関ヶ原の戦い

戦国時代を終焉させ、その後の日本の支配者を決定付けた
天下分け目の戦い関ヶ原の戦い」。

しかし日本最大の合戦であったにも関わらず、その詳細はあまり知られていません。
なぜなら、「関ヶ原の戦い」 があったのは戦国時代の終わり頃であり、「織田信長」 や 「豊臣秀吉」、「武田信玄」 や 「上杉謙信」 などの戦国時代のヒーローと言える人は、すでにみんな死んだ後だからです。
関ヶ原
しかも、関ヶ原の戦いに至る過程は政治的な理由が多く、それまでの戦国の歴史と比べると複雑であり、おまけに戦闘が1日で終わってしまったため、あまり映画やドラマでも取り上げられません。
ゲームでも 「信長の野望」 シリーズを含め、関ヶ原を扱ったものは少ないですね。
「小説」 や 「歴史書」 では取り上げられる機会が多いのですが・・・ 内容は戦国時代に関する基礎知識が豊富でなければ理解できないものが多いです。
そこで、このページではそんな 関ヶ原」 の戦いと経緯を、あまり歴史に詳しくない方でも理解できるよう、出来るだけ解りやすく解説しています。
(また、「戦国無双」 や 「戦国BASARA」、「鬼武者」 シリーズなど、戦国時代を題材にしたゲームに登場する身近な武将をピックアップしながら説明しています。
武将の顔の画像は 「信長の野望 オンライン」、および 「信長の野望 天下創世」 のものです)
関ヶ原の戦い」 にまつわる時代背景を知る、参考にして頂ければと思います。

「関ヶ原の戦い」 の戦闘は1日で決着が着きましたが・・・
そこに至る過程は結構長く、色々な出来事が積み重なっていきました。
戦国時代の後期・・・ 豊臣秀吉 がすでに天下を統一した後の 1598 年、その 豊臣秀吉 の死によって、「関ヶ原」 への経過が始まることになります。
すでに 豊臣家 によって天下統一されていた日本でしたが、その後に朝鮮半島に攻め込んだ 「朝鮮出兵」 などがあり、戦乱の時代はまだまだ継続していました。
秀吉の死後に 豊臣家 で日本を運営することになったのは、「豊臣五大老」 と 「豊臣五奉行」 と呼ばれる人たちです。
この 「五大老」 と 「五奉行」 は、よく混同されたり間違われたりするので注意です。
(実際、当時もよく間違って認識されていたりしたようです)

豊臣五大老 は、各地の有力な大名によって構成された 「権力者の代表 であり、以下の5名です。

・関東を支配する五大老の筆頭、「徳川家康」。
・北陸地方を支配する秀吉の親友であり盟友 「前田利家」。
・中国地方の西部を支配する大名 「毛利輝元」。
・中国地方東部を支配し、子供の頃から秀吉に可愛がられていた 「宇喜多秀家」。
・越後の大名 上杉家 の後継者 「上杉景勝」。
(宇喜多秀家 の前に 小早川隆景 という人が五大老になっていましたが、関ヶ原の戦いにはあまり関係ないので省いています)
豊臣五奉行 は 豊臣家 の中で実際に政務を取り仕切っていた 豊臣家の上層部 であり、以下の5名です。
 ・筆頭が 「石田三成」、以下 「増田長盛」 「浅野長政」 「前田玄以」 「長束正家」。

