徳川氏

徳川家 と 徳川家康


戦国時代を生き抜き、天下を統一して 265 年間もの長きに渡った「徳川幕府」を創設、「江戸時代」を築いた戦国大名徳川家康」。
知らない人はいない、超有名人ですね。
徳川家は元々は 「松平家」 という家柄で、「三河(現在の愛知県東部)」を拠点としていました。
しかし、戦国時代における 松平家 は当初は一地方の弱小勢力に過ぎず、尾張の大名 「織田家」、駿河・遠江の大名 「今川家」 の間で揺れ動いていました。
そのため、松平家の跡取りである 「松平元康(後の徳川家康)」 は 松平家 を支配するための道具として利用され、織田家と今川家の間を「人質」として行ったり来たりしていました。
時には、今川家に運ばれる途中、500 文で 織田家 に売られたりもしていたそうです。
そんな人質だった幼少時代の元康(家康)は、その大半を 今川家 で過ごしていました。
ただ、織田家 にいた頃には、若い頃の 織田信長 と遊んだりもしていたと言われています。
しかし 1560 年、一大転機が訪れます。 「桶狭間の戦い」です。

大軍を率いて京都を目指した今川家の 今川義元 が、桶狭間の地で 織田信長 の急襲に合い戦死。
今川軍は壊滅して遠江に撤退し、そのまま大混乱に陥ったのです。

この時、松平元康(徳川家康)の率いる三河の軍勢は、今川軍の一部隊として活動をしていましたが、今川義元の戦死の報告を受けて拠点である三河の岡崎城に帰還。
そのまま 今川家 から独立する事となります。
その後、松平元康 は 織田信長 と同盟を結び、この頃に名前を 「徳川家康」 に改めます。
この織田家と徳川家の同盟は後世 「清洲同盟」 と呼ばれています。
信長 と同盟を結んだ後は、織田家 が北の 斉藤家 を攻撃する一方で、徳川家 はまず三河の今川家の残存勢力を吸収・制圧しつつ、三河の支配を固め始めます。
しかし三河には、「一向宗」 という宗教の僧侶と信者が結託した独自の勢力 「一向一揆 が大きな規模で存在しており、まずはこれに苦しめられる事になりました。
一時は一向一揆の軍勢に徳川家の城 「岡崎城」 が包囲され、滅亡の危機にも瀕しています。
桶狭間の戦いから4年後、なんとか徳川家康は一揆軍を鎮圧、ようやく三河の国を支配する事となります。
さて・・・ 「信長の野望 Online」 では、徳川 家康 は独自の勢力として三河に存在していますが、しかし今川家にも 「今川義元」 が生存しています。
これは実際にはあり得ない事なので、この辺りは 「信長の野望 Online」 は 「フィクション」 になっていると言えますね。
斉藤家 の 「斉藤道三」 も、家康が三河で独立した頃にはすでに死んでいるはずなので、どちらかと言うと 徳川家 だけが、他の国より 10 年ぐらい後の設定になっている感じです。
この辺は、逆に if 戦記として面白い設定かもしれませんね。
少し話がそれましたが・・・ 三河を支配した 徳川家康 はその後、今川家 への進攻を開始します。
すでに 今川家 は 今川義元 の亡き後 弱体化しており、徳川軍は 今川家 の支配地をどんどん攻め落としていきました。
この頃には、同じく 今川家 に進軍をしていた 武田家 と同盟も結んでいます。
その一方で、織田家 の近畿地方への進軍に、家康 自ら軍を率いて何度も援軍に向かっています。
徳川家の援軍も得た織田家はどんどん近畿地方を制圧、織田信長は戦国の覇者となっていきました。
しかし今川家の滅亡後、武田家が京都への上洛(進軍)を開始したため、織田家・徳川家 の両国は 武田家 と対立する事となります。
そして 武田家 の軍勢は 徳川領 に進攻してきますが、当初、武田軍は徳川軍を無視して西へ向かおうとしました。
そのため 徳川家康 は、「無視すんな、このヤロー!」 という感じで武田軍に正面きって向かっていき、戦いを挑みましたが・・・
逆に 武田信玄 にボコボコに敗退。
