戦国時代・・・
それは全国に様々な群雄が割拠し、互いに争乱を続けていた時代です。
つまり日本に小さな国がいっぱいできて、戦争していた頃ですね。
戦国時代の初期には、多くの権力者が各地にさまざまな国を乱立させていました。
この状態を「群雄割拠」と言います。
そして争いの末、生き残って勢力を広げた権力者が、後に「大名」と呼ばれます。
つまり、お殿様です。
戦国時代に特にメジャーな大名は画像の通りです。
全国に色々な国がありますね。
特に群雄がひしめいていたのは関東と近畿地方で、戦国時代をテーマにした物語は、ここが舞台になることが多いです。
地図には「徳川」や「豊臣」がありませんが、これらは戦国時代の後期に台頭してきた勢力です。
当初は徳川家康は今川家の配下、豊臣秀吉は織田家の配下に過ぎませんでした。
戦国時代をいつからいつまでとするのは諸説あって難しいのですが、一般には「応仁の乱」のあった1467年から、徳川家康が幕府を開き、豊臣家を滅ぼした1615年までと言われています。
「応仁の乱」とは、その頃の2人の権力者が地位を巡って京都で争った戦いなのですが、大迷惑な事に京都の市街地で戦ったため、京の都はボロボロ。
それに対して何も出来なかった当時の最高権力機関「室町幕府」の力も弱体化してしまいます。
おまけにその頃、貧しさと重税に耐えかねた農民が各地で一揆(反乱)を起こしていて、世の中もボロボロ。
そんな中、各地の権力者は「幕府なんてアテにならない!」と独自に動くようになります。
そして、ある者は対立勢力と争い、ある者は敵を撃退するため援軍を呼び、ある者は乱戦を利用して領土を拡大しようとします。
もはや幕府にそうした動きを止める力はなく、こうして戦乱の時代が幕を開ける事となります。
しかし、初期の戦国時代は小さな勢力が多くてゴチャゴチャしており、合戦も小規模だったので、あまり取り上げられません。
一般には1550年ごろ、各地方が「戦国大名」と呼ばれる大きな勢力に支配され、そしてのちに戦国時代を席巻する「織田信長」が現れた頃からがよくピックアップされます。
戦国時代の初期から中期を年表にすると、以下の様になります。
よく解らない語句もあるかもしれませんが、そういうのは飛ばしてください。
~戦国時代初期、歴史年表~ | |
1450頃 | 各地で貧しさに耐えかねた農民達による一揆が続発。 |
1455頃 | 関東で有力者たちが争いを始める。将軍家は関東の利権を失う。 |
1467年 | 権力争い「応仁の乱」勃発。 将軍家は各派閥に分裂し、戦乱は長期化。 |
1474年 | 「応仁の乱」沈静化。 しかし京都は大被害を受け、室町幕府は弱体化する。 以後、各地の権力者は独自に動き始める。 |
1488年 | 加賀で起った「一向一揆」により、一揆衆に国が占領される。 |
1495年 | 北条早雲、下克上(家臣が主君を討つ事)で伊豆・相模で勢力を拡大。 |
1506年 | 加賀の一向一揆が朝倉家に進攻するも、朝倉宗滴に敗れる。 |
1516年 | 北条早雲、相模地方を統一。 後に戦国時代の先駆者と言われる。 |
1519年 | 北条早雲、病没。 |
1521年 | 武田信玄の父・武田信虎、甲斐を統一し、今川家を撃退。 |
1523年 | 毛利元就、家督を継ぐ。 |
1527年 | 斎藤道三、主君の土岐頼芸を助けて美濃でクーデターを起こす。 |
1532年 | 三好長慶の父である三好元長、主君の細川晴元に謀殺される。 三好長慶は淡路島に逃れる。 三好元長の謀殺のため煽動された一向一揆、暴走して近畿で争乱となる。 |
1534年 | 織田信長、誕生。 |
