(わかりやすい)九州三国志 〜九州の戦国時代〜


九州戦国大名 配置図戦国時代、それは日本中が戦乱に明け暮れた時代です。

特に有名な戦国時代のお話は、織田信長や豊臣秀吉、武田信玄や上杉謙信などが活躍した近畿地方や本州のものが大半ですね。
しかし、東北地方や中国地方、四国や九州でも、激しい戦乱が繰り広げられていました。

特に九州の戦乱は3つの大きな大名家が台頭した事から、「九州三国志」と呼ばれます。

でも、地方の戦いである九州の戦乱について詳しく知っている人は、あまりいません。
九州の戦乱は 織田信長・豊臣秀吉・徳川家康 と言った戦国の主要人物にはあまり関わっていませんし、九州の戦いの大勢が決した頃には、すでに日本は豊臣秀吉により天下統一されつつある状況でしたからね。
しかし九州の戦乱にも、日本の中央部の戦いに負けず劣らずの激しい戦いと、知略・戦術の応酬がありました。
そこでこのページでは、そんな 「九州の戦乱」 を、あまり歴史に詳しくない方でも理解しやすいよう、出来るだけ解りやすく解説しています。
(基本的に定説をベースとしています。 異説や難解な考察の表記は行っておりません。
また、「信長の野望 Online」 や 「戦国無双」、「戦国BASARA」 など、戦国時代を題材にしたゲームに登場する、身近な武将をピックアップしながら説明しています。
武将の顔の画像は 「信長の野望 オンライン」、および 「信長の野望 天下創世」 のものです。
各事柄の画像は 信長の野望 革新/天下創世/蒼天録、および 太閤立志伝V のものです。)
戦国時代」 や 「九州三国志」 にまつわる時代背景を知る、参考にして頂ければと思います。

【 「九州三国志」の中心的 戦国大名 】
大友宗麟(大友義鎮) 大友宗麟
九州の北東部を支配した戦国大名です。 大友家は戦国時代初期の頃から大きな勢力を持っていました。
北九州での支配力を拡大しようとしますが、中国地方から進攻してくる毛利家や、北九州の諸勢力の反乱に悩まされ続ける事となります。
後年、ヨーロッパから伝わったキリスト教を信仰し、キリスト教王国の建国を目指して南進を開始します。
島津義久 島津義久
九州の南部を支配した戦国大名です。 九州の名家の1つですが、戦国時代の初期には衰退していました。
薩摩で島津家の地盤を築いた祖父「島津日新斎」と、父「島津貴久」の跡を継ぎ、弟の 島津義弘・島津家久 と共に対立する九州南部の大名家との合戦に打ち勝ち、島津家を九州一の勢力へと押し上げていきます。
そして九州北部を支配する 大友家 と 龍造寺家 との対決に向かっていきます。
龍造寺隆信 龍造寺隆信
九州の北西部を支配した戦国大名です。 戦国時代の初期には小勢力の1つに過ぎませんでした。
彼が子供の頃に龍造寺家は裏切りの疑いで主君(少弐家)に攻められ、滅亡寸前の状態に陥ります。
しかし、出家していてまだ子供だった龍造寺隆信はその難を逃れ、後に龍造寺家を継ぎ、お家再興に尽力します。
相次ぐ戦いを制し、ついに元の主君も討ち倒した龍造寺隆信は、大友家との決戦にも勝利し、勢力を拡大していきます。

第一章 ・ 大友 VS 毛利! 北九州の覇権 第二章 ・ 南九州動乱 島津の系譜
第三章 ・ 毛利再来! 肥前の熊、台頭 第四章 ・ 十字軍 VS 島津十字 千年王国の夢
第五章 ・ 恐怖政治の果て 龍造寺の最期 第六章 ・ 豊臣来襲! 九州戦乱の結末
最終章 ・ (後日談) 関ヶ原と戦乱の果て

1550年〜1564年 大友 VS 毛利! 北九州の覇権
「九州三国志」 の主要国の1つ 「大友家」 は、九州の北東部にある 「豊後(現在の大分県)」 の大名家です。
鎌倉時代からこの地方を治めてきた家柄であり、大友宗麟の父 「大友義鑑」 の時に勢力を拡大、戦国時代の初期には九州でも特に大きな戦国大名となっていました。
大友宗麟 は、その 大友義鑑 の長男なのですが・・・ しかし彼は、平和的にその跡を継いだ訳ではありません。
家は本来、長男が跡を継ぐものです。 しかし 大友義鑑 は三男を一番可愛がっていました。
そこで彼は三男に跡を継がせる事を強行しようとするのですが・・・ もちろん家臣は大反対!
こうして主君と家臣の対立が起こってしまいます。
そこで 大友義鑑 は、反対する家臣を謀殺しようと彼らを屋敷に呼ぶのですが、家臣側もこの動きを察知。
逆にこれを利用して三男の一派を亡き者にしようと、あえて策に乗ったフリをして屋敷に向かいます。
こうして大友家の屋敷では、主君と家臣の血みどろの斬り合いが発生!
結果、三男は殺され、大友義鑑 も瀕死、反対派の家臣達も斬り殺されてしまいます。
騒ぎを聞いて駆けつけた 大友宗麟 の前には、死を前にした 父・大友義鑑 の姿が。
大友義鑑 は 大友宗麟 に跡を継ぐよう遺言すると、そのまま息絶えてしまいます・・・
このドラマチックな大友家の跡継ぎ騒動は、「二階崩れの変」 と呼ばれています。
「二階崩れの変」 によって大友家の跡を継いだ 「大友宗麟」。
彼の運命は大友家の跡を継いだ翌年から、すぐに大きく動き始めます。
北九州と中国地方に大きな勢力を持っていた 「大内家」 が、突如崩壊したのです。
大内家」は平安時代の頃から中国地方の西部を支配していた名家であり、大大名です。
中国や朝鮮との貿易で大きな経済力を持ち、軍備も拡大。
戦国時代の初期に北九州を支配していた 「少弐家」 という大名家を打倒し、北九州から中国地方にまで広がる大きな支配地を持った、日本でも屈指の戦国大名でした。

しかし主君の「大内義隆」が後年、政務をあまり行わず、遊んでばかりいるようになります。
これによって国内でも家臣同士の対立が発生し、大内家はガタガタに。
そのため、この状況を憂いた大内家の家臣で 「西国一の侍大将」 と呼ばれた武将 「陶晴賢」 が、クーデターを起こします!
この突然の謀叛(反乱)によって 大内義隆 は追い詰められ、自害。
こうして大内家は急速に衰退していくことになります・・・

そして、主君を討った 陶晴賢 は、大内家の跡継ぎとして 「大内義長」 という人を擁立するのですが・・・
実はこの人、大友宗麟 の弟でした。
大内義隆 は子供がなかなか出来なかったので、大友家から跡継ぎ候補を貰っていたのです。
しかし、主君を殺した人物が擁立した跡継ぎなんてみんな認めませんし、実権は 陶晴賢 が握ったままでした。
毛利元就
その後、大内家の配下だった中国地方の勢力 「毛利家」 の 毛利元就 が、主君の仇討ちを名目に挙兵!
陶晴賢 は大軍を持ってこれを鎮圧しようとしますが、毛利元就 の計略によって海に誘い込まれ、瀬戸内海の水軍 「村上水軍」 の協力を受けた毛利軍がこれを奇襲、陶晴賢の軍勢は壊滅します。
この 「厳島の合戦」 で、陶晴賢 は追い詰められ自害
孤立した 大内義長 もその後、毛利元就 に攻められ討たれてしまいました。

この大内家の崩壊で、中国地方の大内家の領地は毛利家が占領していきます。
一方 大友家は、一時的に弟の 大内義長 が大内家の跡を継いでいた事もあって、北九州の大内家の領土の権利を主張。
毛利家と対話しつつ北九州を占領していきます。
しかし、主君の仇・陶晴賢を討ち倒し、旧大内領の全ての権利を主張する 毛利元就 は、北九州を諦めてはいませんでした。
特に北九州には、大きな経済力を持つ当時屈指の貿易都市 「博多」 があり、重要地の1つと言えました。
ここを簡単に諦めることは出来ません。
大友宗麟 は孤立した 大内義長 に救援を求められた時、毛利家 と対立してしまう事を避けるため、あえてこれを無視していましたが、毛利元就 はその程度で懐柔できる相手ではありませんでした。
北九州の「筑前・豊前(現在の福岡県)」を支配下に治めていく大友家。
北九州を支配する大義名分を得るため、朝廷(天皇家)や幕府(将軍家)に働きかけ豊前・筑前の守護職(その土地を治める正式な役職)や、「九州探題」 という官職(幕府の任命する役職)も手に入れています。
しかし、北九州の支配はそう簡単ではありませんでした。

北九州は元々、鎌倉時代の 「元寇(モンゴル・中国が朝鮮から北九州に侵攻した戦争)」 で総大将と言える活躍をし、大きな権力を持った 「少弐家」 という大名家によって支配されていました。
しかし 少弐家 は戦国時代の初期に 大内家 からの攻勢を受けて敗退を続け、北九州は大内家が支配します。
しかし今度はその 大内家 が崩壊し、大友家 が進出してきた訳です。
短期間に次々と支配者が変わった上に、少弐家 も 大内家 も名家でしたから、北九州の諸勢力は急にやってきた 大友家 に従うのを良しとせず、独立しようとしたり、大友家の支配を拒む者が多かったのです。
中国や朝鮮に近かったため、貿易によって高い経済力・軍事力を得ていた勢力が多かった事も要因にあるようです。
陶晴賢のクーデターで大内家の崩壊が始まった1551年から6年が経った、1557年。
大友家に抵抗し、北九州で 毛利家 の後援を頼りに独立を計ろうとした、元 少弐家 の配下の勢力 「秋月家」 を大友家は打倒。
しかし 秋月家 の跡継ぎ 「秋月種実」 は船に乗って 毛利家 へと逃れ、毛利元就 の長男と義兄弟になり、毛利家に九州に帰還するための支援を要請します。