さて、この五大老&五奉行の中で、関ヶ原の過程でもっとも主要な人物となったのが、
それぞれの筆頭である 「徳川家康」 と 「石田三成」 です。
豊臣秀吉 の死後、まず行動を起こし始めたのは 徳川家康 です。
彼はそれまで 豊臣家 の中で勝手に行うことを禁止されていた、各地の大名や家臣への 「婚姻(結婚)の斡旋」 や 「知行(領地)の授与」 などを、五奉行などに相談することなく独断で行うようになります。
もちろんこの行動に 「豊臣五奉行」 のメンバーは怒り、特に五奉行の筆頭 石田三成 は 家康 を非難するようになるのですが・・・
徳川家康
(徳川家康)
しかしこの 「石田三成」 という人、かなりの嫌われ者でした。
彼はもともと 豊臣秀吉 の一番の側近で、秀吉に様々な報告を行ったり、秀吉の命令を各地に伝達する役目を持っていました。
そのため彼によって、失敗や罪状を秀吉に報告され、処罰を受けた人が多くいたのです。
また、武将の失敗や失態などを、情けや釈明を無視してありのままに報告し、それに対する処罰を告げ、それでいて自分は 豊臣家 のトップにいる彼は、そういう役目だから仕方がないのですが、とにかく多くの武将から陰口を叩かれまくる存在でした。
石田三成
(石田三成)
おまけに 「官僚(政治家)」 ですから、本人が合戦で戦って傷つくこともありません。
この点も、実際に戦場で戦っている 「武断派」 の武将からは、嫌われる点でした。
この影響で、豊臣秀吉 が生きている頃から豊臣家の内部では 石田三成 を中心とする 「官僚派(文治派)」 と、合戦で戦っている 「武断派」 の間で内部対立が発生していました。
この豊臣家の内部対立が、「関ヶ原の戦い」 の主要原因となっていきます。
秀吉の死後、徳川家康が勝手に婚姻や知行の斡旋などを行っていたのは非難されるべきものでしたが、それを受けた武将にとってはありがたいものであり、おまけに非難している石田三成サイドは嫌われていましたから、武将たちはそれぞれ 「家康派」 と 「三成派」 に分かれていく事になります。
しかし、それがすぐにトラブルに発展してしまうことはありませんでした。
なぜなら、豊臣家の中には仲裁役として活動していた 「前田利家」 がいたからです。
前田利家 は 豊臣五大老 の NO.2 としての権力と、多くの武将や大名たちから慕われていた人徳を併せ持ち、事件が起こりそうになっても仲裁して大きなトラブルにならないよう配慮していました。
また、彼自身は 徳川家康 の勝手な行動に反発しており、豊臣五奉行 寄りの立場として、武断派 の武将の暴発を抑える役割も果たしていました。
前田利家
(前田利家)
しかし、時は流れ・・・ 翌年 1599 年3月。 仲裁を行っていた 「前田利家」 も死去します。
そして仲裁役を失った豊臣家の内部分裂はどんどん激化、ついに大事件が起こってしまいます!
石田三成 暗殺未遂事件」 です!
豊臣家の武将として活躍しており、そして 石田三成 と対立していた 豊臣家 の武断派の武将7名が結託、石田三成 を亡き者にしようと襲撃を計画したのです!
その武将は 「福島正則」、「加藤清正」、「黒田長政」、「藤堂高虎」、「細川忠興」、「加藤嘉明」、「浅野幸長」 という名の、戦国の名立たる名将ばかりです。
(記録によっては、「池田輝政」、「蜂須賀家政」、「脇坂安治」 という人も含まれる場合があります)
しかしその襲撃を 石田三成 は事前に察知、襲撃前に姿を晦まします。
このとき、石田三成 は 徳川家康 の屋敷に逃げ込んだとも、家康 の子 「結城秀康」 に仲裁を頼んで城や自分の屋敷に逃げたとも言われていますが・・・
いずれにせよ、ライバルである 徳川家康 がこの事件の仲裁をおこなって事なきを得ました。
武断派 の武将としては、石田三成 の対抗者である 家康 に 「そんな事はやめときなさい」 と言われると、断ることが出来なかったからです。
ですが、この事件が起こった事で 石田三成 は謹慎処分となり、一時的に失脚してしまいます。
そして事件を解決させた 徳川家康 の影響力はさらに大きくなることになりました。
同時に、豊臣家の 「官僚派」 と 「武断派」 の分裂は、もはや修復不可能なほどに決定的なものとなってしまったのです。
石田三成 が 暗殺未遂事件 で失脚すると、徳川家康 はその代わりとして 豊臣家 の中枢であった 「大阪城」 に入り、自ら政務を指揮するようになります。
これによって 徳川家康 の権力はさらに強化されるものとなりますが、もちろん 豊臣五奉行 としては面白くなく、両者の対立がさらに深まっていきます。
そんなある日、徳川家康 は 豊臣五奉行 を支持していた 前田利家 が死んだ後、その 前田家 を継いでいた 「前田利長」 と、豊臣五奉行 の1人 「浅野長政」 が結託し 「徳川家康 暗殺計画」 を計っていたと言う事を公表します!
これが本当だったのか、それとも 家康 サイドの策略だったのかは解りません。
いずれにせよ、この一件により 五奉行 の1人 「浅野長政」 は失脚。
さらに 家康 はこの計画をしていた 「前田家」 を討伐するとして、兵を集めて出陣の準備を進めます!
しかしこの騒動は 前田利家 の妻であった 「まつ(芳春院)」 が 徳川家 に自ら人質となりに行き、いち早く 前田家 が 徳川家 に従う姿勢を見せたため、回避されました。
浅野長政
(浅野長政)
ですが結果として、徳川家 は 豊臣五大老 の NO.2 だった 前田家 を従える事になり、さらに 豊臣五奉行 も弱体化させます。
人々の中にも、「天下はこのまま徳川家康のものになるのではないか(なっているのではないか)」 という風聞が広まっていくことになりました。
そして、年月はついに 1600 年のお正月となります。
豊臣家 の中で最も力を持つに至った 「徳川家康」 は、各地の大名家に年賀の挨拶を求めました。
ところが、この挨拶を 「上杉家」 だけは断り、さらにそれを伝える使者であった家臣を謀反の疑いで処罰しようとします!
そのためその家臣は 上杉家 を出奔(離脱)! おまけに 家康 に 「上杉景勝(上杉家の当主)に謀反の気配があります」 と報告をします。
元々、この前の年から 上杉家 が無断で軍備の増強を進め、城の防備も固めており、合戦の準備をしているという話は流れていました。
そのため 家康 は、これらの件について釈明を求める手紙を出すのですが・・・
これに対する 上杉家 の重臣 「直江兼続」 の返信は、以下のようなものでした。
直江兼続
(直江兼続)
「くだらない噂を信じて謀反を疑うなど子供のようなもので、釈明の必要もない。 軍備を進めているのは東北の大名に対する備えをしているだけだ。 そちらは京都で茶器でも集めているんだろうが、こちらは田舎者ゆえ武具を整えるのが武士だと思っている。 だいたい自分が勝手に婚姻の斡旋などをしていたくせに、人に違約違反を言うのはおかしい。 前田家をお仕置きしたらしいが、大層なご威光だ。 あらぬ噂を真に受けて汚名を着せようというのなら、兵を率いて出迎えてやるから、いつでもかかってこい」
これが、すでに天下を掌握しつつあった徳川家に対し、堂々と挑戦状を叩き付けた有名な 直江状 です。
この 「直江状」 の経緯については後世、様々な説や推測が飛び交っています。
「家康側はこうした返信が来るのを承知しており、上杉側はその術中にハマったのだ」という説もあれば、
「上杉家と石田三成がすでに連携していて、徳川家康を誘い出すために挑戦状を出したのだ」という説もあります。
もちろん単なる手紙の出し合いでこうなっただけかもしれず、手紙の真偽を疑う説もありますが、いずれにせよこれが 「関ヶ原の戦い」 の引き金になったことは確かです。
そして 徳川家康 は、「上杉家の謀反の疑いはもはや確実、討伐するために出陣する!」 として、大軍を率いて 大阪城 を出発します。
そして、いよいよ時代は大きく動くことになります・・・ 時は 1600年、6月のことでした。
徳川家康 が家臣と共に軍勢を率いて出陣したことにより、大阪城 には 徳川派 が一時的にいなくなりました。
すかさず 石田三成 は行動を開始、友人の 「大谷吉継」 を館に招いて今後を相談します。
この 「大谷吉継」 という人は、豊臣秀吉 に 「百万の軍勢を率いさせてみたい」 と言わせたほどの名将でしたが、皮膚がただれて腐っていく 「ハンセン病」 という病気の患者であったため、あまり他の人が近寄ることはありませんでした。
しかし 石田三成 はそんなことは全く気にせず、大谷吉継 と親交を深めていました。
そして 三成 はここで、「家康打倒」 のこころざしを語ったと言われています。
大谷吉継
(大谷吉継)
その後、石田三成 は豊臣五奉行の 「増田長盛」 や、豊臣家の重臣で 三成 の友人の 「小西行長」、豊臣五大老 の大名家 「毛利家」 の家臣の僧侶 「安国寺恵瓊」 などと相談、徳川軍 を打倒する計画を立案します。
そして翌月 1600年7月、石田三成 はついに 「徳川討伐」 の挙兵を宣言!
内府ちかひの条々 を交付して諸国の大名に集結を呼びかけます!
「内府ちかひの条々」 の 「内府」 とは 徳川家康 の事で、「ちかひ」 とは 「違い」、つまり間違っているという意味。 
その内容は、家康 が勝手に婚姻(結婚)や知行(領地)の斡旋を行ったり、無実の 前田家 や 上杉家 を攻撃しようとしたり、他にも勝手に手紙をやり取りしたとか、城の一部を無断で改修したとか、大なり小なり様々な 徳川家康 の罪状を並べたて、家康の討伐を訴えた文章(檄文)です。
そして、豊臣五大老の中国地方の大名 「毛利輝元毛利元就の孫)」 を総大将として軍勢を整え、関所を封鎖して西側の大名家が 徳川軍 に参加できないようにし、さらに 大阪城 にいる東軍の武将の家族を人質に取って、必勝体制を整えます!
そして翌日、すかさず 徳川軍 の駐留部隊がいる京都の城 「伏見城」 を総攻撃します!
「伏見城」 には 徳川家 の重臣 「鳥居元忠」 がいましたが、守備兵は 1800 ほどでした。
一方、攻撃側には1万以上の兵力があり、しかも諸国の軍勢がどんどん参加して兵力は増加、多勢に無勢の状態になっていきます。
結果、伏見城は炎上して 鳥居元忠 は戦死。
しかしその報告は 上杉家 に進軍中の 徳川軍 に伝えられました。
鳥居元忠
(鳥居元忠)
徳川家康 は京都での戦いの報告を受けて 「小山」 と言う場所で 「評定(会議)」 を開きます。
これは 「小山評定」 と呼ばれる、有名な評定です。
ここで 「今後 徳川軍はどうするのか?」 が相談されますが、最初に徳川家康 が武将達に、「人質を取られ困っている者もいるだろう。 ここで大阪(西軍側)に帰っても構わない。 道中の安全は保証する」と発言します。
すると 「石田三成 暗殺未遂事件」 の実行者の1人であった猛将 「福島正則」 が 「残してきた妻子を犠牲にしても 石田三成 を討伐する!」 と発言、同じく 三成暗殺未遂 メンバーの1人 「黒田長政」 もそれに続き、さらに 織田家 の旧臣であった 「山内一豊」 という人が 「城と領地を全て差し出しても家康様に協力する!」 とまで宣言します。
これらの発言で反対意見はなくなり、上杉家 に進軍中の 徳川軍 はそのまま大阪方面に戻って 石田三成 と戦うことが決定されました。
福島正則
(福島正則)
この時点で、「石田三成(豊臣)軍西軍」、「徳川家康軍東軍」 という、関ヶ原の戦いの2大陣容が決定付けられます。
その後、東軍に参加した 「細川忠興」 の妻 「細川ガラシャ(玉。 明智光秀の娘)」 が、「自分が人質となっては東軍にいる夫の邪魔になってしまうから」 と言い、屋敷に火を放って自ら死を選びます。
こうした話が伝わるたびに東軍の結束は強まっていき、石田三成 が人質を取ったことは逆効果に働いていきます。
ただ、戦国の名将 「真田昌幸真田幸村の父)」 だけは、当初は 徳川軍 に参加していましたが、小山評定の際に徳川軍から離脱します。
これが後になって徳川軍の行動に響くことになりました。
細川ガラシャ
(細川ガラシャ)
さて、石田三成 の挙兵を受けて、その軍勢と戦うことにした 徳川軍 ですが、もともと 上杉家 を攻撃するために出発した軍勢ですから、上杉家 をそのまま放置することは出来ません。
ヘタをすると西軍との戦闘中に背後を襲われる危険もあります。
そのためここから 徳川家康 は、関東を中心とする各地の大名家に協力を要請、関ヶ原のための足場固めを始めます。
関東・東北地方で 西軍(石田三成側)と言えたのは、上杉家 と、もう1つ 「佐竹家」 という大名でした。
一方、東軍(徳川家康側)に協力したのは東北の大名 「最上家」 と 「伊達家」 でした。

