浅井家 武将名鑑


戦国大名「浅井長政」(浅井家)の武将達のプロフィールを紹介しています。


浅井長政

浅井 長政

(あざい ながまさ) 
浅井家大名 江北の麒麟児

浅井家の大名。
六角家の傘下だった北近江の一勢力を戦国大名にまで押し上げた人物。
若干16才で六角の大軍を討ち破り、浅井家の独立を果たすと、織田信長の妹「お市」を妻に迎えて琵琶湖・近江を支配した。
しかし旧恩のある越前朝倉と織田信長の板挟みに合い、究極の選択を迫られる。
義を重んじて朝倉に付いた浅井長政を待つものは、時代を味方にした覇王・信長の怒りの刃であった。
浅井長政、および浅井家についての詳細は こちら をご覧下さい。


浅井家 武将詰所

磯崎新七

磯崎 新七

(いそざき しんしち) 
大阪の陣で活躍した金七と同一人物?

北近江と南近江の中間辺りに位置した「磯崎城」の城主。
この城は南近江の六角家が勢力を持っていた頃は、北近江の浅井家にとって前線基地の役割を果たしていた。
浅井家が織田信長に攻められた際に落城するが、彼は逃げ延びたようで、のちに旧知の間がらであり、豊臣秀吉の家臣となった藤堂高虎に仕官している。

近江にある「磯崎神社」の宮司の家柄で、蒲生氏郷の親類であり、のちに藤堂高虎に仕えた「礒崎七」という人もいて、彼と混同されている可能性も高い。
礒崎金七は藤堂高虎の配下として朝鮮出兵や関ヶ原の戦いに参加、大阪・夏の陣では長宗我部勢の大将首を取る手柄も立てた。
のちに「藤堂家信」に改名し、通称で藤堂式部と名乗っている。
大阪・夏の陣で傷を負ったとき、徳川家康から塗り薬を与えられており、それは今でも伝わっているという。

岩脇定政

岩脇 定政

(いおぎ さだまさ) 
織田に敗れた近江国人の一人

苗字は「いおぎ」と読むらしい。
岩脇家は近江の国人(地方領主)であり、元は近江の名家「京極家」に従っていたが、京極家が勢力を失うと浅井家の家臣となった。
織田信長の浅井家侵攻の際、浅井家の「鎌刃城」という城の城主「堀秀村」が秀吉の配下の説得で織田家に寝返った際、これの攻撃に向かうが、返り討ちにあって戦死したという。

多賀常則

多賀 常則

(たが つねのり) 
織田の重臣と温泉旅行

近江の国人(地方領主)であり、浅井家に所属していたが、浅井家が織田家と手を切って朝倉家に付いた時、織田家の調略(引き抜き工作)により織田家に寝返った。
堺の有名な茶人「津田宗及」の茶会に招かれていた文化人でもある。
織田家が武田家を滅ぼした際、帰りに信長から休暇を与えられて、丹羽長秀堀秀政などの重臣と共に草津温泉で湯治をしたようで、重用されていたことがわかる。

「本能寺の変」で織田信長明智光秀に討たれたときは、光秀と親しかったために中立、もしくは明智軍に味方したようだが、戦後に秀吉に許され、以後は秀吉の弟「羽柴秀長」の配下となっている。

野村直隆

野村 直隆

(のむら なおたか) 
国友鍛冶の鉄砲頭

近江には「国友鍛冶」という鉄砲鍛冶衆がいた。
国友鍛冶の頭領「国友善兵衛」は新兵器「鉄砲」の研究を将軍家より依頼され、その量産化に成功。
のちに「国友銃」は織田信長の鉄砲隊に採用され、武田騎馬軍団を破るなど、戦国の歴史に大きな影響を及ぼす事になる。

野村直隆はその国友鍛冶の拠点「国友村」の出身であり、最初は「横山城」という城を守っていたが、浅井&朝倉の軍勢と織田&徳川の軍勢が戦った「姉川の合戦」で浅井軍が敗れ、横山城が陥落すると、故郷の「国友城」を守った。

その後、浅井家から織田家に寝返った宮部継潤に攻められるが、国友の銃士の活躍もあってこれを撃退。
浅井家が滅亡すると説得を受けて織田家に降り、以後は織田軍への鉄砲の生産・補給の役割を受けたようだ。
「本能寺の変」で信長が死去すると豊臣秀吉の配下となり、「鉄砲頭」に任命され、豊臣家が北条家を攻めた「小田原征伐」でも鉄砲隊を率いて戦っている。
ただ、関ヶ原の戦いで西軍に属し、その後の消息が解らないため、東軍の勝利により改易されたと思われる。

なお、「浅井の四翼」と呼ばれる重臣の中に「野村定元」という人がいて、織田家の進攻の際に横山城を守っていたとのことなので、同一人物である可能性がある。

片桐且元

片桐 且元

(かたぎり かつもと) 
秀頼と淀の側近、徳川との板挟み

「賤ヶ岳七本槍」の一人だが、「大坂の陣」の直前に豊臣家と徳川家の板挟みになったことで有名な武将だ。
実際には浅井家の家臣ではないのだが、彼の父は浅井家に仕えており、幼年期は浅井家で過ごしていたようだ。
浅井・朝倉連合軍が、織田・徳川連合軍に敗れた「姉川の合戦」の後、彼の父「片桐直政」は織田家に寝返り、秀吉の配下となる。
その際、まだ幼かった片桐且元は秀吉の小姓(身の回りの世話をする子供)となった。

「本能寺の変」で織田信長が討たれ、その後継者を巡って織田家の家臣「羽柴秀吉」と「柴田勝家」が戦った「賤ヶ岳の戦い」で活躍、のちに「賤ヶ岳七本槍」の一人として称えられ、3千石の領地を与えられて城主となった。
その後も豊臣家の武将として各地を転戦し、出世を続けて豊臣家の跡継ぎである「豊臣秀頼」の傅役(守役、補佐)の一人となる。

秀吉の死後、石田三成徳川家康が戦った「関ヶ原の戦い」では、豊臣の中枢にいたにも関わらず、家康の勝利後にすぐ長女を人質に差し出して、関係の改善に努める。
これを評価され、徳川家康から領地を与えられ、さらに豊臣家の家老に任命された。
この事で、以後は豊臣家と徳川家の間の交渉役となる。
豊臣秀頼の母「」からの信頼も厚く、「秀頼の親代わりになって欲しい」とまで言われていた。
ちなみに淀は、浅井長政の長女である。