そしてそれから2年後の 1559 年・・・
毛利家は旧大内家の権利と、北九州の諸勢力の支援を大義名分とし、九州と中国地方の間の 「関門海峡」 に出っ張るように存在していた最前線の城 門司城」 を大軍を持って攻撃! ここを占領してしまいます。
毛利家との対話を続け、毛利家が北九州に攻めてこないという約束を取り付けていた(と思っていた)大友宗麟は、虚を突かれる格好になりました。

怒った 大友宗麟 もすかさず軍勢を集め、数万(正確な数は不明)の大軍で自ら 門司城 奪還に向かいます。
しかし、毛利家の勇将 「乃美宗勝」 や 「小早川隆景」、さらに水際での戦いに長けた毛利家の 「村上水軍」 の攻勢により大友軍は敗退
門司城の奪還は失敗してしまいます。
しかも退却中、小早川隆景 率いる水軍が海路で大友家の退却路に先回りし、退却中の大友軍を襲撃!
これにより大友軍は大被害を被ってしまいました。
この戦いは後に 「門司合戦」 と呼ばれています。
この大敗は 大友宗麟 にとってかなりショックだったようで、この戦いの後、宗麟は出家してしまいます。
彼の本来の名は 「大友義鎮(よししげ)」 と言うのですが、この時の出家により、名を僧名である 「大友宗麟」 に改めました。

「門司合戦」 で 毛利家 に負けてしまった 大友宗麟 は・・・ ここからは 「外交戦」 に打って出ます。
室町幕府の将軍 「足利義輝」 に献金しつつ、毛利家 の非道を訴え、幕府による斡旋を申し出る一方、毛利家の中国地方のライバルである大名 「尼子家」 に連絡、対毛利家の連係を取れるよう画策します。
幕府の将軍 足利義輝 は 大友家・毛利家・尼子家 の和平の調停を開始しますが、この動きに対して 毛利元就 は 尼子家 を除いた形で 大友家 と和平交渉を進めようとし、尼子家 はそれに反発して交渉の引き延ばしを計ります。
結局、それぞれの思惑の相違によって和平交渉は難航。 このまま数年間もこの外交戦は続くこととなりました。
しかし 「門司合戦」 から5年後の 1564 年・・・ 結局、毛利家 が北九州の占領地を 大友家 に返還する事で合意に至ります。
門司合戦の後も 毛利家 と 大友家 の小競り合いは続いていましたが、一方で 毛利家 は中国地方でも 尼子家 と合戦を続けており、兵力は二分され、多忙を極める状態となっていました。
この多忙が影響したのか、毛利元就の長男が病死。 その悲しみも 毛利元就 の心に影響を与えたかもしれません・・・
しかし 毛利家 は九州から撤退したものの、前線基地である 「門司城」 はそのまま保持します。
北九州の反大友勢力も 毛利家 の支援を得て活発化しており、それは再び北九州に大きな戦乱をもたらす事となります・・・

1540年〜1574年 南九州動乱 島津の系譜
北九州で大友家が毛利家と戦っている頃・・・ 南九州では、「島津家」が台頭していました。
この島津家は元々、南九州を治める「守護職」という役割を持っていた名家です。
しかし、のちに九州を席巻することになる島津家の家柄は、元は本家ではなく、分家に過ぎませんでした。
おまけに戦国時代には南九州の各地で小勢力が台頭し、本家の島津家の力は完全に衰えていました。
島津日新斎
ですが、「島津日新斎(島津忠良)」という人の登場によって、島津家は隆盛していくことになります。
分家の出身でありながら評判の高かった彼は、衰退していた島津家の復興を期待され、本家の島津家の家臣の後援を受けて、本家の跡を継ぐことになります。

もちろんこういう人事があると、定番の「跡継ぎ争い」が起こるのですが・・・
島津日新斎は敵対勢力を合戦で撃破しつつ外交も駆使し、薩摩(現在の鹿児島県の西部)を支配していきます。
1543年・・・ 島津家の戦いを大きく変える出来事が起こりました。
未知の新兵器「鉄砲」の伝来です。
種子島に漂着したポルトガル人が持っていたこの鉄砲を、種子島の有力者「種子島時尭」が大金をはたいて購入、これが薩摩にも伝わり急速に実用化されます。

1554年頃に薩摩国内で起こった、島津家と島津家に対抗する勢力の合戦で、すでに鉄砲の撃ち合いが起こっていたようで、島津家が戦国時代の大名家の中でも、もっとも早く鉄砲を使った戦いをしていたことが伺えます。
そして、薩摩を治めるための激しい戦いが繰り返された事と、新兵器をいち早く活用できた事は、その後の島津家の戦力の向上に大きな影響を与えました。
島津貴久
1561年頃、島津家の当主は 島津日新斎 から、その息子 「島津貴久」 へと移っており、すでに薩摩は島津家の統治によって安定していました。

そんなある日・・・ 大隅(現在の鹿児島県の東部)を支配する大名家 「肝付家」 と 島津家 の間で、宴会が催される事になります。
肝付家 は 島津家 と友好的な関係で、互いに娘を嫁がせたりして縁戚関係にもあり、島津家 が薩摩の支配を固める際の戦いでも 肝付家 は支援を行ってきました。
しかし、この宴会の席でケンカが起こり・・・ 両家は激突することになってしまいます!
記録によると、酔っぱらった島津家の家臣が「鶴の吸い物が欲しいものだ(鶴は肝付家の家紋)」と言ったところ、肝付家の家臣が「次の宴会では狐の吸い物を出して貰おう(狐は島津家の守護神)」と返したことで口論に発展、そのまま大ゲンカになったとの事ですが・・・
しかしこれ以前から両家では何かのわだかまりがあったようで、それが酒に酔った勢いで出てしまったのが原因だったようです。
宴会の後、肝付家の当主 「肝付兼続」 はすぐに城に戻って合戦の準備を開始。
この話を聞いて驚いたのは、肝付家 と長い間 友好関係を保ってきた 島津日新斎 です。
日新際 はすぐに 肝付兼続 の怒りを収めて事を穏便に済まそうとするのですが・・・ もはや 肝付兼続 は聞き入れません。
結局、当主の 島津貴久 は合戦を決意し、島津軍 と 肝付軍 は戦いに突入するのですが、肝付家 は友好関係にあった日向(現在の宮崎県)の大名家 伊東家」 に救援を要請します。
そしてこの 伊東家 がさらに、友好関係にあった肥後(現在の熊本県)の大名家 相良家」 に協力を要請したため、次々と参戦する勢力が増加!
ついに宴会の酔っぱらいのケンカは、南九州全土を巻き込む戦乱へと発展していきます。

戦いは当初、肝付軍 が優勢に展開、島津貴久 の弟も戦死し、島津軍 は敗退します。
伊東家 の軍勢も 肝付軍 と共に島津家に進攻を開始、挟撃を受けた島津家の城は次々と落城していき、島津軍は防戦気味の展開となっていくのですが・・・
開戦から3年ほど経った頃、合戦での激務が祟ったのか、肝付兼続 は病に倒れます。 そしてその2年後、病死。
戦いはその後、一進一退を繰り返し停滞した状態となります。
そして肝付家 との開戦から10年後の 1571年・・・ ついに島津家の当主 「島津貴久」 も病死します。
こうして島津家の当主は貴久の子 「島津義久」 となり、ここから島津家は大きな飛躍を遂げていくことになります。
1571年・・・ 島津家の当主 「島津貴久」 が病死した事を、肝付・伊東・相良の同盟軍はチャンスと判断。
翌年、共同で大規模な進軍を開始、島津領に進攻していきます。
島津義弘
島津家は肝付家の進攻に対して防御を固めますが、そのため 伊東家・相良家 が進軍してくる方面には、少数の兵士しかいませんでした。 伊東軍だけで 3000 人、それに対し島津家の前線の城にいた兵士は 300 人です。
しかしこの城を守っていた武将こそ、名将として知られる 「島津義弘」 でした。
「勝敗は数の多少ではない。 一丸となって勇気を持って戦えば、必ず勝てる」 と、島津義弘 は伊東家の大軍に立ち塞がります。

島津義弘 は 相良家 が進軍してくる方面に数十人を派遣し、軍旗をたくさん立てかけて大軍がいるように見せかけ 相良軍 の進軍を遅らせると、各所に伏兵を配置して 伊東軍 を待ち構えます。
数に勝る 伊東軍 は一気に島津家の城を攻略しようと、前線の城を包囲して一斉に攻め立てるのですが・・・
後のない島津軍の必死の奮戦によって攻撃は失敗、そのため伊東軍は一旦後退して 相良軍 の到着を待ちます。
しかし、相良軍は来ません。 相良軍は大量に立てられた島津家の軍旗を見て、島津の援軍が来たかと思い引き返していたのです。
伊東軍の油断を見た 島津義弘 は本隊を率い、伊東軍に突撃を開始。
しかし 島津義弘 の部隊が百数十人なのに対し伊東軍は三千人。 多勢に無勢で島津軍は敗退し、そのまま後退する事になってしまいます。 すかさず伊東軍は一斉に追撃を開始。
しかしこれこそが敵をおびき寄せて包囲せん滅する島津家の得意戦法 「釣り野伏 でした。
後退を続けていた島津義弘の部隊は突然停止すると、反転して反撃を開始!
同時に周囲から伏兵が一斉に現れて伊東軍を四方から包囲します。
伊東軍が窮地を悟った時にはすでに遅く、伊東軍はそのまま崩壊し、総大将も戦死。
さらに島津家の本国から来た援軍がちょうど伊東軍の敗走部隊に追いつき、伊東家は大被害を出す結果となってしまいます。

少数の部隊だったためか、島津義弘 も戦いの中で何度も窮地に陥ったようですが、島津家には家臣が「死ぬまで戦って」大将を逃がすという決死の戦法「捨てがまり」があり、多くの犠牲を出しながらも、島津軍は最後まで踏みとどまりました。
こうした島津兵の強さと結束の固さは、後に全国で語り草となることになります。