そこで 徳川家康 は、自分の息子であり武勇に優れていた 「結城秀康」 に 佐竹家 の押さえを命じ、そして 最上家・伊達家 の両大名家に 上杉家 への攻撃を依頼します。
上杉家 は 進軍してくるはずだった 徳川軍 を待ち構えていましたが、徳川軍は 「小山評定」 の後に引き返してしてしまい、同じタイミングで 伊達家 が 上杉家 への攻撃を開始します。
さらに、最上家 も 上杉家 への進攻を開始しようとしていましたが・・・
上杉家 は 最上家 が攻め込んでくる気配を察知すると、直江兼続 や 前田慶次 などの部隊で 最上家 を先制攻撃! 最上家は追い詰められてピンチになります!
しかし伊達家の 伊達政宗 の軍勢が急いで救援に向かったため、そのまま戦いは激化、一進一退の展開となります。
この激突が最も激しくなったのが、ちょうど西で 「関ヶ原の戦い」 が起こっていたのと同時期です。
結果としては、これで 徳川軍 は 上杉家 に対する抑えは出来たことになりました。
(上杉側 としても、最上家・伊達家 の抑えが出来た事になります)
一方、東軍の先鋒として 「福島正則」 の部隊が進軍を開始、東海道を通って、江戸から三河や尾張(愛知県方面)に一気に進んでその周囲を押さえます。
徳川家康 はしばらく各地の武将や大名に協力要請の手紙を書き続けていましたが、1ヶ月ほど経ってついに出陣!
本隊の軍勢を2つに分け、1つは自分が率いて東海道から西に向かいます。
もう一方の軍勢は、徳川家康 の次男で 徳川家 の後継者であった 「徳川秀忠」 が率いて、「中仙道」 という山間部のルートを通り、西に進軍していきました。