しかし関ヶ原の戦いから14年後、徳川家康は豊臣家を攻める事を決意、そのため彼は豊臣家と徳川家の板挟みに遭ってしまう。
彼は何とか豊臣家を存続させようと奔走するが、徳川側から「淀が人質になる」「豊臣家が大坂を出る」などの厳しい条件を出され、一方で別ルートで交渉に来ていた「大蔵卿局」にはそういう話が出されなかったため、淀や側近たちに「片桐且元は家康と謀ってそんなことを言い出したんだ! 奴はスパイだ!」と思われてしまう。
結果、豊臣家の強硬派の武将に暗殺されそうになり、大坂城を脱出。
大坂の陣」が始まると、徳川家康に「淀がいる場所に大砲を撃って彼女をビビらせる」などの大坂城攻めについてのアドバイスを行った。
だが、最後まで豊臣家の存続を望んでいた彼の願いは叶わず、豊臣家滅亡の二十日後に亡くなった。

余談だが、大坂の陣の数年前、秀頼と家康が会見するとき、吉凶を占うためにクジを引いたところ「大凶」が出て、あわてて「吉」に書き直させたという。
占いは当たったようだ。


浅井家 奥屋敷

今村氏直

今村 氏直

(いまむら うじなお) 
長政独立時の重臣の一人

今村家は戦国時代の前に近江に勢力を持っていた名家「京極家」の家臣だったが、浅井家が近江を支配した後は浅井家に従った。
浅井長政が六角家から独立した「野良田の戦い」で本陣の大将の一人を務めており、高い地位にあったようだ。
しかし、浅井・朝倉軍と織田・徳川軍が戦った「姉川の合戦」で討ち死にした。
姉川の戦いの決着後、浅井家の重臣「遠藤直経」が降伏を装って織田軍の本陣に入り、織田信長を暗殺しようとした時、それに付き従っていたとも言われている。

久徳義時

久徳 義時

(きゅうとく よしとき) 
反旗を翻した同僚を討伐

久徳家は近江の国人(地方領主)で、元は北近江に勢力を持っていた「京極家」の配下だった。
京極家の衰退後に浅井家が近江を支配すると、多くの国人が浅井家に従うが、久徳家は浅井家ではなく南近江の大名「六角家」に従った。
そのため、彼の父の代に浅井長政に攻められ、居城も焼け落ちている。

久徳義時は浅井家の家臣になっていたが、 織田家が浅井家に攻め込んだ「姉川の合戦」の後、織田家に降った。
その後、彼と共に織田家に降伏した同僚の「高宮右京亮」が本願寺に通じて反旗を翻すと、織田信長にそれを報告して討伐のため出陣、織田家から派遣された丹羽長秀と共に、その反乱を鎮圧している。
「本能寺の変」では親族の一人が明智光秀側に味方しているが、秀吉に赦免されたのか、その後に久徳家には改めて旧領が与えられたようだ。

ただ、彼を含め、久徳家の複数の人物が「久徳左近兵衛尉」(きゅうとく さこんびょうえのじょう)を名乗っており、記録に混同があるため、伝記があやふやになっている。

上坂正信

上坂 正信

(こうざか まさのぶ) 
京極家の重臣「上坂」の末裔

上坂家は近江の名家「京極家」の一番の重臣だったが、当時の上坂家の当主「上坂信光」が主君に京極家の跡継ぎを次男の「京極高吉」にするよう働きかけたため、長男の「京極高延」を跡継ぎに考えていた国人達と対立、京極家で跡継ぎ争いが起こる。
このときに上坂家と対立した国人の一人が、後に浅井家が戦国大名となる基礎を作った浅井長政の祖父「浅井亮政」だった。
戦いは浅井亮政がいる国人側が勝利し、この紛争で京極家は衰退、上坂家も没落した。

ただ、上坂家には分家があったようで、その跡を継いだのが上坂正信であり、浅井長政が独立した戦い「野良田の戦い」では本陣の大将の一人となっている。
浅井家の滅亡後は秀吉の弟「羽柴秀長」の家臣となり、各地を転戦した。
しかし「関ヶ原の戦い」で西軍・石田三成側に付いたため、東軍・徳川側の勝利後、領地を没収され、以後は農民(庄屋)になったという。

浅見貞則

浅見 貞則

(あさみ さだのり) 
京極を打倒した初期のライバル

近江の国人(地方領主)である浅見家の出身。
北近江は当初「京極家」という名家によって支配されていたが、京極家の重臣「上坂信光」が専横を振るい、京極家の跡継ぎも彼が決めようとしたため、近江の国人達がそろってそれに反発、国人達による「反上坂同盟」が結成された。
その国人達のリーダーとなったのが彼であり、「京極・上坂軍 VS 近江国人連合軍」の合戦が起こる。

戦いは国人側の勝利となり、京極家は衰退、国人達のリーダーだった浅見貞則が新たな北近江の代表となったのだが・・・
今度は彼の専横が目に付くようになり、そのため浅井長政の祖父である国人連合のナンバー2だった「浅井亮政」が浅見貞則と対立し、戦いに勝利。
こうして浅井亮政が北近江の代表となり、戦国大名・浅井家の基礎が作られることとなる。

その後、浅見貞則は浅井亮政と和睦し、浅井家の重臣となった。
京極家は浅井家の傀儡となり、上坂家も浅井家に降って一応安定するのだが、京極家の跡継ぎ候補「京極高吉」が南近江の大名「六角家」に支援を要請したため、浅井家は新たな戦いに突入していく。

月ヶ瀬忠清

月ヶ瀬 忠清

(つきがせ ただきよ) 
挟撃前に信長の強襲を受ける

月ヶ瀬家は北近江の名家「京極家」の家臣であり、京極家の衰退後に浅井家に仕えた。「月瀬」とも書く(読みは同じ)。
浅井長政が南近江の六角承禎と戦い、浅井家の独立を勝ち取った「野良田の合戦」では、後陣の部隊を率いている。