この戦いの後・・・ 多数の将兵を失った伊東家は、その被害を回復することが出来ませんでした。
島津家の攻勢により、事実上 伊東軍は壊滅し、結果的に 肝付家 よりも先に倒れる事となります。
伊東家の支援を無くした 肝付家 は以後は防戦一方、合戦に長けた 島津義弘・家久・歳久 の兄弟の攻勢を止めることも出来ず、敗退を続け衰退して行く事になります。
1574年、肝付家は降伏
薩摩・大隅(鹿児島県)と日向(宮崎県)を支配した島津家は一気に勢力を拡大、こうして南九州の覇権を得る事となりました。

1567年〜1570年 毛利再来! 肥前の熊、台頭
南九州で 島津家 と 肝付家・伊東家 の戦いが佳境に入っていた頃・・・
北九州では、大友家 がその勢力を大きく伸ばしていました。
毛利家に占領された北九州の土地を外交手段で取り戻した 大友宗麟 は、さらに北九州で反乱を起こした勢力を鎮圧。
「豊後(現在の大分県)」 から、「肥後(現在の熊本県」)」の北部、北九州の 「豊前・筑前(現在の福岡県)」 まで広がる大きな範囲を支配下とします。

ただ、大友家が隆盛を極めたためか・・・
もともと遊び好きだった 大友宗麟 は、芸者を呼んで毎日酒を飲み、酒池肉林で遊びまくっていたようです。 家臣の 「立花道雪」 が忠告しようとしてもぜんぜん聞きません。
そのため 立花道雪 が 「いい芸者がいますよ!酒も用意しますよ!」 と言って 大友宗麟 を自分の屋敷に誘い出し、その上で 大友宗麟 に行いを改めるよう涙ながらに訴えた、という事もあったそうです。
そして、そんな 大友宗麟 の日頃の行いが・・・ ついにトラブルを発生させてしまいます。
大友家には 「一万田親実」 という家臣がいたのですが、この人の奥さんがすごく美人でした。
そして一目惚れしてしまった 大友宗麟 は・・・ その家臣を追い詰めて謀殺し、その妻を自分のものにしてしまったのです!
高橋鑑種
これに怒ったのが大友家の家臣で合戦での功績も高かった、一万田親実の弟 「高橋鑑種」 という人。
(高橋鑑種は養子に入っていたので苗字は違いますが、兄弟です)
人妻目当てに兄を殺された 高橋鑑種 はこの一件を理由に、大友家からの独立を宣言! 離反してしまいます。
しかもこの 高橋鑑種 の離反を皮切りに、北九州の多くの諸勢力も次々と離反。
さらに 大友家 に一度壊滅させられ、毛利家に逃れていた北九州の名家 「秋月家」 も挙兵し、毛利家に救援を要請。 まだ北九州を諦めていなかった毛利家はさっそく反大友側の勢力に支援を開始。
こうして北九州の動乱は、再び再燃することになります。
実際には、高橋鑑種 の離反は以前から噂されていたものであり、毛利家にもかなり前から内通していたようです。
きっかけは 大友宗麟 が兄の妻を奪った一件ですが、それ以前からすでに離反の計画はあったようで、毛利家が裏で手引きをしていた可能性も高いようです。
また、この頃から 大友宗麟 は 「キリスト教」 を信仰し始めます。
もともと彼がキリスト教の布教を許したのは 「南蛮貿易」(ヨーロッパ諸国との貿易)を目当てにしたものでしたが、徐々に 大友宗麟 自身もキリストの教えに傾倒していきました。
しかしそのために家臣の間では宗教論争や、それに起因するトラブルが起こっており、これらも北九州で離反が相次いだ要因になっていたようです。
立花道雪
しかしこの反乱を、大友宗麟 も黙ってみているはずがありません。
政務に復帰した 大友宗麟 はすぐに離反した勢力に進攻を開始!
そしてこの戦いで特に活躍したのが、「雷神の化身」 や 「鬼道雪」 と称された大友家の名将 「立花道雪」(当時の名前は 戸次鑑連)です。
立花道雪 の攻撃で、九州の諸勢力は序盤戦に敗退。
しかし反大友陣営の 「秋月家」 は毛利家に援軍を要請し、城で防備を固めつつ、援軍到来までの持久戦を展開します。
要請を受けた毛利家は、さっそく百隻以上の船団を北九州に派遣。
味方勢力の手引きで上陸した毛利軍は、北九州にある大友家の城に攻勢をかけます。
秋月家 も城を包囲する大友軍に夜襲をかけ反撃、こうして大友軍が劣勢になったことで、さらに北九州の多くの勢力が反大友陣営に参加していきました。
そしてこの時、反大友陣営に荷担した勢力の1つが・・・ 「龍造寺家」 です。
「肥前(現在の佐賀県)」 の勢力である 龍造寺家 は、元はこの地方を治めていた大名 「少弐家」 の配下でした。
しかし戦国時代の初期、龍造寺家 が 少弐家 の敵に内通している疑いがあった事や、龍造寺家の当主 「龍造寺家兼」 が政務でも軍事でも活躍をして大きな力を持ったこと、さらに龍造寺家が以前 少弐家 を裏切ったことがある事から、少弐家 は 龍造寺家 の存在に危険を感じ、ある日 龍造寺家 を襲撃します。
こうして 龍造寺家 は一族のほとんどを殺され、領地も失い没落していました。
龍造寺隆信
龍造寺隆信
しかしその後、龍造寺家兼 の遺言でその跡を継ぎ、龍造寺家を再興させたのが、後に 「肥前の熊」 と称される勇猛果敢な大名 「龍造寺隆信」 です。
彼はお寺に奉公に出されていたので、龍造寺家が急襲された時に、その難を逃れていました。

龍造寺家を継いだ後も、家臣の反乱で国を追われるなど危機的な状況が続いていましたが、子供の頃から怪力で腕っぷしが強かった 龍造寺隆信 は、敵対勢力を打倒して龍造寺家の領地を奪還
その後はどんどん勢力を拡大し、ついに元の主君である 「少弐家」 も滅亡させ、再び龍造寺家を肥前の有力勢力へと発展させます。
そして北九州で多くの勢力が大友家から離反すると、大友家と対立していた龍造寺家もこれに参加。
反大友陣営の1つとして、大友軍と敵対しました。
龍造寺家を早期に抑えるべく、すかさず大友軍は肥前に進軍していきますが・・・
ここで毛利家の大軍が北九州に来襲!
名将として知られる 毛利元就 の2人の息子 「小早川隆景」 「吉川元春」 が4万以上の大軍を率いて北九州に進攻し、各地の大友軍の城を次々と占領!
ついに北九州の中心拠点と言える城 「立花城」 も落城させます。
大友軍は龍造寺攻撃を中止して軍勢を編制し直し、立花城の奪還に向かいます。
こうして大友軍の総勢3万5千と、毛利軍4万の軍勢が各所で激突!
多数の鉄砲も使用された、激しい攻防戦が繰り広げられますが・・・
戦いは 立花道雪 率いる大友軍が優勢に展開、徐々に立花城を包囲していきます。
しかし城で守る 毛利軍 も態勢を立て直し、ついに戦いはこう着状態に。
両軍が睨み合いを続ける形に陥ります。
そこで 大友宗麟 は、一計を案じます。 毛利家本国への逆進攻です。
大友家には、滅亡した大内家の親族である 「大内輝弘」 という人がご厄介になっていました。
大友宗麟 は幕府から与えられていた、大内家の正式な跡継ぎの認可状を彼に持たせ、「大内家の再興」 を大義名分に数千の兵を与えて中国地方へと進攻させます。
この軍勢には 大内家 に旧恩のある勢力が次々と参加し、兵力はどんどん大きくなっていきました。
さらに、すでに滅亡していた中国地方の毛利家のライバル 「尼子家」 の残党勢力が、この動きに応じて行動を開始。
尼子家の残党 「山中鹿之介」 などが、対毛利家の活動を活発化させます。
北九州を占領しても、本国が陥落しては何にもなりません。
毛利元就 は仕方なく、北九州の 小早川隆景&吉川元春 に撤収を命じます。
もちろん2人は、「まだ負けた訳ではない!」 と撤収に反対しますが・・・ そうこうしているうちに 大内輝弘 の軍勢や尼子家の残党勢力は、さらに中国地方を進軍。
結局、毛利元就 の強い命令もあって、ついに毛利軍は涙を飲んで、九州から撤退することになります。
こうして・・・ 毛利家の大軍は、中国地方へと帰っていきました。
立花城は大友軍に奪還され、立花道雪(戸次鑑連)が城主に任命されます。 そして戸次鑑連は、「立花道雪」 に改名しました。
中国地方に帰った毛利軍は、すぐに 大内輝弘 の軍勢を攻撃し、これを撃破します。
しかし翌年、ついに 毛利元就 は死去。
さらに東から 織田信長 の軍勢が迫り、これ以後、毛利家が九州を狙おうとする事はありませんでした。
毛利家の大軍が九州から撤退したことで、北九州の諸勢力は次々と大友家に降伏していきます。
争乱の発端となった 「高橋家」、大友家に抵抗し続けた 「秋月家」 も降伏し、従属を余儀なくされ、反大友陣営は瓦解しました。
こうなると、孤立してしまうのが・・・ 龍造寺家です。
龍造寺家は肥前(現在の佐賀県)の有力勢力となっていましたが、まだ肥前全土を掌握している訳ではありませんでした。
毛利軍が北九州に来た時、その援護を受けて肥前の大友側の勢力を打倒しようとしましたが、毛利軍は「肥前の情勢は複雑であるため、ヘタに介入しないように」 と 毛利元就 から命令されていたため、龍造寺隆信は援護を得られません。
おまけに毛利軍は中国地方に撤退し、北九州の諸勢力も次々と大友家に降伏してしまいます。
龍造寺家もすぐに大友家に和平を申し入れますが一蹴され、大友家の大軍が龍造寺家の城 「佐賀城」 に進軍します。 その数、3万以上!
一方、龍造寺軍の総兵力は約5千人。 まさに絶体絶命でした・・・

