徳川氏

徳川家 と 徳川家康

戦国時代を生き抜き、天下を統一して265年間もの長きに渡った「徳川幕府」を創設、太平の世「江戸時代」を築いた戦国大名「徳川家康」。
知らない人はいない、超有名人ですね。

徳川家は元は「松平家」という名前で、三河(愛知東部)を拠点としていました。
しかし戦国時代初期の松平家は小さな勢力に過ぎず、尾張の大名「織田家」と、駿河・遠江の大名「今川家」の間で揺れ動いていました。

そして松平家の跡取りである「松平元康(のちの徳川家康)」は松平家を支配するための道具として利用され、織田家と今川家の「人質」として幼少期を過ごします。

まず、幼い家康(竹千代)が5才の時、今川家に人質に出されることになりますが、なんと家臣に連れ去られ、織田家に売られてしまいます。
織田家で2年間を過ごした後、合戦で織田家が敗れた際に、今度は今川家に取り上げられます。
しかもその間に母は離婚して実家に帰り、父は家臣に斬り殺されてしまいます。

あまりにひどい境遇で、この時点ではのちに天下統一するような気配はまるでありません。
「徳川家」という大名家自体が、戦国初期には存在していなかったのです。

ただ、織田家と今川家では丁重に扱われ、生活自体は悪くなかったようです。
織田家では子供の頃の信長と出会って遊んでいたとも言われており、今川家では戦国きっての軍師「太原雪斎」から教育を受け、後の大将としての才覚が育まれたといいます。

徳川独立当時そして1560年、一大転機が訪れます。「桶狭間の戦い」です。

大軍を率いて京都を目指していた今川家の「今川義元」が、桶狭間の地で「織田信長」の急襲に遭い戦死。
今川軍は壊滅して遠江に撤退し、大混乱に陥ったのです。

この時、松平元康(徳川家康)の率いる三河の軍勢は今川軍の一部隊として活動しており、最前線の孤立した城に兵糧を運ぶなどして活躍していましたが、今川義元の戦死を聞いて三河の「岡崎城」に帰還。
そのまま今川家から独立する事となります。

もちろん独立と言っても簡単ではありません。
今川家の妨害を受けますし、三河には「一向宗」という宗教の信者の勢力「一向一揆」が大規模に存在、これに苦しめられる事になります。
一時は一向一揆の軍勢に徳川家の城「岡崎城」が包囲され、滅亡の危機にも瀕しました。

しかし桶狭間の戦いから4年後、なんとか家康は三河を平定(支配)。
そして織田信長と同盟を結び、名前を「徳川家康」に改めます。
この織田家と徳川家の同盟は後世「清洲同盟」と呼ばれています。

今川氏真三河を安定させた徳川家康は、いよいよ今川家への進攻を開始します。
今川家は今川義元の亡き後、家臣や小勢力の離反が相次いでおり、跡を継いだ今川氏真も疑いのある家臣を次々と粛清したため、「遠州錯乱」と呼ばれる混乱状態にありました。
家康はこれに乗じて勢力を伸ばします。
この頃には、同じく今川家に進軍を始めていた武田家と同盟を結んでいます。

その一方で、織田家の近畿地方への進出に家康自らが軍を率いて、何度も援軍に向かっています。
織田家&徳川家が浅井家&朝倉家と戦った「姉川の合戦」では、徳川軍は重要な戦力となりました。
家康の支援もあって、織田信長は京都周辺を制圧し、戦国の覇者となっていきます。

そして今川家が滅亡すると、今度は武田家が織田家と敵対。
上洛(京都への進軍)を開始したため、徳川家はその前に立ち塞がります。

武田信玄当初、武田軍は徳川領に入っても徳川軍を無視し、そのまま西へ向かおうとしました。
しかし家康は「無視すんな コノヤロー!」とばかりに、武田軍に正面きってケンカを売り・・・
武田信玄にボコボコに敗退