織田信長は浅井家の居城「小谷城」を攻めるとき、「虎御前山」という場所に陣を構えたが、ここは小谷城と「月ヶ瀬城」の間にあり、月ヶ瀬忠清は織田軍を挟撃できる位置にいた。
しかしある日、浅井家の重臣「阿閉貞征」が織田家に寝返り、浅井家は動揺する。
それを知った織田信長は夜中にも関わらず出陣、月ヶ瀬城を包囲強襲して一気に落城させた。
月ヶ瀬忠清は小谷城から「救援は出せない。奮戦の後、小谷に合流せよ」という連絡を受けていたため、城を脱出。
その後は小谷の落城まで戦っていたと見られる。

三田村国貞

三田村 国貞

(みたむら くにさだ) 
織田に敗れた近江国人の一人

「三田村国定」とも。浅井家の重臣「浅井の四翼」の中の「三田村秀俊」と同一人物と思われる。
三田村家は北近江の名家「京極家」で跡継ぎ争いが起こった際、浅井長政の祖父「浅井亮政」や、当時の国人達のリーダー「浅見貞則」と共に、国人連合軍の一角を担った有力な国人(地方領主)だ。
そして浅井家が近江での支配を強めるとその配下となった。

三田村国貞は三田村家の末裔で、近江の重要な拠点「横山城」を同僚の「野村直隆」や「大野木秀俊」と共に守っていたのだが、織田・徳川軍と浅井・朝倉軍が戦った「姉川の合戦」に勝利した織田軍は、そのまま横山城に攻勢をかけて落城。
その後は本城である小谷城の守りに付いたようだが、小谷陥落の際、防戦の末に戦死した。

樋口直房

樋口 直房

(ひぐち なおふさ) 
半兵衛の恩人だが失踪の末に処刑

浅井家の配下であり「鎌刃城」という城の城主だった「堀秀村」の家臣。
秀吉の軍師として有名な竹中半兵衛は、暗愚な振る舞いの多かった主君「斎藤龍興」を諌めるためにわずか17人で美濃の本城「稲葉山城」を乗っ取ってしまうが、その後に城を斎藤龍興に返還し、斎藤家を出奔して近江に隠棲した。
その近江にいた時に、世話になっていたのが樋口直房である。
兵法・軍略・経営・風流に通じ、人望も厚い優れた民政家であったという。

のちに浅井家が織田家に攻められた際、竹中半兵衛に説得されて織田家に寝返り、さらに主人である堀秀村に織田家に付くよう口添えする。
そして秀吉の与力(配下)となるのだが・・・ 浅井家が滅亡した翌年、突如出奔し、妻と共に甲賀へと行方を眩ました。
姿を消した原因は不明だが、彼や堀秀村は近江でも強い影響力を持つ国人であり、所領もかなり大きく(近江で城主となった秀吉より大きかった)、一向宗門徒でもあったため、これらが要因になっていたようだ。
近年、越前の一向一揆に攻められて城を放棄、さらに独断で交渉して講和したためという話が出て来ているが、その状況から、秀吉や信長が取り潰す機会を伺っていたとも言われている。

いずれにせよ、彼は秀吉の追っ手によって、妻と共に討たれた。
主君の堀秀村も所領没収のうえに追放されたが、後年に羽柴秀長に仕えた記録がある。

大野木秀俊

大野木 秀俊

(おおのぎ ひでとし) 
横山城を守った浅井の四翼

近江にあった重要拠点「横山城」の守将の一人で、野村直隆三田村国貞と共に横山城の守備に付いていた。
しかし、横山城は織田信長の進攻を受け、救援に来た浅井軍と朝倉軍も「姉川の合戦」で織田軍と徳川軍に破れたため、横山城から脱出して小谷城に撤退した。

ただ、この時に横山城を守っていたという浅井家の重臣には「三田村国貞(国定)」「三田村秀俊」「大野木秀俊」「大野木国茂(国重)」がいて、どうやら記録がゴチャゴチャになっている。
よって「大野木秀俊」と「大野木国茂」のどちらが本名なのか解らない。「浅井の四翼」と呼ばれた重臣の「大野木国重」もおそらく同一人物だ。
浅井長政が独立した「野良田の合戦」で遊撃軍を任されたという「大野木茂俊」もたぶん同一人物で、正確な記録は小谷城と一緒に灰になってしまったのだろう。

その後、浅井家の滅亡時に秀吉を通じて織田家に投降したのだが、戦後に裏切り者として織田家の武将「中村一氏」に処断されてしまった。
なぜ彼が殺されたのかは不明だが・・・ 彼は近江に広い領地を持っており、中村一氏も同じく近江に大きな領地を持っていたため、それに関連したトラブルだったと思われる。

弓削家澄

弓削 家澄

(ゆげ いえずみ) 
野良田の合戦、本陣の将の一人

弓削家は近江の国人(地方領主)で、元は北近江の名家「京極家」の重臣でもあったが、京極家が没落した後は浅井家に仕えている。
浅井長政が六角承禎(義賢)と戦った「野良田の合戦」における本陣の武将の一人で、つまりその頃からの重臣。

浅井朝倉軍と織田徳川軍が戦った「姉川の合戦」で、浅井朝倉軍の敗戦後、浅井家の重臣「遠藤直経」が降伏を装って織田軍の本陣に入り、織田信長を暗殺しようとした時、それに付き従っていた一人という。

小堀政次

小堀 政次

(こぼり まさつぐ) 
文化人・小堀遠州の父

豊臣秀吉の配下として有名な武将。「正次」とも。
近江の国人であり、最初は浅井家に仕えていたが、浅井家が織田家に滅ぼされた後は織田家の家臣となり、秀吉の弟「羽柴秀長」の配下となった。
検地(土地を調査して税金を決める行政)や築城などで高い功績を上げ、どんどん出世。
関ヶ原の戦いでは東軍に従い、備中(岡山西部)の1万4千石の大名となっている。

また、彼の息子の「小堀政一」は羽柴秀長の小姓(身の回りの世話をする子供)となり、そのツテで千利休山上宗二など、当時一流の文化人と交流した。
のちに「小堀遠州」と呼ばれ、芸術的な築城や庭作りで一躍有名になり、華道や茶道の「遠州流」の創始者となっている。

田中吉政

田中 吉政

(たなか よしまさ) 
関ヶ原で石田三成を捕らえる

豊臣秀吉の配下として有名な武将。 秀吉と同じく、元は農民だった。
最初は浅井家の重臣である宮部継潤の配下だったが、宮部継潤が織田家に寝返った際、それに従って織田家の家臣となった。
その後も秀吉の配下となった宮部継潤の部下として各地を転戦し、秀吉の養子「豊臣秀次」の側近となるが、豊臣秀次は秀吉に謀反(反逆)を起こそうとした疑いで切腹を命じられる。
この時、田中吉政は身を挺してそれに反対し、その甲斐なく秀次は切腹させられるのだが、その忠義を認められ、かえって秀吉に重用されたという。