しかし後のない龍造寺軍の士気は高く、城を攻撃する大友軍も、なかなか決定的な勝利を得ることが出来ません。
そのため 大友宗麟 はさらに増援を派遣、必勝態勢を整えます。
そしてこの増援部隊を率いていた大将が、「大友親貞」 という人でした。
彼は龍造寺家の城 「佐賀城」 の近くにある山 「今山」 という場所を抑え、ここに布陣します。

善戦してはいるものの、孤立していて救援も期待できない龍造寺家では、大友軍がさらに増えていくのを見て 「もう降伏しかないのではないか」 という意見が出始めます。
さすがの 龍造寺隆信 も、この時は降伏を考えていたようですが・・・
鍋島直茂
これに反対したのが龍造寺隆信の義兄弟でもある龍造寺家の名将 「鍋島直茂」 です。
彼は偵察によって、数に勝る大友軍がたるんでいた事を指摘し、「敵軍は我らを侮っており、これぞ天の与えるところ。 今夜、許しを頂ければ、十死一生の夜襲にて勝敗を決して参りましょう!」 と発言します。

こうしてその夜・・・ 鍋島直茂 はわずか 17騎 で城を飛び出し、大友親貞の本陣に向かって出撃します。
あまりにも少数ですが・・・ しかし、話を聞いた龍造寺軍の武将 「成松信勝」 や 「百武賢兼」 など、龍造寺家の武士たちが次々と合流、さらに龍造寺家や鍋島直茂を慕う農民に加え、山伏の一団まで加わって、地元勢力の増援もあり、最終的には 700 人近くの軍勢が集まります。

鍋島軍は闇に紛れ、裏から回って大友軍に近づきます。 その夜、大友親貞の本陣では宴会が催されていました。
鍋島直茂はそれを隠れて眺めつつ、「もしこの戦で勝ったら、あの大友家の杏葉の紋を我が家の家紋としよう」 と語ったと言います。
そして夜も更け、大友軍の将兵が宴会で酔って寝静まり、さらに夜が明けようとしていた頃・・・
鍋島軍は一斉に大友親貞の本陣を襲撃! 夜襲を敢行します。
不意を突かれた大友軍は大混乱! 次々と将兵が討ち取られ、大将の 大友親貞 も龍造寺軍の武将 成松信勝 に討ち取られます。
壊乱した大友軍では同士討も発生し、数時間にわたる戦闘で大被害を被り、総崩れとなって四方に敗走していきました。
この戦いは後に 「今山の戦い(今山合戦)」 と呼ばれています。

その後・・・ 大勝した龍造寺軍の士気は、さらに高まります。
そして 大友親貞 の軍勢が壊滅したうえに、佐賀城が落ちる気配もなかった大友軍は、龍造寺家と一旦講和。
こうして大友軍は本国へと撤収していきました。
その後、龍造寺家はこの戦いで敵対した肥前の勢力に進攻を開始。
次々と撃破していき、ついに肥前一国を掌握する戦国大名へと躍進、その後もさらに勢力拡大を続けていきます。
こうして九州には、九州北東部の 「大友家」、九州北西部の 「龍造寺家」、南九州の 「島津家」 という、3つの大きな大名家が君臨する事となります。

1578年 十字軍 VS 島津十字 千年王国の夢
1569年、
毛利家が北九州に2度目の進攻をするも、大友家との戦いの末に撤退。
同年、龍造寺家が 「今山の合戦」 で 大友家 を破る。
1572年、伊東家が島津家に進攻するも大敗、伊東家 衰退。
1574年、島津家が肝付家を滅ぼし、南九州を支配。
こうして・・・ 九州では大友家・龍造寺家・島津家が勢力を拡大。
他の中小の大名家はこれらの勢力の圧力に耐えられなくなり、その傘下に入っていきます。
結果として九州は、この3つの大名家で三分割される事になりました。
言わば、「三国鼎立」です。
しかし、この状態はそう長くは続きませんでした・・・



島津家の攻勢で滅亡した日向(現在の宮崎県)の大名 「伊東家」 の当主 「伊東義祐」 は、友好関係にあった 大友家 に逃れます。
一方、島津家の進出により、日向の有力勢力は次々と島津家の傘下に入っていきました。
そしてついに、大友家の本拠地である 「豊後」 と日向地方の国境沿いを治めていた小勢力が、島津家になびきます。
「このままでは本拠地の統治も危なくなる」 と考えた 大友宗麟 は、日向国境への進軍を決意。
3万の軍勢を日向に派遣し、島津家に寝返った勢力の討伐を命じます。
そしてこの戦いは、大友軍の大勝利に終わりました。
大友家に敵対した日向地方北部の勢力は打倒され、再び日向と豊後の国境付近は安定します。

そして、この勝利に気を良くしたのか・・・ 大友宗麟 は、2度目の日向進攻を計画します。
その大義名分は、大友家に逃れてきた日向の大名 「伊東義祐」 の領地を奪還し、伊東家の 「お家再興」 を支援すること。

アンソニー・ヴァン・ダイク(1599-1641)作
「大友宗麟に謁見する聖フランシスコ・ザビエル」
しかし、その本音はまったく異なっていました。 大友宗麟の本当の目的、それは・・・
日向の地にキリシタンの理想郷、「神の王国」 を築くことでした。

この頃、大友宗麟 は完全にキリスト教に傾倒していました。
2人の息子と共に正式なキリシタンの洗礼を受け、「ドン・フランシスコ」 のクリスチャンネームを与えられ、日々キリストの神に祈りを捧げる毎日を送っています。

しかしもともと、北九州は大きな神社が多く、お寺や神社の勢力が強い地域でした。
それでなくても当主が異国の宗教に改宗してしまったのですから、家臣の反発は必至!
おまけにキリシタンとなった息子がキリスト教の布教のために地元のお寺や神社を破壊したため、領民からも反発が起こり、大友家では宗教を巡るトラブルが続発していました。
そのためか 大友宗麟 は日向を占領し、そこにキリシタンと宣教師を集めた神の国を作ろうとしたのです。
しかしこの2度目の日向進攻に、家臣たちは猛反対!
角隈石宗
なにせ相手は屈強で知られる島津家。 そう簡単に勝てるはずがなく、被害も大きくなる事は必至です。
おまけに進攻の一番の理由が 「キリシタンの国を作りたいから」 というのは家臣も解っていましたから、立花道雪を始めとして、反対者が多数。
特に大友家の軍師であり 立花道雪 の師匠でもある 「角隅石宗」 は、「毛利や龍造寺が攻めてきたり、反乱が起こったらどうするんですか! 今は国内の整備を優先するべきです!」 と強く反対したのですが・・・
神の国の理想に燃える 大友宗麟 は、もはや聞きません。
こうしてついに、大友宗麟 自らが総大将を勤める大友軍4万の軍勢が、日向へと南下を開始します。
大友宗麟は船で移動を行いましたが、その船の帆には金縁の飾りと大きな赤い十字架が描かれており、まさに「十字軍」のようだったと伝えられています。
陸路で南下した本隊も、行く先々に十字架の旗を立てて移動していた様です。
一方、この大友軍南下の知らせを受けて、島津家も急いで軍勢を集めます。
北九州最大の勢力である大友軍が大軍を率いて南下してくるのです。 島津家はこれを家の存亡をかけた一大決戦だと考え、各地から出来る限りの兵力を招集します!
日向に入った大友軍は島津軍の小部隊を撃破しつつ、どんどん南下。
日向にある 「耳川」 という川を越えてさらに進み、その先の拠点の城 「高城」 を包囲します。
島津家にとってこの 「高城」 は、突破されると危険な重要拠点であったため、すぐにこの地方を守っていた島津家の勇将 「島津家久」 が守備に向かいますが、その軍勢は約 3000 人・・・
4万の大友軍の前には、さすがに小勢です。

しかし、高城の城主 「山田有信」 が奮戦し、さらにこの城が川や崖に囲まれた難攻不落の城だった事もあって、なかなか落城しません。
城からの鉄砲の砲撃も激しかったため、大友軍は一旦後退して持久戦に入ります。
そしてそのうちに島津軍の本隊が戦場に到着
こうして両軍は高城の側で、睨み合いとなります。
ですが、この睨み合いは長くは続きませんでした。 大友軍の中で、武将同士の仲間割れが発生したからです。
田原親賢 田北鎮周
軍師の 角隅石宗 は 「後方から援軍が来るまでは、慎重に行動しよう」 と進言、総指揮を勤めていた 「田原親賢」 もこれを支持していたのですが、武将の一人 「田北鎮周」 が 「敵を目の前にして黙っていられるか! どうせ死ぬなら自分だけでも突撃する!」 と言い出して聞かず、勝手に自分の陣に帰って最期の別れの酒盛りを始めてしまったのです。
しかもこれに賛同した武将も多数現れ、討ち死にを覚悟した酒盛りが各所で始まってしまいます。
実は大友軍の武将の多くは、出陣前から討ち死に覚悟で来た者が多かったのです。
キリスト教徒でない武将にとっては、この出陣は本意ではありませんでした。
そのためか多くの武将が最初から負けを覚悟していて、出発前から最期の宴会や茶会などが行われていたと言います。
また、角隅石宗 を始め、田北鎮周 などの武将はこの2度目の日向進攻に大反対だったのですが、田原親賢 はこの出陣に賛成していました。
このような事情から 田原親賢 が総指揮を採ることになったのですが・・・ そのため最初から、田原親賢 と 田北鎮周 の間には確執が生まれており、仲間割れの原因となっていました。
おまけに戦いが始まってからは、大友宗麟 は武将たちの出陣要請を拒否して、後方に作った聖堂で 「お祈り」 を捧げている事が多く、主君が現場にいなかったことも武将の分裂を誘発することになったようです。

翌朝・・・ 田北鎮周 の部隊は、大友軍と島津軍の間にあった川を渡り、島津軍に突撃!
田北軍に従う部隊も次々と川を渡り、結局 田北鎮周 の行動を抑えられなかった大友軍の本隊も、これを見捨てることが出来ず攻撃に参加。
こうして大友軍の一斉攻撃が始まります!