1536年 | 今川義元、高僧の太原雪斎と共に家督争い「花倉の乱」で勝利。 今川家を継ぎ、尾張の織田家と交戦する。 同年、比叡山延暦寺が宗教紛争で京都に進軍、京都は再び大被害を受ける。 |
1537年 | のちの豊臣秀吉、誕生。 |
1539年 | 三好長慶、淡路で挙兵。 細川晴元と足利将軍家を相手に交戦。 |
1541年 | 武田信玄、家臣と共に父・武田信虎を追放、武田家の跡を継ぐ。 同年、北条氏康、家督を継ぐ。 |
1542年 | 斎藤道三、主人の土岐頼芸を追放して美濃の国を奪取。 尾張の織田家と交戦。 同年、のちの徳川家康、誕生。 |
1543年 | 鉄砲が種子島に伝来。 |
1544年 | 上杉謙信が初陣、すぐに合戦で活躍し、越後の戦乱を鎮めていく。 |
1546年 | 北条氏康、敵対勢力の連合軍を「河越夜戦」で撃破、関東一帯を支配。 同年、足利義輝、室町幕府・第13代将軍に就任。 |
1547年 | 幼少の徳川家康、今川家に移送される途中、織田家にさらわれる。 2年後に今川家に返されるが、一般にはこの間、信長と遊んでいたと言われる。 |
1548年 | 上杉謙信、家督を継ぐ。 同年、三好長慶、細川晴元を事実上滅亡させ、将軍・足利義輝も京都から追放。 同年、朝倉義景、家督を継ぐ。 |
1549年 | 織田信長、斎藤道三の娘、帰蝶と結婚。 織田家と斎藤家は婚姻関係に。 同年、フランシスコ・ザビエル、日本に来日し布教を開始。 |
1551年 | 織田信長の父、信秀死去。 織田信長が家督を継ぐ。 しかし父の葬儀で位牌に焼香を投げつけて帰り、「大うつけ」の噂が更に広まる。 同年、武田信玄、信濃の村上義清を敗走させ、信濃を制圧。 村上義清は上杉謙信に信濃奪還の協力を要請する。 |
一般に知られる戦国時代は、この1551年、織田信長が織田家を継いだあたりです。
武田信玄、上杉謙信、斎藤道三といった有名な戦国大名が、それぞれ健在だった頃ですね。
そして、この10年後に「桶狭間の戦い」が起こって、織田信長の名が天下に知れ渡ることになります。
戦国時代の中期は、この織田信長の時代と言えます。
~戦国時代中期、歴史年表~ | |
1553年 | 織田信長の弟、織田信行が信長に反乱を起こす。 同年、織田信長と斎藤道三が「正徳寺」にて会見。 同年、武田信玄と上杉謙信による1回目の「川中島の戦い」が起こる。 |
1554年 | 武田家・今川家・北条家で「三国同盟」が成立する。 この辺りの年で、木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)が織田信長に仕える。 |
1555年 | 武田信玄と上杉謙信による2回目の川中島の戦い。 同年、「厳島の戦い」にて毛利元就が陶晴賢を討ち果たし、戦国大名として台頭。 同年、今川家の軍師「太原雪斎」、朝倉家の大将「朝倉宗滴」が死去。 |
1556年 | 斎藤道三、子の斎藤義龍に討たれ戦死。 同年、謀反を起こした信長の弟、織田信行が合戦に敗れ、謀反鎮圧。 同年、上杉謙信、高野山に出家しようとして上杉家で騒動になる。 |
1557年 | 織田信長、再度謀反を起こそうとした弟の織田信行を討つ。 尾張を平定。 武田信玄と上杉謙信、3回目の川中島の戦い。 |
1558年 | 将軍・足利義輝、三好長慶と交戦の末に和睦、京都に復帰する。 しかし三好長慶との水面下の対立はその後も続く。 |
1559年 | 毛利元就、九州に進攻を開始し「門司合戦」で大友宗麟に勝利。 以後、毛利家と大友家の戦いが続く。 |
