伊賀忍 忍者名鑑


「信長の野望 Online」の「伊賀忍」に登場する武将達のプロフィールを紹介しています。

杉谷 善住坊 石川 五右衛門 下柘植 小猿 出浦 盛清 根津 信政 下柘植 木猿 甲山 太郎次郎 鵜飼 孫六 城戸 弥左衛門 伊賀崎 道順 篠山 理兵衛 多羅尾 光俊 唐沢 玄蕃 果心 居士 和田 宗立 佐治 為次 百地 三太夫 藤林 正保 山中 俊房 伴 長信 望月 吉棟 森田 浄雲
・未所属
野村 孫太夫
毛家 武久
山田 八右衛門
神部 小南

その他の武将・人物
加藤 翁(加藤 段蔵)
阿波 正高 植田 光次 福地 定成 東海 幸義 富野 茂正 町井 貞信 耳須 具明 三雲 賢持 美濃部 茂俊

=伊賀忍 当主=

百地 三太夫 (ももち さんだゆう) Lv55 大名 総大将
「○○、「孫子」を知っておるか? 「彼を知り、己を知れば、百戦あやうからず……。」
戦に勝つためには、敵の内情を正確に知ることが肝要だ。 そのために働くことこそ、我ら忍の役目。 忍の働きが、戦の勝敗を左右するのだ。」

伊賀忍 を 統率する 「伊賀上忍三家」 の1つ 「百地家」 の当主にして、伊賀忍の実質的な頭領と言われれる人物。 別名 「百地 丹波守」。
「忍術」 の伝わる 伊賀 の地を束ねる立場にあり、甲賀忍軍 と共にその地方に独自の勢力を築いていた 伊賀忍者 の上忍。
一度はその忍術を駆使し、天下の覇者たる織田の軍勢をも壊滅させた。
しかし、織田信長 の怒りの大軍の前に多勢に無勢、伊賀の忍びは再び闇の中へと消えていく・・・
百地 三太夫、および 伊賀忍 についての詳細は こちら をご覧下さい。

=伊賀忍 武将詰所 (小屋敷)=

美濃部 茂俊 (みのべ しげとし) Lv44 忍者 敵先陣後詰
「結果がすべてだ、○○。 私に認められたくば……その手で、己の価値を示すがよい。」

「美濃部家」 は 甲賀忍 を形成していた 「甲賀五十三家」 のうちの一家である甲賀地方の国人(地元の領主)であり、甲賀五十三家 の中でも特に功績のあった 「甲賀二十一家」 のうちの1つでもある、有力な甲賀の家柄だった。
美濃部茂俊 は、その 美濃部家 の戦国時代の当主だと思われる。

「本能寺の変」 で 織田信長 が家臣の 明智光秀 に討たれた時、同じく京都に招待されていた 「徳川家康」 も孤立して窮地に陥った。
この時、家康 は伊賀の山中を越えて三河への帰還を目指す 「伊賀越え」 を行ったのだが、その時に 美濃部家 は 家康 の要請を受けて多くの忍者を護衛として派遣した。
そのため、その後 多くの 美濃部家 の者がそのまま 徳川家 に仕えている。

ちなみに、美濃部家の屋敷は現在、甲賀忍者の資料館になっているそうだ。


三雲 賢持 (みくも かたもち) Lv44 忍者 敵先陣後詰
「小勢で大軍を打ち破らねばならぬときは……奇襲しかない。 突撃だけが、敵を破る手段とは思うな。 屋敷の警護には、重々気をつけるがよい。」

「三雲家」 は南近江の大名 「六角家」 の重臣の家柄であり、彼も 六角家 の家臣として活躍していた。
しかし彼は同時に甲賀忍者でもあり、六角家 の合戦に甲賀忍軍を率いて参加し、また 三雲家 は 「甲賀五十三家」 の1つでもあった。

だが 1561年 (織田信長 が 今川義元 を討ち取った 「桶狭間の戦い」 があった翌年)、浅井家 と 六角家 の間で行われた戦いで彼は戦死している。
その後、三雲家 は弟の 「三雲 成持」 が後を継ぎ、六角家 の中でも重要な家臣となるのだが、三雲成持 は忍者ではなかったようだ。


野村 孫太夫 (のむら まごだゆう) Lv35 忍者
「結果がすべてだ、○○。 私に認められたくば……その手で、己の価値を示すがよい。」

伊賀の忍術書 「万川集海」 に登場する伊賀の十一名人の1人。
その忍びの術の腕前は近隣に知れ渡っていたと言う。

ある日、彼は忍び込んだ屋敷の主人に気配を悟られてしまい槍で突かれそうになるが、「家の者が起きたので引き上げよう」 「わかった」 と言って1人2役で話し声を立て、仲間がいると思わせて相手を逃げさせてから、さらに屋敷の奥に忍び込んだと言う。
まさに戦国の腹話術師だが・・・ 忍者の 「隠術」 において、「変声」 は 「変装術」 の1つとして重要なものであったと言う。


毛屋 武久 (けや たけひさ) Lv37 忍者
「結果がすべてだ、○○。 私に認められたくば……その手で、己の価値を示すがよい。」

最初は織田家の 「柴田勝家」 の配下だったが、後に 秀吉 の軍師の1人 「黒田 官兵衛」 が当主である 「黒田家」 の所属となり、官兵衛 の子 「黒田 長政」 の配下である 「黒田二十四騎」 と呼ばれた武士の1人となった。
徳川・東軍 と 豊臣・西軍 の間で行われた 「関ヶ原の戦い」 に 東軍・徳川側 として参加し、敵軍の物見(偵察)を行って、敵の戦力が言われている程ではない事を報告して 徳川家康 から賞賛されている。

史実的には 伊賀忍・甲賀忍 としての活動はないのだが、この地方の出身の人であり、関ヶ原で物見役になっている事から、忍術の心得があった可能性は高いだろう。


杉谷 善住坊 (すぎたに ぜんじゅうぼう) Lv44 鍛冶屋 先陣左翼
「自慢話は嫌いなのだがな。 俺は甲賀一の鉄砲名人と呼ばれておる。
自慢ではないぞ。 自慢ではないのだが、俺は飛ぶ鳥を撃ち落としたこともある。 持って生まれた才覚というものよのう……。
俺こそまさに雑賀衆を上回る鉄砲名人よ。 いつの日か、敵の大将も撃ち落としてみせるわ。 たとえ魔王のような大将でもな。」

