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戦国時代の 「知行」 と 「恩賞」 |
「信長の野望 Online : 飛龍の章」 で新たに導入される 「武家屋敷」 と 「知行」 システム。
「武家屋敷」 はまあわかるとして・・・
「ちぎょー ってなに?」 という方は多いと思います。
「知行」 というのは主に 平安時代 から 江戸時代 にかけて使われていた言葉で、大名の配下(武将・武士)に与えられていた 「土地」 のことです。
戦国時代、手柄(勲功)を立てた武将にはそのご褒美・恩賞として 「知行」 が与えられました。 |
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下級の武士は普通に大名から俸禄(給料)を貰っていましたが、大きな手柄を立てたり勲功を重ねていって出世すると、その土地一帯を支配する権利である 「知行」 を褒美として貰い、その土地の 「領主」 や 「代官」 と言った地位に付くことが出来ました。
与えられた土地から得られる税金や年貢などはそのままその武将の収入となり、つまり名実共にその土地の 「支配者」 となれた訳です。
さらに手柄を立てていけば大きな領土を知行として与えられ、文字通り 「一国一城の主」 にもなれた訳ですね。
こうした大名(または将軍)から与えられた土地を 「知行地」 と言い、土地を与えられる事やその土地を治める事を 「知行する」 と言います。
(一国に及ぶほどの大きな土地になると 「分国」 や 「領国」 とも言いました)
もちろん 「土地の支配権」 を与えられたと言う事は、同時にその土地を 「治める」 義務も出来ます。
自分の土地の民のために領地を知行した武士は、土地開発や住民の統率など政治的な活動も行う必要がありました。
発展を促すために 特産品の開発 や 街道の整備、災害の防止 なども行っています。
しかしそうした行政作業によってその土地が発展すれば、もちろん武将自身の収入も増えますから、自分のためにも開発は必須だった訳ですね。
戦国時代の武士は、自分の領地である 「知行」 を与えられ、さらにその知行地を増やす(加増してもらう)ことが、まさに 「出世」 や 「目標」 でありステータスであったとも言えます。
また武将が 「知行」 を得る事は、自分自身の合戦での軍事力を高める意味合いもありました。
大名が合戦で兵士を集める際、領地を持っている武将は自分の土地から兵を集め、さらに武器や防具を与えて武装させる必要がありました。
もちろん大名直属の兵士もいる訳ですが、基本的に大きな知行地を持つ武将は、自分の部隊の兵士は自分の土地の民からも組織する必要がありました。
そのため自分の土地の兵を訓練し、質の良い武器や防具をそろえておき、合戦や警護に備えておくことも大切な仕事であり、それが自分の部隊の戦力になった訳ですね。
さて、そんな 「知行」 ですが・・・
実はこの知行というシステムは、大きな矛盾・問題を抱えていました。
それは土地と言うものには限りがある、ということ。
武士がその大名家に仕えて仕事を続けていれば、その武将の手柄(勲功)はどんどん貯まっていきます。
しかしその勲功に合わせてホイホイ知行を与えていると、国の土地は限られているのですから、いずれなくなってしまいます。
しかも土地を武将に知行する(与える)ということは、大名自身が直属で治める土地がその分減ってしまうという事でもありますから、大名自体の税収・年貢は落ちて行きます。
合戦のたびにその大名家の領地が増えていくのなら問題ありませんが、もちろんそんな事はありません。 負け戦もあれば防衛戦もあります。
常に手柄に応じた知行が与えられるとは限りません。
ただ武将の方もその辺りはわかっていますから、いつも「知行知行」と言ってた訳ではありませんし、特に防衛戦の場合もし負けてしまうと土地が奪われ、知行が減ったりなくなったりする可能性もありましたから、なおさら必死で戦っていたようです。
信On ではおなじみの 「一所懸命」 という言葉も、元々は 「一所(領地)」 を懸命に守るという意味の言葉だったりします。
(ちなみに 一生懸命 という言葉は、一所懸命 を元にした、最近の言葉です)
しかしいくら手柄を立てても知行が望めないような大名家の場合・・・ やはり大名に仕える武将の方も将来に不安を感じます。
武士の夢は一国一城の主、それが叶わないようなら・・・ と考える者もいたでしょう。
それに武将にもそれぞれ配下がいます。
この配下にも武将が知行や俸禄を与えていたりしますから、「武将の知行が増えない=武将の配下の知行も増えない」 ということになり、一族のためにも もっと有望な大名家に、と考える場合もあったようです。
戦国時代には将来性のある大名家ほど人気がありましたが、それはこの 「知行」 のこともあったようですね。
ですが土地が限られている以上、無限に知行は与えられません。
そのため大名は知行地の代わりとなるご褒美を考えなくてはなりませんでした。
それは報奨金であったり、武器や防具、財宝などの「モノ」であったりした訳ですが・・・
他に 「感状」 というものがありました。
これはつまり 「感謝状」 「賞状」 ですね。
合戦での活躍と大名からの感謝とねぎらいの言葉が書かれている書状で、それを貰う事は名誉を重んじる武士としては大きな勲章となりました。
とは言え、ぶっちゃけて言うと 「紙」 なので、やっぱり知行の方が嬉しいのは当然です。