ですが、この 「徳川秀忠」 の部隊は結果的に 「関ヶ原の戦い」 には間に合いませんでした。
なぜなら途中に、徳川軍から離脱して西軍に味方した 「真田昌幸真田幸村」 のいる 「上田城」 という城があったからです。
この上田城には 2000人の兵がいましたが、徳川秀忠の軍勢は 3万8千、圧倒的な差です。
これなら秀忠軍は楽勝で城を落とせそうですが・・・ 名将 「真田昌幸」 の防戦の前に大苦戦
徳川秀忠 軍の家臣も、「ほっといて進もう!」 とか 「いや、落とせなかった恥になるぞ!」 とか意見が分裂して揉めまくり、おまけに 「早く進め!」 という 家康 の使者も大雨で遅れまくります。
徳川軍の兵力の半分はこの 徳川秀忠 が率いていましたから、これが戦場に到着しなかったため、徳川家康 としては大誤算でした。
しかし、徳川軍の他の方面の作戦は順調に進んでいました。
もともと西軍より東軍の方が協力者が多かったこともあり、尾張(名古屋)・美濃(岐阜) と次々と西軍に味方した武将の城は陥落していきます。
美濃の 「岐阜城(旧 稲葉山城)」は、豊臣秀吉 によって 「織田家の跡継ぎ」 とされた 織田信長 の孫 「織田秀信(三法師)」 が守っていましたが、多勢に無勢だった上に、この城はずっと長い間 織田家 や 豊臣家 に使われていたため、内部の構造が知れ渡っていてあっさり陥落。
石田三成 は 「岐阜城はしばらく持ちこたえてくれるだろう」 と思っていたようなので、これは三成側の誤算となります。

(織田秀信)
しかも、石田三成 が主力と考えていた 「豊臣五大老」 の大名家 「毛利家」 「宇喜多家」 の軍勢は、動きが鈍く、思ったような軍事行動が出来ていませんでした。
これは 毛利家 も 宇喜多家 も、当主を含めて武将の多くが 「二代目」 であり、戦国時代を生き抜いた経験豊かな武将が少なかったためのようです。
また、徳川側からの再三の寝返り要請があったことや、石田三成 の人気がなかった事も影響し、武将や兵士の 「やる気」 に問題があったとも言われています。
さらに、「豊臣五奉行」 の1人であり、石田三成 と共に西軍の軍事計画を立てていた 「増田長盛」 でさえ、実は 徳川家康 に内通しており、西軍の軍事計画を東軍に報告したりしていました。
すでに 「情報戦」 の面で、西軍は東軍に劣っていたと言えます。
石田三成 は 徳川軍 の京都・大阪への進軍を止めるべく、「関ヶ原」 の近くにあった 「大垣城」 という城に入ります。
東軍はこの大垣城に進軍していき、いよいよ舞台は決戦の地 「関ヶ原」 に移ります。