そして徳川家の本国だった三河・岡崎の城主となり(このとき徳川家は関東に移っている)、城下町の発展や街道整備に尽力する一方、徳川家康が西に攻め込んできた場合を想定して、その防衛体制を整えた。
しかし秀吉の死後は徳川家に接近、西軍・石田三成と東軍・徳川家康が戦った「関ヶ原の戦い」では東軍に参加し、美濃の岐阜城(元 稲葉山城)を攻略。
さらに関ヶ原の本戦では黒田長政と共に、西軍本陣の前に陣取った「島左近」の部隊と戦い、本戦後は石田三成の城「佐和山城」を攻め落として、さらに逃亡中の三成を捕える勲功を挙げた。
これらの功績で、戦後に32万石の領地を与えられ大大名となっている。
石田三成と田中吉政は仲が良かったようで、三成は捕まったとき「同じ捕まるなら田兵(田中吉政)に捕まって良かった」と言い、愛刀を授けたという。

ちなみに彼は、三河・岡崎に水路を巡らした街作りをした。
これはキリシタンだった彼が、宣教師から聞いたヨーロッパの水の都「ベニス」を摸倣したのだと言われている。

藤堂高虎

藤堂 高虎

(とうどう たかとら) 
八度主君を変えた幕府創生期の名将

豊臣秀吉徳川家康の配下の名将。 身長190cmの大男だったらしい。
最初は浅井家の家臣であり、織田・徳川軍と戦った「姉川の合戦」でも手柄を立てたのだが、その後に同僚の山本くん(詳細不明)とケンカして斬り捨ててしまうトラブルを起こし、浅井家から退去した。
その後、織田家の家臣となった元浅井家の家臣「阿閉貞征」や「磯野員昌」、信長の弟の子である「津田信澄」などに仕えるのだが、仕えた上司がことごとく処罰されたり、出奔したり、戦死したりする。
そのため生活が苦しく、無銭飲食した話も残されている。

のちに秀吉の弟「羽柴(豊臣)秀長」の配下となって、やっと芽が出始める。
各地を転戦して功績を上げ、朝鮮出兵でも朝鮮水軍を討ち破るなどして活躍、秀吉の死後は徳川家康に接近し、西軍・豊臣側に味方する小大名や武将達を次々と調略(引き抜き工作)して「関ヶ原の戦い」における東軍・徳川側の勝利に大きく貢献、この功績で22万石の大名となった。

その後、豊臣家の居城・大坂城を包囲するための数々の城の建設にあたり、江戸幕府の拠点となる「江戸城」の普請奉行(建築指揮)も担当。
「築城の達人」として名を広める一方で、伊賀忍軍を統率して各地の諜報活動にあたり、朝廷(天皇家)との交渉も担当している。
徳川家康は「徳川に逆らう者あれば高虎を先陣として戦うべし」と言い、絶大な信頼を寄せていたと言う。

徳川家が豊臣家を攻めた「大坂 夏の陣・冬の陣」では、真田幸村や長宗我部盛親(長宗我部元親の子)に敗れているが、戦後処理や交渉などで活躍。
幕府の二代将軍である徳川秀忠からも師として信頼され、江戸時代の創生期において大きな役割を果たす人物となった。


浅井家 城内

中島直親

中島 直親

(なかじま なおちか) 
織田軍の小谷攻めで落城

浅井家の家老の一人。
浅井長政が家臣と共に、父・浅井久政からムリヤリ家督を継いだときに、それに協力した一人だったようだ。
彼の居城である「中島城」は小谷城の西にあり、織田軍の小谷攻めの際には最前線となった。
しかし浅井家の重臣「阿閉貞征」が寝返ると浅井軍に動揺が走り、その際に織田軍は小谷の支城を一斉に攻撃、中島城も落城した。

河毛清旨

河毛 清旨

(かわけ きよむね) 
浅井家の奉行

河毛家は近江の国人(地方領主)で、元は北近江の名家「京極家」の重臣の家だった。
京極家が没落した後は、浅井家に仕えている。

なにかこの書き出しばっかりだが・・・
もともと北近江は佐々木京極家の支配地域であり、北近江の国人達がそれに従っていた。
しかし京極家が跡継ぎ争いで没落、国人達の支持を受けられなくなったため、国人の代表として北近江を治める形になったのが「浅井家」である。
そのため浅井家は主君というよりは、小勢力の代表であった。
そしてこのような体制のため、浅井家が「姉川の合戦」で敗れて権威に陰りが見えると、国人達は次々と織田家の調略に乗り、浅井家を離反してしまった。

河毛清旨は奉行職を務めていたようで、浅井家滅亡の直前に秀吉を通じて織田家に降っている。
なお、河毛家は六角家の「蒲生賢秀」、および秀吉配下の名将「蒲生氏郷」の「蒲生家」と関係があるらしい。
「河毛(かわけ)」を音読みすると「蒲生(がもう)」になる。
ただ、詳しい間柄は不明だ。

脇坂秀勝

脇坂 秀勝

(わきさか ひでかつ) 
浅井家の奏者

浅井長政の父「浅井久政」の代から、書状を発行する「奏者」という役職にあった。
浅井家が「姉川の合戦」で織田・徳川軍に敗れた後も浅井家に忠誠を尽くし、小谷城が陥落して浅井家が滅亡すると殉死したという。

豊臣秀吉の配下で、近江出身であり、賤ヶ岳七本槍の一人として知られる脇坂安治の親類と思われるが、関係ははっきりしていない。

渡辺了

渡辺 了

(わたなべ さとる) 
倍返ししたら奉公構

「了」という珍しい名前だが、「さとる」と読むらしい。
渡辺家は代々名前が1文字と決まっていて、先祖には「酒呑童子」や「羅生門の鬼女」などの鬼退治で有名な「渡辺 綱」などがいる。