この戦いは 「三方ヶ原の戦い」 と呼ばれ、家康はこの時、自分の行為を恥じてその姿を絵に描かせ後の教訓としてそれを飾ったと言われています・・・
ただ後に 武田軍 に勇敢に向かって行ったとして、信長や他の大名からは称えられる事となりました。
その後、武田信玄 は上洛の途上で病死。
そのあとも 徳川家 は 武田家 と一進一退の攻防を続けていましたが、1575 年、「長篠の戦い」 で 織田軍 と共に鉄砲隊で 武田家 の騎馬隊を破ると、そのまま 武田家 は衰退して滅亡。
徳川家 は 武田家 の支配地を占領していきます。
そして、 1582年、2度目の転機が訪れます。 「本能寺の変」です。
京都の本能寺というお寺に宿泊中の 織田信長 を、家臣の「明智光秀」が突然急襲!
兵を率いていなかった 信長 は 光秀 の軍に討たれ、あえなく戦死してしまいます!
この時、徳川家康 も兵のいない状態で京都に宿泊しており、当日は堺(大阪)に観光に出かけていたため、明智光秀 の追っ手に追われて窮地に立たされてしまいます。
しかしお供の伊賀忍者 「服部半蔵」 が周辺の忍者に救援を要請、忍者たちが伊賀の山地を越える三河までの脱出路を確保したためこの危機を逃れます。
この逃避行は、「神君 伊賀越え」 として後の世に伝えられています。
危機を脱出した 家康 は兵を率いて京都に戻ろうとしますが、すでに 明智光秀 は 「羽柴秀吉(豊臣秀吉」 によって討たれていたため、まずは元 武田家 の領地を制圧して力を蓄えます。
そして2年後・・・
織田信長 亡き後の 織田家 の実権は 「豊臣秀吉」 が掌握しつつありましたが、織田信長 の次男 「織田信雄」 も自分が後継者だと主張しており、徳川家康 はこの 織田信雄 と同盟を結んで秀吉の軍と戦う事になります。
この戦いは 「小牧・長久手の戦い」 と呼ばれ、3倍以上の兵力を持つ秀吉軍を、徳川軍が破った戦いとして有名ですが・・・
結局、「織田信雄」 が勝手に 豊臣秀吉 と講和してしまったため、家康 も 秀吉側 からの講和を受け入れる事となり、双方は和睦。
そしてこれ以後、事実上、徳川家康は豊臣秀吉の臣下となる事になります。
その後の 徳川家康 は、豊臣秀吉 に忠実に仕えることになります。
後に 家康 が三河ではなく、江戸に幕府を開いたのも、この頃に秀吉に関東に移住するよう命じられたからですが、特に反対もせず快諾しています。
信長に対しても、当初は対等の同盟であったにも関わらず、後に平伏するようになるので、人の下に立つのを良しとする気風があったのかもしれません。
そして天下は 「豊臣秀吉」 によって統一され、一時的に平和な世の中を迎えるのですが・・・
時が経ち、豊臣秀吉が病死した後、徳川家康は豊臣政権に反するようになります。
これは、豊臣政権 の重臣であった 「石田三成」 と 家康 が不仲だったことから始まったものですが、石田三成 は他の多くの武将からも嫌われていて、その影響で豊臣家は内部分裂を起こしていたため、石田三成 を嫌う武将達が 家康 に接近。
これによって 豊臣家 の内部が、「石田三成派」 と 「徳川家康派」 に二分される事になります。
そして、すでに豊臣政権下で重要な地位にあった家康は、諸国の大名の支持も取り付け、急激に秀吉亡き後に支配力を伸ばそうとしました。
これに対して 「石田三成」 は危機感を抱くようになり、両者の対立は決定的となっていきます。
そしてある日、徳川家康 が 「要請に応じなかった 上杉家 を討伐する」 と称して出陣した隙に、石田三成は 豊臣家 に忠誠を誓う大名家に集結を呼びかけ、徳川討伐の兵を挙げます!
しかし 徳川家康 も最初からその動きを読んでいて、味方になった大名に集結を呼びかけます。
こうして、両軍が「関ヶ原」の地で戦う事になります。