戦場に到着した東軍(徳川側)は、まずは大垣城の近くに布陣します。
1600年、9月14日のことでした。
徳川家康 の本隊の進軍が思いのほか早かったため、急に増強された東軍を見て西軍(石田三成側)の兵は動揺を隠し切れません。
しかし、これを沈めようと立ち上がった男がいました。 勇将 「島左近」 です。
勇将・名将として名高かった彼は 石田三成 から 「私の知行(領地)の半分以上をあげるから、ぜひ家臣になってくれ」 という破格の申し出を受けて感動し、石田三成 のために尽くしていた武将です。

そして彼は、西軍の兵の動揺を鎮めるには 「勝つ事」 しかないと考えます。
関ヶ原の戦い 前日
(1600年 9月14日 夕方)
彼はさっそく兵の一部を率いて東軍の陣の前に向かい、敵を挑発します。
この挑発に怒った東軍の部隊が 島左近 の兵に襲いかかり、その勢いに押されて島左近の軍勢は後退してしまうのですが、これは全て左近の作戦。
敵をおびき寄せた所で伏兵で敵の背後を遮断し、そのまま孤立した相手を包囲攻撃!
おびき出された東軍の部隊は壊滅し、そしてそれを見ていた西軍の兵は奮い立ち、動揺も鎮まったと言います。
この戦いは、関ヶ原の前哨戦となった 「杭瀬川の戦い」 と呼ばれています。
島左近
(島左近)
その後、東軍と西軍はにらみ合いが続き、そのまま夜になりました。
その夜は雨で見通しが悪かったため、西軍に参加していた島津軍 や 島左近 などの西軍の武将たちは 「士気も上がっており、見通しも悪いので、城を出て夜襲で勝負をかけましょう!」 と 石田三成 に進言しますが、これは 三成 に却下されてしまいます。
石田三成陣営、徳川家康陣営、双方ともこの夜にどう動くか色々と思案していたようですが・・・
その行動は、全く別の人物によって大きく動かされることになりました。
豊臣秀吉 の養子であり、関ヶ原の戦いのキーポイントとなった人物、「小早川秀秋」 という人です。
この 「小早川 秀秋」 と言う人は 豊臣秀吉 の養子で、秀吉に大変可愛がられており、一時は 豊臣家 の跡継ぎ候補でもあった人物です。
その後に 元・豊臣五大老 の1人である 「小早川隆景」 という人の養子となり、大名であった 「小早川家」 を継いだ人物で、この小早川家は西軍の総大将とされた 「毛利家」 の家臣でもあるので・・・
すなわち 小早川秀秋 は、血統的にも立場的にも西軍に属するべき人でした。
小早川秀秋
(小早川秀秋)
ところが・・・ 彼は大の 石田三成 嫌いでした!
と言うのも、朝鮮出兵の時の彼の失態を 石田三成 が 豊臣秀吉 に詳細に報告し、彼は 秀吉 におもいっきり怒られたあげく、領地も没収されていたからです。
しかもそのあと、彼と 秀吉 の仲を取り持ってくれたのは他ならぬ 徳川家康 でした。
そのため、彼は徳川側の東軍に付こうとしていたのですが・・・ なにせ立場的にはどう考えても西軍にいるべき人。
おかげで西軍として出陣することになってしまい、しかも 石田三成 から 「勝ったら最上位の役職をあげます!」 とか 「領地大幅アップ!」 とか色々と西軍に残るよう説得を受けます。
しかし 徳川側 も当然のように彼に 「一緒に戦おう!」 と使者を送っており彼はどっちに付くべきか悩んだまま、この 「関ヶ原」 の日を迎えていたのです。
そしてこの 小早川秀秋 が、島左近 が 「杭瀬川の戦い」 で戦っていた 9月14日、1万5千の大軍を率いて突然 関ヶ原の近くの 「松尾山」 という山に移動した事から、事が動き始めます。

「松尾山」 という山は西軍のいた 「大垣城」 の西にありました。
ここにはもともと西軍の別の部隊が駐留していたのですが、いきなり動き出した 小早川秀秋 の軍勢が勝手にその部隊をどかして、そこに居座ってしまいます!
「裏切りそうな人」 が、西軍の部隊をどかして自分たちの側面の山にいきなり布陣したことは、西軍の 石田三成 たちに不安を呼びました。
一方、東軍は・・・ 城に篭っている 西軍 を、何とか城からおびき出したいと思っていました。
そのため、「東軍は 大垣城 を包囲して放置し、大阪方面に進軍を続け、大阪と京都を制圧しようとしている」 という噂を西軍に流していたと言われています。
そんな時に、寝返ってくるかもしれない 小早川秀秋 が 松尾山 に移動して、居座ります。
西軍は、小早川秀秋 ににらみを利かせるためだったのか、それとも移動してきた 小早川秀秋 の軍勢を利用しやすい位置に移動したのか、はたまた 「東軍は大垣城を無視して進軍しようとしている」 という噂に影響されたのか・・・
その夜、大垣城を出て、夜の雨にまぎれてこの 松尾山 の近くに移動し始めます。