1560年 | 「桶狭間の戦い」。 今川義元が上洛(京都への進軍)を開始、しかし途上の桶狭間で織田信長に急襲され戦死。 ここから今川家は衰退していき、同時に徳川家康が三河にて独立。 武田・今川・北条の三国同盟もその効果を失う。 同年、浅井長政、南近江の六角家と対立、「野良田の戦い」に勝利して独立する。 同年、四国の長宗我部元親、家督を継ぐ。 |
1561年 | 長尾景虎(上杉謙信)、関東官領(関東を治める役職)を譲られ、上杉家を相続。 以後、関東支配のため北条家への攻撃を続ける。 同年、武田信玄と上杉謙信、もっとも激戦となった4回目の「川中島の戦い」。 同年、斎藤道三の子、斎藤義龍が病死。 |
1562年 | 織田信長と徳川家康、同盟(清洲同盟)を結ぶ。 |
1564年 | 武田信玄と上杉謙信、5回目の川中島の戦い。 同年、三好長慶、病没。 同年、斎藤家の竹中半兵衛が主君の城「稲葉山城」を乗っ取る事件が起きる。 |
1565年 | 三好家の重臣である三好三人衆と松永久秀、将軍・足利義輝を暗殺(永禄の変)。 足利義輝の弟、足利義昭は救出され、各地を転々としながら有力者に支援を求める。 同年、浅井長政と信長の妹「お市」が婚姻。 浅井家と織田家が同盟。 |
1566年 | 羽柴秀吉が斎藤家との間の重要地「墨俣」に城を建設。(墨俣一夜城) 同年、松平元康が徳川家康に改名。 同年、毛利元就、尼子家を滅ぼして中国地方の西部を平定。 |
1567年 | 織田信長、美濃を攻略。 斎藤家は滅亡。 同年、武田信玄の子、武田義信がクーデターを起こそうとして失敗、自害。 義信の嫁だった今川義元の娘は今川家に返され、今川家と武田家の婚姻は破棄。 同年、のちの伊達政宗、誕生。 |
1568年 | 織田信長、足利義昭を迎えて京都へ上洛。 足利義昭、室町幕府の新たな将軍に就任する。 同年、武田信玄が今川家への進攻を開始、駿河を制圧。 |
1569年 | 徳川家康、今川家の最後の城を攻略。 今川家、滅亡。 同年、武田家と北条家の間で大規模な合戦「三増峠の戦い」が発生。 同年、毛利家が再び九州に進攻、しかし尼子の遺臣である山中鹿之介に後方を脅かされる。 同年、三好家が将軍・足利義昭を襲撃するも、撃退される。(本圀寺の変) |
1570年 | 織田信長、将軍・足利義昭の行動を規制しようとして、関係が悪化する。 将軍 足利義昭、各地に「信長を討て」の檄文を密かに発信し始める。 同年の春、「金ヶ崎の戦い」。 織田家が朝倉家を攻撃する。 しかし両国と同盟関係にあった浅井家が朝倉側についたたため、織田軍は撤退。 夏、「姉川の戦い」にて織田・徳川軍は浅井・朝倉軍を撃破。 一方、 本願寺が織田家に対して挙兵し、雑賀衆もそれに従う。 織田軍は本願寺の拠点・石山本願寺城に攻勢をかけるも苦戦。 秋、浅井・朝倉軍は京都方面に進軍、織田軍と交戦した後、比叡山に籠もる。 織田信長は比叡山の寺院に敵対しないよう要請するも、比叡山側はこれを無視。 冬、足利義昭の仲介により、浅井・朝倉軍は撤収。 同年、甲賀の大名であった六角家を織田家の柴田勝家が攻略。 |
1571年 | 織田家、本願寺の挙兵に応じた「長島一向一揆」を攻撃するも敗北。 同年、織田信長、比叡山延暦寺を焼き討ち。神社仏閣を焼き払い、僧侶3000人を殺害。 同年、北条氏康、毛利元就、病死。 |
1572年 | 武田信玄、上洛(京都への進軍)を開始。 途上で徳川家康の攻撃を「三方ヶ原」で撃破。 |
1573年 | 武田信玄の上洛に呼応し、将軍・足利義昭、挙兵。 しかし武田信玄は上洛の途上で病死。 武田家は武田勝頼が継ぐ。 足利義昭は信長によって追放され、室町幕府は滅亡する。 同年、織田家は浅井家・朝倉家を攻撃、浅井・朝倉連合軍は破れ、両国共に滅亡。 |
