原爆

原爆投下の理由


このページは、某政治家の「原爆はしょうがない」発言等の影響で、原爆投下についての議論が起こっているのを見て、その歴史や背後関係を多くの人に知ってもらいたいと思い作成したものです。
(あくまで歴史解説に留めています。原爆投下の是非について記載しているものではありません)

「近代史」という名の「歴史」を知るための、参考にして頂ければ幸いです。


原子爆弾」。
世界で唯一使用された核兵器。それが使われた時、一瞬で数万人の人々がこの世界から消滅しました。

原爆ドームこの最強の破壊兵器がなぜ使用されたのか、それは今でも議論の対象となっています。

加害者のアメリカは「日本との戦争を早く終わらせるためだった」と言います。
被害者の日本は「アメリカがソ連との関係を優位にするためだった」と言います。

では、実際のところはどうだったのでしょうか・・・?

原爆が投下された理由には、当時の複雑な世界情勢と外交が絡んでいます。
事はそう簡単な話ではありません。

さて、第二次世界大戦の終盤、いったい何があって原子爆弾は投下されたのでしょうか・・・?


第二次世界大戦の頃、世界では大きく分けて2つの戦争が行われていました。

第二次世界大戦主に「ドイツ」と「アメリカ&イギリス&ソ連」の連合軍が戦っていた、ヨーロッパの戦争
もう1つが、主に「日本」と「アメリカ」が戦っていた太平洋戦争です。

どちらの戦争も、1945 年にはドイツと日本の敗戦で終結する事が決定的となっていました。

特にドイツは西からアメリカ&イギリス、東からはソ連に攻め込まれていて挟み撃ちになっている状態であり、日本より先に敗北する事が明らかでした。

そのため、アメリカとイギリスとソ連の連合3ヶ国は 1945年の2月、占領したドイツや東ヨーロッパの国々を、終戦後にどう扱うか決める会議を行います。
この会議を「ヤルタ会談」と言います。

ヤルタ会談ヤルタ会談では、主に東ヨーロッパの国々の処遇が話し合われていて、敗戦したドイツをどのように管理するかについてはそれほど話されなかったのですが・・・

ドイツの領土については「それぞれの国が、自分が占領している地域をそのまま管理しよう」という形で取り決められました。
しかし、それが悲劇を生んでしまいます。
ドイツの分裂」です。

ヤルタ会談の頃から、アメリカとソ連の対立は徐々に始まっていました。
ソ連は資本主義を否定してどんどん支配地域を広げようとしていた社会主義国であり、アメリカはそれに危機感を感じていた資本主義国です。
社会的・政治的に、互いに協調できる相手ではありません。

ただ、この頃はドイツや日本という共通の敵がいたために、両者は手を結んでいました。

しかしドイツは 1945年の5月 に降伏
これによりドイツの国土は各国が「分割統治」する状態となり、その直後からアメリカとソ連の緊張が高まり始めます。

ソ連は占領したドイツに社会主義の国を作ろうとし、アメリカやイギリスはそれを防ごうとします。
両者は睨み合いを続ける状態となりますが、「ヤルタ会談」で分割統治の形と約束がすでに出来てしまっていた以上、ソ連の占領地が社会主義陣営に飲み込まれることは時間の問題でした。

こうして、のちにドイツは社会主義の「東ドイツ」と、資本主義の「西ドイツ」にムリヤリ分けられてしまいます。
もともと資本主義の国であったドイツを半分ほど社会主義に取られてしまった事は、アメリカやイギリスなどの資本主義陣営にとっては「失敗」と言えました。

また、ヤルタ会談ではもう1つ、アメリカとソ連にとって重要な取り決めが行われていました。
ソ連の「対日参戦」です。

アメリカが日本との戦いをさらに優勢に進めるため、ソ連に「参戦して援護してくれ!」と要求していたのです。
しかし、これが次の問題を生む事となります・・・


さて、一方で太平洋戦争。

日本とアメリカの戦争も佳境に入っていました。
硫黄島や沖縄での上陸戦が始まり、日本の各都市も米軍の都市爆撃を受け続け、日本は悲劇的な状態となっていきます。

神風特攻で炎上する空母ただ、この頃はアメリカ軍も少なからぬ被害を受けていました。
硫黄島では日本軍の決死の抵抗によって他の戦線では受けたことのない被害を被り、また日本軍の「神風特攻」といった常軌を逸した攻撃で、アメリカ兵は精神的にもダメージを受けます。