「渡辺勘兵衛」の名で有名で「槍の勘兵衛」の異名を持った。
始めは浅井家の重臣「阿閉貞征」に仕えており、阿閉貞征が織田家に降るとそれに同行、織田家では信長から賞賛される活躍を見せている。
一旦浪人になっているが、その後に秀吉に仕え、秀吉配下の武将「中村一氏」の下で各地を転戦する。
しかしのちに敵城一番乗りの手柄を中村一氏が無視したため出奔。
秀吉が信長から貰った養子「羽柴秀勝」に仕えていたとも言われるが、秀勝の死後にやはり下野している。

その後、「豊臣五奉行」の一人「増田長盛」に仕えるが、西軍・石田三成と東軍・徳川家康が戦った「関ヶ原の戦い」で、増田長盛は領地を没収されてしまう。
この時、渡辺勘兵衛は城の守りを命じられており、徳川家の藤堂高虎が城を受け取りに来ても、「主君の命令がない限り城は渡せない」と言い抵抗した。
後に増田長盛からの書状が届いて城を明け渡すが、この一件に感心した藤堂高虎は彼を破格の待遇で召抱える。

しかし徳川家が豊臣家を攻めた「大坂・冬の陣」で軍の進退について藤堂高虎と意見が対立。
さらに「大坂・夏の陣」で冬の陣のときに敗れた長宗我部盛親の軍勢に襲いかかり、大被害を与えて仕返しをするが、藤堂高虎の撤退命令を7度も無視する行動だったため手柄が認められず、またも出奔した。
そして藤堂家から奉公構(仕官禁止)の処置が出され、どこの大名家にも仕官できなくなり、故郷の近江に戻って余生を過ごしたという。

小川祐忠

小川 祐忠

(おがわ すけただ) 
近江の風見鶏

小川家は近江の国人(地方領主)で、元は南近江の「六角家」に従っており、のちに石田三成の居城となる「佐和山城」を拠点とした。
そして六角承禎が「野良田の合戦」で浅井長政に敗れると、浅井家に城を明け渡して従属している。
小川祐忠は浅井家が織田家の進攻を受けると、柴田勝家を通じて織田家に寝返り、その家臣となった。

織田家の重臣「明智光秀」が「本能寺の変」で織田信長を討つとそれに呼応し、明智光秀に協力するが、「天王山の戦い(山崎の合戦)」 で明智光秀が羽柴秀吉に討たれると秀吉に降伏する。
しかし織田家の今後を決める「清洲会議」で近江が柴田勝家配下の柴田勝豊の領土になったため、柴田勝豊に従うことに。
だが、勝豊が秀吉に寝返っため、彼も一緒に秀吉側に鞍替えした。

以後は秀吉に従って各地を転戦、のちに伊予(愛媛)に7万石の領地を与えられ城主となっており、「関ヶ原の戦い」では西軍に参加。
しかし小早川秀秋が東軍に寝返ったのをみて、近くにいた彼も一緒に寝返る。
そして西軍の大谷吉継を攻め、さらに元は小川家の城だった石田三成の城「佐和山城」も陥落させる活躍を見せるが・・・
その数年後に小川家は改易されてしまい、翌年に病没してしまった。

東軍に寝返ったのに改易されてしまった正確な理由は解らない。
領内で悪政を行っていたからとも、息子が西軍の石田三成と親しかったらとも言われているが・・・
彼の日和見人生の結末は、彼自身が主君に裏切られた、という事だろうか?

井戸村光慶

井戸村 光慶

(いどむら みつよし) 
火事を見てもあわてるべからず

井戸村家は近江の国人(地方領主)の一人で、元は北近江の名家「京極家」の重臣であった「今井家」の配下だった。
ある日、今井家は六角家の城を落とすため伊賀忍者を雇用。
深夜、忍び込んだ彼等が城に火を付け、その上で磯野員昌の軍勢と共に夜襲をかける作戦をとった。

ところが、伊賀忍者の放火が遅れ、時間になっても火の手が上がらなかったため、失敗したのかと思って今井軍は退却を開始。
しかし遅れて城から火の手が上がり、今井軍は思い直して闇の中、城に駆け込もうとして、すでに城に迫っていた磯野員昌の軍と衝突、敵と誤認して同士討ちになってしまう。
そして今井家の当主は磯野員昌の兵に敵と間違えられ、背後から槍で刺されて死んでしまった。
結果、今井家は没落し、その軍勢は磯野軍に吸収され、今井家の家臣だった井戸村光慶も以後は磯野員昌の配下となっている。

安養寺氏種

安養寺 氏種

(あんようじ うじたね) 
戦場で信長と対話した重臣

安養寺家は近江の有力な国人(地方領主)であり、元は北近江の名家「京極家」の重臣だった。
彼の父「安養寺氏秀」は浅井長政が六角家からの独立を勝ち取った「野良田の戦い」で本陣の大将の一人となっている。
また、彼「安養寺氏種」は浅井長政と織田信長の妹「お市」の婚姻の際に仲介役を務めており、高位の家臣であったようだ。

浅井・朝倉連合軍と織田・徳川連合軍が戦った「姉川の合戦」で、浅井軍が壊滅した後、単身敵陣に突撃して敵兵の首を取るが、生け捕りにされてしまう。
そして織田信長の前に連れて来られるのだが、「早く首をはねろ」という彼に対し、信長は「お主とは仔細ある間柄。 汝は一度、浅井のために命を捨てたつもりであろう。 だから今は、この信長の命を聞け」と言われ、浅井長政の居城「小谷城」の様子を尋ねられたという。
その後、彼は釈放されて小谷城に帰還、再び浅井家の滅亡まで織田軍と戦った。

浅井家の滅亡後も生き延びており、浅井長政とお市の次女「初(はつ)」の夫で、関ヶ原の戦いの手柄で京極家を復興させた「京極高次」の家臣となっている。

阿閉貞征

阿閉 貞征

(あつじ さだゆき) 
浅井家滅亡の遠因

浅井家の家老であり、琵琶湖の北の要所「山本山城」の守備を任され、織田・徳川軍と浅井・朝倉軍が戦った「姉川の合戦」でも浅井軍・第三陣の大将を務めている。
「姉川の合戦」で浅井家が敗れた後も抵抗し、一度は城に攻め寄せてきた織田軍を撃退した。
しかしのちに織田家に内応し、山本山城ごと敵に寝返ったため、小谷城周辺は北の出入口を失って孤立。
浅井軍に大きな動揺を呼び、これが織田軍の攻勢のきっかけにもなって、浅井家が滅亡する要因のひとつとなった。