この戦いは「三方ヶ原の戦い」と呼ばれ、家康はこの時、自分の行為を恥じてその姿を絵に描かせ、教訓としてずっと飾っていたと言われています。
ただ、武田軍に勇敢に向かって行ったとして、のちに信長や他の大名からは讃えられる事となりました。
この一件で、より信長の信任を得たことでしょう。

その後、武田信玄は上洛の途中で病死。
徳川家と武田家は以後も一進一退の攻防を続けていましたが、1575年に「長篠の戦い」が起こり、武田家自慢の騎馬隊が織田・徳川軍の鉄砲隊に敗れると、武田家は急速に衰退していきます。

そして1582年、2度目の転機が訪れます。「本能寺の変」です。

京都の本能寺に宿泊中の織田信長を、家臣の明智光秀が急襲!
兵を率いていなかった織田信長は光秀軍にあっけなく討たれ、戦死してしまいます。

そしてこの時、徳川家康も兵のいない状態で京都に滞在しており、当日は堺(大阪)で観光していました。
そのため街道を封鎖され、明智光秀の追っ手が迫り、窮地に立たされます。

服部半蔵しかし伊賀の山中をこっそり抜けて、三河への帰還を目指す「伊賀越え」を開始。
同行していた伊賀忍者出身の「服部半蔵」が伊賀・甲賀の有力者に救援を要請しに行くと、少数のお供と共に落ち武者借りなどを撃退しながら、山の中を進んでいきます。
結果的に、甲賀の有力者が救援に応じ、伊賀・甲賀者200余名が護衛として派遣され、三河までの脱出路を確保。
徳川家康はこの最大の危機を逃れます。

脱出に成功した家康は兵を率いて京都に戻ろうとしますが、すでに明智光秀は「羽柴秀吉(豊臣秀吉)」によって討たれていました。
そのため、武田家の滅亡と織田信長の死によって軍事的に空白地となっていた、信濃と甲斐に進軍します。
甲斐と信濃には上杉家と北条家も進軍しており、領土を取り合う展開(天正壬午の乱)となりますが、最終的に北条家との戦いを優勢に進めた徳川家が、もっとも多くの領土を確保しました。

豊臣秀吉そして、また2年後・・・
織田信長亡き後、織田家の実権は「豊臣秀吉」が掌握しましたが、織田信長の次男「織田信雄」も自分が後継者だと主張、徳川家康はこの信雄と組んで、秀吉と戦うことになります。
この戦いは「小牧・長久手の戦い」と呼ばれ、数倍の兵力を持つ秀吉軍を徳川軍が破った戦いとして有名です。

ただ、織田信雄が秀吉と勝手に講和してしまい、戦う大義名分を失った家康は、秀吉との講和を受け入れざるを得なくなります。
(そのため戦術的には家康の勝利、政略的には秀吉の勝利と言われています)
これ以後、徳川家康は豊臣秀吉の臣下となる事になりました。

その後の徳川家康は、豊臣秀吉に忠実に仕えています。
のちに家康が三河ではなく、江戸に幕府を開いたのも、この頃に秀吉に関東に移住するよう命じられたからですが、特に反対せず快諾しています。
信長に対しても、当初は対等の同盟であったにも関わらず、後に平伏するようになるので、人の下に立つのを良しとする気風があったのかもしれません。

そして天下は「豊臣秀吉」によって統一され、一時的に平和な世の中を迎えるのですが・・・

時が経ち、豊臣秀吉が病死すると、豊臣家の家臣は2つに分裂することになります。

豊臣家の家臣団は「石田三成」を筆頭とする官僚グループ「文治派」と、三成を嫌う将軍グループ「武断派」に分かれ、いがみ合うようになってしまいました。
そして武断派は、石田三成に対抗できる権力を持つ徳川家康を頼るようになります。

徳川家康自身も、この頃から味方を増やすような行動を取り始め、支持と権力を拡大していきます。
家康がどの時点で天下を狙い始めたのかは諸説あります。
豊臣家の分裂を見た頃か、武断派に頼られてからか、それとも決戦の直前になってからか・・・