1574年 | 織田家、長島一向一揆への攻勢を強め、これを壊滅させる。 一方、越前でも一向一揆が勢力を拡大し、朝倉家の旧臣を攻撃して国を奪取。 しかし翌年、信長は越前に進攻し、門徒数万人を殺害、これも鎮圧する。 |
1575年 | 「長篠の戦い」。 武田勝頼の騎馬軍団を織田信長は三段構えの鉄砲砲撃で破り、武田家は大きく衰退。 同年、長宗我部元親、一条家を滅ぼして土佐を統一。 |
1576年 | 毛利家の村上水軍、一度目の「木津川口の戦い」で織田水軍を破り、本願寺に補給を行う。 同年、織田信長、安土城の築城を開始。 |
1577年 | 上杉謙信、加賀に進攻し「手取川の戦い」で織田軍を破る。 同年、織田家の家臣、松永久秀が謀反。 のちに名器「平蜘蛛の茶釜」と共に爆死。 同年、織田軍が雑賀衆を攻撃。雑賀衆は降伏するも、再度敵対する。 |
1578年 | 上杉謙信、上洛準備中に脳卒中で急死。 同時に上杉家で家督争いが勃発。 同年、「天正伊賀の乱」。 織田軍が伊賀の忍びの里に進攻、伊賀忍のゲリラ戦の前に敗退。 同年、織田水軍、鉄甲船を用いて二度目の「木津川口の戦い」で村上水軍を撃破。 同年、南九州の島津家、北九州の大友家を「耳川の合戦」にて撃破。 |
1579年 | 上杉家の家督争い(御館の乱)が決着。上杉景勝が家督を継ぐ。 同年、徳川家康の正妻と長男が信長に切腹を命じられる「信康事件」が起こる。 |
1580年 | 大阪の石山本願寺城にて篭城を続けていた本願寺軍、織田家と和睦して城を退去。 同年、2度目の「天正伊賀の乱」。 織田軍が大兵力で伊賀の里に進攻、組織としての伊賀忍は壊滅。 |
1582年 | 織田・徳川・北条の攻撃により武田家壊滅、武田勝頼は自害。 武田家滅亡。 |
この中期が、多くの名将が覇を競った、よく知られた戦国時代です。
この後、織田信長が死に、豊臣秀吉が台頭、そして徳川家康の時代へと移っていきます。
伊達政宗も、後期になってからの登場です。
~戦国時代後期、歴史年表~ | |
1582年 | 「本能寺の変」。 明智光秀が謀反、京都の本能寺にいた織田信長を襲撃し、信長は死去。 堺にいた徳川家康にも危機が迫るが、服部半蔵らの護衛で脱出。(伊賀越え) 秀吉、攻撃中の毛利家と講和を結ぶと、京へと転進。(中国大返し) 「山崎の合戦」(天王山の戦い)で秀吉が明智光秀に勝利し、明智光秀は死去。 その後、「清洲会議」にて織田家の跡継ぎが秀吉の推薦する「三法師」に決定。 織田信孝を推薦した柴田勝家と秀吉の対立が決定的になる。 甲斐と信濃では、北条・徳川・上杉による領地の取り合いが起こる。(天正壬午の乱) |
1583年 | 「賎ヶ岳の戦い」。 秀吉と柴田勝家、賎ヶ岳で戦い、柴田勝家は敗走して自害。 織田信孝も自刃。 秀吉、大坂城の築城を開始。 |
1584年 | 「小牧・長久手の戦い」。 織田家の跡継ぎ候補の織田信雄が徳川家康に接近し、家康がこれに応えて秀吉と開戦。 徳川軍が一時優勢となるが、秀吉が織田信雄と講和したため家康は戦う名分を失う。 同年、伊達政宗が家督を継ぐ。 同年、四国の長宗我部元親、四国を統一。 同年、南九州の島津家、九州北西の大名・龍造寺家を「沖田畷の戦い」にて撃破。 |
1585年 | 秀吉、関白就任。天下人と言われるようになる。 同年、豊臣秀吉の攻撃により、紀伊の雑賀衆が滅亡。 同年、四国の長宗我部家、豊臣軍に敗れて降伏。 同年、上杉家、豊臣秀吉に臣従。 同年、独立した真田昌幸、攻め寄せてきた徳川軍を「上田合戦」で撃破。 同年、伊達政宗の父が人質に取られて死去(人取橋の戦い)、東北の戦乱が激化。 同年、秀吉、大名の私戦を禁じる「惣無事令」を発布。 |