その後は羽柴秀吉の与力(配下)となったのだが、秀吉とは性格が合わなかったようだ。 所領を巡る争いもあったらしい。
そのため、織田家の重臣「明智光秀」が信長を討った「本能寺の変」が起こると、明智光秀に味方して秀吉の本拠地であった近江の「長浜城」を攻撃する。
さらに秀吉と明智光秀が対峙した「山崎の合戦(天王山の戦い)」にも参加して秀吉軍と戦うが、明智軍は敗北。 彼も捕まってはりつけになり、処刑された。
秀吉の家族がいる長浜を攻めたため、秀吉の怒りを買っても仕方ないが、結局は土地トラブルの延長とも言える。
戦国時代は往々にして、所領が近い武将は仲が悪い。

新庄直頼

新庄 直頼

(しんじょう なおより) 
家康に許された関ヶ原西軍の将

新庄家は近江の国人であり、その支配地域が北近江と南近江の間だったため、浅井家と六角家が戦っていた頃は最前線にあった。
浅井・朝倉軍と織田・徳川軍が戦った「姉川の合戦」では、浅井軍の第四陣の大将を務めている。
しかしその翌年、南近江の佐和山城を守っていた磯野員昌が降伏したことで、彼の城は孤立、圧力に耐えられなくなって織田家に降った。
浅井が滅亡した後は秀吉に仕えて馬廻衆(近衛兵)を務め、のちに主君に近侍する役職「御伽(おとぎ)衆」にもなっている。

関ヶ原の戦い」では西軍・石田三成側に付き、東軍に付いた筒井家の跡継ぎ「筒井定次」を伊賀の城から追い出して占拠、そのまま籠城した。
そのため東軍の勝利後に改易されてしまうが、身柄は徳川家の重臣となっていた同郷の「蒲生家」に預けられ、家康から「仕方なく西軍になったようだから、客人として扱うように」と通達されていたという。
そして赦免された後、改易前とほぼ同じ石高で常陸(茨城)の城主となった。

西軍に味方したのに許された武将はかなり珍しい。 元々、家康の屋敷の警護などをしており、懇意の間柄であったようだ。
秀吉も御伽衆にしていたことから、人柄に優れていたのだろう。

井口経親

井口 経親

(いぐち つねちか) 
父のおかげで重臣に

彼の父「井口経元」は、浅井長政の祖父「浅井亮政」が六角家と戦って敗れ、窮地に陥ったとき、身代わりとなって戦死した。
浅井亮政はその恩に報いるため、井口家の娘を息子「浅井久政」の妻(つまり浅井長政の母)にして親族とし、死んだ経元の息子「井口経親」を重用した。
井口経親本人の経歴は、ほとんど解っていない。
だが、このような経緯から、浅井家の重臣であったことは間違いない。

宮部継潤

宮部 継潤

(みやべ けいじゅん) 
山陰の押さえとなった秀吉の僧兵

近江の国人出身で、元は比叡山の僧だったのだが、もともと武闘派の人だったらしく、僧侶の修行より武術の修行を好み、兵法書ばかり読んでいたという。
その後、武人として活躍するために比叡山を出て浅井家に仕官、自ら兵を集めて合戦で活躍するなどして頭角を現し、浅井家の重臣に加わった。
織田家と浅井家が敵対するようになると、羽柴秀吉の勧誘を受けて織田家に寝返る。
彼の居城「宮部城」が重要な拠点だったこともあり、以後は逆に織田軍の先陣として浅井家と戦った。

以後も秀吉に従って各地を転戦、秀吉の中国地方攻めの際には日本海側の但馬・因幡地方(鳥取周辺)を攻略、そのまま鳥取城の城主となる。
「本能寺の変」や「賤ヶ岳の戦い」の際には特に動きはないが、毛利家の前面に位置しており、機内で動いていた秀吉の後方を守っていたという意味で重要だった。
以後、九州攻めや北条攻めなど、豊臣家の各地の戦いに参加、引退してからは秀吉の御伽衆(近侍する役職)となり、豊臣五大老に次ぐ地位を与えられている。
なお、武人ではあるが、最後まで「僧」としての職も捨てなかったようだ。

遠藤直経

遠藤 直経

(えんどう なおつね) 
織田信長暗殺計画

「浅井家にその人あり」と言われた浅井家きっての猛将にして、的確な戦略眼を持つ人物。通称は「喜右衛門」。
浅井長政の傅役(守役、後見人)とも言われており、長政の父「浅井久政」を赤尾清綱と共に強引に隠居させ、浅井長政を当主に擁立した。

浅井家が織田家と同盟していた頃、織田信長が浅井家 の領地である近江に宿泊していた事があったが、この時に遠藤直経は「信長はいつ約束を破るか解らない、この機会に暗殺いたしましょう」と浅井長政に進言している。
逆にその数年後、信長が朝倉家に侵攻し、浅井家が織田家と朝倉家のどちらに味方するかで意見が割れた時には、「信長はすでに近畿を制圧した大将であり、今となっては敵対する事はできません」と、織田家との縁を切る事に反対している。
つまり、彼は常に「正しい」判断をしていたと言える。

浅井家が朝倉家と共に織田・徳川連合軍と戦った「姉川の合戦」では、浅井軍が敗れて壊走した後、彼は同僚の首を持って「よき首見参」と言いながら、それを手土産にして織田家に降伏・・・ するフリをして、織田軍の本陣に入り込み、織田信長の命を狙った。
しかしその途中、竹中半兵衛の弟「竹中重矩」に見破られて襲いかかられ、激闘の末に討ち取られてしまう。
一発逆転を狙った決死の暗殺未遂・・・ その胸中は、いかなるものだったのだろうか?