飛ぶ鳥も落としたと言われる、戦国時代きっての鉄砲の達人。
そして、「織田信長を狙撃した者」 として有名な人物である。

「杉谷家」 は 甲賀忍 を形成していた 「甲賀五十三家」 の1つで、杉谷善住坊 はその杉谷家出身の坊主であると同時に、「近江で知らぬものはいない」 と言われたほどの鉄砲の達人でもあった。
そして彼は、南近江の大名 「六角家」 の当主 「六角 義賢」 から 「信長狙撃」 の密命を受け、信長の進軍先に潜んでその命を狙う。
しかし、20メートルほどの間近な距離から撃った彼の弾丸は、信長から反れ、彼の小袖を撃ち抜いたに過ぎなかった。
信長 は逃走した 善住坊 を許さず、懸賞金をかけて捜索を行い、4年後、元浅井家の家臣で織田家の配下となっていた 「磯野 員昌」 に捕らえられ、処刑された。

飛ぶ鳥も落としたと言われる 杉谷善住坊 が、その至近距離で狙いを外す事など考えられない事だった。
にも関わらず、彼の銃弾は信長には当たらなかった。
そのため人々と、そして信長自身、「信長は天に護られている」 と感じたと言う。

=伊賀忍 奥屋敷=

町井 貞信 (まちい さだのぶ) Lv46 忍者 敵中陣後詰
「結果がすべてだ、○○。 私に認められたくば……その手で、己の価値を示すがよい。」

伊賀の有力な国人(領主)の1人で、伊賀忍 を統率した 「伊賀十二人衆」 の1人という。
正式な 「伊賀の守護職(伊賀を統治する役職)」 であった 「仁木 義視」 という人を迎え入れたが、後に彼を追放し、伊賀を地元の領主達が共同で支配する独立地域にしている。

その後、織田信長の子 「織田 信雄(北畠信雄)」 が伊賀に侵攻した 「第一次 天正伊賀の乱」 の際には 副大将 として伊賀忍軍の指揮を取り、山間部でのゲリラ戦によって 織田軍 を壊滅させた。
しかし1年後、織田軍約5万の大軍が伊賀を攻めた 「第二次 天正伊賀の乱」 では多勢に無勢で、城で篭城するも落城、彼も戦死した。


福地 定成 (ふくち さだなり) Lv48 野武士(忍者) 敵後陣後詰
「小勢で大軍を打ち破らねばならぬときは……奇襲しかない。 突撃だけが、敵を破る手段とは思うな。 屋敷の警護には、重々気をつけるがよい。」

「福地家」 は伊賀の有力な豪族(地元の権力者)であり、伊賀の 「柘植地方」 の一帯を治めた、大きな領地を持つ家だった。
当然、伊賀忍の中でも特に力を持っていた人物である。

しかし、福地家 は 織田軍 が約5万の大軍で伊賀に侵攻した 「第二次 天正伊賀の乱」 の際、織田側に寝返り、逆に伊賀侵攻の道案内を行った。
そのため 福地家 は、天正伊賀の乱 で起こった織田軍による大虐殺の被害を受けずに済んだのだが・・・ 「本能寺の変」 によって 織田信長 が急死すると、他の伊賀の生き残りから白い目で見られるようになり、居場所がなくなってしまいそのまま隠居。
福地家 の他の人も 「福地」 の姓を捨て、「松尾家」 に改姓した。

そして、この 松尾家 で後に生まれたと言われているのが・・・
「奥の細道」 で有名な俳人 「松尾 芭蕉」である。
松尾芭蕉 はその驚異的な旅のスピードや、近辺に伊賀忍ゆかりの者が多かった事、東北地方の大名 「伊達家」 を内偵していた可能性があることから、徳川幕府 に仕える 「伊賀忍者」 ではなかったかという説がある。
真偽はともかく、松尾芭蕉 が 伊賀の有力者 「福地家」 の子孫であった事は間違いないようだ。
現在、福地家の城があった場所には、「芭蕉公園」 が設けられている。


富野 茂正 (とみの しげまさ) Lv46 忍者 敵中陣後詰
「小勢で大軍を打ち破らねばならぬときは……奇襲しかない。 突撃だけが、敵を破る手段とは思うな。 屋敷の警護には、重々気をつけるがよい。」

「この人物はたぶんですが 町井 と同じ 十二人衆 のうち、柏原荘 地頭 「滝野 十郎 吉政」 と、島ヶ原荘 地頭 「富岡 忠兵衛 貞頼」 が混じってしまったものかと思います。
ちなみに 滝野十郎 は 第二次 天正伊賀の乱 では 伊賀側 の終戦交渉の代表になっています。
(というより他の十二人衆は殆ど戦死・逃亡していたからではありますが・・・)」


この武将についての情報は、「町井 貞信」 の ご子孫 の方から頂きました。
どうもありがとうございます。<(_ _)>


植田 光次 (うえだ みつつぐ) Lv48 忍者 敵後陣後詰
「結果がすべてだ、○○。 私に認められたくば……その手で、己の価値を示すがよい。」

伊賀の豪族・国人(地元の権力者や領主)で構成され、会議によって伊賀の運営を行っていた 「伊賀十二人衆」 の中心的な人物。
つまり、伊賀の統治者とも言える人である。

織田信長の子 「織田 信雄」 の侵攻を受けた 「第一次 天正伊賀の乱」 では配下の忍軍を率いて 織田軍 を撃退した。
約5万の大軍が攻め込んで来た 「第二次 天正伊賀の乱」 では敗北するが、彼は脱出して三河へと逃れている。
織田信長 が 「本能寺の変」 で死んだ後は、豊臣秀吉 に仕えたようだ。


唐沢 玄蕃 (からさわ げんぱ) Lv47 忍者 後陣中翼副将
「小勢で大軍を打ち破らねばならぬときは……奇襲しかない。 突撃だけが、敵を破る手段とは思うな。 屋敷の警護には、重々気をつけるがよい。」

信濃の出身で、武田家・真田家 に仕えた忍者。
「飛び六法」 と呼ばれた非常に身軽な忍びで、垂直飛びで六尺(1メートル80センチ)ジャンプし、助走なしの幅跳びで約4メートルも飛べたと言う。

敵城に忍び込んでの放火など 潜入術 に優れており、武田騎馬軍団 が 織田家の鉄砲三段撃ちで壊滅した 「長篠の戦い」 にも参加している。
武田家の滅亡後は 「真田家」 の忍びとして活躍したようだ。

彼は実際には、伊賀忍・甲賀忍 とは何の接点もないと思うのだが・・・
なぜか 「信長の野望オンライン」 の 伊賀忍 は、信濃の忍者も含んでいる。
信濃 は山伏や修験者の術から発展した忍術の発祥の地と言われており、伊賀・甲賀 の忍術も 信濃 から伝わった部分が大きいと言う。
そのため 信On では、信濃の忍者も 伊賀忍 に含んでいるのだろうか・・・?