この 「関ヶ原の戦い」 は、当初は 石田三成 の西軍が有利でしたが、西軍 に参加した武将には 徳川家康 に内通している者も多かったため、次第に戦況は一進一退になっていきます。
しかし両者から誘いを受けていて、戦いが始まってもどっちつかずの状態だった西軍の「小早川秀秋」が、東軍・徳川家康 からの砲撃に驚いて東軍に寝返ったために、戦況は一変!
動向を伺っていた他の西軍の武将達もそれを見て次々と東軍に寝返り始め、そのまま徳川家康の率いる東軍の勝利となりました。
関ヶ原の戦いは、各陣営の 「協力者」 同士の戦いであったため、双方の説得工作や寝返り工作などによって、それぞれの武将が微妙な立場となっていたようです。
結局、それを突いて寝返り工作を多方面にかけていた 徳川家 の方が、最終的に勝利を得る事になったようですね。
西軍の大将 「石田三成」 という人は敵が多く、他の豊臣家の武将たちから暗殺されそうになったりもしていました。
逆に 徳川家康 は八方美人な性格で、目上にも目下にも評判が良かったため、結局これが関ヶ原の勝敗の決め手となったようです。
この天下分け目の「関ヶ原の戦い」によって、徳川家康 は諸国の大名のトップとなり、江戸に幕府を開き、後に「将軍」となることになります。
ここから、長い 「江戸時代」 が始まることになる訳ですね。
それから 10 数年後・・・
徳川家康は、豊臣家 から送られた「鐘」に「国家安康」と書かれていたのを見て、「これは [家康] の文字を分けて呪っているものだ!」という無茶なイチャモンをつけて、まだ大坂に残っていた 「豊臣家」 に侵攻します。
これは、言いがかりもいいトコな訳ですが・・・ ^^;
本当はただの動機付けに過ぎず、いつまで経っても 徳川家 を 「天下人」 として認めず、家康の提示した度重なる講和案も突っぱね続け、豊臣家 が 徳川家 と対等(もしくは上)だと言い続けていた豊臣家(と言うより、豊臣家の実権を握っていた「淀君)に対して、ついに我慢も限界に達した、というのが実際の所だったようです。
豊臣秀吉が死んだ後、豊臣家は 「豊臣秀頼」 という人が当主になっていたのですが、彼はまだ幼かったので、側近の家臣や、彼の母の 「淀君淀殿)」 が付き人として政治を行っていました。
そして 「関ヶ原の戦い」で 石田三成 などの豊臣家の家臣が死んだため、「淀君」 が豊臣家のナンバー1となったのですが・・・
彼女は 「我が子かわいさ」 のあまり、豊臣秀頼こそが天下人という姿勢を崩さず、秀頼を過保護に育て、側近を気に入った者だけで固め、気に入らない者も遠ざけてしまいました。
このため、もはや 豊臣家 が 徳川家 に従う事はなかったのです・・・
こうして、徳川家康 は 豊臣家 に進軍を開始、「大阪 夏の陣」 と 「冬の陣」 で豊臣家の大坂城を攻撃し、豊臣家は滅亡
これで本当に戦国時代は終わりを告げ、日本は 「天下泰平の世」 となる事になります・・・
翌年、家康 はタイのテンプラを食べ過ぎてダウン。 享年、74 才。

「鳴かぬなら、鳴くまで待とう、ホトトギス」。 有名な、家康の性格を現した句ですね。
徳川家康 は最終的には天下を取りましたが、実際に彼が 天下取り に向かって具体的に動き出したのは、「関ヶ原の戦い」 の起こるほんの数年前からです。
それまではずっと、織田信長 や 豊臣秀吉 に臣従し、彼らの天下を支持してきました。
大名選択の際に 徳川家 に出てくる謎の文字 「厭離穢土、欣求浄土(おんりえど ごんぐじょうど)」は、戦乱の世のような乱れた世界を嫌い、平穏な浄土を求める、という意味の言葉で、徳川家の旗印となっていた言葉です。
これを旗印にした彼がそれを実現したことは、戦国の流れの行き着く所だったのかも知れません・・・
しかし 信On で 徳川家 が 欣求浄土 をもたらせるかどうかは、プレイヤー次第ですね。

徳川家 武将名鑑
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