この移動を 東軍 も察知、城攻めを避けたいと思っていた東軍には絶好の機会ですから、すかさずこれを追いかけ、両軍は関ヶ原へと向かうことになります。
関ヶ原の戦い 前夜
(1600年 9月14日 夜)
関ヶ原」 に到着した両軍の布陣図は、右のような感じでした。
青が東軍赤が西軍の部隊です。
(解りやすくするため、細かい武将の配置図などは省略しています)

右の地図には表記していませんが、西軍の勇将 「島左近」 は 石田三成 の本陣のすぐ前に布陣していました。
徳川の本陣近くには、戦国最強と呼ばれている 「本多忠勝」 や、赤備えの猛将 「井伊直政」 などの部隊なども控えています。
関ヶ原の戦い 早朝
(1600年 9月15日 早朝)
見ての通り、関ヶ原という場所は四方を山に囲まれたくぼ地であり、その中に入った東軍を、山の上に布陣した西軍が完全に包囲している状況です。
これは誰がどう見ても 「西軍有利」 です。
実際、後世にこの布陣図を見たドイツ軍の将校も、見た瞬間に「西軍必勝!」と叫んだそうです。
ですが、戦いはその通りにはなりませんでした・・・

戦いは夜明けと共に始まりました。
まずは、先鋒を任された 東軍 の 「福島正則」 と、西軍 で最も大軍を率いていた 豊臣五大老 の1人 「宇喜多秀家」 の軍が戦闘に入ります。
福島正則 の部隊には槍の名手 「可児才蔵」 もいて、かなり強力な部隊と思われていたのですが、宇喜多秀家 軍にも 「明石全登」 という勇将がいました。
この人は 「キリシタン武将」 として知られている人で、後に 「大阪の陣」 という戦いがあった時、十字架とキリスト像を掲げた日本版 「十字軍」 を率いて戦ったという、ちょっと珍しい人です。
東軍の主力の1つである 福島正則 の部隊は、明石全登を擁し、兵力も多い宇喜多軍に苦戦、一進一退の状況が続きました。
その後、石田三成 の本隊に、東軍の 「黒田長政」 「細川忠興」 「加藤嘉明」 などの武将の部隊が攻撃を開始します。
この人たちはみんな 「石田三成 暗殺未遂事件」 の実行者であり、石田三成 に恨みを持っていた人たちばかりで、そのために 三成 の部隊の前面に配置されたようですが、石田三成 の本陣の前には勇将 「島左近」 が立ち塞がっていました。
黒田長政
(黒田長政)
ところが・・・ 島左近 は開戦早々に 黒田長政 の鉄砲隊の銃撃をまともに受けてしまい重傷、そのまま本陣に担ぎ込まれてしまいます!
石田三成 にとって、最も頼りにしていた武将の1人である 島左近 が開戦直後に戦闘不能になってしまったのは大誤算と言っていいでしょう。
その後、石田三成 は自分の部隊でなんとか本陣を維持するべく、奮闘することになります。
当初、東軍はそこまでの経緯から 「西軍は戦闘になるとあまり強くないだろう」 と思われていたのですが、西軍は予想外に善戦して戦況は互角、むしろ西軍がやや押しているような状況となります。
そこで 石田三成 はさらに戦況を有利にするべく、本陣の近くに控えていた 「島津義弘」 の部隊に攻撃を依頼します。
この 「島津義弘」 と言う人は 南九州・鹿児島 からはるばるやってきた援軍で、数々の合戦で活躍し、その兵の強さは日本中に轟いていました。
ところが、この 島津軍 は進軍要請を拒否します。
と言うのも、島津義弘 は 豊臣家 への義理を果たすため西軍に参加していましたが、石田三成 の態度を嫌っていて、三成 に全面的に協力している訳でもありませんでした。
島津義弘
(島津義弘)
島津軍 は開戦直後から 徳川家 の武将 「井伊直政」 などの部隊と戦っていましたが、西軍の武将の多くが疑心暗鬼の状態にあったことが解っていました。
また、開戦前の夜、東軍への夜襲を最初に進言したのは島津軍の武将(島津豊久)でしたが、これを石田三成は却下していました。
それらもあって、島津義弘 は戦況を見て 「まだ討って出るべきではない」 と判断し、石田三成 の要請を拒否したのです。
島津義弘 はこの関ヶ原で、西軍の勝利よりも、「島津家としての戦いをする」 ために戦っていました。

島津軍 に要請を蹴られた 石田三成 は、次に徳川軍の後方に位置する 「南宮山」 に大軍を率いて布陣していた 「毛利軍」 に、進軍を要請します。

この軍団は 「西軍の総大将」 という名目だった 「毛利輝元」 によって派遣された部隊であり、進軍の要請を受けて進もうとしたのですが・・・
ここで毛利軍にいた 「吉川広家」 という人の部隊が突然反逆します!
命令を出しても全く言う事を聞きません!
進軍を催促しても 「弁当食べてるからダメ」 とか言い出す始末。(宰相殿の空弁当と呼ばれています)