序盤戦は覚悟を決めた大友軍がさすがに強く、島津軍の前線部隊は崩壊し、先陣の武将にも大きな被害が出ます。
しかし大友軍はそのまま島津軍の本陣へ突撃しようとし、結果、敵の中に深入りする格好になってしまいます。
これを島津軍が見逃すはずがありません!

すかさず 島津義弘 の軍勢が渡河中の敵に鉄砲を放つと、大友軍の側面を攻撃。
同時に島津軍の一斉反撃が始まり、高城の 島津家久 も城から打って出ます。
多方向から攻撃を受け始めた大友軍はまともに戦えるような状況ではなくなり、田北鎮周 などの武将も次々と討ち死。
開戦前から敗北を悟り、秘伝の書を焼き捨てていた 角隅石宗 も、自ら敵陣に突撃して戦場に散ります。
死地に突っ込んだ大友軍は川を越えて後退しなければならなかった事もあり、大被害を受けて敗退。
さらに敗走中、「耳川」 という川が増水していてここを渡るのに手間取ったため、島津軍に追いつかれさらに追撃を受けてしまいます。
こうして・・・ 北九州の雄 大友家 は甚大な被害を受けて、その勢力を衰退させてしまいました。
この九州の戦局を大きく変えた一連の戦いを 「耳川の戦い(耳川合戦)」 と言います。
大友家にやむを得ず従属していた 「秋月家」 などの北九州の勢力は、耳川での大友家の大敗を聞いて再び反乱! 大友家から離反していきます。
大友家と講和していていた龍造寺家も、大友家の弱体化を見て大友領への進攻を再開。
島津軍もさらに日向の占領を進めていき、こうして九州の戦力バランスは、大きく変化していく事になるのでした・・・

1579年〜1584年 恐怖政治の果て 龍造寺の最期
北九州最大の勢力であった 大友家 が 「耳川の戦い」 で 島津軍 に大敗して弱体化してしまった事は、九州の各勢力に大きな衝撃を与えました。
特に影響が大きかったのは、大友家の配下となり、その支援を受けて国を維持していた中小の勢力です。

肥後(現在の熊本県)の南部に位置していた 「相良家」 と、肥後の中部に位置する 「阿蘇家」 は、大友家に従属し、その支援を受けて独立を維持していた大名家でした。
特に 相良家 は、かつて 肝付家・伊東家 と協力し 島津家 に対抗していたため、肝付家・伊東家 が滅亡した後は危機に陥り、大友家の傘下に入って、その支援を受けて島津家から身を守ろうとしていました。
ところが大友家が島津家に破れて衰退してしまったため・・・ 必然的に、島津家の矛先が向くことになります。

「耳川の合戦」 が起こった翌年、さっそく 島津家 は 相良家 に進攻を開始。
しかし相良家にも 「深水長智」 「犬童頼安」 などの勇将がいて、島津家の最初の進攻を撃退します。
しかしすでに相良家と島津家の国力の差は大きく、2年後、再び島津家は相良家に大規模な進攻を行い、対抗しきれなくなった相良家の大名 「相良義陽」 は降伏を決意。
こうして島津家の勢力は肥後へと伸びていきます。
甲斐宗運 相良義陽
肥後の中部には 「阿蘇家」 という大名家があり、勢力は大きくありませんでしたが、知勇兼備の名将として知られる 「甲斐宗運」 という武将がいて、それは遠からず島津家の障害となる存在でした。
そこで島津家は、降伏した 相良家 に 阿蘇家 への攻撃を命令。
しかし相良家の当主 相良義陽甲斐宗運 は盟友の関係にあり、相良家は本当は、阿蘇家と戦いたくありません。
ですが命令を断れば相良家が滅ぼされる危険もあったため、相良義陽 は心ならずも阿蘇家に出陣し、甲斐宗運 と対峙することになります。
そして戦場で、相良義陽 は・・・ 自ら不利な場所に陣を張り、敵を待ち構えました。
甲斐宗運 は最初は罠かと思ったようですが、相良義陽 が自ら死を選ぼうとしている事を知り、その運命を嘆きます。
その後、甲斐宗運は相良軍を奇襲し泣く泣くこれを討ち滅ぼしますが、「相良を失い阿蘇家もまた、3年経たずして滅亡するであろう」 と語ったと言います。
相良義陽 の義理に準じた死と、相良家の家臣の外交努力によって、相良家は島津家の配下として存続を認められますが、相良義陽 の死から2年後、甲斐宗運 も病死。
さらに阿蘇家の当主や跡継ぎまでが次々と病死したため、阿蘇家は急速に衰退、そのまま島津家の進軍で滅亡する事となります。
こうして肥後の国の南側を支配下に納めた島津家は、ついに九州の南半分を支配する大勢力となりました。
一方その頃、九州の北側では・・・ 龍造寺家がその勢力を拡大していました。
「耳川の戦い」 で敗れ 大友家 が弱体化すると、すかさず龍造寺家は大友領へ進攻を開始。
筑前・筑後(現在の福岡県の西部)に進軍し、この地の大友家側の勢力を次々と撃破、従属させていきます。

さらに肥前の西部(現在の長崎県)を支配すると、その南部を支配する大名 「大村家」 「有馬家」 も従属させ、肥後(現在の熊本県)の北部にまで勢力を伸ばし、九州の北部に大きな勢力を築き上げました。
この頃の 龍造寺隆信 は 「五州二島の太守」 と呼ばれ、龍造寺家はその全盛を極めます。

ただ、九州北部で龍造寺家が勢力を伸ばし、九州南部で島津家が勢力を伸ばした事で、ついに両国の国境が接します。
領土拡大を続けている両大名家が接したことで、両者の緊張はどんどん高まっていく事となりました。
大友家の弱体化により、九州北部では小勢力が大友家から離反を始めたため、九州北部の最大勢力は龍造寺家になっていました。
ただ、龍造寺家が隆盛を極めたためか・・・
龍造寺隆信 は芸者を呼んで毎日酒を飲み、酒池肉林で遊びまくり始めます。
しかもこの頃の 龍造寺隆信 は非道さ・残忍さが目立っており、敵対するものは一族や兵士もろとも皆殺しにし、自分に反対する者も容赦なく粛正し始めます。 人質に送られてきた幼い子供2人をはりつけにして、処刑したという事もあったようです。
龍造寺家の軍師となっていた 「鍋島直茂」 はこれらの行為をやめるよう忠告していましたが、龍造寺隆信 はもはや聞かず、ついには 鍋島直茂 を別の城に移転させ遠ざけてしまいます。
もともと 龍造寺隆信 には粗暴なところがありましたが、鍋島直茂 は冷静で慈悲深く、彼が 龍造寺隆信 の短所を補うことで、龍造寺家はうまく運営されて来ました。
また、龍造寺隆信 の非道さも、「龍造寺家に逆らうとどうなるか解らない」 という恐怖を与えることで、敵の降伏を促したり、反乱を抑える効果があったようです。
しかしこの頃の 龍造寺隆信 の残忍さは、もはや行き過ぎていました。
人心はどんどん龍造寺家から離れていき、ついに筑後(福岡県の南部)で、配下の 「蒲池鎮漣」 が反乱を起こします。
この蒲池家は 龍造寺隆信 が龍造寺家を継いだばかりの頃、配下に反乱を起こされて行き場を失った時に、彼をかくまって復帰を支援してくれた恩のある家柄でした。
しかし 龍造寺隆信 は反乱を起こした 蒲池家 を許さず、蒲池鎮漣 を 「和平を結びたいから」 と騙しておびき寄せ、襲撃して暗殺すると、蒲池家の同郷の者や親族たちを兵士として派遣、同族同士で殺し合いをさせるという行為を行います。
これによってさらに 龍造寺隆信 の非道な行為はさらに噂となり、今度は従属していた長崎の島原半島を拠点とする大名家 「有馬家」 が離反を起こします!

龍造寺隆信は最初、これを息子の 「龍造寺政家」 に討伐させようとしたのですが、龍造寺政家 の妻は有馬家の姫でした。
そのため龍造寺政家は全くやる気が出ず、その様子に怒った龍造寺隆信はついに、自ら大軍を率いて有馬家を滅ぼそうと出陣していきます。
話を聞いて驚いた 鍋島直茂 はすぐに駆けつけ、「大将が自ら出陣しては危険!」 と忠告するのですが、もはや聞き入れられません。
こうして龍造寺軍3万〜5万の軍勢が、長崎の島原半島へと進軍していく事となります。

有馬晴信
有馬家は龍造寺軍が迫っていると聞き、急いで軍勢を集めますが、その数は約 3000 人。
さすがに勝ち目がありません・・・ そこで有馬家の当主 「有馬晴信」 は、島津家に救援を求めます。