磯野員昌

磯野 員昌

(いその かずまさ) 
織田陣11段崩しの猛将

浅井長政の祖父「浅井亮政」の頃から武勇が評判になっていた、浅井家随一の猛将。「浅井の四翼」の一人。
浅井長政が六角家と戦って独立した「野良田の合戦」で先陣を務め、その後も最前線にあった「佐和山城」の城主を務めた。

浅井・朝倉軍が織田・徳川軍と戦った「姉川の合戦」でも浅井軍の先陣の大将を務め、柴田勝家羽柴秀吉などの織田家歴代の重臣達が守る織田軍13段の陣のうち、11段目までを突き崩し、一時は織田本陣にも迫った。
救援に来た稲葉一鉄が率いる「美濃三人衆」に側面から攻められ、浅井軍は敗退するが、退却の際も立ち塞がる敵を突破する見事な撤退を見せたという。
しかし、織田家の謀略によって浅井長政から内通(裏切り)の疑いをかけられてしまい、援軍を要請しても無視され、人質も殺されたため、仕方なく織田家に投降した。

織田家では重臣として扱われ、秀吉や柴田勝家、明智光秀などに並ぶ待遇を受けており、主に本願寺(一向宗)との戦いで活躍するが、数年後、突然領地を没収され、出奔した。
信長の怒りをかったためらしいのだが・・・ 具体的に何があったのかは不明だ。
信長の甥の津田信澄(信長の弟「織田信行」の子)に家督を譲るのを拒んだためと言われているが、なぜか捜索された形跡はなく、一族はその後も織田家に仕えている。
高野山に出家したとも言われていたが、近年は「本能寺の変」の後、近江に戻って農民になったという説が有力なようだ。

赤尾清綱

赤尾 清綱

(あかお きよつな) 
お市と三人娘を保護した海赤雨三将

「浅井三将」および「海赤雨三将」と呼ばれた浅井家の重臣の一人。
浅井長政が父・浅井久政を隠居させ、自らが当主となった際、家臣の代表としてそれに協力している。
浅井家の本城「小谷城」に「赤尾曲輪」という名の砦を設け、そこで城を守っていた。
織田軍と戦った「姉川の合戦」では、本陣の守備を担当していたという。

姉川の合戦から3年後、小谷城は織田の大軍に包囲されて落城するが、浅井長政はその時、赤尾清綱の屋敷で妻「お市」と3人の娘を織田軍に引き渡した後、自害した。
主君の死を見取った後、彼は織田軍と戦って捕虜となり、信長の目前で自刃したという。

海北綱親

海北 綱親

(かいほう つなちか) 
息子が画家の海赤雨三将

「浅井三将」および「海赤雨三将」と呼ばれた浅井家の重臣の一人。
兵法に優れており、攻め寄せてきた秀吉の軍勢を返り討ちにしたと言うが・・・ 後述するエピソードからそう言われているだけで、具体的な記録はない。
軍奉行を務めていたが、浅井家が滅亡する際、彼も討ち死にした。

のちに、僧となっていた彼の子「海北友松」が海北家を再興しようとするが失敗、しかし画家として大成した。
海北友松は日本を代表する画家の一人であり、僧だった頃に幕府の御用絵師であった狩野派の画家から絵を学んでいて、海北派と呼ばれる画法の始祖となった。
「武人画家」とも呼ばれており、交流のあった明智光秀の側近「斎藤利三」が処刑され磔にされていたとき、槍を振り回して侵入し、遺体を奪い取ったとも言われている。
のちに秀吉に召しだされ、その際に秀吉が「海北綱親は我が軍法の師である」と語った話が有名だ。

雨森弥兵衛

雨森 弥兵衛

(あめのもり やひょうえ) 
奏者を務めた海赤雨三将

「浅井三将」および「海赤雨三将」と呼ばれた浅井家の重臣の一人。弥兵衛は「やへえ」とも読む。
「浅井家の旗頭」と呼ばれ、特に浅井長政の父「浅井久政」に重用されていた人物だったようだ。
文書を発行する「奏者」という役割にもあったと言う。

だが、彼を含め「浅井三将」はあまり記録が残されておらず、その活躍の詳細は解らない。
身分の高い重臣だったはずだが・・・ 歴史の敗者の悲しい所だろうか。
また「弥兵衛」は雨森家で代々使っていた通称のようで、一族のどの雨森さんかもよく解っていない。

浅井久政

浅井 久政

(あざい ひさまさ) 
織田より朝倉。判断を誤らせた父

浅井長政の父。浅井家の二代目当主。
初代当主「浅井亮政」は近江に勢力を持っていた「京極家」の家督争いに乗じて台頭、京極家支援のために攻勢をかけてきた「六角家」とも戦って、浅井家の基礎を作り上げた勇将だった。
だが、当時の六角家の勢力は強く、苦戦が続いていた。

浅井久政が当主になったのはそんな頃であり、そのため彼は朝倉家本願寺との友好を推進、六角家には従属し、浅井家を存続させる道を選ぶ。
しかしその弱腰外交には反発も多く、家臣の中には「まだ負けてないのに、なんで昨日まで戦ってた相手の下にならなくちゃいけないんだ!」と思う者も多かった。
それは浅井久政の子、浅井長政も同じであり・・・
そのため、浅井長政は父の制止を振り切って六角家との敵対を宣言して挙兵、攻め寄せてきた六角承禎の大軍を「野良田の合戦」で討ち破る。
そして家臣と共に浅井久政を城から追放すると、隠居するよう詰め寄った。
この時、浅井久政も兵を集めようとしたが、一人も集まらず、琵琶湖の竹生島に引き籠もったという。
こうして、久政から長政に当主の座が移ることになった。

しかし、隠居させられた後も浅井久政は浅井家の運営の中枢にいて、主にアドバイザーとして活動していたようだ。
そして浅井家が「朝倉家」と「織田家」のどちらに味方するかで意見が割れた時、浅井久政は「朝倉家の恩を忘れてはならない」と、朝倉派の家臣の代表として、浅井長政を強く説得した。
浅井長政が朝倉家を選んだのは、この父の説得が大きな要因になったと言われているが・・・
しかしこれにより、浅井家は日の出の勢いの織田家から侵攻を受けることになり、朝倉家はイマイチ頼りにならず、滅亡に向かっていく事になる。

浅井家の滅亡後・・・ 織田信長が浅井長政と朝倉義景のドクロに金箔を張り、それを飾って酒宴を開いたのは有名な話だが、実はこの宴にはもうひとつ、浅井久政の金のドクロもあった。
信長は浅井長政が織田家を裏切ったその理由を、知っていたのだろう。


近江のその他の人々

六角 承禎

(ろっかく じょうてい) 
名門にして浅井家のライバル
足利義氏

南近江と甲賀地方を治めた「佐々木六角家」の大名。本名は「六角義賢」。
「一子相伝(一人の子にのみ奥義を伝える)」という北斗神拳みたいな弓術「吉田流弓術」を継承し、「弓術天下無双」と言われた弓の名手でもある。
「信長の野望」シリーズでは定番の弱小大名の一人で、多くの歴史物語で「織田信長が京都に向かう途中で一蹴したやられキャラ」であることが多いが、実際には将軍家との関わりが深い名門であり、正式な近江の守護職(国を治める公式の役職)にもあった。