特に沖縄の戦いでは、女子供を含む地元住民が決死の抵抗をしてきて、それを撃ち殺さなければならなくなったり、目の前で地元の一家が手榴弾で自殺をしたりするような事が相次いだため、アメリカ兵の士気は激減、精神的に参ってしまう者も出始めます。

前線の司令部からは、優勢でありながら、上記の理由で一時後退の要請も出るようになりました。

しかし、アメリカの上層部はここで後退とか悠長なことは言っていられませんでした。
「ヤルタ会談」で、ソ連の参戦を促していたからです。

ヤルタ会談の後、ソ連とアメリカの関係はどんどん悪化。
ソ連はヤルタ会談で取り決めていた東ヨーロッパの国々の扱いを無視して、それらの国々をどんどん社会主義国化し、ソビエト・ロシアの属国にしていったからです。
アメリカが思っていたほど、当時のソ連は話の解る相手でも、甘い相手でもありませんでした。

そんなソ連が日本に参戦し、日本の領土を占領すれば・・・
それはドイツ分割の悲劇と社会主義の更なる拡大を呼び込むこととなります。

また、日本は太平洋に面した島国でしたから、ここがソ連に占領されると、太平洋方面に艦隊を出撃させるための絶好の軍港・前線基地を与えることにもなります。
それはアメリカの戦略上、絶対に防がなければならない事態でした。


さて、ドイツの敗戦は、もう一つの大きな事態を呼びました。
原子爆弾の研究者・研究資料の流出」です。

原子爆弾の理論は戦争が始まる前から提唱されていたので、各国で研究は行われていました。
そしてその研究がもっとも進んでいたのが、ドイツ、アメリカ、ソ連の第二次世界大戦の主要3国です。

原子爆弾の圧倒的な破壊力はすでに予想されていたため、敵国に先に原子爆弾を作られてしまうと、政治的にも軍事的にも不利になります!
そのためアメリカは 1942年 から研究開発(マンハッタン計画)を開始、イギリスと共に 1944年 の段階で、原爆を日本に落とす事をすでに合意していました。

そんな中、ドイツは原爆の完成前に敗戦。
そしてドイツの首都「ベルリン」を陥落させたのはソ連軍でしたから、ドイツの原爆の研究者や研究資料の多くはソ連に持ち去られ、そのままソ連の核兵器開発を助ける結果となります。

この事態に焦ったのがアメリカです。
実際にはドイツの原爆研究はそれほど進んでいなかったのですが、原爆の情報は最大の極秘事項でしたから、ソ連が実際にどのぐらいまで研究しているのかはアメリカには解りません。

ソ連より先に原子爆弾を完成させなければ、戦後の米ソの対立でアメリカは不利を免れません。
ドイツの崩壊後、アメリカとソ連の関係はますます悪化していたため、「相手より先に原爆を完成させる」ことは両国にとってさらに重要なものとなりました。


こうして「ヤルタ会談」後、アメリカとソ連の緊張がどんどん高まるなかで・・・
1945年7月、アメリカとソ連の2度目の会談が行われることになりました。
これを「ポツダム会談」と言います。

この会談では、主に敗戦が近い日本をどうするかが話し合われました。

ポツダム会談ソ連側は、「準備が出来次第、対日参戦を行う。 終戦後、各国が占領している地域は、そのままその国が統治とする」という主張を行いました。

これはヤルタ会談の決定と同じもので、日本に領土を広げたいソ連としては当然の主張と言えます。
特にソ連は、太平洋方面への理想的な軍港・軍事基地を建設できる、北海道の占領を望んでいたと言われています。

しかしアメリカは、「ソ連の対日参戦は状況次第。 終戦後、日本は独立国家とする」という主張を行います。

アメリカ側としては、ソ連に日本を占領して貰っては困る上に、日本はもともと資本主義国であり、ソ連とも対立していたため、終戦後は資本主義陣営の味方に出来ると同時にソ連に対する盾にもなる、と考えていたからです。

こうして両者の意見は対立。 会談は何日も続きます。

そんな時・・・ アメリカは、ついに「核実験」を成功させます。

このポツダム会談の最中、アメリカ本国では原子爆弾の研究が最終段階を迎えていました。
アメリカの大統領「トルーマン大統領」は、これをポツダム会談の切り札にするべく、開発を急ピッチで行うことを要請。
こうして会談が終わる前の 7月16日、世界初の核実験「トリニティ実験」が実施されます。