根津 信政 (ねづ のぶまさ) Lv45 忍者 中陣左翼副将
「小勢で大軍を打ち破らねばならぬときは……奇襲しかない。 突撃だけが、敵を破る手段とは思うな。 屋敷の警護には、重々気をつけるがよい。」

彼も実際には 信濃 の人で、武田家・徳川家 の配下だった。
「根津家」 の当主として信濃の領地を受け継ぎ、武田家 の滅亡後は 徳川家 の配下として1万石の領地を得て、小大名と言える立場になっている。
しかし、彼の孫に男の子が生まれなかったため、根津家 はその後、断絶してしまった。

彼は経歴を見る限りでは、ぜんぜん忍者ではないのだが・・・
「真田家」 の家臣となった 根津一族 には 「根津 潜竜斎」 という忍者がいて、真田家の忍軍の頭領の1人だったと言う。
なので、信On の彼はそこから来ているのかもしれない。

また、根津家 の領地には 「巫女道修練道場」 があり、ここで修行をした巫女は諸国を巡る 「歩き巫女」 となって、武田家 の 情報収集 に大きな役割を果たしていたと言う。


出浦 盛清 (でうら もりきよ) Lv46 忍者 中陣左翼大将
「正体を隠して敵地に潜入するためには、変装は必須の技。 その変装に適した七種類の職業のことを「七方出(しちほうで)」と呼ぶ。
虚無僧、出家、山伏、商人、放下師(ほうかし)、猿楽師、そして常の形(なり)の七つだ。
虚無僧、出家、山伏、商人は、諸国を渡り歩くのに好都合な姿と言える。 放下師は曲芸や手品を見せる芸人よ。 猿楽師も猿楽という芸を見せる者ゆえ、怪しまれずに人に近づくには適しておる。
常の形とは、武士や農民のことだ。 最も目立たないがゆえに、最も目をくらますのに適している、というわけだ。」

この人も本当は伊賀の忍者ではなく、甲斐・武田家 の忍者だ。
「甲州流忍術」 の使い手で、武田家の忍軍である 「透波忍軍」 を率いた頭領の1人である。
潜入術の達人で、仕事先に手下を忍び込ませる時、まず自ら忍び込んで状況を確認し、それを元に手下の仕事がどれだけ正確かを計っていたという。

武田家の滅亡後は 織田家 の 「森 長可」 に仕えたが、真田家 が北信濃で独立するとそれに従った。
その後は 「吾妻忍軍」 と呼ばれた忍軍を指揮し、豊臣秀吉 が 北条家 を攻めた 「小田原征伐」 でも活躍している。
豊臣秀吉 の死後は 徳川家康 の側に付いた 「真田 信幸」(有名な 真田幸村 の兄)に従い、江戸時代になっても 真田家 の「信濃松代藩」 で吾妻地方の代官を兼任しながら、忍者の頭領を務めたと言う。

数少ない、忍者のままで立身出世した人だ。


東海 幸義 (とうかい ゆきよし) Lv46 忍者 敵中陣後詰
「小勢で大軍を打ち破らねばならぬときは……奇襲しかない。 突撃だけが、敵を破る手段とは思うな。 屋敷の警護には、重々気をつけるがよい。」

(この人についても不明です・・・)

(名前に 「幸」 の字がある事と、屋敷の武将の配置から、信濃の 真田家 に関連した人であるかも知れません)


阿波 正高 (あわ まさたか) Lv48 忍者 敵後陣後詰
「小勢で大軍を打ち破らねばならぬときは……奇襲しかない。 突撃だけが、敵を破る手段とは思うな。 屋敷の警護には、重々気をつけるがよい。」

詳しくは解らないが・・・
伊賀 と 伊勢 の国境に近い 「阿波」 と呼ばれていた一帯を支配していた有力な豪族(地元の権力者)だったようだ。
そのため伊賀の最前線と言える場所を領地としていたが、織田家 が 伊賀 に侵攻した 「天正伊賀の乱」 では 織田家 は別の方面から侵攻してきたため、彼の領地は直接戦場にはならなかったようだ。


甲山 太郎次郎 (こうやま たろうじろう) Lv45 忍者 中陣中翼副将
「結果がすべてだ、○○。 私に認められたくば……その手で、己の価値を示すがよい。」

「高山ノ太郎次郎」 や 「太郎四郎」 とも呼ばれる伊賀忍者。
伊賀の忍術書 「万川集海」 に登場する伊賀の忍術十一名人の1人。
「甲山 太郎左衛門」 という人と共に紹介されていて、おそらく 兄弟 か 親子 か何かだろう。
「甲賀五十三家」 にも 「高山家」 というのがあるため、ここの出身の人ではないかと言う説もある。
だがいずれにせよ、「天正伊賀の乱」 で彼の一族は滅亡してしまったようだ。

ちなみに、彼の屋敷は現在も 「伊賀忍者屋敷」 として現存している。


耳須 具明 (みみす ともあき) Lv44 忍者 敵先陣後詰
「小勢で大軍を打ち破らねばならぬときは……奇襲しかない。 突撃だけが、敵を破る手段とは思うな。 屋敷の警護には、重々気をつけるがよい。」