このまま吉川広家は毛利軍の前に立ち塞がり、味方同士で争うことを嫌った 毛利軍 は身動きが取れなくなってしまいます。
関ヶ原の戦い 朝
(1600年 9月15日 朝)
毛利家にはかつて、「小早川隆景」 「吉川元春」 という名の2人の重臣がいました。
しかし2人は戦国時代の後期に考え方の違いから遠ざかり、その影響で 毛利家 の内部も2派に分かれていました。
そして 毛利家 を西軍として参加させた僧侶 「安国寺恵瓊」 は 小早川派 と言える存在でしたが、吉川広家 は 吉川元春 の子であり 小早川派 の考え方には反対していて、徳川家康 に早い段階で接近し、東軍側の存在となっていたのです。
しかも彼は、「東軍が勝った後、毛利家の責任は問わない。 領地もそのまま保障する」 という約束まで取り付けていました。
吉川広家
(吉川広家)
この 吉川広家 の寝返りによって、このまま 毛利軍 はほとんどまともに戦わないまま、関ヶ原の戦いを終えてしまいます。
結局、毛利家 は 西軍・総大将 という事になっていましたが、実際には総大将らしいことは何もやっていません。
また、この方面には 四国・土佐 の戦国大名 「長宗我部家」 の部隊も西軍として参加していましたが、これも元々は東軍に参加する予定で、関所が閉鎖されていたため東軍に合流できず、仕方なく西軍になってしまったという部隊だったので、最初からやる気がなくて動く事はありませんでした。
島津軍 に続いて 毛利軍、さらに 長宗我部軍 も動かないため、石田三成 は関ヶ原の側面、「松尾山」 という山に布陣している 「小早川秀秋」 に進軍を要請します。
しかしこの 「小早川秀秋」 という人は前述した通り、西軍として参加はしたものの、実際には大の 石田三成 嫌いです。
しかも戦闘中、東軍からも 「早く寝返ってー!」 という要請を受け続けていました。
彼が布陣していた 「松尾山」 という場所からは、関ヶ原の様子が一望できます。 彼は有利な方に付きたいと思っていたようですが、目の前の戦いは一進一退のまま、なかなか優劣が付きません。
その様子を見ていてついに痺れを切らした 徳川家康 は・・・ ここで 「賭け」 に出ます。
なんと 小早川秀秋 の部隊に鉄砲隊を向け、一斉射撃したのです!
東軍から鉄砲を撃たれたのですから 小早川秀秋 は怒って西軍に付きそうですが、秀秋 はこれにビビって 「家康が怒っている!」 と思い、あわてて寝返りの準備を始めます!
この鉄砲の話は創作だと言う説もありますが、徳川家康 が 小早川秀秋 が小心者であることを見越して行った催促だったと言われています。
そして迷いの吹っ切れた 小早川秀秋 は、ついに1万以上の軍勢を率いて寝返りを宣言!
目の前の西軍の部隊に襲いかかります!

ところが、これを予測していた人物がいました。
石田三成 の盟友 「大谷吉継」 です。
彼は 小早川秀秋 や西軍の武将が寝返る事は薄々わかっていたようで、最初から 小早川秀秋 が寝返った時にそれを抑えられる位置に布陣していました。
そのため、小早川秀秋 の部隊はこれに迎撃されていきなり敗れ、押し戻されてしまいます。

(1600年 9月15日 昼前)
しかし、大谷吉継 の誤算はこの後でした。
彼と共に 小早川秀秋 を抑えられる位置に配置されていた部隊まで、小早川秀秋 と一緒に一斉に東軍に寝返ってしまったのです!
すでに彼らの所にも開戦前に寝返りの使者が訪れており、最初から内応している者もいたのです。
この結果、大谷吉継 の部隊は包囲されて集中攻撃を受け、孤軍奮闘するも壊滅。
大谷吉継 もついに戦場に消えてしまいます。
大谷軍 の消滅により、小早川秀秋 の軍勢は寝返った味方と共に再び進軍を開始、これで 関ヶ原の戦い」 の優劣は、ほぼ決定しました。
関ヶ原の前線では、まだ両軍の一進一退が続いていました。
石田三成 は何とか 徳川家康 の本陣を襲おうと迂回部隊などを回しますが、これは 猛将・本多忠勝 によって撃破されてしまいます。
宇喜多秀家 の軍はまだ善戦を続けていましたが、小早川秀秋 の軍勢がやってきてこれに側面から攻められ始めたため、そのまま瓦解。
戦線が維持できなくなり、明石全登 をしんがりにして戦場から退却します。
島津軍 も最後まで善戦していましたが、ついに西軍が崩壊し始めたのを見て撤退を決意。
しかもなんと後ろに下がるのではなく、前面の敵を突き破って突き抜ける 「敵中突破」 を開始します!
そのあまりの突撃に、その前にいた 徳川軍 はあっという間に蹂躙され、側面にいた 福島正則 の部隊もあっけに取られて防ぐことが出来ず、徳川家の 井伊直政 が追撃するも負傷してしまいます。