これによって事実上、原子爆弾が実用化。
ついに最強の破壊兵器を人類は手にすることとなってしまいます。

さっそくトルーマン大統領は、ソ連側に対し実験の成功と核兵器の実用化を通告。
しかしソ連の代表「スターリン書記長」は、まったく動じませんでした。
彼はスパイ活動などにより、その事実をすでに承知の上だったからです。

結局、「ポツダム会談」はソ連側のペースで進み、アメリカは全くいいところなく終了。
ポツダム会談によって「8月中にソ連は対日参戦を行う。 各国が占領している地域は、そのままその国が統治とする」という、ほぼソ連側の主張が全面的に通ったものが決定されました。

会談後、アメリカのトルーマン大統領は「カゼひいてて体調最悪だったんだよ~」とか言い訳していますが、もう後の祭り。
また、元々ソ連の対日参戦を要求したのはアメリカでしたから、「お前から来いと言って準備させたくせに、今さら来るなとか言うなよ!」とソ連側に言われると、言い返せなかったのもあったようです。

この結果、アメリカは「8月のソ連の本格参戦前に、日本を降伏させなければならない」という「タイムリミット」が出来たことになります。


ポツダム会談が終わったのが 8月2日
8月中にはソ連軍が日本に進攻を開始する。 ソ連に占領された地域は終戦後にそのままソ連領となる

このため、アメリカは速攻で日本に降伏を促し始めます。
ですが当時の日本は「本土決戦」を盾に、出来るだけ有利な条件で終戦しようという外交戦術を取っていました。
そのため好条件を引き出そうと、のらりくらりと交渉を引き延ばします。
アメリカにとっては最悪です。

ですが、アメリカには切り札がありました。
「原子爆弾」です。

アメリカのトルーマン大統領は、ポツダム会談中の 7月26日 には、すでに原爆投下の指示を出していました。
どのみちソ連に対して原子爆弾の存在をアピールするには、実際に投下する必要があります。

アメリカ国内ではこの頃、「威圧目的なら投下する都市に事前通告した方がいいんじゃないか?」とか、「使用可能な事をアピールするだけなら人のいない所に落とせばいいじゃないか」という意見も出ていたのですが、上層部は全て拒否。

やはりその効果を国内外に見せる必要があると判断されたようで、開発側から「実戦データが欲しい」という声もあったようです。
(原爆投下地の候補には広島と長崎の他に、新潟と京都があったのですが、新潟や京都が候補だったのは地形が平坦で、効果を計りやすいためだったようです)

きのこ雲こうして・・・ 7月末には準備が始まり、8月6日、広島への原子爆弾投下が実行されます。
一瞬にして都市は完全な焼け野原となり、10万人以上の一般市民が死亡します。

一方、ソ連もアメリカが終戦を急いでいることは当然知っていました。
そのためポツダム会談中から日本侵攻の準備を急ピッチで進めます。

日本とソ連は当時「日ソ中立条約」という不可侵条約を結んでいましたが、ソ連はそれを一方的に破棄。
8月8日の深夜、ソ連は日本に宣戦布告、8月9日 には進攻を開始!
中国にあった日本の占領地「満州」での一斉攻撃を開始します。

8月9日、アメリカは今度は長崎市への原子爆弾投下を実行。
再び都市は一瞬で全滅し、5万人以上の一般市民が死亡することとなります。

8月6日 から 8月9日 までの米ソの動きは非常に急なので、「原爆投下」を巡って、両者が急いで動いていた事が解ります。

8月14日、北海道の北の諸島、俗に言う「北方領土」でソ連軍が進攻を開始、現地の守備部隊と交戦に入ります。

そしてソ連の参戦と2度の原爆投下により、ついに日本政府は 8月15日、無条件降伏を決定
太平洋戦争は終わることとなるのですが・・・

ソ連は、日本の敗戦を聞いても進攻を止めませんでした。
ここで止まるとアメリカの思うつぼ、さらに「ここまで準備して進攻開始したばかりなのに、今さら止められるか!」というのがあったようで、諸外国の非難を受けても無視して侵攻を継続、そのまま北方領土を占領してしまいます。

