雑賀衆

雑賀衆 と 雑賀孫市


「雑賀衆を味方にすれば必ず勝ち、敵にすれば必ず負ける」
戦国時代、実際に言われていた言葉です。
戦国最強の鉄砲傭兵集団 「雑賀衆」、それは 大名家 とも 寺社勢力 とも異なる特殊な集団でした。
そして伝説の鉄砲使い 「雑賀孫市雑賀孫一)」 が率いた集団としても有名ですね。
さて、そんな 「雑賀衆」 とはどのような勢力だったのでしょうか・・・?

雑賀衆は、紀伊半島の南西部を支配していた勢力です。
紀伊半島は大きな半島ですが・・・ その大半は険しい山々に覆われ、海岸も絶壁になっている場所が多いため、当時は人が住むのに適した場所は限られていました。
しかし、大阪の南の一帯 (現在の和歌山市の辺り) には 「紀ノ川」 と呼ばれる大河があり、その周辺には肥沃な土地が広がっていたため、ここに多くの人々が住んでいました。
この人々が、「雑賀衆」 と呼ばれる集団となります。
紀伊半島の山々からは多くの鉱石や木材を得る事ができたため、この地域では 鍛冶 や 林業 などの工業技術が発達していました。
さらに、雑賀の里は 瀬戸内海 と 太平洋 を結ぶ海運に適した土地でもあったため、古くから 漁業 や 貿易業 などが盛んに行われていました。
こうした土地がらのため、雑賀では山で働く人々、森で働く人々、海で働く人々など、それぞれの職人達の組合のようなものが出来ていきます。
そしてそれらの集まりの代表が相互に協力して運営されていた「共同体、それが「雑賀衆」でした。
よって、雑賀衆は実際には1つの勢力ではなく、小勢力の総称と言えます。
実際、戦国時代の雑賀衆は大きく分けて5つの、土地ごとの組合のようなものに分かれており、それぞれが独自に行動していました。
また、雑賀衆の近くには 「根来衆」 と呼ばれる小勢力も存在しており、これも紀伊半島南部に独自の支配力を持っていました。

さて・・・ 「雑賀衆」 と言えば 「鉄砲」 です。
戦国時代合戦を一気に変えてしまった、南蛮渡来新兵器
雑賀衆が 「戦国最強傭兵集団」 であったのは、この新兵器を駆使していたからです。
では、なぜ 雑賀衆 が 鉄砲集団 になったのでしょうか・・・・?
1543年、まだ 織田信長 や 徳川家康 が幼い子供で、斉藤道三 が美濃の国を奪取したばかりの頃、九州の南の島 「種子島」 に、嵐によって1隻の船が漂着します。
この船に乗っていたポルトガル人が、未知の新兵器 「鉄砲」 を持っていました。
この新兵器を見た種子島の豪族(地元の権力者) 「種子島時尭」 は、これを 2丁、金2000両 で購入します。 これは現在のお金で2億円もの額だったと言われています。
鉄砲1丁1億円だった訳で、これはかなーーーり高いです。 ボッタくられです。^^;
しかし、当時 「種子島時尭」 は別の勢力の攻撃により、種子島の覇権を失っていました。
彼はこの未知の新兵器に種子島奪還の望みを託していたようです。
そして、この日本に初めてもたらされた2丁の鉄砲の1つが・・・ 紀伊半島に持ち込まれました。
雑賀衆は海運に便利な土地にあり、貿易によって多くの富を得ていました。
四国の 「土佐」 や 鹿児島の 「薩摩」 、さらに遠く 沖縄 まで行き交易をしていたと言います。
そのため、それらの土地の権力者とも友好関係にありました。
当然、種子島の当主である 「種子島時尭」 と知人だった人もいたのです。
それが 雑賀衆 と深い関係にある勢力 「根来衆」 の 「津田監物」 という人で、彼は交渉によって、この日本にもたらされた2丁の鉄砲のうちの1つを譲り受け、持ち帰ります。
そしてこの鉄砲を元に 根来衆 の鍛冶屋 「芝辻清右衛門」 という人が試作に成功、それが 雑賀衆 にも伝わり、こうして 雑賀衆・根来衆 は鉄砲集団へと変わって行ったのです。
しかし、「鉄砲を試作する」 といっても、実際にはそう簡単な話ではありません。
それを短期間で量産化させる事まで出来たのは、まさに 雑賀衆 が元々、非常に優れた鍛冶技術を持つ職人集団だったからに他なりません。
ただ、「鉄砲」 が出来ても、「弾」 がないとただの鉄の棒です。
実は鉄砲本体よりも、この 「弾(火薬)」 が大問題で、日本では 「火薬」 の材料となる 「硝石」 が取れなかったのです。 (信On では取れてるけど・・・)
よって、「硝石」 を入手するためには当時、外国との貿易に頼るしかありませんでした。
ですが 雑賀衆 は元々、この 「貿易」 にも長けており、独自の貿易航路によって多額の富を得ていたため、資金力と貿易ルートの双方の面で 「硝石」 を入手しやすい状況にあったのです。
つまり 雑賀衆 は、あらゆる面で 「鉄砲」 を使うのに都合がよかった訳ですね。
こうして 雑賀衆 の兵士達は鉄砲で武装していき、「最強の戦力」 を有する集団となっていきます。
各地で戦乱が起こっていた戦国時代には他の勢力に援軍を求める事はよくある事で、雑賀衆 も鉄砲が伝わる以前から、要請を受けて軍を派遣する傭兵的な役割を受けていました。
それが 「鉄砲」 を持ったのですから、その戦力を目当てに各地の大名家から頻繁に援軍を依頼されるようになります。
こうして、雑賀衆は 「鉄砲傭兵集団」 を持つ勢力となっていった訳です。
当時、「雑賀を制すものは全国を制す」 とさえ言われるようになりました。