伊賀の国人(地元の領主)の1人なのだが・・・
織田家 が約5万の大軍で 伊賀 に侵攻した 「第二次 天正伊賀の乱」 の時、彼は 「福地家」 と共に 織田家 に内通し、寝返った。
そして 織田軍 の道案内をしていたのだが、地元民の襲撃を受け、竹槍で刺されて死んだと言う。


山田 八右衛門 (やまだ はちえもん) Lv35 忍者
「小勢で大軍を打ち破らねばならぬときは……奇襲しかない。 突撃だけが、敵を破る手段とは思うな。 屋敷の警護には、重々気をつけるがよい。」

伊賀の忍術書 「万川集海」 に登場する伊賀の十一名人の1人。
本名は 「瀬登 八右衛門」 というのだが、山田村 に住んでいたため 「山田ノ八右衛門」 と呼ばれていたようだ。

ある日、彼の忍術の評判を妬んだ男がいて、その男の刀を 山田八右衛門 が奪えるかどうかという賭けをする事になった。
そして伊賀の 「敢国神社」 の祭りの日、山田八右衛門 はその男の前方に現れ、その先を歩き始める。
男は 八右衛門 に注意していたが、いきなり 八右衛門 は民家に入り、裏口から出てきて、小山に登ってタバコをプカプカ吸い始めた。
男はしばらく見ていたが、そのまま動く様子がないので、お供に見張らせて神社に参拝に向かったのだが、参拝した後に腰を見ると刀がなくなっていた。
八右衛門 は民家の中で同じ格好の別人とすり代わり、老婆に変身して彼に近づいて、参拝中の彼の刀を抜き取ったのだと言う。

このような、1人が敵の気をひき付けて、もう1人が仕事を済ませる事を、忍術では 「双忍の術」 と呼ぶ。
忍術と言うとファンタジーなものや、大道芸的なものが思い浮かばれる事が多いが、実際にはこのような策略・作戦的なものが多かったようだ。

なお、彼は伊賀の 「敢国神社」 の世話役だったとも言われている。
この神社では 伊賀の上忍 「服部家」 の一党が、黒装束に身を包み、秘密の儀式 「黒党祭」 を行っていたと言う。 なんだか、とってもアヤシイ・・・


神部 小南 (かんべ こなん) Lv37 忍者
「小勢で大軍を打ち破らねばならぬときは……奇襲しかない。 突撃だけが、敵を破る手段とは思うな。 屋敷の警護には、重々気をつけるがよい。」

伊賀の忍術書 「万川集海」 に登場する伊賀の十一名人の1人。
南伊賀の忍術の達人。
だが、彼がどのような人だったのかについて、文献などには全く記述がない。
忍者は極秘に活動する者であるから、名前は知られているが、活動の詳細が解らないというのは、凄腕だった事の証なのかもしれない・・・


下柘植 小猿 (しもつげ こさる) Lv44 忍者 先陣右翼
「○○、おまえは手裏剣を使いますか? 手裏剣を打つ……投げるのを打つと言いますが、大きく二つのやり方があります。
一つは、手裏剣の切っ先を標的に向け、回転させずに打つ「直打法」……。 もう一つは、回転を加えて打つ「回転打法」です。
「回転打法」は飛距離も伸び、威力も強いのですが、命中の精度に難があります。 逆に「直打法」は命中精度は高いですが、威力は弱くなります。
打ち方は、状況に応じて変える必要があるのですよ。」

伊賀の忍術書 「万川集海」 に登場する伊賀の忍術十一名人の1人。
「下柘植 木猿」 とは親子とも兄弟とも言われている。

名前の通り 「猿」 のような忍術を得意としていて、身のこなしが素早く、樹木に隠れるのがうまく、動物の声真似が得意だったと言う。
普段は 「猿楽師(猿回し)」 として活動しており、その猿を他の家に進入させて、家の木戸を中から開けさせたりしていたという話もある。
また、動物の声真似を使って騒ぎ、家のものが 「うるさい」 と言うのを聞いて、それで相手の位置を特定して討ち取った、という記録もあるようだ。

真田十勇士の忍者として有名な 「猿飛 佐助」 のモデルと言われている。


下柘植 木猿 (しもつげ きさる) Lv46 忍者 中陣中翼大将
「武士ならば不名誉だが、忍びにとっては逃げることも大事だ。 そのための技こそ、天遁(てんとん)、地遁(ちとん)、人遁(じんとん)の三十法からなる遁走術よ。
天遁は、雲遁・霧遁・雨遁・雪遁などの十種類からなり、天気を利用して逃げる方法だ。
地遁は、火遁・土遁・水遁などの十種類から構成される。 火遁は放火や煙玉を使う方法。 水遁は川や池を使う、または使ったと見せかけて逃げる方法よ。
人遁は、男遁・女遁・老遁・獣遁・虫遁などの十種類からなっている。 内容については、またいつか話そう。」

伊賀の忍術書 「万川集海」 に、「下柘植 子猿」 と共に名が出てくる伊賀の忍術十一名人の1人。
実際には 「下柘植ノ木猿」 というのは通称で、下柘植 という場所の出身であり、猿のような 忍術 を用いたからそう呼ばれていたもので、本名は 「上月 佐助」 と言った。
これが、下柘植 子猿・木猿 が 「猿飛 佐助」 のモデルであるという有力な理由となっている。
「水戸黄門」 に出ていた 「柘植の飛猿」 も彼らがモデルだろう。

「浮足」 と言う名の、口頭でのみ伝えていた秘術を持っていたらしい。

=伊賀忍 中庭=

石川 五右衛門 (いしかわ ごえもん) Lv44 忍者 先陣中翼
「京の南禅寺に行ったことはあるかい? いや別に坊主の説教を聞きに行ったわけじゃねえよ。
あの寺の山門がさ。いい眺めなんだ。 絶景ってやつだねえ。 おめえも、一回登ってみたらいいぜ。 南禅寺の山門によ。」

言わずと知れた天下の大泥棒 「石川 ゴエモン」 である。
・・・が、一般的な 石川五右衛門 の姿は後の 歌舞伎 で脚色されたものであり、あまりに伝承が多すぎて、かえってその実像はよく解っていない。