1586年 | 天正大地震が発生。この被害により、準備中だった秀吉の徳川攻撃が中止に。 同年、徳川家康、豊臣秀吉に臣従する。 同年、羽柴秀吉、豊臣秀吉に改名。 |
1587年 | 豊臣家、大友家の救援を理由に九州に出陣。 九州の島津家、豊臣秀吉に降伏。 同年、豊臣秀吉、バテレン(キリスト教宣教師)追放令を発する。 |
1588年 | 豊臣秀吉、刀狩り令を発する。 この頃から豊臣家の政務において、石田三成が台頭する。 |
1589年 | 豊臣家、北条家に進攻を開始。 同年、伊達政宗、蘆名家を「摺上原の戦い」で破り、勢力を拡大。 |
1590年 | 「小田原征伐」。 豊臣軍による小田原城包囲により、北条家は滅亡。 東北の伊達家、豊臣秀吉に臣従。 他の東北の諸大名も秀吉に従い、豊臣家、事実上の天下統一。 同年、徳川家、関東に移される。 |
1591年 | 千利休、秀吉に疎まれ自害。 同年、豊臣秀吉、太閤に就任。 |
1592年 | 豊臣秀吉、第一次朝鮮出兵(文禄の役)。 豊臣家の家臣は石田三成らの文治派と、三成と対立する武断派に分裂し始める。 |
1593年 | 豊臣秀吉の側室である淀君、のちに豊臣家の跡継ぎとなる豊臣秀頼を生む。 |
1595年 | 「秀次事件」。豊臣家の跡継ぎだった豊臣秀次が切腹させられる。 秀頼の誕生で秀次が邪魔になったからだと言われており、配下や近親者なども処分された。 |
1597年 | 豊臣秀吉、第二次朝鮮出兵(慶長の役)。 この出兵中に豊臣家の派閥(文治派・武断派)の対立が決定的となる。 |
1598年 | 豊臣秀吉、死去。 同年、朝鮮出兵中の日本軍は明(中国)の大軍を打ち破るも、朝鮮から撤収。 徳川家康、武将の恩賞や婚姻の斡旋を、石田三成らに相談せず、独断で行うようになる。 |
1599年 | 豊臣家の文治派と武断派の仲裁を行っていた前田利家が死去。 その後、武断派による「石田三成 暗殺未遂事件」(七将襲撃)が起こる。 石田三成は失脚し、徳川家康が政務のトップとなる。 |
1600年 | 「関ヶ原の戦い」。 徳川家康が反抗した上杉家を討伐しようと出陣し、その隙に石田三成が徳川征伐を宣言。 双方が各地の大名や武将に招集をかけ、関ヶ原で対峙する。 結果、東軍・徳川家康が勝利し、石田三成の西軍は瓦解。 石田三成は処刑され、文治派は崩壊、豊臣家は大幅に縮小させられた。 |
1603年 | 徳川家康、征夷大将軍に任ぜられ、江戸に幕府を開く。 江戸時代の始まり。 同年、徳川家康の孫娘、千姫が豊臣秀頼と婚姻。 しかし豊臣家の実権を握る淀君は、豊臣家の徳川家への臣従を拒否。 |
1604年 | 徳川家康、子の徳川秀忠に将軍職を譲り、隠居。 ただし影響は持ち続けており、俗に言う「大御所政治」が始まる。 |
1605年 | 徳川家康、豊臣秀頼との会見を希望するが、淀君に拒否される。 |
1611年 | 徳川家康と豊臣秀頼、京都の二条城にて会見する。 |
1614年 | 「大坂 冬の陣」。 家康、豊臣家が奉納した鐘の文字にイチャモンをつけて豊臣家に進攻。 真田幸村らが奮戦するも豊臣軍は敗退し、勝利した徳川方は大坂城の堀を埋める。 |
1615年 | 「大坂 夏の陣」。 家康、豊臣家に再度進攻。 大坂城は落城し、真田幸村は戦死、秀吉の子・豊臣秀頼、その母・淀君は自害。 豊臣家滅亡。 戦国時代の終焉。 |
1616年 | 徳川家康、テンプラにあたって体調悪化、死去。 |
以上が、長きに渡った戦国時代の歴史です。
大まかにでも流れを知っておけば、戦国時代を扱った小説、ドラマ、ゲーム、漫画などを、より楽しむことが出来るでしょう。