さて、そんな 鉄砲集団 となった 雑賀衆 ですが・・・
その 「最強の戦力」 ゆえに、戦国時代の荒波に翻弄される運命となっていきます。
傭兵集団として引っ張りだこだった 雑賀衆 は、近畿地方の大名 「三好家」 と 「織田家」 が戦う時に、織田家 に雇われて 織田信長 の軍勢と共に戦った事もありました。
しかし織田信長は、当時爆発的に流行していた宗教 「一向宗」 の総本山である 「本願寺」 と対立、「織田家」 と 「本願寺家」 は全面戦争に突入します。
雑賀衆 にはこの 「一向宗」 の門徒(信者)が多く、一向宗 のお寺も数多く建てられており、本願寺の本拠地である 大阪(石山) にも近かったため、本願寺とは友好的な関係にありました。
そのため、「雑賀衆」 は 本願寺 の要請を受け 織田家 の軍勢と戦う事になるのですが・・・

雑賀衆 の近くの勢力で、雑賀衆 と密接な関係にあった 「根来衆」 は、実は 「根来寺」 と呼ばれる 「真言宗」 という仏教のお寺を中心とした宗教勢力でした。
つまり、「一向宗」 である 本願寺 とは別の仏教な訳で・・・
宗教的には 「ライバル」 だった訳です。
このため 根来衆」 は 織田側 を支援、この影響で 根来衆 に近かった 雑賀衆 のいくつかの小勢力も、織田家に味方する事になります。
前述したように、雑賀衆は1つの勢力ではなく、複数の小勢力の 「共同体」 でした。
ですから、それぞれの小勢力が独自に動いており、完全にまとまっている訳ではなかったのです。
これによって、雑賀衆は分裂を起こしてしまいますが・・・
ただ、織田側 に味方した雑賀の勢力はそれほど活躍していません。
やはり同じ雑賀衆同士での戦いは避けていた感があります。
一方、本願寺家 を支援した 雑賀衆 は大活躍する事になります。
大阪の 「石山本願寺城」 に篭城した 本願寺軍 を援護し、鉄砲の連続発射によって織田の軍勢を散々に撃ちのめし、攻め寄せてくる敵をことごとく撃退します。
この戦いで 雑賀鉄砲衆 の指揮を取ったのが、伝説の鉄砲使い雑賀孫市」 です。
この時、雑賀鉄砲衆 は 鉄砲隊 を2列に並べ、前列が撃っている間に後列が弾を込め、交互に前に出て連続発射するという戦法を取っています。
これは後に有名になる 「長篠の戦い」 で、織田信長 が鉄砲隊を3列に並べ、前列が撃っている間に後列が弾を込めるという方法で鉄砲を連続発射し、武田軍 の 騎馬隊 を壊滅させたのと同じような戦法であり、つまり 雑賀衆 はこの時すでにこの戦法を実用化していた事が解ります。
正面からの攻撃で敗退した 織田軍 は、本願寺城への補給を断つために海上から軍船を進め、海路の補給ルートを封鎖しようとしますが、これも雑賀の海賊衆と、中国地方の大名 「毛利家」 の 「村上水軍」 によって撃退されます。
雑賀衆 は海運や貿易に優れていましたから、海上の戦力である軍船も所有していました。
普段から仕事として船を操っている 雑賀衆 の海軍は、優れた戦力を持っていたのです。
こうして 本願寺家 と 織田家 の戦いはその後 10 年近くも続く事となり、雑賀衆 がその噂にたがわぬ力を見せ付けた戦いとなりました。