しかし救援要請を受けた島津家も、九州各地で大友家や龍造寺家と対峙しているため、そんなに多くの兵は派遣できません。
加えて島原半島の地理に詳しくなかったため、援軍は送らない方がいいという意見が多く出ます。
しかし当主の 島津義久 は、「当家を慕って一命を預けてきた者を見殺しにする事は、仁義に欠ける。 戦は兵の大小で決まるものではない。 知略と勇烈があれば、小勢でも勝つことが出来よう」 と、援軍の派遣を決定します。
こうして、合戦に長けた 「島津家久」 を総大将とした精鋭軍 3000 人が、船団に乗って島原半島へと向かっていきます。
龍造寺軍は島津軍来援の情報を聞いて警戒していましたが、島津軍が思ったより多くなかったため、そのまま進攻を継続。
一方、上陸した島津軍は有馬軍と合流後、船を繋ぎ止めておく綱を全て切り、兵士たちに決死の覚悟をさせて、文字通りの「背水の陣」をしきます。
そして有馬家と作戦を相談し、城で守っても包囲されるだけであり、これ以上の援軍も期待できないため、こちらから打って出て有利な地形に敵を誘い込み、敵本陣を狙うしかないという結論に至ります。
その後、島津家久 は部隊をいくつかに分けると各所に潜ませ、先鋒部隊を龍造寺軍の前面に配置します。
この先鋒部隊には、幼い我が子をはりつけにして処刑され、龍造寺家から離反した 「赤星統家」 の部隊も加わっていました。
島津家久 自身は鉄砲隊を率い、龍造寺軍の進軍先で敵を待ち伏せます。
龍造寺軍は最初、部隊をいくつかに分けて慎重に進んでいましたが、敵が小勢なのを知った 龍造寺隆信 はまだ島津側が布陣を完了しているのを知らなかった事もあり、予定を変更。
一気に敵の城に攻め込もうと、自ら本隊を率いて進撃します。
そしてそのまま、島津軍の先鋒部隊と戦闘に入りますが・・・ 数が違いすぎて島津軍の部隊は早々に敗走。 すぐに龍造寺軍は追撃に入ります。
しかしこれが、敵をおびき寄せる島津軍の得意戦術 「釣り野伏」 でした。
龍造寺軍の主力は、そのまま 「沖田畷」 という場所に誘い込まれてしまいます。
「沖田畷」 の 「畷(なわて)」 とは、田んぼの間にある狭い 「あぜ道」 のこと。
沖田畷はこの頃、周囲を泥田に囲まれた細長いあぜ道が、ずっと続いていたといいます。

島津軍を追撃中の龍造寺軍の先頭部隊は沖田畷に入り込み、そのまま島津軍を追っていましたが、ここで身を隠していた島津家久の鉄砲隊が出現!
突っ込んできた龍造寺軍に一斉掃射を開始します!
龍造寺軍の部隊はあわてて後方に下がり、体勢を立て直そうとしたのですが・・・ その時、予想外の出来事が。
後方の道から味方の兵士たちが、すごい勢いで次々と押し寄せて来たのです。 これでは下がれません!
その少し前・・・ 龍造寺軍の本隊も、沖田畷にさしかかっていました。
しかし、こんな狭い場所を大軍で通ろうとすると、当然のように渋滞が引き起こり、隊列も細長くなってしまいます。
そのため進軍が進まないことにイライラした 龍造寺隆信 は伝令を呼び、前の方にいる部隊に早く進むよう伝える命令を出します。
ところがこの伝令が・・・ 「後ろがつかえて殿が怒ってるから早く進め!」 と知らせて回ってしまいます。
残忍で容赦ない事で有名な 龍造寺隆信 が、「怒っている」 と言うのです。 これはコワイ!
そのため前方にいる将兵は、あわてて前進を開始。
それが先頭の部隊にどんどん押し寄せて行ったため、最前線では島津軍の鉄砲射撃の前に兵士たちが次々押し出される格好になり、凄惨な状態になってしまいます。 加えて有馬軍の軍艦が海上から龍造寺軍を砲撃開始。
これらによって龍造寺軍は大混乱、この状況を島津軍が見逃すはずがありません。
そして 島津家久 の号令の元、各所に潜んでいた島津軍が一斉に現れ、龍造寺軍の本陣に向かって雪崩れ込みます!
混乱している上に隊列が細長くなり、連携も取れない龍造寺軍は、周囲が泥田で大軍が機能しなかった事もあり、次々と分断され壊滅してしまいます。
龍造寺家の武将 「成松信勝」 は最期まで 龍造寺隆信 を守ろうと奮戦していましたが、もはや龍造寺軍は潰走状態になっており、ついに敵を支えきれず戦死。
龍造寺四天王と呼ばれた 「百武賢兼」 や 「円城寺信胤」 などの主力武将も次々と討ち死にしていきます。
こうして 龍造寺隆信 も乱戦の中、ついに島津兵によって討ち取られてしまいました。
戦国時代の大名の中で、戦闘中に敵兵に首を取られてしまったのは、今川義元 と 龍造寺隆信 ぐらいだと言われています。
龍造寺隆信 の死を聞いた龍造寺軍の武将 「江里口信常」 は、島津兵を装って 島津家久 に接近、一矢報いようと斬りかかりますが、傷を負わせたのみで周囲の近衛兵に殺されてしまいます。
龍造寺軍 の軍師 「鍋島直茂」 は本隊とは別の部隊を率いていたため、敗走するものの何とか戦場から脱出、生還を果たしました。
しかし、当主に加えて主力武将の大半が戦死してしまった龍造寺軍の損害はあまりにも大きく、すでに龍造寺家が人心を失っていた事もあって、各地の勢力は次々と龍造寺家から離反。
北九州最大の大名家であった龍造寺家は、あっという間にその勢力を衰退させてしまいました・・・
そして、大友家・龍造寺家 の双方を打倒した島津家は、名実共に九州一の勢力となり、いよいよ九州の統一に向けて動き出していく事となります。

一方その頃、日本の中央では・・・ 戦国の覇王 「織田信長」 が 「本能寺の変」 によって急死。
織田家の家臣たちの後継者争いの末に、「豊臣秀吉」 が次なる天下人として台頭し始めていました。

1585年〜1587年 豊臣来襲! 九州戦乱の結末
「沖田畷(おきたなわて)の戦い」 で 龍造寺家 を打倒した 島津家 はそのまま北へと進軍、肥後全土を支配し、北九州の諸勢力も次々と島津家の傘下に加わっていきます。
大友家と対立していた北九州の勢力 「秋月家」 なども、島津家の配下に加わっていきました。
島津家はそのまま大友家を打倒して九州を統一すべく、軍備増強を続けます。
一方 大友家 は、龍造寺家の崩壊に乗じて北九州の支配を取り戻すべく、立花道雪などを派遣して進軍を開始。
立花道雪は筑後(現在の福岡県南西部)まで進軍し、さらに留守を狙って進攻してきた 秋月家 の当主 「秋月種実」 の軍勢を、立花家に婿入りした名将 「立花宗茂」 が夜襲と火計で撃破。
一時的に北九州の支配地を取り戻しますが・・・ ここで、陣中で立花道雪は病死
彼の死の影響は大きく、結局 北九州を完全に取り戻すことは出来ずに終わります。
豊臣秀吉
大友宗麟はその後、日本の中央を支配した天下人 「豊臣秀吉」 に島津家との和平の斡旋を要請。 これを受けて豊臣家は和平交渉を行おうとしますが、島津家はこれを拒否。 もはや戦いは避けられない状態となっていきます。
そして、もはや独力では島津家に対抗できない事を悟った 大友宗麟 は・・・
「沖田畷の戦い」 から2年後の 1586年、高価な茶器を手みやげに大阪城に向かい、豊臣秀吉に謁見。
「豊臣家 の傘下に入るので、島津家 の進攻から守って欲しい」 と嘆願します。
こうして・・・ 大友家 は 豊臣家 に臣従。
戦いは、「天下人・豊臣家 VS 九州の覇者・島津家」 へと移っていくことになりました。
豊臣家が九州に介入してくる事が決定的になると、島津家は急いで北上の準備を進めます。
しかし島津家の当主 「島津義久」 は、大友家にどの方面から攻め込むかで悩んでいました・・・

大友家の本拠地に最短で攻め込めるのは、九州の東側 「日向(現在の宮崎県)」 を通るルート。
しかし 秋月家 などからは、「北九州の占領を進めるには諸勢力が混在している 筑前・筑後・肥前 などを先に抑えることが必要不可欠」 という進言があり、島津義久は思い悩みます。
島津義久は一度、日向から攻め込む最短ルートを取ろうと決定しますが、その後に思い直して取りやめる始末で、そうこうしているうちに半年近く経ってしまい、それは大友家に貴重な時間を与える結果となってしまいます。

結局、1586年の6月、西から迂回していくルートを主力とする2方向からの進攻作戦が決定されて、島津軍は進攻を開始。
東から進む軍団は 大将・島津義久 に加え、島津義弘・家久 などが率いる3万の軍勢。
一方 西から回り込む軍団は 島津義久 のいとこ 「島津忠長」 が大将を勤める2万の軍勢でした。
西からの軍団は最初は2万の兵力でしたが、途中で北九州の諸勢力が次々と合流し、最終的には約5万の軍勢に膨れ上がります。

東から進む軍団は、西からの軍団と同時に大友領に攻め込むため、日向の地で一旦停止。
そして7月、西から進む島津軍は北九州に入り、大友家の拠点 「岩屋城」 を包囲します。
この 「岩屋城」 にいた兵力は、わずか 800 人足らず・・・ 戦力差は絶望的。
しかしここを守るのは、大友家の名将 「高橋紹運」 でした。
立花城」 という城にいた 高橋紹運 の子 「立花宗茂」 は、兵力が違いすぎ、城の守りも弱いため合流して敵に対抗しましょうと勧めますが、高橋紹運は 「別の軍と合わされば人の和が乱れる恐れがあり、この危機にあって数人の大将が同じ場所にいるのも良くない。 命の限り戦えば 14、5 日は持ちこたえ、敵兵三千人は討てるだろう。 そうすれば島津軍も進軍が遅れ、そのうちに豊臣家の援軍が到着できる」 と、決死の覚悟で敵を食い止める決意を語ります。
そして配下の兵と共に死の覚悟を決めると、城を包囲する島津家からの降伏勧告を断り、「我々は命の限り戦うため、いささか手強いと覚悟されよ」 と返答、島津軍の前に立ち塞がります。