伝承によると、伊賀の上忍 「百地 三太夫」 に弟子入りして伊賀の忍術を習ったと言われているが、南蛮人から忍術の基礎を学んだと言う話もある。
その後は 伊賀忍 に所属していたが、百地三太夫 の妻を寝取ったあげく、愛人を殺して井戸に投げ込み、金品も奪って逃走し、抜け忍となった。
そして京都に居を構え、忍術を悪用して 窃盗・強盗 を繰り返し、手下を多数率いる大盗賊となる。

後年、豊臣秀吉 の城に忍び込み、秀吉の秘宝 「千鳥の香炉」 を盗もうとするが、香炉の千鳥が 「チリリ」 と鳴いたため見つかってしまい、京都の奉行 「前田 玄以」 に捕らえられ、京都の 「三条河原」 という場所で一族郎党と共に 「釜茹での刑」 にされて処刑されたと言う。
だが、豊臣秀吉 の城に忍び込んだのは 秀吉 を暗殺するためだったと言う話もあり、さらにそれを依頼したのは 豊臣秀吉 の養子 「豊臣 秀次」 であるという話や、「百地 三太夫」 の指令だったというものなど、様々な伝承がある。

江戸時代には 歌舞伎 の登場人物として欠かせない人となり、京都の 「南禅寺」 というお寺の山門の上で、「絶景かな、絶景かな。 春の眺めは値千金とは、小せえ、小せえ」 とタンカを切る場面が歌舞伎の名場面として伝わっている。
また、人のために盗みをする義賊として脚色されるなど、様々な形で後世に伝わっていった。

実はその実在が疑われていたりもしたのだが、最近ヨーロッパで見つかった当時の宣教師の記録に彼に関する記述が見つかり、「釜茹での刑」 にされた実在の大盗賊であった事が確認された。
今後は、彼の伝承がどこまで事実なのかが検証される事になるだろう。

=伊賀忍 城内=

城戸 弥左衛門 (きど やざえもん) Lv45 鍛冶屋 中陣右翼副将
「最初の頃は、何かと武器ばかりを新調しがちだが、大事なのはむしろ、命を守る防具のほうだぞ。」

通称 「音羽ノ城戸」。 伊賀の中忍だと言われている。
伊賀の忍術書 「万川集海」 に登場する伊賀の忍術十一名人の1人で、特に鉄砲の扱いに長けていたと言う。
五遁(火遁や水遁などの術)で身を隠す 「隠形術」 にも優れ、伊賀に残された記録にも 「謀術・火術の妙を得ていた」 と記されている。

信長を狙撃した人物としても有名で、「天正伊賀の乱」 の後、視察に来た信長が神社で休憩中のところを仲間と共に鉄砲で狙った。
しかし、信長の周囲にいたお供は倒れたが、信長には銃弾は当たらず、狙撃は失敗に終わる。
すぐに信長の家臣が彼らを追うが、「飛鳥の如く」 逃げ去ったという。

ちなみに後日、彼は狙撃後の信長の様子を見るために、変装してお菓子を持参し、信長に近づいたとも言われている。
まさかそれが狙撃者本人とは思わない信長は、彼に 「森から撃たれたようだ。 おそらく伊賀か甲賀の者なので探してくれ」 と頼んだと言う。
もし本当なら、相当の度胸である。


果心 居士 (かしんこじ) Lv48 翁(陰陽師?) 後陣右翼大将
「お主は松永弾正という男を知っておるか? 三好長慶配下の武将、松永久秀のことよ。 一度、からかってやったことがある。 思い上がっておったでな。 くっくっくっくっく……。
「戦場の修羅場を幾度もくぐり抜けた自分を恐ろしがらせるようなものを見せよ」などと申しおった。 で、見せてやったのよ。 あやつの死んだ女房の顔を、な。 あやつめ……蒼白な顔となって震えておったわ。 ひっひっひっひっひ……。
何? なにゆえ、あやつが死んだ女房を恐れるのか、だと。 さて、なぜかのう? ひっひっひっひっひ……。」


生没年不詳、正体不明、戦国時代に現れた謎の幻術師。 別名 「七宝行者」。

大和の国で僧をしていた事もあるようだが、池に笹の葉をまいて、それを魚に変えて人々を驚かせたため、「人心を惑わした」 として破門されたと言う。
その不思議な術は瞬く間に評判となり、インチキ呼ばわりした者の歯をあっという間にボロボロにして黙らせたりした。
噂を聞いた 大和 の国を治めていた 三好家 の重臣 「松永 久秀」 に呼ばれ、「戦場を幾度もくぐり抜けたワシを恐がらせてみろ」 と言われた時は、松永久秀 の死んだ女房を出現させ、一晩中付きまとわせて 久秀 をビビらせたという。
だが、松永久秀 の謀略に手を貸していたという話もあるようだ。

他に、彼が持っていた 「地獄絵図の掛け軸」 を 信長 が強引に奪ったが、その絵図がいきなり白紙になったとか、明智光秀 に呼ばれた時、いきなりそこに琵琶湖が現れて小船に乗って消えてしまったとか、信じられない伝承が残っている。
のちに 豊臣秀吉 の前に現れ、秀吉 しか知らないはずの秘密を暴露したために捕らえられて はりつけ にされるが、ネズミに姿を変え、鳥にくわえられて、そのまま飛び去っていったと言う。

あまりにファンタジーなので、江戸時代になってから様々な 物語 や 演劇 に登場するようになり、「謎の人物」 として一躍有名になった。
現代でも、色々な小説や映画、マンガやゲームなどに登場しているので、その名を聞いた事がある人も多いだろう。
伊賀に伝わっていた 山伏・修験者 の術を使っていたとも言われており、忍者であるとされる場合も多い。


篠山 理兵衛 (ささやま りへえ) Lv47 忍者 後陣左翼副将
「小勢で大軍を打ち破らねばならぬときは……奇襲しかない。 突撃だけが、敵を破る手段とは思うな。 屋敷の警護には、重々気をつけるがよい。」

「篠山家」 は 甲賀忍 を形成していた 「甲賀五十三家」 の1つである 「大原家」 の一族であり、彼は配下の甲賀忍者と共に 織田家 に仕えていた。
しかし 織田信長 は 「本能寺の変」 で急死、その後継者を巡って信長の子 「織田 信雄」 と 「羽柴(豊臣)秀吉」 が争うようになると、彼の一党は 秀吉 に従って戦っていたが、織田信雄 との内通を疑われて追放されてしまう。
一族の他の者も 秀吉 によって甲賀の領地を追われ、篠山家は没落した。