石田三成ともあれ、家康の行動に文治派の石田三成は危機感を抱き、両者の対立は決定的に。
そして徳川家康が「要請に応じなかった上杉家を討伐する!」と称して出陣した隙に、石田三成は豊臣家に忠誠を誓う大名家に集結を呼びかけ、徳川討伐の兵を挙げます!
しかし徳川家康もその動きを読んでいて、味方になった大名に集結を呼びかけ、こうして両軍が「関ヶ原」の地で戦うことになります。

この「関ヶ原の戦い」は、当初は石田三成の西軍が有利でしたが、西軍に参加した武将には徳川家康に内通している者が多く、西軍の一部の部隊が動かなかったこともあり、戦況は一進一退になります。

そして、両者からの誘いを受けていて、戦いが始まってもどっちつかずの状態だった西軍の「小早川秀秋」が、東軍・徳川家康からの砲撃に驚いて東軍に寝返ったため、戦況は一変。
動向を伺っていた他の西軍の武将達も次々と東軍に寝返りはじめ、そのまま徳川家康が率いる東軍の勝利となりました。

関ヶ原の戦いは、双方の協力者同士の戦いであったため、多くの武将が両陣営から説得を受けていました。
しかし西軍の大将「石田三成」という人は敵が多く、他の豊臣家の武将から暗殺されそうになったりしていて、人気がありませんでした。
一方で、家康は八方美人な性格で、目上にも目下にも評判が良かったため、これが決め手となったようです。

この天下分け目の「関ヶ原の戦い」の勝利によって、徳川家康は諸国の大名のトップとなり、江戸に幕府を開いて、のちに「将軍」となることになります。
ここから長い「江戸時代」が始まることになります。

それからまた、十数年後・・・
徳川家康は、豊臣家から送られた「鐘」に「国家安康 君臣豊楽」と書かれていたのを見て、「これは "家康" の文字を分けて呪い、豊臣家が君主になるのを願ったものだ!」という無茶なイチャモンをつけて、まだ大坂城に残っていた「豊臣家」に侵攻します。

淀言いがかりもいいとこな訳ですが・・・
これはただの動機付けに過ぎず、いつまで経っても徳川家を天下人として認めず、家康の提示した講和案も突っぱね続け、豊臣家が徳川家より上だと言い続けていた豊臣家(と言うより、豊臣家の実権を握っていた「淀」 )に対して、ついに我慢も限界に達した、というのが実際の所だったようです。

豊臣秀吉が死んだあと、豊臣家は「豊臣秀頼」という人が当主になっていたのですが、彼はまだ幼かったので、側近の家臣や、彼の母の「淀」が付き人として政治を行っていました。
しかし彼女は秀頼を過保護に育て、我が子の秀頼こそが天下人という姿勢を崩さず、側近を気に入った者だけで固めてしまいました。
このため、もはや豊臣家が徳川家に従う事はなかったのです・・・

こうして、徳川家康は豊臣家に決戦を挑み、最後の戦い「大阪 冬の陣・夏の陣」で豊臣家は滅亡。
これで本当に戦国時代は終わりを告げ、日本は「天下泰平の世」となる事になります・・・

翌年、家康はタイのテンプラを食べ過ぎてダウン。 享年74才。


「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」。 有名な徳川家康の性格を現した句ですね。

家康は最終的に天下を取りましたが、実際に彼が天下取りに向かって具体的に動き出したのは「関ヶ原の戦い」が起こるほんの数年前からです。
それまではずっと、織田信長や豊臣秀吉に臣従し、彼らの天下を支持してきました。

徳川家の旗印となっていた言葉「厭離穢土 欣求浄土(おんりえど ごんぐじょうど)」は、戦乱の世のような乱れた世界を嫌い、平穏なる浄土を求めるという意味の言葉です。

これを旗印にした彼がそれを実現したことは、戦国の世の行き着く所だったのかも知れません。


徳川家 武将名鑑
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