しかしこれらの戦いの結果、信長 は 雑賀衆(と言うより、本願寺家に味方する雑賀衆の頭領 「雑賀 孫市」 ) を先に討伐する事を決意、大軍を率いて雑賀衆の里に押し寄せます!
その数なんと 10万人! しかも 秀吉 や 明智光秀 など、主力級の猛者揃い。
これに対し 雑賀孫市 は、川を使った足止めの罠や、鉄砲の一斉掃射などで織田軍に大きな被害を与えてきますが・・・
しかし、なんといっても相手は十万。
おまけに 雑賀衆 は 本願寺派 と 織田派 に分裂しており、根来衆 も敵に回っているため、もはや多勢に無勢で勝ち目はなく、ついに 雑賀孫市 も降伏。
こうして、いったん 雑賀衆 の戦いは終わりを迎えます。
その後、雑賀衆 は完全な分裂状態となります。
雑賀孫市」 が率いる 本願寺派 の雑賀衆と、「根来衆」 に近い 織田派 の雑賀衆です。
一般的には、雑賀孫市 の雑賀衆が 「雑賀党」、根来衆に近い雑賀衆は 「太田定久」 という人とその一族がリーダーとなっていたため 「太田党」 と呼ばれています。
この 「雑賀党」 と 「太田党」 の2派分裂により、雑賀衆では内乱が続きます。
その後の 「雑賀孫市」 の消息は、今ひとつ確かではありません・・・
領地や外交方針を巡るトラブルで 雑賀党内 の有力者と銃撃戦となり、信長の援護を受けたと言われていますが、逆に 織田家 と 太田党 の急襲を受け、本願寺の 法主・本願寺顕如 と共に紀伊半島で戦っていたと言う説もあります。
いずれにせよ、「本能寺の変」 で 信長 が急死した後は、豊臣秀吉 に仕えたようです。


織田信長 が 「本能寺の変」 で 明智光秀 に討たれ、豊臣秀吉 の時代が来ると、雑賀衆も滅亡に向かっていく事になります。
織田信長 の死後、豊臣秀吉 がその後を継ぎ、覇権を握りました。
しかしその 豊臣秀吉 は、雑賀衆・根来衆 が持っていた紀伊半島の独自の支配を認めようとしませんでした。
秀吉 は「検地(土地や収穫量を調べて税金を決める事)」を日本全土で行っていましたが、雑賀衆・根来衆 は元々そうした制度を独自に決めて、自分達で領地を運営していた者達です。
しかし 豊臣秀吉 は統一した制度で日本を統治しようとしていたため、「特例」は認めませんでした。
こうして、秀吉 と 雑賀衆・根来衆 は対立を始めます。
そんな頃、豊臣秀吉 と 徳川家康 が対立関係となり、徳川家康が 雑賀衆・根来衆 に傭兵としての援軍を求めました。
こうして、「太田党」 を主導とする 雑賀衆 と 根来衆 は、秀吉 と 家康 が戦っている間に(小牧・長久手の戦い)、紀伊半島の 豊臣家 の城を攻撃し、秀吉軍 の背後を脅かします。
しかしこの戦いは、秀吉 と 家康 が講和をする形で決着。
その後、豊臣秀吉 は敵対行動を取った 雑賀衆根来衆 の討伐を決意し、紀伊半島に進軍してくる事となります。
雑賀・根来討伐の 秀吉軍 は、かつての信長の侵攻の時と同じく約十万の大軍。
一方、雑賀・根来軍 は合わせて2万程度でしたが、鉄砲 を使った篭城戦で迎え撃とうとします。
しかし、根来衆 と 秀吉軍 の戦いは、当初は 根来衆 が優勢だったものの、秀吉軍 の放った火矢が根来衆の城の火薬庫に引火して城ごと大爆発!
これを皮切りに各地の根来衆の城も 陥落・降伏 して行き、本拠地の 「根来寺」 も炎上、多勢に無勢で 「根来衆」 は滅亡してしまいます。
残った 雑賀衆 も次々と 秀吉軍 に降伏。
そもそも 雑賀衆 は、宗教勢力として強い団結力を持っていた 「根来衆」 と比べると結びつきが弱く、それでなくても分裂状態でしたから、それほど強硬な抵抗は見せませんでした。
しかし、雑賀衆 の 「太田党」 の中心勢力は、秀吉 に徹底抗戦の構えを見せます。
秀吉 はこの 「太田党」 を降伏させるべく、すでに配下となっていた 「雑賀孫市」 を説得に向かわせますが、太田党 は応じません。
彼らは 「太田城」 に篭城し、さらに謎の兵器 「飛んできて火炎と煙を噴出す筒」(手榴弾?)を使って 秀吉軍 の先陣を撃退します。
そこで 秀吉 は十数万人という大勢の人夫を使って 太田城 の周りに堤防を作り、水を引き込んで城を 「水攻め」 にします。
堤防が完成したタイミングで大雨も降り、太田城は水上の孤城となって、ついに兵糧もなくなります。
万策尽きた 太田党 の武将達は自害し、城兵は降伏、こうして独自勢力としての 雑賀衆 は滅亡する事となりました・・・