しかし約十年後・・・ たまたま 徳川家康 と会ってこの話をした時、不憫に思った 家康 が彼を召抱え、甲賀の近くの領地の代官に彼を推薦した。
これにより甲賀に復帰した 篠山理兵衛 は、以後 家康 の忠臣となる。

それから数年後、豊臣秀吉 が病死し、徳川家康 の権力が 豊臣政権下 で大きくなり始めた頃、「豊臣五奉行」 の1人 「長束 正家」 が 「当家の領地をお通りになる時は、おもてなししたいので、ぜひお越し下さい」 と 家康 を誘った時、彼はそれが 「家康暗殺」 の謀略である事を探り当て、家康 に報告する。
家康 は 長束正家 の領地を夜中に女性用のカゴに乗って駆け抜け、難を逃れたと言う。
だが1ヵ月後・・・ 豊臣家の 「石田三成」 と 家康 の対立が決定的となり、石田三成 が 京都 の徳川家の城 「伏見城」 の 鳥居元忠 を攻めた時、篠山理兵衛 もこの戦いに参加するが、孤立した城は落城、彼も配下と共に戦死した。

篠山家 はその後も甲賀の代官に任命され、その屋敷が今も現存している。


和田 宗立 (わだ むねたて) Lv47 侍 後陣右翼副将
「今は一致団結の時。 身内での争いが、最大の敵であると思え。」

甲賀地方の国人(地元の領主)の1人。
足利将軍家の家臣として有名な 「和田 惟政」 の父である。
「将軍・足利義輝」 や、その父である 足利義晴 は、京都での政争や戦乱に巻き込まれ、近江地方(滋賀県・琵琶湖周辺)に逃れる事が多かった。
甲賀地方 は 南近江 に属し、南近江の大名で甲賀忍の当主である 「六角家」 も 足利将軍家 を擁護する立場にあったため、甲賀の中には 足利将軍 と密接な関係を持つ者も多くなった。
その1人が 和田宗立 であり、その縁で彼の子 「和田 惟政」 は 将軍・足利義輝 に仕える事となる。

足利義輝 が 三好家 の重臣 「三好三人衆」 に暗殺されると、和田惟政 は 三好三人衆 と戦いながら 義輝 の弟 「足利 義昭」 の将軍擁立に奔走、織田信長 との交渉を進め、さらに摂津の城主に任命されて重要な役割を担う事となる。


多羅尾 光俊 (たらお みつとし) Lv48 野武士(忍者) 後陣中翼大将
「俺は相手によって言葉遣いを変える男と、よく非難される。
けどな、これは必要なことだぜ。 お互いの関係も、抱えている事情も変わるのなら、言葉も変えんとなあ。 非難されるようなことじゃなく、気遣いなんだ。
まして俺たちは忍びだ。 状況によって対応を変える才覚は誉められこそすれ、非難されるようなことじゃないと思うぞ。」

「多羅尾家」 は 甲賀忍 を形成していた 「甲賀五十三家」 の1つで、甲賀 の中でも特に大きな領地を持っていた豪族(地方権力者)だった。
織田家 が約5万の大軍で 伊賀 を攻めた 「第二次 天正伊賀の乱」 の際、甲賀 は 織田家 に従属してその難を逃れるのだが、織田信長 は甲賀が降伏する条件として 「多羅尾 の軍勢が伊賀攻めに参加すること」 をあげていたため、それだけ大きな勢力だった事がわかる。
これに従い、多羅尾家 は 「第二次 天正伊賀の乱」 で伊賀攻撃に参加、これによって 多羅尾家 は甲賀の中でもトップの力を持つ事になるが、以後、地元の他の勢力とは微妙な関係になったようだ。

それから一年後・・・ 織田信長 は 「本能寺の変」 で配下の 明智光秀 に急襲され戦死、その時に 京都 に招待されていて、堺の街を見物していた 徳川家康 も 光秀 の軍に追われ、街道も封鎖されて窮地に陥った。
そして 徳川家康 は 伊賀 の山地を抜けて三河への帰還を目指す 「伊賀越え」 を行うのだが、この時に 多羅尾光俊 は 家康 からの救援要請を受け、これに応じて甲賀忍者 200名 を護衛として派遣、さらに自分の領地に 家康 を案内してかくまい、家康 の伊賀越えの成功に大きな役割を果たした。
家康 が 多羅尾家 に救援を求めたのは、多羅尾家 が 「天正伊賀の乱」 で 織田家側 についていたからのようだ。

その後、多羅尾光俊 は 豊臣秀吉 に仕え、豊臣秀吉の養子 「豊臣秀次」 の配下となるのだが、その 豊臣秀次 が謀反(反逆)の疑いで処刑されたため、その事件に巻き込まれて失脚、甲賀の領地も失い、そのまま隠居してしまった。
だが、彼の子はすぐに 徳川家康 に取り立てられ、再び甲賀の領地を与えらて代官となり、「関ヶ原の戦い」 にも参加。
その後、多羅尾家 は 徳川幕府 における 元伊賀・甲賀忍者 で構成された侍 「伊賀同心」 の 「甲賀組」 の頭領となり、明治時代まで続いている。


鵜飼 孫六 (うかい まごろく) Lv46 忍者 中陣右翼大将
「おう、よいところに参った。 謎かけをいたそうぞ。 まあ、ちょっと付き合ってくれ。
上を見れば下にあり、下を見れば上にあり、母のはらをとりて、子の肩にあり。 さて、答えは?」

「甲賀五十三家」 の1つである 「鵜飼家」 の出身と言われる甲賀忍者。
伊賀の上忍 「服部半蔵保長(有名な 服部半蔵正成 の父)」 の要請を受けて、徳川家 に派遣された 200名 の甲賀忍者の1人である。

「桶狭間の戦い」 で 織田信長 が 今川義元 を討ち倒し、松平元康(後の徳川家康) が三河で独立したばかりの頃、松平元康 は三河を支配するために今川家の 「鵜殿城」 という城を攻めていた。
だが、力攻めは難しいと判断した 松平元康 は、鵜飼孫六 の率いる甲賀忍者に城への潜入を命令、配下と共に城内に潜入した 鵜飼孫六 は火を放ち、城の中で暴れ始めた。
今川軍 は裏切り者が出たかと思い大混乱となり、城は炎上して陥落、城を守っていた今川家の重臣 「鵜殿 長照」 も捕虜となる大戦果を挙げた。