戦国時代には守護職と言えども戦乱に巻き込まれたのだが、彼の父「六角定頼」は反抗する勢力を次々と鎮圧、浅井家にも圧力をかけて従属させ、細川家の内紛にも介入、京都を追われた将軍・足利義晴(足利義輝の父)を支援して、京都を支配した三好家と戦って将軍に復帰させた勇将だった。
この頃の六角家は名家に相応しい勢力を持っており、美濃の土岐家、北近江の京極家、河内の畠山家など、周辺の将軍家ゆかりの勢力から頼られている。

定頼の子「六角義賢(承禎)」も足利将軍家を援護すべく三好家と戦っていたが、北近江でいきなり浅井長政が独立を宣言して挙兵。
鎮圧しようと出陣し、寝返った家臣の城を水攻めにするも、堤防が決壊して失敗、挙句に半分以下の兵力の浅井軍に「野良田の戦い」で返り討ちにあってしまう。
しかもタイミング悪く、京都では三好家と将軍陣営の戦いが激化。
六角承禎は斎藤家と手を結び、織田家や浅井家を牽制しつつ、自身は京都方面に出陣して三好家を追い出し、一時は上洛を果たす。
しかし家督を譲った息子「六角義治」が本国で「観音寺騒動」と呼ばれる家臣とのトラブルを起こしてしまい、離反する豪族・国人が相次いで勢力が衰退。
その動きを止めるべく転戦していたが、斎藤家を滅ぼして浅井家と同盟し、将軍候補「足利義昭」を奉じて京都を目指していた織田家の猛攻を受けて苦戦。

六角承禎は敵であった浅井家や三好家と結んで反攻を計画し、一旦は押し返すものの、味方はどんどん減っていき、遂にはゲリラ戦をするしかなくなるほどの小勢力となって、表舞台から消えることとなる・・・

ちなみに、六角承禎は斎藤家と同盟するとき「あんなどこの馬の骨とも解らない奴と手を組むことになろうとは!」と言っていたようで、「だってあいつ、親子二代で土岐家から国を奪ったんだぜー!」と愚痴っていたらしく、その記録を見た研究者が「親子二代!? な、なんだってー!」となって、昨今主流の「斎藤道三の下克上、親子二代説」が出るきっかけになった。

六角 義治

(ろっかく よしはる) 
家臣を斬ったら大騒動
足利義氏

戦国大名「六角家」の最後の当主。「六角承禎(義賢)」 の子。
六角家には「六角六宿老」と呼ばれる結束の固い家臣団があったのだが、あまりにも家臣達の結束が固すぎて、当主である六角承禎や六角義治の権力が弱く、意見が通らない事が多かった。
そこで六角義治は家臣の中でも特に力を持っていた重臣「後藤賢豊」を殺害してしまう。
しかしもちろん、家臣たちが大激怒! こうして六角家内で家臣と主君が対立する大トラブル「観音寺騒動」が起こってしまう。
六角家の運営はおかしくなり、呆れた地元の国人たちは次々と六角家から離反、勢力は急速に衰退していった。

その後、それを収束させるため「六角氏式目」と呼ばれる法律が制定され、六角家は統率されるのだが、これは主君の権限を抑えるものであり、六角義治としては屈辱だった。
しかもその数年後に織田信長の軍勢が六角家に侵攻を開始、力を取り戻していなかった六角家にこれを防ぐことはできず、そのまま滅亡への道を歩んでいくことになる。
後年、六角義治は各地を放浪したのち、秀吉に召しだされて御伽衆(近侍する役職)となり、さらに豊臣家の跡継ぎ「豊臣秀頼」の弓術師範となっている。

近年、観音寺騒動は六角義治が父の影響力を排除しようとして起こった、親子の権力闘争だったという見方も出ているが、あくまで新説・異説の類いである。

後藤 賢豊

(ごとう かたとよ) 
主君に斬られて大騒動
足利義氏

六角家の重臣「六角六宿老」の一人であり、さらに六角家の「両藤」と呼ばれたトップクラスの重臣の一人。
六角家の運営を担っていた実務者といえる存在で、合戦時の恩賞なども彼が定めたりしている。
(もう一人の両藤は「進藤賢盛」という人物で、こちらは主に外交を担当していた)

しかし、あまりにも権力が強すぎたため、自分の思い通りにならない事を嫌った主君・六角義治に殺害されてしまった。
それを知って怒った他の家臣たちは自ら屋敷を焼いて城から出て行き、六角家は大混乱!
騒ぎを知った浅井家も調略(寝返り工作)祭りを開始し、六角家に従っていた地元の豪族や甲賀の国人たちも呆れて離反、六角家の威光は瞬く間に衰えてしまった。
世に言う「観音寺騒動」である。

蒲生 賢秀

(がもう かたひで) 
名将「蒲生氏郷」の父
足利義氏

彼の父「蒲生定秀」は六角家の重臣「六角六宿老」の一人で、合戦では浅井亮政(浅井長政の祖父)を相手に戦い、感状(感謝状)を貰うほどの活躍を見せた。
主君の六角義治が重臣の後藤賢豊を斬った「観音寺騒動」の時も、主君側と家臣側の調停役として奔走し、まとめ役になっている。
蒲生賢秀はその長男で、父と共に転戦し、彼自身も宿老の地位に加わって六角家を支えていたが、六角家が滅亡すると織田家に降伏し、その家臣となった。
妹が伊勢の豪族「神戸家」に嫁いでいて、織田信長の三男「織田信孝」も神戸家の養子になったため、神戸家を介して信長とは縁があったようだ。

その後は柴田勝家の配下として各地を転戦するが、安土城が出来てからはその守りを任された。
「本能寺の変」で明智光秀が織田信長を討った時は、光秀から破格の待遇の誘いを受けていたがこれを断り、信長の遺族を護衛して安土城から脱出させている。
その後は羽柴秀吉に従った。

彼は六角家から織田家に降伏した際、人質として息子を信長に差し出していた。
その子を信長はたいそう気に入って、元服させて初陣を飾らせると、自分の娘を嫁にして、再び彼の元に送り返した。
この子がのちの豊臣家の名将「蒲生氏郷」となる。