しかし、さすがに終戦しているためそれ以上は進むことは出来ず、北海道を制圧することなく、ソ連軍も侵攻を停止。
ですが占領していた北方領土は、ソ連軍が支配したままとなりました。
これが現代まで続く「北方領土」の問題となります。


ソ連軍が日本の降伏を無視して進軍を継続したため、戦闘は9月まで続きますが、9月中頃には終了。
こうして第二次世界大戦は終結します。

ですが、第二次世界大戦の終結は、次のアメリカとソ連の戦争の幕開けに過ぎませんでした。

朝鮮戦争ヨーロッパでは東欧の国々を次々と社会主義に引き込もうとするソ連に対し、アメリカやイギリスが防止活動を開始、完全な対立状態となります。

さらに朝鮮半島は、戦時中は日本の占領下にありましたが、日本が敗戦したために独立。
しかしその朝鮮を社会主義国にしようと北からソ連の援助を受けた北朝鮮が進攻を開始し、それを防ごうとアメリカ主導の国連軍も南から介入。
戦争が激化したところに中国も参戦し、社会主義陣営と資本主義陣営の大規模な戦争となった「朝鮮戦争」が起こります。

ですが、これらの対立や戦争で、原爆が使用されることはありませんでした。

多額の費用と労力によって開発され、核兵器開発競争の中で国内外にその存在をアピールする必要があった原子爆弾ですが、実際に投下した時の被害は、アメリカの政治家の予想を上回るものでした。
原子爆弾はアピールできないほど「強力過ぎた」のです。

アメリカは第二次世界大戦中、ナチス・ドイツによるユダヤ人の虐殺「ホロコースト」の非人道性をアピールしていました。
「ドイツによって数千人~数万人の一般市民が虐殺されている!」と訴え、戦争の正当性を主張していたのです。

ところが、原爆投下による一般市民の被害は、彼らがホロコーストで訴えていた被害の数倍から数十倍に及ぶものだったのです!

アメリカは民主主義の国なので、自国・敵国に関わらず、あまりにも被害が大きすぎる行いをする事は政権にダメージが及びます。
終戦後、戦争や原爆投下の是非についての議論が行われていましたから、アメリカ政府は原爆の効果をアピールするどころか、その被害をひた隠しにしなければならなくなりました。
結局、こうした事情で原子爆弾はその後、使われなくなります。
やはり「非人道的過ぎた」訳ですね。

1949年、ソ連も核実験を実施。 これによりソ連も核保有国となります。
以後、超破壊的な力を持つ「核兵器」は、「持っていないと使われる」という恐怖と、「使うと使われる」という恐怖の双方を生むこととなり、「核抑止力」という作用を生み出します。

その後は米ソの両国が相手よりも強力で多数の核兵器を持とうとして核実験を繰り返し、核の開発競争が続けられます。
アメリカの原爆投下に対する対応も、その正当性をアピールする形に変わっていきました。

現在はイギリス、中国、インド、パキスタンなど、多くの国々で核保有が行われており、世界に存在する核兵器で地球を 50 回滅亡させることが出来ると言われています。
最近は北朝鮮も、核開発しているというニュースが伝えられていますね。


原子爆弾投下の大まかな経緯は以上です・・・

では、アメリカの主張と日本の主張、さらに様々な政治家の方々の主張、どれが正しいのでしょうか?

「戦争を早く終わらせるために原爆を投下した」
終戦の外交の経緯を考えると、これは間違いではありません。

「アメリカが戦後の米ソの対立を有利にするために原爆を投下した」
これも原爆開発と投下の経緯から、間違いではありません。

「原爆が投下されていなければ北海道はソ連に占領されていた」
ソ連の行動と当時の日本の外交姿勢を考えると、これも事実の一端を示しているでしょう。

つまり、それぞれの主張はすべて間違っておらず、原爆が投下された事情の側面の1つと言えます。

こうした多数の主張がある問題について、多くの人が「YES」か「NO」の二択で物事を考えようとします。
しかし実際には、事実は1つとは限らないわけです。

複数の主張が正しいという事は起こり得る訳で、一方が正しければ一方が間違っているという考え方は、成り立ちません。

原爆慰霊碑

ただ、1つだけ確実に言えることは・・・
「原爆の投下により、数十万人の罪のない一般市民が、一方的に殺された事」

それが史上最大規模の非人道的な行いであったことは、確かですね。


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2007/8/6 初稿.
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