信On では、話しかけるといきなり 「なぞなぞ」 を出してくる・・・


森田 浄雲 (もりた じょううん) Lv50 侍 本陣四天王
「国を治めるには、民への心配りも必要だ。 町で困っている者を見かけたら、必ず手を貸してやるのだぞ。」

伊賀に大きな領地を持っていた豪族の1人。
織田家 が 伊賀 に侵攻してくると他の豪族(権力者・領主)達と共にこれに対抗し、織田軍を苦しめたと言われているが・・・
織田軍 約5万の大軍が侵攻してきた 「第二次 天正伊賀の乱」 ではさすがに苦戦し、砦は次々と陥落、最後は 「百地 丹波」 と共に篭城した。
ところが、ここで 信長 から 和議 の申し出があり、結局 降伏した 森田浄雲 は 伊賀の 「一之宮城」 という城の城主に任命される。

しかし1年後、「本能寺の変」 で 織田信長 が急死し、伊賀では生き残りの者達が 織田家 に対し反抗を開始した。(第三次 天正伊賀の乱)
彼もこれに乗じて 織田家 に反旗を翻し、戦いに加わったと言うが、伊賀の内乱の中で戦死している。


佐治 為次 (さじ ためつぐ) Lv50 野武士(忍者) 小荷駄隊守将
「結果がすべてだ、○○。 私に認められたくば……その手で、己の価値を示すがよい。」

「佐治家」 は 甲賀忍 を形成していた 「甲賀五十三家」 のうちの1つである甲賀地方の豪族(地元の権力者)であり、甲賀五十三家 の中でも特に功績のあった 「甲賀二十一家」 のうちの1つでもあった。
甲賀 が 織田家 に従属した後は 織田家 から領地を保障され、その後1万4千石の大名となっている。

しかし、信長 の後継者となった 豊臣秀吉 は、中央の権威が直接及ばない 伊賀忍・甲賀忍 や 雑賀衆 など、地方の領主によって独自に運営されている勢力の存在を良いとは思っていなかった。
そのため 秀吉 は、甲賀 の豪族に 「合戦での不手際」 などの適当な罪状を付けて 甲賀地方 からの移転を強要する。
多くの 甲賀 の 国人・豪族 はそれに従って故郷から離れていったが、「佐治家」 はそれに従わず、甲賀に居座って 秀吉 に抵抗した。
そのため、豊臣軍 の侵攻を受け、佐治家 は滅ぼされている。


望月 吉棟 (もちづき よしむね) Lv50 野武士(忍者) 本陣四天王
「甲賀には名門と呼ばれる五十三家がある。 中でも「鈎(まがり)の陣」で大いに活躍した二十一家は、名門中の名門。 その筆頭格が、我が望月家なのだ。 はっはっは。自慢話になってしまったのう。いかんな。
忍たる者、過去の栄光ではなく、今の現実に生きねばならぬのにな……。」

セリフにある通り、「望月家」 は 「甲賀五十三家」 の筆頭格の家柄であり、その当主 「望月 吉棟」 は甲賀で有力な上忍の1人だった。
同時に南近江の大名 「六角家」 の家臣でもあり、病に倒れた時は 六角家 の当主 「六角 義賢」 が何度も見舞いに訪れている。
望月家 は元は 信濃 の出身で、平安時代 に反乱を起こした 「平 将門」 の討伐に功績があり、甲賀の地を任せられたという。
また、「霧」 を自在に使った忍法で敵軍を幻惑するのを得意とした。

戦国時代の初期、「六角家」 が 「足利将軍家」 に対して反乱を起こしたとき、足利家の軍勢が 甲賀 に侵攻して来たが、六角側 についた 望月家 の甲賀忍者は 「霧隠れの術」 や 「木の葉隠れの術」 で 足利軍 を翻弄し、クタクタに疲れて帰った 足利軍 を急襲、六角家 に勝利をもたらしたと言う。

彼らの使った 「霧」 は、煙玉を使った一種の煙幕だったと言われている。
また 「木の葉隠れの術」 は、衣服に木の葉や枝を付けて身を隠す一種のカモフラージュであったようだ。


山中 俊房 (やまなか としふさ) Lv50 忍者 本陣四天王
「九代将軍義尚公が六角高頼どのを討伐されようとしたときの攻防。 それが世に名高い「鈎(まがり)の陣」よ。 我らの祖父である甲賀衆は、六角どのにお味方したのじゃ。
義尚公は鈎(まがり)の里に本陣を布き、甲賀山中に甲賀衆と六角どのを追撃した……。 が、義尚公の軍勢は、巧みに山や谷を逃げ回る甲賀衆と六角どのを、ついに追い詰めることができなんだ。 義尚公の軍勢は追撃をあきらめ、その夜は疲れ果てて本陣に戻った。 そこを甲賀衆が襲撃したのじゃ。
本陣は大混乱となり、義尚公は命からがら逃げ出したそうじゃ。」

「山中家」 は 「甲賀五十三家」 の筆頭格の家柄であり、甲賀 を統率した上忍だと言われている。
小説などでも、彼が甲賀の頭領として登場する場合が多い。

甲賀忍軍 は 豊臣秀吉 によってほぼ解体されてしまうのだが、山中家 はその後に 豊臣家 に仕えて活動している。
秀吉 が行った大規模な茶会や花見などの行事では、山中俊房 に率いられた甲賀忍者たちが、その警護にあたっていたと言う。
また、彼の子は書画が巧みで、秀吉 の祐筆(手紙などを書く係)となり、常に秀吉の側にいたようだ。

映画 や 大河ドラマ にもなった人気小説 「真田太平記」 に 甲賀忍者 として登場し、「猿飛 佐助」 などの 真田十勇士 と対決するため、彼がよく小説などの登場人物として描かれるのは、そこから来ているようだ。