他に 「官位」 というものもありました。
これは朝廷(天皇家)から与えられる公家(武士の場合は公方)としての 「公式な身分」 であり、将軍家や朝廷の権威が低下していたとは言え、それを与えられる事は大変名誉なことでした。
しかし 「官位」 は朝廷が任命する公式なものですから、もちろん武士が勝手に名乗ったり与えたり出来るものではありません。 (公式でないものは、結構みんな勝手に名乗っていましたが)
よって正式な 「官位」 を得るには朝廷に働きかける 「朝廷工作」 が必要になりました。
要するに、朝廷に献金したり、朝廷に大きな発言力を持つ公家を接待したり、場合によっては朝廷に圧力をかけたり、などですね。
こうして任命権や襲名権を与えられた 「官位」 は (名目上は) 非常に大きな権限を持つもので、上位の官位になるほどそれを与えられる事は多大な名誉とステータスになりました。
戦国時代の後期には、さらに新しい恩賞が出来ました。 「茶器」 です。
これは戦国の覇王 「織田信長」 によって広まったもので、信長 は堺の商人 「今井宗及」 に会って 「茶の湯」 を体験して以来、すっかり茶の湯に入れ込むようになりました。
そして主君がやっている趣味は配下もやりたくなるもので、一気に戦国武将の間に 「茶の湯ブーム」 が巻き起こります。
信長はそれに目をつけたのか、それとも自然にそうなったのか、合戦の恩賞として茶の湯に使う道具 「茶器」 を使うようになりました。
信長は 「名器狩り」 と呼ばれた大規模な名物茶器の収集を行い、非常に高価な茶器コレクションを配下に自慢して、そして 「もし大きな手柄を立てたら、この中のどれかをやるぞ」
と家臣に言ったりしました。
もちろん配下の方も高級な茶器を集めたいと思っていますから、この申し出に乗ります。
こうして 「茶器」 が 「知行地」 より大きな関心を集めたりしたのです。
信長にとっては、限りのある土地を与えるより茶器で済んだ方がよっぽど安上がり、というのもあったでしょう。
織田家の重臣 「滝川一益」 は、ある日 信長から 「この合戦で手柄を立てたら 「珠光小茄子」 という大名物の茶器をやる」 と言われて発奮、活躍を見せたのですが、実際には珠光小茄子は与えられず、かわりに 「上野」 の国(知行)と 「関東管領」 という幕府の役職を与えられました。
この 「関東管領」 は 上杉謙信 が与えられ、泣いて喜んだと言う公式の官職なのですが、滝川一益 は 珠光小茄子 がもらえなかったのでガックリだったそうです。
いかに当時、高価な茶器に大きな価値があったかがわかりますね。
しかし基本的には、自分の土地 「知行」 を得る事が武士の目標です。
大名はそんな家臣の知行を増やすため、場合によってはそのための土地を確保するために、他国に侵攻することもあったようです。
また大名家内で知行を巡ってのトラブルが家臣同士で起こる例も少なくありませんでした。
領土の奪い合いが繰り広げられていた戦国時代には、「知行」 というシステムそれ自体が、争いを誘発するものであったと言えます。
織田信長 は 明智光秀 に謀反(反逆)を起こされ 「本能寺の変」 によって討ち死にしますが、光秀はこの謀反の前に自分の領地を信長に没収されており、「これから伯耆・出雲(中国地方の北部)を攻めてこい。 攻め落としたらその土地をやる」 と言われていました。
しかし一時的にでも知行を全部なくされ、しかも変わりに充てられた土地がまだ敵国のものなのでは、自分だけでなく一族や家臣も路頭に迷いかねません。
このような知行のトラブルも 「本能寺の変」 の裏にはあったようです。
「豊臣秀吉」 が天下を統一すると、各地の領地は配下の武将や味方の大名家に分配され、大名家同士が領地を巡って勝手な争いを起こすことは禁止されました。
そして 「徳川家康」 によって江戸幕府が出来ると知行の体制は 「幕藩体制」 と呼ばれるものに代わり、各地の国は 「藩」 と呼ばれる単位に分けられ、その藩ごとに大名が配置され、各大名が徳川幕府に申請する形で知行の割り当てが行われます。
その後、長く続いた江戸時代が終わり、明治維新が起こると 「廃藩置県」 と呼ばれる法律により 「藩」 の体制は廃止され、武士によって土地が支配される 「知行」 のシステムも最後を迎えました。
日本は平安時代の後期から 「武士」 が世の中を治めるようになりました。
その武士(および特定個人)に土地が分配され、治められる制度が 「知行」 です。
もちろん現代は武士が土地を治めていませんから、知行もありません。
でも戦国時代や江戸時代には、それが当たり前だった訳ですね。
戦国時代は、大名に仕えて実力を発揮して出世することで 「一国一城の主」 にもなれました。
その根本にあったのが 「知行」 と言えます。
「信長の野望 Online 飛龍の章」 では、出世する事で自分の 「武家屋敷」 を持ち 「知行」 を与えられるようになります。
これはゲームとしては非常に特徴的ですが、戦国時代の武将の生活を再現しているのであれば、ある方が自然なものでもあります。
導入を楽しみにしたいですね!
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武将の顔グラフィックなどは「信長の野望 嵐世紀」のものです。
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