その後、島津軍 は大きな被害を受けながらも戦場を突破し、そのまま本国へと帰還していきました。

(1600年 9月15日 昼)
こうして、残された 石田三成 の本陣も 徳川軍 の総攻撃の前についに崩壊・・・
「関ヶ原の戦い」 は決着が着くことになります。
1600年9月15日の昼、開戦から約半日。
様々な出来事があった日本最大の大合戦 「関ヶ原の戦い」 は、戦闘時間は約6時間ほどで決着となりました。
西軍・大将 石田三成 は敗戦後に逃亡していましたが、数日後に追っ手に捕まってしまいます。
そして共に 「関ヶ原の戦い」 に至る計画を立てた 「安国寺恵瓊」 「小西行長」 と共に、京都引き回しの上、処刑されてしまいました。
他の 豊臣五奉行 は、「長束正家」 という人だけは敗戦後に自害しましたが、徳川軍に情報を流していたり、東軍に協力した他のメンバーは、謹慎処分で済んだり、領地を保障されたりしています。
対徳川の中枢であったはずの 「豊臣五奉行」 も、すでに開戦前に崩壊していたと言えます。
西軍に味方した武将や大名はほとんど処罰対象となり、「領地を保障する約束」 をされていたはずの 「毛利家」 も、戦後に約束を破棄され大幅に縮小されてしまいます。
逆に、東軍に味方した武将には多くの領地が与えられ、そのほとんどが大名に出世しました。
関ヶ原の勝敗を決定付けた 「小早川秀秋」 にも多くの領地が与えられ、大大名に出世しましたが、彼の関ヶ原での裏切りや醜態は世間の噂になり、非難や中傷の的にされてしまいます。
そして次第に彼は酒びたりの生活になり、そして関ヶ原から2年後・・・ 狂死(狂い死に)してしまったといいます。
島津義弘」 の 島津軍 は、関ヶ原から退却して本国・薩摩(鹿児島)に戻りますが、九州では 東軍 の味方を宣言した 豊臣秀吉 の元軍師 「黒田如水(黒田官兵衛)」 が、西軍に付いた 「立花宗茂立花闇千代の夫)」 などと合戦を繰り広げていて、この軍勢と一触即発の状態となります。
しかし関ヶ原の戦いが終わったあと、徳川家康 から停戦命令が届き、合戦は寸前で中止。
その数年後、島津家 は 徳川家 から領地を認められ、九州の対立も終息します。
宇喜多秀家」 は 島津家 に逃亡しましたが、その後に出頭し、島流しの刑になります。
この時の妻であり前田家の姫である 「豪姫」 との別れは、戦国の悲恋物語として有名です。
上杉家 と 伊達・最上連合軍 との間で行われていた東北地方の合戦は、関ヶ原の西軍敗北の報告を受けて、上杉軍 が 直江兼続 や 前田慶次 をしんがりにして撤退。
その後、上杉家 は 徳川家 に謝罪して関係の修復に務め、領地は大幅に縮小されますが、大名家 としては存続しました。
東軍に協力した 伊達家・最上家 は領地の増加を受けています。
ただ、伊達政宗 は開戦前に 家康 と 「伊達家100万石」 の領地が与えられる約束をしていましたが、これは与えられませんでした。
徳川家康 は、各地の大名家が 徳川家 の脅威となるほどの領地を持つことを避けたようです。
そして 「豊臣家」 は大幅に縮小されて普通の大名家の1つとなり、徳川家康 の元に天下は再び統一され、関ヶ原の戦いから3年後の 1603年、「江戸幕府」 が開かれます。
日本は 「江戸時代」 に入り、再び 「太平の世」 へと移って行きました・・・

以上が、「関ヶ原の戦い」 の概要です。
石田三成 と他の 「武断派」 の武将の対立は、「朝鮮出兵」 の中で起きました。
石田三成 はその朝鮮出兵の 「総奉行」 であり、戦いに参加した武将たちの詳細を 豊臣秀吉 に報告する役目にありましたが、それは武将の失敗を報告する役目でもありました。
さらに、武将の功績を報告する役目でもありましたが、監督である彼の評価と、武将が自分で思っている評価はやはり異なる場合が多かったようで、戦場で戦った武将には、石田三成 が 「自分の功績を過小に報告している」 と映ってしまったようです。
石田三成 に対する評価は後世、真っ二つに分かれていますが、彼が優秀な官僚であった事は間違いありません。
また、多くの武将に嫌われた彼に対する誹謗中傷はかなり激しかったようで、そうした中傷や噂が、彼の人物像を過度にゆがめていた現実もあるようです。
一方、徳川家康 は、朝鮮出兵による戦乱の拡大や継続と、それにより発生した修復しがたい 豊臣家 の内部対立・・・ それを間近で見る立場にありました。
そのことが、彼を 「天下人」 の道へと走らせたのかもしれません・・・
「関ヶ原の戦い」 で戦った二人は、おそらく共に、日本の今後の事を思って戦っていたのでしょう。

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201/11/9 文章を一部訂正
2009/9/20 文章と画像を一部修正
2009/5/18 文章の一部修正
2008/4/1 画像を一部変更
2006/11/6 文章の一部修正・加筆
2006/4/7 誤字の修正と、武将名鑑へのリンクを追加
2006/1/17 文章と画像を一部修正
2006/1/2 初稿