伴 長信 (とも ながのぶ) Lv50 野武士(忍者) 本陣四天王
「小勢で大軍を打ち破らねばならぬときは……奇襲しかない。 突撃だけが、敵を破る手段とは思うな。 屋敷の警護には、重々気をつけるがよい。」

「伴家」 は 「甲賀五十三家」、および 「甲賀二十一家」 の家柄であり、甲賀の中でも強い力を持っていた上忍の家だったようだ。

三河 で 松平元康 (後の徳川家康) が独立したばかりの頃、甲賀忍者 200名 が 今川家 の城に潜入し、城を大混乱に落としいれた時、この 伴家 の忍者が敵将を討ち取る大きな活躍を見せたと言う。
そして、その時に 家康 が 甲賀 に送った感謝状が、今でも残されている。

伴長信 は 山中俊房 と同じく、小説 「真田太平記」 に 甲賀忍者 として登場し、真田十勇士 の敵役となっている。
信On での登場も、この辺から来ているのかもしれない。


伊賀崎 道順 (いがさき どうじゅん) Lv48 忍者 後陣左翼大将
「忍は闇に生きるもの。 平時より、いざというときのために力を身につけておかねばならぬ。
今日は、闇の中で物を見る技の鍛錬法について、教えてやろう。 闇に灯火を立て、数間の間隔を隔てて座す。 そして、灯火を瞬きせずに注視する……。 瞬きする手前で目を閉じて心を鎮める。 これを繰り返すのだ。
慣れたら、さらに上位の鍛錬法を教えてやる。 試してみるがいい。」

名前の読みは 「いがのさき」 や 「いがざき」 かもしれない。
通称は 「楯岡ノ道順」。 伊賀の中忍だという。
伊賀の忍術書 「万川集海」 に伊賀の忍術十一名人の筆頭として紹介されており、「伊賀忍術 四十九流」 の始祖とも言われている忍術の達人である。

ある日、六角家 の家臣だった 「百々家」 という一族が反乱を起こしたのだが、百々家 の城は堅固で、攻めても落城させる事が出来なかった。
そこで 六角家 の当主 「六角 義賢」 は、忍術の腕前が評判になっていた 伊賀崎道順 に城攻めを依頼する。
伊賀崎道順 は 伊賀・甲賀の者 48 人に 百々家 の家紋の入った提灯を持たせて、百々家の家臣に成りすまして城に潜入。
そして城内に火を放ち、混乱を誘発させ、門を開けて 六角家 の軍勢を招き入れて、一晩で城を落城させた。
その様子は、「伊賀崎入れば落ちにけるかな」 と唄に詠まれたと言う。

その後、共に城に忍び込んだ 48 人はそれぞれ伊賀崎流の忍術を伝えたため、伊賀忍術は本家と合わせて 「四十九流」 になったのだという。
また、織田家 が 伊賀 を攻めた 「天正伊賀の乱」 の後、鉄砲 で 信長 を狙撃したとも言われている。


藤林 正保 (ふじばやし まさやす) Lv50 野武士(忍者) 本陣軍師
「忍術を使う者は正しき心を持ち、臨機応変に物事を考えねばならぬ。 邪心を持って技を使えば、盗人の術に成り下がってしまう。 そのことを忘れるな。」

一般には 「藤林 長門守」 と称される事が多い、伊賀 の上忍 の1人。
「藤林家」 は 伊賀忍軍 を 統率していた 「伊賀上忍三家」 の1つであり、つまり百地三太夫 と並ぶ 伊賀忍者 の頭領と言える立場なのだが・・・
彼がどんな人物だったのか、その記録はほとんど残されておらず、詳細は謎に包まれている。

伊賀の忍術書 「万川集海」 には、「上忍」 について次のように書かれている。
「上忍は、音もなく、匂いもなく、智名もなく、勇名もない。 人の知る事なくして、巧者なる事を上忍とするなり。」
つまり、詳細不明の彼こそが、真の 「上忍」 と言えるのかも知れない・・・

伊賀の頭領 「百地 丹波(三太夫)」 と同一人物であるという説も有力だ。
また、武田家の軍師 「山本 勘助」 が彼から忍術を学んでいたという記録もあるようだ。
のちに、彼の一族の者が忍術書 「万川集海」 や 「正忍記」 を記し、「忍者」 の実態を後世に伝えている。

=伊賀のその他の人々=
加藤翁
「信長の野望オンライン」 の 伊賀の屋敷 に登場する謎の老人なのだが・・・
おそらく、越後 や 甲斐・信濃 で活躍していた凄腕の忍者 「加藤 段蔵」 の事だと思われる。
加藤段蔵 は 「飛び加藤」 とも言われ、「信州 戸隠山」の忍者だと言われているが、風魔小太郎 から忍術を学んだ 風魔忍者 とも、伊賀流の忍者 とも言われており、その出身ははっきりしていない。

幻術 や 跳躍 に優れ、牛を1頭丸飲みにする 「牛呑の術」 や、ジャックと豆の木のように種から巨大な植物を生やす 「生花の術」 など、あやしい術を駆使していたという。
上杉謙信 に仕官しようとして、「直江の家の刀を盗んで見ろ」 と言われた時は、見張りや番犬をものともせず、直江家にいた眠ったままの幼女と一緒に目的の刀を盗んできたと言う。
しかし、あまりにも神出鬼没で、またアヤシイ術を使いまくるため、不審に思った 上杉謙信 は彼を殺そうとしたが、術を使って消え失せてしまった。

その後、武田信玄 に仕官しようとしたが、信玄 もアヤシサ爆発の彼を信用せず、配下に命じて殺させてしまったと言う。
一説には、彼は 武田信玄 の持っていた 「古今集」 という本を盗もうとして、武田家 の家臣 「飯富 虎昌」 の配下の忍び 「突破の熊若」 に捕らえられたとされている。

だが、信On では 伊賀の屋敷 に老人の姿で登場するので・・・ その後も逃げおおせた、という設定なのだろうか?
とりあえず、非常に有名な 忍者 の1人であり、数々の小説や物語の登場人物となっている。

彼の使った牛を丸呑みにする 「牛呑の術」 は、それを遠くから見ていた男が 「加藤は牛の上にいる」 と言うと、たちまち術が解けてしまったと言う。
どうやら、彼が使っていたのは 「催眠術」 だったようだ。

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