こうして、島津軍5万の一斉攻撃が開始され、岩屋城で激戦が繰り広げられます。
攻撃側は数にものを言わせて攻めかかりますが、岩屋城を守る 高橋紹運 の兵たちの防戦は凄まじく、城は全く落ちません!
そのうち島津軍の損害は大きなものになっていきますが、島津軍 も急がなければ 豊臣軍 が来てしまうことを知っていたため、持久戦に入ることは出来ず、そのまま力攻めが続きます。
高橋紹運
開戦から十日、昼夜を問わず戦い続けていた高橋紹運の兵はさすがに疲労の極致に達していましたが、それでも降伏勧告をはねつけ、徹底抗戦を続けます。
そして開戦から13日目・・・ 壮絶な戦いの末、ついに城は落城。 城兵は一人残らず戦死し、高橋紹運も自害します。
しかし攻撃側も 5000 人前後の大被害を受け、この場所で半月近く足止めを受けてしまう結果となりました。

その後、島津軍は 立花宗茂 が守る 「立花城」 に進軍して行きますが、すでに疲弊と疲労が重なっており、さらに立花宗茂の 「詐降の計略」 (投降を偽って近づき奇襲する計略)などを受け、攻めあぐねてしまいます。
そして8月下旬・・・ ついに豊臣家からの援軍である、毛利家の 「小早川隆景」 の軍勢が北九州に上陸!
その報告を受け、ついに西回りの 島津軍 はこれ以上の進軍を断念。
立花宗茂は島津軍の後退を聞いて反撃を開始し、島津家により落とされた城を次々と奪還、抵抗していた 秋月家 も 立花宗茂 の前に敗れて後退、島津家に降伏していた 龍造寺家 も 島津陣営 より脱退し、豊臣軍に参加します。
こうして事実上、島津家の西回りの作戦は失敗に終わり、北九州は豊臣・大友軍により制圧されていく事となりました。
9月に入り、四国に領地を持つ大名 「仙石秀久」 「長宗我部元親」 「十河存保」 が、豊臣家からの援軍として大友家の本拠地 「豊後(大分県)」 に到着します。
しかし、この時に到着したのはまだ大友家を救援するために駆けつけた先発部隊。
豊臣家の本隊は、まだ兵を集めて準備している最中です。
そのため 豊臣秀吉 は、豊臣軍や大友軍に 「堅く守って本隊の到着を待つように。決して軽率な行動をしてはならない」 と厳重な命令を与えていました。
しかし・・・ この命令は、あっさり破られてしまいます。
九州の北部、大友領の 「豊前(福岡県の東部)」 で反乱が発生し、大友家の跡を継いでいた大友宗麟の子 「大友義統」 が、仙石秀久 にこの反乱の鎮圧を要望、大友宗麟の制止も聞かず、2人で軍勢を率いて豊前に向かってしまったのです。

一方 島津軍は、西回りの軍勢が北九州から後退した報告を受け、南から大友領へと進攻する事を決意し、その機会をうかがっていました。
そんな時、豊臣軍と大友軍が、反乱鎮圧のために北に向かっていきます。
もちろんこれは島津家にとってはチャンス!
10月、島津軍は日向(宮崎県)と肥後(熊本県)の2方向から進軍を開始。
ついに九州東側でも大友・豊臣軍と島津軍の戦いが始まります!


しかしこの島津軍の進攻は、大友家の若き武将 「志賀親次」 「佐伯惟定」 などの活躍で押し止められてしまいます。
さらに、前線の城にいた 大友宗麟 も自ら防衛戦を指揮。
さすがにこの時は祈っているだけではダメだと悟ったのか、積極的に陣頭指揮を行い島津軍の攻勢を防ぎます。
また、ポルトガルから輸入し、大友宗麟が自ら名付けた2門の大砲 「国崩し」 も島津軍に炸裂!
「国崩し」 はその威力もさる事ながら、着弾時の轟音がもの凄く、それによって兵や馬が恐れをなして混乱、さらに兵がなぎ倒された木々の下敷きになるなどして、島津軍の攻撃が阻まれます。
結局、北に向かっていた 仙石秀久 の軍勢もあわてて戻ってきたため、島津軍の本隊は一旦下がって軍勢を再編成。
そして大友家の本拠地である 「府内城」 に向かって進軍を再開しました。

12月、大友家の本拠地に向かって進軍する島津軍の本隊は、その途中で 「鶴賀城」 という城を包囲します。
城の兵士は約 2000 人、一方 包囲する島津家久の軍勢は一万八千人でしたが、城の兵士は頑強に抵抗していました。
仙石秀久 長宗我部元親
これを聞いた豊臣軍の 「仙石秀久」 は、今度はこの城の救援に向かおうと主張します。
しかしこれを聞いた豊臣軍の 「長宗我部元親」 と 「十河存保」 は、共に大反対!
豊臣秀吉から 「堅く守って、決して軽率な行動をしてはならない」 と言われたはずだと語り、仙石秀久 を止めようとします。
しかし仙石秀久も「味方の危機を見捨てるのは武士として義に反する。誰も行かないなら自分だけでも行く!」と言って聞きません。

結局、豊臣秀吉 の直属の家臣である 仙石秀久 の方が立場が上だった事もあって、長宗我部元親 と 十河存保 は仕方なくこれに従う事になり、豊臣軍 約 6000 が鶴賀城へと向かっていきます。
島津家久 は豊臣軍が来るのを聞いて城の包囲を中断し、「戸次川」 という川の後方まで下がって、そこで敵を待ち構えました。
戦場に到着した豊臣軍の仙石秀久は、さっそく 「川を渡って敵を蹴散らせ!」 と命令を出します。
しかし 長宗我部元親 と 十河存保 は再び反対。
「川を渡っての攻撃は不利です! ここはにらみ合いつつ援軍を待ち、改めて作戦を練りましょう」 と進言。
しかし今回も、立場の影響があったのか、それとも仙石秀久が強硬だったのか・・・
結局、渡河攻撃をする事が決定されてしまいます。

こうして翌日早朝・・・ 豊臣軍は川を渡って一斉に攻撃!
しかし 島津軍 は 豊臣軍 が思ったほどの兵力ではない事を知り、すでに反撃の体制を整えていました。
それでも 長宗我部軍 が率いる四国・土佐の兵は強く、島津軍の第一陣は崩壊、序盤は豊臣軍が有利になります。
しかし島津軍もすぐに第二陣を繰り出して第一陣を収容、さらに長宗我部軍を押し返します。

その後、島津軍の第三陣が豊臣軍を側面から攻撃、そのまま両軍かなりの激戦に入ったようですが、兵力差と寒い冬に渡河した影響もあって、豊臣軍は次第に不利になっていき、ついに敗走状態に陥る事となります。
長宗我部信親
そしてこの時、敗走する四国の兵を逃がそうと 長宗我部元親 の長男で武勇に長けた 「長宗我部信親」 が島津軍の前に立ち塞がり、奮戦を見せますが・・・ 多勢に無勢で、島津兵の猛攻の前に戦死してしまいます。
信親の戦死を聞いた 長宗我部元親 は悲しみのあまり自分も敵に突撃しようとしますが、家臣に止められ、戦場から逃れます。
しかし最愛の息子を失った 長宗我部元親 の悲しみは深く、後継者が戦死した事で長宗我部家では跡継ぎ争いも発生し、それにより家臣同士の対立も起こり、こうして長宗我部家は以後、没落の一途を辿る事となりました。
また、この戦いで 十河存保 も戦死。 仙石秀久 はあまりの失態に誰にも顔向けできなかったのか、そのまま四国まで逃げ帰ってしまい、秀吉の怒りを買って領地を没収されてしまいます。
こうして九州の 豊臣家 VS 島津家 の初戦となった 「戸次川の戦い」 は、島津家の勝利で終結します。
しかし・・・ 翌月の 1587年1月、ついに豊臣秀吉の本隊が九州への進軍を開始します。
全国の豊臣傘下の大名家の軍勢が、次々と中国・四国地方を経由して九州へと上陸していきます。
3月にはついに 豊臣秀吉 自身も出陣し九州に到着。 豊臣軍の総勢は、なんと 20 万!
この大軍を前に、九州の諸勢力は次々と豊臣家に従属。 もはや戦局は豊臣軍の方に傾いていました。
圧倒的な豊臣の大軍を前に、兵力が分散していては勝ち目がないと考えた島津家は後退を開始、北九州方面から撤退します。
島津家 と共に 大友家 に抵抗していた 秋月家 も、3月末に豊臣軍の武将 「蒲生氏郷」 の軍勢に敗れ包囲されます。
秋月家の当主 「秋月種実」 は本拠地の城で守り時間を稼ごうとしますが、近くの破棄した城を豊臣軍が1晩で修復、ここを拠点に豊臣軍が攻撃を開始します。
この 「一夜城」 で豊臣家の兵力・財力を見せつけられた 秋月種実 は、それから間もなく豊臣家に降伏しました。

その後、豊臣軍は軍勢を2つに分け、秀吉の弟 「豊臣秀長」 が率いる軍勢が九州の東側、日向(宮崎県)方面から南下。
一方、豊臣秀吉 自身は肥後(熊本県)を通って、九州の西側から南下するルートを通ります。

4月、島津軍は日向の南にある 「高城」 付近に兵力を集め、ここで豊臣秀長の軍勢を待ち受ける戦法を採ることに決めました。
この高城はかつて、「耳川の合戦」 で島津軍が大友家の大軍を撃ち破った、難攻不落の城です。
この付近に島津軍は3万5千の兵力を集め、南下してくる大軍を再び撃ち破ろうと考えていました。

しかし、8万以上の大軍を擁する豊臣秀長の軍勢は高城を包囲すると、その周囲に陣地や砦をいくつも構築し、あわてて攻め込まず、持久戦の構えを取ります。
これは島津軍にとって最も嫌な戦法でした。 なぜなら九州の西側から 豊臣秀吉 の軍勢が南下しているからです。
この場所でそのまま睨み合いを続けていると、西側から進む豊臣秀吉の軍勢が、島津家の本拠地・薩摩に攻め込んでしまいます。
高城も難攻不落とはいえ、そのまま大軍に包囲されていれば、いずれ陥落は免れません。

