉家 が越前の大名となるのに貢献し、加賀の 一向宗門徒 が大軍で越前に侵攻してきた 「九頭竜川 大会戦」 では1万余の軍勢で 30 万と言われる一向一揆軍を撃退。
若狭(福井県西部)の 「若狭武田家」 や 北近江(滋賀県) の 「浅井家」 などの救援にもたびたび向かい、「六角家」 や 「三好家」、「斉藤家」 とも戦いを繰り広げるなど、生涯の大半を戦場で過ごしている。
上げた勲功は数知れず、朝倉家 が興隆していく原動力となった人物だ。
遊び人でブランド志向の 朝倉義景 が無駄遣いしそうになるのを、何度も諫言して止めたとも言われている。

1555年(ちょうど 信On の時代背景の頃)、加賀の一向宗との合戦中に陣中で病に倒れ、そのまま病没してしまった。 享年79歳、死の間際まで現役だった。
彼の死後、彼が語った言葉を側近の 「萩原 宗俊」 が 「朝倉宗滴話記」 という書物にまとめた。
これは戦国武将の教訓書として、広く諸国に広まっていく事となる。
部隊アイテム
孝景十七箇条写本 = 特殊装備。 防御4、耐久10。
                気合+20、耐久力+2、知力+5、魅力+5。

=越前のその他の人々=
小少将
朝倉義景 の4人目の妻 (側室)。 名前が 「しょう×3」 な人。
4人目の側室と言っても、最初の妻は結婚してすぐ死別、2番目の妻とはうまく行かずに離婚、3番目の妻も早くに病死してしまったため、朝倉義景 は同時に何人も妻や側室がいた訳ではない。
朝倉義景 は彼女にかなりラブラブで、彼女のために豪華で広大な日本庭園を持つ大きな屋敷を建築し、そこに住まわせていた。
その屋敷 「諏訪館」 は越前の戦乱で焼失してしまったが、豪華な庭園跡が現在も残されており、福井県の観光名所となっている。

小少将 は 朝倉家 が 織田家 に攻められて滅亡する際、朝倉義景 と共に逃避行を続けていたが、朝倉景鏡 の裏切りによって 朝倉義景 が自刃すると、織田軍 に引き渡された。
その後、織田家の重臣 「丹羽 長秀」 によって、護送中に殺害されたと言う。

ちなみに、信On の彼女は名前が名前なためか・・・ サイズが小っちゃめだ。 ^^;

大野 忠君
(この人については全然わかりませんでした・・・ おそらくセリフからして、兵法家か学者か寺子屋の先生だと思うのですが・・・)
(ちなみに、この人のクエストでもらえる 「庭訓往来」 は室町時代から江戸時代にかけて広く普及した読み書きの教科書で、絵入りや注釈付きの物など、様々なタイプのものが出版されていました)

南条 甲子斎
(この人もよく解りませんでした・・・ クエストで将棋の駒がもらえるので、棋士か何かでしょうか・・・?)
(ちなみに戦国時代にはすでに将棋はあり、戦国武将も盛んに打っていたといわれています。 ただ、今の将棋とはちょっと違い、「酔象」 という特殊なコマがあり、これが成ると 「太子」 のコマになって王将の代わりになるというルールがありました)

(追記)
1972年から朝倉氏の本格的な遺跡調査が始まったのですが、その翌年に 174 枚もの将棋の駒が発見されたそうです。
その中に 「酔象(醉象)」 の駒が存在しており、これは当時盛んに指されていた 「小将棋」 で使われていたものでした。
「小将棋」 は現在よく知られている 「本将棋」 に双方1枚ずつの酔象を加えたもので、当時盛んに指されていたそうです。
(他にも 中将棋・大将棋 という、もっと大きいものも存在していました)

そして 「小将棋」 は、基本的に駒の再使用(取った相手の駒を「持ち駒」にして使う)ルールはなかったようですが、玉将と酔象以外は取ったら「持ち駒」に出来る 「朝倉将棋」 の存在が推定されているそうです。
よって、この 「朝倉将棋」 が現在の 「本将棋」 のルーツと言う説もあります。

ゲーム中の 南条甲子斎 から受けられるイベント 「足りない手駒」 は、なくなった 「醉象」 を探してきて、将棋の勝負をするというものです。
このイベントは、遺跡調査で見つかった将棋の駒と、朝倉将棋を元にしたもののようですね。

なお、当時将棋で権力者の恩寵を受けた人物は 「初代 大橋宗桂(おおはし・そうけい)」 という方のみだったとの事なので、南条甲子斎 は棋士ではない可能性の方が高そうです。

(この情報は 揚州義臣 さんから頂きました。 ありがとうございます。<(_ _)>)

甲斐氏当主
固有の人物名ではないところが悲しい、越前の屋敷に登場する 「甲斐家」 の当主。
「甲斐家」 は越前の守護代 (国の治める役職 「守護」 の次席) で、越前で大きな勢力を持っていた家柄だった。
戦国時代が始まる前、越前の国は日本の各地に大きな領土を持っていた権力者 「斯波家」 が守護として治めており、元は 甲斐家 も 朝倉家 も、斯波家 の家臣に過ぎなかった。
たが、有力者であった 甲斐家 は徐々に越前での支配力を強めていき、それが元で 斯波家 との間で抗争が起こる。
この戦いは 斯波家 が敗北し、越前の 斯波家 は没落。
こうして越前は 甲斐家 が治める事になったのだが、その 斯波家 との戦いで 甲斐家 に協力したのが 「朝倉家」 だった。

その後、京都で起こった権力争い 「応仁の乱」 で 朝倉家 と 甲斐家 は別々の陣営に分かれ対立、そのまま越前の支配権を巡っての長い抗争状態となる。
しかし、徐々に押され気味となっていった 甲斐家 は、そのまま没落していった。

「信長の野望 オンライン」 で、甲斐一族 の名前が手抜きな感じになっているのは・・・ どうやら、この当時の 甲斐家 の資料がなく、本当に詳細が解らないからのようだ。
歴史の敗者の、悲しいところだろうか・・・

八百比丘尼
人魚の肉を食べ、「不老不死」 になったという伝説の尼僧。 「やおびくに」 と読む。
何でもない 17 歳の普通の少女だったのだが、ある日 猟師が取った人魚の肉をそうとは知らずに食べてしまい、老いる事のない体になったと言う。
人々は最初は羨ましがっていたのだが、次第に気味悪がり、化け物扱いするようになったため、彼女は村にいられなくなって放浪の旅に出る。

老いて死んで行く人々を見ながら、一人時代に取り残される彼女はいつしか尼となり、行く先々で人々の病を治し、貧しい人を助けながら、日本の各地を旅し続けた。
そして 800 年ののち、故郷の若狭(越前の南西の国、福井県の西部)に戻り、その地で静かに命を絶ったという。
北は越後や佐渡、西は出雲や安芸、南は四国の土佐まで、かなり広い地域で彼女の伝説が残されている。
ドロップアイテム
比丘尼頭巾 = 頭装備。 防御20、耐久?。 知力+5、水+5。 名声12000、僧・薬。

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