最後に、伝説の人物 「雑賀孫市」 について、少し話をしておきましょう。
イメージ的に、「雑賀孫市 = 雑賀衆」 だったりもしますしね。^^;
彼が何者だったのか、実はいまだにはっきりしていません。
「信長の野望シリーズ」 では、雑賀衆 は 「鈴木家」 という 大名家 として登場しています。
実際には 雑賀衆 は 大名家 ではありませんでしたから、大名家として 「雑賀衆」 の名で登場させると史実的に問題があるため、雑賀衆 の国人(地元の領主)の中でも特に力を持っていた 「鈴木家」 を、豪族(地方権力者)という形で登場させているようです。
「雑賀孫市」 は、この鈴木家の一族の誰かである事が解っていますが、実際に誰だったのかははっきりしていません。
雑賀衆 の 鉄砲隊長であった 「鈴木重秀」 という人の事であると言われていますが、それに加えて、鈴木家の当主 「鈴木佐太夫」や、鈴木重秀 の兄である 「鈴木重朝」 の活躍をまとめたものだと言われています。
孫市」 という通称は、鈴木家 の人々の間で代々使われていたものでもあったようです。
とりあえず、伝説も含めて全てまとめると、「雑賀孫市」 はこんな人になります・・・
「雑賀衆のまとめ役であり、リーダー格でもあった雑賀孫市は、雑賀衆の 鉄砲傭兵集団 の隊長であり、各地の戦いで傭兵として活躍していた。
雑賀衆と友好的だった 本願寺 が 織田信長 と戦うようになると、鉄砲を使った先進的な戦術で織田軍を撃破し、さらに各地の一向一揆も支援して、「本願寺 左右の将」 と称えられる。
信長 の集中攻撃によって一度は敗退するが、その後も 織田軍 や、織田家に味方する雑賀衆内部の勢力と戦い続け、織田の追っ手から逃げる本願寺の 法主・顕如 をかばい続けた。
信長の死後は 豊臣秀吉 の配下となり、雑賀衆を後にする。
秀吉 が雑賀衆を攻めた際には降伏を勧める使者となり、両者の取次ぎ役を務めた。
その後、豊臣軍の 「鉄砲頭」 となり、朝鮮出兵では九州を守る。
「関ヶ原の戦い」 では 西軍・豊臣側 として、京都の戦いで 徳川家 の重臣 「鳥居 元忠」 を討ち取るが、西軍が敗戦したために領地を失い浪人となる。
しかし東北の大名 「伊達 政宗」 に取り立てられ、雑賀衆に伝わる 騎馬鉄砲術 を伝授、騎馬鉄砲隊は 大阪・夏の陣 で大いに活躍した。
その後、伊達政宗 の取り成しで 徳川家 に仕え、水戸徳川藩の旗本として余生を過ごしている・・・」
ちなみに、戦国無双 ではかる〜い感じのナンパ野郎に描かれていますが、これは 雑賀孫市 を主人公にした小説 「尻啖え孫市 (司馬遼太郎 著)」 から来ているようですね。

雑賀衆は、「共同体」 でした。
他の大名家のような 「専制君主制」 ではなく、「共和政体」 だった訳です。
しかし共和政治は、物事が都合よく進んでいるときは和気あいあいと出来ますが、一度窮地に陥ると、議論紛糾して時には内部分裂を招きます。
ですが 「雑賀衆」 はその特異な存在のため、それは避けられない事であったのかもしれません。
そこに 「宗教」 が絡むと、なおさらです。
さて、信On の雑賀衆は、どんな勢力として発展するのでしょうか?
本来 職人集団であった彼らが、天下を制していくというのも・・・ 一風変わっていて面白いかもしれませんね。

雑賀衆 武将名鑑
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