そして4月中旬・・・ ついにこれ以上待てなくなった島津軍は、包囲された高城を救援すべく、「根白坂」 という場所に豊臣軍が築いた砦を急襲します!
この攻撃は最初から無謀なものだという事が解っていた攻撃であり、大将を勤める 島津家久 は反対していたのですが、だからと言ってこのまま立ち止まっている事も出来ない情勢であり、もはや島津家には他に選択肢はなくなっていました。

一方、「根白坂」 は島津軍が高城を救援するのに絶対に通らなければならない場所であったため、豊臣軍の武将 「宮部継潤」 がすでに守りを固めており、敵を待ち構えていました。
こうして・・・ 高城の南、根城坂で激しい戦闘が開始されます。
島津義弘 や 島津家久 など、島津軍の歴戦の猛者が先頭に立ち、2万の軍勢が根城坂の砦を急襲します。
しかし対する 宮部継潤 の1万の軍勢も、柵や堀で砦の周囲を固めており、さらに多数の鉄砲隊が配備されていて、襲いかかる島津軍を次々と砲撃で撃ち崩します!
豊臣軍の鉄砲は改良が重ねられており、連射性能も高く、必至で柵を押し倒して突破しようとする島津軍は次々とその餌食になっていきました。

そして疲弊した島津軍に、「藤堂高虎」 が率いる 500 人の部隊が攻勢をかけます。
藤堂高虎 の部隊は少数でしたが、巧みな指揮で島津軍を翻弄。
浮き足だった島津軍を、さらに豊臣軍の 「小早川隆景」 と 「黒田官兵衛」 の軍勢が攻撃、こうなると、兵力差に劣る島津軍にもう勝ち目はありません。
大被害を被った島津軍はそのまま敗走し、そして4月中旬、高城も総攻撃を受けて落城。
ついに島津家の最重要拠点は、ここに陥落する事となったのでした。
翌月の 1587年5月、島津家の本拠地・薩摩に迫る豊臣家の大軍を前に、ついに 島津義久 は降伏を決意。
頭を丸めて、豊臣秀吉 の元に謝罪に向かいます。
豊臣秀吉 はそれを絢爛豪華な宴会で迎え、盛大なもてなしをした後、降伏を受諾し、同時に島津家の薩摩・大隅(現在の鹿児島県)の領土を保証する約束を行いました。
これらは豊臣秀吉が天下統一のため、豊臣家に敵対することの愚かさと豊臣家に従属することの利点を世間に訴えるための、政治的なアピールでもありました。
それでも 島津義弘 など一部の武将は徹底抗戦を訴え、その後も戦闘を継続していましたが・・・
島津義久 の説得によって降伏し、5月の下旬には完全に戦いは終結します。
こうして・・・ 九州の各地の勢力も全て豊臣家の傘下に入り、九州の戦乱は終結しました。

「九州三国志」 はここに終わりを迎え、それから3年後の 1590 年、豊臣秀吉により日本は天下統一される事となります。

1600年〜 (後日談) 関ヶ原と戦乱の果て
ここからは、九州三国志の後日談です。
「九州三国志」 とは直接関係ありませんが・・・ 九州での戦いは、もう少し続くことになります。
1592 年から、豊臣秀吉は 「朝鮮出兵」 を開始。 多くの大名家の軍勢が朝鮮半島へと渡っていきました。
九州はその前線基地となったため、多くの兵士が駐留することとなります。
また、朝鮮出兵で大きな活躍をした 島津義弘・立花宗茂・加藤清正・小西行長 は、みんな九州に領土を持っていた(および豊臣秀吉から九州の領土を与えられた)人たちでした。
ただ、大友家の跡継ぎ 「大友義統」 は、朝鮮出兵中に誤報を信じて城を捨てて撤退してしまうと言う失敗を犯してしまい、領地を没収されてしまいます。
大友宗麟は豊臣家が九州を制圧した頃にすでに病死しており、これにより実質、大友家は滅亡する事となってしまいました。
加藤清正 黒田官兵衛
また、朝鮮出兵の最中、豊臣家では 「文治派」 (内政や補給などを担当する政治家) の家臣と、「武断派」 (合戦で戦う武将) の家臣の対立が深刻化します。
特に肥後(熊本県)では、武断派の武将 「加藤清正」 と、文治派の武将 「小西行長」 が領地を持っていたため、両者の対立が激化。
加えて豊臣家の軍師で、切れ者と呼ばれ野心家でもあった 「黒田官兵衛」 も九州に領土を与えられており、没落した 「大友義統」 も、黒田官兵衛と協力してお家再興の機会を伺っていました。

1597年、豊臣秀吉の病死によって、朝鮮出兵は終了。
そして豊臣家の文治派と武断派の対立はさらに悪化していき、豊臣家の文治派のトップ 「石田三成」 が率いる西軍と、武断派を味方にした大名 「徳川家康」 率いる東軍の合戦に発展。
1600年、日本を2分する天下分け目の大合戦 「関ヶ原の戦い」 が勃発します!
黒田官兵衛 はこの動きを早くから予期していて合戦の準備を整えていたため、関ヶ原の戦いの勃発と同時に挙兵!
黒田官兵衛 はこの 「関ヶ原の戦い」 を利用して九州に一大勢力を築こうとしていたと言われており、天下への野望を持っていたとも言われています。
西軍の主将・石田三成 と対立していた 黒田官兵衛 は東軍への参加を宣言し、西軍側の城を次々と攻略。
加藤清正 も東軍として挙兵し、西軍の首謀者の一人となった 小西行長 の領地に攻撃を開始します。
一方、立花宗茂 は 「秀吉公の恩義を忘れ東軍に付くことなど出来ない」 と語り、西軍への参加を宣言、「関ヶ原の戦い」 に参加するため近畿地方へと遠征。
しかしすでに龍造寺家の実権を握っていた 鍋島直茂 は東軍への参加を宣言し、立花宗茂 の領地へ攻撃を開始します。

大友宗麟の子 「大友義統」 は 黒田官兵衛 と協力する予定でしたが、旧知の間であった西軍の大将 「毛利輝元」 からの説得を受けて、土壇場で寝返り!
西軍への参加を宣言して大友家の旧臣と共に挙兵し、毛利家の援助を受けて 「お家再興」 を狙います。
黒田官兵衛 は 大友家 の力も借りて戦おうとしていたのですが、この土壇場の寝返りで、まず 大友義統 と戦わなければならなくなりました。
一方、島津家は東軍に参加しようとして 島津義弘 を近畿地方に派遣しますが、東軍に合流できないまま 島津義弘 は 石田三成 の説得を受けて、西軍に参加することに。
こうして・・・ 九州は、まるでまだら模様のように各勢力が東軍と西軍に分かれてしまいます。
当然のように各地で同時多発的に戦闘が発生し、九州は大乱戦の様相を見せる事となりますが・・・

しかし、九州がそのまま戦国時代に戻ってしまう事はありませんでした。
「関ヶ原の戦い」 が短期間で決着し、西軍のトップである 石田三成・小西行長 なども処刑され、戦後処理も早いうちに片付いていったからです。
肥後(熊本)の 小西行長 の領土は 加藤清正 によって制圧され、後に 加藤清正 は肥後全土を治める大大名となります。
大友家の再興を目指した 大友義統 は 黒田官兵衛 の軍勢と戦いますが、豊臣家の軍師であり合戦経験も豊富な 黒田官兵衛 と、失敗続きで家臣からもその力量を疑問視されていた 大友義統 では、勝負になりませんでした。
大友家の旧臣が一時奮戦を見せるも敗退し、これにより大友家の再興戦は失敗、完全に滅亡してしまいます。
島津義弘 は 「関ヶ原の戦い」 で苛烈な突撃を見せ、その戦いぶりを称えられるものの、大被害を受け撤退。
立花宗茂 も西軍が敗れたため撤退し、仇敵だった両者は和解すると、共に並んで九州へと帰ります。
立花宗茂
しかし九州では、鍋島直茂 が立花家へ進攻中!
大友家を片付けた黒田官兵衛も加わって、立花宗茂 は包囲されます。
立花宗茂 は 鍋島直茂 に決戦を挑むと、1300 人程の部隊で鍋島軍3万の軍勢を一時撃破しますが、兵力が違いすぎて結局 押し込まれ、城で守りを固めることになります。
これに対し、島津家 が 立花家 へ援軍を派遣し、戦乱はさらに拡大しそうになりますが・・・
徳川家康 からの停戦命令が各勢力に届けられたことと、加藤清正の説得もあって、立花宗茂は降伏。
こうして、九州の 「関ヶ原の戦い」 の裏で行われた戦乱は、幕を閉じることとなります。
この戦いの功績で、鍋島直茂 は正式に龍造寺家を継ぐ事となり、以後 龍造寺家は 「鍋島家」 に変わりました。
黒田官兵衛 は停戦命令が来ると占領した城を 徳川家 に献上し、以後、動くことはありませんでした。
ただ、関ヶ原の戦いで活躍し 徳川家康 から褒美をもらった息子 「黒田長政」 が帰ってきた時、「なぜ家康を刺して来なかった」 と言ったというエピソードが残されています。
降伏した立花宗茂は浪人となりましたが、加藤清正の説得や島津義弘の推薦などにより、後に大名に復帰しています。
こののち・・・ 徳川幕府が開かれ、時代は 「江戸時代」 に入ります。

九州では関ヶ原の戦いから38年後、長崎の島原半島でキリシタンの反乱 「島原の乱」 が起こりますが、これが戦国時代の最期の合戦となりました。

こうして日本は、長い 「天下太平の世」 に移っていく事となります・・・

    

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2008/4/30 第6章と後日談を作成、公開。
2008/4/21 第5章を作成。 4/23 に公開。
2008/4/15 第4章を作成。 4/16 に公開。
2008/4/7 第3章を作成。 4/9 に公開。
2008/3/30 第1章、第2章まで作成。 4/2 に公開。